『川のほとりのパーバーション』

          

 早春の夕方は、まだまだ寒い。風が午後の陽気を吐息で吹き飛ばしたかと思うと、それ以降は冬に未練を残した夜がやってくる。
 カーテンを開けていたからだろうか、部屋に充満していた光る埃の群れは、窓越しの冷気によって冷やされ、再びフローリングの床に腰を落ち着け、眠りにつこうとしていた。
 俊二は目を開いたが、ベッドを降りる気にならなかった。夢見がちに感じていた陽だまりは、もはや布団の中に香りを残すのみであった。彼は二ヶ月前散髪した髪の毛に手をあてたり、横になったまま形だけのストレッチをして、至極興味の無い動作をもてあそび、完全に夜が訪れるまでの時間、夢うつつを楽しもうと思っているのであった。
 隣には女が寝ていた。俊二と同じく裸だった。すうすうと寝息を立てている彼女の表情は、豊かな髪に隠されていて見えない。少し布団をはぐと、汗でじっとりと湿った背中があらわになった。
 きつく脱色した髪に、まだツヤが残っていることを誇りにしている女。俊二よりも年上だが、天真爛漫で気分屋。そのくせ、ふとした時に見せるしぐさは儚げで物憂げ。名前は麻子という。俊二は暫く彼女を見つめてから、伸びて邪魔になった前髪を一度掻き分けると、もぞもぞと寝床から起き、パソコンの前に向かうと、小説の続きを書き始めるのだった。


          

 ファーストフードに集まった同人小説サークルのメンバーは、俊二ともう一人、同輩で大学の同じ学科、学部に所属する里奈だった。身長は一六〇センチ前後。そんなに背は高くないが、彼女の黒く大きな瞳は、際立って彼女を印象づける要素となっている。黄緑色のカーディガンの上に、白い厚手のカーディガンを重ね着して、茶色いスカートの下には、ズボンを履いている。彼女はだいたいそういう格好であった。そんなに派手な服装ではないものの、着こなしのセンスを感じさせる。女の子は化粧とアクセサリーと、服装に金をかけるものだと思っていたが、里奈はそんなにお金をかけていないと言った。彼女が通う店は、主に古着屋らしい。古着はうまく選べばいい買い物ができるが、センスがないと、得てして損な買い物をしてしまう。彼女のセンスは確かなのだろう。
 さて、俊二と里奈は、別々に個人サークルとしてイベントに出た際、顔を合わせることもあり、作品を読んだこともあったため、前々からそれとなく互いの存在を知っていたが、同じコンセプトの元、合同で冊子を作るのは初めてであった。同じサークルで、即売会に出ようと話しを持ちかけたのは、里奈だった。
 この日二人は、打ち合わせとして推敲前の仮原稿を持ち寄っていたのだった。メールを介し、他人と作品を批評しあうのは慣れたことだったが、こうして向き合いながら作品を読むのは、どうにもむずがゆい。俊二は里奈の原稿を手繰り寄せると、あらかじめテーブルの上に出しておいた煙草を咥え、口に挟んで火をつけた。
「あのう……火がつかないようにしてくださいね。代わりがないから……」
「あ、ごめん」
 里奈はパソコンを使わず、手書きで書くことを大事にしているタイプで――というより、パソコンにいまいち、うといのかもしれないが――ともかく、書きなぐった原稿を何度も別の紙に写すのだが、推敲前とはいえ、今回の打ち合わせのために一応清書されている彼女の原稿には、彼女の心が込もっていると言ってもよかった。俊二はふとそのことを忘れていたため、しまったと言いたげに苦笑いをして煙草の火を消すと、続けて原稿を読み始めた。里奈がクスクスと笑った。
 淹れたてのコーヒーが、冷めるぐらいの時間が経過した。
 読み終えて、里奈が面白いと漏らしたのは、真に意外なことであった。というのも、断っておいたものの、俊二はまだ結末さえ書き終えることができていないのだった。どこに推敲の余地があるのかと言わせんばかりの、彼女の清廉された文体、構成、面白さを今改めて味わっていた彼にとっては、自分の遅筆で稚拙な文章に恥じらいをもっていたというのに。
「何か……少し読みにくいけど、とっても面白かったです。すごくリアリティを感じます。このあとどんなラストを迎えるのか楽しみです。この二人の主人公は旧知の仲なんですか? そのことに関しては特に書いてないようだったけど、どことなく過去に何かあった雰囲気ですよね。謎がある感じです。そこをもう少し補えば、ラストも見えてくるのかもです」
 なるほど……と俊二は思う。確かに言い足りない部分が、結末のもっていき方を迷わせているのかもしれない。
「物思いにふける俊二さんて、独特な雰囲気がありますね」
 里奈は目の前で思案顔になった俊二を、両手で大切そうに持った彼の原稿から頭半分だけ出して、まじまじと見つめている。
 俊二が書いている小説には、元ネタがあった。彼は最後まで隠し通そうと思っているが、里奈が妙なリアリティを持つと指摘したそれは、実は彼の現在の状況を記録したともいえる、私小説だった。彼には同居人がいた。麻子という女だった。里奈は二人の過去に興味があると、小説の感想を漏らしていたが、実際は劇的な始まりなど迎えていない。俊二と同居人の麻子が出会ったのは、ただの居酒屋だった。
「もう一読させてください」という里奈に、俊二は読み終えた原稿を返してから、先ほど消した煙草にもう一度火をつけると、記憶を少したどった。


