『SOUL RECIPE』

          (1)絶望のように昏く、

(この絶望から逃れるには、死か狂気だけだと思った)
 例えば生きるだけの希望もなく、もはや死が希望となる程に恐怖が大きいその時に、死ぬ事すら出来ないというその苦痛を絶望と呼ぶ。パンドラの匣に残された最後の希望とは、まさに『死』だったのだ。だから人間は死ぬ事が出来た。
 絶望、死に至る病。最初は九歳の時、僕は喘息を患った。発作が起こると胸がギュッと痛くなって、全身に震えがくる。そのまま失神も出来ずに、呼吸困難の苦しみが長々と続くのだ。そのうち血の痰を吐くようになり、ついには喀血まで起こすようになった。血が喉に詰まって窒息したこともある。
 なんでも、喘息以外にも血液に悪性腫瘍があったらしい。こちらの有効な治療法は骨髄移植だそうだが、僕の血縁者には僕に移植できる骨髄の持ち主はいなかった。非血縁者で移植可能な骨髄の持ち主が見つかる可能性は非常に低い。そして骨髄バンクが発足するのは一九九一年のことで、治療に誰かの骨髄が必要と分かったのは、僕が一一歳、一九七七年のことだった。
 おかげで小学校から中学校にかけては家と病院を往復する生活を続け、ろくに集団生活を経験できなかったものだ。友達も作れなかった。最も、そのおかげでたっぷりと祖父の教授を受けられたのだとも言える。そう、極めて幸運な事に僕の祖父は錬金術師だった。
 物理学の限界が永久機関ならば、医学の限界は不老不死だろう。だが、魔術における医学と化学の集大成である新世代の錬金術――「錬成学」は、その限界すら超越する。初期の錬金術とは文字通り「卑金属を貴金属に変える」俗な冶金術に過ぎなかった。しかし、そのような物質変換の根源思想は四元素の操作、第一原質の実在など、現代化学に照らし合わされば多いに間違ったものである。錬金術で金など出来るはずもない。
 だが、すべての物質が電子と陽子そして中性子からなる事を考えると、核融合反応により物質を転換する事は必ずしも不可能ではない。最も、そのためには膨大なエネルギーが必要となるのだが。この過程を魔術によって圧縮出来るならば錬金術は実現する。
 そして錬金術は錬成学となり、金を生み出した。
 例えば不老不死の研究にしたって、『賢者の塔(錬成学学会)』によって禁止されるなど、もうかなり完成の処まで近づいているのだ。この僕こと花房一理(はなぶさ・いちり)もまた、位階0=0の悩める学徒である。研究テーマはズバリ、「不老不死」。
 【不老不死】! なんと心震える響きだろうか。死という最後の希望をはね退けて、自ら生きる事を選択させるその大いなる魅力は! 愚者も賢者も英雄も美姫もいずれ死ぬ。だが、世の中死んだ英雄より生きた下衆だ、死を恐れ死を殺す以上の大義などない。
 錬成学を興した某ジュベレンは、自らの錬金術でもって三〇〇年生きた。噂では現在でもご存命だという事だが、真実ならまことに羨ましい限りである。そう、不死不滅は無理だとしても、錬金術さえ極めれば不老長生ぐらい手に入れることは可能なのだ。それこそが我が目標、それこそが僕の生き甲斐。そんな「希望」にでも縋らなくてはやっていけやしない。僕の病気には生半可な抗生物質より、祖父の霊薬のほうが効くのだ。
 最近は霊薬投与以外にも、物質的存在を補完する法という物を施してもらうようになった。祖父は祖父で、僕のことを心配して色々と手を尽くしてくれている。大病院の院長を務めているが、「それだけ」の父とは雲泥の差で、何ともありがたい話だ。
 しかし施法するとはいっても、祖父はただ僕に今日はあれを食え、今度はそれを食え、と食事の指示をしただけだった。そもそも「補完」とは、食べる事こそが基盤の養生法だと云う。いわゆる食事療法を一歩進めたような話だが、ただ食べるだけではない。
 その部位によって必要とする食物を的確に見分け、しかるべき処置を施す事で食物をそのまま自身の血肉に変えるのだ。つまりは目玉を食って目の病を、肉を食って腕力の衰えを、皮を食ってシワやシミを直すことが出来る、という物らしい。古代人が勇敢な敵を殺した後、その力を得るために心臓や肝を食したような物だ。そして、同じ食べるなら出来る限り自身に近い生き物の部位であるのが望ましい。
 では、人間が補完を行うなら、牛肉より鶏肉より人肉を食うのが一番という訳だ。問題は、どうやってそれを手に入れるかなのだが、さてはて。一五にも満たない、病弱な子どもが他人を襲うのは難しい。よしんばそれが成功したとして、どうやって官憲から隠し逃げおおせた物だろう?
 そういえば、祖父はこの術を人肉で試した事はあるのだろうか。入院中、暇潰しに読んだSF小説のように、培養槽に入った養殖人体でもあれば分けて欲しいな。忘れもしない一三歳の春、父の病院を仮退院した僕は真っ直ぐ祖父の研究室に足を運んだ。
「御爺様は補完のために人間を食べましたか?」
「当たり前だ。私が実践もしない術をお前に教えるものか」
「では、どうやって人肉を手に入れられたのでしょう」
「その方法は、お前にはまだ早い」
「私は自ら補完の術でこの病を取り除きたいのです」
「今暫しの辛抱だ、一理よ。おおそうだ、代わりに新しい霊薬を……」
「御爺様」
「うん?」
「ときに知識や経験という物は、人体のどこに詰まっているものでしょうか」
「それは無論、脳みそに決まっておろう」
 僕はこの家の庭に、枯れ井戸が一ツある事を思い出していた。落ちたところで死ぬ高さではないが、人を閉じ込めるには充分だ。断食や飢餓は、高い霊力を養うという。即身仏などがそのいい例だ。――――こうして、僕は錬金術師になった。
 しかしご老体って、意外としぶとい物だな。


