『陽炎の夏』

 直樹が初めて白球を手にしたのは、小学一年生の冬。その頃は恒例だった祖母の家での新年会で、初めて会った従兄にキャッチボールに誘われたのがきっかけだった。
 最初、直樹はそれがどういうものかを知らなかった。今までボールを投げるスポーツはドッヂボールしかやったことがなかったし、それも直樹にとっては、逃げたり当てられたりするだけのスポーツにすぎなかった。手の平に収まるような小さなボールなど、それまで触ったこともなかったのだ。
「俺目掛けて、そのボールを投げるんだよ」
 従兄はそう言って、右手につけたグローブを構えた。
 どうやら、このボールをそこに投げ込むらしい。それだけのことはわかった。そういえば、この間テレビでそんなスポーツをやっていたような気がする。あれは、なんていう名前だったか。
 頭の中で必死にそのスポーツの名前を思い出しながら、同時にその時の光景を脳裏に浮かべる。
 頭の中のスポーツ選手の動きと、自分を重ねながら投げた初めてのボールは、まっすぐに、従兄の構えたミットの中に飛び込んでいった。
 それはまったくの偶然だったが、あの時のことは今でも、鮮明に右手が覚えている。
 一月の乾いた空に響いた音を、耳よりも胸よりも、何よりもこの右手が覚えている。
 それが、それまで部屋の片隅で本を読んでばかりいた少年が、初めてスポーツというものにふれた瞬間だった。
 今でもその時キャッチボールに使った軟球は、直樹の部屋に大切に保管されている。
 四年生になると当然のように地元の野球チームに入った直樹だったが、チームの指導者とは折り合いが悪く、練習のない日はランニングをかねてちょくちょく従兄の家に遊びに行っては、部活の練習で疲れてへばっている彼にせっついて、いろいろなことを教えてもらった。
 直樹にせっつかれると、気のいい従兄はどんなに疲れている時でも、よっこらしょと年寄りくさい掛け声をかけて起きあがり、近くの神社で気がすむまで練習の相手をしてくれたものだった。
 従兄の指導は専らピッチャー絡みのものだったが、直樹はそれに不満を感じたことは一度もなかった。
 チームに入るよりも先にピッチャーとしての指導を従兄から受けていた直樹にとって、野球をすることはピッチャーを勤めることと同義だったからだ。
 野球をすることは好きだった。だがそれは、野球がピッチャーというポジションのある、唯一のスポーツだったからだ。ソフトボールにもピッチャーのポジションはあるが、下手投げしかできないスポーツには興味はなかった。
 極端な話、サッカーやバスケにピッチャーというポジションがあったら、そちらのスポーツにいっていたかもしれない。
 野球選手である以前に、ピッチャーであること。それが直樹にとって、野球をする上で一番重要なことだった。甲子園のマウンドに上がることが望みではない。プロ野球選手になることが夢でもない。ピッチャーでありつづけることこそが、直樹にとっては野球をする理由であり、目的だった。
 本当は、中学二年のあの夏に野球部から退部させられ、突然野球から切り離された時でさえも、それほどのショックはなかった。ピッチャーをやれなくなったということについては、少しばかり残念ではあったが、それは所詮、それだけのことだった。
 だから、あの時山本に向かって言った言葉に、誰よりも驚いていたのは他ならぬ直樹自身だった。
 野球への情熱など、とうに失せてしまっていたと思っていたのに。
 いったい何故、あんなことを口走ってしまったのか。

「それは愛だよ」 
 喫茶店ドトールの、テーブルを挟んだ向かいの席で、アイスコーヒーにガムシロップを入れてかき混ぜながら、中嶋は愉快そうに笑った。