          

 二ヶ月も前の夜。何の変哲もない飲み屋に入った。
 昨年の春に大学生となった俊二は、後期になってから大学の周辺で一人暮らしを開始したのだが、それに慣れてくると、何事も連れを伴わなくともこなせる度胸を、彼は身に付けていた。特に夜ご飯を済ませるための、飲食店や飲み屋に入ることを躊躇しなくなった今、気の置けない店を見つけることは、現在の彼にとって、ある種楽しみにもなっている。そして、その日立ち寄ろうと思った店も、以前から気になっていた内の一つだったのだが、かなりうらぶれた居酒屋であったため、いつ攻めようかと時期を見ていたのだった。この店は、彼が通う大学のある通りに辛うじて面しているものの、最寄の駅から続く繁華街からは遥かにそれた、道の終わる川沿いにあるためか、人が立ち寄るのを見たことがない。
 俊二は居酒屋に対峙して、まずは外観を眺めた。店は恐らく自動ではないだろう入り口を対称にして、二つ備わっている曇りガラスから煌々と光を滲ませている。
 彼は、革靴の中で皺の寄ってしまった靴下を片手で伸ばしてから、腕時計を見た。時間は十時。冬を懐かしむ風が、早く入れと背中を押す。俊二はかじかみかけた手を、冷え切った戸口に伸ばし、中に入った。
「いらっしゃいませ」
 快活な声が響いた。しっかり営業しているらしい。特に案内はされなかったので、一番奥にある席の一つへと座る。改めて見渡すと、内装は素朴であったが、意外にも綺麗だった。椅子やテーブルの作りは古めかしいものの、壁は壁紙を定期的に張り替えているのだろうか、肌色に近い模様がやけに真新しい。雰囲気は悪くないな、と俊二は思った。
 彼の向かいの席には若い女が一人、日本酒をやっている。カウンターには会社員らしい男性が二人。顔を赤らめて既に酔いが回っている様子である。その奥で魚を焼く店主は、年の頃五十代といったところであろうか。彼は紺色をした作務衣のような服を着て、旨そうな煙を立てている魚の焼き具合を気にしながら、入り口右側隅の天井近くに据え付けられている、小型のテレビを見ているようだった。俊二は、「すみません」と手を挙げた。「はいー」とカウンター横にある紫色の暖簾から声がして、中年の女性が出てきた。夫婦で切り盛りしている店なのだろうか。それとも、この店の女将なのか。
「ビールと、刺身の盛り合わせ、ください」
「以上でよろしいですか?」
「とりあえずは」
 女将はカウンター内の男性に注文を告げた後、自らも調理場の中へと入っていった。注文した品は、すぐに出てきた。手際は良いようだった。コップにビールを注ぎ、まずは一杯飲み干してみる。なんとも言えぬ安堵が湧き上がった。続いて二杯目を注ぎ、半分ほど飲んだ後、一呼吸おいてから残っていた分を飲み干し、ジーパンの後ろポケットから煙草を取り出すと、百円ライターで火をつけた。
 時間が幾ばくか流れて、ビールも飽きたので焼酎に変えようと女将を呼ぼうとしたとき、向かいの席から声がかかった。こちら側には俊二しかいない。向かいで酒を飲んでいる女は明らかに彼を呼んでいた。
「ちょっとちょっと」
 彼女は手招きをして、俊二に語りかけた。
「こっち来て、一緒に飲みませんか?」
「はい……え?」
 きょとんとしている彼とは対照的に、女はにこやかな面持ちだった。
「一人で飲むのも飽きたの。一緒に飲みません?」
「あ……はい」
 女は恐らく二十代中盤であろうか。一昔前に流行った、青いGジャンにダーク系統のスカート。髪は脱色していて、茶色というより金髪に近いが、痛んではいない。どことなく華奢だが、腰はわずかにぽってりとしていて、艶やかな雰囲気が漂っている。顔は細面で、睫毛は長く、ふっくらした唇がなまめかしかった。
「ここに来たのは初めて?」
 言いながら、彼女は左手で俊二を隣の席に促し、「これもう一つと、お猪口もう一個」とお銚子を右手でかかげて、声を張り上げた。
「初めてです」
 俊二は答えた。
「そうですかぁ。ここ、落ち着くでしょ? あたし週に一度はここ来て、飲んでるんだけど」
「そうですか……」
 彼は言ってから小声で、
「この店って、ちゃんと営業しているんですか?」
 と尋ねてみた。
「あはは。当たり前じゃない。じゃなきゃ今いないじゃん私たち」
「……ですね」
「店に誰も入って行かないっていう噂は、聞いたことあるけどね。おっかしい」
「そうですか。僕も見たことがなかったです」
「あはは。まぁ仕方がないね。で、そんな噂を聞いておきながら、あなたはこのお店にどうして入ったの?」
「それは……まぁ特にどうしてってこともないんですが。……そだ、あなたのお名前を、お伺いしても宜しいですか?」
