『シーメール・クローニング』

       【 1 】

 私には、生まれた時の記憶がない。
 あるいは、みんなそうかもしれないけど。
 誰だって、自分が生まれた事実に気づくのは、すでに生まれた後だ。
 何故、自分はここにいるのか?
 どうやって、ここに来たのか?
 そうした途中経過の記憶が全然ない。
 だから私は、ずっとそれを考えている。
 ここは静かな場所だ、どこなのか分からないが、余計な物音が全くない。
「…………」
 ふと、誰かに呼ばれた気がした。
 ハッキリと捉えることは出来ない。
 気のせいだろう、私は眠くなる。
 抵抗の出来ない、引き込まれそうな感覚。
 意識にボンヤリと霧がかかり、難しく考えていたことがどうでも良くなる。
 思考は真っ暗な闇へと変わり、やがて私の意識は死んでゆく。

          *

 シュン、と空気の擦れる音をたて、揺りかごの台座に乗せられた等身大の寝台カプセルが、わずかに持ち上がる。
 ライトグリーンの床に置かれたカプセルは、卵型を横にしたメタルシルバーの球体だ。
 処方薬を包むゼラチン製のケースに似て、歪みのない光沢をおびている。
「…………」
 そしてカプセルの横に立つ人影が一つ。
 なめらかな楕円形の表面に、白衣を着た女医の姿が湾曲して映りこみ、鏡面仕上げの銀色が、女医の左胸に付けられた名札の文字を反転させる。
 白いプラ板に黒く溝を刻んだ鏡文字を引っくり返せば、イルジュ・ヤンジュと読み取れた。
 どちらが苗字で名前なのか、性別も国籍も分かりづらいそれが、女医の名前だった。
 コートのように羽織った白衣のポケットに両手を入れ、ヤンジュはガラスで作られたカプセルの上表部に顔を寄せる。
 目から血が流れそうな紅い瞳が二つ、中身の透けたガラスの表面に映る。
 ガラスに映るヤンジュの顔は、部屋の壁よりも白く、唇の色も薄い。
 ヤンジュは先天性の白子、アルビノだ。
 茶色のウサギが家畜化の過程で色素を無くしたように、アルビノは生れつき白髪なのだが、ヤンジュは短い髪と眉を真っ赤に染めている。
 赤い前髪をクシャクシャに逆立て、むき出しの丸いオデコがガラスに当たるほど顔を近づけたヤンジュは──ホウッ、と呟く。
「ツイン・ピークスだわ……」
 二十世紀映像マニアのヤンジュを映すガラスの下に、美しい死体に似た顔があった。
 ほっそりと整った、女性的な顔が見える。
 その顔の周囲を、長く伸びた青い髪が湖面へ沈んだように飾っている。
「んー、起こすのが残念な寝顔だけど」
 子供のベッドサイドに立つ母親の口調で呟き、カプセルの横に付けられたボタン類を操作する。
 ガスの抜ける音をたて、銀色のカプセルが缶詰めのようにフタを開ける。
「あー、グラシオスさん。もしもしグラシオスさん、聞こえますー」
 膨らみのない痩せた体が、病院で支給された、簡素なパジャマを着て横たわっていた。
 口を開けたカプセルに身を乗り出し、ヤンジュは中の人物、グラシオスさんに声をかける。
「グラシオスさん、もう終わりましたよー。大丈夫ですか」
 片手で弱く肩を叩き、右手の指で細い首筋の片側を探り、頚動脈をはかる。
「……ッゥ…」
 ふと、グラシオスさんの喉元が上下し、口から弱いうめきが洩れた。
 しばし、うっすらと両目が開くと、その瞳は髪と同じく、淡いブルーに濡れていた。
 グラシオスさんの目が照明を放つ天井を見つめ、カプセルの横に置かれた巨大な装置へ移り、ヤンジュの顔を認めて止まる。
「ああ、気づかれました、グラシオスさん」
 ニッコリと、柔らかく微笑む。
 グラシオスさんは、まだ意識が覚醒しないらしく、退屈な二時間映画のラストシーンを見るような表情を浮かべ、体を起こそうとしない。
 そして低く掠れた声で、ヤンジュに訊ねる。
「あの、ここは」
「んー、治療室ですよ。正確には治療実験室とか、治験室とも呼びますけど」
「治療室……」
 不安げな呟きに、ヤンジュは顔をなごませる。
「あー、まだ頭の中がボヤボヤしているでしょう? 分かります、分かりますよ。今まで完全に記憶のない状態をシミュレートしてたんです」
「…………」
「大丈夫、すぐに全部思い出します。無理をせず寝ていて下さい。まだ眠いでしょう」
「はい」
 はたして、その言葉が理解できたのか。
 グラシオスさんは夢見心地の無表情を浮かべたまま、両目を閉じる。
「後はこちらで移動させますから、次の診察まで休んでもらって大丈夫ですよ」
 しかし、グラシオスさんからの返事はない。
 寝台カプセルから聞こえ始めた弱い寝息に、ヤンジュは、フッと軽い笑みを送った。