「いいねぇ。まるで思春期の女子高生のようにウジウジした悩みだ。これでおまえがかわいい女だったら、こうして二人っきりで茶を飲んでいる俺には今ごろフラグの一つでも立っていることだろに」
「なに言ってんだ、おまえ?」
 つらつらと、よくわからないことを呟く中嶋の姿になにやら薄ら寒いものを感じながらも、直樹は努めて冷静を装って、肩をすくめてみせた。
「なに、たいした話じゃない。この年になって浮いた話一つ無い妄想男のたわごとだと思ってもらって結構だ。それに、今は俺の話なんぞどうでもいいだろう。重要なのはおまえが野球に対して愛着を持っているかもしれないという驚愕の新事実だ」
「別に驚愕ってほどのことでもないと思うが……」
「驚愕だよ。小学校から野球やってたくせに、その理由が、ピッチャーのあるスポーツだから、なんていうふざけた奴、初めてだ。話聞かされた今でも信じられねぇ」
「そんな珍しい理由でもないだろ。野球やってる奴は誰だって、四番でピッチャーってのに憧れてるわけだし」
「それとこれとは話が別だ。野球選手ってのは、普通は野球をやりたいんだよ。その上で、一番目立てるポジションである四番でピッチャーってのに憧れるんだ。ピッチャー以外のポジションはイヤだ、なんて言ってる奴だってそうさ。連中はあくまで野球をやりたいんだ。それなのに、ピッチャーのポジションがあるスポーツだから野球をやりたいなんて、そんな話聞いたことねぇよ」
「……」
「でもよ、それでもやっぱり、おまえは野球が好きなんだろ。ピッチャーがあるから野球をやっていたとおまえは言う。でも、おまえにとって野球はピッチャーができる唯一の競技だ。同時に、野球もピッチャーを必要とする唯一の競技だ。おまえと野球の関係っていうのはよ、とどのつまりそういうものさ。恋人みたいなもんだな。たとえどんなに無関心を装っても、お互い離れられないようにできてるんだよ」
「そうでもないさ。俺にとってはそうかもしれないけど、野球にとってピッチャーなんてものは掃いて捨てるほどいる。おまえ風に言うなら、俺は野球が持ってるたくさんのキープの中の一人さ。別に俺が野球に必要とされてるわけじゃない」
 直樹は右肘を握り締め、背もたれに体重を預けながら、窓の外に視線を逃がした。そして、自分で吐いた言葉に傷ついている、脆弱な自分の性根が無様に思えて、そっと嘆息した。
 中嶋は直樹の言葉を聞いているのかいないのか、意味ありげな笑みを浮かべて頬杖をつきながらずるずるとストローでアイスコーヒーを啜っていたが、不意に何かに気付いたように、視線を窓の外に移した。
「……おい」
「……?」
 直樹はいったん視線を中嶋に向けてから、中嶋の視線の角度を確認して、改めて視線を中嶋の視線に合わせた。
「あれって、黒沢だよな?」
「たぶん、そうじゃないか」
 中嶋は質問というよりは確認に近い意味合いで訊いてきたが、彼女と初会以来会っていなかった直樹の目から見ても、彼女は明らかに黒沢夏樹だった。数日ぶりに見かけた彼女は制服姿ではなく、薄手の白いワンピースを着ていた。
 彼女は初めて直樹と出会った時にしていたような据わった目で、自分に話し掛けてきた、いかにも軽薄そうな男を睨んでいた。相手の男はそんなことにまったく気付いていないのか、なにやら身振り手振りを交えながらせわしく口を動かして彼女を口説いている。もっとも、男の言葉が彼女を口説くのに役立っていないことは、窓越しにでもはっきりと伝わってきた。
「助けに入った方がいいか?」
「必要無いんじゃないか? そのうち離れてくだろ」