「あれ、言わなかったっけ」
「はい」
「そかぁ。あたしは麻子。呼び捨てで良いよ。よろしくね。あーそうだ、敬語やめて。お酒の席で、敬語なんて耳障り」
「分かりました……いえ、そか……。僕の名前は、俊二です。学生やってます」
「へー。モラトリアム人間め」
「なにをー」
 麻子は右手の人差し指で、髪をくるくると巻いたりほぐしたりを繰り返していたが、
「親の仕送りを使って、酒を飲むとはいい度胸だ」
 と笑いながら、意地悪そうに俊二を指差した。
「あはは、ちゃんとバイトしてます」
「そかぁ。なんだーつまんない。敬語だめ」
 多少失礼だが面白みのある点に興味が湧いて、麻子の顔を暫く見つめていたため、彼女と目が合ってしまった。麻子は悪戯な笑みを浮かべて、「ふふ」と声をこぼした。俊二は僅かに顔を赤らめて、さっと視線をそらすと、ちょうどそこに、先ほど麻子が頼んだ酒と肴がきた。
「じゃあまぁとりあえず乾杯」
 俊二は彼女にせかされて、勢いで乾杯し、お猪口に注がれた酒を飲み干した。日本酒の芳しい香りが鼻に抜け、喉がカッと熱くなる。
「一人で飲むお酒って、つまんないよねー」
 麻子は、つまみの和え物を少し頬張りながら、もごもごと呟いた。
「毎日家でも飲んでるけど、毎日つまんない。飲んでると、寂しくなってくる。お酒なんてつまんないよね」
「じゃあ何で飲んでるの?」
「飲まなかったら死んじゃうからよ。飲むと寂しくなるけど、飲まないと寂しくなくて死んじゃうから」
「なんかおかしいね。矛盾ていうか。なんていうか」
「そお?」
「うん」
「あたし、矛盾してる?」
「うん」
「はは、ミステリアスでしょ。そこが魅力って言われる」
「アホな」
 麻子は、会話の端々に冗談を交えた。酒が深くなるにつれて、少しずつ打ち解けていく雰囲気に、俊二は何ともいえない心地よさを感じていた。酒に飲まれてしまうと、とんでもない失敗を招くこともあるが、それでもたまに、酒は楽しいことをより楽しく、そして、悲しいことをより悲しく感じさせる。忙しい身にとっては、いちいち付き合っていられないような感情なのかもしれないが、時間のあるときにそれらを深く感情を味わえるのは、貴重だろう。麻子の冗談は、酒に溶けて俊二の胸のひだに入り込み、ふるふると振るわせた。彼女は不必要なことはあまり聞かなかった。自分から聞かないことには、多少の理由があるのだろう。俊二はそこに彼女の良さを感じ、彼もまた、麻子についての情報は強いて知ろうとしなかった。酒と、会話だけの時間が流れた。
 明日も仕事だからと麻子が告げたのは、午前一時のことである。勘定は麻子が持った。俊二としては、奢りたい気分であった。彼女が見るからに年上とはいえ、また、一人暮らしも慣れ始めた身とはいえ、やはり誰かと飲むのは心地よかったし、なにより意気投合したと感じられたのが嬉しかった。しかし彼女は、俊二が財布を出すのを軽く制して、手早く金を払うと、先に一人で店を出た。俊二も後を追うように慌てて外に出ると、冷たく柔らかい風が、首筋に触れて去っていった。
 店の前には大きな街灯が一つ。麻子の顔を照らし、俊二の顔を照らし、そしてまだ生え揃わぬ木々の葉っぱを、鮮やかな黄緑色に染めていた。十二時をまたぎ、既に終電を過ぎたこの時間は、大学の他に大きな施設もなく、車が行き交うほどの大きな通りもないこの街にとって、まさに死んだように静かな時間だった。店の裏手、東から西へと向かって流れる川は、暗闇の先で見えないが、時折チャプンと音を立てて存在を語りかけ、静けさを誘っている。
「じゃあ……おやすみっ。またね」
 麻子は笑顔を明かりの中に残して、踵を返した。色を抜いてなお艶の残っている金髪が、はらりと曲線を描いて、闇の奥、静寂へと消えていく。唯一の街灯が照らすことのできる範囲は、まるで自分の責任が及ぶ場所しか関知しないとでも言いたげに、極めてささやかだった。麻子の影が左右に揺れながら、数センチ間隔でゆっくりと去る。そして、その先にある風景と同調するように、彼女の体は透明になっていく気がした。
 俊二はその様子をぼんやりと見ていたが、不意に鞄を落とすと、麻子の元に近寄り、右腕を掴んだ。揺れていた髪が、宿り木を見つけた鳥のように、彼女の腰に居場所を見つけて沈んだ。俊二は麻子の右肩を軽く押さえ、くるりと振り向かせた。彼女はほとんど透けていて、遠く遠くの、かすかに煌めく都会のネオンを彼女の輪郭の内側に留め、その表情はどことなくぎこちなかったが、しかし笑っているようにも見えた。俊二は無意識で予測していたよりも、遥かに華奢である彼女の肩から手を離し、麻子と同じ表情を作って、笑って見せた。

