『僕らは、ほんの少しだけ生きている』

 プロローグ 『密室問答』

 ──蛍光灯の明かりの中、僕と彼女が向かい合って座る。
 思索部恒例の『問答』の始まりだ。一対一で向かい合って話し合うことによって思索を深める。
 自分の意見が知りたければ人に聞け。という言葉もあるくらいで、非常に有効な手段だ。

「全てという言葉は凄いと思わない?」
「……特に凄いとは思いませんけど?」
「そうかな? この三音一語の言葉だけで文字通り全てが表せるんだよ。僕らに見えるものも、見えないものも、触れるものも、触れないものも、文字通り全てがこの一語の中に入ってしまうんだ」
「神も悪魔も」
「そう、神も悪魔も」
「そうだとしたら皮肉ですよね。神が言葉を使って命じたからこそこの世界ができたというのに、その言葉の中に神が内包されてしまった」
「自己矛盾を抱え込むのは人間なら当たり前のことだよ。神は自らに似せて人を創られたんだから」
「でも、神は全知全能のはずでしょう? さっき言った全てを──見える見えない、触れる触れない、感じる感じないの如何に関わらず知っているはずなのに」
「それはつまりこういうことなんだろうね。進化論の面から言えば人を作ったのは人の一歩手前の生き物だ。卵が先か? 鶏が先か? 馬鹿いっちゃいけない。ヒヨコが先に決まってる。人の作り出した神はどんな力を持っていても、所詮は人以下でしかない。僕が思うに、きっと本物の神様は迷惑してるよ。言いたい事はただ一つ。私に関わるな。これだけさ」
「…………」
 沈黙する彼女。僕は余裕ありげな表情をつくり彼女の言葉を待つ。
 暫くして、彼女の口から言葉が漏れる。それは呟きというにはあまりにも力に満ちていた。
「……パクリですか」
「うっ」
「この期に及んでパクリなんですか。あなたは」
「ま、まあ、戯言……」
「それ以上言ったら殴りますよ」
「…………」
 こんどは僕が沈黙する番だった。どうにかしてこの場をうまく切り抜けなければならない。
「うん、つまり僕が何を言いたかったかというとだね……」
 そこで言葉を切って、深呼吸する。彼女の眼をまっすぐ見つめながら、告げる。

「ゲーテ曰く、神は死んだ。ってことさ」
「ニーチェです!」
 つっこみは見事僕の頭にクリーンヒットし、僕はそのまま後ろにぶっ倒れた。

 

 僕という人間を語るのに、それほどの言葉は必要としない。
 活字中毒。哲学オタク。数学できずに私立文型。中身はスカスカ。
 たった四つで事足りる。
 中学に入って順当に落ちこぼれて周囲の期待についていけなくなった。そこで哲学にハマってしまったのが運の尽き。もう戻れないオタク街道まっしぐら。哲学って言ったってまともに論証したりするわけじゃない。先人の偉大なる御言葉を拝借して賢しげに語ってみせたりする程度だ。そして「死んだらすべて終わりじゃないか。どうだっていいよ」そんな風にニヒリストを気取ってみたりする。そこまで悟りきれてもいないくせに。
『賢人は格言を作り、愚者はそれを繰り返す』愚者とはまさに僕のことだ。
 努力することも無く手に届かないものを欲しがり、どんなことがあっても決して自分のせいではないと屁理屈を捏ね、どうでもいいことを難解な言葉で修飾して悦に入る。自己顕示欲をこれ以上ないくらいに溜め込んでおきながら他者と交流することに対して極端に萎縮する。
 だいたいにおいて孤高の人という奴は自分に自信のある人間がやらないと格好悪いことおびただしいものだ。自分に自信のない人間がやるとどこをどう見たってイソップ童話の狐にしか見えない。中学のときの僕はまさにそれそのものであり、実に可愛げの無い学生だったと思う。
 その一方でそんな自分の内情を分析して「このままでは駄目だ」なんて自戒していた。
 解ったようなフリをしている奴を解ったようなフリをしている奴を解ったようなフリをしている奴。どこまでいってもきりがない。
 そう、現実にはきりってものがない。
 栄枯盛衰。輪廻転生。弱肉強食。
 僕たちの周りにはぐるぐるぐるぐる廻り続けるもので溢れてる。マクロな視点でも、ミクロな視点でも、それは変わらない。だから僕みたいな人間はさっさと考えることを放棄しようとして放棄しきれず自棄になる。
 思うに天才とは、答えの出ない問いに対して無理やりにでも何でも答えを出す人のことなのだろう。
 どこに、どんな答えを導くのか。 
 それは打ち込まれた楔なのか。もしくは、開けられた風穴なのか。
 答えを見出せない僕には、考えても詮ないことだけれど。

 この学校に入学してまず驚いたのが、ここには帰宅部が存在しないということだった。ここの生徒は必ず何らかの部に属していなければダメな上に、ある程度の活動をしていなければ内申に響くどころか反抗的な生徒として停学を喰らうこともあるという話だった。
 僕は困惑した。いままで部活なるものに参加した経験は皆無だったし、集団行動はなによりも苦手だったからだ。
 小学校のころは「心なんかなくしてしまって、勉強するためだけのロボットになりたい」なんてことを考えながらぼーっと生きていた。僕にとって学校に行くことは義務以外の何物でもなく、友人を作るとかそういうことにはまったく考えが及ばなかった。ただただ周囲の期待のままに勉強していた。
 中学に入って落ちこぼれてからは「人生とは何か?」なんていう半端に壮大な問いについてぐるぐると考え続けていた。全身全霊を傾けて考え続けていたおかげで頭と体はすっかり分離してしまい、頭でまったく別のことを考えながら体が勝手にノートを取って、勝手にご飯を食べて、勝手に掃除して下校する。そんな芸当が可能になってしまった。まあ、どっちにしても勉強の役にはたたないのは明らかだが。……そんな生活をしていた僕に集団行動への適性を求めるのは酷というものだろう。
 運動系の部はまるっきり対象外だった。僕はそれほど運動が得意ではないし、先輩後輩の上下関係なんて怖気が走る。かといって文化系の部というと吹奏楽と美術くらいしかなかった。そして僕にはそっち方面の才能がなかったし、何より面倒くさかった。
 そこで僕は新しい部を作ろうとした。それはもう寝食を惜しんで、宿題もせずに没頭した。
 主だったところを挙げてみると、福祉の大切さを知るためのボランティア部。趣味と実益を兼ねた囲碁・将棋・麻雀部。教養を深め精神を高潔にする読書部。音楽と瞑想を通じて自己を高める自己啓発部。社会全般のことについて討論しまくる討論部。部室にひきこもって学校に寄生するひきこもり部……等々。
 ものになるかどうかもわからない企画を立ててはプレゼンを繰り返す企画屋の気持ちが心底わかる日々だった。
 ほとんどの企画は説明段階で却下された。どうやらなんらかのコンクールや大会などの発表機会が無い部はダメらしいということが解ったので、それならばと意気込んで作ったのが思索部である。
 思索部の活動内容はごく単純だ。とにかく考えて考えて考えてなにか閃いたらそれを文章、絵画、音楽その他の形式にして発表する。あいまいといえばこれほどあいまいな部活も無いだろう。
 僕はさらに条件を付けた。使われていない階段下の倉庫を自身で掃除して使うこと。部費はまったくいらないこと。一ヶ月に一回は何らかの形で作品を発表すること。
 そこまでして漸く部設立の許可が下りた。
 今考えてみるとどうしてあそこまでの行動力が発揮できたのかさっぱり解らないが、今の僕が無理矢理思考してみるとやっぱり初めてやる部活というものに無用の恐れを抱いていたのではないかと思う。まったくもってどうしようもないチキン野郎だ。
 まあ、そのおかげで今の僕があるわけだけれど。
 取り返しの付く過去なんてモノはないのだ。だから貴いとまでいえるほど達観してはいないが、今の自分には完全に満足しているし、まったく不満はない。