 ナンパ師という人種は、自分が口説いている女に脈が無いとわかると、その女のことは諦めて次の標的を探すという習性を持っている。空き巣泥棒と同じで、獲物はそこら中にあるのだから、わざわざそのうちの一つに固執する必要が無いのだ。
「危なくなったら出てけばいいさ」
「危なくなってからじゃ遅いかもしれないだろ」
「そんなに心配なら、行ってきたらいいじゃないか。フラグでもなんでも立ててこいよ」
 直樹はひらひらと手を振って中嶋を促した。自分の投げやりな言動に、中嶋が顔をしかめているのには気付いていたが、それも無視して野次馬根性で黒沢のナンパへの対応を観察していると、
――ヤバイかもな。
 そんな思いが頭を過った。
 ナンパ師は誘いに付いて行った後のことは別にして、街中で声をかけてきただけのうちは、比較的安全な人種だ。だが、彼らだって素が人間である以上、プライドを傷つけられれば怒る。基本的に、笑って『急いでるんです』とでも言って足早にその場を去れば問題無いのだが、今の黒沢のように黙って立ちすくみ、相手を睨み据えているような対応は、ナンパ師としてはこっちが必死にしゃべっている分、ひどくむなしい。たいていはそれでも安全なのだが、ごく稀に、往来のど真ん中でも平然とキレる、忍耐力が無いというか、衆目を気にしない無神経で粗野なバカがいるのだ。
「あ、やべ」
 中嶋が呟いた。
 見ると、ナンパ師は黒沢の手首を掴んで、なにやら歯をむき出して叫んでいた。周囲の人達はその光景を視界に入れながらも、厄介ごとに巻きこまれるのを怖れてか足早に立ち去っていく。
「まずいぞ、竹井。助けに行こう」
「ああ、いってらっしゃい」
 投げやりに言って、中嶋のほうを見もせずに手をヒラつかせると、なにか信じられないことでも聞いたかのように、見開かれた中嶋の目がこっちを向いた。
「なに?」
「厄介ごとは御免なんでね。行くなら一人で行ってくれ」
「おまえ、そんな男だったのか?」
「野球部員はケンカができないんだよ。高野連から通達がきて、試合に出場できなくなっちまう。いくら俺でも、金属バットで武装した運動部員達を敵に回す勇気はないよ」
「本気で言ってるのか?」
「まだ死にたくはないんでね」
「……臆病者」
 怒りで肩を震わせながら、中嶋は勢いよく両手をテーブルに叩きつけて立ちあがった。店内の客の視線が、いっせいに二人に寄せられた。
「もういい。おまえなんかには頼らん」
 言い残し、中嶋は早足で店の出入り口に向かって歩いて行った。
 その背中を見ながら、直樹は口の中でだけ嘆息した。どうもうちの学校の連中は、短気なやつばかりでいけない。
 直樹も席を立って、あわてて店を出ていく中嶋の背中に向かって声をかけた。
「中嶋」
 ドアノブを掴んだまま振りかえった中嶋の、期待と不安と怒りが入り混じった瞳に向かって、直樹は笑って言った。
「喧嘩するなら、缶コーヒーを買っていったほうがいいぞ。スチール缶の角は結構凶器だからな」
 バタンッ、とデカイ音を立てて扉が閉まって、店内の客が驚いたように肩を縮めた。店の入り口で揺れながら鳴っている鈴を眺めながら、直樹は苦笑を漏らした。それからポケットの中で小銭を握り締めて、静かに店を出た。

 店の外に出ると、蒸せ返るような熱気に満ちた青空といっしょに、セミ達の合唱が迎えてくれた。
 中嶋とナンパ師は往来の真ん中で元気に大声でなにやら言い合っていた。行き交う人ごみの流れが、その一角だけモーゼの導きよろしくパックリと裂けている。黒沢が先ほど掴まれていた手首を、反対の手で抑えて、怯えるよう身をすくませているのが目に入った。
 相手を睨みつけている鋭い目つきは相変わらずだったが、そんな仕草を見せられると、やっぱりあいつも女なんだな、と感じてしまう。
――っと、そんな場合じゃなかったな。
