『午前二時の使者』

          1.

 ちく、たく、ちく、たく、ちく、たく、ちく、たく……。
 時計の針に、追い詰められる。
「はい、はい、ええ、ええ、必ず明日の十二時までには……」
 携帯電話を握り締め、トキは相手に見えるわけもないのに、深く何度も頭を下げた。
 ベテランの編集者は締め切り破りなど慣れた様子で、では明日の正午に、と事務的に告げて電話を切った。
 ぱたん。
 携帯を閉じ、軽い八つ当たりを込めてこたつの上に投げ出す。
 開いたノートパソコンの、液晶画面には真っ白なままのワードのウインドウ。
「明日の昼までに……」
 今は午後五時三十分。
「……書けるかよ!」
 座イスの背にもたれかかって、トキは溜め息をついた。頭の中はいっそ清々しいくらいに真っ白、キーボードに指を据えてみたところで、きれいな文句のひとつも浮かんではこない。
「畜生め!」
 いらいらと頭を掻く。わかっている。書けるとか書けないとか、そういう問題ではない。書かなくてはいけないのだ。
 何も難しい仕事ではないはずだ、原稿用紙五十枚かそこらの、評論だ。
 評論。小説で許してもらえないかな、トキの脳裏に現実逃避めいた考えが浮かぶ。だけどそんなことが許される訳はない。
 トキは腹をくくり、とりあえずキーボードを叩き始める。
 ちく、たく、ちく、たく。
 一人きりの部屋の中、壁にかかった時計の音が、ひどく大きく聴こえる。
 窓から見える街の景色は、瞬く間に夕闇の中へ沈んでいく。
 こんな時、時計の針はいつもより少しだけ早く動くのだ。そう、全く憎らしい話だけれど。
 ちく、たく、ちく、たく……。
 七時三十分、トキは幽霊みたいに上の空で、コンビニで買ってきた弁当を冷蔵庫から取り出し、暖めもせずに膝の上で食べる。
 右手で黙々と箸を動かしながら、視線は液晶画面に注いだまま。
「――それゆえ、この今はまだ若いつぼみのような才能が開花するのは時間の問題といえるだろう――」
 十枚。まだほんの十枚しか書いていないのに、すでに書くことが尽きつつある。
 ――最も、ほとんど興味の無い分野の話だ、書きたいことなんて最初から無いのだけれど。
 空になった弁当箱を床に放り出し、トキは無意識のうちに右手を伸ばして、こたつの上にマルボロの箱を探す。
 だけど、見つからない。
 彼が禁煙を始めてから、すでに二週間が経過していた。
 短く舌打ちをする。キーボードに乗せた指はそれきりふっつりと動かなくなってしまい、トキはいらいらと頭を掻いた。
 煙草の代わりに、ポータブルラジオのスイッチを入れる。ボリュームを上げて適当にチューニングを合わせると、雑音の中からグウェン・ステファニーの妖艶な声が浮かび上がってきた。
 アップテンポなメロディに乗せて、歌っている。
 あなたは何を待ってるの?
 ――俺はミューズを待っている。しかし創造の女神は、千年待っても彼の許には下りてこないような、そんな気がした。
 ちく、たく、ちく、たく。
 時計の針が追い詰める。


          2.