 彼女──篠川朱美に初めて会ったのは、思索部を設立してから二週間ほどたったある日のことだった。
 そのとき僕は思索部の記念すべき最初の製作物は何が良いかと考えながら部室に向かって歩いていた。やはり自然に対するエッセイだろうか。しかし評論も良いかもしれない。いやいやここは駅前のデパートの抽象画展という線もありかもな……などと考えながらふと顔を上げたら階段の中ほどで彼女がうずくまっていた。
 正直に告白しよう。そのとき僕がコンマ七秒ほどで最初にはじき出した結論は逃亡だった。
 見ざる言わざる聞かざるを実行して、気配を殺してこの場を逃げ出そうとした。実際、彼女がそのままうずくまっていたらそうしていただろう。
 しかし、現実はそんなに甘くなかった。
 そろりと一歩後ろに下がりかけたとき、彼女が突如体勢を崩した。そのまま頭から下に向かってダイブしていく。
 いくら僕がヘタレでチキンな下衆野郎でも、とっさの判断で動けないほど落ちぶれたわけじゃない。全力で駆け寄って確保に成功。僕もだいぶ慌てていたからかなり手荒になってしまった感があるが、床に直接叩きつけられるよりはマシだろう。
 彼女は弱弱しく身を起こすと憔悴しきった目でこちらを見て何か言おうとした。しかし、何か言うよりも早く顔を背けて嘔吐した。
 この場合、僕が彼女を厳重にホールドしていなかったのが良かった。もしそうだったら彼女は否応なしに僕の腕の中で吐くことになっていただろうから。
 吐くことに必死になっている彼女の背を半ば無意識にさする。
 吐ききったあとはゆっくりと呼吸が元に戻ってゆく。すぐにどうこうということは有るまいと判断し、部室から雑巾とバケツを持ってきて現場の後始末を開始する。これも半ば無意識だ。僕の頭の中は突如起こった事件に対応しきれずフリーズしきったままだった。
 現場を清掃し後片づけを終えて戻ってくると、彼女は気を失っていた。清掃作業に没頭していたおかげで元に戻った頭が一番最初にひねり出した台詞は──。

「……さて、面倒なことになったな」

 ……あのころの僕はまったくもって、つくづく最悪な人間だった。 
  
 とりあえず改めて彼女の様子を調べたが、特に急を要するような容態ではなさそうだったので、部室に運び込んで寝かせることにした。保健室という選択肢も無いわけではなかったが、保健室の位置は渡り廊下を挟んで部室の反対側にあり、その間には職員室と玄関という二大難所が待ち構えている。僕にそんな中を女の子を担いで練り歩く根性は無かった。
 とりあえず部室に運び込んだはいいが、この部屋は下に敷くようなものが何も無かった。いろいろ考えてはみたが特にこれといった妙案は思いつかない。結局いつまでも抱えあげているほうが負担になるだろうと思い、床に直接寝かせることにした。寝心地はあまりよくないかもしれないが、掃除だけはしっかりしているから清潔さだけは保証できる。
「……さて」
 この状況下で次に何をしたら良いのかよくわからない。
 僕は色々考えてみた。そうして二つの結論を得た。
 一つ目は能動だ。積極的に看病をし彼女の健康が一刻も早く回復するように努力する。
 二つ目は受動だ。とりあえず彼女は放っておいて、目が覚めるまで自分の仕事をする。

 僕は即決で二番目を選択した。
 
 とりあえずエッセイを書くことに決め、適当にテーマに沿った話題を脚色を交えながら展開させていく。
 書き始めてから十分ほどで、彼女が目を覚ます。
「……ここは」
 視線はどこか虚ろで、未だはっきり目が覚めていないらしい。あれだけ吐いた後だ。さぞや体の各所が痛むに違いない。
「大丈夫? 辛い様なら保健室に連れてってあげるけど」
「えっと……」
 僕の言葉が聞こえているのかいないのか、虚空を見上げて動きを止める彼女。
 おそらく今、自分が置かれている状況を理解しようとしているのだろうが……ぼんやりとした顔で小首を傾げる彼女は中々に可愛かった。
 一分ほど経つと瞳に理解の色が戻ってくる。どうやら無事に脳が再起動したらしい。
「す、すみません! 私、なんてお詫びしていいか……」
「ああ、別に構わないよ。僕に被害は無かったし。それより、体のほうは大丈夫? 辛い様だったら保健室に行くなり迎えを呼ぶなりしたほうが良いと思うけど」
「あ、はい。そろそろ迎えが来るころだと思います」
「へえ。いつもこの時間には帰ってるの?」
「はい。そうです」
 ということはつまり、彼女は部活には所属していないということだ。さっきもかなりキツそうな感じだったし、持病か何かを患っているのかもしれないな。
「それで、あの、ここは何処なんですか?」
「君が倒れた階段の脇にある倉庫」
「倉庫なんですか? なんか、何にもないですね」
「もう使われていないらしいからね」
「その、もう使われていない倉庫であなたは何をしてるんですか?」
 なかなか鋭いつっこみだ。どうやら彼女、頭の回転は良いらしい。
「部活」
「部活?」
「そう、部活」
「なんの部活なんですか?」
 そこで僕は思索部について、その創設のあらましも含めて語った。それは暇つぶしと気まぐれのなせる業であり、それ以上の意味はまったく無かった。
 だから、彼女が示した反応はまったく僕の想像の埒外だった。
「じゃあ、私もこの部に入っていいですか?」
 は? 今、何て言ったんだこいつ。 
「私、この学校でできそうな部活がなかったんですけど。でもこの部活ならやっていけそうな気がします」
 いやいやまったくそんなことないよ。これはこれで中々ハードなんだよ。いや、マジで。
「それでは明日から来ますので、よろしくお願いします」
「ち、ちょっと……」
 このまま済し崩されるのはまずいと判断した僕は、どうにか彼女を思いとどまらせようと口を挟んだ。
「……駄目、ですか?」
「……駄目では、無いけど」
「それじゃあ、よろしくお願いします」
 お願いされちゃったよ。おい。
 扉を開けて退室する直前、彼女は顔だけ振り向かせて、名乗りを上げた。

