『チノアジ』

 あたしの血は甘い。マスカットの味がする。マスカットを食べたことは、二回くらいしかないけれど、それでも記憶にあるその味と、あたしの血のそれはまったく合致するのだ。赤色の血を舐めると、味覚が伝達されて薄緑の球体のイメージが脳味噌のなかを駆け巡る。けど眼の前にあるのは赤い液体で、あたしはどうしようもなく不自然な気持ちになる。 思い出してみると、あたしは血を出したことがなかった。普通そんなことはありえないかもしれないけれど、まだ生理は始まっていなかったし(大分遅いけれど、異常ってほどじゃない)、転んだ記憶も、擦り傷を作った記憶もない。紙で細い傷を作ったことすらない。とにかく血が流れる状況にあたしはなかった。だから、数時間前にあたしがそのことに思い当たって、みずから指先に小さな傷を作るまで、あたしは自分の血を舐めるどころか、見ることすらなかった。それでもあたしは血は赤く、そして鉄っぽい味がすると知っていた。それは他人の血を見たり本を読んだりしたなかで学習したことだ。
 他人の血が鉄っぽいからって、自分のそれがそうだとは限らない。現に、あたしの血はマスカットの味がするのだ。
 ぞくぞくする。とても、ぞくぞくする。全身が震えて、振動する機械になったみたい。
 あたしは世界から断絶されてしまったのだ。あたしは遂に誰とも違ってしまったのだ。
 あたしはもう一度傷を舐めた。甘くて美味しい。マスカット。そんなことが書いてある小説なんて読んだことがない。あたしだけ。

 あたしの家庭は不幸で、でもそれはどこにでもあるような不幸だった。あたしは心に傷を負っていて、でもそれは誰でも持っているような傷だった。
 あたしは物語の登場人物に自分を仮託できて、時には涙を流したりして、でもそれはあたしが誰かの想像の範疇に全身すっぽり収まってしまうことを意味した。あたしの涙は他の誰かの涙とまったく同じなのだ。だったら、他の誰かが流せばいい。あたしが流す必要なんてない。そのことに気づいてから全く涙を流せなくなった。あたしがこれまで体験した悲劇は、だいたい本に書いてあった。あたしは決してアウトサイダーにはなれない。そう思っていた。だったらいらないんじゃない、あたし、そう思うこともあった。でもそう思う少女の物語も、またこの世界には氾濫していた。
 このままそのほか一名として、まったく典型的ではないにしろ誰かと被った人生を過ごしていくのだろうか、という有り触れた諦念で心を塗りつぶしていたあたしは自己を更に一般的にするための試験勉強の中途で、――唯一であるという証左を入手したのだった。鍵のかかった部屋のなかで。

 最初の傷はカッターで右手の人差し指の、指紋が渦巻いている中心に付けた。そこから染み出した血をなんとなく舐めてみたらマスカットの味がしたわけだが、しばらくしてふとあたしは思った。
 他の場所はどうだろうか。
 普通に考えるならどこを切っても同じ味がしそうなものだが、熱に膿んだ思考には当たり前の常識(常識という言葉がここで適切かどうか大いに疑わしいが)が浮かばない。あたしは左手の小指の付け根にカッターをあて、引く。直線的な痛みが指先から脊髄に走る。眼を瞑った。数秒後眼を開けると、一筋の傷、そして僅かな赤い流れ。そしてあたしの中で目覚める感情。震える指先。震えるあたし。震える世界。欲望で。揺れる。味わいたい、吸いたいよ、溶け出す液体を。
 あたしは傷に舌を近づける。先端が触れた時、薄まりかけていた味覚がよみがえる。でもそれは、先ほどと僅かに違っていた。それが、また、とてもよくて。麻薬って、こんな感じなんだろうかと思った。もう、離れそうにない。あたしは身体を曲げて、丸まった。自分を抱きしめた。息が荒い。駄目だ、あたし――もう、駄目だ。恋人と交わすキスのように、あたしは傷口に口付けて、舌を這わせ、すべてを吸い出そうとするように、喉を鳴らした。頬が紅潮するのを自覚。……

