『夢題 -The dropping dreams -』
1
夢の中で、アリスは列車に乗っていた。
たたん、たたん、たたん、たたん――。
くぐもった轟音が、単調に響いている。
たたん、たたん、たたん、たたん――。
車内の座席は人で一杯だったけれど、立っている人は一人もいない。乗客たちはみな一様に腕を組んでじっと俯いていた。誰も身じろぎもせず、どうやら眠っているらしい。
アリスは向かいの窓を見た。列車は今は長いトンネルの中に居て、だから窓の外は真っ暗で何も見えはしない。次の駅まで後どれくらいかしらと、アリスは考える。まだ長くかかるのかも。
たたん、たたん、たたん――。
「アリス?」
急に隣の席から声がして、アリスは驚いてそちらを見上げた。
藍色のコートを着た男の人が、柔らかな表情でアリスを見下ろしている。その人は初めアリスよりもずっと年上に見えたけれど、また同じくらいの年にも思えた。不思議と心に流れ込むような、きれいな澄んだ目をしている。
「やっぱり、アリスだ」
その人は微笑んだ。
アリスはその人の名前を知っていた。なのに、知っているはずなのに、うまく言葉にすることが出来ない。
だから、
「お久しぶり」
名前を呼ぶ代わりに、そう云って笑った。
たたん、たたん、たたん――。
列車はいつしかトンネルを抜け、窓の外には白く霧のかかった街が現れていた。
「僕は終着駅まで行くつもりなんだけれど」
その人は言う。
「一緒に行かない?」
「ううん」
アリス、首を横に振る。
「わたしは次で降りなくちゃ」
「そう」
その人は少し寂しそうにした。
「――髪。伸びたね」
その人はそう云って、細い白い手を伸ばし、アリスの黒く柔らかな髪を梳いた。ひどく懐かしいような、物悲しいような気分になって、アリスは少し俯いた。
たたん、たたん、たたん、たたん――。
列車は徐々にスピードを落とし、やがて駅のホームに滑り込む。
アリスは立ち上がった。髪がさらりと、彼の手を離れた。
それとほとんど同時に、その場にいた全ての乗客も立ち上がり、車両にひとつしかないドアに一斉に向かった。
彼だけが座ったままでいた。
小さなアリスはたちまち人ごみに飲まれてしまった。振り返ってさよならを言う間もなく、押し流されるようにしてホームに降りる。
溜め息のような音を立ててドアが閉まる時、誰もいない車内に、たったひとり残った彼の姿がちらりと見えた。
「アリス――!」
「アリス!」
階下から響く母の甲高い声で、目が覚めた。
「アリス! 早く降りていらっしゃい、学校に遅れるわよ!」
少し遠いようなそれを聞きながら、アリスはしばらく、布団の中でぼうっとしていた。
変な夢だった。いやにはっきりした、変な夢。まだあの音が、列車の音が、耳の底に残っている。
たたん、たたん――。
「アリス? アリス! 早く起きなさい!」
――ああ、うるさい。
アリスは布団を跳ねのけ、勢いよく起き上がると、リュックを引っ掴んで部屋を出た。
ぱたぱたと階段を駆け下りる。
「おはよう、アリス」
ピンクのエプロンをした母親が、にっこり笑ってアリスを迎えた。
キッチンからは香ばしくて、かすかに甘いトーストの匂いがする。早くトーストが食べたいなと、アリスは思う。ひどくお腹がすいていた。
2
窓から差し込む朝の光に、ほどよく暖められた机は、突っ伏すと鉛筆の匂いがした。
夢を見た日の朝は、まるで一睡もしてないように眠くてだるくて仕方がない。続々と登校してくるクラスメイトの声を遠くに聞きながら、アリスは少し眠ろうと思った。
体がぼうっと温もって、意識がゆるやかな眠りに落ちかける。その時に、
「お、は、よーっ!」