 けたたましい電子音が、浅い眠りを突き破った。
 毛布から伸びたトキの腕は、二、三度何もない床の上を叩いてから、目覚し時計をつかんで引き寄せる。
 午前二時。
 トキは小さく欠伸をしながら、起き上がる。
 暗い部屋の中はしいんと冷え切っている。つけっ放しの液晶画面が、ぼんやりと青白い光を放っていた。
「――のは時間の問題といえるだろう。が、しかしそのためには、やはりクリアしなければならない問題が山積しているわけで、これは私自身にも言えることなのだがまずひとつめは知識の問題だろう――」
 結局、ミューズは降りてこなかった。
 溜め息は白かった。
 煙草を買いに行こう。トキは思った。
 星も月もない、深い夜だった。住宅街は眠りの底に沈んでいる。
 明かりの灯った窓は無く、ただ街灯の冷たいさみしい光だけが、道路の両側に整然と並んで闇を照らしている。
 四月とはいえ、深夜の大気はジャンパーに染みる冷たさだった。白い息を吐きながら、トキは何となく足音をひそめて歩いた。
 昼間見慣れているはずの町は、夜の静けさの中ではまるで知らない場所のように思える。家々は大きな黒い影。何の音も聴こえない、動くものもいない、時間の止まってしまったような、夜。
 だが二十四時間営業のコンビニはそんな夜を引き裂いて、不動産屋の角を曲がった辺りに煌々と光を撒きちらしながら建っている。
 はずだった。
「あれ……?」
 トキは立ち竦んでしまった。
 ちろ、ちろ、点滅する街灯の明かりの中に、コンビニは影も形も無かった。
 そこには、ただ広い空き地があるだけだった。剥き出しの土に、背の低い雑草がまばらに生えている。
「え……?」
 昨日の朝、彼はここでおむすび二つと弁当を買った。少なくともその時までは、コンビニはごく普通に営業していた。閉店する旨を報せる張り紙があったわけでもなく……大体、取り壊すその日の朝まで営業している店舗なんてあるだろうか?
 柔らかい土を踏んで、空き地に入る。
 もしかしたら場所を勘違いしているのかもしれない。通りを一本間違えて曲がった、とか。何せ深夜の通りは、まるで見知らぬ道なのだ。
 ジャンパーのポケットに両手を突っ込み、トキはぐるりと辺りを見回してみる。
 と。
 ふと。
 空き地の隅から何か、視線を感じたような気がした。
「……」
 トキは思わず後ずさる。
 闇の中から、二つの銀色に光る目が、こちらをじろりと眺めていた。
「……猫?」
「失敬な!」
 甲高いしわがれ声がして、何かがごそりと立ち上がる気配。
 トキはもう二歩ほど後ずさった。
 今にも切れそうな街灯の明かりの下に、軽やかな足取りで飛び出してきたのは、トキの腰ほどの背丈をした老人だった。
「このわしを猫呼ばわりとは、まったく近頃の若い連中はろくに何も見えとらんの」
 きいきい声で不平をこぼす、老人の顔立ちはどう見たって東洋の人間だったけれど、ぎょろりと大きな目だけが硝子のように蒼い。異様なのはその格好で、闇に溶ける黒の揃いをまとい、紅いリボンを巻いたシルクハットを被っている。長く伸ばした白髪は頭の後ろでひとつにまとめているようだった。
 トキは昔読んだ本にあった、頭のおかしい帽子屋の挿絵を思い出した。一年中お祭騒ぎばかりやっているいかれた帽子屋。まったく、老人のイメージは彼にぴったりだった。
「お前さんここにあった店を探しとるんだろ」
「え、ええと、いや、その……」
 どうすればいいのかわからない、トキの視線は宙を泳ぐ。
「遠慮せんでええ」
 老人の皺だらけの顔に笑顔が浮かぶ。それは奇妙に人懐こく、まるで子供のようにも見える。
「残念じゃが今コンビニは留守じゃ。今の時間がわかるかの? 二時! そう二時じゃ。泣く子も黙る丑三つ時。大体切れた煙草でも買い足しに出てきたんじゃろうが、午前二時にこの界隈を出歩いて目的地を見つけるのは素人には至難の技じゃて、そら、わしについてくるといい」
 そう云うと老人はちょこちょこと空き地を出て、しんとした夜道を歩き始める。
 途中でちょっと振り返り、
「どうした? 来んのか」
 果たしてついて行くべきなのか、トキは軽く悩んだが、結局老人に従った。
 一度歩き出すと、老人はふっつりと黙ってしまった。