          (2)欲望のように熱く、

「What are little giles made of, made of? お前の魂は、どこからやって来た?」
 毎日、実験室にやって来ては挨拶のように彼は独り呟く。そして、「まあ、生まれる前の事など分からないか」などと付け加えて苦笑するのだった。花房一理の目の前にあるのは、魂を持ち、霊を持ち、人と同じ肉体を備えた柔らかないのち。ホムンクルスと呼ばれる、錬金術の結晶。
 ホムンクルスとは、無機質のビーカーを一ツの子宮と見立て、精子も卵子もない処から全く人工の生命を生み出さんとする試みだ。それは擬似・似非に過ぎないが、確かに生命だった。しかしホムンクルス製造は通常、賢者の塔から認可を受けなければならない行為である。
 これが露見すれば、ただでは済まされない。
 元々は不死の願望達成のため、一ツの通過点として生命創造の実験に手を出したが、一理には目的と手段を取り違える悪癖があるようだ。当初の目的を忘れてはいないものの、梅雨の手前に硝子壜の中に生命の萌芽を発見してから、彼は授業以外の外界との関わりを絶っていた。
「という訳で、ティンダロスの猟犬が三次元世界に注意を向ける機会を減らすため、賢者の塔は『遼丹』の製造を全面禁止にした訳だが、それでも密造する錬成師は後を断たなかった。そこでついに宣教兵団が動員され……」
 一限目は魔術史の授業。
 神秘学・隠秘学・ヘルメス学に錬成学、そして魔導書を読解する為の基本語学ヘブライ・ギリシア・ラテン・エノク・英語etcetc……学院の授業はことごとくハードだ。“魔術師”への道はことのほか険しい。最も、自分が目指すのは錬金術師、否、錬成学者なのだが。
 日本薔薇十字社神智科専修學院。生徒総数約一五〇強の『魔術師の専門学校』である。日本有数の魔術師が講師として勤務し、魔術結社薔薇十字団の系譜を継ぐ(しかし本家本元よりはオープンな)学園法人だ。通称薔薇十字学院、入学資格は中学卒業者から。
 入学して一年。いかに祖父の知識を奪ったとはいえど、やはり「他人の記憶」を自分の物とするには復習と実践が必須だった。知ってはいても、理解出来るとは限らないという事か、やはり世の中甘くない。自作の霊薬で身を持たすことは出来るが、不老長生どころか、健康体すら遠い道程だ。
 そもそも、祖父の脳で自身の脳を完全に補完できているかは不明だった。何度頭の中身を探ってみても、一部の記憶に不鮮明な部分がある。単に祖父が忘れているため、こちらも引き継ぎが巧くいかなかった可能性もあるが、記憶とはただ思い出されないだけで、脳には保存されているはずだ。
 脳の補完はやはり不完全だったのだろうか? 一理がそう悩み出した頃、彼は祖父から奪った記憶の中に、意図的にいじった痕跡がある事を発見した。補完が不完全だった可能性は潰えていないが、それでもいじられた記憶を回復させれれば、新たな知識の発見となる事は間違いない。
 例えばホムンクルスの製造法とて、祖父の記憶から抽出した技術なのだ。
 大きな硝子壜の中だけを世界の全てとし、生温かい溶液を揺り篭に、化学合成の霊薬を乳に、人に似た人ならざる幼子は日々すくすくと育っていく。その成長の様を眺める一理の眼差しは、学士の怜悧さと同時に父親のような温かみを備えていた。
 なぜならそのホムンクルス、彼と彼の姉・汐音(しおね)の細胞を素材に用いている。美汐(みしお)という名前の由来も姉からだ。その甲斐もあってか、三ツか四ツの幼児に似たその姿はどことなく汐音に似ている。ただ決定的に違うのは、その「愛娘」は殆ど色素を欠いた白子だという事だった。
 肌は乳白、虹彩は深紅、髪は白いというより青い。まるで硝子と銀細工の人形を思わせるその容姿は心騒がせられる美があったが、一理の関心を惹きつけるには至らなかった。ホムンクルスに父性愛を抱こうとも、彼の第一の関心事は生命の源、魂の行方にあったのだから。
 ホムンクルスの技術で肉体を創造する事は出来ても、魂を創造することは出来ない。魂の錬成は不可能だと言われているし、錬金術は魂には及ばない物だとされている。ではホムンクルスとは、魂を呼びこむ器として錬成されるのだ。――ならばその魂が来る処とはどこだ。
 「人間」も所詮その辺りに転がる石と同じ、原子の集合体に過ぎない。この事実は人間に内在する小宇宙解明の鍵だと言うが、物質そのものに魂が宿る・宿らないの区別はないのか? いやアニミズム、元々万物には魂があるのか。では、魂とはなんだ、私とはなにか、生命がなぜ魂と肉体を結びつける? そう、全ての魔術師は何千年もかけてたった一ツの物を追い求めているに過ぎない。魂こそ、隠された神の御業。
 しかし、人間にも魂について一ツ分かっている事がある。魂の糧とは欲望だ。
 欲望とは人間のみならず、生物が持つ「環境を扱う能力」を示す。要・不要の区別をつけ、害のある物ははね除けて、益のある物はとり入れる、その拾捨選択と自己防衛の技能。それによって外界や他者へと影響を及ぼし、自身が望むように変化させようとする指向そのものだ。
 人間よ、貪欲であれ。汝の欲する処をなせ。欲望はしばしば精神にとり憑いて魂を喰らうが、逆に喰ってしまえばこちらの物。
 そう、「俺」は自分が生きるためならば手段を選ばない。