ユリカの元気な声が、突然頭の上から降って来た。
「ぅおはよー」
アリスはもそもそと顔を上げ、血圧の低い挨拶を返した。
黒髪をポニーテールにしたユリカはクラスで一番背が高く、健康そうに日焼けした肌に、きらきら光る大きな瞳をしていた。色白で病気がちで、背の順で並ぶといつも一番前のアリスとは正反対だった。学級委員長をしているけれど少しも気取ったりしない、彼女のそういう所がアリスは好きだった。
ユリカは窓枠にひょいと腰掛けると、アリスの方を覗き込み、不思議そうに言った。
「どうしたの、元気ないねえ」
「うん」
アリスは頷く。
「っていうか、ユリちゃんがとっても元気なのね」
「そう? あたしいつもこんな感じよ」
「じゃあいつも元気なのね」
アリスは半分眠った声で呟いた。
「いいことだわ」
「ふうん?」
長い足をぱたぱたと揺らし、ユリカは軽く首を傾げる。
アリス、我慢しきれずに盛大なあくび。
「――けさは何か変な夢見ちゃって、あんまり寝れなくって」
「夢!」
ユリカは突然、ぱちんと両手を叩いた。
「見たんだあ!」
「うん見たよ」
とアリス。
「話して話して!」
ユリカは瞳をいっそう輝かせて、すとんと窓枠から降りると、アリスの机の前にしゃがみ込む。
別に夢の話を聞いて占いをしようとか、そういう訳ではなかった。本を読んだり音楽を聴くのと同じように、ただユリカは人の見た夢の話を聞くのが好きなのだった。彼女に云わせれば、アリスの夢はいっとう不思議で面白いのだそうだ。
「んとね――」
目だけで中空を睨んで、アリスは記憶を辿りながら、今朝の夢をぽつぽつと語った。
列車。
トンネル。
男の人。
もはやそんな夢の欠片しか思い出せなかったけれど、それでもユリカは興味深げに身を乗り出した。
「ねぇアリス、その人、知ってる人?」
「ううん」
アリス、ふわふわと首を振る。
「全然知らない人。でも――夢の中だと、知ってたの。変でしょ」
「へーえ」
ユリカはいたずらっぽく笑った。
「なーんかさ、ホントにその人と会っちゃったりしたら素敵じゃない?」
「ええ」
アリスは苦笑する。
「ちょっとかんべん」
口ではそう云いながら、それでも、心の中ではその人のことをいろいろと思い出していた。綺麗な目をして、とても背が高かった、たぶん、そう、ユリカよりもずっと。それから――。
何だか不思議な感じだった。アリスは思い出す。不思議な感じ。よく判らないけれど、とっても幸せで、だけど悲しいような。何だかまるで――。
「一時間目何だっけ?」
すでに夢から離れていた友達の言葉で、はたと我に帰った。
「ふぇっ? 何?」
「一時間目」
「えとね……」
アリス、しばし考える。
「わかんない」
笑って、ちょっと舌を出した。
「えーっ」
「だってなくしたんだもん、時間割」
「じゃ教科書どうしてんのよ」
「置きべん」
「うわぁ。――って、あたしもだけど」
二人の少女は顔を見合わせ、くすくすと笑い合う。
「いいよ、どうせ」
ひとしきり笑った後で、ユリカが軽く溜め息をついた。
「先生の話なんか大して聞こえないしね。みんなうるさいんだもん」
学級委員長らしい嘆きだった。アリスは別にどうでも良いと思っていた。
「あぁあ」
腰に手を当て、天井を仰ぐユリカ。
「早く卒業したーい」
アリスは窓を見る。六年生の教室は四階にあるので、ほんの少しだけ空が近いような気がする。
さっきまで青かった空はいつのまにか、灰色の重たげな雲に覆われ始めていた。空気が、しんと冷たい。冬が近づいている。
クラスメイトのざわめきの向こうで、始業のチャイムが妙に控えめに鳴っていた。
3
夢の中で、アリスは再びその人に出会った。