 濃い闇の中を、二人分の足音が響く。
 かつ、こつ、かつ、こつ、かつ、かつ、かつ……。
 前へ進めば進むほど、周囲の闇は密度を増し、街灯の明かりはそれに比例して、だんだん輪郭を失っていくよう。
 もう、ここは完全に知らない場所だった。
 こつ、かつ、かつ、かつ、こつ、かつ、かつ……。
 時々、家々の間の特に闇の溜まった場所から、あるいは不法投棄された粗大ゴミの影の中から、息をひそめて、いくらかの輝く瞳がじいっとこちらを見ているような気がした。
 トキは不安に駆られたが、足を止める事は出来なかった。立ち止まれば前を行く老人にあっというまに置いていかれるような気がして、その方がもっと恐ろしかった。
 夜はいよいよ深く、腕を動かすと闇が女の髪のようにまとわりつく。明かりはまったく役に立たなくなり、遠くの方でゆらゆらとか細く揺れるだけ。
「大丈夫かいの?」
 老人の脳天気な声が聞こえる。
「大丈夫……です」
 トキは自分の声をどこか遠くで聴いていた。頭の中に霧がまとわりついたようで、ひどく酔っ払っているような、あるいは海の底を歩いているような、奇妙な心持ちだった。
 どこをどう歩いたのか、ふと気が付くと、トキは蛍光灯の輝くセブンイレブンの前に立っていた。
「ここじゃ」
 老人は芝居がかった仕草で右手を伸ばした。
「……ええと」
 トキは軽い吐き気を覚えた。
 このセブンイレブンはまるで凸レンズを通しているように、縦に長く歪んでいる。
「大丈夫ですか? 何か、入ったっきり出て来れなくなりそうなんですけど」
「お前は面白いことを云うの」
 老人がにんまりと笑った。
 トキが一歩足を踏み出すと、おそろしく細長い自動ドアがゆっくりと開く。
 いらっしゃいませー。
 愛想の良い声は、今は聞こえない。
 真っ暗闇から急に光の中に入ったので、周囲が白くにじんで見える。店の中は全部、ずらりと商品の並んだ棚も、やはり縦に引き伸ばされたように見えていた。
 船酔いを起こしつつ、トキはレジへ向かう。
 店員はにゅうっと背の高い影法師だった。制服も何も着けていない。背丈が、トキの三倍はありそうだ。
「ええと……」
 自分の声がひどく間延びして聞こえる。
「マルボロ……」
 すると影法師はのろのろと背後の棚からマルボロの箱を掴み、長い腕でトキに渡した。
「……」
 トキものろのろとそれを受け取り、のろのろとジーパンのポケットから財布を取り出して支払いを済ませる。そしてまた船酔いを起こしながら、店の出口まで歩いた。
「……はあ」
 一歩外へ出るなり、トキは大きく息を吐いて、路面にへたりこんだ。
「疲れる……!」
 もう二度と、店の方を向くことは出来なさそうだ。
 老人は彼を見下ろし、からからと朗らかに笑った。
「たしかに昼間の人間には辛いじゃろうな」
「こんなの普通じゃない……」
 トキが頭を振って呟くと、老人は今度は怒った。
「軽率なことを云う奴じゃの。わしらから見れば、お前らの居る世界のほうが異常じゃわい。何せ明るすぎる、全てがはっきりしすぎとる。あんな場所で何事もなく暮らせるお前らはどう考えてもおかしいと思うがの」
 トキはもう、何を言い返す気力も無かった。
 買ったばかりのマルボロを一本取り出し、ライターで火をつけ、紫煙を大きく吸い込む。
 慣れた煙草の味が肺いっぱいに広がって、するとほんの少しだけ、頭がすっきりするような気がした。
 ゆうらりと立ち昇る煙は、闇の中に溶ける一瞬の間に、無数の蝶の群れや細かい幾何学模様になった。それは美しい幻影だった。
「ときに若いの」老人が云った。
「今何時かの」
「わかりません」トキはぼんやりと答えた。「二時……四十五分……くらいかな」
「そいつはまずいの」
 老人はのんびりとした口調で云った。
「二時が終わるまでに戻らないと、つまり三時になる前じゃな、お前は帰れなくなるぞ」
 当然ながら、それを聞いたトキは真っ青になった。
「早く言って下さい!」
「走るぞ!」
 一声叫んで、老人が転がるように駆け出す。トキも慌てて煙草を投げ捨て、後を追った。
 その後どこをどう通ったのか、やはり、気が付いたらアパートの前にいた。
 ほんの一時間かそこらしか経っていないのに、我が家はひどく懐かしい場所に見えた。