          (3)希望のように甘い。

 ちょっとしたアイディアがある。
 肉を食って物質的存在を補完出来るならば、魂を食って霊的存在を補完する事もまた、当然のように可能であるはずだ。
 そもそも不死不滅は神の属性。人の魂は神の分霊であり、小宇宙と大宇宙、我らは残らず神の雛形だ。ならば魂同士の補完の果てに、完全なる神の魂は顕れる。魂を喰らい続け、一人で複数の魂を所有できれば、それは完全な魂に近くなる。
 そのような思想は何も今に始まった物ではない、例えば神道の鎮魂・振魂はまさに魂を殖やす技術なのだった。そして花房一理は、祖父の記憶の中にまた、「魂の調理法」についての知識がない物かと思索に没頭することとなる。
 脳の補完を行ってからの歳月、一理は極力祖父の日常に関する記憶、錬成学に不要な情報は排除するように努めてきた。脳それ自体を食べる際の補完方法にも注意したが、多くは薬物と催眠術、そして自己暗示による。その試みは確かな成果を出していた。
 その応用で、他者による物か祖父自らによる物か、記憶に施された改ざんを取り除くことにも成功したのだ。成る程、確かに祖父は魂を喰す方法とやらは発見していたらしい。だが、周辺にこびり付いた記憶からすると、罪悪感や嫌悪感からそれを自ら忘却したようだった。
 愚かしいことだ、古来より魔術師が切望してきた、最も確実に神に近づける方法かも知れないのに。
 魂の総量には限りがあり、そして永遠不滅である。原子のように、エネルギーのように、宇宙全体の魂は常に一定で変わりがない。故に、一ツ死ねば一ツ生まれる、それを一ツ処に集めて留めようとすれば、当然しっぺ返しが来るだろう。ただ、それさえ切り抜けてしまえば良いだけの話だ。
 しかし魂を喰べるとして、まずはどこかから魂を持ってこなくてはならない。これは、単に人肉を手に入れようとする事より厄介な問題だ。だが思いつく。ホムンクルスだ、これが魂を呼び込む器として錬成されるならば、自ら魂を「栽培」することも可能ではないか。
 賢者の塔では「如何ナル理由ガアッテモ」五体と精神を完全に備えた、つまり人間と全く変わらない人造生体の研究と製造は禁止されている。にも関わらず、一理が創造したホムンクルス第一号「美汐」は錬成学の手による人間として設計されていた。つまり、魂がある。
 それは獣や幼児のそれに近い物かも知れないが、魂は魂だ。だが既に情が移っている自分としては、喰物として美汐を見ることは出来ない。ならば、また新しくホムンクルスを造ればいい。それも出来るだけ人間に近い魂を呼びこめるような、より完全なホムンクルスをだ。
 そう、これは世間一般で言う処の、希望が見えたような気がした。
 希望があるだけで、人は他者を思い遣れる。いわば「まだ大丈夫」という、心に持てる余裕だ。人は己を維持するだけの力を使っても、まだ余力がある時、初めて他者に手を差し伸べられるよう出来ている。まあ力が有り余ってはいても、他者のためには使いたがらない輩もいるものだが。
 自分は、もう少し優しくなろうと思った。それはまず身内に対してからだ。
「姉さんにプレゼントがあるんだ」
 入学して最初の春休み、一理は真っ直ぐに姉・汐音の元に向かった。親孝行したい時に親はなしと言うが、父の相手をするのは後回しでいい。
「What are little giles made of, made of? Suger and spice and, all things nice」
「マザーグースね? What are little boys made of, made of?
 Frogs and snails and puppydogs゜tails. And such are little boys made of♪」
 旧図書館の廃墟にひっそりと作った実験室には、これまで他者を招き入れた試しがない。部屋を留守にする時には、余人が入れないように仕掛けを施しておいたものだ。その聖域に、初めて他者を招待する。姉の手を引き引き実験室の扉を開けば、窓のないそこには真っ暗な闇しか見えない。
 壁のスイッチを押すと、教員棟から電力を拝借した灯し火が室内の闇を照らし出す。
「一理くん……。これ、なに」
 実験室の中央、巨大な硝子壜――培養ビーカーの中に浮かぶ白い子どもに、汐音の目はまず釘付けになった。美汐は既に、五、四歳の少女ほどの大きさに育っている。急に灯りをつけられて眩しそうに目を細めながら、少女は初めて見る一理以外の人物を硝子の向こうから注視していた。
「ホムンクルスだよ。僕が造ったんだ、綺麗だろう?」
「私、に……似てる」
「そう。僕と姉さんの細胞をベースにしたんだ。僕らの子どもみたいな物さ」
「――私達の!?」
「名前だって姉さんから一字取ったんだよ。美汐って言うんだ」
 笑いかけ説明しながら、一理は汐音の表情が強ばっている事に気がつかなかった。