 そしてヤンジュはカプセルを離れ、その横に置かれた巨大な装置へと近づく。
 装置の本体は、ヤンジュの身長より頭二つほど高い円筒形の柱だった。
 周りには複数の機械が置かれ、そこから柱とカプセルを繋ぐコードが伸びている。
「さてと、こっちの様子はどうかな」
 右手を差し出し、銅貨のような灰茶色の光彩を浮かべた柱の表面に押し当てる。
「えー、ココと……ココで、次がココか」
 タンタンタン、とヤンジュが手の位置を替えて触れると、パアッと柱の表面が光を放ち、金属の質感が明るいガラスのように変化する。
 透明な柱の内部は赤い溶液に満たされ、魚を飼う水槽のように、気泡が湧いている。
 そして溶液の真ん中には、リンゴほどの大きさをした丸い球体が、ジッと浮いていた。
 色は桃のようなピンク、しかし形は不揃いで、二つの果実が合体したような奇形だ。
 さらに内部の天井と床からは細いコードが何本も球体へ向かって伸び、複雑な抹消神経のように絡み付いている。
「んっ、とりあえず順調に育っているわ」
 一つ頷き、表面に手を触れると明かりは消え、装置は再び金属質の柱へ戻った。
「さて、次は問診だっけ……」
 赤い髪を片手で掻き上げながら、ヤンジュは装置を離れ、出入り口の横に取り付けられた壁掛け式のテレコールへ向かう。
「看護師センター、三番」
 片手で受話器を取り上げ、簡潔な口調で相手先を告げる。
 二回目のコール音を聞く前に、淡々とした男の声が──はい、もしもし? と応えた。
「あー、もしもし。クローニング外科のイルジュ・ヤンジュですけど」
 相手に自分の名を告げながら、ヤンジュは壁に背中を預け、グラシオスさんの眠る寝台カプセルに視線を向けた。
「ええ、そうです。胎内シミュレータ/レベル1まで完了。患者の移動をお願いします」
 手短に用件を伝え、受話器を元に戻す。
 これにて、第一段階終了。
 ヤンジュは壁にもたれたまま、フーッと息を吐き、しばし思考を止める。
 一人で考える事が、どうにも多すぎた。
 まったく、と弱く気を吐いてから重そうに体を起こし、出入り口のドアに向かう。
「……対性クローニングか」
 難しい表情を浮かべたヤンジュは、最終戦争で核兵器の使用を決断した司令官の口調で呟くと、片手でドアを開け、治療室を後にした。

       【 2 】

 診察室は六畳ほどの四角い空間だった。
 壁際にワンセットのデスクが置かれ、部屋の中央には黒いレザー張りの診察台がある。
 両サイドの壁は、片方が窓になっていた。
 壁の上半分はガラスで作られ、巨大な装置の置かれた治療室が向こうに透けて見える。
 診察室と治療室は併設されているのだ。
 そして一つきりのデスクに向かうのは、赤い髪の女医、白衣姿のイルジュ・ヤンジュ。
「じゃー、とりあえず診察をしましょうか」
 キャスター付きの回転椅子をクルリと動かし、ヤンジュは体ごと振り返る。
 体を背もたれに預け、細いズボン履きの両足を楽に組み、まるで緊張感のない姿勢だ。
 その態度といい、染めた髪といい、およそ不良医師のヤンジュだが、これでもクローニング外科では唯一の担当医だった。
「まあ、前に答えた質問を再確認するだけですから、気楽に答えて下さいな」
 ヤンジュは雑誌サイズの黒いバインダーをデスクから取り上げ、両手に開く。
 薄いバインダーの中身は全体が液晶画面になっており、そこに診断書が表示される。
「えー、本名はアイラ・グラシオスさん」
 電子カルテに軽く目を通し、顔を上げる。
 向き直った診察台には、パジャマ姿のグラシオスさんが、バイトの面接を受ける学生のように、どこか心許無く腰かけていた。
「あー、年齢は二十七歳、本籍は男性、これに間違いはないですね?」
 ヤンジュの言葉に、グラシオスさんは気の細いアルトの声で答える。
「はい、間違いありません」
 高い鼻筋に二重の大きな目、女性的な顔立ちは整形、長い髪は青く染めたのだろう。
 今どき生まれたままの形でいる人間も珍しいが、グラシオスさんは男性である。
 それは遺伝子的にも、解剖学的にも、れっきとして証明されているのだが。
「ふむ、では少し治療法の説明をしますよ」
 軽く頷き、つま先に引っ掛けたスリッパをブラブラと動かしながら続ける。
「えー、まず先ほど使っていただいた胎内シミュレータに関してですが」
 煙草を吸うように片手で口元を叩き、ヤンジュは視線を隣の治療室に動かした。
「あー、そこの銀色をした卵みたいなヤツです。あれを胎内シミュレータと言います」
 グラシオスさんも顔を横に動かし、装置の置かれた治療室をガラス越しに眺める。
「ようするに、胎児の感覚を疑似体験させる機械ですよ。どうでした、入ってみて?」
「…………」
「んー、気持ちが良かったとか、悪かったとか、そういう感想で良いですよ」
「……気持ちは、良かったと思います」
「ほう、違和感はありませんでしたか?」
「違和感というか不思議な感じがしました。現実ではないのに、ちゃんと感覚はあって、なんと言うか……」
「夢の中にいるようだった?」
「はい、いや夢よりもリアルでした。今は、良く憶えていませんが」
 胎内シミュレータは、脳内に胎児の擬似体験を送り込む機械だが、それだけではない。
 カプセル内に組み込んだ六十二個の刺激体により、羊水に漂う浮遊感や胎児の窮屈な感覚までを忠実に再現することが出来る。
「あー、気分はどうです? 落ち着かない感じはありません?」
「いえ、大丈夫です。気分は、前よりも少し落ち着いている感じがします」
「なるほど、それは良い傾向ですよ」
 ヤンジュは視線を落し、電子カルテに表示された詳細を眺める。
 一般的なことを言えば、胎内シミュレータは精神病や人格障害などの心身症に効果がある。
 胎内という落ち着いた空間を与え、さらに患者の思考を胎児の段階まで戻し、ゼロから再構築することで、混乱した精神状態を復元させる。
 しかし今回、グラシオスさんの場合において、そうした精神安定効果は、あくまで副次的な作用に過ぎなかった。