 遠くを見やるように片肘をついて、ガラス越しに外の景色を見つめながら記憶をたどっていた俊二は、不思議そうにこちらを向いている里奈に気づくと、慌てて椅子を座りなおした。
「あのー。灰が落ちそうです」
「ん? ああ、ごめん……トリップしてた」
「あははっ」
 灰は既に落ちていた。俊二は煙草の火を消すと、左手でズボンに落ちた灰を払い、里奈に話しかけた。
「それにしても、里奈ちゃんて文章うまいね。書き慣れてる感じがするし」
「そんなそんな……。照れちゃいますけど、そんなにうまくないんですよ」
「将来プロになりたいの?」
 いいえ、そんな恐れ多いです、と里奈は少し目を煌めかせながら、両手を振って否定した。彼女は自分が尊敬している作家をつらつらと挙げ、彼らのステージはまた、別の次元にあると言った。
「ところであのう……この後何か予定ありますか? よかったら、俊二さんとご一緒したいお店があるんですけど……なんて」
「ごめん、今日はちょっと早めに帰りたいんだ」
「そうですか……」
 しゅんとした里奈はとても可愛らしかった。表情も豊かであるが、何よりも大きく真っ黒な瞳が、言葉以上に彼女の心情を語る。
「ほんとごめん。いやさあ、せっかくアドバイスもらったことだし、何か今日ラストまで書けそうな気がしてさ。ごめんほんと」
「いいええ、そういうことなら、早く帰ったほうがいいです。そういうことってありますよね。最後まで書き終えたらすぐに見せてください。すごく楽しみです……本当に楽しみなんですよ」
「ありがとう。何とかがんばってみる。里奈ちゃんも、推敲がんばってね。僕こそ、また次に読むのを楽しみにしてるよ」
「えへへ……はい」
 彼女はくるりと表情を変え、笑った。
「じゃあ、そろそろ出ようか」
「はいっ」
 二人がファーストフードを出ると、ちょうどそこに通りすぎる影があった。麻子だった。自分のことをあまり話さない彼女から、一度だけ、雑貨屋で働いているということを聞いたことがあったのだが、勤め先の所在を聞いたことはなかった。まさかこの近くだったのだろうか。俊二は気まずいと思いながらも、仕方なく彼女に話しかけることにした。誤解され、後で無言の文句を言われるよりは、ましだろう。
 俊二は軽く右手を振って、麻子を呼び止めた。
「ん?」
 振り向いた麻子は、すぐこちらに気づいたようだった。ライトブラウンの髪が風でかすかに舞っている。俊二が思ったとおり、彼女は仕事の帰りらしかった。下げている茶色の鞄は、麻子が仕事場に持っていく中で、一番のお気に入りのものだ。彼女は笑みを浮かべながら、二人に近づいてきた。
「あ、俊二……と……?」
「里奈ちゃん」
 里奈の名前と、彼女との関係が何であるかは、麻子に以前説明しておいたものの、彼女が実際に里奈を見たのは、初めてだった。
「彼女だよ……ね、一応」
「一応?」
 麻子は即座に俊二の耳をギュッとつねり、ちゃんとした、でしょ、と言い直させた。
 里奈は二人のやりとりに戸惑ったのか、顔を紅くして俯いた。
「彼女……」
 里奈はもじもじとつま先で、道路をなぞっている。年上の女に躊躇しているのだろうか。
「今帰り?」
「うん、あ。ちょっと急いでるから先行くね。浮気すんなよっ、あはは」
 俊二の反論を待たないままに、麻子はそっけなく行ってしまった。夕飯の買い物だろうか。外見とは裏腹なマメさで家事もこなす麻子は、食材の買い物に神経を使うたちだった。
「特売日だったかな……」
 軽い思案に暮れる俊二の横で、先ほどとは打って変わって、里奈はきょとんと俊二の顔を見ている。
「……あ、里奈ちゃんごめん。ぼーっとしてた。それじゃあ帰ろうか」
「はい」
 俊二は麻子が去った方を確かめるように見てから、笑顔を作って里奈に語りかけた。
「それじゃあ、また今度」
「はいっ。じゃあ」
 里奈はまた顔を赤らめ、麻子とは反対の方向へと去っていった。