          3.

 胸を締め付けられるような郷愁で、目が覚めた。
「……」
 天井を見つめたまま、トキはしばらくぼんやりとしていた。なんだかとてもおかしな夢を見ていた。その残りかすがまだ、頭の中を巡っている。
 夢の名残を追い出すのに、しばらくかかった。
 トキは枕元の目覚し時計を掴んで、引き寄せる。
 午前六時。
 外はもうすっかり明るい。
「寝すぎだ……」
 トキはのっそりと起き上がり、背伸びをする。
 昨日晩買ってきたマルボロはどこへ置いたろうかと考えてから、それもまた夢だったことに気が付いた。まだ現実に戻りきれていないなと、トキはしかめ面で頭を振った。
 目覚ましがてら、朝飯を調達に行こう。
 ついでに、煙草も一緒に買ってこよう。
 禁煙の意思はすでに、どこか遠くへ吹き飛んでしまっていた。
 トキは洗面所に行って軽く顔を洗った。鏡に映った顔色は悪く、どう見ても健康な若者とは云えなかった。目の下に隈が出来ている。
 それから歯を磨き、手早く着替えてジャンパーを羽織ると、ジーパンのポケットに財布を入れて部屋を出た。
 よく晴れた明るい朝だった。出勤するサラリーマンや、犬の散歩をする女性の姿があった。朝早くから部活らしい、ジャージを着た高校生の集団が、賑やかに笑いながら通り過ぎていく。
 不動産屋の角を曲がった所にセブンイレブンがあった。
「いらっしゃいませー」
 店員の明るい声に出迎えられる。客はまばらだった。トキは奥の棚からサンドイッチとサラダを取ってレジへ行った。
「マルボロ下さい」
 マルボロですね、若い店員はにこやかに云うと、丁寧な手つきで煙草の箱をトキに渡す。
 トキは手早く支払いを済ませた。
 店の前で箱を開けて、一服する。
 慣れた煙草の味が肺に広がると、ようやく頭がすっきりと覚めてきた。
 二週間ぶりの喫煙だった。
「お爺さん、困りますよ」
 不意に男の声がした。見ると駐車場の真ん中で、小柄な老人がうずくまり、あどけない表情でじっと地面を眺めていた。まるで蟻の行列を観察する幼児のように。長く伸ばした白い髪を、頭の後ろでまとめている。
 若い店員が彼を見下ろし、両手を腰に当て
「まいったな……」
 などと呟いていた。
 トキは何故か、その呆けた老人にどこかで会ったような気がした。
 だけど一体どこで会ったのか、思い出すことはもう、出来ない。


