『暑い中で』

 結婚式の三次会には、『麺館』という小さなラーメン屋を選んだ。
 主役の二人はもう新居に帰った頃だろう。高校の頃からの長い交際をついに実らせたジューンブライドを祝福するため、同じクラスだった連中が披露宴には集まった。
 旧い友人たちに会えたことが嬉しくて、新郎新婦がいなくなっても私たちは場所を移動して飲み続け、しゃべり続けた。
「ビール三本お願い」
「まだ飲むのかお前は」
「三田村、このお店は何がおすすめなんだ」
「どれもおいしいぞ」
「あたし、この『メンハウスのスペシャルラーメン』にする」
「まだ食うのかお前は」
 私を含めた五人が一カ所に集まるのは高校卒業以来で、およそ十年ぶりの再会である。
「高岡。女性の目から見て、あの花婿をどう思う?」
「まあまあじゃない。百点満点で七十点かな」
「えらく辛口だな。マイナス三十の理由はなんだ」
 高岡早苗は、カウンターに肘をつくと、右手の指を立てて数えはじめた。
「まずひとつ、背が低い。もうひとつ、仕事が忙しい割に給料は安い。さらにひとつ、家事を手伝ってくれるとは思えない。おわかり?」
「かーっ、厳しいね」伊藤敦夫はわざとらしい泣き顔で声を上げた。岩見小百合が、彼のおでこを右手で叩く。
「洋子は会社を辞めたのよ。彼に色々言われて。身長はともかく、いくら稼いでくれるかは深刻な問題じゃない」
「その通りよ岩見。日本の男は、そもそも結婚するのに向いてない」外資系の会社に勤めている高岡がおかしなことを言いだした。同僚の男たちは、一年の半分をアメリカで送っているらしい。
 レディーファーストについて延々と語る彼女のことを無視して、岩見が私に声をかけた。
「三田村くん。さっきからぼんやりして、いったい何を考えているの?」
「え? ああ、むかし読んだエッセイに『男の人生は仕事で変わる、女の人生は男で変わる』なんて書いてあったのを思い出してね。確か、ハヤシマリコの言葉じゃなかったかな」
「なるほど、うまいこと言うね」
 伊藤が半畳を入れた。
「高岡は、人生が変わるほどの男に出会えたかい」
「どうでもいい男ばかり」
「岩見は?」
「まるでダメ」
「どいつもこいつもしけてるなぁ」
 岩見がまた、伊藤のおでこを叩いた。
「そう言えば、あいつはどうした? ほら、関根。俺、彼女にもう一度会ってみたいんだよなあ」
「もう結婚しているでしょ、あの子はもてたから。確か、綿貫くんとつきあっていたんだよね」
「あの二人は熱かったな。だけど関根は男の趣味が悪いよ。あんなデブのどこがよかったんだか」
「結婚なんて無理よ。だって、男性恐怖症をまだ克服できていないんだから」
 せまい店内が、しんと静かになった。
「高岡、その話は初耳だな。詳しく聞かせてくれないか。関根が、男性恐怖症だって?」

 その一ヶ月後。私は、独り暮らしのアパートで朝食をとっていた。話しかける相手もいないので、テレビをつけたままにして眺めている。
『昨日の海の日ですが、各地で水の事故が相次ぎました……』
 今年の夏こそは海へ行きたいな、などと考えていると、テレビの画面が砂浜から学校らしき建物に変わった。
 おや? この景色は、どこかで見たことがある。
『……倒れていたのは、この高校で教科主任を務める鈴木孝さんで、頭を強く殴られ……』
 私は携帯電話に飛びついた。鈴木孝という名前、そしてあの建物。ひょっとして……。
 ベルを鳴らし続けても、岩見はなかなか出なかった。
「もしもし?」
「三田村だ。ニュース見たか?」
「うん。学校がテレビに映っていたね」
「どういうことだ」
「あたしに聞かないでよ」
 だめだ、話にならない。通話を切ると、私はすぐに服を着替えた。『何があったのか、今すぐに知りたい』と、心の奥から訴えてくるものがある。
 十年ぶりの母校だ。しかし、殺人事件がきっかけで帰ることになるとは。

