『Hello nightmare, hello.』

『Hello nightmare, hello.』

著/遥 彼方

原稿用紙換算70枚

-0-
 眠れない、眠れない。頭の芯がぎりぎりと痛む、ひどく蒸し暑い夜。
 テレビの明かりだけが白々と灯る部屋の中、小説家は痩せた身体をソファに埋め、ぼんやりと小さな画面を見つめていた。モノクロームの画面の中では、黒い髪を七三になでつけた人形みたいな顔のキャスターが、平坦な声でニュースを読み上げている。
 高級住宅地の、ひときわ豪華な邸宅で起こった殺人事件。未亡人と執事の頭はリビングの絨毯にごろごろと転がっていたが、胴体は未だに見つからない。街の動物園で産み落とされたゾウの赤ん坊はなんとピンク色。だけど白黒のテレビでは少しもわからない。明日の天気は全国的に、雨。前線は大陸の西半分を覆うでしょう。
 小説家は憂鬱な気分で、そばの机に手を伸ばした。プラスティックの皿からゼリービーンズをつまみ上げ、口の中へ放り込む。
 彼は雨が嫌いだった。頭が、雨の降るときは特にひどく痛むのだ。錐で突くような鋭い頭痛は四十歳の誕生日を迎えた頃から慢性的に続き、彼を悩ませていた。
 株価の終値を聴きながら、ゼリービーンズをもう少し。ねっとりとした甘さは彼の心を少しだけ慰めてくれる。
 木製の広い机の上にはゼリービーンズの皿の他に、小説家がもう二十年以上も使い続けている古いタイプライターが置かれている。白い紙にはたった一行、こう刻まれていた。
「悪魔は彼の背後に立ち、その脊髄へと邪悪な手を伸ばした」
 短いメロディが流れて、ニュースが終わる。キャスターが深々と一礼すると映像はそこで途切れ、ざらざらとした灰色のノイズに変わった。
 小説家は枯れ枝のような腕をゆっくりと伸ばし、ダイヤルをひねってチャンネルを回す。
 時刻は真夜中をとうに過ぎ、放送を続けているのは一局だけだった。
 画面に、黒い、何かざわついた影が映し出される。よくよく見ると、それは森の木々の影だとわかった。低いメロディが微かに聞こえている。
 小説家はゼリービーンズをもう三つほど口に入れ、ゆっくりと噛んだ。
 映像が動き、木々の間を彷徨う華奢な影が、画面の中央に白く映る。

-1-
 木々の枝葉の間から、太った満月がちらちらと覗く。
 月光で白く薄明るい森を、男が一人、歩いていた。
 森はしいんと死んだように静かで、ただ男の靴が枯葉の積もった地面を踏む、ざく、ざく、という音だけが続いている。
 彼のジャケットは汚れ、革がかすれてつるつると光っていた。薄いズボンの裾はぼろぼろに破れ、土にまみれている。枯れ枝のような腕で革の鞄を抱え、男は背を丸め、ただひたすら歩いていた。
 どれくらい長いこと、こうして彷徨っているかわからない。そればかりでなく、自分がどういう訳でここにいるのかさえ、男はもうよく思い出すことが出来なかった。
 ただ。
 彼は、苛立っていた。
 燃え上がるような苛立ちだけが、彼の中で渦を巻いていた。
 明る過ぎる月、冷え込んだ夜の大気、大して密でもないのに少しも途切れる気配の無い森。全てに、男はやり場のない怒りを覚えていた。だから感情に任せて進む。草を踏み、木の芽を折り、枝を振り払い、進み続けている。
 ぶうん……。
 突然、耳元で低く嫌な羽音がした。男はぎゅっと顔をしかめ、腕をでたらめに振り回す。