「私、一年D組の篠川朱美って言います」

 去り際のウィンクは中々に魅力的だったが、厄介なことになってしまったのは間違いない。
「さて、どうしようか……」
 なんだか今日は考えてばかりいるな、と眉間を揉みながら考えるが、なかなかうまい答えは見つからないのだった。

 結論から言って篠川さんの参加は思索部にとって大きなプラスとなった。彼女は僕よりも絵を描くことが上手かったからだ。
 文章系は僕、絵画系は彼女というような分業制が功を奏し、しばらくすると少しずつ結果が出始めるようになった。
 彼女が入ってきてからの数ヶ月間は、僕にとっては初めてのことだらけで非常に忙しい日々だった。いったいどういう理由なのか皆目見当もつかないが、彼女が関わってくるとどうも自分のペースというものを見失いがちになってしまう。
 
 ──思えばどうもこの頃から、僕は彼女のことが気になっていたのかもしれない。

 とでも書いておけば一部の人達から展開が性急過ぎるとつっこみを入れられずに済むだろうか。実際は、いつから彼女のことが気になっていたかなんて自分でも解らない。まるっきり青臭い少年の台詞だが、事実なのだから仕方がない。
 ──ああ、だめだ。とてもだめだ。僕に対して過剰な期待をしている人間はよもや居ないとは思うが、ここで一応断りを入れておこうと思う。
 僕にはあの数ヶ月間の記憶を描写する勇気と度胸がない。出会いのシーンですらこんなに恥ずかしいのに、これを数か月分なんてとても僕の自尊心が堪えられそうにない。これ以上『僕らしくない僕』を晒すことは精神的に不可能だ。如何様に謗られ罵られようと、無理なものは絶対に無理だ。

 記憶の暗黒地帯を抜けて最初に見える光景は秋も深まりつつある九月初頭の部室だ。既に文化祭は終了し、学校全体が平常どおりの姿を取り戻していた。
 その頃には僕は自分のペースを取り戻していたし、彼女も僕に合わせることができるようになっていた。数撃ちゃ当たるの精神で出しまくった作品群もそれなりの結果を挙げていた。教師陣にも活動が活発であると評価されたらしく、僅かながら部費も出るようになった。
 『思索をより深めるため』という名目で小説やら漫画やらCDやらを買い漁る。部室には互いの好みの音楽が交互に掛かるようになった。僕はゴシックメタルで、彼女はジャズ。ベクトルは違っていてもどこか似通ったものが感じられる選曲だった……と思う。
 彼女に対して抱いた感想は間違っていなかったらしく、彼女は拒食症を患っていた。もう二年になるらしい。
 ダイエットの失敗とかいう単純な理由ではないそうだが、僕はそのことに関して特に追求したりすることは無かった。
 人間の知ることができる範囲には限界があって、その広さでは何一つ真実にはたどり着けない。あるのは事実だけだ。何一つ満足に知ることができないのなら、いっそ何も知らないほうがいい。僕にとって、篠川朱美が拒食症であるという事実は彼女と部活をするうえでまったく不要な情報だった。彼女は部活の途中に倒れたりするかもしれない。しかし、僕が病名を知っているかどうかで、彼女の容態が変化することなどありえないのだから。
 彼女には三つ年上の兄がいるという話も聞いた。高校卒業してすぐ働きに出たらしい。拒食症が長く続いたせいですっかり体力の落ちてしまった彼女を朝と夕方送り迎えしている。
「自慢の兄貴なんですよー」
 そんな風に明るく話す彼女を見ているうちに、明らかに嫉妬の念と解るものが肺の辺りにもやもやとわだかまって深呼吸してもいつもの半分くらいしか息が入らなくてそれに焦って心臓の鼓動が不自然に早くなったりしていることに気づいてなんだか笑えてきた。
 思索部を立ち上げようとしていたころの僕だったら『恋する気持ち』なんて馬鹿げたものは鼻で笑ってやるのも勿体無いと言わんばかりの態度だったろうし、篠川さんが思索部に入っていなかったら僕は中学時代の二の舞になっていたことは想像に難くない。

 世界は偶然と愛に満ち満ちている。
 絵に描いたようなボーイミーツガールも奇跡なんかじゃない。
 起きてしまった以上それは一分の隙も無い百パーセントに他ならない。
 一瞬後には改ざん不可能な過去の遺物になってしまう。
 だから若者よ。偶然を恐れるな。偶然に遠慮するな。

「……なんて言ってみたりして」
 さすがに気恥ずかしくなって、ネタ出し用のノートに書いた意味不明の散文を消す。青臭い。青臭すぎる。とてもじゃないが正視できるシロモノじゃない。

 物事は有機的に繋がっている。ありとあらゆる事物が完全に孤立することはない。仮に完全に孤立しているものが在ったとしても、それは状態としては無いのと何も変わらない。
 今になって思えば、あの時僕が篠川さんの兄に嫉妬したことも、自分の気持ちに気づいて笑ったことも。
 すべて次のステップのためのキーでありフラグでありトリガであった。
 僕はこの日この時に条件を満たし次のステップへと進んだのだ。
 偶然も必然も関係ない。流れに放り込まれた人間がとるべき道は二つに一つしかない。流れに身を任せるか、抗うかだ。
 僕の場合で言うなら、篠川さんが入部を申し出たときが川に放り込まれたときに他ならない。
 この場合、僕は『篠川朱美が入部する』という川の流れに対して強いて反抗する理由が見つからなかった。だからその流れに身を任せた。
 その結果として、僕は、ここにいる。