 往来で言い合っているナンパ師と中嶋の雰囲気は、険悪を通り越してすでに危険ですらあった。
 止めようと思った矢先、ナンパ師が中嶋の鼻っ面をぶん殴った。
 中嶋の上体が反り返って、太陽で熱されたアスファルトの上にがっくりと膝がついた。
「あ~あ。なにやってんのかね」
 中嶋の反射神経なら、今のは十分に避けられたハズだ。まさかあの男がこれ程度の状況で緊張しているとも思えないから、正当防衛でも狙っていたのだろうか。だが、それにしては貰い方がまずかったようだ。捌くのに失敗したのかどうか知らないが、アレは完璧に入った。即座に体勢を立て直すには、少々難儀なほどに。
――しかたねぇなあ。
 深呼吸を一つして、直樹は走り出した。ナンパ師はさらに中嶋に殴りかかろうとして、一歩を踏み出し腕を振り上げる。
 人ごみを掻き分けて騒ぎの場に飛び込むと同時に、直樹は叫んだ。
「どけっ!」
 何事かと振りかえったナンパ師の顔面に、小銭を握りこんだ左拳を思いきり叩きつけた。続けざま、後ろによろけたナンパ師の右手を掴み、強引に引っ張りながら膝を踏み抜く。衝撃を後ろに逸らせないような体勢を形作ったあとで、改めて左手で、男の顎を打ち抜いた。
 多少は手加減したつもりだが、それでも拳には骨に当たる感触がしっかりとあった。よろける男の鼻っ面に、とどめの肘打ちを叩き込む。そのままダメージの確認はせずに、直樹は道でうずくまっている中嶋にむかって叫んだ。
「シマ、逃げるぞ、こい! サワ、おまえもだ!」
 二人を苗字の後ろだけで呼んだのは、どこで誰が見ているともわからなかったというのもあるが、一番面倒なこのナンパ師に名前を覚えられるのがイヤだったからだ。
 中嶋は鼻っ面を抑えながら自力で立ちあがったが、黒沢の方は依然怯えたように身をすくませているだけだった。その瞳に、もう先ほどのような鋭さがないことに気付いて、直樹は舌打ちした。
「こいッ!」
 中嶋の尻を蹴っ飛ばし、黒沢の腕を強引に掴んで直樹は全速力で走り出した。
 野次馬のたむろする人ごみのすぐ後ろから、遅れてきた警官達の姿が見え隠れしていた。

 地下に続く階段を駆け下り、ショットバー『水蓮』の扉を開けると、二人は転げ込むように店の中に入った。カウンターの中でグラスを磨いていたバーテンが驚いたように目を見開いたが、彼は駆けこんできた客の一人が直樹であることに気付くと、やがて呆れたように嘆息した。
 直樹は深呼吸を一つしてバーテンの方に向き直り、小さく手を挙げて、久しぶり、と挨拶した。
「まだ開店時間には早いんだがな」
 白髭を生やした初老のバーテンは、のんきな笑みを浮かべる直樹を一瞥して言った。
「そう言わないでくださいよ、先生。今ちょっと外で喧嘩してきちゃって」
「……またか」
 ため息をつきながら、バーテンは磨き終わったグラスを棚に戻した。
「またか、はないでしょう」
「今年に入って、おまえ何回ここにきた?」
「えっと……」
「十二回だ。だいたい半月に一度は街で喧嘩してここに逃げ込んできてる計算だぞ」
「喧嘩して逃げ込んだのは、まだ二回目ですよ。あとは全部、先生の顔がみたくてきてるんですから」
「調子のいいこと言いおって」
「ほんとうですって」
「ふん、まあいい。で、あそこの嬢ちゃんはいったいなんだ? 誘拐でもしてきたのか」
「まさか。誘拐されそうなところを救出したんですよ」
「ほう、珍しいな。おまえが人助けなんかするとは」
「まあ、学校の後輩ですから」
 からからと笑って、直樹はカウンター席に腰を下ろした。回転椅子の上でぐるりと腰を回し、身体ごと扉のところでへたり込んでいる黒沢に向き直る。