 さて、とヤンジュは電子カルテから顔を上げ、本題に入る。
「えー、グラシオスさん。このままシミュレータ治療を続ける方法でも、あなたの性別同一性障害を完治させることは可能です」
「はい」
「あなたの場合、特に性転換症という症状ですよ。自分の性別に違和感を持ち、自分の体を可能な限り逆の性別と一致させたいと考える。それは今も感じていますね?」
 問いかけて顔を見つめるヤンジュに、グラシオスさんは無言で頷いた。
 性別同一性障害というと、よく同性愛と混合されがちだが、グラシオスさんの症状にはそうした倒錯的な性愛は含まれない。
 前回の問診によれば、性的な関係を持ったことは、男女ともに経験なしという話だった。
 いわく、子供の頃から、自分が男性であることへの違和感を持っていたらしい。
「このまま胎内シミュレータを続け、最終的には自分が生まれるという出生体験を通じて、自我を変革させることが治療の狙いなんですが、ここの辺りは理解できます?」
「はい、だいたいは分かります……」
 事務的なヤンジュの説明に、グラシオスさんは少しためらいがちに返した。
 乱暴な言い方をするなら『バカは死ななきゃ治らない』という言葉を実践するのが、胎内シミュレータ治療だ。
 死とは、すなわち生まれ直すこと。
 出生という死に匹敵するほど強烈な体験を利用した、一種のショック療法とも言える。
 グラシオスさんの理解は分からないが、この説明は他でも受けているはずだ。
 そこで納得していれば、クローニング外科の受け持ちになることも無かったのだが。
「では次に、対性クローニングですが」
 ヤンジュは片手を口元に当て、指で唇を叩き、しばし電子カルテに首を傾ける。
「あー、ひと昔前まで、性転換症といえば外科的な人体改造手術が唯一の治療法だったわけです。その意味では、対性クローニングは最新の治療技術と言えますけど」
 対性クローニングとは、被験者と逆の性別を持つ、性転換クローンを作る技術だ。
「あそこの装置ですよ。あの中で、現在あなたのクローンを培養する準備をしています」
 ヤンジュは再び隣の治療室に視線を移し、奥に置かれた円筒形の培養器を指した。
「状態としてはクローニング初期、細胞分裂の発生から、およそ二ヶ月。性別が分岐する素体の段階で止めています」
 一般的に哺乳類動物の胎児は、その発生段階においては全て雌性だ。
 そして人間の場合、性別を決定する性ホルモンが作られるのは、発生から三~四ヶ月。
「性ホルモンの分泌により、男性の場合は女性器の亀裂が閉じ、そこに男性器が作られます。つまり女も男も素材は同じわけですよ」
 性ホルモンが肉体を調節した後は、性決定因子を持つXY染色体の発現により、胎児の性別が固定される。
 X染色体は女性因子、発生段階から存在する雌性染色体をコピーした予備データ。
 Y染色体は男性因子、こちらは精子の製造法だけを示した、情報量の少ない設計図だ。
「女性はXX、男性はXY。とはいえ元々は一つの物を調整するだけですから、対性クローニングは難しい技術じゃあないです」
「元は一つ、ですか……」
 グラシオスさんは真剣な眼差しで、隣の治療室に置かれたクローニング装置を見る。
 それはまるで、新生児室に置かれた我が子をガラス越しに見守る父親の目だった。
 ヤンジュは複雑な思いで、その横顔を眺める。
「グラシオスさん、アナタ本当に、ご自身の女性体であるクローンが欲しいですか?」
 ヤンジュは単刀直入に切り出す。
 グラシオスさんの顔が、ヤンジュの顔を正面から見つめ、赤と青の瞳が交差する。
「技術的には可能でも、クローンを作るのは安易なことではありませんよ」
 宇宙環境保護を唱えるテレビコマーシャルのように、正しくキッパリと告げる。
「後で邪魔になっても、クローンを消すことは不可能ですよ。退院後のケアはしますが、社会的責任は自分で負うことになります」
 クローンに対する人権と禁忌。
 術後に誕生したクローンは紛れもなく一人の人間であり、それを消すことは殺人だ。
「あなたが心に隠したこと、頭に抱えた秘密、その記憶を持つ人間が、自分以外に存在することを想像できますか?」
 ヤンジュの言葉に、グラシオスさんは視線を外してうつむいた。
 別に脅すわけでも、止めるわけでもない。
 どちらにせよ、患者の依頼した手術を拒否することなど、医師には出来ない。
 だが引き返すなら、ここが分岐点だ。
 培養器の中に準備された胎児は、まだ人の形をなしておらず、今の段階ならほとんど支障を出さずに中止することが出来る。
 下を向くグラシオスさんが、静かに口を開く。
「……それでも、私は欲しいと思います」
 震える声で、グラシオスさんは続けた。
「それが、ずっと私の願いでしたから」
 もし自分が男ではなく女だったら、あるいは女ではなく男だったら、今度は男に生まれたい、あるいは女に生まれたい。
 それを夢想する人間はいても、実現させようとする人間は少ないだろう。
 だからこそ、それは異常と言える。
 そして生まれ変わることの出来ない代わりに、逆の性別を持つクローンを作り出す。
 しばし、ヤンジュは手元の電子カルテに視線を向け、ハァ、と隠れて息を吐いた。
 そして何を言おうか一瞬考えて顔を上げ、感情のない金融業者の口調で告げる。
「では、最終的に対性クローニングを進める決定をしてよろしいですね?」
「はい、お願い、します」
 そう答えた後、グラシオスさんは口元を両手で隠し、吐き気まじりに咳き込んだ。
 胸が苦しくなるほどの緊張、強い感情。
 それだけ重みのある返答だったのだろう。
 いたわるように、ヤンジュは言う。
「グラシオスさん、気分が悪いようでしたら診察台の上で横になっても大丈夫ですよ」
 しかし、グラシオスさんは呼吸を整えながら──平気です、とそれを断った。
「こちらとしては、対性クローンの精度を上げるために、胎内シミュレータを併用して続けたいと思いますが、よろしいですか?」
「はい、それはおまかせします」
「あー、では予定が決まり次第、また詳しい説明は、その時に話しましょうか」
 ヤンジュは口調を和らげると、手にしたバインダーの背表紙を指で叩き、診断書の替わりに手術同意書を表示させた。
 そして液晶画面をグラシオスさんに向け、指で承諾のサインを押してもらう。
 サインをした画面から顔を上げ、グラシオスさんは控え目な口調で訊ねる。
「あのっ、本当のところ、ヤンジュ先生はクローニングに反対でしょうか……」
「いやあ、反対なんかしませんよ」
 確認したバインダーを閉じ、組んでいた足を外し、ヤンジュは膝を揃えた姿勢で、グラシオスさんへ向き直る。
「大丈夫ですよ。それだけの覚悟があれば、きっと素晴らしい体験になります」
 微笑を浮かべ、ニコリと告げた。
「それでは、どうもお疲れ様でした」
 軽く頭を下げ、診察を終える。
 これにて、第二段階終了。