          4.

 原稿催促の電話は十二時きっかりにかかってきた。
「ええと、あの……」
 トキは昨日と同じように、電話の相手に見えるわけもないのに、何度も何度も頭を下げた。
「申し訳ありません、何とかあと一日待って頂けませんでしょうか……」
 ミューズが下りてくる気配は一向に無かった。原稿はあと三十枚残っていた。トキは昨日晩眠り込んでしまった自分を深く呪った。どうしてか目覚ましが鳴らなかったのだ。二時に掛けておいたはずだったのに。
「はい、はい、ええ。約束します、必ず、明日の正午にはメールしますから」
 ベテランの編集者は、やはり昨日と同じ事務的な声で、では明日の正午までにお願いします、と云った。
 あと二十四時間。
 茨の道だった。
 一時間悩んでも、ワードの画面に映る文字は三行かそこらしか増えなかった。恐ろしいまでに、何も浮かばない。
 トキは元々筆の早い方ではなかったが、その分、ここまで何も書けない状態が二日以上続くことはこれまでほとんど無かった。
 焦ってはいけない焦ってはいけない、自分に言い聞かせる。焦ったってろくな事にならない、余計に何も書けなくなる、絶対に焦ってはいけない、さあ深呼吸して、煙草でも吸って……。
 気がつくと安物の灰皿の上には、吸殻の山が出来ていた。
 ちく、たく、ちく、たく。
 あとは昨日とほとんど同じ、機械のように食事を取り、苛々と頭をかき、握りこぶしで机を叩き、そうして文章はまた数行だけ進む。
 そんな調子で日が暮れる。
 トキは今夜は眠るつもりはなかった。眠ればまた起きられなくなる気がした。
 大丈夫、この原稿が終われば一日中でも眠ればいい。
 大丈夫、大丈夫、だから焦るな。呪文のように唱え続ける。大丈夫、大丈夫……。
 三十枚残っていた原稿はあと十五枚まで減った。
 だがそこから進むのが、また至難の技なのだった。
 トキはマルボロを探してこたつの上を叩いた。掴んだのは空の箱だけだった。
「……追い詰められてるようじゃの」
 突然、高いしわがれ声がした。
 トキはびくりと肩を震わせ、きょろきょろと部屋の中を見回す。
 明かりを点けていたはずなのに、部屋の中はいつの間にか真っ暗になっていた。
 青白く光る液晶画面の隅には、デジタル時計の02:00の表示。
「……誰だ?」
 問いかける声は震えていた。
「ここじゃよ、ここ」
 トキの背後で、窓ガラスがこつこつと鳴る。
 振り返って、トキは硬直した。
「じ……!?」
 窓にはぴったりと、ちょうどスパイダーマンのような格好で(もっともトキは、スパイダーマンの映画もアニメも見たことはないけれど)シルクハットを被った老人が貼り付いていた。
 あまり気味の良い眺めとは言えない。
「どうじゃ、こいつを開けてくれんかの」
 老人はもう一度、こつこつとガラスを叩く。
 トキは二、三度口をぱくぱくと動かしてから、ようやく言葉を搾り出した。
「……帰ってください!」
「何じゃと! 薄情な若者じゃ」
「今は忙しいんだ!」
 トキは両手でばしばしと自分の頬を打った。俺はまた眠っちまったんだ。それでまた、こんな変な夢を見ているんだ。トキ、起きろ、目を覚ませ。でないと明日の十二時に間に合わないぞ……。
「夢ではない」
 老人はにやりと笑った。
「まあ落ち着け。お前は焦り過ぎておる。そう焦っては何をやっても良い結果は出ん。どうせ残っとるのはあと十枚かそこらなんじゃろう?」
「十五枚」
 トキは老人を睨み付けた。
「さして変わらん」
 老人はしれっと呟く。
「お前さんには息抜きが必要じゃて。外に出て、夜の中で頭を冷やせ。そうすればまた何か新しい解決法が見つかるかもしれんぞい」
「そうですか……?」
 トキは額に手をやり、液晶画面に目を遣った。
 これまでに書いた文章を最初から一通り、読み返してみる。
 すると、苛々とした気持ちがまた、うねるように押し寄せてくるのだった。
 改めて読み返してみると、画面の中の文字列はおそろしく稚拙で、文字通り文章の羅列としか見えなかった。自分の書いたものだというのに、読み返すのが死ぬほど恥ずかしい。
 ひどいものだ。
「……糞ったれ!」
 すっかり気分が悪くなり、トキは液晶画面を叩きつけるように閉じた。
「ほれ見い」
 老人は得意げだった。
「追い詰められてはろくなことにならない。どうじゃ、気分転換に出かけよう。――がお前に会いたがっておる」
 老人の声が一瞬だけ、遠くなる。
「……誰?」
「――じゃ」
「え?」
「――!」
 それは人名のようだったが、駄目だ、どうにも聞き取れない。トキは立ち上がり、窓際に歩み寄る。
「誰って?」
「――じゃて」
 聞こえない。
 トキは思わず、窓の鍵を上げた。
 その途端、ばたん! と音を立てて窓が開いた。
「ソヨギがお前に会いたがっておる!」
 夜の冷え切った風と共に、はっきりと老人の声が耳に飛び込んでくる。
 そして、
「うわあっ!」
 何か強烈な力に肩をつかまれ、引きずられ、
 トキは前のめりになって、
 窓から、
 落ちた。
 底なしの深い闇の中へ。
 どこまでも真っ直ぐに――。