 床にへたり込んだままの姿勢で、彼女は息ひとつ乱していない直樹をなにやら恨めしげに睨んでいたが、敢えて気付いていないふりをして、直樹は笑いかけた。
「ほら、いつまでもそんなとこに座り込んでないで、こっちこいよ。服が汚れるぜ」
「……せんぱい、どうしてそんなに元気なんですか?」
「……? なにが」
 質問の意味がわからず、直樹は首を傾げて訊き返した。
「あそこからここまで全力疾走してきて、息ひとつ切らしてないなんて、どういう生物なんですかって訊いてるんです」
「あ、先生。悪いけどこいつにミルク入れてくれる? 俺はビールでいいや」
「せんぱいっ!」
「なんだよ、もう。そんなの俺が運動部員だからに決まってるだろうが。一キロや二キロ走ったところで、そうそう息なんか切らさねぇよ」
 あっさりと返されて、黒沢はうっと言葉を飲み込んだ。実際、直樹としてはそれほど急いで走ったという気持ちはない。だいいち、ヒト一人引きずって人ごみをかき分けながら逃げてきたのだから、それほど速く走れるはずもない。黒沢が速いと感じたのは、単に彼女が運動に不慣れなためだろう。
 カウンターに二つのグラスがそっと置かれる。中身が二つともミルクだったが、はじめからわかりきっていたことなので、直樹は敢えて反論はしなかった。きっと、おそらくは自分が成人したあとでも、このバーテンは酒を飲ませてはくれないだろうから。
 苦笑して、直樹は椅子から立ちあがった。そして、いまだ入り口のところでへたり込んでいる黒沢のところまで歩み寄って、手を差伸べる。
「ほら、さっさと起きろよ。もう大丈夫だろ」
 不承不承といった感じで差し出した手を掴んできた黒沢を、直樹はよっ、と引き上げるように立たせた。手近な椅子にいったん座らせて、カウンターからミルクの入ったグラスを持ってきて、テーブルの上に置いてやる。
「それ飲んで、すこし落ちつけ」
「……すいません」
「気にするな。店のおごりだ」
 カウンターの奥からバーテンがものすごい勢いで睨んできたが、このところその手の視線には耐性がついたのか、直樹はにっこりと笑い返して、懐から携帯電話を取り出した。
 着信メールは一件だけ。送信者もメールの内容も、直樹の思った通りのものだった。
『我無事帰還』
 たった五文字だけの、これ以上ないほどに簡潔なメール。中嶋からのメールはいつもこんな具合だった。逃げている途中ではぐれたので心配していたのだが、するほどでもなかったようだ。
 苦笑いを浮かべて、隣でミルクを飲んでいる黒沢に言ってやる。
「喜べ。中嶋は無事に家に帰ったそうだ」
 それを聞いて、黒沢の口から安堵のため息が漏れた。
「よかった……安心しました」
「これからはなるべくナンパ野郎の対応には気をつけろよ。笑って『急いでます』っていえば、大抵何事もなくすむんだから」
「……努力します」
 グラスを両手で握り締めながら俯いて、彼女は力なく呟いた。
 ひょっとしたらこの後輩は、人と打ち解けた会話をするのが苦手なのかもしれない。
 なんとなく、直樹はそんな感想を抱いた。
 感情を素直に表に出すことができない人間というのは、今の世の中、いすぎるほどいるものだ。小さい頃からそういったことを苦手なままにしておくと、大人になってもうまくできないままになるのではないか。
 思ったが、敢えて訊くことはしなかった。先輩後輩の間柄で訊くには質問の内容が不躾に過ぎたし、知り合いの間柄で訊くには二人の関係は浅過ぎた。
――まあ、べつにいいけどよ。
 実際、どうでもいいことだったので追求はしなかった。
「でも、どうしてあんなところにいたんだ。なにか用事でもあったのか?」
「近くのデパートが、美術展をやってて。好きな画家の絵が展示してあるらしくて……」