どこかとても標高の高い場所らしく、紺色の空を絹のようになめらかな雲が、かなりのスピードで流れていた。テープを早回しするように、辺りは暗くなったり明るくなったりを繰り返している。
大地は一面、見渡す限り、真紅の百合に覆い尽くされていた。きつい甘やかな香りを振りまくそれを、彼は怒ったように蹴り散らしているのだった。
ぱき、
ぱきん。
茎の折れる、乾いた音がする。
地に落ちた花を、彼は靴の底で執拗に踏みつけ、潰す。
何度も何度も何度も。蹴りつけては踏み潰し、蹴りつけては踏み潰し、この場の花が全部無くなるまで繰り返すつもりらしい。その様子には妙に鬼気迫るものがあって、アリスはしばらく声もかけられないまま、じっとその場に立ち竦んでいた。
やがて。
「――ああ」
彼はようやくアリスに気付き、花を狩るのを止めた。
「君か」
「……どうしたの?」
アリスは恐る恐る尋ねた。
その人は足許に視線を落とし、忌々しげに呟いた。
「血が滴るような赤だ」
「うん」
アリスは頷く。
「わたしもこの花、嫌い」
彼はアリスを見て、微笑む。
「手伝ってくれない?」
ほんの少しだけ迷ったけれど、アリスは結局、黙って頷いた。
ぱき。
ぱき、ぱきん。
茎が折れる度に、濃い草の匂いがする。
花は踏みつけるとぐしゃりと嫌な音を立て、靴底に赤がべっとりとついた。
二人は無言で花を狩り続けた。服はいつしか、本物の返り血を浴びたように赤く染まっていった。
「……きたない」
アリスはたまらず不平を零す。
「後で洗えばいいさ」
そう言う彼の白い頬には、やはり赤い飛沫が散っているのだ。
「顔も洗わなくちゃね」
おどける、アリス。
「そうだね」
二人は花を狩りながら、他愛のない話をした。
「嫌な事があったら眠るに限るよ」
彼はそう云った。
「そうなの?」
「そうだよ。眠れば、忘れる。落ち着かない気持ちも、胸の重苦しいのも、取り返しのつかない失敗も、全部。眠って、夢の中へ逃げてしまえばいいんだ。夢の中でなら、例えば子供にだって還れる」
「……うん」
アリスはうつむく。何故かは判らないけれど、かすかに胸の奥が痛んだ。
ぱきん。
ぱき、ぱきん。
最後の一本を、潰したのは彼だった。
「終わった!」
アリスは声を上げ、軽く飛び跳ねた。
「ああ」
彼はぐるりと辺りを見回した。大地はぞっとするような赤に染まりきっていた。まるで本当の殺戮の後のようで、ただ死体が転がっていないだけ、そんなふうだった。
アリスは急に、ひどい不安に襲われる。何かしてはいけないことを、してしまったんじゃないか。
「どうしたの」
彼が尋ねてくる。
アリスはそうっとその人を見上げた。
彼はいつのまにか、両手に一杯の、輝くように白い百合の花束を抱えていた。
けれどそれは、すぐに赤く染まってしまう。
4
「変なのね」
窓枠に腰掛けて、ユリカが云った。
放課後のがらんとした教室。電気を点けていないので、夕焼けの光で、机も黒板も静かな橙色に染まっている。
「最近はね。変な夢多いの。ええと、なんていうか≪ミャクラクがない≫の」
アリスは机から教科書を引っ張り出して、リュックの中に押し込みながら言う。
それを見て、ユリカが意外そうな顔をした。
「本持って帰るんだ」
「うん、もうすぐ冬休みだし。いっぺんに持って帰るの重いから、社会とかもう授業ないって先生言ってたでしょ、だから資料集とか先に持って帰るの」
「えらいね」
「夏休みに失敗したから」
へへへ、とアリスが笑うと、ユリカも一緒に笑った。
しかしすぐに、神妙な顔つきに戻る。
「――また出て来たんだよね、その人」
「うん」
「不思議だねぇ」