       【 3 】

 あれから私は、世界を理解し始めた。
 私の生まれた世界は赤い水に満たされ、果てしなく広がっているように思えた。
 相変わらず、自分の誕生に関する記憶は不明のままだったが、私の知識は彼のおかげで少しずつ増えていた。
 彼、いつの頃か私の頭に棲み着いた存在。
 ああ、また彼がやって来る。
 ――こんにちは。
 頭へ聞こえる声に応じる、コンニチハ。
 ――まだ何か、知りたいことはあるかい?
 この世界について、もっと世界について。
 ――この世界は球体で出来ている。
 はい、球体? 球体とは何か。
 ――丸い物、角が無い物、中心から全て等しい距離にある形。
 中心、距離……難しい、良く分からない。
 ――だったら世界へ触れてみるかい?
 私の体から何かが離れていく。
 しかし、切り離されたそれは私の一部であり、感覚は繋がっている。
 その先端が、何かに触れる感触。
 アッ、と思った瞬間、離れていた私の一部が、スルスルと元に戻って来る。
 なあに? いま私が触れた物は何?
 ――つまり、それが世界だよ。
 そして私は、世界の形と存在を知った。

          *

 クローニング外科、診察室の夜。
 もっとも、外へ通じる窓が一つもない半地下の部屋では、昼夜の区別も関係ないが。
 中に人がいるかぎり、天井の照明は休むことなく、白い光を均等に放ち続けている。
 その勤勉さを賞賛するように、明るい照明を反射して輝く禿げ頭が、診察室と治療室を仕切る壁の前にあった。
 スーツと白衣を着た小柄な体に、丸いヤカンに似た、毛髪のない後頭部が乗っている。
 振り向いた顔に張り付くのは老人の肌。
 アゴの下には白い髭が生え、鼻の上には黄土色の丸いレンズを入れた色眼鏡が乗る。
 ハゲ、チビ、ヒゲ、サングラス。
 あだ名の材料には事欠かないが、外科部長である老人を気安く呼ぶ者もいないだろう。
 老人は診察室の中に視線を向け、高齢者のクイズ番組で、司会者に問題を聞き返すオジイちゃんのように訊ねた。
「いやいやー、ヤンジュくん。今のところ、上手く行っていますかね?」
「ええ、順調ですよ、タゴハラ部長」
 中央へ置かれた診察台の上に足を崩して座るアルビノの女医、ヤンジュが答えた。
 あぐらを組み、真剣な表情で、両足の間に乗せたノートパソコンの画面を眺めている。
 ズボン履きで下着の見える心配がないとはいえ、行儀の良い格好ではないし、おまけに医科の統括者である外科部長の前だ。
 しかし、タゴハラ部長はヤンジュの態度を注意するでもなく、クローニング装置のある治療室を振り返り、ふうむ、と息を吐いた。
「あー、部長。そこはいいですから、ちゃんとモニターを見て下さいよ」
「はい、はい、はい」
 やる気の欠片も感じさせない返事で応え、タゴハラ部長は壁際のデスクに向かう。
 片付いたデスクの上には、横長の液晶モニターと、灰色の箱型端末が乗る。
 黒い画面に表示されるのは、波形のバイオリズムと細かなデジタル数字だ。
 それは現在、治療室で同時進行する対性クローニングと胎内シミュレータの状況、つまり培養中のクローンと、寝台カプセルで眠るグラシオスさんの状態を示していた。
 タゴハラ部長が座ると、デスクの回転椅子は嫌がるようにギィと鳴いた。
「それで、ヤンジュくん。今後の状況はどうなっていますか?」
「えー、クローンの方は性転換が終了して、女性体に固定されています。今は加速剤を入れて三百倍の速度で成長させていますから、だいたい十時間後に出生予定ですよ」
 タゴハラ部長は背もたれに体を預け、両腕を組みながら、低く唸る。
「ふうむ、もはや神の領域と言いますか」
 その技術は人の性別を作り変えるだけにとどまらず、成長速度すら自在に調整する。
 ヤンジュはタゴハラ部長の言葉に否定的な響きを感じ、口元を歪めた。
「あー、最新の聖書には、性転換したクローンは作るなと書いてあるわけですか?」
「ヤンジュくんね、命とは人間のコントロールできない要素が含まれる物なのです」
 タゴハラ部長は本名をキイチ・ニコラウス・タゴハラといい、家系は絶滅寸前の旧キリスト教徒、本人は神父の資格者でもある。
 人の命を救う外科医に、人の死を見送る神父とは、なんとも因果な組み合せだ。

