『人生で最も幸福な一日』

『人生で最も幸福な一日』

著/霧生康平
絵/藤堂 桜

原稿用紙換算70枚


 ──風が吹いた。
 飛ばしていた意識が瞬間的に体に戻るのを感じる。自分がどこにいるのかを自覚すると、途端に様々な情報がなだれ込んでくる。
 深呼吸すると、たちまちむせ返るほどの緑の香りが体中に広がっていった。長い間地中で我慢してきた鬱憤を晴らそうと、蝉が威勢のいい声を上げているのが聞こえる。日差しも随分と強いようだ。
(ああ、もう夏なのか)
 不意にそんな感慨が梓の胸に湧いた。
 ここに来てから何度目の夏だろうか。年を数えるのはとっくの昔に止めてしまった。いや、もしかすると最初から数えてなどいなかったかもしれない。初めてこの場所に来た時、もう一生ここから出て行くことはないのだろうと子供心に思ったものだった。初めはそれが悲しかったし、何故自分だけがこんな風にならなくてはいけなかったのかと恨みに思ったりもした。しかしそれすらももはや遠い昔の思い出に過ぎない。
 心の傷は時間が癒してくれるなどというのは嘘だ。時間が与えてくれるのは機会だけだ。その機会をどう使うかは人それぞれだろう。背を向けて逃げ出すために使う人もいれば、積極的に向き合う人もいるだろう。
 梓自身はどうなのかといわれると、そのどちらでもない。痛むと解っている傷に自分から触れるだけの勇気はなかった。ではなぜ逃げなかったのかといえば、単にそうするだけの気力がなかっただけだ。どんなに逃げたところで、結局自分からは逃げられない。
 だから梓は傷を『容認』することにした。向き合って征服しようとも背を向けて逃避しようともせず、そこにあるのが当たり前なのだと納得しようとした。
 結果はそう悪くなかった。少なくとも悪夢にうなされて飛び起きる回数は格段に減ったし、些細な物音に怯えることもなくなった。掻き乱されていた心は徐々に落ち着きを取り戻していった。
 ──そして、今こうして静かな午後を過ごしている。

「東雲梓さん。失礼します」
 いつになく安らいだ気分になってまどろんでいた梓は、その声で現実に引き戻された。凛とした張りのある声。梓の世話を任されている看護士の一人、鐘宮瑞樹だ。
「いつもご苦労様。鐘宮さん」
 そう言って梓は顔を声の聞こえてきたほうへと向ける。
「いえ、これが仕事ですから」
 張り詰めたような雰囲気と事務的な言葉の裏にはしかし、紛れもない誠実さが溢れていた。これでもう少し愛想が良くなったらさぞかしもてるに違いない。
「…………」
 そんなことを考えていたら、不意に視線を感じた。忙しく動きまわる気配がこちらを注目しているのを感じる。
 実際には視線などというものは存在しない。眼球は光を感じ取る器官であり、なにかを発信するようにはできていないからだ。にもかかわらず梓は彼女がこちらを──より正確に言うならこちらの顔を──見ているのを感じ取ることができた。
「私の顔に何かついている?」
 作業が一段落したところを見計らって声をかけると、その途端彼女の動きがぴたりと止まり戸惑うような気配が伝わってきた。

 ──鐘宮瑞樹にとっては、東雲梓は楽な患者だった。
 特に騒ぐわけでもなければ、塞ぎこむわけでもない。いつだって静かな、どこか達観したような顔で虚空を眺めているだけだ。時おり、何か頼まれることもあるが、その時に聞こえる声はしっかりと落ち着き払っていて、なぜこんなところにいるのか解らないほどだった。
 しかしそんな彼女にも奇異に映るところはある。一つは腰まである長い白髪だ。根本から末端に至るまで真っ白なので、もしかするとアルビノではないかと思ったのだが、肌の色はごく普通だった。
 二つ目は、彼女が常に掛けているサングラスだ。瑞樹の知るかぎり彼女がこのサングラスを外したことはない。寝るときですらつけたままなのだ。それはまだいい。願掛けか何かで肌身離さず付けているということならまだ納得できる。
 しかし、彼女──東雲梓は自分の目を自分で抉ってここに運ばれてきたのだ。彼女のサングラスの奥にはただ空洞が広がっているはずなのに、なぜつけているのだろうか。傷跡を隠すためというなら眼帯でも包帯でも、もっと別なものがあるだろう。衛生面から見てもそっちのほうがいいはずなのに、なぜサングラスにこだわるのか。その理由はわからないままだ。
 この二点を除けば東雲梓はごく普通の人間であり、楽な患者だった。
 ただ、今日はいつもと様子が違った。それを珍しかったのでつい横目でちらちらと様子を伺っていると、明後日の方向を向いたままでいきなり質問されたので、思わず動きを止めてしまうほど驚いた。特に疚しいことを考えていたわけではないのだが、つい口調がどもってしまう。