 さて、唐突だが僕には少しばかり厄介な力がある。
 力といっても大した物じゃない。人が他者に向けている一番強い思いを読み取ることができるというだけ。それも視覚的に赤い線や紫の靄やらが見えたりするならまだしも、何の前触れもなく突然解るだけなので、イマイチ自慢しにくい力だ。大体、感受性の強い人はその場の空気を敏感に感じ取ることができるものだ。僕はその空気にちょっと詳しいだけ。
 それに、僕のこの力が本当に正しいかわかったものじゃない。表面上は事務的な笑顔を浮かべてなごやかにオーダーを取りつつも、内面ではなかなか料理を決めきれない僕に対して苛立っているウェイトレス相手に「あなた今、苛立ってますね?」なんてとてもじゃないが聞けたものじゃない。同様に、友人に対して「隠し事」の空気を感じたとしてもよくよく考えればそんなことはぜんぜん大したことではないのだ。隠し事をしないで生きている人などいないのだから。どんな思いを抱いているか解っても、それが何に起因しているのかわからないのではあまり意味がない。
 高校に入ってからはあまり使う機会の無かった力でもある。思索部に入りびたりで篠川さん以外に積極的に話す人がいなかったし、中学のときのように波風を立てることなく生活していたからだ。
 僕自身この力に随分助けられているから(この力のせいで嫌な目にあったこともあるけど)もしある日突然力がなくなったりすれば、さぞや落ち込むことだろう。

 篠川朱美のお兄さんである数馬さんに会ったとき僕が感じたのは、妹に対する強い偽りと後ろめたさだった。しかも、並の強さではない。少なくとも僕はこんなに強い空気を感じたのは生まれて初めてだった。
 あれは、食べ物の匂いに当てられて体調を崩した篠川さんを迎えに来たときのことだ。

 あの時僕は、保健室で休んでいる篠川さんに付き添っていた。恐縮しきっている篠川さんを宥めながら、ぼーっと益体もないことを考えていた。
 保健室の中には僕と彼女しか居ず、文化祭の喧騒も遠い遠い世界での出来事みたいだった。
 好きな女の子と二人っきりでいるというのに、不思議と僕の心は緊張しなかった。それどころかうっかりすると眠ってしまいそうなほどに安らいでいた。
 いつしか時が過ぎて日が傾き始めたころ、篠川さんはベッドから起き上がって僕のそばに来た。それからしばらく僕たちは他愛もない昔話に興じた。
 篠川さんは、まだ拒食症にかかる前の幼いころに行った夏祭りの話をした。その時も彼女は体調を崩して祭りを存分に楽しめず、悔しい思いをしたという。
 さて……。自分はどうだっただろうかと考える。自分にはわざわざ回想して懐かしむほどの過去なんてものはない。
 無論僕だって十数年間生きているのだから、楽しい思い出や苦しい思い出の一つや二つくらいあってもいいはずだ。少なくとも、折に触れて思い返すくらいの強い思い出を持っているのが普通のはずだ。でも自分にはそれがない。自分の人生だというのに僕に分かるのは概略だけで、細部は曖昧な霧の彼方にぼやけている。
 どうも僕の頭の中のボールペンは壊れてしまったらしく、脳に窪みをつけるだけでちっとも実線を引いてくれない。
 その窪みを辿ることによって概略だけは理解できるけれど、その窪みだって年月と共に元に戻ってゆく。今この瞬間の記憶も、何年か経てば霧の彼方に行ってしまうことだろう。
 それは、僕という人間が壊れているという、何よりも確実な証左なのかもしれない。
 そんなことを考えながら篠川さんと話をしていると、突然保健室のドアが開かれた。僕も篠川さんも、驚いてそちらを見る。
 そこに立っていたのが、篠川数馬さんだった。急いで来たのか浅く息を整えている。
「お兄ちゃん、 どうしてここに?」
「お前のクラス担任から、お前が倒れたって電話が入ってな。一応、念のためだ」
 そういいながら近づいてくる数馬さん。
 数馬さんと篠川さんの会話が始まると、僕は完全に蚊帳の外に放りだされた。もう、なんというか見事なまでの放置プレイ。繰り広げられる日常会話の数々は、完璧なまでに他者の干渉を拒む。篠川さんは時々こちらのほうを気にして目線をよこしてはいたが、僕は別段気にしてはいなかった。
 それよりも、数馬さんが篠川さんに対して抱く感情の強さに興味を抱かされた。
 僕だったら抵抗もできないうちに飲み込まれて振り回されてしまうであろう感情の渦を内に押し込めたままなんでもない風を装って話している彼に対して、僕は素直に感動した。普通、怒り狂っている人や嘆き悲しんでいる人はどんなに外面を取り繕おうとも、その気配が漏れてしまうものだが、隣にいる篠川さんはまったく何も感じていないようだった。
 篠川さんの様子を伺うが、特に変わったところはない。いつもどうりだ。ということは、この感情は現在ただいまの要因によって作られたものではないのだろう。数馬さんの見た目はまったくの常態であり、僕もこの力がなかったら内面を探ることはできなかったはずだ。
 おそらく数馬さんにとって『その感情』を隠すのは日常のことなんだろう。常日頃から修練してなければあんな風に振舞うことは不可能だ。
 ──いったい彼の過去に何があったのか。そこまで思考が進んだところでいったん考えることを止める。おそらく余人には分からない複雑な事情があるのだろう。それをみだりに探ることは最低の行為だ。なにより、僕と数馬さんは初対面ではないか。
 そこまで考えたところで、どうやら篠川さんと数馬さんの話が一通り終わったらしい。篠川さんが立ち上がってこちらに別れの言葉を述べる。僕はそれに応える。続いて一馬さんが軽く目礼して去っていく。
 かくして、保健室には僕一人だけが残った。
「驚いたな……」
 数馬さんが目礼して去ったとき、彼の中には僕に向ける感情というものが何一つなかった。圧倒的な零。道端の石ころと同程度の価値しかないといわんばかりの無関心。怒りはない。なにしろ初めて受けた経験だ。どんな感情よりも驚きが先にたった。