辺りがしんとしているせいか、ユリカの声はいつもよりか細い。放課後の学校がこんな風に静かなのだと、アリスは初めて知った。いつも、終礼が終わるとさっさと帰っていたから。今日は算数の宿題が終わらなかったせいで、居残りを食らっていたのだった。
「ホントに、同じ人だった?」
ユリカが尋ねてくる。うん、とアリスは頷く。
「服まで一緒だったの」
「へーえ」
ユリカは膝の上で頬杖をついた。
「誰なんだろう」
アリスもリュックの上にあごを乗せて、ぼんやりと呟く。
「ねえ、もし次に出てきたらきいてみてよ、誰? って」
ユリカの言葉に、アリスは思わず吹き出してしまう。
「出てくるのかなあ」
開けっ放しの窓から、夕暮れの冷えた風が音を立てて吹き込んでくる。ユリカが寒っ! と窓から離れ、アリスは時計を見上げて四時! と叫んだ。
「ねえ、もう帰ろ」
「そうしよ」
リュックを背負って、立ち上がる。
「ごめんね、長く待たせて」
「いーのいーの」
ユリカが笑って、窓を閉めた時。
ばたん! と。静寂を突き破る乱暴な音と共に、ドアが開いた。女の子たちが五、六人、がやがやと教室に踏み込んでくる。
「だからさあもうマジで。マジやめてほしーの」
「あいつメール返してこねえし、ほんとむかつく」
「あーもーありえなーい」
女の子たちは甲高い会話を交わしながら、教壇を囲む。
「何それきもーい」
「あはははは」
「うわ、うっざーい」
アリスは凍りついた。嫌な予感がした。ユリカが不安な視線を向けてくる。
「アリス……」
オレンジ色の髪を長く伸ばした少女が、ちらりと面白そうな目でこちらを振り向き、それから仲間に囁いた。
「ねえ、なんか臭わない?」
抑えた、しかしアリスたちにもはっきりと聞き取れるほどの声で。
くすくすと笑い声が起きる。
「うわ、ひどい」
「言っちゃだめっしょ、それ」
「でもさあ……」
ユリカが目を見開き、軽く殺気立ったようだった。
「たしかにねえ」
「だからさあ、……」
ちらちら、含みのある視線がいくつもこちらに向けられる。
アリスは自分が石になってしまったような気がした。手足がひどく強張ってしまって、とても上手く動きそうにない。
かたん、妙に鋭く大きな音がして、何かと思ったらユリカの手提げが机に当たったのだった。
「行こう」
ユリカはアリスの耳許で、低い声でそう言うと、腕を掴んでドアへ向かった。
教壇の前を通り過ぎる時に、忍び笑いはいっそう高くなる。
「近寄らないでよぉ」
何人かの女の子が、のけぞるようにしてそう云った。
廊下に一歩出た瞬間、二人はぱっと駆け出した。コンクリートの廊下はもう青暗く、そしてひどく寒かった。二人の足音はかたかたかたと、大きく幾重にもこだまする。
何も云わずに、ただ、走った。
掃除の行き届いていない、埃だらけの東階段を一段飛ばしに駆け下りる。鉄の手摺が、触れるとひりひりするほど冷たい。
砂の上がった下足室の前で、ようやく二人は立ち止まった。
「ふわあ……」
アリスは壁際にへたり込んだ。もとより、あまり持久力がない。すっかり息が上がってしまって、しばらく立てる気がしなかった。それだけでなく、何か悪いものを飲んだように胸が苦しかった。
上を仰ぐと、黄ばんで薄汚れた天井が見える。ブレザー越しに、ひんやりとした壁の温度が伝わってきた。
「――何であんな酷いことするんだろ――」
ユリカの声がする。
「さあ」
アリスは溜め息のように呟いた。いじめの理由なんて、アリスが見聞きする所によれば、たいてい些細なことだった。スカートの丈が長いとか、いつも一人でちょっと暗そうとか、フケが多いとか、背が低いとか、髪を止めるゴムが地味とか、にきびやそばかすが多いとか、何となく態度が生意気とか、そういうこと。