「い、いえ。その……」
「そんなに気にしなくても良いわよ。刺激の少ない生活をしてるとね、自然と感覚が過敏になるの」
 ましてこの病室は彼女の世界といっても過言ではない。東雲梓は人生の三分の一ほどの時間をこの部屋で過ごしてきたのだ。
「それで、何かおかしいところはある? 気が散って集中できないというのなら改めるわ」
「いえ、そのっ。おかしいところというか……」
 瑞樹が本気で狼狽している様子を感じて梓は可笑しくなった。普段は事務的な会話しかできないから、こういう生の感情は貴重だ。人を困らせるのは趣味ではないが、もう少しつついてみることにした。
「お世話をしてくれるあなたがそんな状態だと、私も気になって眠れなくなっちゃうわ」
 分かりやすい嘘だが、仕事に忠実な彼女は言わざるを得なくなるだろうと考えた。果たして、その狙いは当たったようだ。
 観念したような重い溜息の後、なるべく何気ない様子を装って声が放たれる。だがその答えは梓の予想外のものだった。
「……ずっと笑っていらっしゃるから、何かいいことがあったのだろうかと思いまして」
「ずっと……?」
 呟いて自分の頬の辺りに触れる。しかし、梓は今自分が笑っているかどうか、どうしても解らなかった。
「それは、今も?」
「はい。とても良い笑顔だと思います」
 彼女が笑っているというならきっとそうなのだろう。しかし、この静かな病室で何か笑うようなことがあっただろうか──そう考えたとき、ふと思い当たることがあった。
「夏が来たからかもしれないわね」
「夏、ですか?」
「そう。今だってセミの声がうるさいくらいに響いてる。日差しはこんなにも暖かい。うたた寝をするにはちょうどいいと思わない?」
「……そう、ですね」
 先ほどから瑞樹の声には覇気がない。梓は唐突にその理由に気づいた。
「ごめんなさい私ったら。あなた達はまだお仕事中なのよね。無神経なこと言っちゃって」
「いえ! そんなことはないです。確かにちょっと羨ましいとは思いますけど……」
 言葉が尻すぼみで消えていく。彼女が「しまった」と顔に大書きして硬直しているのが見えるようで、今度こそ梓は声を上げて笑い出した。
 久しく感じていなかった良い気分だった。ここに来たことによって苦痛を感じなくなった代わりに、喜びも感じることもないのだと思っていた。ところがどうだ。人間、例え目が見えず動けなくとも喜びを感じることができるのだ。
 愉快な気分はなかなか治まらず、梓はそれから暫くの間声を殺して笑い続けた。

 いくらそれが快くても、いつかは終わりがやってくる。
 梓はせっかくこうして和やかに会話できる時間を終わらせたくないと思い始めていた。
 既に瑞樹がしなければならないことはすべて終わってしまっている。会話が無くなれば、彼女はすぐにでも退室してしまうだろう。
 本来ならばそうするべきなのだ。彼女が担当しているのは自分ひとりだけではないのだから。彼女にはまだまだすべきことがあり、こんなところで時間を潰していていいはずがない。
 しかし、それを考慮してもこの時間を手放すのは惜しかった。今こうして和やかに話せたからといって、明日から毎日そうなるわけではない。とにかく刺激のないここでは、何か話題がなければ世間話すらままならない。今日はたまたま話題があったからここまで話が弾んだが、明日以降はこうはいかないだろう。瑞樹は誠実で真面目ではあるが、自分から積極的にコミュニケーションを取ってくるタイプでは決してない。今を逃せばまたつまらない退屈な日常が戻ってくるのだ。
 なにより、時間が与えてくれるのは機会だけだと考えたのは自分ではないか。せっかく与えてもらったものを利用しないのは無駄なことだ。
 とにかく何か話しかけなくては。そう考えて口を開くと自分自身思いもよらない台詞が出てきた。
「ねえ。私が何でいつもサングラスをしているか知ってる?」