          

 月明かりが窓から忍び寄り、ベッドにいる俊二の半身を照らしている。彼は布団からはみ出ていた右手で目をこすり、時間を確かめようとして、少しのけぞると壁掛け時計を見た。九時だった。惰眠を過度に貪ったせいか、同じ体勢を保っていたからだろうか、背中がみしみしと痛い。左に寝返ってみる。寝起きの視力は儚いらしい。麻子がいるのに、よく確認できない。俊二は布団をはぎ、そこにあるはずの彼女の肢体をまたいで、壁掛け時計の下にあるドアの、横のスイッチを押した。部屋がパッと輝いて、思わず目が眩む。この瞬間が昔から嫌いだった。水晶体が感光触媒のように、周囲の風景をその刹那だけ切り取り、青とも赤とも区別のつかないぼやけた線で、景色を曖昧にさせる。彼は両まぶたを閉じ、左指を両目に押し付けて、眼球が正確に機能するのを待った。目を開けると、次第に部屋ははっきりしてくる。
 ベッドに目を遣ると、麻子が寝息を立てていた。その下には、夕方見た格好がそのまま脱ぎ捨てられている。俊二はもう一度彼女に目を送ったあと、クローゼットから灰色のジャージを取り出し、後ろを向いて着替えはじめた。と、その時、背中越しに声がした。
「やっと起きたの?」
 振り向くと、麻子が布団からちょこんと顔を出している。
「そっちこそ。あれ、寝てたんじゃなかったの?」
「実は起きてた。寝顔を見てた」
 俊二はサークルの打ち合わせを終え、アパートに戻ると、そのまま眠ってしまっていたのだった。里奈に指摘された部分をメモにおこそうと、気負って帰宅したまでは良かったのだが、ベッドで寝ていた麻子を見たとたんに、なにやら親愛の情にほだされたのか、怠惰な性が首をもたげたのか、彼女と同様に布団を被った俊二は、横になりながらメモを書いているまま、眠りに落ちたのだった。
「またベッドで何か書いてたのー?」
 ジャージと格闘している俊二に声をかけながら、麻子は布団の上に置いたままになっているメモを一つ手に取った。
「うん。色々刺激を受けてきたから」
「ふーん」
 と麻子はつまらなさそうに、
「サークルの里奈さんてどんな子?」
 と言った。
「夕方紹介したじゃん」
「うん」
「麻子の勤めてる所って、あのファーストフードの近くなの?」
「うん」
「初めて知ったよ」
「うん」
「うんばっかりだ」
「うん」
「アホ」
「うんうんうーんー」
 麻子は身をひるがえして、カーテンの方に顔を向けてしまった。足をバタバタさせ、鼻歌にのせて、うんうんと唸っている。
「あ。ふてくされた」
「ううんーうんうんー」
 俊二は肩を落として、落胆したふりをしながら、
「……何? 里奈ちゃんが気になるの?」
「別にー。気にならない」
「はぁ……。分かってるくせに、言わせるよね」
「何をー? うんうんうーんー」
「言って欲しいんでしょ? その、いつもみたいに」
「だから、何をー?」
 麻子の背中が、僅かに震えだす。
「僕が好きなのは、あ、麻子じゃんよ。あの子はただの小説仲間だから……」
「……ぷぷぷ」
 麻子の唸り声が、抑えきれない笑い声に変わった。
「馬鹿」
「可愛いっ」
 彼女は俊二の方を満面の笑みで振り向くと、
「あははは、ご飯の用意するねー」
 言いながら布団を出て、コンポの電源を入れると、麻子は台所にパタパタと歩いていった。部屋を音楽が満たし始める。俊二は歌のサビまで聴いて、かかっているのが麻子の一番好きなミュージシャンの、一番好きな曲であることに気づいた。彼女は、この歌い手について詳しかった。
 アメリカの東海岸の、小さなバーでピアノを弾いていたこのミュージシャンは、デビューした後その経験を元に曲を作り、大ヒットした。今流れているのがまさにその曲で、ハーモニカから始まるイントロが印象的なこの曲とともに、彼はスターダムにのし上がった。
 俊二は麻子の鼻歌を聴き、彼女の機嫌が直ったことを確認すると、先ほどつられて笑ってしまった口元を手で押さえてから、ジャージを着終え、調子を取り戻したように背伸びをし、机に向かって腰掛けた。パソコンを起動すると、昨日のままの文章を睨みながら、「さあ」とワープロソフトを立ち上げる。
「ベッドにメモ置いたままで、書けるのー?」
 台所から、極めてささやかな突っ込みの声がした。


          