 ぶうん、ぶうん、ぶうん。羽音は近くなったり遠くなったりしながら、男の周囲を飛び回った。
 ぶうん、ぶうん、ぶうん……。
 しかし、その音の向こうからは。
 ぶうん……。
 何か、細かな言葉が聞こえてくる。
「……まあどうしてそんなに厳しい顔をしていらっしゃるの、こんなに白く白く澄んだ良い月の夜なのに……」
 男は羽音の正体を見た。それは透明な羽を震わせ、男の傍らにいた。
 青い、青い、鮮やかに青いドレスを着た、小指の先ほどの女だった。肌の色は月光に透けるほど白く、よく見ると相当に化粧が濃い。
「何だ、鬱陶しい」
 舌を打ち、男はますます顔をしかめて呟いた。
「失せろ、ハエめ」
 そして手のひらを振り回すが、女は指の間をぶうんとすり抜け、男の目の前に出る。
「ねえいったいどうしてそんなに怒っていらっしゃるの、よかったら私に教えてくださらない」
「ああ、糞、寝るところが無えんだよ!」
 男は自棄になって叫ぶ。
「あら寝るところならありますわよ」
 女蠅は腰に手を当て、何だそんなこと、といったふうな顔をした。
「この先に建物がありますのよ白い四角い建物が。中がどうなっているのかまでは存じませんけどとりあえず屋根がありますし、それはもうおそろしく広いものですからあなたでも充分横になれるでしょうよ――」
 彼女が話している間中、男は両耳に人差し指を突っ込んで、耳障りな羽音に耐えていた。女蠅はなおもぺちゃくちゃと喋り続ける。
「だけど本当におかしな方ねえこんな素敵な月の夜なんてめったにありませんのよ、普通でしたらみんなみんな起きて輪になって光を浴びながら踊るものですわいつだってそうですもの――」
 そう言いながら、女蠅はふと男の頬に止まった。男は反射的にそれを、ぱちんと平手で叩いていた。
 女蠅は血の跡を広げてぐしゃりと潰れた。羽音も声もそこで途絶え、静かになった。
 血糊と透明な羽の欠片が手のひらにべっとりと付いているのを見ると、男はふんと鼻で溜め息をついた。そして手近な枝から出来るだけ幅の広そうな葉をもぎ取り、手のひらと顔を乱暴に拭う。血はほとんど落ちることなく、むしろ顔の半分に広がって、彼の形相はなかなか恐ろしいことになった。
 男は葉を捨てると、それを踏みつけてまた進み始める。
 月はやはり白く明るく、いや、むしろ、刻々と明るさを増しているようにさえ思える。
 ざく、ざく、ざく、ざく――。
 柔らかな土を踏んで、どれほど進んだろうか。木々の向こうに、男は淡い光を見た。
 立ち止まり目を見開き、まじまじとそれを見つめる。それはたしかに暖かげな橙色で、しかも一つではなく、いくつか並んで見えるようだった。人家の明かりに、とてもよく似ていた。
 森の終わりか――?
 男は地を蹴り、走り出す。
 ほどなく森は途切れた。巨大な月の全体が現れる。その光をまともに顔に受け、男は立ち止まった。
 木々に囲まれた、ぽっかりと円い空き地だった。丈の短い青緑色の草が、緩やかな風を受けてさわさわと波打っている。
 その真ん中に、四角いアパートメントがぽつんと建っていた。いくつかの窓に明かりが灯り、こての跡が残る壁は、月光でぼうっと青白く見えた。
 男はゆっくりと建物に近づいていく。
 奇妙な建物だった。二階建てだったが、二階部分の方が一階よりひとまわりも大きい。
 テレビ画面のような長方形の窓が整然と並び、そこから中の様子が、見える。