 予想もしなかった言葉に驚いて動きを止めてしまう瑞樹だったが、驚いたのは言葉を発した当の本人である梓も同じだった。
(──何を言っているの。私は)
 その話題こそは東雲梓にとって最大の禁句のはずだった。いくら話を続けたいからといっても、これは最悪だ。
 せっかくここに来てから今までの長い時間と、それが与えてくれた機会を最大限に利用して傷を自分の一部として『容認』してきたというのに。ここで瑞樹にこのサングラスとそれにまつわる話をしてしまうことはせっかく自身の一部と化した傷を浮き彫りにしてしまうことになるのではないか。
(──しかし)
 ふと、もう一つの可能性もあることに気づいた。こんな風にして話せるということは、逆を言えば傷がすっかり定着したことを示すのではないか? もはや傷は古くなって、ただ痕を残すのみなのだとしたら、瘡蓋を剥ぐのになんの抵抗があるだろうか。
 あの日、あの時の記憶。再び誰かに話すなんて想像したこともなかった。記憶そのものがひどく恐ろしいものであるということもそうだが、それが『絶対に』他人には理解できないものであるからだ。話したところで共感などできるわけがない。ただ、他者と自分との違いを思い知らされて孤独感に震えるだけだ。治療に当たった医者達や仲のよかった友人達の反応で梓はそのことをよく知っていた。
 だがしかし、一人では抱えがたい思いというのが存在するのもまた事実なのだ。もしあの記憶が既に自分にとって忌まわしいものでなくなっているのだとしたら……もはや共感を望むまい。ただそれを記憶に留めておいてもらえばそれでいい。そして、そういう意味では瑞樹こそ話すのにふさわしい人物といえるだろう。
(話してみることにしようか)
 そう決めた梓は心の中で深呼吸をすると、ゆっくりと心の傷に手をかけた。

 一方、瑞樹にとっても梓の言葉は予想外のものだった。大抵の場合この手の質問は、患者の過去と密接なつながりがあるためうかつな返答はできないのである。患者が看護士などに過去を話すというのは患者が心を開いているという何よりの証拠ではあるが、他者に対して心を開くことが病状の回復に繋がるかといえば、必ずしもそうではないからである。
 そのような考えもあり、瑞樹は梓の唐突な質問に対して慎重に答えを頭の中で吟味しながらゆっくりと口を開いた。
「いえ、残念ながら……」
「あら、それじゃあ私がどうしてこの病院に連れてこられたかも知らないのかしら?」
「いえ、それは知っています。その……なんでも御自分で目を抉ったとか」
「今となっては後悔しているけどね。なんて馬鹿なことをしたんだろうって」
「それは、自分で目を抉ったことを?」
「いいえ、あれは絶対に必要なことだった。後悔なんてするものですか。──私が後悔しているのは、どうして目を抉るときもうちょっと冷静にやれなかったのかってことよ」
「冷静に……って」
 あまりの言葉に絶句する瑞樹。そんな彼女の様子を察したのか、声に苦笑の色を滲ませて先を続ける梓。
「冷静にってのはね──こういうことよ」
 そう言うやいなや梓はかけていたサングラスを外して見せた。
「──っ!」
 瑞樹は目の前の光景に思わず息を呑んだ。かろうじて悲鳴が漏れなかったのは、単純に彼女が驚きすぎたためだった。
 眼窩の奥にはなにも入っていなかった。梓が軽く俯いているのでよくは見えないが随分深くて大きな空洞だった。まぶたが無いために余計そう見えるのかもしれない。眼窩周辺の大小の細かい傷が、目を抉るという行為の凄惨さを物語っていた。
「医者の話では、もうちょっと深く突きこんでいたら危なかったみたい。私が抉るのに使ったのは短めのカッターナイフなんだけど、それでももう少し深かったら脳に到達していたかもしれなかったとか」
 淡々と語る梓の様子からは何も読み取ることができない。だが、無理して感情を抑えているといったような感じはなかった。むしろ、梓自身もこのことに対してどのような感情を篭めたものかはかりかねているといったような、どこか奇妙に乾いた喋り方だった。
「──けれど、どうして私は目を『抉り出す』ことに拘ったのかしら。単純に目を使えなくするだけなら、一突きすればそれで終わりだったのに。どうしてこんなに傷だらけになって痛い思いまでして抉り出そうなんてことを考えたのかしら。人から聞いた話では、私は痛みに悲鳴を上げながらも眼窩に指を突っ込んで眼球の欠片を穿り出していたらしいの。いったいどうして私はそこまで念入りに眼球を破壊したかったのかしらね──」
「…………」
 独り言のような調子で語られる言葉は、実際に独り言なのだろう。疑問形で発せられるその言葉は、その実瑞樹ではなく梓自身に向けられていた。瑞樹はそのことに感謝した。もしこちらに向けて問われていたら絶対に答えることはできなかっただろうから。