 そもそも通常はヤンジュが一人で仕事を行うクローニング外科だが、長時間の術式にはタゴハラ部長のサポートが必要だった。
 ブツクサ吐きながら、タゴハラ部長はモニターの右下に、シワだらけの指先を当てる。
「だいたいヤンジュくんは、薬で治せる患者にまでメスを入れると言いますか……」
 波形と数値を表示していた画面が、パッと一枚の写真映像に切り替わる。
 それは赤い満月の拡大写真に似ていた。
 赤い球体は人工子宮の映像であり、月の影に見えるのは、人の形を成した胎児だ。
 今なお加速的な成長を続ける胎児は、わずかにうごめき、影の形を変えていく。
 その様子に顔をしかめ、タゴハラ部長はサングラスの下に憮然とした表情を浮かべる。
「例えばです、ヤンジュくん。本来は必要ない薬を、患者が欲しいと言うから処方して、必要ないメスを入れる。その結果、必要ない負担まで患者に与えるのです」
「…………」
「ですからね、キミのしていることが、それと同じでは無いと言えますか?」
 今度はヤンジュが顔をしかめる番だった。
 まったく頭の堅い年寄りは、とキーボードに指を這わせながら、やれやれと反論する。
「えー、お言葉ですけど、患者には自分の望む治療を受ける権利と、治療の承諾を自分で判断する権利があるわけですよ」
「いやいやー、ヤンジュくん。キミは自分の理論を証明したいだけなのです」
 ああっもう、とヤンジュは手を止め、古株の教頭に叱られた女教師のように、ハァ、と浅く息を吐いた。
「要するに、胎内シミュレータを対性クローンに併用することが悪いことだと?」
 タゴハラ部長に言わせれば、クローニング自体が過ぎたる技術なのだろうが、言いたいことはそれだけでもなかった。
 実際、現在のグラシオスさんに行なわれている胎内シミュレータにも、従来の手順とは異なる方法が取られている。
 そもそも、クロ―ニング装置と胎内シミュレータを併用する理由は、クローンの意識をグラシオスさんへ送り込むためだ。
 通常のシミュレータには、擬似的に胎児の感覚を再現するダミーソフトを使う。
 当然だが、既成のソフトを使う方が不慮の事故も無く、自由に止めて休むことも出来る。
 だが同じシミュレータでも、リアルな胎児の意識を使う方法では不測の事態が起きかねないし、その出生が終わるまで、患者をカプセルから自由に出すことが難しいのだ。

 ヤンジュはデスクに顔を向け、磨かれたレモンのような後頭部に視線をぶつける。
「今のクローニング技術は、不完全です」
 だいたい、クローンを作る被験者は素材となる細胞を提供すれば、後は待つだけ良い。
 わざわざシミュレータでクローンの意識を体験することなど、本来は必要ないのだ。
 だがこれは、グラシオスさんの希望を叶えるクローンを、より完全に仕上げるためには必要な作業だと、ヤンジュは考える。
 そしてこれを提案する際には、グラシオスさんにも説明し、きちんと了承も得ているのだが。
 タゴハラ部長は椅子を動かすと、体をヤンジュに向け、否定的な言葉を吐く。
「ヤンジュくん、完全なクローニング技術など、それを考えることすら必要ないのです」
 完全なクローニング技術の確立は、突きつめれば死者の蘇生さえも可能にする。
 しかし、それは人として最大の禁忌だ。
 元々の法律でも、個人の完全なクローニング及び、死者のクローニングを禁じている。
 認められるのは、欠損した手足や臓器の培養など、医療に応用した技術のみ。
 対性クローニングは、初めから性別を作り変えた言わば別人であり、いくつかの特例付きで全身のクローニングが認められる。
「まあ、それとこれとは別な話ですし、私は目の前にいる患者が大事なだけですよ」
 それだけ言うと、ヤンジュはノートパソコンを閉じて両腕に抱き、診察台に寝転んだ。
「では、部長。私は仮眠を取りますから、後はお任せしますよ、じゃあ」
 長い白衣を毛布代わりに、ヤンジュは寝返りを打ち、タゴハラ部長に背を向ける。
「いやー、ヤンジュくん。まだ話の途中ではないですか……」
 サングラスの奥で目付きを歪め、タゴハラ部長は寂しげな口調で吐いたが、すでにヤンジュは目を閉じ、軽く寝に入っていた。
 タゴハラ部長は両腕を組み、アゴを撫で、打者にサインを送る野球監督のような身振りで、ひとしきり考え込む。
「こうしましょう、ヤンジュくん。そのパソコンを貸してくれますか。そうすれば、キミの寝ている間に論文でも書いていますので」
「……ダメです、これは私物ですから。それに、さっきまで整理していたオールドシネマのデータを保存しているところですよ」
 ヤンジュは我が子に等しいデータの入ったノートパソコンを抱き締め、ディスクの作動音に心音が重なるほど、強く胸に押し当てた。
「ならば交代時間の延長ではどうです?」
 それならと、ヤンジュは軽く目を開ける。
「あー、二時間延長してもらえば貸します」
「ふうむ、一時間ではダメですか?」
「二時間」
「では、一時間半」
「三時間」
「増えていますよ、ヤンジュくん……」
 かくして、クローニング外科の夜は、冗長に更けてゆくのであった。

       【 4 】

 私の世界は、唐突に崩壊を始めた。
 赤い水が、私を押し流すように激しくうねり、世界が揺れ、球体が歪む。
 私の生まれ落ちたこの世界が、私を排除しようとしている。
 タスケテ、タスケテ、タスケテ。
 私は生まれて初めて体験する恐怖に、ただ悲鳴を上げ続けた。
 ――大丈夫、落ち着いて。
 ふいに、彼の声が頭の中に顔を出す。
 しかし彼が現れたことで、私の恐怖心は指向性を持ち、さらなる悲鳴を彼に向かってぶつけた、タスケテ。
 ――ああ、頼むから怖がらないでくれ。キミが苦しむと、こっちまで苦しい。
 そう言われても、落ち着ける訳がない。
 このままでは、私は死んでしまう。
 ──いや、死ぬことは……ないよ。
 ふと、彼の声が小さく途切れる。
 ──キミは……これから、生まれるんだ。
 彼の気配が、頭の中から消えていく。
 待って、待って、待って、私を一人ぼっちにしないで、私を置いて行かないで。
 ──置いて行くのじゃない、キミが……ここから出て行くのさ……。
 ああ、だったらアナタも一緒に。