-2-
 一〇三号室には少女が住んでいた。
 白いキャミソールを着た少女は、毛足の長いふかふかのカーペットに座り込み、足の爪にせっせとペディキュアを塗っている。ペディキュアはきらきら光るラメ入りの青、最近発売されたばかりの新製品。彼女の白い肌に、とてもよく映える。
 家具といったら白いドレッサーくらいしかない、正方形のちっぽけな部屋。小型ラジオから流れ出す、アイドルの甘ったるい声が満ちている。
 四方の壁は、少女が長いことかけて集めたポスターや写真で埋め尽くされ、元の壁紙はもう判らない。
 マリファナに溺れて死んだロックスターの微笑、ひらひらのドレスを着て歌う道化めいたアイドル。政治犯として銃殺刑に処せられた喜劇俳優。世界中に男女取り混ぜて二十人の恋人を持つニュースキャスターの、人形のような横顔。
 彼女はここにひとりで住んでいた。両親は二年前、葬儀帰りの霊柩車にはねられて死んだ。今は有名人たちの肖像と一緒に、ただし二人だけ黒い額に入って、壁に並んでかかっている。
 少女はペディキュアの小瓶をドレッサーの引き出しにしまうと、昔の大統領の横で微笑んでいる、礼服姿の母の遺影を見上げた。
「ふうん……」
 ちょっと首を傾げ、面白そうに言う。
「おかあさんて案外、美人だったのね。ただもうちょっと鼻が高ければ完璧だったのにね」
 すると、写真の中の母親はたちまち目を吊り上げた。
「また下らないこと言って!」
 甲高い声でぴしゃりと言い放つ。
「そんなことはどうでもいいから、早くちゃんとした服を着なさい!」
「嫌よ」
 少女はにやりと笑みを浮かべる。
「暑いんだもん」
「だからって年頃の娘が、下着のまんまでいいと思ってるの?」
「これ下着じゃないもの」
 そう言うと、少女は両手を広げ、つま先立ってくるりと一回転して見せた。
「みんな夏はこれ着て、外、歩くんだから」
「まあ!」
 母親はますます目を吊り上げる。
「なんてはしたない」
 すると、さざめくような笑い声が起こった。
 部屋中の写真たちが、くすくす、くすくす、笑っているのだ。ある者は肩を震わせて、ある者は口許に手を当てて。少女も腹を抱えてくつくつと笑う。
 唇を引き結んで、今にも何か怒鳴り出しそうな母親を、
「まあ、まあ、母さん」
 頭髪の薄くなった父親がなだめた。
「そうかりかりすることもないだろう」
「でもあなた――!」
「親に反抗してみたい時期なのさ、特に十六、七の頃っていうのはな。わかるよ、父さんもそうだったからな。俺なんか親父のことが本当に嫌でさ、何だ、やっぱり同性の親に反感を持つものかもしれんな。それでもうずっと親父と喧嘩ばかり、はは、よく殴られもしたな――」
 その後も延々と続きそうな父の話を、
「はいはいはーいっ!」
 少女は手を挙げて遮った。両親はぴたりと黙り込む。
「今日はお父さんお母さんに大事な話があるの!」
「あら、そうなの?」
「何だね?」
 少女はふふん、とやけに幸せそうな笑みを浮かべると、背後のドアを振り返り、
「入ってー!」
 と、呼んだ。
 写真たちが一斉に注目する中、ショッキングピンクに塗られたドアがゆっくりと開く。
 そして。
 よた、よた、頼りない足取りで部屋へと入ってきたのは、茶色のふさふさとした毛に全身を被われた、少女の腰ほどの背丈の仔グマ、だった。
 仔グマはよたよたっと少女の横に並ぶ。すると彼女はすかさず、その首にしっかりと抱きついて、
「彼氏よ!」
 と高らかに言い放った。
 部屋のあちこちから、おお、とも、ああ、ともつかないどよめきが起こる。両親はすっかり反応に困ってしまったようだった。父親は出目気味の目をさらに見開き、母親は眉をきゅっとひそめて、
「あら……まあ……それは……だけど……」
 と意味の無い言葉をつなげた後、おずおずと言った。
「……だけどそれがどういうことか、お前本当にわかってるの?」
 しかし少女は幸福な笑みを崩さぬまま、もう一言、追い討ちをかけるように言った。
「お腹にねー、赤ちゃんもいるの」
 今度こそ、両親ははっきりとショックを受けたようだった。母親は額を押さえて天を仰ぎ、そのまますとん、と額の中から消えてしまった。父親は凍りついた表情で、呆然と首を振った。
「そんな……堕ろしなさい、父さんは絶対に認めんぞ……そんな、獣の子だなんて……」
「いやよ!」
 少女は仔グマを抱き上げて、深い毛の中に頬を埋める。
「堕ろすなんて、絶対に、いや!」
 しかし。
 そこまで言ったとき、突然、少女の顔から表情が消えた。仔グマを抱く腕から、ふっと力が抜ける。
 仔グマはカーペットの上にぼとりと落ちた。
 少女はそれを見下ろし、ぽつりと呟く。
「飽きちゃったぁ……」
 部屋の中は静かだった。両親の遺影は何一つ変わった所もなく、黒い額の中、穏やかな笑みを浮かべていた。
「ごっご遊びも、最近なんか、楽しくないのよね」
 そう言うと少女は仔グマの縫いぐるみを拾い上げ、口許に軽くキスをした。そして床の上に座らせると、ドレッサーに歩み寄り、引き出しからペディキュアの瓶を取り出す。
 少女の爪は塗り重ねた青のせいで、ひどく大きく、分厚く、いびつなのだ。