          (4)魂の美味しい食べ方について。

 硝子が、砕け散った。
 汐音がその場にあった試験管を手に取り、目の前の培養ビーカーに投げつけたのだ。中にいた美汐は、思わず身をすくませ溶液の中を後退する。
「姉さん!? 何するんだッ」
「一理くん……これが、あなたのプレゼント?」
 愛娘の怯える姿に一瞬声を荒げた一理は、思いのほか冷たく、か細く、震えた彼女の声に喉を詰まらせた。
「こんな、こんな物がッ」
「汐音……姉さん? 何を言ってるんだよ」
 一理の製造したホムンクルス第一号・美汐は、彼と彼の姉・汐音の細胞をベースに合成した人造生体だ。いわば自分達の分身であり、一理にとっては汐音との間に出来た愛娘にも等しい存在だった。だが、その愛娘を見る汐音の眼はひどく血走って、憎しみさえ感じられる。
 いや、それはもっと生理的な嫌悪感や、殺意さえ混じった昏い炎を宿していた。溶岩とヘドロをごっちゃ煮にしたような、そんな負の感情と感覚が、ぎらりと刃物のように光る。そういう、眼差しだった。一理にはその炎が理解できない、その嫌悪の源となる感情が計り知れない。
「何、これ。こんな物いらない、いて欲しくないっ。なんて卑らしい物を造ったの!」
「そんな……汐音」
 一理の声は、虫の羽音にも似て弱々しい。ひどく、胸が痛かった。ぽっかりと孔が開いて、そこに心が吸い込まれ落ちていきそうな虚無感に、体の奥から冷えるような気分を味わう。だが、汐音は容赦なく凛として厳しい眼差しで弟を一瞥すると、きびすを返した。
「不潔です。始末してしまいなさい」
 長い髪をひるがえして実験室の扉を出ていく汐音の背に、それでも一理は精一杯の反論を投げつけた。
「失望したよ」
 というその言葉は、まるで力がなかったけれど。何かを言わずにいられなかったが、結局何を言えばいいかなど分からなかった。一人その場に取り残され、薬品荒れの手を白くなるほど握り締めながら、培養ビーカーに近づく。硝子を撫でると、ひやりとした質感が流れ込んだ。
 その手に、硝子壜の向こう側から美汐が自身の手を重ね合わせてきた。紅葉と呼ぶには白過ぎる小さな掌の向こうには、鬼灯のような赤い赤い瞳が一理を見据える。とろりとした深紅は、赤い翡翠という物があればこのような色だろうと思わせた。その赤い瞳が、姉に似た幼い顔に埋まっている。
 汐音が卑らしいと呼んだ硝子壜の娘は、何も知らぬ無邪気な微笑みを創造主に向けた。手を伸ばせば、その一瞬後に掻き消えてしまいそうな程、その微笑みが儚い。肢体の輪郭さえ溶液にぼやけ、今にも溶け切ってしまいそうだ。それが、この娘が「偽物」だという印象をいっそう強くする。
 そう、所詮は「擬似」生命。人智の手による物では、神智の手による物には及ばなかったという事か。
「っぅ……」