 足を運んではみたものの、野次馬だらけで学校に近づくこともできなかった。考えてみれば当たり前だ。
 三日後にもう一度行ってみたが、制服警官たちに追い返された。校舎の屋上でたなびく半旗が、彼らの肩越しに見える。
 このままアパートに帰るのもくやしい。真実を知りたい、今すぐにでも。
 通学路を歩きながら考えていると、坊主頭で制服姿の後輩たちとすれちがった。今は夏休みで授業はないはずだから、鈴木の送別会にでも参加するのだろうか。まさか、クラブ活動ということはあるまい。私は彼らを呼び止めて、事件についていくつか質問してみた。
 想像していた通り、鈴木の評判は最悪だった。
 いわく、教科書の出版社から賄賂を受け取っているらしい、生徒たちのあいだでイジメがあっても見て見ぬふりらしい、女子生徒へのセクハラがひどいらしい……。
 高岡の「関根は男性恐怖症から立ち直れないでいる」という言葉が思い出された。まさか、鈴木が原因で?
 関根由美子は、色白で華奢な女の子だった。喫茶店で綿貫と語り合っているところを見た覚えがある。そう言えば、あそこはまだあるのだろうか。学校を見下ろす山の頂にある店。その小さな看板。
 私は、坂道を歩きだした。七月の、暑い中を。  喫茶店『ビー玉』は、私が高校生だった頃のままだった。カウンターに椅子が四つ並んでいるだけのこぢんまりとした内装は、あのラーメン屋と同じである。冷房がきき過ぎていて、あっというまに汗がひく。くしゃみも出そうになった。
 デニム地のエプロンをはおったマスターが、私を見て微笑んだ。
「いらっしゃいませ、お久しぶりです」
「え? 私のことを憶えているんですか」
「もちろん」
 記憶の中で眠っていた思い出が甦った。それはまるで、凪いでいた海に突然大波が現れたようだった。
 あの頃と同じ、コーヒーと煙草の香り。窓から見える街の景色。
 マスターは、高校生だった頃の私にも敬語で話しかけていた。大人として接してくれているようで、それがとても嬉しかった。
 今の私はどうだ? 大人どころか、もうすぐ三十歳になろうとしている。会社での出世レースからは、すでに脱落した。年下の係長から叱責を受ける日常は、私の心を蝕んでいる。
 ふと我に返ると、マスターの目にいたわりの色が浮かんでいた。
「お疲れのようですね、外はお暑うございますか?」
「え、ああ。暑いのもあるけど、学校でのことを調べていて、いやな話ばかり聞かされたんです」
「あれは痛ましい事件ですね」
「マスターは、何か聞いていませんか」
「まずはコーヒーをどうぞ」
 この店にはBGMがないので、しばらくは静かな時間が流れた。
 私が飲み終わるのを見計らって、マスターが口を開いた。
「犯人は、かなりの力持ちのようです」
「もう、そこまで分かっているんですか」
「はい。この店には、あの学校の生徒さんが大勢いらっしゃいます。だから、色々な噂が耳に入るんです。……ただ、聞いて気持ちのいい話ではないのですが」
 私は、深く頷いた。どんな内容でも、私には聞く必要がある。
「ニュースでは『頭を強く殴られた』と伝えているそうですね。実を言うと、凶器は鉄パイプなんです。それも、中にコンクリートを流し込んで固めてあったらしくて」
 相当の重さがありそうだ。そんなもので頭を殴ったら……。
「顔の判別ができなかったそうですよ」
 鳥肌が立った。
「続きをお聞きになりますか?
犯人は、十キロ近くある鉄パイプを大上段に構えて、振り下ろしたようです。校舎を出たところで襲われたらしく、地面も壁も血まみれだったとか」
 女性の力では、鉄パイプで頭を割ることなどとても無理だろう。では、男なら? 私は、綿貫の痩せた体を思い出していた。
 携帯電話が鳴った。出てみると、伊藤からだった。
「今どこなんだ三田村。会社に連絡したら、今日も無断欠勤していると言われたぞ」
「高校で起きた事件を調べているんだ」
 私がマスターから聞いた話を伝えると、意外なことに伊藤は笑い出した。
「何が可笑しい?」
「誰でも考えることは一緒なんだな。俺も昨日の夜、その喫茶店に行ったんだ」
 マスターを見ると、すました顔でグラスを磨いている。
「それで、お前の知恵を借りようと思ってな……、三田村、聞いているのか?」
「え、ああ。事件について、ちょっと思いついたんだ」
「何を」
「腕力がなくても鉄パイプで頭を割ることができる、そんな方法さ」
「どうやって」
「鉄パイプを、上から落としたんだ」
「上ってどこだよ」
「校舎の屋上とか」
「屋上へのドアは、いつも鍵がかかっているだろ」
「じゃあ、教室の窓からだ」
「……事件が起こったのは夜の九時過ぎらしい。鈴木先生が校舎の中を見て回ったあと、帰ろうとしたところで殴られたそうだ」
「それがどうした」
「祝日の夜九時に教室の窓を開けたら、防犯ベルが鳴るだろうよ」
 それからもしばらく議論を続けたが、結論は出なかった。伊藤は『すぐ会社に連絡を入れろ』と言って通話を切った。
 携帯電話をポケットにしまい、私は深いため息をついた。伊藤のせいで、また仕事のことを思い出してしまった。今頃、無断欠勤した私のために会社は大騒ぎだろう。
 もう、私の頭は疲れはてていた。もっと明るい話題を聞きたくて、場違いな質問をしてみた。
「マスター。このお店を始めて、何年になりますか?」
「もう、十五年くらいですか」
「ここを始めたきっかけは?」
「……子供の頃、私はみんなにいじめられていたんです」
「え?」
「学校では、ずっと孤独でした」
「はあ」
「周囲の人間に合わせることができないまま大人になってしまったものだから、会社勤めがどうしてもできませんでした。それで、しかたなく」
 そんな理由だったのか。
 ということは、協調性のない彼にとって、一人ですべてまかなえるこの小さな喫茶店が安住の地なのだろう。自分の居場所を得られた彼のことが、少しうらやましく思えた。
 また携帯電話が鳴った。
「三田村くん、会社まで休んで、事件について調べているんだって? どうしてそこまでこだわるの?」
「高岡か。ちょうどよかった。関根が、その……、男性恐怖症になったのは、本当に鈴木のせいなのか?」
「らしいよ」
「綿貫は、そのことを知っているのか?」
「多分知らない」
「他の誰かに話したことは?」
「あんなこと、軽々しく口にできるはずないでしょ。あのラーメン屋で話したのが、最初で最後よ」
 私は、強く唇をかんだ。