-3-
 二〇一号室には女が住んでいた。
「ああ、ああ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 傾いた茶色のソファに腰掛け、彼女は夫の頭と首を、はらはら泣きながら縫い合わせている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 ルージュの剥がれかけた唇は、ひたすら謝罪の言葉を呟き続けている。涙で化粧が流れ落ち、女の顔はもうまともに見られた物ではなかったが、それでも細い指先はしっかりと針を操っている。
 先ほどひどい夫婦喧嘩をしたときに、彼女は夫の首を、大きな裁ち鋏でちょん切ってしまったのだ。
「頭に血が上っちゃったの……ごめんなさい、ごめんなさい……」
 部屋の中は惨憺たる有様だった。カーテンは引き裂かれ、壁の絵はねじれ、水浸しの床の上には花瓶の欠片と数本のカーネーション、夫が愛用している木のバットが散らかり、フローリングに鋏が突き刺さっている。そしていたるところに、部屋中のあらゆる所に、白い綿くずが落ちていた。
 しかし女はそれらを片付けることもせずに、夫の首を縫い合わせている。黒い糸で幾重にも、丁寧に、丁寧に。
「お願いだからまた動いて……ねえ、ねえ」
 女の涙はぽつり、ぽつり、夫のつるんとした顔の上に落ちた。
 彼女の夫はひょろりと背の高い布人形だった。髪の毛はこげ茶色の毛糸で、瞳は大きめの丸いボタン、笑顔をかたどる口と眉は刺繍糸で形良く縫われている。もちろん、彼女の手作りだ。
 女は首を縫い合わせ終えると、なれた手つきで玉止めをし、小さな鋏で糸をぷつんと切った。
 肩を掴んで夫の上体を持ち上げ、ふうと震える息をつく。
「これでいいわ」
 すると夫はボタンの瞳で、きろりと彼女をねめつけた。
「汚い手を離しやがれ、このアマ!」
「ああ!」
 女は感極まって叫び声を上げた。
 彼女が両手を離すと、夫は軽くよろけつつも、自分の足でしっかりと立った。
「動いた、ああ、また動いたわ!」
 女は涙をぼろぼろこぼしながら、夫に抱きつこうとする。しかし、
「触るんじゃねえ」
 相手が上体をねじって避けたので、彼女はつんのめって床の上に倒れた。フローリングに額がぶつかる鈍い音。それでも女は、涙まみれの顔に満面の笑みを浮かべて夫を見上げた。
「ああ、良かった、私だめかと思ったのよ、本当に――」
 夫はそれを無視し、壁にかかった古い鏡へぱたぱたと歩み寄る。そして自分の首をじっと見つめ、
「何だって黒糸で縫いやがったんだ」
 低い声で言った。
「あら、ごめんなさい――でも、黒しかなかったんだもの」
 手の甲で涙を拭いつつ、女は湿った声で答える。
「きれいに見えるように頑張ったのよ」
「はン!」
 夫は忌々しげに、足許に転がる花瓶の欠片を蹴り飛ばす。
 それを見てはじめて、女は部屋の惨状に気が付いた。
「まあ……」
 両手のひらに頬を当て、ゆっくりと辺りを見回す。
「何てひどい……どうして今の今まで気がつかなかったのかしら。早く早く、片付けなくちゃ、ねえ、あなたも手伝って!」
 そしてまず床一杯に散らばった綿屑を片付けようと、背をかがめたところで、
「うっ!」
 背中に重い衝撃を受け、女は床の上に再び倒れた。
 夫が愛用のバットで、彼女の背中を殴り飛ばしたのだった。夫の手は鍋つかみのミトン、中には針金が入っていて、物を掴むくらいなら難なく出来る。
「五月蝿えんだよお、手前はよお」
 心底嘲るような声を上げ、夫は言った。
「いいから、酒を持ってこい、な」
 女は拳で涙を拭うと、黙って立ち上がり、キッチンへ向かう。
 ブランデーの瓶を取って戻ってきたとき、夫はソファに腰掛け、バットの先でだん、だん、床を叩いていた。傷だらけになったフローリングが、丸く凹んでいた。
「やめてください、あなた」
 女は蚊の泣くような声で言ったが、夫には聞こえない。彼はブランデーの瓶を妻から受け取ると、直接口許に当ててこく、こく、こくん、一気に流し込んだ。
 空になった瓶を床に転がし、
「さあ、もう一本だ」
「もう無いわ」
 女は目を伏せ、震える声で言った。
「あれが最後の一本なのよ」
「何だとォ?」
 二、三歩後ずさる女に向かって夫はまたバットを振り上げ、勢いよく打ち倒した。
 ぐえっ、と奇妙な声を上げ、女は床に転がる。その背を、夫はさらに殴る。
 重い音を立て、繰り返し、容赦なく。顔に縫い付けられた優しい笑みはそのままに。
 打ち据えられる痛みと苦しさでぐちゃぐちゃに滲む視界の中に、
「……」
 女は、床に突き立つ裁ち鋏をとらえていた。
 ぶん、と音を立ててまたバットが振り下ろされる。衝撃。
 女は手を伸ばした。全身の力を振り絞って鋏を引き抜くと、身を翻して起き上がり、バットを振り上げている夫の腕をざくりと切り落とした。
 ごとん、重い音を立て、腕はバットごと床に転がった。肩から湿った白い綿がぼとぼとっと落ちる。
 ゆっくりと首を回し、それを見た夫から、
「――ッぎゃああああああああああ――!」
 悲鳴がほとばしった。
 それを聞きながら、女は鋏を振った。ざく、ざく、ざく、力を込めて切りつける、切り裂く。刃の切れ味は素晴らしかった。
 気がついたとき、女の前には布切れと綿くずの山がこんもりと出来上がっていた。
 鋏が、がちゃり、彼女の指から落ちる。
 そして女は崩れるように膝をつき、
「ゃあああああ――! ああああああ――!」
 引き裂くように泣き叫んだ。
 しばらくそうして、泣いた。
 泣き続けた。
 ――どれほど経ったろうか。
 やがて泣き声は潮が引くように消えていき、女はゆうらりと立ち上がると、夫の残骸を拾い集め抱え上げ、カーテンの裂けた窓へ歩み寄る。
 そしてガラス戸をゆっくりと開け、全てを外へ投げ捨てた。夫だった布切れと綿はばらばらと夜の闇の底へ沈んでいき、見えなくなった。
 女は再び、傾いだソファに腰掛ける。裁縫箱の引き出しからから薄い紙を取り出し広げ、黒い色鉛筆を手に取って、
「次はもっと――小さくてかわいらしいのがいいわ」
 新しい夫の出来上がりを想像し、泣き濡れた顔に微笑みを浮かべた。
 