 ──この、さまざまな意味で衝撃的だった初顔合わせの一ヵ月後、僕は数馬さんと始めて言葉を交わすことになる。
 思索部の活動で遅くなった僕と篠川さんを待っていたのは、どことなく不機嫌そうな数馬さんだった。
「遅かったな」
「ごめーん。ちょっと熱中しちゃって……」
 手を合わせて軽く頭を下げる篠川さんに苦笑した後、数馬さんの目線がこっちに動いた。
 その目がまるで獲物を狙う猛禽のように眇められたのは、僕の気のせいではないだろう。
 なにか言おうとする数馬さんに先んじて、僕は深々と頭を下げる。
「妹さんをこんな時間まで残らせてしまったのはすべて部長である僕の責任です。真に申し訳ありません」
 突如として平謝りに謝りまくる僕に、篠川さんはびっくりしたような気配を、数馬さんは訝しげな気配を伝えてくる。
 しかし僕はそんな周囲の空気に合わせている余裕はまったく無かった。
 今この場に流れる感情のうねりに気づいているのは僕だけなのだ。有り体に言ってすごく怖い。篠川さんから聞いた話と、僕が感じた篠川数馬像。今ここで感じている感情のうねり。加えてここに篠川さんがいるということを考えると……おそらく慇懃な言葉使いで真綿でじわじわ首を絞められるようにいびられるのではなかろうか。なんて怖ろしい。
 ここは徹底的に下手に出てかわすのが一番良いと判断し、僕はその通りに行動した。
 さすがにこれは予想外だったのか数馬さんの弁舌も揮わず、無難な受け答えが繰り返されていく。
 ──良し。あとは適当なところで話を打ち切って離脱すればいい。 

「それじゃあ、僕はそろそろ……」
 そう言葉尻を浮かせて一歩後ろに下がる。さすがの数馬さんも僕を引き止めるに足る理由は持っていないだろうから、僕は悠々とこの場から逃げ出せるはずだった。ところが現実はそうそううまくいってはくれないのだった。
「あ、ちょっと忘れ物しちゃった」
 という篠川さんの声が僕の台詞のほとんどを叩き潰し、僕の逃走計画はあえなく失敗する。
 電話なんかでもそうだが、退出の言葉を述べかけたところで新たに話題提供をされるとそれに反応しないわけにはいかなくなってしまう。電話は一対一だからこんなことをする奴はただのマナー違反者だが、こうやって向かい合って多人数で話しているとなると退出一つするにも空気と間を読まねばならなくなってしまう。それでも、もし僕が退出の言葉を述べた後に篠川さんが喋ったのだったらそれを放っておいて帰ることもそれほどおかしなことではないかもしれないが、今回の場合タイミングはほとんど同時であり、実質、僕の発言はキャンセルされた形になってしまった。まさしく間が悪かったわけである。
 無論のこともう一度同じ台詞を繰り返して早足で逃げ去るという手も無いではなかったけど、そもそもそんなことができる度胸があるんなら平謝りなどせずに数馬さんと相対できたはずである。
 まあ、起こらなかった『もし』について考えてみたところで虚しいだけだ。僕はこの時点での脱出を諦めて次の機会を待つことにした。しかし、その機会は二度と訪れることは無かったのである。

「ちょっと取ってくるから、ちゃんと待っててくださいねー」
 篠川さんは何故か僕のほうに向かってそういって、足早に校舎の中に去っていった。

「…………」
「…………」

 周囲に『微妙』としか名付けようのないようなえもいわれぬ空気が流れる。もしかしたらこのときの僕は顔に縦線が何本か入っていたかもしれないし、一見動じていなさそうに見える数馬さんの目元が引きつっていたりしたのかもしれない。
 和馬さんは篠川さんの行為があまりにも素早いためにとっさに反応ができず。
 僕は篠川さんに言われた言葉の意味が解釈できず、凍り付いていた。
 
 え? なんだ? どういうことだ? 何故に僕が篠川さんの帰りを待たねばならない義務が発生するのだ? 理由はいったいなんだ? このまま去ってしまうと何か良くないことが発生するのか? 僕をこの場に引きつけておく事によって何がしかの利益が篠川さんに発生するのか? またはこの場にひきつけておかないと何がしかの損害を被ることになるのか? ならば何故に忘れ物をとりにいくなどという嘘によって監視対象である僕を放置するような真似をするのだ? いやそもそも監視する必要など無くて、ただ単純に数馬さんに僕を襲わせたいのか? 先ほどの言葉は「逃げるなよてめぇ」という恫喝だったのか? それとも数馬さんの方からこの計略を持ちかけたのか? 今日初めて会うというのに、いつの間にそんなに恨みを買っていたんだ? それとも……。

 そんな風にして混乱していたが、僕よりも早く復帰した数馬さんの放つ気配によって正気を取り戻す。
 正直、篠川さんがいなくなったことによってよりきつい感情を浴びせられるかと思ったのだがそうはならなかった。ついさっきまでは彼女に対する後ろめたさのほかに、僕に対して「妹に手出したら殺すぞワレ」という気配をかなりの高密度で感じたのだが、篠川さんがいなくなった途端、彼女に対する後ろめたさと共に綺麗さっぱり消えてしまった。
 ──いや、消えてしまったわけではないらしい。ただ様々な感情の中に紛れてしまって解らないだけだ。
 感情のうねりそのものは弱くなったが、内包する感情そのものはより複雑で混沌とした状況になっている。『複雑な感情』という言葉があるが、これはまさにそのものだ。僕の力をもってしても彼が何を考え何を思っているのかを読み取れない。
 僕はその塊を解釈しようと試みる。
 嘘発見器は『これは本当のことだ』と心から信じている人間に対してはまったく効果を表すことができない。嘘発見器は被験者の主観を調べる道具であり、真実どころか事実を調べる役にも立たないことがある。
 それと同じで、僕が数馬さんの感情を解釈しようと試みてもそれは真実どころか事実にも届かないだろう。喜怒哀楽というラベルを貼ってあったところで、僕の喜怒哀楽と数馬さんの喜怒哀楽は完全に別物なのだから。ましてラベルという共同幻想が欠如している混沌なんて万華鏡より千変万化するに違いないのだ。

 それでも僕は手を伸ばす。何に起因しているのか、どうやって発展したのか、どうして蟠っているのかさっぱり解らない篠川数馬の混沌に手を突っ込んでかき回し、口をあけて飲み込もうとする。
 様々な概念が僕の周りに集まって混沌に突撃していく。あるものはズブズブと音を立てて飲み込まれ、あるものはキンキンと甲高い音を立てて跳ね返され、あるものはまだ僕の周りを漂っている段階で黒い波動にやられて砕け散る。