 そのまま時だけが過ぎてゆく。梓は俯いたまま動かないでいた。まるで動力の切れたロボットのようにぴくりともしない。瑞樹はそんな梓を見つめたままどうしていいのかわからないでいた。
 しばらくすると梓はのろのろとした動作で片手に持ったままだったサングラスをかけなおした。サングラスによって顔の傷が覆われる。すると途端に梓の様子が元に戻った。
「──とまあ、こういう訳。これだけ酷いと他人が気味悪く思うでしょう? しっかりと隠してしまわないと」
「で、でも、傷口を隠すのならもっと別にいいのがあるんじゃ……」
 見たところかなり年季の入った傷だったが、瞼や睫のない状態では目の奥に雑菌が入っていきかねない。医療用の包帯なり眼帯なりで雑菌を防がないと後々まずいことになる可能性もあった。瑞樹がそのことを指摘すると、梓は少し渋い顔をして言った。
「包帯も眼帯もあまり好きじゃないの。なんだか締め付けられているような感じがして落ち着かないし……。それにこのサングラスにはいろいろと思い出があってね。もっとも、このサングラスが本来の役目を果たしたのはほんの二ヶ月ほどの間だけなんだけど」
「思い出?」
「長い話になるわ。そのわりに面白くない話。それどころか気分が悪くなって夜中にうなされるかもしれない話。それになにより、信じられないような話」
 梓はそこで一度言葉を切ると瑞樹の方を向いた。目が合ってしまった様に感じて瑞樹は思わずたじろいた。

「あなたが望むなら聞かせてあげる。──聞きたい?」
「はい。お願いします」
 そう。と小さく呟くと梓は瑞樹から視線を外し、暖かな日光が降り注いでくる窓を見つめながら話し出した。 

       *

 ──ここに来たばかりのころは、いつも「なにがいけなかったんだろう」「どうしてこうなったんだろう」って考えてばかりいたわ。考えても起こってしまったことは取り戻せないし、辛くなるだけなのにね。それでも考えずにはいられなかった。後悔する時間だけはたっぷりあったし、ここでなら虚勢を張る必要もなかったから。
 そうして考えた結果、中学校一年生のときに受けたいじめが全ての始まりだったんじゃないかと思うようになった。
 誤解しないで欲しいけれど、なにも当時いじめをしていた人が全て悪いなんていうつもりはないということ。いじめを受ける側だった私にもなにか原因があったんでしょうね。当時の私は活発な方で色々な所に首を突っ込んでは出しゃばっていたから、目障りに思う人が居ても不思議ではなかったと思うし。
 とは言え、言いたいことがないわけじゃないわ。結局、私をいじめていた相手は私の前に姿を現さなかった。最後まで裏で──私に見えないところでちまちまとした嫌がらせを続けるだけだった。恨み言めいたメッセージもなくただただ嫌がらせを続けるだけ。これじゃあ、なにが目的だったのかさっぱり解らない。なにか私に対して要求があったのなら──たとえそれが理不尽なものであったとしても──検討する気はあったというのに。
 いや、これは年取った今だから言えることだわ。当時の私が理不尽な要求をされたりしたら、きっと怒り狂って徹底抗戦したに違いないから。