-4-
 二〇五号室には小説家が住んでいた。
 ランプの光が静かに揺らめく部屋の中で、木製の広い机に肘をつき、小説家は頭を抱えている。彼の前には、もう二十年以上も前から使い続けている古びたタイプライターがあった。白い紙にはたった一行、こう書かれている。
「悪魔は彼の背後に立ち、その脊髄へと邪悪な手を伸ばした」
 この後がどうしても浮かんでこないのだった。もちろん、小説家の頭の中ではこれに続く物語がすべて出来上がっている。ただそれを、文章、言葉にして引き出すことが出来ない。
 だが、彼を真実悩ませているのは、そんなことでは無いのだった。
 ずいぶん昔から、それこそ二十年以上も前、第一作を世に出した頃から、彼はずっと同じことを評論家から言われ続けていた。つまり、彼の小説には、現実を超えるものが無い、と。
 彼の紡ぐ文章は美しかった。その点においては、彼はいつでも評価された。しかしストーリー、物語の中身そのものとなると、彼はなかなか評価されることがなかった。
 小説家と仲の良いある評論家は言うのだった。君の書くストーリーはなんだかんだいっても、全て現実、日常の範疇の中にすっぽりと収まってしまうよね。それが君の持ち味なんだろうし、地に足がついていて良いのかもしれないけれど、でも少し物足りないんだ。もうちょっと飛躍してみても、いいんじゃないかい?
 そこで小説家はとりあえず、現実にはまず存在し得ないものを、自分の小説に取り込んでみることにしたのだ。
 それが、悪魔だった。
 しかし――それは結局、誤算だったのだ、完全に。
 今、頭を抱える彼の横、広い机の端には、手のひらほどの小さな生き物がちょこんと腰掛けている。全身が夜の海のように真っ黒、ふさふさとした毛に被われていて、瞳は澄み切った緑色。尖った両耳がテレビのアンテナのように、つんと突き出している。
 小説家は横目でちらりとそれを見遣ると、
「はあ……」
 深くて暗い、溜め息をついた。
「またずいぶんと元気がありませんね」
 それは世間話のような口調で小説家に話しかける。
「どうかしたんですか」
 小説家は両手をぱたん、と机に落とすと、今度はまともにそれを見つめた。
「もう一度訊くがね――君は、本当に、本物の、悪魔なのか?」
「ええ、そうです」
 悪魔はにこやかに、軽く胸を張って答える。
「正真正銘、本物の悪魔ですとも」
 自信満々のその答えに、小説家はいよいよ困惑してしまう。
「ねえ、なにかお困りのようですが、本当に何があったのですか。わたしでよければ、相談に乗りますよ」
 悪魔は石のような硬質の目で小説家を見上げ、言う。
「いや……」
 小説家は力なく首を振った。
「まさか悪魔が現実に存在するなんて、思いもしなかったのでね」
「存在しますとも!」
 悪魔は鋭く叫ぶ。
「全くこの世に存在しないものが、どうして人の口から語られましょう。火の無い所に煙は立ちません。天使も悪魔も、吸血鬼や狼男だって、ちゃあんと現実の内に存在しているんです」
「ああ」
 小説家はぼんやりと頷いた。
「なるほどそうか、そういうものか……」
 では私の小説は結局、現実の範疇を超えられそうにない。天使も悪魔も皆、現実の中に属すのだとしたら。彼はもう一度、嘆息する。
「現実はあなたの思うよりも、ずっとずっと深くて広い」
 悪魔は歌うように言った。
「ところで、です。わたしの思うところでは、あなたの抱える問題は、わたしが存在するか否かというよりも、あなたの才能に因るところが大きいようですが。如何でしょう?」
 小説家は目を丸くして、まじまじと悪魔を見た。
「君は……私は何一つ、君に説明していないというのに……」
 すると悪魔は得意げに背を反らし、ちっぽけな腕を組んだ。
「どうなんです?」
 と、たたみかけるように問いかけてくる。
 小説家は一瞬、答えるのを躊躇った。
 しかしすぐに肩を落とし、言う。
「そうだな」
 痩せた顔に軽い苦笑を浮かべて。
「私には才能が欠けているんだ。発想するちからが――かな」
 現実から飛躍してみろ、と言われて悪魔なんかを持ち出すほどに。実際のところそんなに簡単な問題では無いのだ、小説家はよく判っていた。しかし、だからといってどうすれば良いのか、見当はつかなかった。
「想像力も、それほどおありではないようだ」
 悪魔がぴしゃりと言う。小説家は、今度ははっきりと笑みを浮かべて、タイプライターのキイに触れる。
「ああ。私は元々、小説を書くには向かない。文章ばかりは巧く書けたから、どうにかここまでやってこれたが。それもそろそろ限界だな」
「……欲しくありませんか」
 悪魔が不意に、にやり、と笑った。軽やかな足取りでタイプライターに跳び上がり、「D」のキイに立つ。ランプの光が、彼の長い影を机の上に落とす。
「才能、欲しくはありませんか。わたしなら、天才と呼ばれるそれを、あなたに与えることが出来ますよ。あらゆる人々から絶賛の拍手と喝采を受け、百年後までも読み継がれる傑作を、世に送り出すほどの才能を」
「しかし、代償が要るのだろう」
 小説家は静かに言う。
「願いを叶える対価は人間の魂だ。お約束、という奴だな」
「ええそれは勿論です」
 悪魔は頷く。
「しかし、よく、よく、考えてみてください。わたしはあなたを、今世紀中で最も素晴らしい物語の紡ぎ手にすることだって、出来るんです」
 そのとき。
 小説家の脳裏に、不思議な光景が現れた。
 街中のあらゆる書店、入口のすぐ近くに平積みにされている、美しい装丁の本。背広を着た男、絹のドレスをまとった婦人、ありとあらゆる人々がそれを手にとってゆく。溢れるほど人の並んだ駅のホーム、混雑したバスの車内、学校の教室、皆がその本を一心に読み耽っている。そしてその表紙には、白インキの鮮やかな書体で、はっきりと自分の名が刷られているのだ――。
 魔法のように鮮やかで、リアルで、甘美な光景だった。それは小説家がかつて心に抱いた、そして歳を重ねるうちに忘れてしまった何かひどく熱い想いを、彼の内にはっきりと呼び起こすものだった。
「そうだな――」
 呟く小説家の瞳には、先ほどまでは無かった不思議な生気が満ちている。彼はその目で悪魔を見つめ、夢を見るように、しかしはっきりと、言った。
「悪魔よ、契約をしよう。私に、ちからを、授けてくれ」
 悪魔は重々しく頷いた。
「承知致しました」
 そして、悪魔は彼の背後に立ち、その脊髄へと邪悪な手を伸ばす。