 祝日の校舎は静かだった。
 濃紺の作業服を着た綿貫は、誰にもとがめられることなく校内に入り込むことができた。荷物の詰まったリュックが、肩できしむ。左手に握りしめたビニールシートは、汗で濡れていた。
 彼は、廊下の隅で時間を確認した。
(もうすぐだ、もうすぐ)
 やがて、職員室のドアが開いた。あの猫背と細い肩は、後藤先生だ。手に持っているのは、間違いなく……。
 綿貫は、帽子を深くかぶり直すと、音を立てずに歩き始めた。
(後藤先生のすぐ後ろを付いていく必要はない。どこへ行くのかは、分かっているのだから)
 階段を登る途中で足を止めて、上を見る。後藤先生が、屋上への重いドアを、体全体で押すように開けるところだった。二十秒待ってから、綿貫は走った。思っていたとおり、後藤先生はドアを開いたままにしている。
 国旗を掲げる彼の背中を目で確認しながら、綿貫は日差しが降り注ぐ屋上に出た。そして、すばやくドアの陰に座り、ビニールシートを頭からかぶる。
 足音が聞こえた。後藤先生がこちらに近づいてくる。綿貫は目を閉じ、呼吸を止めた。
 やがて、ドアの閉まる音。そして、鍵がかかる音。
(気付かれなかった)
 冷汗を拭い、心の中で呟く。
(後藤先生、お疲れさまです。暑い日も寒い日も、他人に任せることなく、この仕事をずっと続けていらっしゃったんですね。重いドアを開けるだけでも、大変そうなのに)
 綿貫は、できる限りじっとしていた。周囲の山から見下ろせる場所に、この校舎は建っている。誰かに目撃される危険はおかせなかった。
 七月の、晴天である。ビニールシートの中はどんどん暑くなった。綿貫は、リュックから広口のペットボトルを取り出すと、烏龍茶を惜しむように少しずつ飲んだ。そして、ペットボトルが空になると、その中に排尿した。
 時間は、ゆっくりと過ぎていく。綿貫は、熱と退屈に耐え続けた。ときどき目を閉じて、関根の姿を思い描く。高校を卒業すると同時に、自分の前から消えた恋人。まさか、それは男性恐怖症のためで、原因があの男にあったとは……。
 少しずつ、本当に少しずつ。周囲が暗くなっていった。日没である。綿貫はさらに待った。待っても、屋上のドアが開くことはなかった。
(後藤先生が帰ってしまうと、誰もここにはこないのか。鈴木、あんたは教科主任だろ)
 祝日の国旗は本来、日没と同時に降ろすのが原則である。つまり、それを放っておくいい加減な教師しか、今、ここにはいないのだ。
 そう。生徒たちのあいだで、不穏な噂が流れている男。
(どうせ、校内の見回りも手を抜くに違いない。そして、自分が帰ってもいい時間になったら、さっさと帰るつもりなんだろう)
 ここの卒業生である綿貫は、狙う相手の行動をすべて把握していた。腕時計を見る。もうすぐ九時。彼は、屋上の柵を乗り越えた。リュックの中から、鉄パイプとオペラグラスを出す。
(鉄パイプは七本用意したけれど、すべて使う必要はないだろう)
 鉄パイプの中には、コンクリートを流し込んである。握ってみると、かなりの重さだ。かすっただけでも、ただではすむまい。
 校舎から、誰かが出てきた。
 あのハゲ頭は、間違いなく標的だ。
 鉄パイプを握ったまま、腕を伸ばす。
(さようなら、先生……)
 手を開く。鉄パイプが落ちていく。
 鈍い音がして、それっきり静かになった。
 念のため、オペラグラスで下を見る。
 大きな骸は、まったく動かない。
(あとは、屋上からロープで下りればいい)
 綿貫の細く軽い体は、すぐに夜の闇へと消えていった。