 世間の恋人同士よりも、仲むつまじいと感じている俊二であったが、一方で麻子に対して、常々抱いている疑問が一つだけあった。
 飲み屋で出会った日から、なだれ込むように付き合い始め、ちょうどその一ヵ月後に同棲することになったのだが、彼女は不思議と、夜中に明かりを消して寝ることを嫌がった。問いかけると、「完全な暗闇がいやなの」という返事。対して俊二は、明かりがあると寝られないたちであったため、明かりは消すが、カーテンは開けたままにするということで、二人は折り合いをつけた。どうして暗闇が嫌なのか、俊二は再三尋ねたが、彼女はただ「暗いと私もあなたも分からなくなるじゃない」と言うだけだった。この科白のときだけ、彼女は一切いつもの笑みを浮かべてはくれなかった。あまりにも頑なだったため、俊二も聞き追うようなことはしないでおこうと判断し、それきりその話題はカーテンの外に消えた。付き合っているのに、大事なことは言えない。それがもどかしくあったし、麻子が闇を怖がる行為に、何か別の心配を秘めているのではないかと俊二は思ったが、本人が話しを打ち切ってしまう以上、聞けなかった。
 そして二、三日前に、麻子と喧嘩をしたのは、まさしくそのことが原因だった。多少の荒療治でも暗い場所への恐怖を克服してやろうと、俊二は明け方寝ぼけた振りをしてカーテンを閉めようとしたのだが、麻子はすぐさま起きると、彼を制してから頬を一度平手打ちして、無言の喧嘩になってしまった。彼女の目には、涙が浮かんでいた。
 今朝になって、彼女から謝ってきたのだが、「もうしないで」ときつく念を押す彼女の顔には、憂いとも憎悪とも似て非なる、複雑な瞳があった。俊二も謝ったが、どうしても腑に落ちないままに、彼は部屋を出て打ち合わせに向かった。平手打ちをしたときの、麻子の顔が目に焼きついていた。
 そのような経緯があって、胸に一物を抱えたまま、この日最終的な打ち合わせに来た俊二であったが、里奈の曇りのない原稿を読んだとき、俊二の胸には別の衝動が掠めて、喧嘩のことは刹那に忘れてしまった。彼女の小説が、名作だったのである。里奈の原稿は推敲に推敲を重ね、まさにそれは輝きを放つような仕上がりとなっていた。彼女は大学の同輩で、年齢においては浪人を経験している俊二よりも一つ年下であったが、才能に年齢は関係ないのだいうどこかで聞き腐った科白を、今一度陽の元に呼び覚ます機会があるとすれば、彼女の作品を読んだこの瞬間なのだろうという思いが胸を独占した。同じ物書きとして、嫉妬に似た感情も持ち得ない。
「正直、すごいと思った。君の歳で、あそこまで書けるなんて」
 里奈は飲める酒の量を超えてしまったのか、先ほど頼んだジントニックを、飲まずにしきりにタンブラーでかき回しながら、
「そんなぁ。私は俊二さんみたく、恋愛のことはあまり分からないから、書けないし……。私こそ、俊二さんみたいな、深い心のひだっていうか、リアリティっていうか、そういうのを書けるようになりたいです」
 と照れながら、話題の方向を変えようと必死になっていた。
「……そんなことないよ。僕は今回だって、ちゃんとした終わり方さえまだ思いついていないのに。里奈ちゃんは才能あるんだよ絶対」
 ジントニックが渦を巻いて、溢れんばかりになる。
「あわわ……そんなに褒めないでくださいっ。と、ところで! ……ラスト、やっぱり書くの大変そうですねえ」
 里奈は頬を桃色に染めたまま表情を少し硬くし、執筆の遅れを咎めるというよりも、本当に心配しているように、俊二の顔を覗きこんだ。
「まじごめんね。どうにも思いつかないかもしれない。もし原稿を落としたらどうしよ」
「そのときは、そのときです。私も、書けないときはありますから」
「里奈ちゃんは優しいなあ」
「はは」
「いい人だ」
「そんなにいい人じゃないですよぅ」
 と再びタンブラーを回し始めた里奈を、俊二はまじまじと眺めている。二人は里奈が前々から「是非是非」と自信を持って薦めていた、とあるバーにいた。夕方の打ち合わせを終えて、気分転換をしましょうと飲みに誘ったのは里奈だった。日ごろは麻子のことを考え、他の女と夜ご飯を食べるのはよそうと、初心な中学生のように決意していた俊二であったが、今は麻子のことを思うだけ、ぐるぐると胃の中を思いが徘徊した。胸のたがをはずすのに容易だった。酒がよく喉を通る。麻子以外と飲むのは久しぶりだろうか。俊二の酔いは次第に深まっていった。
「……俊二さんは憧れです」
 ふと、トイレから戻ってきた里奈は、思いつめたように呟いた。酔いに任せた上での科白なのだろうか。俊二さんの文章はとても素敵です、本当に素敵ですと、酒で上気しているのか分からなかったが、いつもより饒舌に、俊二を褒めている。
「俊二さん」
「ん?」
 里奈が日焼けもしていない小さな手で、俊二の手に手を重ねてきた。
「ど、どうしたの?」
「……」
「見つめられると照れるかも」
「あ……」
 彼女は我に返ったように手を引っ込めると、えへんと調子を戻してから、呟いた。
「私、好きなんです」
「はは。え?」
「好きです」
「え? 文章を褒めてくれるのは嬉しいけど……」
 里奈がわたわたと慌てて言い直す。
「あ、あ、好きですけど、そうじゃないんです。好きだけど、違うんです。文章じゃなくて……」
「……」
 言いたいことは間をおいて理解した。ほのかな好意を感じることはあったが、文章に対して思ってくれていることなのだろうと俊二はたかをくくっていた。第一、里奈には麻子を紹介している。酔った上での戯言なのだろう。
「ありがと」
 酒で消毒されつくした左脳は、今や気の利いた一文もひねり出すことができない。俊二は少しぼやけた視界と、ゆらゆらと船に乗っているような浮遊感に身を任せながら、里奈が言葉を語るのもあまり聞かずに、彼女の口元を見ていた。麻子よりも薄かったが、それはそれで魅力的だった。少し視線をあげると、大きな瞳のその上には、いつもはないアイシャドーがあった。小柄だが、容姿端麗で文才もある。二つの才能を持ちえている彼女が完全に思えて、俊二は視界のふらつくままに、里奈を抱き寄せた。柔らかい肩の感触が指先から伝わる。かすかな髪の匂いが、脳を安らぎへと誘う。彼女も柔らかくもたれかかるように、俊二に肩を預けた。記憶はそこで途絶えた。


          

