『天才論』

 まるで壁の建材に、無数の本を使用したような部屋だった。
 細長い五畳の部屋には、マンションの天井に届くほどの巨大な本棚が壁の片側に沿って、ドンッと置かれている。
 古くさい合成木板の本棚には、厚さもサイズもバラバラの本たちが、縦にして横にして詰め込まれ、取り出す隙間もない。
 そして本棚の見下ろす目の前、大地震が来たら倒れてきた本棚へ押し潰されそうな位置に、一組の白い布団が敷かれていた。
 もう何日も敷きっぱなしか分からない布団の周りには、雑誌や本が散乱し、その間に酒のビンや、保温の出来る電気ポットが置かれている。
 その周囲だけ散らかっているのは、部屋の主である男が、ほとんど布団の上でしか生活していないからだ。
 男は今も布団の上に座り、折りたたみの座卓、というか本当に台という感じの物にノートパソコンを置き、猫背気味に画面へ向かっている。
 室内だというのに、ジャージ姿の上から黒い革のジャンバーを羽織っているのは寒いからだろう。
 もう十二月半ばだというのに、部屋の中には暖房器具と呼べる物など一つもない。
 相変わらず、本しか増えない部屋だ。
 ヤギシリ、本名・焼尻純一は、しばしドアを開けた玄関から部屋を眺め、やれやれと思った。
「邪魔していいかい、センセイ?」
「…………」
 声をかけても、男はこちらに背中を向けたまま返事がない。
 部屋にいる男の名はコトウ、本名・湖東要という。
 センセイという呼び名は、テレビドラマ化もされた、有名な某診療所マンガに由来する。
 ヤギシリは玄関の木製ドアをコツコツと叩き、再び声をかけた。
「センセイ、昨日ケイタイにもメールを送っといたんだけど?」
 ノートパソコンの画面に向かっていたコトウの顔が振り返る。
 黒い前髪の下に、太めの眉と一重マブタの鋭い目がある。
 アゴに無精ヒゲの生えた、線の細い顔だ。
 ちゃんと身なりに気を使えば、それなりに格好良いのだが。
「メールは見てねえよ……邪魔だから帰れ」
 わざわざ日曜の朝から訪ねてきた友人に対して、ずいぶんな言葉だ。
 まったく、とヤギシリは苦笑を浮かべて思ったが、腹は立たない。
 無愛想な態度は、長い付き合いによる気安さだと知っているからだ。
「上がるよ、センセイ」
「ああ、寒いから早く閉めろ」
 それを承諾の言葉として受け取り、ヤギシリは玄関でクツを脱いだ。
 ドアを開けたらすぐに部屋なので、玄関といってもクツを脱ぐ狭い場所があるだけだ。
 クツ下で部屋に上がると、畳が冷たい。
 ヤギシリは黒のダウンジャケットに濃いブルーのジーンズという姿だが、部屋に入っても上着を脱ぐ気にはなれなかった。
 これだけ寒いと、コトウが布団の上で生活しているのも分かる。
 ふと、ヤギシリはコトウの背後へさしかかり、ノートパソコンの画面を見下した。
「センセイ、今なに書いてんの?」
「……傑作を書いている」
 白い液晶画面の中には、ビッシリと黒い文字が埋まっていた。
 センセイという呼び名の由来には、もう一つ、コトウが物書きだという理由がある。
 そしてヤギシリもまた、物書きだ。
 とはいえ二人ともプロではなく、趣味や気まぐれで小説を書くだけの素人作家だが。
 ただヤギシリの方は、インターネットの小説サイトに掲載したり、文芸サークルに参加したりと、積極的に活動の場を広げている。
 それに対しコトウの方は、小説を書いても発表しようとせず、せいぜい書き終わった作品をヤギシリに読ませるぐらいだ。
 それだって、執筆中の物は読ませてくれないし、場合によってはタイトルすら教えてくれない。
 しかし文章の腕に関しては、コトウの方がヤギシリより格段に上手い。
 コトウの実力を実際に知るヤギシリは、もったいない話だと思っているのだが。