-5-
 一〇五号室には卵売りが住んでいた。
 小さな部屋の中は、古い冷蔵庫の上げる轟音に近い唸りに満ちていた。
 卵売りは細い筆を操り、殻を青く染めた卵に、こびりつくような黄色の絵の具を使って天使の絵を刻んでいる。
 いつも食事に使っている机の上は、今は彼の画材道具や、色とりどりの無地の卵、それに妖しい模様や絵柄を入れたものが賑やかに転がっている。
 卵売りは卵に絵を入れ終えると、それをじっくりと眺めて満足げな溜め息をつく。そして机の右側を支配する絵入り卵の群れの中に置く。
 ここ三時間でずいぶんとはかどった。彼は群れの大きさを見て、端正な笑みを浮かべた。この美しい卵たちは、明日、半分が売り物になり、もう半分が彼の恋人の食事になる。
 恋人の――そこで卵売りははたと、もう食事のための卵を作る必要は無いことに思い当たった。
 恋人は昨日、死んでしまった。
 卵売りは何も描かれていない白い卵を手に取った。筆に黒い絵の具を取り、殻の上にさらさらと走らせる。
 ほっそりとした輪郭。目に、鼻に、口。たちまち、若い女性の顔が浮かび上がる。
 彼女は卵を愛していた、卵売りとは全く正反対に(卵売りはひどいアレルギー体質だった)。彼女は少ない日でも一日二十個は卵を口にした。塩の効いたゆで卵が一番のお気に入りで、だから卵売りは少ない日でも一日二十個、卵をゆでてやったものだ。
 卵売りはさらに筆を走らせる。
 彼女は美しかった。少なくとも、卵売りがこれまでに出会った女性の中で最も美しかった。大きな瞳、陶磁器めいた白い肌、長く豊かな黒髪。ただしそれだけならば、他の女性と比べてほんの少し可愛らしいかな、といった程度のものだった。その美しさが際立つのは、彼女が泣いたときと、苦しんだとき、だった。
 卵の上の顔は苦悶の表情を取る。
 彼女は本当に、本当に美しかった。ひそめられた眉、重い息を吐く口許、白い頬を走る涙。そういうときの彼女がいっとう素晴らしかった。
 卵売りは彼女の苦しむ顔を見るために、ありとあらゆる暴力を振るったものだ。殴る、蹴るは勿論のこと、彼女の嫌がる映画に無理矢理連れて行ったり、彼女の大嫌いだった魚をわざと捌かせたりもした。パイプの熱い灰を背中に撒いたりもしたし、卵に毒を盛ることもあったし――心臓に果物ナイフを突き立てもした。
 卵売りはそのときのことを思い出し、心底、愛しげな笑みを浮かべる。
 驚愕と苦痛と恐ろしさに塗りつぶされた彼女の顔、ほとばしる悲鳴、飛び散った血の紅。
 全く、あれほど美しい女性に出会えることなど、後にも先にもきっと、無い。卵売りは思う。
 と、そのとき。背後でごとん、と奇妙な音がした。
 卵売りはびくりと肩を震わせて、振り返る。そこには冷蔵庫がある。青いずんぐりとした、旧式の冷蔵庫だ。音はそこから聞こえたようでもあったが、しかし、しばらくじっと見ていても、特に異常は起こらない。
 ただ冷蔵庫は、ごろごろごろごろ、ひどい轟音を絶え間なく上げ続けていた。ぶうんぶうん、ごろごろごろごろ、夜の静けさを掻き回すような音。
 老朽化しているのだ。卵売りは溜め息をつき、近いうちにきっと、新しい冷蔵庫を買ってこようと思う。
 さて。