          5.

「ソヨギはコンビニの店員じゃ」
 深夜の街路を、老人とトキは連れ立って歩いていた。
「コンビニで働くような奴らは皆、昼間の世界に憧れるものでな。わしには昼のどこが良いのかさっぱり判らんのじゃが、とにかくソヨギはそういうわけで、お前さんに興味があるようなんじゃな」
 コンビニの店員ということは、あの背の高い影法師のような奴だろうか。ソヨギは多分女名前だから、あれは女の子だったのか。トキはそんなようなことをつらつらと考えた。
 闇は相変わらずねっとりと濃く、深い夜の底に横たわっている。二人はその中を進んでいく。老人はちょこまかと、トキは大股で。
 街灯の明かりは空の遠い所に並んでゆらゆらと揺らめき、まるで白い鬼火のよう。銀細工のような三日月が、その向こうにぼうっと浮かんでいる。
「またコンビニへ行くんですか」
 トキは眉をひそめ、嫌そうに云った。
 老人はからからと笑う。
「いいや、今日は行かん。ちと遠いでの」
「はあ……」 
 トキがついた溜め息は、白いぼんやりとしたタツノオトシゴになって、空へひょこひょこ昇って消えた。
「……」
 彼はげんなりとそれを見送った。
 老人はシャッターの降りた商店の角を直角に曲がった。細い路地だった。両側が、トキの肩幅くらいしかない。
「足下に気をつけるんじゃぞ」
 言われたそばから、何かを蹴飛ばしてしまう。
「わっ」
 無数の、何か羽根のある蒼いものが一斉に舞い上がり、視界を埋め尽くす。それらはきゃらきゃらと騒がしく喚きながら、夜空へ向かって羽ばたいていった。
「だから気をつけろと言ったんじゃ」
「あれは何ですか」
 トキは呆然と天を仰ぎ、尋ねる。
「さあてね。発音がとても難しい名じゃよ。ちょうどお前さんの名と似ちょる」
「俺の?」
 トキ、という名のどこが発音の難しい名なのか、彼には解らなかった。
「……訳のわからないことばかりだ、ここは」
 トキが呟くと、老人は微笑んだ。祖父が幼い孫に向けるような笑みだった。
 路地を抜けると、五メートル四方ほどの開けた空間に出た。コンクリートの建物に囲まれた、煙突の底のような空き地だった。
「ソヨギぃ。約束通り、連れて来たぞい」
 老人が呼ばわると、奥の闇の中から何かが立ち上がり、とん、と跳ねるようにこちらへやって来た。
 見上げるように背の高い、のっぺりとした影法師だった。
「わあぁ」
 影法師は少女の歓声を上げた。
「すごい、すごおい! この人がそうなの? わあ、ちいっちゃーい! 色がついてるーっ、きっれーい。お人形さんみたいねー!」
 興奮と好奇心に溢れた声を上げ、ソヨギは風のようにくるくるとトキの周りを駆け回った。その顔は夜の闇よりもまだ深い黒で、どう見ても口やそれに類するものは付いていななかった。一体どこで喋ってるんだろう、トキはぼんやりと考える。
 ソヨギは嵐のように立て続けに、トキに質問を浴びせ掛けた。
「ねえあなた何ていうの? どこに住んでるの? 何してるの? 朝に起きるのってどんな感じ? 起きたらまず最初に何をするの? どんなもの食べるの?」
「ええっと……」
 いささか気圧されながらも、トキはそれにひとつずつ答えていく。
「名前はトキ。住んでるのはえっと、この近くかも……いや、遠いのかな……。仕事は物書きみたいなことをやってる。起きたら最初にすること? えっと……」
「モノカキってなあに?」
「え? あー、文章を書く人のこと」
「文章を書いたらお金がもらえるの?」
「そうだよ」
「えー変なのー」
 そんな会話を続ける間にも、ソヨギは絶えずくるくると駆け回って、トキをあらゆる方向から観察していた。
「うわ」
 急に腕を掴まれ、持ち上げられ、まじまじと眺め回される。もっともソヨギの顔には、目らしきものも見当たらなかったけれど。
 まるでサーカスの見世物にされたようで、トキはすっかり機嫌を悪くしてしまった。
「こら、ソヨギ」
 見るに見かねて、老人がたしなめる。
「あんまり調子に乗るでない。もしお前さんが初対面の人間にじろじろ眺められたらどんな気がするね」
 するとソヨギははたと立ち止まり、
「……ごめんなさい」
 するすると縮こまって、頭を下げた。彼女が急に自分と同じくらいの背丈まで縮まったので、トキのスケール感覚はすっかりおかしくなった。
 しばらく、三人はそこに立ったままで話をした。
 ソヨギは大きくなったり小さくなったりしながら、トキやトキの生活に関することは何でも聞きたがった。昼間の世界のことなら、どんなに小さなことでも知りたいようだった。
「いいなあ……」
 棒のような手を合わせて、ソヨギは心底羨ましそうに呟いた。
「あたしも昼の世界に行きたい……空が青いのって、町が明るいのってきっと素敵だわ。それにトキさんみたいな綺麗な人が沢山いるんでしょ? 行ってみたいなあ、見てみたいなあ……」
「わからんのう」
 老人が苦々しく云った。
「昼のどこがいいんじゃ。あんな所に行ってみい、住みにくうて仕方がないぞ」
「えー、そんなこと無いわよう。ね、トキさん?」
「ああ……うん……」
 トキは曖昧に頷いた。家に残してきた仕事のことを思い出すと、気持ちが塞いだ。
「でも、そこまで面白いもんでもない」
「そう?」
「うん」
 トキは天を仰いだ。四角い夜空に、か細い月。
「……もう帰らないと。三時までにここを出ないといけないんだろ?」
「そうじゃの」
 老人は頷く。
「今日はありがと!」
 突き抜けるように明るい声で、ソヨギが言った。
「すっごく楽しかった!」
 それを聞いて、トキは少し、ほんの少しだけ、彼女と別れるのが寂しいと感じた。
「……また来るよ」
 トキが呟くようにそう云うと、ソヨギはきゃーっと歓声を上げて空中に飛び上がり、一回転してから着地した。
 きっと、顔を持たない影法師たちは、泣いたり笑ったりする事が出来ない分、声と動きで感情を表すのだろう。トキはそう思った。


          6.