         *

 対性クローン、出生予定時刻。
 デスクの上に乗った灰色の箱型端末が、ピィーピィーと警告音を鳴らし始める。
 椅子に座り、ノートパソコンの画面でタゴハラ部長の論文を眺めていたヤンジュは、サイレンに反応する犬のように顔を上げた。
 慌ててノートパソコンを横に置き、デスクのモニターをチェックし、声を張り上げる。
「部長、起きて下さい!」
 液晶モニターの左半分には、波形を描くバイオリズムが、二つ現れていた。
 グラシオスさんとクローンの同調を示すそれは本来なら一本に重なるはずだったが、今は高さがずれ、上下に波を刻んでいる。
「意識のシンクロ率が落ち始めている……」
 背後を振り返れば、タゴハラ部長が診察台の上でタヌキの死体と化していた。
 ヤンジュはスリッパを脱ぐと、それを両手に別けて持ち、診察台へ向かう。
 スリッパを打楽器のように握り、タゴハラ部長の頭上で二つの底面を叩き合わせる。
「起、き、ろ――ッ!」
 パン、パン、パン、と銃声に似た炸裂音が狭い診察室に反響した。
 サングラスのないタゴハラ部長の目が隙間を開け、口からうめきが洩れる。
 起きない時は禿げ頭を叩いてやろうと、スリッパを上段に構えたところだった。
 スリッパを履いて出入り口へ向かい、ドアの横にある丸ボタンを指先で押す。
 連動したギミックが、ヴォンと音を立て、診察室と治療室を仕切る壁が上下に割れた。
 上の窓ガラス部分が天井に飲み込まれ、下の壁部分が床に沈んで行く。
 タゴハラ部長は診察台の上で体を起こし、白衣の内ポケットからサングラスを取り出すと、寝ぼけ声で吐いた。
「いったい何事ですかねー、ヤンジュくん」
「部長、モニターの方をお願いします」
 すれ違い様に応えると、白衣をなびかせ、続き部屋となった治療室へ飛び込む。
 そしてヤンジュは円筒形をした培養器の前に差しかかると、家出する我が子を引き止める母親の勢いで、柱にすがりついた。
「ああー、ちょっと待ってよ」
 培養器に片手を触れ、金属質の表面を、中身の透けたガラス質に変化させる。
 培養器の中は、まるで巨人の心臓だった。
 赤い溶液に浮かぶ人工子宮はメロンほどの大きさに成長し、細いコードを絡み付かせながら、激しく脈動している。
 顔を横にして、片耳を表面に押し当てれば、ドッコ、ドッコ、ドッコ、ドッコ、と人工子宮の胎動が音と振動で伝わる。
 もはや、いつクローンが生まれて来ても、おかしくない状態だった。

 ヤンジュはクローニング装置を離れ、寝台カプセルの方へ体を移した。
 上表部のガラスを覗き込めば、穏やかに両目を閉じたグラシオスさんの顔が見える。
 片手で軽くコブシを握り、曲げた指先で、コツコツと表面のガラスを叩く。
「…………」
 しかし、カプセル内の表情に変化はない。
 もっとも、この程度の外部刺激に反応するようでは、そうとうマズイのだが。
 タゴハラ部長はデスクの椅子に座るとサングラスをかけ、モニターに目を向けた。
「ヤンジュくん、これは患者の意識がクローンへ追い付いてないのではないですか?」
 そんなことは分かっている、とヤンジュは顔を上げ、治療室から診察室を振り返る。
「部長、寝台カプセル内の温度を〇・五プラス、胎動間隔を〇・六に早めて下さい」
 警告の原因は、出生時のショックにグラシオスさんの意識が耐え切れてないせいだ。
 出生の苦しみは、主に母親の痛みとして現れるが、生まれてくる子供にも負荷はある。
 自我の確立しない胎児なら、無意識にその苦痛を乗り越えることが出来るだろうが、胎内シミュレータのグラシオスさんは違う。
 いくら胎児の意識を送り込まれても、本人の自我そのものが無くなるわけではない。
「ヤンジュくん、シミュレータを安全なソフト制御に切り換えるべきです」
「いえ、このまま続行します」
 ヤンジュは決断を告げ、再び体を移し、クローニング装置の柱に張り付く。
 そもそもダミーソフトが使えるようなら、初めからこの方法を取っていない。
 出生したクローンの脳には、グラシオスさんの記憶が移植されることになる。
 それはグラシオスさんが生まれてから、クローニングを希望するまでの記憶だ。
 被験者とクローンを分ける格差として、クローンは自らの製造に関する記憶を持つことで、自分がクローンであることを自覚する。
 しかし、その後のクローンは自己の視点でオリジナルの経験を積み上げ、被験者とは違う別人として成長していく。
 そして成長したクローンを見るにつけ、被験者は自己の存在に不安を感じ始める。
 同じ物なのに、何故違ってしまうのか?
 どちらの姿が、本当の自分なのか?
 ちょうど優秀な弟へ劣等感を抱く兄のように、偏愛の歪みから来るこの感情を〈クローン・コンプレックス〉という。
 これを原因として、被験者とクローンの間で殺人事件が引き起こされたケースもある。
 それを解消するためにも、クローンが最初に体験する出生という記憶を、逆に被験者へ移植し、強い結び付きを作ることが重要なのだ。