 友情、努力、勝利、愛、正義、希望、死、禁忌、終焉、喪失、衝動、炎上、後悔、耽溺、覚醒、贖罪、慈愛、欺瞞、虚偽、欲望。

 ほんの僅かな隙間から指を捩じ込み混沌を持ち上げると、混沌はぶるりと震えて弾けた。
 泥なのかゼリーなのか水銀なのかそれはどろどろとしていて弾力があってしかし強く触れると途端にさらさらの水になって流れたかと思ったらぶよぶよと跳ね回り絡みつく。
 混沌のあまりの複雑さに僕は酔い始める。視界が揺れ崩れ不明瞭になるに従って何もかもが良くわからなくなってゆく。篠川数馬の混沌は僕を覆いつくして咀嚼する。
 僕はやはり馬鹿だ。日本一の大馬鹿野郎だ。人の心の暗部に入り込んで無事に済むわけがなかったのだ。自分の心の中すらろくにわからないのに他人の心を土足で侵そうなんて無理な話だったのだ!
 ああ! 僕は愚かな行為の代償を自身の人生で払うことになってしまった!
 残念なことに僕の人生はここで終わってしまうのだ!
 そんな事を考えている間にも混沌は僕を食べ続ける。そして今、最後の一片が飲み込まれ消化されて消えてしまった──。
 その途端、僕の視界がもとに戻る。
 脚がふらついてどうしても立っていることができず、片膝をついて座り込み両手で顔を覆う。
「おい、大丈夫か?」
 傍目から見れば、僕が突然崩れ落ちたように見えたのだろう。数馬さんの声には若干の焦りが含まれている。
「お気になさらず、ただの眩暈ですから。少しじっとしてれば治ります」
 片膝をついた、まるで何者かに跪いているかのような姿勢で眉間を揉み、目を閉じる。
 しばらくすると昇降口のほうから声が聞こえてきたので立ち上がり、何事もなかった風を装う。
「お待たせ。ちょっと見つけるのに手間取っちゃって」
 そういいながら小さな手提げを掲げてみせる。確かそれには彼女が絵を描くときに使う道具一式が詰まっているはずだ。
 篠川さんが車に乗り込んだので、僕はちょうどいいタイミングだとばかりに数馬さんに近寄って挨拶をしてから帰ろうとした。

 ──それが間違いだった。

 別に車に近づく必要は無かったのだ。確かに多少距離はあったが普通に喋れば問題のない距離だったし特にそれが非礼な行いというわけではなかったはずだ。
 それでも近寄ってしまったのは完全に気まぐれであり、それは僕が『流されている』ことの証明だったのかもしれない。
 すべては一瞬のうちに行われた。電光石火だった。実に劇的だった。
 数馬さんは何も知らずにうかうかと近づいてきた僕の後ろへあくまでも自然なさり気ない動作で回り込んで強く背を押した。
 先ほどのショックからまだ完全に立ち直っていない僕は無様にも前につんのめるが、何故か前にあるはずの車の後部座席は開け放たれており、そこから手を伸ばした篠川さんが僕の手をつかんで車の中に引っ張り込み──。

 ──気づいたら、車の中にいた。

 引っ張り込まれた際に体の各所をぶつけたのにも拘らずまったく痛みが感じられないほど混乱している僕を置き去りにしたまま事態は進行していく。
 篠川さんは何故か僕の腕を離そうとはしないし、数馬さんは淡々と前に回り込んで運転席のドアを開けてそのまま車を発進させてしまう。
 車内には妙な沈黙が満ちていた。車内で渦を巻いて交錯する気配に耐え切れなくなった僕は、とにかく状況を打開しようと篠川さんに説明を求めた。
「……えっと、どういうことなのかな?」
 このあいまい極まる質問に対する篠川さんの回答は実に簡潔だった。
「いつもお世話になってますから、そのお礼に食事にご招待しようかな……と」

 簡潔すぎて涙が出そうになった。誰か助けてくれ。

 その後、詭弁と正論の限りを尽くして説得を試みるも、その度に運転席から発せられる名状しがたい気迫に圧されて攻めきれぬまま、車は篠川邸に着いた。
 こういっては失礼かもしれないが、篠川邸は特に描写する価値を感じないほどに平凡な二階建てのこじんまりとした家だった。
 すっかり思考停止してしまっているため、僕の体は独自の判断で動き始める。
 車を降りてから数馬さんにお礼を言って、篠川さんに追いついて並びゆっくりと歩いて玄関にたどり着く。数馬さんが追いついてくるのを待って一番最後に家に上がる。二人の後についていくとそこはダイニングキッチンで、座って待っているように言われたのでその通りにすると、既に作ってあったのか手際よく準備がなされ、食事が始まる。
 食事の味は正直言って覚えていない。食事や排泄といった行動は現実を意識させてくれる強烈な感覚であるはずなのに、それすらも阻害されてしまう。いかに僕がこの状況に対して現実感を感じていなかったかが分かろうというものだ。
 食事も終わりに差し掛かった頃、篠川さんが口元を抑えて硬直した。
 それとほぼ同時に数馬さんが立ち上がり、迅速かつ繊細な動作で篠川さんを抱え上げ、走る。
 僕はその様子を呆然と眺めているしかなかった。
 何が起こったのか理解はできる。食べ過ぎたのだろう。
 篠川さんの器に盛られていた量は僕から見ても明らかに少なかったけれど、そんなことはぜんぜん問題ではない。僕の主観になど意味はない。意味があるのは唯一起きてしまった事実だけだ。
 視線を動かして篠川さんの器を確認する。それはほとんど空になっていた。
 ほとんど空になっていた。
 この事実はいったいいかなる意味を持つのか、僕は考えた。考え続けた。

 暫くして数馬さんが戻ってくる。口を開こうとする僕を制止して一言。
「食事を続けよう」
 その声はどこまでも固く強張っていて、僕は反論することができなかった。
 それでも、一つだけ聞いておかねばならないことがある。
「……篠川さんは」
「大丈夫だ」
 間髪いれずに返ってくる答えに拒絶の鋭さを感じ、僕は今度こそ沈黙した。
 淡々と食事を終え、片付け始める。僕も手伝う。
 片づけを終えると僕と数馬さんは向かい合うように座る。
 数馬さんは胸ポケットからタバコを取り出す。マルボロのミディアム。
「タバコ、お吸いになるんですね」
「ん? ……ああ、こんな時だけな」
 こんな時の『こんな』がどこに掛かるのかは予測できるが、あえて突っ込まないでおく。
「君はタバコは嫌いか?」
「いえ、ごくたまに吸います」
「へえ? 何を吸うんだい?」
「ブラックデス」
 その答えに数馬さんは肩を竦めたきりで何も言わなかった。
「僕のせいですね。すみません」
 数馬さんが一服して気の緩んだ瞬間を見計らって僕はそう言う。
 無防備な瞬間を狙われた数馬さんは一瞬身を強張らせ、それからごく自然になんでもない風を装って微笑む。つくづくすごい精神力だと思う。
「それは、どういう意味かな?」
 それでも、声だけは誤魔化しきれてはいなかった。
「篠川さんは自分の体のことをよく知っていた。知り合ってから今までの付き合いの中でも、彼女が食べ過ぎたという事例は数えるほどしかない」
 たとえば文化祭。……まあ、あれは食べすぎというよりかは食べ物の匂いに負けたといったほうがいいのだけど。
「まして慣れた自宅での食事。普通だったら彼女が自分の限界を見誤る可能性は万に一つもないはずです。だとするなら普通ではないファクターが関与したと見るべきでしょう。そして、今一番この場にそぐわない存在はこの僕です」
 そう。彼女の食欲を、たとえそれが錯覚だとしても増進させた僕という存在。
 もしそれが事実であるのなら、僕はそれを誇るべきなのだろうか。
「だから、君のせいだと? ……酷い自惚れだな」
「でも、事実です。そうでしょう?」


