『聞いて、聞いて!』


「聞いて、聞いて!」

 ふと、あの頃のことを思い出した。

バイトをはじめて一週間が経って、仕事にも少しずつ慣れはじめていた頃。そして自分の数十年後について具体的に考えるなど思ってもいなかった頃。ただ気がついたのは、今が楽しすぎると同時に、バイトをすることなど意味がないのではないか。社会勉強というよりは、お金が欲しかっただけなのだろうか。
 十年後の自分は何をしているのだろう。子どもはいるのだろうか。そもそも、結婚しているのだろうか? わからなかった。想像できなかった。茫洋とした、誰もが持っていた不安だけれども。
 バイトの帰り道、閉まった宝くじ売り場には、年末ジャンボで「当店から一億円くじが出ました」という内容の張り紙が貼ってある。それを見ても、まったく宝くじを買おうという気になれなかった。

 風俗などのチラシと一緒に、郵便受けのなかに一本のビデオテープが入っていた。六〇分録画できるものだった。最初まで巻き戻されている。タイトルのシールは貼られていなかった。
 それ系のビデオを友人に貸した覚えもなく、いたずらをするような知人も思いつかなかった。新しい広告なのだろうか。
 ポストから出したときは見てみようと思ったのだが、ドアを開けた時から、思っていた以上に疲れているのか、時計を確認もせず、横になった。
 最近は夜更かしすることが多く、昼夜は逆転しかかっていた。それが祟ったためか、週に二度のバイトで強制的に矯正したためか、体が重い。明日は休みだったので、朝まで眠れば狂った体内時計も元に戻るだろう。
しかし空腹を無視できるほどではなかった。
最寄のコンビニからこのアパートまでは十五分ほども歩かなければならず、下手をすると弁当が冷めてしまう。なら自宅で温めればいいのだが、この部屋には電子レンジがない。

 僕はテーブルの上に置いたままの漫画を数冊掴み、とりあえず枕元に積んで、食事ができるペースを作った。コンビニへの往復で眠気は少しだけ引いていたので、せっかくだから、このビデオを観ながら食事をしようと思った。出所がわからないだけに、食事をしながら観るには適さないものである可能性は大きいが、幸い――それで良いのかよくは分からないが――僕のそういった方面への感性はかなり鈍感にできていて、はっきりいえばなんとも思わない(多分)。
 このようになってしまったのは、育て親が悪いのではなく、僕が不精であり、鈍感だからだろう。少しだけ申し訳ない気持ちになってしまった。

 ビデオデッキにビデオテープを差し込んだ。テープが機構のなかに吸い込まれようとしている感触。僕はしばらくテープを掴んでから、手を離した。
 ビデオは自動的に再生をはじめ、セーラー服の少女が映し出された。
テレビでも雑誌でも見たことのない顔だった。新人アイドルか何かだろうか。どうして僕のポストに、という疑問から答えを出す前に、しばらく無表情でこちらを見ていた少女は、まるで僕が見ていることを分かったように、小首をかしげ歯を見せて笑ってみせた。そして言った。
「聞いて、聞いて!」
 それから、今日あったことを話しはじめた。
今朝は八時だと思って慌てたら七時だったこと。
通学の電車がいつもより空いていたこと。
昼ごはんに学食でカレーを頼んだら味噌汁が付いてきて驚いたこと。
所々、話に詰まりながら少女は話した。それでも僕に向かってとにかく伝えようと必死になって、そうすれば彼女と僕とが幸せいっぱいになれるかのように。
「わたしの部屋って、すごく汚れてるんだよ。読んだ漫画とか本とか、積んだままだし」
 気がつけば彼女自身の話になっていた。それを聴いた僕は、同じだと感じてしまった。流石に生ゴミだけはしないけれど、開けたものは開けたまま。破ったものは破ったままだ。
 結局冷めてしまっていた弁当を食べた後も、僕はそのビデオテープを最後まで見た。30分ほどだったか、よくしゃべる女の子だと思った。また巻き戻し、もう一度「聞いて、聞いて!」を聞いてから、リモコンの停止ボタンを押した。元気そうな少女が消えた。画面には、少し嬉しそうな僕の顔が映っていた。

 次の日、またビデオテープが郵便受けのなかに入っていた。
 次の日も。そのまた次の日も。
 毎日、ビデオテープは僕のもとへ送られてきた。ただし内容は毎日違っていた。あるときは悲しかったこと(僕にとっても、彼女にとってもたわいもないことだった)、時々は恋の話。または親友ユキの話。ただ毎日毎日、手を変え品を変え、画面の中の少女は、話を続けていた。
 やがて僕は、彼女の話を聞きながら食事をする日々を過ごすようになっていった。よく話のネタが尽きないな、と感心した。
 僕は彼女が羨ましいと感じはじめていたのかもしれない。
彼女は生きていることを楽しんでいた。ただ能天気なだけなんかじゃない、ということは数日彼女の話を聞いていればすぐにわかった。彼女は日常の片隅に落ちている、光る石を見つけることができる、稀有な人間だった。そういう人間は往々にして嫌なものばかりを見るようになって、ひねくれてしまうのだが、彼女はただ楽しく生きるために、自分自身の観察力を大切に使用していた。彼女は自分の周りの世界がさまざまな色の光る石で美しく飾られていることを知っていた。
彼女は、日常にバリエーションを加えているのだ。
 それに比べて僕は、繰り返しの毎日だった。
 バイト仲間はろくでもない連中ばかりだと感じる時、僕もろくでもない奴と思われているのだろう。ビデオテープを見て、彼女の話を聞いて、そのことを思い知らされた。でも、どんなにバイト仲間を見つめても、僕には光る石を見つけることはできない。このビデオには、僕自身が代わらなければならない、そんなメッセージが含まれているような気がした。
 もしかすれば、僕と彼女の生活はあまり変わらないのかもしれない。でも彼女は、自分から光る石を探している。そんな積極性が伝わってくる。
コンビニ弁当よりバリエーションが少ないような、そんな僕の日常は、彼女みたいになれるのだろうか。なれると思う。ただ努力をしていないだけだと、話続ける少女から教えられているようだ。
自分でも分からないが、照れたのか図星だったのか、含み笑いを消すためにウーロン茶を流し込んだ。もしテレビの中の少女と話せるのであれば、どうすればいいかを訊いてみるのも悪くない。