 タゴハラ部長は指示通りの設定を終え、誘拐犯の電話を待つ父親の表情で、モニターを睨んだ。
「ヤンジュくん、次はどうするのですか?」
「えー、意識レベルの数値を教えて下さい」
「ふむ、八二ですね。それから?」
「それだけです。後は神様に祈って下さい」
「…………」
 実際、後は一刻も早くクローンの出生が終わるのを待つしかない状況だった。
 グラシオスさん乗り切って下さい、とヤンジュは培養器に顔を近づけ、念を送る思いで中へ浮かぶ人工子宮を凝視する。
 そう、このクローンはグラシオスさん自身でもあり、決して別の固体ではない。
 ただ細胞を提供しただけの存在ではなく、ともに生まれた記憶を持ち、そして出生の苦しみもまた、グラシオスさん自身の物でもある。
「……グラシオスさん、アナタも一緒に生まれるんですよ」
 たとえここでシミュレータに支障をきたしても、グラシオスさんの体に問題はない。
 意識レベルが安全値を割れば保護機能が働き、自動的に意識をブラックアウトさせる。
 そして日を改め、ダミーソフトを使用した胎内シミュレータで、性転換症の治療を行えば良いだけの話だ。
 しかしクローンとの感覚を共有させ、結び付きを作り出すタイミングは今しかない。
 そしてこの先、もしクローンとグラシオスさんの関係にトラブルが生じるとしたら、ヤンジュは不完全なクローンを作り出した自分を責めるだろうし、そのことを後悔するだろう。
「…………」
 ヤンジュは片手に握ったコブシを、培養器のガラスに押し当てた。
 そして祈るように見つめる目の前で、人工子宮の裂け目を押し開き、ひときわ大きな気泡が、ゴボッと湧いた。
 やがてゴム毬にウブ毛が生えたような胎児の頭が、その表面を覗かせる。
 おそらく、今このクローンの誕生を願う者は、この場にいる医師のヤンジュと、当事者のグラシオスさんぐらいだろう。
 しかし、この世に生まれ落ちるどの子供よりも、どれだけクローンが必要を望まれて誕生するかをヤンジュは知っている。
 やがて胎児の頭が抜け、首が見え、肩が出て、腕が生え、そして――生まれた!

       【 5 】

 開かれたノートパソコンの中で、指先がハサミの刃になったジョニー・デップが、悲しげな目で婦人の髪をカットしている。
 昼休みを診察室で過ごすヤンジュは、お気に入りのオールドシネマを眺めながら、二十世紀復刻版のカップ焼ソバを食べていた。
 デスクには、丸い円盤型の容器が乗る。
 フタを開け、ソース色の焼ソバを箸で持ち上げれば、こうばしい匂いが香り立つ。
 甘い湯気を顔で浴びるようにしながら、ヤンジュは容器に口を近づけた。
 ふいに、診察室のドアが開く。
 聞き覚えのある声と、見覚えのある禿げ頭が、白衣を着て片手を上げ、入って来る。
「いやー、お邪魔しますよ、ヤンジュくん」
 ハゲ、チビ、ヒゲ、サングラス。
 来訪者がタゴハラ部長だと知れると、ヤンジュはかまわず、焼ソバを口に運んだ。
 タゴハラ部長は視線を向けるなり、顔をしかめ、スッと鼻をすすり上げる。
「ヤンジュくんね、ここで食事をしては駄目だと、前にも言いませんでしたか?」
 食事の匂いが部屋に残ってしまうのだ。
 箸をくわえたまま、ヤンジュはパソコンに手を伸ばし、ムービーの再生を止めた。
「それで、何か御用ですか? 部長」
 タゴハラ部長は、テレビの前から動かない子供を見るような表情で肩をすくめ、中央に置かれた診察台に腰かける。
「昨日、グラシオスさんがクローンへ面会しに来ましてね。キミは仕事で抜けられなかったから、私が立ち会ったのです」
 グラシオスさんの治療から数週間後、培養器を出た対性クローンが、一般病室へ移ったのは一昨日のことだ。
「あー、そういえば、今朝ディアナさんも、そんな話をしていましたよ」
 嬰児の段階で出生したクローンは加速剤によって成長させられ、今ではグラシオスさんと同年齢の成人女性にまで成長している。
 ディアナさんというのは、グラシオスさんがクローンに付けた名前だ。
 本人は退院したが、クローンであるディアナさんには、女性としての経験を積むリハビリがあるため、まだ病院へ残っていた。

 モゴモゴと口を動かしながら、ヤンジュはディアナさんから聞いた話を思い出す。
「グラシオスさん、髪を切ったそうで」
 青く染めていた長髪を短く切り、グラシオスさんは男性的なヘアスタイルに変えたらしい。
 一方、ディアナさんの髪は長い金髪だ。
 生まれたてのディアナさんは髪の色も地毛のままで、整形済みのグラシオスさんとは顔も違う。
 作られたクローンの方が、本来あるべき姿をしているというのは皮肉な話だ。
「それで、初対面はどんな感じでした?」
 ヤンジュは空になった容器に箸を置くと、椅子を回し、タゴハラ部長へ体を向けた。
「いやー、どんな感じと言いますか、顔を見るなり、抱き合って涙を流していましたよ」
 ベッドに上半身を起こしたディアナさんにグラシオスさんが歩み寄り、伸ばした二人の両腕が、お互いの肩を抱く。
 実際の現場を見ずとも、ヤンジュにはその光景を脳裏に思い描く事が出来た。
 理解出来ない、とタゴハラ部長は呟く。
「ヤンジュくん、自分のクローンと対面するのはどんな感情か、キミは分かりますか?」
「親兄弟、恋人、それらを総合した、それ以上の存在と対峙する気分ですよ」
 生まれていたかもしれない自分の半身、対性クローンとは、そうした存在だ。
「神にイブを与えられたアダムの心境、と言えば部長にも分かるんじゃないですか?」
 キリスト教の神父資格者であるタゴハラ部長は渋面を作り、アゴにシワを寄せた。
 ヤンジュはタチの悪い冗談を言い終えた友人のように、口元をゆるめる。
「グラシオスさん、今日も来るそうですよ」
「ふむ、今月分の支払いですね。あれだけの治療費を一括で払えてしまうものですか」
 クローニングの費用は、宇宙通貨で八桁。
 地球に新築の家が買えるほどの金額だ。
 普通の人間であれば、まず受けることの出来ない治療なのだが、その格差もタゴハラ部長が良い顔をしない理由の一つだった。
「まあ、グラシオスさんは宇宙的に有名なオペラ歌手だそうですから」
 アイラ・グラシオスと言えば〈オペラ界の至宝〉と呼ばれた天才声楽家だ。
 しかし、性転換症という精神的な重荷に耐え切れず、現在は活動を休止。
「いやー、まったく特権階級と言いますか」
「いいじゃないですか。これでグラシオスさんが立ち直って復帰するようなら、ファンも喜ぶし、事務所も喜ぶ、本人も喜ぶ」
 実際、グラシオスさんはこの数カ月後に、再びオペラ歌手として復帰する。
 しかも、ディアナ・グラシオスという対性クローンのオマケを付けて。
 グラシオスさんの知識と経験を移植されたディアナさんは、もう一人の天才だった。
 男女デュオとしてデビューした二人は、クローンならではの同調したハーモニーと歌声で、歴史的な大ヒットを記録する。
 そして、その売上で慈善基金を設立。
 社会ボランティアに大きく貢献した功績が評価され、最終的には〈惑星グラシオス〉と辺境の星に二人の名前が刻まれることになるのだが、それはまた別の話だ。