「ああ、そういえばそんなのがあったような気がするな。でも念のために二、三日はあそこらへんは行かないほうがいいぞ。ここらのナンパ師は餌場を決めてるヤツが多いからな。鉢合わせたりしたら大変だ」
「そうですね。しばらく、あの近くには行けそうにありません」
「そうした方が無難だな」
 大仰に頷いて、直樹はミルクを一口啜った。

 テーブルに肘をつき、薄暗い店の天井を眺めながら、どれだけそうしていただろう。
「あのう、先輩」
 声に反応して横を向くと、どこか遠慮がちな黒沢と目が合った。
「うん?」
「週末の試合、出るんですか?」
「何でおまえがそんなこと訊くんだ?」
「明美が心配してボヤいてましたから」
「だれだそれ?」
 とっさに顔が思い出せずに、直樹は訊き返した。
「望月明美ですよ。野球部のマネージャーのちっちゃい子」
「……ああ、あいつか」
 そこまで言われて、直樹はようやく、数日前屋上に自分を呼びにきた一年生の後輩の顔を思い出した。いや、思い出したというのは正確ではないだろう。ちゃんと覚えてはいたのだ。ただ、下の名前を知らなかっただけの話だ。
「へえ、おまえあのマネージャーと知り合いだったんだ」
「クラスが同じなんです」
「ふうん」
「それで、どうするんです? 出るんですか、出ないんですか?」
 何故か問い詰めるような口調で、黒沢は直樹を睨みつけてきた。
「出るわけないだろ」
 肩をすくめながら簡単にそれだけを言うと、黒沢の切れ長の目が、大きく見開いた。
「なんだ。その意外そうな顔は?」
「だって、むこうは先輩が投げることが試合の条件だって」
「ああ、そうさ」
 直樹はあっさりと頷いた。
「だが、だからといって俺がわざわざ出張ってやる理由がどこにある? 俺が投げなきゃ試合をしないと言ってきたとしても、それはむこうさんの勝手で、俺には何も関係ない話なんだぞ」
「それじゃあ、本当に出ないんですか?」
「……ああ」
 直樹は黒沢を見ずにぶっきらぼうにそう告げてから、グラスに残っていたミルクを一気に飲み干し、そっと自己嫌悪した。
――なにを俺は、後輩に鼻息荒くして捲くし立ててるんだ。
 黒沢の方も、なにも好きでその話題を口にしたわけではなかっただろう。単に会話のネタがなくなって、同級生と交わした会話を口にしただけに過ぎないかもしれないのだ。
 どうもいけない。野球の話題になると自分は平静でいられない。いったいどうしたというんだろう。ここにもし中嶋がいたら、やっぱりさっきと同じことを言うんだろうか。
 笑いを噛み殺そうとして失敗したような、愉快げな苦笑いを浮かべて、『それは、愛だよ』と?
 馬鹿々々しい。だがそう笑い飛ばすには、直樹は自分の気持ちの整理があまりについていなかった。
 山田が野球部を創ってから、自分の気持ちは乱されっぱなしだ。空っぽになったグラスの底を睨みつけながら、直樹はもう何度目になるかわからないため息をついた。
「……なあ、黒沢」
「はい」
「おまえは、いつ画を辞めるんだ?」
「……え?」
「おまえ、本当は画が好きじゃないだろう」
 言った瞬間は、自分でも馬鹿なことを言っていると思った。
 美術部の特待生をつかまえて、画が好きじゃないだろうも何もないもんだ。だが、言われた当の本人は、まるで豆鉄砲を食らったハトみたいな顔をして、直樹の横顔を呆然と眺めていた。
「……せんぱい」
「うん?」
「何で、そう思うんですか?」
 かすかに震える声が、人気のないバーの闇に吸い込まれた。
「なんとなく、かな」
 嘘だった。本当はこの間美術室で見た彼女に画が、中嶋が絶賛する技術的な面とは裏腹に、どこか喪失感を感じさせる物だったから、思わずそう訊いてしまったのだった。だが、専門家どころか小学校以来画など描いたこともない身分で、そんなことを言うのは憚られたから黙っていた。