 ──脱線したわね。きちんと順を追って話すことにするわ。

 小学校をなんの問題もなく卒業した私はそのまま地元の中学校に進学したわ。そこは結構大きな学校で、いままで知らなかった小学校からも沢山の人がやってきていた。
 そのころの私は割合社交的なたちだったから、知らない人と友達になれるのが単純にうれしくてね。さっきも言ったとおり色々なところに首を突っ込んでは交友関係を広げていった。みんな優しくて、私は心の底から学校生活が楽しくなっていった。
 いじめが始まったのは梅雨の最中のことだったわ。雨が降っていたから傘を差して帰ろうとしたら、傘立てに置きっぱなしにしていた傘が無残にもぼろぼろにされてグラウンドに打ち捨てられていたの。
 悲しいとは思わなかった。それよりもずっと恐怖のほうが強かった。自分に対してこれだけ敵意を向けてくる人間がいるだなんて当時は考えてもみなかったからね。実際、ぼろぼろになった傘を始めて見たときは、何か動物の仕業だと思ったくらいだったから。
 とにかく、それからというもの私に対するいじめが始まったわ。椅子に画鋲。机にカッターの刃。部活を終えて帰ろうとすれば外履きはぬかるんだ土で念入りに汚されていて、トイレに入れば下からホースが捩じ込まれて冷水を浴びせかけられるといったような感じね。
 私にとって幸運でもあり不幸でもあったのは、いじめをしている本人が決して表には出てこなかったということ。直接的な暴行や脅しだけじゃなく、手紙なんかも一切なかった。ただただ事がばれないようにいじめ続けるだけ。私はその人の影すらも見なかった。そのせいでいじめのレベルが一定以上に上がることはなかったけど、事態を解決するための糸口も見つからなかった。
 いじめが始まってからも私の周りは変化しなかった。あいかわらず友人たちは優しく、私は彼らとともに楽しい時間を過ごすことができた。私もそれとなく周囲を窺ってみたけれど、私に恨みを持っていそうな人を見つけることはできなかった。
 ──もっとも、今にして思えばそんなことはありえないのだけれど。私に恨み、あるいはそれに類するような感情を抱いていた人は無数にいたでしょうね。他人に対して少しも不満を抱かないような人間はいないのだから。当時の私はそういう面に対する想像力が圧倒的に欠けていて、顔が笑ってさえいれば「この人は楽しんでいるんだなぁ」と心の底から信じ込むような子供だったの。物心ついてからそれまで失敗したり挫折したりした経験がほとんどなかった私にとって中学校でのそれは初めての挫折だった。
 じゃあ、それで人間関係の難しさを体感したかといえばそんなことは全然なくて、ただただ姿を見せないいじめっ子に対して怒りを燃やしていただけだったというのだから、我ながらあまりに単純としか言いようがないわね。
 そのうちにそんなことにもすっかり慣れてしまった。結局のところいじめというのは集団でやるから効果があるのであって、個人で、しかも自身の正体が露見しないようにとなるとどうしてもやれることに限界が出てくる。私は相手のことを、友達がいないからこんなことばかりしている人間なんだなと勝手に決め付けて同情までする始末だった。
 いじめ続けてもまったくへこたれる気配のない私に業を煮やしたのか、その人は決定的な手段に出ることにしたの。

 ──今でもよく憶えているわ。あれは一学期の終業式の日。明日から夏休みということもあってか皆気もそぞろで落ち着かない様子だった。先生方もそうなることは良く解ってたのか、簡単な指示だけを与えてすぐに解散ということになったの。
 特別仲の良かった数人と夏休み中の計画について話したり、所属していた部の夏休みの活動予定を聞いたりしているうちに、校内からはほとんど人がいなくなっていた。そろそろ帰ろうと思って時計を見たら午後二時を回ったところだったのを憶えているわ。なにしろご飯も食べずにあちこち駆けずり回っていたから空腹で仕方なかった。
 下足箱の中にはご丁寧に湿った泥でたっぷりと汚された外履きが入っていた。でも私も慣れたもので、溜息を一つついてあらかじめ用意してあった袋にそれをつめて、中履きのまま外に出たわ。

 私の通っていた中学校は、ちょっとした丘の上に立っていて、通ってくる生徒は全員上り坂を苦労して登っていかなきゃならないの。初めて坂を上る新入生は例外なく皆疲れきってしまって、授業に身が入らなくなってしまうの。それでも三ヶ月も通っていればだんだん慣れてきて平気になるのだけれど。
 早く家に帰りたいという気持ちと、明日から夏休みだという開放的な気分のせいで、交差点が視界に入ったときには既にかなりのスピードが出ていたわ。あわててスピードを緩めるためにブレーキを掛けたけれど、手応えがまったくなかった。そのことに気づいた途端、目の前が真っ白になってうなじの毛が逆立ったような気がした。私はすっかりどうしていいのか分からなくなってしまい、そのままの勢いで交差点に突入した。そして横合いから突っ込んできた車に跳ね飛ばされたの。
 事故の瞬間の記憶はまったくないわ。もしかすると交差点に突入したときには既に恐怖で半分気を失っていたかもしれない。あとで人から聞いた話によると、まるで映画みたいに宙を飛んで地面に激突。アスファルトに頭を思いっきりぶつけながらさらに何回かバウンドしたらしいわ。──話半分に聞いたとしても生きているのが不思議なくらいの怪我よね。
 それだけの事故だったにもかかわらず、奇跡的にも内臓、骨、脳にはまったく異常は認められなかったらしいわ。全身のいたるところが打撲によって鬱血していたそうだけど、状況だけ見れば奇跡的な軽傷といったところでしょうね。
 ただ、本当の問題は私が無事に目覚めた後に起こったの。