 無論、そんなことはない。この程度の薄弱な根拠で事実を語ることなどできるわけもない。
 それでも、僕は数馬さんにたいして見得を切った。
 数馬さんは内に秘めたものを視線に籠めて僕に放つが、僕はまったく揺るがない。それを見た数馬さんは深い溜息をついてそれからタバコに携帯灰皿に落としてから僕に向かって喋る。
「君が気にすることはない。君を呼ぶことを願ったのは朱美だし、その計画を承認して協力して車を運転して料理を作ったのはすべて俺だ。君が入り込む余地はない。もし君に罪があるのだとするならそれは君が君であったことに他ならない。そうだろう? そこまでいくともうどうしようもない。論じるだけ無駄だよ」
 僕が僕であること。それが罪であるというのならその罪とは『原罪』に他ならない。生まれた赤子は祝福とともに刻印される。誰かは誰かの味方であり、誰かは誰かの敵である。
 この場合、確かに僕が僕であることは罪だ。この認識こそは覆されることのない『真実』なのだ。
 僕は選択しなければならない。誰の敵になり、誰の味方になるかを決めなくてはならない。誰の味方にもならないという逃げの選択肢は既にない。僕はもう、深く関わりすぎてしまった。

 ──長いようで短い一瞬の後、遂に選択は為された。

「そう言ってもらえるとありがたいですね」
 そう言って、微笑む。
 そして、告げる。
「それで、あなたは何をそんなに後ろめたく感じているんですか?」
 無造作に切ったワイルドカードは、数馬さんが予想もしていなかった方向から彼に襲い掛かる。
「……な、何を」
 ここで惚けられては攻めきれない。知らぬ存ぜぬと言われてしまったらどうしようもないからだ。
 だから僕は嗤う。いやらしくにんまりと嗤う。
 僕がすべてを知っているかのように思わせなくてはならない。
 暫くの後、数馬さんは僕を睨みつけながら聞いた。
「……君は、何を知ってる?」
「そう聞くって事は、何かやったんですね?」 
 間髪いれずにそう答える僕を見て、数馬さんは引っ掛けられたことを悟る。
 この時点で何をやったのかを性急に聞くことはまずい。詳しいことは何も知らないということを露呈してしまうからだ。
 だから僕は僕の力について解説する。
 普通にはありえない力について解説する。
 ……よく考えればこの力が恐れるに足るものではないことに気づいたはずだ。
 実質的なことは何も分からないのだから。
 しかし、隠しに隠してきた内心の思いを暴かれ、しかもそれが未知の力のよるものだと知った数馬さんは動揺しきっていて、冷静な判断なんてできる状態じゃなかった。
 僕が狙っていたのはそれだった。とにかく驚かせて堅牢な壁にひびを入れること。

「あなたは、篠川さんに何をやったんですか?」

 そう問うと、数馬さんは両手で顔を覆い、ぽつりぽつりと語り始めた。
 それは、このあまりにもありふれた平凡な家には似つかわしくない──あるいはどこまでも似つかわしい──愛憎劇だった。
 ──篠川数馬は篠川朱美を犯した。
 でもこれは禁忌ではない。なぜなら二人には血が繋がっていないからだ。
 さらにこれは罪ですらなかった。篠川朱美は篠川数馬を受け入れたからだ。
 法律的に問題があっても、それはただそれだけのことだったはずだ。
 でも、そうはならなかった。
 篠川朱美の母親は彼女を産んですぐ死んだ。父親はすぐに別の女性と結婚した。
 別に不倫していたわけではない。彼は子供の成長には二親必要であるという鉄の人生観を持っており、たまたま同じ信念を持っている未亡人が身近にいたという話だ。
 その未亡人の連れ子が当時三歳の数馬さんだった。
 数馬さんが中学を卒業したとき、両親から真実が伝えられたがそれが家庭内不和に発展することは無かった。彼ら兄妹は血のつながりが無い事実を受け入れた。
 しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。
 数馬さんの生みの親であり、朱美さんの育ての親であり、二人に分け隔てない愛情を注いでいた母親が死んだ。
 篠川数馬は喪失を経験し、その隙間を埋めるために篠川朱美を求め、彼女はそれに応えた。
 しかし、篠川数馬は裏切った。
 彼は一時の衝動で妹を抱いてしまったことを恥じ、泣いて取りすがって謝罪した。
 そして言ってはならない言葉を告げてしまう。

「すまなかった。俺は、大切な妹になんてことを──」

 彼女は絶望した。受け入れ、体を開いて尚、愛する人は自分を妹としか見てくれないのだと。
 そうして、彼女は記憶を閉じた。すべてを無かったことにした。
 しかし刻まれた傷は癒えることなく、拒食症に姿を変えて彼女を蝕む。
 篠川数馬は今度こそ『完璧なる兄』を演じきる。妹の拒食症は彼にとっての刻印だ。これある限り彼は罪から逃れることはない──。

 なんて陳腐な物語なのか。とても正視できない。
 しかもこれは僕の解釈であって、数馬さんの解釈はさらに酷い。
 彼は篠川朱美が彼を受け入れたとは考えていないのだ。自分が彼女を犯したという行為によってのみ、彼女が記憶を閉ざしたと考えている。
 少し考えればそんなことはまったくの嘘だと分かりそうなものなのに。
 篠川数馬はどこまでいっても篠川朱美を妹としてしか見ることができなかったということなんだろう。
 彼にとっては僕のシナリオよりも彼のシナリオのほうが居心地がいい……いや、彼が耐えられるギリギリのシナリオがそれなのかもしれない。
 なんにせよ、これですることは定まった。
 これ以上ここにいてもできることは何もない。
 僕には篠川数馬の傷を開く必要もなければ、篠川さんの気持ちを代弁する権利もない。
 いかなる裁きも、いかなる赦しも、数馬さんを救う役に立ちはすまい。なんとも半端な状況だが、僕が欲しかったのは篠川数馬本人による説明だけで、彼を罰する気もなければ、彼を救う気もない。
 この場は、これでいい。
「僕は、今度篠川さんに告白しようと思います。いいですね?」
 答えはない。まあ、かまわないけど。
 兄としての篠川数馬は信用できる。任せても大丈夫だろう。
「それでは」