 そんなことよりと、ヤギシリは訪問の目的を思い出し、コトウの脇をすり抜け、巨大な本棚の前に立った。
「センセイのところにさ、『ネクロノミコン』なかったっけ?」
「ギリシア語版ならあるぞ」
「いやいや、読めないから……」
 ヤギシリは顔の前で片手を振って断る。
「ギリシア語の辞書を使えば読めるだろ?」
 布団の上に座るコトウは、真顔でヤギシリを見上げた。
 いつも表情を変えずに物を言う男なので、コトウの言葉は本気か冗談か分からないが、おそらく今のセリフは本気だ。
「クトゥルー関係だと他にないの?」
「ああ、たしか『無名祭祀書』の英語版なら和訳が載ってたぞ」
「おっ、ネームレス・カルツは良いねえ」
 ヤギシリは嬉しそうに笑いながら、本棚へ視線を戻し、上から順番に眺めていった。
 物が大きい本なので、すぐに見つかった。
 まるで電話帳なみのサイズと厚さだ。
 本棚の中段、右端の方に、黒い背表紙の本が縦に収まっている。
 書名には金箔の型押しで『無名祭祀書――ネームレス・カルツ』とアルファベットの文字が刻まれていた。
 著者の名前は無く、〈白蘭書房〉と出版社の名前だけが書かれている。
 しかし、立てられた本の上には別の本が横になって押し込まれ、取り出す隙間がない。
 土に埋まった化石を取り出す学者の手付きで、ヤギシリは苦闘の末に本を取り出した。
 ズッシリと重い本を片手に床の布団を回りこみ、コトウの正面に座る。
「うちは図書館じゃねえぞ」
 畳の上へ腰を下ろしたヤギシリに、コトウは視線を投げた。
「別に、本を読みに来たわけじゃないよ」
 ヤギシリは笑って返す。
「じつはさ、またセンセイに短編を一本書いて欲しいんだけど」
「テーマは?」
「コイツだよ」
 ヤギシリはニヤリと笑みを変化させ、手にした『無名祭祀書』の表紙をコトウに向けた。
「クトゥルー神話か……」
 コトウは顔を上げ、再びノートパソコンの画面に視線を戻す。
 クトゥルー神話とは、二十世紀アメリカの怪奇作家H・P・ラブクラフトが創作した一連のホラー小説である。
 『ネクロノミコン』や『無名祭祀書』などと呼ばれる書物は、その小説の中に入手不可能な魔道書として登場する。
 ただし、その小説を元にして実際の作家によって書かれた魔道書の数々が、熱狂的なマニア向けに世界中で出版されている。
「今度うちのメールマガジンでクトゥルー特集を組むんだけど、原稿が集まらなくてさ」
「フッ、また『群青』か」
 小馬鹿にするよう、コトウは鼻で笑う。
 『群青』とは、ヤギシリが参加している『群青海路』というインターネットの小説サイトだ。
 そして基本的に一匹狼で動くコトウは、集団で物事を進める人間たちを好まない。
「どうセンセイ、頼まれてくれない?」
「枚数は?」
「原稿用紙五十枚以内」
「期限は?」
「来週の一週間」
 チッ、とコトウは軽く舌打ちをする。
「時間が無い」
「いや、センセイなら書けるって」
 おだてるように、ヤギシリは言った。
 お世辞ではなく、コトウの腕なら可能だろうと思ってのことだ。
「オマエは書かないのか?」
「いや、もちろん自分でも書くけど、それでも原稿が足りなくてさ」
「…………」
 しばし、コトウは無言で短く考えた。
「何でもよけりゃ書いてやるよ」
「いいよ、形になっていればOKだから」
「ただし、オレの名前は絶対に出すな」
 念を押すように強く言われ、うむぅ、とヤギシリは低く唸る。
「そりゃあ、まあ別にいいけどさ。せっかく参加するんだから、名前を出さないと、もったいないだろ?」
「いいんだよ。オレの文章は、まだ納得出来るレベルに達してないし、中途半端な物を書いて世の中に恥を晒すつもりは無い」
「そんなもんかねえ……」
 コトウの腕が中途半端なら、そのレベルすら届かずに小説を発表している自分は何なのかと、ヤギシリは呆れ気味に思った。
 まったく、天才の理屈というものは計り知れない。