「こないだ机に花置いたのも、あの子らなんだって」
「そう」
アリスは思い出す。自分の机の上。朝登校してみたら、錆びの浮いた汚いコーヒーの缶に、真っ赤な百合が一輪、刺さっていた。
どうやら忌花のつもりらしかった。忌花。死んだものに捧げられる花。
「――あたし、一回、話してみるよ」
ユリカがゆっくりとそう云った。切羽詰ったような低い声。けれどアリスは驚いて、ええ?と訊き返してしまう。
「いいよ別に、そんなの」
「ううん」
ユリカは首を振る。
「だって――あの子ら、面白半分なんだよ。ただ、わかってないだけだよ。アリスがどれだけ嫌だと思ってるのか、ちゃんと話したらきっとわかってくれるよ」
視界に彼女の顔が入ってくる。優しい笑みが、アリスを見下ろす。
「さ、帰ろ。寒いよ」
差し出された手は、握るとふわりと暖かかった。
5
夢の中で、アリスは自分の家のリヴィングに居た。たしかに自分の家のリヴィングだったが、しかし、どうも様子がおかしかった。
窓から差し込む光が妙に青白く、早朝か夕方のようだった。静かにエアコンが稼動していて、壁際の観葉植物の、黄緑色をした葉が微かに揺れていた。
床には一面、埋め尽くすように、白い紙が大量に散らばっている。紙には細かい文字やグラフが印刷されていて、どうやら何か企画書の類らしい。
そしてその中に女が一人、ぐったりと仰向けに横たわっていた。鮮やかな赤のスーツを着けた、いかにもキャリア・ウーマン風の女性。メイクは軽めだったけれど、それでも充分なほどに美しい顔立ちをしている。だけど、まるで死んだように動かない。
長い黒髪が、ばさばさに乱れて床に広がっていた。
細い手の中に、小さな硝子の瓶が握られている。その周りにぱらぱらと散らばっている、円い錠剤。アリスはあれを知っている、まだ小さかった頃、母親が眠れないと言って毎晩飲んでいた薬だ。
アリスは少し怖くなった。二、三歩後ずさると、背中が冷蔵庫にぶつかった。どうしてリヴィングに冷蔵庫があるのか判らない。だけどアリスがぶつかると、それは急に思い出したように、低く深く唸り始める。
ぶうん――。
耳障りなほどに大きな音で。
ぶうん――。
女の人は眠っている。何故かそれだけは、アリスには判った。死んでいるのではなく、ただ眠っているのだ。
だけどきっと起きないんだ。アリスはそう思う。たとえ耳元で思い切りタンバリンを鳴らしてたとしても、きっと動いてもくれない。
次の瞬間、ドアがばたんと音を立てて開き、転がるようにして男の人が駆け込んで来る。
「え!」
アリスは冷蔵庫にへばりついたまま、小さく声を上げた。
上等そうなグレーのスーツを着けて、縁無しの眼鏡を掛けていたけれど――それはまぎれもなく、あの人だった。きれいな瞳は、今は驚きに見開かれている。
その人は女の傍に、倒れこむように駆け寄った。
「アリス!」
一瞬、自分が呼ばれたのだと思った。
男は女の身体を抱き起こし、肩を掴んで力任せに揺さぶった。
「アリス! アリス! アリス!」
悲痛な声で、名を呼ぶ。それでも女は何の反応も示さない。ただ壊れた人形のようにすわらない首が、がくがくと前後に揺れるだけ。
「アリス! アリス――っ!」
その人は叫びながら、なおも女の身体を揺さぶり続けた。飛び出さんばかりに目を見開き、狂ってしまったように髪を振り乱しながら。足元の紙がしわくちゃに潰れ、上等のスーツはたちまち乱れてしまう。
ここまで動揺した彼を見るのは、アリスは初めてだった。恐ろしくて、本当はすぐにでも逃げ出したかったけれど、なぜか目を逸らすことが出来ない。
「あああ……アリス……ああ……」
その人はとうとう、声を上げて泣き出してしまった。