 老人の後をついて歩く帰り道、トキはずっと、何かに見られているような気がしていた。
 首筋の辺りがむず痒いような、嫌な気分だ。
 無事に帰りたいなら辺りをきょろきょろと見回すような事はするな、と老人に言われていたので、努めて前だけを見るようにしていた。が、横断歩道を渡ったあたりで、どうにも我慢がならなくなる。
 思い切って左手に目を遣ると、タールのような闇の奥に、はたして一対の赤い目が光っていた。
 遠くの自動車のテールライトに似ている。目は二人の歩く速度に合わせて、すうっと微かな尾を引きながら、平行に移動しているようだった。
 ルビーレッドの昏い輝きは不思議に妖しく美しく、トキはそこから目を逸らすことが出来ない。
「……爺さん」
 立ち止まり、老人を呼ぶ。
「ん?」
 老人の振り向く気配。
「……何か、いる」
 足音が途切れ、不気味な静寂が辺りを包む、その一瞬。
 トキの背筋がさあっと粟立った。
「いかん!」
 老人の叫ぶ声が、遠くに聞こえた。
 巨大な質量を伴った闇の塊が、風を切る重い音と共に飛び出してきた。
「……っ!」
 それは小山ほどもある狼だった。いや、狼に似た怪物、と言ったほうが正しいかもしれない。
 怪物は丸太ほどもある太い短い足で、ぬうっとトキの前に立ち塞がった。耳まで裂けた口の中に、短剣に似た鋭い牙がずらりと並んでいるのが見える。燃え立つような赤い両目は、トキの小さな姿をはっきりと捕らえていた。
 突然、嵐のような恐怖がトキを襲った。声にならない悲鳴を上げ、彼は闇の中を転がるように駆け出した。
「こら――!」
 老人が何か叫んだが、トキは立ち止まることが出来なかった。
 何処へ向かうのか、考える余裕は吹き飛んだ。
 ただ怪物のいない方へいない方へ、闇の奥へ、奥へ――トキはひた走った。
 いくつかの見知らぬ角を曲がり、コンビニの明かりの前を駆け抜る。
 あの恐ろしい瞳がまだこちらを見ているのではないか、そう思うと立ち止まることは出来なかった。息の続く限り、走った。
 夜風が耳元でごうごうと唸り、トキの白い息は無数の細かな蝶になって昇った。
 どれほど駆けたか、広い車道に出たところで、トキはとうとう走れなくなった。
 がくん、膝が折れて、地面に倒れ込む。
 コンクリートは氷のように冷たかった。
「……はあ、はあ、はあ、……」
 トキはうつぶせに倒れたまま、しばらく肩で息をしていた。頬と膝がひりひりと痛んだ。
「大丈夫ー?」
 頭の上から、少女のあどけない声が降ってきた。
 地面に手のひらを突いて、起き上がる。ソヨギがぬうっと立って、トキを見下ろしていた。
「あー……大、丈夫……」
 すると突然、ソヨギはひらりと飛び上がり、
「やったね、大成功!!」
 と、叫んだ。
「は……?」トキは顔をしかめて影法師を見上げた。まだ息が上がっている。
「何が成功……?」
 ソヨギは興奮した口調で答えた。
「トキさん、たった今ね、三時になったのよ!」
 その意味を理解するのに、半秒ほどかかった。
 みるみるうちに、トキの顔が青ざめる。
「って……おい……」
「門は閉ざされた――!」
 老人が高らかに叫んだ。いつのまにか、ソヨギの背後にちょこんと立っているのだった。
「そういうことじゃ。残念じゃが、お前さんは明日の二時になるまで家には帰れんの」
「何だってそんな……!!」
「だって」
 ソヨギが明るく言った。
「まだトキさんとお話してないこといっぱいあるもの!」
「……それじゃあ、あの怪物は、もしかして君が……」
 最悪だった。こんな最悪な夜は生まれて初めてだ。
 身体の底から怒りと苛立ちとが一辺に押し寄せ、たちまちのうちにまた引いていった。
 同時にあらゆる力が抜けて、トキは再び地面に倒れてしまった。
 老人が彼を見下ろして、にやりと不思議な笑みを浮べる。


          7.

 老人と若い男と背の高い影法師。
 三人は連れ立って夜の中を歩いた。
 ソヨギは相変わらずあどけない声でトキのことをあれこれと尋ねたが、その代わりにトキの知らないこの町のことも色々と教えてくれた。
 夜の町は、トキがこれまで暮らしていた昼の対だった。確かなものは何もなく、全ての輪郭がぼんやり霞んで、ゆらゆらと闇の中に揺らいでいる。人々はたいていソヨギのような影法師の姿で、ビルの側面やコンクリートの地面を、大きくなったり小さくなったりしながらうごめいていた。
 一日夜の中にいると、暗闇に目が慣れて、少しずつ多くの物が見えてくるようだった。
 百貨店のショーウインドウの中で、青白いマネキン達が奇妙なステップを踏んでいる。
「あれがマネキンの仕事なのよ」
 ショーウインドウのガラスに貼り付き、ソヨギはそう云った。
「あたしマネキンに生まれてこなくて良かったと思ってる。マネキンはみんなああやって踊らなくちゃならないの。儲けはいいのよ、たくさんお金をもらえるんだけど、でも ずっと踊らなくちゃならないから、使う暇が無いわ」
「そいつは気の毒だ」
 トキはぽつりと言った。マネキンの整った横顔は華やかな笑みを浮べていたが、それでもどこか寂しそうに見えた。
 また煙のような道化師たちが、赤や黄色に点滅しながら、賑やかに横断歩道を渡っていくのも見た。道化師はみんな手に手に輝くトロンボーンやトランペットを持って、いかにも気の向くままに、でたらめに吹き鳴らしていた。そのブラスの音色は十キロ先から聞くように遠かった。
「あれはお爺さんのお兄さんよ」
 ソヨギが教えてくれる。
「お爺さんは十五つ子で、一番最後に生まれたの」
「じゅ……じゅういつつご?」
 トキは老人を振り返る。
「そうじゃよ」
 老人はにっこりと笑った。
「一番最初に生まれた兄から、順番に煙になった。わしもいずれはああなる」
 この夜を支配しているのは不条理という名の理。
 ひんやりと滑らかな黒猫が足にまとわりみゃあと鳴けば、犬ほどの大きな鼠がのっそりとやってきて、鋭い牙で猫の尻尾を噛み千切る。
 夜空を区切る電線をよくよく見れば、無数の蛇が互いに絡み合いうごめいている。
 縦に歪んだセブンイレブンで、トキはマルボロを一箱買った。店の前で一服していると、さっきの道化師たちがやって来て、立ち昇る紫煙と混ざり合い、どす黒い紫色に染まってからまたどこかへ行ってしまった。
「……煙になったら、どうなるんですか」
 トキは道化師たちの去った方向をぼんやりと見ながら尋ねた。
「月が二へん、満ちて欠けたら、空気に溶けて消えるじゃろう」
「ああ……そっか」
 真っ暗な天から、昨日よりもほんの少しだけ太った月が、こちらを見下ろしている。
「昼の人間は、土に溶けて消えるんですよ」
 トキは云った。
「もうすぐ二時じゃの」
 老人も月を見上げ、独り言のように呟いた。