 ──目が覚めると、真っ暗だったわ。物の影すら見分けられないような暗闇だった。確かに自分は目を開けているはずなのに、どうしてなにも見えないのだろうと不思議に思ったわ。時間が経つにつれてぼんやりとした頭もはっきりとしてきて、気を失う直前のことを思い出した。自分はどうなったのだろうか。なにか事故に巻き込まれたのだろうか。もし事故に巻き込まれたのだとしたら、こうして今目が見えないのは失明したせいではないのか。
 そこまで考えると急に恐ろしくなってね。堅く目を閉じたの。するとまた妙なことが起こった。
 目を閉じた瞬間に私は激しい眩しさを感じた。それこそ太陽がすぐ近く、手を伸ばせば届くようなところにあるんじゃないかって感じるくらいに強い光だった。閃光が容赦なく目を焼く。なにかで光を遮らなくてはならない。しかし既に瞼はしっかりと閉じられている! まったく、これほど妙な話はないわね。
 堪りかねて目を開くと強烈な光はたちまちのうちに消えて、またなにも見えない暗闇だけが戻った。目を焼く光から逃れるために思わず左手を顔の前にかざしていたのだけど、それすらも見えないような状態だった。
 詳しい事情はさっぱり解らないながらも、なにか自分に異常なことが起こっているということは理解できたわ。
 それからしばらくの間、目を開けたり閉じたりしてどうにかまともな視界を取り返そうと頑張った。けれど光に耐えることはできなかった。太陽が近くにあるかのような輝きに人間の知覚は耐えられない。もうどうしたって目を閉じているわけにはいかなかった。一方、闇のほうにはどうにか目が慣れてきた。眼前に掲げた腕の輪郭が見えたときの喜びったらなかったわ。
 そうして暫くの間、目を眇めて暗闇に慣らしながら周囲を観察していたわ。自分がいったいどこにいるのか知りたかったから。でも答えは意外なところからもたらされた。というより、立て続けに妙なことが起こって、確認に手間取っていたから今まで築かないでいただけで、答えはすぐ近くにあったの。
 刺すような消毒液の香り。物音一つない静謐な空間。まごうことなき病院の気配そのものだった。
 自分がどこにいるのか理解した途端、押さえ切れない安堵がこみ上げてきて溜息を一つ吐いたわ。少なくとも病院にいる以上、自分は安全だ。自分の体にも特に異常はないし、明日には退院できるはずだ。今は寝て体を休めよう。──その時は、本気でそう考えていたのよ。
 でも眠るために目を閉じようとすると、また視界が光で真っ白に染められてしまうの。そんな状態じゃ眠れないから仕方なく目を見開いて起きていることにした。そうしたら妙なことに気づいた。
 目の前すらも見えないような闇にも、ほんの少し薄いところがあった。初めは瞼を閉じたときに感じた強烈な光が網膜に焼き付いているのかとも思った。それくらい小さくてぼんやりとした光だったわ。蛍光塗料が昼のうちに溜め込んだ光を夜になってそっと放出したときのような、滲んだ輝き。でも、まさか病室に蛍光塗料が使われているはずがない。
 どうしてもそれが気になった私は、少し悩んだ後ゆっくりとベットを降りてそこに近づいていった。光の下についた途端、辺りがよりはっきりと見えるようになった。私の目の前にはカーテンがあり、不思議な光はカーテンに沿って横一列に輝いていたわ。でも、光が途切れている場所があった。そこだけカーテンが大きくはためいていて、外からの風が入っていることが解った。
 不思議なことに、これだけ奇怪なことが身の回りで起きているにもかかわらず、その時私が思ったことといったら、窓を閉めないと寝冷えをしてしまうといったような実に他愛のないことだった。光の道に沿って歩き、まずは窓を閉めようとはためいているカーテンの隙間にもぐりこんだその時──。