「アリス……ごめんよ、アリス……」
苦しげに身体を折って、その人は泣いた。
「僕がこんな……ああ……あああ……」
「大きな失敗をしたんだ」
突然耳元で落ち着いた声がしたので、アリスはびっくりして振り向いた。冷蔵庫はもうそこには無く、あの人が腕を組んで立っていた。いつも通りの藍色のコートを着て、冷静な様子でそこにいた。
アリスは少しほっとした。
「いたの」
「いたよ」
ぽつりと答える彼の視線は、アリスではなく、リヴィングの中央の男女にじっと注がれている。
「あああ……ああ……あ……」
すすり泣く声。聞いているほうまで胃が痛くなるような。しかしそれは少しずつ、弱く小さくなっていく。
「大きな失敗をしたんだ」
その人がまた、言った。
「失敗?」
「そう。取り返しのつかないような、ひどいこと」
泣き疲れたのか、いつしか力を失った男の身体も、ゆっくりと仰向けに倒れて伏した。女に寄り添うようにして、男は眠り込んでしまった。
辺りはしん――と静かになった。
「戻ろう」
その人はアリスの頭に手をやって、ぽつりと云った。
「ここはもうじき駄目になる」
「だめ?」
アリスは訊き返す。
ふと床を見ると、紙の上の文字や表がゆっくりと崩れ、ぞわりと黒く染み出すように広がっていた。
黒は見る見るうちに床を埋め、壁を、天井を這い上っていった。観葉植物も、クーラーも、倒れた男女の身体も、アメーバーのように群がる黒に侵蝕されていった。
完全に二人の姿が見えなくなる寸前に、男が微かに、女の耳元に囁くのが聞こえる。
愛してるよ、アリス。
愛してる――。
ほどなく、全ては闇に覆い尽くされた。
闇の中、いつしかアリスは、両手に溢れんばかりの白い百合を抱えていた。
むせかえるような甘い香りが立ち込め、次の瞬間、花はざあっ!と音を立てて真紅に染まる。
「止められなかった」
その人の声。
6
アリスは重い頭を抱えて、教室へ向かう。
このところ見るのは本当に脈絡のない、気味の悪い夢ばかりだ。特に今朝のはひどかった。もう断片的にしか思い出せないけれど、あれはきっと、悪夢と呼べる。
ユリカに会ったら、何て話そう。
アリスはそれを考えながら、むしろ話して良いのか多少の迷いさえ覚えながら、教室の立て付けの悪い扉をがらがらと開けた。
「きゃあ、もうありえなーい」
「ショウくんはカッコイイんだってばあ!」
「えーっ、あのドコがーっ?」
耳に流れ込んでくる高い声。例の女の子たちがいつものように、教壇の周りで楽しそうにしている。
ああ、ああ、お寝覚めの良いこと。アリスは少し眉をひそめながら、ちらりと彼女たちを見る。
だけど。
「あ……」
いつもと違っていることが、一つだけあった。
女の子たちの中に、ユリカの姿が混じっていた。長いオレンジの髪の子に、プリクラ帖を見せられている。
「でね、でね、これがミカコ」
「うん」
「ブスだよブス。そう思わない?」
「……うん」
アリスは身体がかっと熱くなるのを感じた。続いて軽い目眩。何、これ。
「ゆ、り、ちゃん」
小さく手を挙げて、呼ぶ。いつものように――いつものように、すんなりと声は出てくれない。
「ユリ、ちゃん」
ユリカよりも先に、女の子達が一斉に振り向いた。
ぷっ。くすくす。そんな笑い声がして。
女の子たちは互いに頭を突き合わせ、ひそひそと話し始める。
「やだ、何あれー」
「やめてよぉ」
「げえぇぇキモい」
半瞬だけ、息が止まった。心臓が大きく跳ねて、胸が鉛のように重く重くなった。
アリスはぱっとスカートをひるがえし、教室を飛び出していた。
登校してくる子供で混み合う廊下を、何も見ずにただ、走った。
どうして? どうして? どうして?