 ひとしきり会話を終えた頃には、すでに昼休みも終わろうとしていた。
 診察室を去ろうと腰を上げたタゴハラ部長は、思い出したかのように白衣の内ポケットに手を入れ、細い郵便封筒を取り出す。
 実際、それをヤンジュに手渡すことが、診察室を訪れた本来の目的だった。
 ヤンジュは椅子に座ったまま、片手に受け取った封筒を確認する。
「なんですか、これ?」
 表には『シルスマリア病院 イルジュ・ヤンジュ様』と宛て先が書かれている。
 指で中身の感触を確かめると、固いカードのような物が入っているようだった。
 タゴハラ部長は、男から掛かってきた電話を娘に取り次ぐ母親のように、わずかにイヤミたらしい口調で応える。
「キミの恋人からですよ、ヤンジュくん」
「むっ……」
 ヤンジュは声を詰まらせ、裏を確認する。
 たしかに、封筒に書かれた送り主の住所と名前には見覚えがあった。
「別に、わざわざ持って来なくても、帰りに事務所で受け取れたじゃないですか」
「いやいやー、一刻も早く渡してあげようと思いましてね」
 余計なお世話だ、とヤンジュはフテ腐れた視線をタゴハラ部長に向ける。
「いやー、そろそろ仕事に戻りますか」
「…………」
 タゴハラ部長は、診察室を出て行く。
 その足音が遠ざかるのを待ち、おもむろにヤンジュは封筒の口を開けた。
 中にはキャッシュカードのようなメモリーディスクが、一枚入っていた。
 デスクに乗った焼ソバの容器を片付け、ノートパソコンを引き寄せると、ヤンジュはキーボードの横にあるスリットへディスクを差し込んだ。
 そして、画面上にメールソフトが起動する。
 ──パスワードを入力して下さい。
 白い便箋のような画面に、小さな黒い文字が表示される。
 送り相手の設定したパスワードだ。
 ──二十世紀アメリカ映画『トレマーズ』の四作品全てに登場した男優の名前は?
 ヤンジュは苦笑を浮かべる。
 まったく、こんなマニアックな質問に応えられる人間が宇宙に何人いることか。
「あー、マイケル・グロスっと」
 声に出しながらキーボードで文字を打つ。
 正解を入力され、画面が切り替わる。
 モニターのサイズより一回り小さい枠が表示された、ムービーが再生される。
 映されたのは若い男性のバストアップ。
 胸から上、頭までの映像だ。
 ──やあ、イルジュ。元気かい?
 男性は白い肌、赤い瞳、白い髪。
 それはヤンジュと同じアルビノの特徴。
 そして二人の顔は、明らかな相似形だった。
 ──こっちは色々と不便も多いけど、まあなんとか元気でやっているよ。
 彼こそは、ヤンジュの対性クローン。
 かつてヤンジュも性転換症に苦しみ、自分が女性であることに違和感を持っていた。
 一番悩んだのは学生時代だが、対性クローニングという技術を知ったのも、その頃だ。
 しかし、費用などの問題を考えれば、普通の人間にはとても叶うはずのない望みだった。
 その後、なかば賭けのつもりでクローン医学を勉強し、もし医師としてクローニングの現場に立つことが出来たら、自分自身に対性クローニングを試そうと考えた。
 それがまさか本当に実現してしまうとは、ヤンジュ自身も思っていなかったのだが。
 ――それから、真面目な話になるんだけど。
 まるで運命だわ、とヤンジュは画面の中で話す自分の男性体クローンを見て思った。
 今のクローニング外科に配属され、独自の研究と経験を重ね、タゴハラ部長の協力でクローンを作り出したのが四年前。
 しかし、いくら病院関係者とは言え、治療費は発生するわけで、現在はクローンと二人がかりで働きながら、借金を返済中だ。
 ヤンジュから医師の経験と知識を受け継いだクローンは、自らも免許を取得し、辺境惑星で派遣医師をしている。
 そして深刻な表情を浮かべたクローンが、白い顔を照れ臭そうな表情に変えて告げる。
 ――実は、紹介したい人がいるんだ。
 おいおいまさか……、とヤンジュは笑みを押し隠し、焼ソバの味が残る下唇を舐めた。
 ――いま付き合っている女性がいるんだ。
 ふいに、ヤンジュは両腕で腹を抑え、クツクツと込み上げる笑いに、体を折り曲げた。
 それは嬉しさや楽しさの極限、自分に恋人が出来る以上の感情だった。
 まして、自分に女性の恋人が出来る訳が無いのだが、それを成し遂げたクローンの体験が、自分自身の喜びとして感じられる。
 ――彼女もキミに会いたがっているし、今度一緒に帰ろうと思う。キミの方も、彼女を気に入ってくれると良いのだけど。
 気に入らないはず、ないじゃない。
 ヤンジュは顔が痛くなるほどの笑みを、画面へ映るクローンに向けて思った。
 アナタは、ワタシだ。 


                                          了

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