『死線上の星』

 白刃に照り返る月光が、しんと冷えて固まる。
 ただそれだけで、空気が胸に沈むように重い。風がその吐息を潜め、凪いでいく夜天の下、一面に枯れたススキ野原が広がっていた。その中で、右目から顎にかけて刀傷を持った男と、岩を彫ったかのように無骨な顔の素浪人が刀を構えて対峙している。共に三十路を少し過ぎた風で、傷の男は下段に、素浪人は相手の目に合わせて中段に構えていた。
 先刻まで、いくたび風が撫でても鳴きやまなかったコオロギも、声を潜めて動きを止める。両雄あい放つ剣気に圧されたか、それとも月の光とともに凍ったのか。どちらにせよ、その場に居合せた者が何であれ並の存在ならば、人でも虫でも在り方は変わらなかったに違いあるまい。
 その光景の中では、誰も彼もが時、至るまで動くことは叶わなかった。
「おぉ……」
 そして、月の動きとともに時は満ちる。
「……ッゃああああ!」
 動く。彼我の間合いは二間、およそ1.8m。どちらも必殺の威力をはらんだ、避ける事も受ける事も敵わない太刀を相手の体に叩き込もうとした。素浪人の一閃が奔り、それを傷男の一閃が迎え撃つ。剣速ならば素浪人の太刀行きが、傷男のそれを上回っていた。
 双ツの閃きは触れ、交わり、一方が砕けると、残り一方は閃きを砕かれた傷男の眼前に迫る――迫ろうとした、その時、その時だ。
 ヒュウッと細く・高く・鋭い、笛のような音が二人の耳に届いた。否それが聞こえたかどうかの時に、突然素浪人の太刀と姿が消え、傷男は衝撃を受けて後ろに飛ばされる。地べたに脇腹から打ちつけられ、体が鞠のように二度三度となく転がった。
「今の、音は……何だ」
 突然の衝撃に朦朧とする頭を振りながら、傷の男・栗山誠二郎は草叢から立ち上がった。
「小六……? 一体どうした、どうしたのだ」
 月明かりだけを頼りに、先程まで確かに素浪人・口賀小六が居たところへ恐る恐る、歩みを進める。すると野原に、さっきまでなかった穴が穿たれていた。栗山はそれ以上の物は見たくはなかったが、時既に遅し。穴の中と周りに夥しい血と、肉、或いは布切れと思わしき赤い塊が散乱している。
 しかし小六の姿は、どこにもなかった。