問いかけが、心の中をぐるぐる回る。どうしてこんなものがあんなところにあるのねえどうして?
アリスの前には真っ直ぐな廊下が、ただ延々と長く伸びていた。東階段が、ひどく遠いような気がした。
案の定、すぐに息が切れて走れなくなった。
アリスは半泣きの顔で、歩いた。
上靴の底がゴム製なので、歩く度にぎゅ、ぎゅ、と音が立つ。
ぎゅ、ぎゅ、と歩きながら、アリスは問い続けていた。
どうして?
多分、ユリカは昨日のうちかあるいは今朝、女の子達と話したんだろう。もしかしたらもっと話し合うためにあそこへ居たのかも知れない。だけどあの子達の事だから、きっとユリカの話なんてろくろく聞かずに、自分たちのペースに彼女を巻き込んで、そうすることでごまかそうとしたのだろう。そうだ。きっとそうだ。
仮定は急速にアリスの中で膨らむ。だけどそれは結局、解答にはなり得ない。否定する根拠はなく、かといって肯定するための理由だって、どこにも見つけることが出来ない。
どうして?
アリスは唇を噛み締める。心の中は嵐のようで、いったい何を考えているのか、自分でもさっぱり掴めない。
ぎゅ、ぎゅ。アリスは歩く。
果てしなく長い廊下を。ずっとずっと真っ直ぐに歩き続けて、もういい加減くたびれたと思う頃になって、ようやく突き当たった。
そこにあるべき東階段は無かった。ただのっぺりとした白いドアがあるだけだった。
アリスはノブを捻って、そっと前へ押してみる。内開きのドアだ。
その向こうには、自分の部屋があった。
いつもと少しも変わらない、見慣れた自分の部屋だった。アリスには広すぎる勉強机、ちいさな本棚、母がきちんと畳んでくれる布団。壁際に並んだ、うさぎとわにの縫いぐるみ。
アリスは部屋に入ると、ドアを後ろ手に閉めた。
フローリングの床に、リュックを投げ出す。すると何だか力が抜けてしまい、へなへなとその場に座り込んだ。
涙が、溢れてきた。あとからあとから、いくら手の甲で拭っても、とめどなく流れ出してきた。
アリスはしゅんしゅんとしゃくりあげながら、泣いた。しばらく、泣き続けた。しばらくよりもっと長いこと、泣き続けた。
涙は、本当に止まらなかった。壊れた水道みたいだと、自分でも思った。
肘の辺りまで水が溜まって、縫いぐるみはぷかぷか漂った。リュックは水を吸って、底に沈んでしまった。
それでもアリスは泣き止まない。
「アリス、アリス」
不意に天井から声がして、アリスは涙目のままそちらを見上げた。滲んだ視界の中に、あの人がいた。逆さまにあぐらをかいて座っていた。
「やれやれ、これじゃあまるで不思議の国のアリスだ」
苦笑交じりにそんなことを言う。
「どうして、そんなところにいるの?」
湿った声で、アリス。
「濡れなくて済むだろ、ここなら」
アリスはいっそう泣いた。この人はいつも正しい。
「アリス――!」
「アリス、アリス!」
母親の呼ぶ声で、目が覚める。
アリスは暖かい布団の中にいた。
見慣れた天井が、静かに視界にあった。
「アリス! 早く降りていらっしゃい、学校に遅れるわよ!」
母親の声をぼんやりと聞きながら、ふと、頬の辺りが冷たく濡れているのに気付く。
ああ……。
あれ、夢だったんだ。
アリスは深く息をついた。
全部、全部、ただの夢だったんだ。