 視界は闇に覆われた。

 本当に圧倒的な暗闇だったわ。言葉で説明しても大仰なことしか言えそうにないし、なにより想像できないと思うけれど、あれに比べたら盲いた人の方のほうがまだしも『見えて』いるでしょうね。
 そんな状態になってしまった私はすっかり恐慌状態に陥ってしまったの。その場から逃げ出そうにも自分がどこにいるのかも良く解らないような状態では無理だった。とにかく手を伸ばすと窓枠に手が触れたから、とっさに窓を閉めてうずくまったの。なんでそんなことをしたのかと言われるとちょっと答えづらいんだけれど、もしかすると心のどこかで、この突然の暗闇と窓が開いているということに何らかの関連性があると思っていたのかもしれないわね。目を堅くつぶると視界はまばゆく輝く光に満たされた。その後、ゆっくりと目を開いてゆく。そうするとあれだけ輝いていた光もまた、目を開くに従って消えていってしまう。なるべく光を逃さないようにと念じながらゆっくり、ゆっくり目を開いていった。
 果たしてその願いが届いたのか。目を完全に開いて尚、私の目は物を映し続けた。しかも今までよりはっきりと。物の輪郭だけではなく、色や形まではっきりとわかるくらいの明るさがあった。……だから、そのときすぐ気づいても良かったはずなのにね。突然の緊張と急激な解放によって、呆然としていた私はそこまで気が回らなかった。カーテンの下をくぐって部屋の中に戻って顔を上げた途端──絶叫したわ。自分ではそれほどの声を上げていたつもりはなかったけど、あのすぐ後に看護婦さんが駆けつけてきたところをみると、そうとうな声だったんでしょうね。
 部屋の中は黄土色に染まっていた。私が寝ていたと思しきベッドも、床も、天井も、部屋のほぼ全てが黄土色で染まっていた。所々青色や黄緑で染まっているところもあった。たとえばベッド脇の機械類や扉の一部なんかがそういった色で染まっていたけれど、やっぱり圧倒的な面積を誇っていたのは黄土色だった。その黄土色も試行錯誤の末に出来上がったものというよりは、チューブからひねり出したものをそのまま塗りこめたように濃く、ムラがあったわ。
 病院にこんな部屋があるわけがない。いや、病院に限らず、人の眠る場所にこんな配色をする人間がいるわけがない。とすればここはいったいどこなのか? そんな私の疑問に答えてくれる人物は、思いのほか早くやってきた。
 でも、慌てた調子で廊下を駆けてやってきたその人を見た途端、私は今度こそ絶叫して気を失ったわ。なにしろ、その人の肌は紫色で、瞳は傷ついた硝子玉みたいに曇りきっていたのだから。

 実のところ、事故を境に私の視覚には明らかな変調が起こっていたの。私の眼は暗闇の中に光を見出すようになり、世界はおぞましい色彩に侵食されたわ。
 闇の中でものを見るといえばまずまっさきに思いつくのは夜行性の動物だけれど、彼らは別に闇の中に光を乱しているわけではないの。薄暗いところでもよく見える棒状の桿体細胞が多く分布しているためによく物が見えるというだけでしかない。しかもこの細胞が多く分布している生き物は色を判別することができないの。これでは私の状態と合わないわ。
 私の目は部屋が暗ければ暗いほど物がよく見えるの。色も含めてはっきりとね。部屋全体を暗幕か何かで覆ってしまうと、まるで部屋の中に太陽があるみたいに全てのものが輝くし、目を閉じれば真っ白い瞼の裏が見える。
 そしてその反面、私の目は自ら光輝くものを暗闇と認識する。太陽の光は私にとって薄く濃い暗闇のベール。その中にいるかぎり私の目は一切のものを知覚できない。そして、この異常は色覚にも影響を及ぼし始めたの。
 ──退院してから調べたことだけれど、人間の目が色を認識するまでにはいくつもの複雑な工程があるらしいわね。色というのは物体に直接付いているわけじゃなくて、光から発せられたエネルギーによる刺激で色がついて見えるのだとか。しかもその放射エネルギーはただ物体にぶつかるんじゃなくてぶつかったときに吸収されたり、そのまま突き抜けたり、あるいは反射されたりして変化する。そうした変化を受けた色刺激に反応するのは網膜で、その反応は伝導路を通って脳髄に送られる──だいたいこんな塩梅らしいわ。詳しい理解には諸科学が必要らしいから避けるけど、そう間違ってはいないと思う。その中のどれがおかしくなったのかは解らなかったけれど、私が見る世界は確実におかしくなってしまっていた。
 今でもまざまざと思い出せる。乾いた土気色の部屋。紫色の肌の人々が忙しく動き回り、曇りきった灰色の瞳が私を注視する。紫色の肌に衝き立てられる赤い注射針。そこから吸い出される綺麗に澄んだキラキラと輝く青色の血──。
 想像できないでしょう? 共感できないでしょう? それは私にとっては少し寂しいけれど、あなたにとってはそのほうがいいんでしょうね。