***

 気がつくと、彼女は深い闇の中にいた。目を一杯に見開いても、何一つ見えない真の闇。ごろごろ、ごろごろ、何か重く低い音が、絶え間なく聞こえている。
 ここ、どこだろう……?
 最初に考えたのはそんなこと。それを始点にして、一気に疑問が広がる。
 私なんでここにいるんだろう? 何があったの? そもそも……そもそも、私、って誰? あれ? どうして今までのこと、何にも思い出せないのかしら?
 記憶は空っぽだった。本当に、何一つ思い出せやしない。頭、意識も、霧がかかったようにぼんやりとしている。
 そして体が重い。おそろしく重い、まるで水を吸ったように。
 次に彼女が覚えたのは、空腹感だった。おなかすいたな。ゆで卵が食べたい、と思う。塩の効いた、温かい、ゆで卵。
 途方に暮れて辺りを見回しても、真っ暗な闇しか見えない。つまり、何も見えない。ただ、どこかひどく狭い所にぎゅうぎゅう詰めになっているというのは、何となしに感覚で判るのだった。
 彼女は手で辺りを探ろうとする。しかし、なぜか、手がどこにあるのか判らない。
 あれ?
 私の手――。
 感覚を走らせて、探す。遠くのほうでごとんと音が上がる。ぎゃっ、痛い、踵打った。違う違う、これは足。手よ、手、私の手はどこ?
 ――あった。頭の上に彼女は自分の右手を、腹の下に左手を見つける。なんだか、ひどくばらばらなところにある。
 動かしてみる。重い。自分の手ではないような不思議な感覚。しかも何かにまとわりつかれているようで、ひどく動きにくい。
 それでも彼女は手探りで、ついでに足でも頭でも探って、全身をごろごろ転がして。ようやっとここが、冷たい壁に囲まれた箱の中のように狭い場所である、と見当をつけた。
 さてどうしよう、彼女は考える。腕組みをしたいところだが、生憎と肘から上が見つからない。(私きっと、眠っている間にクリーチャーか何かになっちゃったんだわ。)彼女は悲しくなった。
 そしてとにかく明るい所に出たいと思う。自分の今の状態を知りたかったし、それにやはり、腹が減っていた。
 ああ、卵が食べたい、ゆで卵が食べたい。あの人が作ってくれる、美味しいゆで卵。
 ――あれ? あの人、って、誰だっけ。
 それは何かひどく大切なことのような気がしたが、同時に死んでも思い出したくないことのような気もしたので、彼女はそれ以上、考えるのをやめておく。
 外だ、外。まずは、外に出ること。
 彼女は両手を、とりあえず手近な壁に押し付けてみる。そしてぎゅうっと押す、押そうとするが、うまく力が入らない。
 えいくそ!
 彼女は全身を壁に押しつけ、渾身の力を込めた。
 と、次の瞬間。ばん! と音を立てて壁が開き、闇を裂いて光が広がり、そして、彼女は落ちていった。

***

 どさっ。
 背後でまた音がして、卵売りは再び振り返る。
 冷蔵庫の扉が半分ほど開き、床の上に、ビニール袋に詰めておいた彼女のばらばらの死体が落ちていた。
「あーあ……」
 卵売りは立ち上がり、死体を戻すために歩み寄る。
「やっぱり、新しい冷蔵庫が要るなあ」
 長い黒髪から覗く彼女の顔は、何だかひどく悔しげな表情で卵売りを見上げている。