心の底から、ほっとした。もう大丈夫。もう悲しいことは何もない。
アリスは母親にもう一度呼ばれる前に、急いで布団をはねのけると、リュックを引っ掴んで部屋を出た。
ぱたぱたと、階段を駆け下りる。
「おはよう、アリス」
ピンクのエプロンを着た母親が、アリスを迎える。
しかし。
「……」
アリスは目眩を覚えた。
母親の頭部は、今ではもう、つやつやと光る巨大なマグロのそれだった。ぎょろりと濁った目をして、生臭い臭いを放って、アリスにあの優しい笑顔を向けてくれることは、もう二度とありそうもない。
アリスはよろけて、額に手をやる。景色がくるくる、鮮やかに反転し、どうやら目眩はひどいらしい。
視界の隅を赤い百合が舞う。
今まで確かな現実だったものたちが、ひとつずつ死んでいくような、そんな気がしていた。
そして、アリスは夢を見ている。
0
夢の中で、アリスは列車に乗っていた。
たたん、たたん、たたん、たたん――。
くぐもった轟音が、単調に響いている。
列車は長いトンネルの中で、だから窓の外は真っ暗で何も見えはしない。向かいの席にはあの人が居た。目を閉じて、眠っているようだったけれど、
「ねえ……」
アリスがそっと呼ぶと、あの綺麗な瞳で微笑んでくれた。
「何だい、アリス」
問われて、アリスは俯いた。
「……判らないの……」
そう、言う。
「何が判らないのさ」
その人はまた、問うてくる。優しい、おだやかな声で。
「何が夢で、何が本当なのか」
アリスは目を閉じて、ゆっくりと首を横に振った。
「眠っている時と、起きている時と。どっちが現実なのか、もう、ちっとも判らないの」
たたん、たたん、たたん――。
彼はアリスをじっと見つめ、微笑んだまま、静かに告げた。
「……どちらも夢だよ。アリス」
「え?」
アリスはのろのろと、緩慢な動作で顔を上げ、彼を見る。
「起きている時に見る夢か、眠っている時に見る夢か、ただそれだけの違いさ。現実なんて本当は、とうの昔に死んでしまった」
少し遠くを見るような目で、その人は呟いた。
たたん、たたん、たたん――。
二人は沈黙する。
たたん、たたん、たたん――。
音だけが、辺りに満ちた。
しばらく経って。
「僕はね」
その人が云った。
「僕は、終着駅まで行こうと思う」
アリスはふと、膝の上にリュックを抱えていることに気付く。そういえばあの人は、白い百合の花束を抱えている。
「君はどうする?」
その人は問う。
アリスはリュックをじっと見つめ、ユリカと母と、学校のことを思った。それはあまりにも遠く、ぼんやりとして、ずっと昔に見た夢を思うのによく似ていた。
「わたしは」
アリスはその人を見て、云った。
「わたしも、行くわ」
その人はにっこりと笑った。
たたん、たたん、たたん――。
単調に続く音。
窓の外にはしらじらと、夜明けにも似た光が少しずつ戻ってくる。
トンネルは終わる。
始まるのは、また果ての無い夢。
その人はにっこりと笑って、云った。
「愛してるよ、アリス」
真紅のスーツを着たアリスは、長く伸ばした黒髪を軽くかき上げ、
「私もよ」
軽いメイクを施した、美しい顔で、そう答えて笑った。
-fin-
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