 午後四時半のラーメン屋に、客の姿はなかった。 私は、ためらうことなく暖簾をはずすと、それを握りしめたまま店内に入った。
「いらっしゃいませ」丁寧に頭を下げる。
「ちょっと教えてくれないかな」
「はい、なんでしょう」柔らかい口調。
 暖簾には、

『東京で二番目に美味しい店 麺館』

と書いてある。
「これなんだけど。『二番目に美味しい』って、どういう意味なんだい」
「そのままですよ。ここより美味しいラーメンを出すお店が、東京に一軒だけあるんです」
「それは、どこ?」
「私にラーメンを教えてくれた、師匠のお店です」
「……なるほど」
 こんな時に、つい笑ってしまった。
 私は、暖簾をそのまま店内の壁に立てかけておいた。こうしておけば、誰も入ってこないだろう。
「それじゃあ、綿貫が作る、東京で二番目に美味しいラーメンをお願いしようかな」

 私は、厨房で手際よく働く綿貫の姿に見とれていた。
 しかし、できあがった『麺館のスペシャルラーメン』を食べても、こわばった私の舌は何も伝えてくれなかった。彼のラーメンを味わう機会は、もうないのかもしれないのに。
「三田村さん」
「同級生だろ。呼び捨てにしてくれ」
「……三田村、知っているのか」
「俺だけがね。岩見や高岡、伊藤はまったく知らない。三人とも、目の前にいるお前に気づかなかった」
「無理もないよ。自分でも、この仕事に就いてずいぶん変わったと思うし」
「痩せたよな」
「毎日、十時間以上、煮えたぎった鍋の前に立っているからね」
「そうか。だから暑いのは平気なのか。ところで綿貫、罪悪感は?」
「ない」
「正直に答えてくれ」
「……自分では、うまい方法を考えたと思っていたんだ。返り血を浴びることがないし」
 その言葉を聞いてはっとした。彼は、ひょっとしたら『鈴木の血がしみこんだ手でラーメンを作るわけにはいかない』と考えていたのかもしれない。
「それに、疑われるのは腕力がある男で、華奢な女性はそっとしておいてもらえる。お前、関根とつきあっていたんだろ?」彼女の秘密を高岡が口にした時、綿貫の顔は蒼白だった。
「まあね。あともうひとつ。悲鳴を聞かずにすんだ。俺は、手を開いただけ。だから、すぐに忘れることができると思っていた」
「実際には、そうじゃなかった」
「うん。いつかは警察も気づくだろうし、その前に自首するよ」
「綿貫、本当にすまなかった」
 俺が、みんなをこの店に連れてこなければ、この事件は起こらなかった。
「三田村や高岡のせいじゃないよ。いつかは、別の誰かから関根のことを聞いていたと思う」
「何か、俺にできることはないのか」
 沈黙。
「頼むよ、綿貫」
 相手は、私を見ようともせずに首を振った。
「罪をつぐなって、刑務所から出たあと、お前はどうするつもりなんだ」
「考えてもいない」
「綿貫、ラーメンの作り方を教えてくれないか。俺がこの店を守る。お前は、いつかここに帰ってきてくれ」
「お前、会社はどうするつもりなんだ」
「辞めるよ。どうせ出世の見込みはないんだ。俺は、『東京で三番目に美味しい店』を目指すよ」わざと明るい口調で言った。
 私にラーメンを教えてから、自首してもらう。……それは、犯人をかくまうことにもなりかねない。でも、それでよかった。私は少しでも、彼と罪を分かち合いたかった。
 綿貫が、私の目をまっすぐに見た。
「それなら、まず知っておいてもらいたいことがある」
「秘伝のスープを教えてくれるのか? メモの用意をするから待ってくれ」
「そうじゃない。この店の名前だ」
 私は、暖簾を見た。

   麺館

 綿貫が初めて笑った。「高岡も『メンハウス』と言ってたけれど、それは違う」
「まさか……」
「そうだよ。俺の名前が『わたぬき』だからね。綿貫の字を音読みにすると『めんかん』になるだろ?」

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