「なんとなく、ですか」
 そう呟いた黒沢は、どこか落胆しているようだった。
「ああ。そもそもつまらない質問だった。悪かったな」
「いえ、別に構いませんけど。……でも、先輩」
「あん?」
「先輩は、どうして野球を辞めたんですか」
 グラスを睨んでいた目で天井を仰ぎ見て、今度こそ直樹は口に出して大きくため息をついた。
 つい一昨日、まったく同じ質問を幼馴染からされたばかりで、今度はその時と違う答えを、言いたい気分になっていたからだった。
 何とか適当な答えでお茶を濁そうと思った矢先、準備中の札が下げてあったはずのドアが開いて、まだ白んだ逆光の中から、見知った男が入ってきた。
「……きたむら」
 誤魔化しを口にするはずだった直樹の口から、男の名が漏れた。

 男――北村俊哉は店内を軽く見まわした後、奥のテーブルで座っている直樹に目を止め、迷いのない足取りで二人のいるテーブルの前にやってきた。
「久しぶりだな。ここ座るぞ?」
「帰れよ」
「オイオイつれないな。友達だろ?」
「ここは高校球児がきていい店じゃないんだぜ」
「恩師の経営している店に遊びにきただけだ。開店前には帰るよ」
 そう言うと、北村は直樹の返事も訊かずに近くのテーブルから椅子を引っ張り出して勢いよく腰を下ろした。
 名門校の一軍ピッチャーを勤めるこの男が、どうして真昼間から繁華街のはずれにある開店前のバーにきたのか、直樹にはまったくわからなかった。まさか、本当に小学校時代の恩師の顔を見にきたというわけでもあるまい。間に挟まれる形になった黒沢が、戸惑った目で二人を交互に見ていたが、それに構ってやれる余裕もなかった。
「そう強張るなよ。本当はな、先生に呼ばれたんだ。おまえがきてるって」
 直樹は思わず、カウンター奥で着々と開店の準備をしているバーテンを睨みつけた。彼は直樹の視線など気付いていないかのように、口笛など吹きながら呑気にグラスを磨いていた。
「そんな顔するなよ。言われなくてもすぐ帰るから。今日ここにわざわざきたのは、まあ、宣戦布告ってやつだな」
「宣戦布告? なんの」
「とぼけるなよ。週末の練習試合、俺が投げるからな」
「おまえが!?」 
 たまらず、直樹は叫び声を上げた。
「だって、県大会はどうしたんだよ。おまえレギュラーだろ」
「今回は外された。予選前に足首捻挫してな。背番号争ってた三年の先輩にやられちまった」
「外されたって、おまえ甲子園投手だろうが」
「まだ二番手投手だよ。エースは三年生のキャプテンさ。ま、来年にはそのポジションは貰う予定だけどな。そんなわけで、今年の夏は予定が空いちまったんだ。右腕の方はいい加減試合をしたくてウズウズしてるんだが、練習試合の予定は週末の二軍のしかなくってな」
「……要するに、俺はおまえの憂さ晴らしの相手に選ばれたってわけか」
 皮肉たっぷりに口の端を引きつらせて言っても、北村はこたえた様子もなくあっけらかんとした笑顔でまあな、と頷いた。
「そういうわけで、悪いが再起戦は飾らせないぜ。勝つのは俺だからな。逃げるんじゃないぞ……ところで」
 北村の目が、その時初めて、二人の間でおろおろしている黒沢をとらえた。
「このかわいい子は誰だ? いい加減紹介しろよ」
 無邪気な子供じみた笑顔で訊いてきた。
 一方の黒沢も、知らない男がいきなりきたこの状況についていけない様で、直樹に説明を求める視線を送ってきた。
――しょうがねぇなあ。
 苛立たしげに頭を掻き毟りながら、直樹はため息混じりに黒沢を指差して、北村に言った。