 帰宅したのは、翌日の夜だった。
 玄関のドアを開けると、部屋は暗いままであった。麻子が帰宅していれば、アパートには必ず明かりがついている。寝るとき以外は、夕方でさえ電灯を煌々と付けている彼女だから、恐らくまだ帰ってきてないのだろう。しかし、靴を脱ごうとして下を向いてみると、そこには麻子の靴があった。仕事用の靴は幾つもない。どうやら彼女は中にいるらしい。
 俊二は二日酔いの頭を叩きながら靴を脱ぎ、部屋へと入っていった。カーテンは開いているが、ベッドにはいないようだ。とすると、バスルームだろうか。まさか。明かりもつけずにシャワーを浴びるなんて、そんなことはないはずだった。
 一応バスルームを覗いてみるが、彼女はいない。
 どこからか笑い声がした。
 その声になびかれて、バスルームを出、ベッドのほうを振り返ると、そこは先ほどと同じく、もぬけの殻だった。
「おかえり」
 麻子はベッドの脇にあるクローゼットの前に立ち、俊二を見つめていた。いつから居たのだろうか。彼女は羽織るものも羽織らず、しっとりとした腰つきのわりに、全体としては骨ばった肢体を今、月明かりの元で露わにしている。
「お酒ない? 飲みたい」
「……ただいま。酒はないはず。たしか」
「つまんないのー」
「それより、帰ってたの?」
「うん」
「そうか……」
「ていうか、今日お仕事行かなかった」
「……」
 彼女は俯いてから、肩を小刻みに震わせて苦笑した。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
「無断欠勤はいけないんだぞ」
「だよねぇ」
「いけない子だ」
「そこが魅力って言われる」
「アホな」
 俊二が茶化すと、二人は笑い出した。部屋中に漂っていた均質なしじまが、笑い声と一緒に僅かに溶けはじめた。麻子は怒っていないようだった。しかしいつものように楽しくなりかけたリズムは、彼女から打ち切った。
「家に帰ってこなかったことなんて無かったのにい」
「……昨日は、ちょっと」
 俊二が言いかけて、それを遮るように、
「まあいいや! ラストのアイデアは浮かんだ?」
「……いや、浮かんでない。浮かびそうだけど浮かんでない。収穫はなかったな……」
「しょうがないなあ……。あの小説のラストは、決まってるのに」
「どういうこと?」
 俊二は訝しげに彼女を見つめた。笑っている麻子は、既にそこにいなかった。今彼の前に立っているのは、真顔の麻子だった。
「もう分かってるのに」
 彼女の言いたいことは分からなかったが、聞きたくない。そんな気がした。黙るか、問い返すことくらいしか、言葉にならない。胃の辺りがおかしい。のしのしと、内側から押されている気分だ。
「なにが?」
「……明かりを消してから、カーテンを閉めてくれる?」
 俊二の胸に、不快な渦が生まれた。明かりのない中でカーテンを閉めることは、麻子が最も嫌がる行為のはずなのに。彼女の口から放たれた言葉は、俊二の胸を苦しめた。
「そんなことしたら、怒るじゃん」
「怒らないよ」
「怒るね」
 彼は語気を強めた。
「なに? 昨日帰ってこなかったから、いやがらせ?」
「違う。もう閉めても大丈夫って思ったの」
「あんなに嫌がってたのに?」
「うん」
「まさか」
「ほんとだよー。大丈夫。もう決めたから」
 平然としてる麻子の顔は、今まで見たことのない表情だった。俊二は彼女との距離が急に遠くなったような気がして、意味のない怒りが沸々と湧いてくるのを感じた。そして、同時に彼女が愛おしくなった。
「昨日は本当にちょっと帰れなかったんだよ!」
「うん」
「怒ってるんでしょ?」
「怒ってないよ」
 女は寂しそうに言った。出会った日、寂しいから酒を飲み、寂しくないから酒を飲むと言った女は、今、酒も飲んでいないのに、至極寂しそうだった。
「どうしていつも最後には茶化すんだよ。曖昧なままで……!」
「茶化してないよ。本当に怒ってないよ」
「……カーテンを閉めて、部屋の明かりを消したら、真っ暗になるよ」
「そうね。そうしてちょうだい」
 麻子は儚げに笑った――一緒に笑って欲しいとても言わんばかりに、俊二の方へゆっくりと右手を伸ばしながら。
 やがてその手が、彼女の右頬に来ると、そのまま小さく手を振った。
 俊二は一瞬唇を噛み、首を傾けてから目を瞑り、次に目をあけた後は、ぎこちない笑顔を作った。そうして、麻子を見つめたまま、手を後ろに遣り、スイッチを指先で押して、部屋の明かりを消した。
 パチン。
 明かりをつけた先ほどのように、視界はぼやけた。暫くして暗闇に目が慣れてくると、麻子の体が窓から漏れる光に照らされて、美しく蘇るのを見た。平生見慣れていると思っていた彼女の体は、肌の白さが幸いし、彫刻のような美に仕上がっていた。俊二は暫くの間見とれてから、視線を窓に移した。ベッドにあがってカーテンに手をかける。
「じゃあね」
 闇の奥から声がした。カーテンを閉めた部屋は真っ暗で、俊二は手探りでベッドを降りると、再びドアの前に戻ってくる。感覚で、スイッチの場所は覚えていた。
 パチン。
 明かりをつけた次の刹那には、麻子は既にどこにもいなかった。服も鞄も、靴も無かった。俊二は握りつぶされた粘土のような胸苦しさを覚え、壁に寄りかかった。そうして腰を落とすと力なく横たわり、両腕に顔を軽く添えて、嗚咽した。


          