 篠川邸の外に出る。そこが何処なのかはさっぱり分からないが、さしたる問題ではない。
 途中、タバコの自販機を見つけたのでタバコを買う。
 ピースとホープ、それとラッキーストライク。
 平和と希望。幸運な出会い。
 それらを交互に吸いながら家に向かって歩き続ける。

 状況は最悪で、これからしなくてはいけない事は嘘と欺瞞の橋渡し。
 僕のキャラじゃないとか、僕のノリじゃないとか、言いたいことは数あるけれど。
 ここまできたら何を喚こうともなるようにしかならないのだろう。
 流されるのは流儀ではなかったはずだが、流れに飛び込んだのは僕自身なのだから。
 さあ、言い訳も議論も弁護もなしで、一度目の告白に赴こう。

 それでも、そう決めても、最後の決定的な部分で僕はまだ悩んでいた。
 そして、そんな自分を笑っていた。
 初めての告白に思い悩むなんて、まるで青少年みたいじゃないか?
 こんなに愉快なことはない。

 手は自動的に動いてタバコを吸い続ける。
 脚は自動的に動いて家に帰り着こうとする。
 頭は自動的に動いてこれからのことを考え続ける。

 家の近くでさらに一箱のタバコを買う。
 ジョーカー。

 ──それが僕の選択だった。

 二日後の放課後。僕は篠川さんと向かい合っていた。
「体のほうは、大丈夫?」
「あ、はい。本当なら昨日も学校に行けたんですけど、兄貴がどうしても休んでろって聞かないんですよ」
「それは当然だよ。数馬さんにとっては君はかわいい妹なんだから」
 彼女は苦笑する。僕は彼女の内面を探る。
 表面的な変化はまったくなかった。そう、そこには心配してくれる兄に対する喜びすら、なかった。
 失敗したかな、と思う。
「君が倒れた後、君のお兄さんと君のことについて少し話をしたんだ」
「私について……ですか」
「うん。妹さんをくださいって。本当ならお父さんにでも言うのが正しいのかもしれないけど、一番反対しそうだったのがお兄さんだったから」
 まるで、なんでもないことのように僕は言う。
「……え?」
 固まっている篠川さんと同じように僕は固まる。これで良い。これで僕の体は僕の頭のことなど考えず、昨日馬鹿みたいに反復した台詞を繰り返すだろう。
 まるで人間のように、機械的に微笑んで、告げる。

「好きです。付き合ってください」

 あまりの恥ずかしさに固まっているはずの頭が飛びかける。だがまだだ、まだこれはジャブにすぎないのだ。
 これが道化でなくてなんだというのだろうか。
 だが、僕らにはお互いが必要だ。そのためにはどうしたってこの儀式が必要だ。

「僕は、部活仲間でも同級生でもなく、ただ一人の篠川朱美として君を必要としている」

 言った。遂に言った。そして頭が逝った。
 青汁の数万倍は青臭い台詞だが、彼女にとっては必要な台詞だった。
 既に妹というレッテルによって拒絶されている彼女に、そうではないということを明言しなくてはならなかった。
 いまだ固まったままの彼女の前に立ち、応えを待つ。

 そして──。


 エピローグ 『問いの先にある答え』

「──ちょっと、大丈夫ですか? 生きてますかー?」
「……ま、なんとか」
 後頭部と側頭部が涙が出るほど痛いが、痛みを感じている暇があるうちは大丈夫だろう。
「すいません。少しやりすぎちゃって」
「まったくだよ。起こすならもう少し後にしてくれれば良かったのに」
「は?」
「いや、こっちの話」
 僕は立ち上がって、僕を強打した凶器を睨む。それはあの運命の日に彼女が取りに行った画材道具が詰まった手提げだった。
 彼女は遠心力をうまく利用して僕の側頭部に叩き付けたのだった。
「しかし君は日を追うごとにつっこみが苛烈になっていくな。受ける身としてはそろそろ命の危険を感じるんだけど」
「それなら突っ込まれるようなことをしないでください!」
「何を言う。ボケない僕なんて醤油のない天麩羅のようなものだ」
「私は塩派ですから」
「ぬう……」
 ……あの告白からそろそろ一年が過ぎようとしている。篠川さんの拒食症も少しずつ改善され、前と比べても良く笑うようになった。僕のほうも彼女の明るさに当てられて少しづつ変化している。以前の僕だったらボケやつっこみなんて高等なコミュニケーションはとても不可能だったろうから。
 人の心が変化するのには時間が掛かるのかもしれないけど、一度変化が始まればそう簡単には止まらないということなんだろう。
 それでも、僕がそういう風なコミュニケーションをする相手は、篠川さんただ一人だ。いまの僕なら知らない人相手にもそれなりに会話する能力があるだろうけど、特にそうしなければならない必要は感じない。
 僕はこの状況に、満足している。
 なんと言うか……凄く『健全』な匂いがする。
 どこを切ってもまともでないはずの僕が、まともになれた気がして凄く良い。
 もともとは彼女のために道化になることを選択したはずなのに、いつしか僕も道化を演じることで癒されている。彼女と共に居ることによって記憶の鮮烈さがいつまでたっても喪われないことを願っている。
「そろそろ数馬さんが迎えに来る頃かな」
「あー……。そうみたいですねえ」
「それじゃあ、また明日」
「はい。それではー」
 彼女が部室からいなくなると、僕も帰り支度を始める。
 職員室によって鍵を返し、ついでに思索部の作品を提出する。
 テーマは『私の高校生活』 

 ──そう、神は死んだ。悪魔は去った。神も悪魔もいない世界を僕たちは生きている。
 ぐるぐるぐるぐる続いている世界。終わりは見えないし、辛くもなるけれど。
 それでも、楽しくないわけではないのだ。
 そんな事を考えながら、僕は家に帰った。
 ──世はなべて事もなし。
 神様がいなくたって、僕たちはうまくやっていけるだろう。

 (了)

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