             *

「だから、そこでユキが愛してるーって云うから、私も愛してるーって返したりして」(女の子どうしはそんな会話をするものなんだろうか)「たまに右側から見るのと左側から見るので別人に見える人っているよね」(そう云われると、たしかにいる)「最近、お父さんが忙しそうなんだ。御飯をちゃんと食べてるのかなーとか、しっかり一日八時間は寝てるのかなーとか、心配してるんだ」(この年頃の女の子が父親のことを心配するなんていうのも珍しい。ビデオ・メッセージだからこそ言えることかもしれない)「ひさびさにお母さんの手作り料理を食べると、なんだか何よりも美味しく思えるものなんだね」(もう、母親の料理の味を思い出せない。この間など、五分くらい母親の名前を思い出せなかった)

             *

 数週間が経ったころからだろうか、僕はふと彼女が何かを訴えようとしているのではないかと考えるようになった。いや、この言い方は大袈裟かもしれない。実際には、ふと頭を掠めるようなことがたまにあるだけだった。これだけ楽しそうに毎日を過ごしている彼女に、心配ごとなんてあるわけない。僕はそういう風に考えていた。あるいは『理想の生活』を彼女に求めていて、それを破壊されるのを怖がっていたのかもしれない。勝手な話だ。
 なんとなく……本当になんとなくだが、話の合間に彼女が僕を見る眼が、何かを訴えている、そんな気がした。
 それは憶測でしかなく、もしかすれば僕の、彼女への嫉妬だったのかもしれない。

 疑えば消えてしまう、のだろうか。
 やがて、ビデオテープが届く間隔は開きはじめた。一ヶ月開いたのを最後に、もう少女は僕に話しかけることも、微笑みかけることもなかった。
僕はその現実を受け入れるのに、その数倍もの時間を要した。
いや、まだ僕は現実を受け入れていないのかもしれない。

 あれからの僕は、当時のバイト先に就職してしまい、運が良かったのか、とんとん拍子にある程度の地位にまで成功していた。最近は、新商品の広告が過激すぎるとのクレームが付き、その件にかかりっきりだ。毎日新しい案を出しているのだが、重なる広告費に中々上層部は首を縦には振ってくれない。ただ会議が長引き、それに時間を食う日々が続いた。
 会社から開放されるのが八時。それからの事務処理も多く、帰途につくのが九時過ぎで、家に帰るのが十時ごろ。それからしなければいけないこともある。
ただ、バイトの時のように疲れた身体を引きずるように家まで運ぶのではなく、子供の面倒を見ながら、家事をしっかりとこなしてくれる妻が待っている楽しみもある。
 妻とはビデオテープが届かなくなった直後にバイトで知り合い、テレビを見ながら食事ができない癖を驚かれた。それを言うか言うまいかと悩みもしたが、簡単に事情を伝えた。
 妻はお腹をかかえて笑ってから、
「それじゃ、いっぱい話しをしながらの食事になるわね」
 と言ってくれた。そして詳しくは訊かなかった。僕は、彼女のそんな優しさが好きになったのだと思う。やはり、テレビの中で彼女以外の誰かが笑っているのを見ながら食事をすることができない。少なくとも彼女を裏切っているような気がすると、どうしても言えなかった。
出会ってから月日が経ち、結婚を済ませ、二人の間にできた子どもは、あと数年で中学生になろうとしている。あれから、もう、それくらいの時間が過ぎたのだ。でも僕はまだ、あのビデオテープのことを忘れることができない。もはやDVDですら次世代メディアにとってかわられたというのに。
 玄関のドアを開けると、起きて待っていた娘が僕を迎えてくれた。
「パパ、おかえりなさい!」
「うん、ただいま」
 奥のキッチンから妻の声も聞こえる。軽い夜食を作ってくれているのだろう。
「ねえ、パパ」
「なんだい」
 僕は笑顔を作って娘を見た。
娘は微笑んだ。小首をかしげて、白い歯を見せて笑った。
 その瞬間、重なった。
どうして今まで気づかなかったのだろうか。ありもしないはずのことに気がつくわけがない。偶然なのか、それとも……。
「パパ、どうしたの? 疲れてるの?」
 僕の顔が恐かったのか、娘は少しだけ距離をおいて訊いてきた。
「ん、いや、大丈夫だ。それより学校はどうだった。いじめられてやしないか?」
 笑顔に安心したのか、僕のズボン裾をひっぱりながら、娘は嬉しそうに話しはじめた。もし他人の大人にも同じように引っ付いていったらと、疑惑より心配している自分に苦笑いした。
「聞いて、聞いて!」

                                              了

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