 冬枯れした川の土手に、天気予報通りの春風が吹いた。時折どこから飛んできたのか分からないようなダンボールも風に乗って、下流の陸橋の方へと運ばれていく。俊二は土手に座って、麻子と出会ったあの居酒屋を見つめていた。よくよく考えてみれば、川の方から居酒屋やその先に見える大学をじっくりと見たのは、初めてかもしれない。居酒屋は、裏手の二階に洗濯物が干されていて、生活している様子が伺える。やけに小さい制服も干してあり、小学生か或いは幼稚園の、まだ幼い子供もいるのだろう。俊二は連想しながら煙草を取り出すと、一本火をつけた。深く吸い込んでから吐き出した煙は、風にさらわれてすぐに消えていった。
 俊二の手には結末を書き終えた原稿があった。そして、彼は里奈を待っていた。小説は書きあがった。この上なく簡潔に、そして悲しく。
「お待たせしました!」
 近くで声がしたかと思い、俊二がそちらを向くと、里奈が両手を振っていた。彼女は途中で一度転んだ後、黄緑色のスカートについた芝生を払おうともせずに、土手を駆け上ってきた。
「原稿ができあがったんですね!」
「……ああ」
「すごい! すごいです。嬉しいなあ。ラストはどうなったんですか? さっそく読ませてください」
 俊二は原稿を手渡すと、こくんと頷いて、無言で返事をした。
 二本目の煙草の、フィルターの近くまで火が昇ってきたのも気づかず、里奈が原稿を黙読している最中、俊二は飲み屋を見つめていた。
「俊二さん! 火、火!」
「あ。あちち」
 クスクスと笑いながら、里奈は読み終えた原稿を胸に当て、破顔した。
「感動です。切ないですね……この二人。女性の方が、去ってしまうなんて」
「ありがとう」
 俊二は覇気のない声で答えた。そうして、里奈の方を向かないまま、胸に秘めていた事実を語り始めた。
「今まで言えなかったけど……」
「なんですか?」
「本当に悪いと思ってる。その小説自体君に見せるべきじゃないってことも分かってる。でも見せた僕を許してくれ。そして、今から言うことを聞いてくれ。
 僕はある女性と付き合っていた。その女性とは同棲もしていた。僕はその女性のことが、すごく好きだった。君と会いながら、次第に君が僕に対して、好意を持ってくれていることには気づいていたし、気づかない振りをしていたことは本当に悪かったけど、僕はその女性のことが、とにかく好きだった。愛していた。でも、その女性とはあることがきっかけで、別れた。無くして気づくことがあるなんて、分かっていたし、そうならないように努力もしていた。無くさなくても分かっていた。どんなにその女性が大事だったかって。でも、僕が馬鹿だったから。僕は理屈っぽくて、その癖自分の行動だけはそれを通さない。分かっていてもできない。その女性のことが好きだったんだ。でもその女性は去ってしまった」
「……」
 里奈は聞いているうちに、うなだれるように両肩を下げると、そこに頭をうずめた。俊二が何度か呼吸を置いても、今回だけは、彼にフォローを入れることはなかった。だまり続けて、そのうちひくひくと肩を震わせはじめた。
「ここまで言って、分かりきってると思うけど」
「……言わないでください」
 俊二の方に顔を向けることもなく、里奈は下流の陸橋へと視線を移したまま、
「これ以上、ひどいです……」
 と言った。
 最後まで言うのは、里奈をさらに傷つけると分かっていながら、どうしても止めることができなかった。俊二の頭には、もはや去ってしまった女のことしか、なかった。
「言わせてください。ごめんね、里奈ちゃん。そうだ。その小説は、私小説なんだよ。僕とその女性とのことを書いていた。僕とその女性との間に、結末が無かったから、書き終えることができなかったんだ。僕の頭の中には、もう彼女しかいない。……麻子しかいないんだ」
「……麻子さん……」
「……そう……」
 里奈は視線をはずしたまま、
「麻子さんて、どなたですか……」と呟いた。
「……里奈ちゃんに紹介した女性だよ。軽くだけど……。君は忘れてしまったかもしれないけど、打ち合わせも最初の頃、ファーストフードを出たときにあった女性……」
 俊二の短い言葉に呼応するように、里奈の肩の震えが止まった。
 彼女は何を言っているのかとでも言いたげに、俊二の方へと向き返し、眉をひそめ、大きな目を見開いて彼を直視した。抑揚していた呼吸は、にわかに治まった。
「いくら俊二さんでもひどいです。……私と別れたいなら、そう言ってください。嘘なんかつかないでください」
 里奈は顔を紅潮させて、僅かに声を荒げた。
「……本当に、麻子さんて誰ですか?」
 俊二は彼女が何を言っているのか、分からなかった。里奈と一晩を明かしたとはいえ、付き合った覚えはなかった。確かにそれと同じような関係と呼べなくもなかったから、否定まではしないが……。しかし彼は、麻子の存在自体がないがしろにされたような心持ちになって、思わず憤慨した。そうして、一言ずつ確かめながら、言った。
「……会ったじゃん。彼女って紹介したじゃん」
「してませんよ。そんな女性会ってません。ファーストフードを出た後は、誰にも会ってませんっ。あのときお店を出て、俊二さんが私のこと、彼女って確認してくれて……私、本当に嬉しかったんです。こ、告白されるのは初めてだったし、勇気がなくて言えなかったですけど……だから、私も……言葉にしてないなと思って、お酒を飲んだときにやっと好きって言ったのに……ひどいです……」

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