「こいつは学校の後輩で、黒沢。事情があって、さっきそこで拾ってきたんだ」
「へえ~黒沢さんっていうのか。よろしく」
 北村がさわやかな笑顔を浮かべて差し出した手を、黒沢はどこかギクシャクとした緊張した仕草で握り返した。
「で、黒沢。こいつ、北村俊哉。俺の幼馴染。さわやか青年もどき。気を許すと貞操が危険にさらされるから、気をつけるように……あたっ!」
 黒沢と握手していた手を離して、北村の右手が直樹の頭をポカンとたたいた。
「なにを人聞きの悪いことをいってくれてるのかな、君は?」
「何を言う。俺は学校の先輩として後輩の身を案じて……あ、イタッ! ヤメロ、コラッ、キサマ、なにをする!」
「ええ~と、黒沢さん? 俺とこいつの関係は、まあ、こういう冗談を言い合える仲だと思ってくれていいよ」
「でもおまえが危険だっていうのは本当、グポッ!」
 蹴られた。椅子の下から伸びてきた足が、薄明かりの中の直樹の顔面を的確に捉えた。
「おまえは何か俺に恨みでもあるのかい?」
「……現在進行形で増殖中だよ、コノヤロウ」
 赤くなった鼻っ面を抑えながら、涙目になって直樹がうめく。
 そんな二人の漫才のようなやり取りを見ながら、黒沢はなにか納得したように何度も深く頷いていた。
 
「それじゃあ、俺はそろそろ帰るよ。お邪魔しちゃ悪いからな」
「おう、帰れ帰れ。さっさと帰ってせいぜい葵と乳繰り合ってろ」
「ああ、そうさせてもらうぜ。じゃあな。今度はみんなで飲みに来ようぜ」
「高校球児だろうが、おまえは」
 呆れたような直樹の呟きはあっさりと無視して、北村はまた来た時と同様に、白んだ逆光に消えていった。
 扉の閉まる音と入れ違いに訪れた静寂の中で、直樹は今日一番のため息をついた。
 正直、嫌いではないが、苦手な相手だった。初めて知り合ったのは小学校の頃なので、付き合いはもうずいぶんになるが、どうも調子が合わない。野球というきっかけがなければ、おそらくはずっと関わり合う事もなかっただろう。
「まったく、ふざけたマネしてくれるよな」
「でも、仲いいんですね、先輩たち」
 心の底から羨むような目で、黒沢は直樹を見た。
「わざわざ試合前に挨拶にくるなんて」
「ん? なんだおまえ、あいつの宣戦布告が試合のだと思ってたのか?」
「……? ちがうんですか?」
 怪訝そうに首を傾げる黒沢に、直樹はなにかを言いかけて、やめた。だいたい、黒沢の知りうる理由ではないのだ。わざわざそんな話題を自分で蒸し返すのも馬鹿らしく思えた。
「なあ、黒沢。おまえマネージャーと友達なんだろ?」
 答える気がないということを気配で察したのか、黒沢は重ねて訊いてくることもなく答えてくれた。
「一応、電話番号は知ってますけど」
「山田のは?」
「知りませんよ。私、野球部の関係者じゃないんですから」
「それじゃあ、悪いが伝言頼む。週末の試合に向けて調整したいから、明日はグラウンドに集まっとくよう、部員達に伝えてくれ、ってな」
「先輩、試合出るんですか?」
「まあ、あいつが投げるとなるとな」
 予想外の事態に目を丸くして自分を見てくる後輩に目を合わせようともせず、直樹はジッと、北村の出ていった扉を睨みつけていた。
『再起戦は飾らせないぜ』
 さらりと言ってのけた最大級の宣戦布告が、脳裏によみがえる。
――ふざけやがって。
 逃げるなだと。馬鹿にしてくれる。いいぜ。やってやるよ。中学時代にやり残した、唯一の気がかりだ。
 心の中で左中指を突きたてながら、声に出さずに、直樹は呟いた。
 今度こそ、叩き潰してやる。

(つづく)

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