 とりあえず、執筆の約束を取り付けたことで、ほぼヤギシリの目的は達せられた。
「だけどさ、作者の名前が匿名希望じゃ、うちとしてはマズイんだけど」
「オマエの名前で出せばいいだろ」
 しれっと、コトウは言ってのける。
「いや、文体が違うから分かるって」
「そこは上手く書き直してゴマかせ。オマエの名前で出すなら、多少下手があっても、オレの腕が傷つくわけじゃない」
「そういうことなのか……」
 うーん、とヤギシリは下を向き、片手で頭を掻いた。
 自分の作品を書きながら、コトウの作品を直すのは面倒な作業だが、結局は仕方ないという結論に達した。
 手にした『無名祭祀書』を床で開きながら、ヤギシリはコトウに言う。
「まあ、いちおう引き受けてくれたんだから、原稿料ってことで今日の昼メシ代は出すよ」
「ほう、上限はいくらだ?」
「2エンジェル」
「酒代も入れてか?」
「それも込み」
 エンジェルというのは、飛行機乗りの航空用語で高度2000フィートを表す単位だ。
 2エンジェルだと2000、つまり食事代4000円ということになる。
 ヤギシリとコトウの知人で、航空自衛隊に所属する男が、仲間だけで意味の通じる符丁として持ち込んだ言葉だ。
「じゃあ、喰いに行くか」
 パタンとノートパソコンを閉じ、コトウは布団の上に立ち上がった。
「えっ、もう行くの?」
 ヤギシリは驚いて見上げる。
 ジーンズのヒップポケットから携帯電話を取り出して時間を確認するが、まだ昼前だ。
「文句を言うな。こっちは朝の4時から小説を書いてて、まだ何も食ってねえんだよ」
「ほんと、ジジイみたいな生活してるよな……」
 呆れ顔を浮かべるヤギシリに、コトウは「着替えてくる」と告げ、部屋の奥に消えた。
 ヤギシリの背後、厚いグレーのカーテンで仕切られた向こう側に、もう一つ部屋がある。
 台所兼食堂と、備え付けのトイレ兼フロ場兼洗濯場だ。
 コトウは黒い革のジャンバーにジャージの上下という姿だったので、そのままの格好で外へ出るわけにもいかないだろう。
 コトウを待つ間、ヤギシリは『無名祭祀書』のページをめくり、紙面を埋め尽くす文字と魔法円の図形を眺めながら考えた。
 自分の方でも、クトゥルー神話をテーマに短編を書くのだから、何かネタを探さなければならない。
 そのうえコトウの小説を直すとなると、やはりキツイ作業だ。
「ねえ、センセイ。やっぱり書き直さないと駄目かな?」
 ヤギシリは背後を振り返り、閉じたカーテン越しにコトウを呼んだ。
 ああ、と生返事だけが返ってくる。
 ハァッ、とヤギシリは溜息を一つ。
 諦めて本へ視線を戻したヤギシリに、奥からコトウが唐突に尋ねた。
「オマエ、モナ・リザの作者を知ってるか?」
 しかし急に言われても、影のある微笑を浮かべた婦人の絵が頭に浮かぶだけで、作者の名前が出てこない。
「えーっと、誰だっけ?」
「ダ・ヴィンチだ、阿呆」
 ひどい悪態を吐きながら、コトウがカーテンを割って登場する。
 ジャンバーはそのまま、白いシャツにグレーのズボンを履いている。
「ああ、レオナルドね」
 それなら知っていると、ヤギシリは頷く。
 十五世紀イタリアの芸術家、レオナルド・ダ・ダヴィンチ。
 画家として『モナ・リザ』や『最後の晩餐』といった傑作を描いているが、それ以外の分野でも活躍した天才だったことは、世界の誰もが知る有名な話だ。
「じゃあ、ダ・ヴィンチのデビュー作を知っているか?」
「えっ、さあ?」
 コトウの支度が終わり、ヤギシリも本を閉じて立ち上がった。
「ていうか、デビュー作なんてあんの?」
 手にした『無名祭祀書』を本棚に戻しながら、ヤギシリは尋ね返した。
 むろんプロの画家だったわけだから、最初の作品はあっただろう。
 だが今の時代には残ってないし、一般にはタイトルすら伝わってないのだから、そんなものは存在しないも同然ではないだろうか。
「大天才ダ・ヴィンチですら、その程度だ」
 わずかに笑い、コトウは無精ヒゲの生えた口元を歪める。
「ダ・ヴィンチは晩年になって、モナ・リザを書き上げた。でもオレは、モナ・リザでデビューしたいんだよ」
「…………」
 ヤギシリは一瞬、コトウの言葉を把握できず、無言で返した。
「モナ・リザでデビューして、次の作品でそれを上回って、次の作品でそれをさらに上回る。それぐらいの物が書けなけりゃ、世の中にオレの本を出す意味がねえよ」
 そしてコトウは、きっぱりと言い切った。
 次の瞬間、ヤギシリは「ハハハッ」と声を上げて笑った。
 まったく、自分の友人ながら途方も無い人間が居たものだ。
 言葉として口に出した以上、コトウは本気でそれを考えている。
 一体どこから、その自信が来るのか。
 世界の最高傑作である『モナ・リザ』と同クラスということは、コトウの書く小説は後世に残る作品ということだ。
 しかも、次回作でそれを上回るとなると、本当に計り知れない。
 どんなに売れた本でも、一年もすれば忘れられてしまうような名作が多々ある中で、コトウはそれを良しとしないのだ。
 しかし、いくら文章の上手いコトウでも、今の段階では不可能な目標であることは、ヤギシリにも分かる。
 だから、中途半端な段階で自分の名前を出すなというのは、そういう意味なのだろう。
 いやはや、それにしても……。
「センセイ、あんた絶対デビュー出来ないわ」
 玄関でクツを履きながら、ヤギシリはコトウに笑って言った。
 しかしコトウは言葉を返さず、フッと鼻で笑うだけ。
 そして男二人は、狭いマンションの部屋を後にしたのだった。


                                          了

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