-6-
「下らねえ、下らねえ!」
 男は怒声を上げて、アパートメントの壁を蹴る。青白い壁に、男の泥まみれの靴跡が残る。
 広場を照らす月はいよいよ白く大きく空を被い、月光は燃え上がるようだった。いずれ地上に落ちてくるのかもしれない。
 男の苛立ちは今や最高潮だった。革の鞄をきつく抱えて、怒りに身体を震わせながら、男はひたすら奇妙なアパートメントの周囲をぐるぐると歩き回った。
「下らねえ、下らねえ、下らねえ!」
 低くうなり声を上げながら。
 しかし二十周ほど歩いたところで、
「……あ?」
 男ははたと足を止める。
 彼の前に、膝ほどの高さのこんもりとした小山があった。布切れと綿くずの山で、じっとりと濡れているようにも見える。男の鼻を、強い酒のような甘いにおいがくすぐった。
 男はおもむろに鞄を草の上に降ろした。苛々と乱暴にこじ開け、中をまさぐる。
 取り出したのは、美しい天使の装飾の入った小さな箱だった。蓋を開けると、中にはすらりと長いマッチが整然と、ぎっしりと並んでいる。
 男は唇を吊り上げて笑みを浮かべると、マッチを一本つまみ上げ、火をつける。そして炎を目の前の山に、投げた。
 ブランデーの染みた布と綿はよく燃えた。たちまちあざやかな橙色の炎が立ち上がり、月光をかき消して燃え盛る。
 その明かりの中、男はうずくまり、改めて鞄の中を探った。透き通った灯油の入った大ぶりの瓶が五本、読めない字がぎっしりと印刷された紙の束がふた山、出てきた。火をつける道具が揃っているのだった。
 男は素早く行動を始めた。
 新聞の束に油を染み込ませ、アパートメントの周囲に並べる。白い壁にも灯油を撒いていく。油の量が少なくなると、瓶ごと壁に投げつけた。がしゃん! 鋭い音と共に、瓶の中身はそこらじゅうに飛び散る。
 そうして灯油を全て撒ききると、男はもう一本、マッチを擦った。
 ざあっ!
 炎は音を立て、一瞬のうちにアパートメントを包んだ。白い壁が滑らかな炎に呑まれあっというまに見えなくなる。夜をぶち壊す炎は月光よりもずっとずっと美しく男の目に映り、彼はそれまで自分を支配していた苛立ちが、初めて静かに癒えていくのを感じた。
 しばらくじっと立ち尽くし、炎に見とれた。微かに灯油の散った自身のジャケットにも、ちろちろと小さな火がついていた。
 ――どこからか、引き裂くような悲鳴が聞こえる。

-7-
 ああ、火が、火が。火だ――炎だ、燃えているぞ。逃げなくては、早く、逃げなくては!
 慌てふためいて伸ばした手は机の上のタイプライターにひどくぶつかった。
 指の付け根に鋭い痛みが走り、小説家ははっと顔を上げた。
「――ニュースをお伝えします。昨日午後四時頃、郊外の住宅地の一角で遺体が発見され――」
 つけっ放しのテレビの、モノクロームの画面の中で、人形のような顔をしたニュースキャスターが淡々と原稿を読み上げている。
 小説家はひどい勢いで脈打っている胸を押さえ、額に浮いた汗を拭った。
「……はぁ……」
 深く息をつく。炎など、どこにも燃えていなかった。窓の外には白く冴えた月が、ぽっかりと浮かんでいるだけ。何一つ変わったところのない自分の部屋だ。
 小説家は震える腕を机に伸ばす。ゼリービーンズを二粒、プラスティックの皿からつまみ上げて口に入れる。
 ねっとりとした甘さで、現実感が少しずつ帰ってくる。心臓の動きも徐々にゆっくりと、正常に戻ってゆく。
 ただ、同時に、ぎりぎりとした頭の痛みも蘇ってきた。
「明日の天気をお伝えします」
 ニュースキャスターが言う。
「全国的に雨の予報が出ています。前線は大陸の西部全域を覆うでしょう」
 それを聞いて、小説家は憂鬱な気分になる。彼は雨が嫌いだった。頭が、雨の降るときは特にひどく痛むのだ。錐で突くような鋭い頭痛は四十歳の誕生日を迎えた頃から慢性的に続き、彼を悩ませていた。
 続く株価の終値を聞きながら、ゼリービーンズをもう少し。木製の広い机の上にはゼリービーンズの皿のほかに古いタイプライターがある。白い紙の上にはたった一行、こう刻まれている。
「悪魔は彼の背後に立ち、その脊髄へと邪悪な手を伸ばした」
 この後がどうしても続かないのだった。
 小説家はずっと昔から、それこそ第一作を世に出した頃から、批評家に同じことを言われ続けていた。彼の小説には、現実を超えるものがない、と。
 短いメロディが流れて、ニュースが終わる。キャスターが深々と一礼すると映像はそこで途切れ、ざらざらとした灰色のノイズに変わった。
 時刻はとうに真夜中を過ぎ、もう放送を続けている局はないだろう。彼はテレビのスイッチを切る。
 静まり返った部屋の中で、さて物語の続きを考えよう、とタイプライターに向き直ったとき。
 がちゃん!
 外から、鋭い音が聞こえた。
「……?」
 小説家は立ち上がり、窓へと歩み寄る。テレビ画面のような大きな窓へと。
 アパートメントの真下、月の光の中に、痩せた男が立ってじっとこちらを見上げていた。
 その顔を見て、小説家は目を見開いたまま、凍りついたように動けなくなる。
 小説家と同じ顔をしたその男は、にやりと唇を吊り上げ、不思議な親しさで彼に笑いかけた。
 そして手にしたマッチを擦り、火をつける。

                                 - end -

『Hello nightmare, hello.』

| トラックバック (0) | コメント (0)

この作品をはてなブックマークに追加はてなブックマークで感想を書く