     /   /


 星が、一ツ。晩秋の空を西から東へとすべり落ちて消えた。
「小六、いつまで待たせるのだ」
 栗山は少しきつい口調で強敵(とも)に訊ねた。
「しばし待てィ、もう少しだ」
 およそ半刻もの間、小六は自分から果し合いに指定したススキ野原で、夜空を仰ぎ見たまま栗山を待たせている。珍しくもまた一ツ、流れ星が落ちてきた。それが山々の稜線に消える寸前、一瞬強い光を放ったのを見ると、ようやく小六は暗い虚空から眼を離して栗山の方を見た。
「スマンな、星の位置が定まるのを待っておった」
「なぜ」
 再び小六は、虚空に視線を彷徨わせた。
「なァ、なぜ俺が急にお前の所に来たか、聞かないのか」
 小六の視線は、夜空を見ているというよりは正に視線を「彷徨わせた」といった方がぴったりくる。そんな茫洋とした様だった。
「聞いてどうする。そんな風が吹くこともあろうさ。それと星の位置が、どう関係ある?」
 小六はある一点から先を、理性から切り離して考える野性的な勘で動いている男だった。だから少々の予測不能な行動には慣れっこの積りだ。
 二人は古馴染みで、いつも一緒に居たが、いつも喧嘩ばかりしていた。それというのも、互いを好敵手と認め、常に張り合っていたがためだ。だからこそ、激しく素手で殴り合い、竹刀で打ち合い、時に罵り合ったとしても、決して二人がお互いを怨むという事は無かった。
 一日の終わりに酒を酌み交わせば、その日に作った怪我の事など明日の朝には覚えてはいない。
 二人が武者修行に諸国放浪を始めたのが二十前後。三十を二ツ三ツ過ぎたところで栗山は江戸に腰を落ち着け、表向き接骨医を生業に暮らすようになった。戦うために身に付けた柔術は、そのまま人を活かす術にもなったのだ。対して小六はそのまま一人で放浪を続け、二人の仲は自然と疎遠になっていた。二人が出会うのは、栗山が江戸に腰を落ち着けて以来、六年ぶりという事になる。
「俺はナ、死兆星を見たんだよ」
「死兆星……北斗の横に在る、といわれる星か」
 古来より死期が近づいた者に、北斗七星の傍に見える星のことを、死兆星と呼んだ。そうだ、と言うかわりに小六は頷く。
「あれを見た者は年内に死ぬ。
 最初は気にしちゃいなかったが、半年が過ぎた頃になって気になりだしてきたのだ。俺はなんとなく、本当に死ぬような気がしてきたよ」
 小六の口調は何か湿っぽい、と栗山は感じた。彼が知る小六は、もっと豪気な兵法者だったはずだ。
「お前らしくもない、弱気だな」 
「あァ、そうだろうさ。しかし一度弱った気はなかなか元に戻らん物だ。俺はせめて未練なく逝けるように、と身の回りの整理を始めた」
「それではこの果し合いも…」
「勿論、死ぬ前に決着をつけておかないとな」
 栗山は笑った。胸に沸くなにやらもやもやとした嫌な疼きが、笑気で逃げていくような気がしたからだ。
「馬鹿なことを。お前なら、死んだ後でも化けて出て俺に果し合いをせがむだろうに」
 少々白々しい栗山の笑いとは対照に、小六の表情はだんだんと暗くなって見える。
「かもしれん。だがそれでは冥府のお役人が黙っちゃおらんだろう。あの世では静かに暮らしたいからな」
 風に揺れるススキの茎につかまって、コオロギがリーコロ、と鳴いていた。
「なあ、俺達は旅をした頃、数え切れないほどモノを斬ってきたよな。ちょっと前までは斬ったモノの数など気にもしなかったが、今はその数が肩にずっしりと乗っているような気がするのだ。俺は疲れた……死者の霊とは本当に侮れない物だよ」
「小六、しっかりと気を持て。そんな弱気で俺と剣を交える気か!」
 栗山の胸に怒りが黒い曇りとなって渦巻いた。人と斬り合う事から遠ざかった自分にとって、今も諸国放浪を続け兵法稼業を営む小六は、昔の美化された思い出とともに、切なくなるような憧れや感傷を含んだ情を向ける存在だった。その小六が、倦んだような弱音を吐く事がひどく見苦しい。
 正直、栗山は小六が訪ねてきた時、また昔のように戦いの中に身を置く生活に戻ろうかと考えた。
 何となく、小六が、平穏に身を任せて流れて行こうとする自分を引き止めて、荒々しい修羅風のただ中へと戻してくれるような気がしたのだ。自分の心だけでは踏ん切りがつかないからこそ、いつからか栗山は、小六の来訪を心のどこかで待ち望んでいたと言っても良い。
「分かってるサ」小六は静かに笑った。
 顔の表面に小波が立ったようなささやかな笑い方だ。しかし笑みは、次の瞬間には凪いだように消えていた。
「早く、始めよう」
 もはや言葉は不要。沈黙を口に詰め込み、口賀小六と栗山誠二郎は、太刀を抜いて向き合う。
 そして両者は、互いの間で永劫の時間を交わしながら、ひたすら決着の瞬間を待った。その瞬間がいつ訪れる物なのか、二人は知らない。天意も、神仏も、知らないだろう。修羅ヶ鬼ならば知っているのかも知れない。ただ一刀に全てをかける剣客とは、それだけで何よりも鬼に近いだろうから。
 ただ、二人は待つだけだった。どちらかが死ぬ時ではなく、決着がつく唯一度の瞬間、勝敗の分かれ目を。


     /   /


 己の呼吸が、ごうごうと吹きすさぶ風のようだった。全身をおこりのように震わせながら、栗山は徐々に知り得る事実を口にし始める。
「笛の音……。そうか、風の音だ」
 目の前の事から、小六がどうなったかすぐには考えられなかった。だから考えるに任せて、舌を動かしてみた。その、考える事が恐ろしい、また、考えられないのが恐ろしい。このまま考える事を止めてしまったら、自分が物言わぬ岩になって永遠に動けなくなるような恐怖があった。
「星だ。正に死兆星が、小六を殺したのだ」
 うわ言のようなその声を聞くものは、空の星と野の虫だけである。だが栗山はただ己独りに言葉を聞かせていた。
「流れ星に撃たれたのだ、このような稀有な死に様が他にあろうか……?」
 五体から力が抜けて、栗山は膝をついた。
「小六は、死んだ」
 それから暫く、虫が寝入っても草が寝入っても、栗山は己に小六が全くの突然に、星に撃たれて死んだのだという事実を言い聞かせ続けた。真っ赤な朝日が、空に火を燃え移らせながら昇る頃になってようやく立ち上がり、独り無惨な姿の小六の死体に向って合掌した。
「違う」
 死者を弔う念仏は、途中で栗山自身の言葉に取って代わられた。
「違う、違う、違うのだ!」
 栗山は五体を地に投げ出し、手当たり次第に草を千切り土を叩きながら、号泣した。嗚咽に途切れながら、一ツ連なりの言葉が紡ぎ出される。
「こんな決着を望んで、俺はお前を待っていた訳ではないぞ……」
 小六はどこに逝った。黄泉津比良坂か、修羅道か。亡者ならぬ身の栗山に、それが分かろうはずもない。分からないから、ただ哭くしかなかった。
 彼の慟哭は、そのまま太陽が中天に座すまで細く長く続き、気の済むまで哭き続けた後は、どこへともなく立ち去っていった。ただ、栗山の姿を見た人々は、「一晩で幽鬼のような相になった」と、恐れおののいたという。栗山誠二郎が以後どうなったのか、誰も知らない。
 が、この頃を境に、一疋の剣鬼が江戸に出没するようになった、とだけ記そう。

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