 胸が締めつけられた。久し振りの「発作」だ、実験室は埃に注意してよく掃除していたし、自作の霊薬も色々と試してすっかり抑えが効いていたのに。息が、出来ない。指先から血の気が引いて温もりが失われていく。平衡感覚が狂い、ぐるぅりと部屋の光景が傾いでいった。
 ヒュウヒュウという自分の呼吸がひどく耳障りで、まるで獣の吠え声のように耳の奥で唸りをあげる。手足がばたばたと痙攣するのが分かるが、止めようもない。本当に、発作なんて久し振りだ。ただ朦朧とした頭で、時が過ぎ去り呼吸が鎮まるのを待つしかない。
 酷く脆くて危うい、己の虚弱な生命が悔しく、また滑稽だ。何だ、自分も偽物に過ぎないホムンクルスと変わらないではないか。人は全て神の模倣、本物など唯一神をおいて他にない、とどこかの神学者は言ったが、ならばこの花房一理は偽物の中の更に偽物と云う訳だ。
「……ッぁ、ッハ。やはり、人は神にならない限り不完全なまま、か」
 この身に宿る魂は、あまりに歪つだ。
 呼吸が正常を取り戻す。さっきまでの苦痛が本当に嘘のようで、それが尚更笑い出したくなるような虚しさをもたらした。唇の端を自嘲に吊り上げて微笑しながら、一理は硝子壜に手をついて立ち上がった。壜の中には、神の似姿の、更なる模倣が白く漾(ただよ)う。
 神は己の姿に似せて人を創造したり。人の手は神の御手でもある。
「お前は今まで父と母のものだったが、お前の母はお前を拒絶した」
 手に、儀式用の短剣を握る。刃渡り三〇センチを越えるそれは元より刃がついてなどいないが、鞘も含めれば立派な鈍器になる。
「ならばもうお前はこの父だけのもの、父のもとへ帰れ」
 硝子が、砕け散った。澄んだ破砕音はそれ自体が何かの破局を悟った者の悲鳴を思わせて物悲しい。いや、そう感じるのは自身ただ一人なのだろう。壜の娘はただ突然の出来事に怯えているだけだ。足元を流れ出す溶液に洗われる、生温かい感触が不快だった。
 放り捨てた短剣の下で、破片が割れる音がする。それを耳にしながら、一理の手は美汐の首にかけられた。躊躇も後悔もなく、行為はただの一瞬。無から有を生む苦労に比べ、有を無に返す労苦はなんと軽い事だろう。その軽ささえ哀しくも思いながら、一理にはそれを哀しむ権利などない。
 生きる、生きる、アダムのように、神のように、無限の住人となって永遠を生きる。それをば本懐と誓ったならば、何も許されない。
「黒く、熱く、甘い――これが魂の味か」
 そして何も許されない者は、自身に全てを許す義務もある。それを知るならば、偽りの赤い血肉も甘露となろう。今までもこれからも、万物万人の生命を踏みつけて、それでも神の高みを目指すなら、救済は永遠にこない。だから自分自身を救わなくてはならない。
 いいだろう、ならば全てを利用してやる。


                                      了

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