 窓の外の黒が薄い青になっていた。そうだ、今日は試験――どうでもいい。場所によってグラデーションのように変化する味。あたしはその虜。奴隷。隷属するあたし。思考がゆっくりと濁っていく。

 眼が覚めた。光に満ちた部屋に響く電子音――電話の呼び出し音。学校からだろう。私以外に、電話を取ることが出来る者はいない。そのままずっと放っておいたら、じきに途絶えた。静かな光が瞼の隙間から入ってくる。
 部屋の片隅に座って眠っていた。身体中が痛む。半身を起こした。瞼が開く。机。ベッド。徐々に降下。床。投げ出されたカッター。あたしの脚。身体――腕。
 腕は傷痕で埋め尽くされていた。
 鈍痛のような衝撃があいまいな意識を打つ。しかしあたしの頭のなかには傷痕に付随する甘美な記憶が甦りはじめていて、あたしの意識の腕は衝撃から逃れるようにそれを掴む。とても気持ちいい。すがって、もたれて、ゆだねて。甘いよ。美味しい。
 でも現実はあたしを逃がそうとしない。
 やがてあたしは覚醒し現実に頭を掴まれて引き摺られ帰還する。
 腕中に出来た傷を見て、あたしがもっとも危惧したのは、リストカットと思われないだろうか、ということだった。陳腐の代名詞のような言葉。憎悪すら湧き上がる。もっとも容易な逃避。浅い傷と浅い覚悟。あたしは――とにかく嫌いだった。あんなことをしてアウトサイダーになったふりをしている連中(そのくせ二、三人での徒党を組みたがる)連中は劣っている。死ねば良い。死ねば良いんだ。もちろんそんなことを口に出したことはないが。
 どうすればいい。あんな奴らと一緒にされないためには。母親はあたしの身体なんて気にかけないから、それはどうでもよかったけれど、他の誰かに見つかることはありえるだろう。
 虚空に視線を向けて、しばらくの間考え込んでいた。
 天啓が降りた。

 木は森に隠せ。
 紙は紙屑に隠せ。
 死体は戦場に隠せ。
 傷は傷の集団に隠せ。

 指、掌、腕、脚、太腿、踵、膝、肘、傷、傷、顔、鼻、皮膚、皮膚、身体中の皮膚に付いた傷。

 身体中に傷が付き、その傷から血が流れる。これでもうリストカットとは思われないだろう。リストだけじゃないんだから。身体中から流れる血をあたしは出来る限り舐めとる。混ざり合ったそれはミックスジュースのようだった。意識が薄れていく。視界がぼやける。貧血かな。きっとそうだ。あはは、あたし、まっか。きれい。服は脱いだ。肌はすべてまっかにそまっているのに、誰かの視線なんて、気にする必要もない。いつの間にか、窓の外もまっか。夕焼けだ。あたしは最後の傷をつけようとしている。おかしいな。あたし、自殺するつもりなんてなかったのに。でも駄目なんだ。あたしは血をもっと、もっと飲みたい。致命傷にならないところから流れる血は、もう全部啜ってしまった。でも、もっと、もっと欲しいよ。刺して、あたし。うん、刺してあげるよ。えい。うわ、血がこんなに、あふれてるよ。もったいない。全部飲まなきゃ。あたしは前に倒れこんだ。大丈夫だよね、こんなに変な死に方したんだから、うん、みんな、あたしのこと唯一だって認めてくれるよ。あたしの名前、唯だし。世界に一人しかいない可愛い子に育って欲しいからだって、昔、すごく昔、聞いたことがあるような。あたし、唯になれたよね、おかあさん。


                 *


「猟奇ですね。密室、全裸で傷だらけの死体。まあ自殺なんですけど」
「そうだな」
「でも、あれですね、ここまでひどいと、なんとなく感覚が麻痺したようになりますね」
「そうか?」
「ここまでくると、たとえばミステリとかじゃ、もう一種の凡庸ですよ」
「凡庸か」
「ええ、凡庸です」


                                           了

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