        * * *

 ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽん――。
 ドアの前に立ち、編集者は何度も何度も呼び鈴を押した。
 神経質そうな白い顔が、今は怒りと苛立ちで紅潮している。
「先生! 先生!」
 拳を握り締め、いかにも薄そうなドアを遠慮なく叩く。どんどんどんどん、朝から廊下に、乱暴な音が響き渡る。
「いらっしゃらないんですかっ」
 どう考えても、原稿をこれ以上待つことは出来なかった。今日、いや今この場所で出してもらえなければ、今月号に彼の文章は載せられない。
 しかし編集者にとっては、こんな青二才の評論が誌面に載ろうが載るまいが、もはやどうでもいいことだった。
 彼は怒っていた。この作家とは、トキとは、昨日丸一日連絡が取れなかったのだ。携帯にも自宅の電話にも出ず、彼の部下が二度自宅へ向かったが、いくら呼んでも出て来なかった。
 この期に及んで行方をくらますなんて。あるいは居留守を使っているのかもしれなかったが、いずれにせよ、この編集者の堪忍袋をぶち破る行動であることには違いなかった。
 何て無礼な、調子に乗った、恥知らずな、若造だ。
 もう二度と仕事はやらん、お前など干されてそのまま消えちまえ。編集者は心の中で毒づきながら、何度もドアを叩き、ノブをがちゃがちゃ回し――。
 すると、
「わっ」
 ドアは突然内側に開き、編集者は軽くつんのめった。
 ――鍵が開いている。
「なんっかまた、無用心な――」
 ぼやきつつ、靴を脱いで玄関に上がりこんだ。
「先生ー! いらっしゃいますかー!」
 呼びかけながら、居間に向かう。
 開いた窓から、暖かな春の風と光が流れ込んでいた。白いカーテンがゆらゆらとそよいでいる。
 まだ布団を取り去っていないこたつの上に、開いたままのノートパソコン。電源が切れているのか、液晶の画面は暗い。
 そして、部屋の隅に、それが膝を組んでうずくまっていた。
「……!」
 編集者は両手で口元を押さえ、二、三歩後ずさる。
 どろりと黒い、粘り気のある闇を捏ねて作ったような、人の形をした――影。
 それがのろのろと動いて、こちらを向く。
 震えが、編集者の爪先からから頭のてっぺんまで、一気に駆け上ってきた。
「ば……化け物……っ!」
 彼は押し殺した悲鳴を上げ、床にあったごみ箱を蹴り散らしこたつの角で膝をぶつけながら、居間を飛び出して行った。
「誰かっ、誰か来てくれぇーっ……!」
 助けを求める悲鳴が去ると。
 後には、影法師だけが残る。
 長い長いあいだ、彼はじっとうずくまったまま、少しも動かなかった。
 陽が高く昇り、また傾き。やがて部屋の中は血を流したような朱に染まり、そしてだんだんだんだん、暗くなる――。
 そのうち、影法師の姿は、周囲の闇に完全に同化して見えなくなった。
 目も耳も用を為さないほどに深い、静寂と暗黒。
 そして、
「気分はどうかね」
 夜の底から、低く老人の声がする。
「悲しがることはない、わしらはいつでも、お前さんを歓迎するからの」


                                        fin.

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