 度重なる検査にもかかわらず、原因ははっきりとしなかった。明らかに異常を訴えているのが視覚だけである以上、どこがおかしくなっているのかは一目瞭然であるはずなのに。網膜がおかしいのか。脳髄がおかしいのか。あるいはありもしない光から受ける色刺激が太陽光のそれとはまったく違うものなのか。
 検査の結果は全て正常。挙句の果てには身体的異常ではなく精神的な異常があるのではないかと邪推される始末だったわ。そうこうしているうちに、日々は瞬く間にすぎていった。夏休みの終わりが見え始めてきたある日、私は退院することを決意したの。
 もういいかげんうんざりだったの。モルモットを見るような目つきで見られるのも、色見本に対して指を指すたびに驚愕されるのも、土気色の陰気な病室もね。とても人間とは思えないような色彩の人々に囲まれて、機械を取り付けられて……正直なところ、いつ殺されてもおかしくないと思ったわ。
 私は退院を希望して、それは受け入れられた。身体的には何の異常もなかったし、両親もそれに賛成してくれた。両親には心配かけたくなかったから、なるべく普通のふりをしていたんだけどそれがよかったみたい。
 そういうわけで私は、一月近くお世話になった病院から退院した。新学期が始まるまであと一週間といったところだった。
 家に帰ってからというものずっと家に籠もって宿題ばかりやっていたわ。事故による長期入院の知らせは学校側にも行っているはずだから、本当はさほど焦らなくてもよかったのかもしれないけれど、やっぱり他人と会うのは怖かったから。病院を出るときに買ってきた遮光眼鏡をかけてひたすらに勉学に打ち込む姿は、他人が見たらどう思ったでしょうね。あ、一応解説しておくと、遮光眼鏡というのは医療用サングラスのことよ。普通のサングラスとの違いは、普通のサングラスが全ての光を満遍なくカットしてしまうのに対して医療用のサングラスはまぶしさの原因となる光だけを取り除いてくれるサングラスなの。私の場合、普通のサングラスだと『見えすぎて』しまうからこれをかけることにしたのだけれど。
 勿論、舞台が病院から家に移ったところで状況はまったく好転しなかった。むしろ見知っている場所なだけ、精神的なダメージは大きかったわ。
 何の変哲もない黒インクで印字されたはずの文字は私の目で見ると、まるで乾ききった血文字みたいな濁った赤色に見えた。確かあれは数学をやっていたときだったかな。ページの半分が印刷ミスか何かで大きく擦れていてね。それこそ何かの血痕にしか見えないような時があったわ。最初はどうにか解読しようとしたんだけど、その内に気持ち悪くなってね。気づいたら破り捨てていたわ。
 夜もろくに眠れなかったから、作業はすごくはかどった。なんたって夜といえば私にとっては真昼と同じなんですもの。満天に輝く光を邪魔するのはか細い月の光一つきり。街灯やら何やらの人間の作った闇はあってもなくても同じことだった。窓を閉めて部屋中の電気を点けて、とどめに卓上スタンドを顔のそばに持っていって点ける。そこまでやってどうにか眠るに足るだけの闇が手に入ったけど、目を閉じれば瞼の間に光が生まれるから目を開けっ放しにしてなきゃいけないし、顔のそばで感じる白熱灯の熱さも我慢できるようなものじゃなかった。そんな状況で安らかに眠れるほど私の神経は太くなかったしね。
 余計なものを見ないように手元の問題に神経を集中して、夜明けの慈悲深い闇とともに眠る。完全に昼夜逆転した生活を続けること一週間。学校へと行く日がやってきた。
 友人達はこの夏休みの間何があったかを聞きに来たけれど、私はただ事故の後遺症で目が太陽光線に弱くなってサングラスをかけているとか、その結果視力が著しく落ちて個人を顔で判別することが難しくなった……といったような嘘をついて誤魔化した。正直なところ、友人の声で馴れ馴れしく語りかけてくるどう見ても友人には見えない化け物の相手をするのは、予想以上に忍耐を要することだった。
 学校が始まってからすぐ、怪我を理由にかかわっていた全てから抜けたわ。部活、委員会その他。思っていたよりはあっさりと全ての柵から開放されることができた。
 あとは静かに黙ってうなだれる生活が続いたわ。最初は色々と親身になってくれた友人たちも時間が経つにつれて私から離れていった。まあ、無理もないけれどね。皆、腫れ物に触るみたいな感じでどうしていいかわからないみたいだったし。なによりあれくらいの年頃で好き好んで面倒に関わろうとする人間はなかなかいないだろうから。さびしいという気持ちがないわけじゃなかったけれど、やっぱり気が楽になったのは間違いなかったし。
 ただ一つ残念だったのは、新学期が始まって一月位したころからいじめがぱったりと止んでしまったことね。私が表立った活動から身を引いて、友人とも別れたのが気に入ったのか。それともただ単に新学期が始まってからの私の様子が薄気味悪く思ったのか。それともまたそれとは別の理由があったのかは分からないけれど、とにかくいじめはぱったりと止んでしまった。
 そのときの心情を説明するのは難しいわ。ただ確かなのはいじめが終わったからといって嬉しくもなんともなかったってこと。──でも、もしかすると姿も目的もわからない『誰か』を私は好きになっていたのかもしれない。姿が見せないからこそ、全てが変わってしまった世界の中で唯一私にとって変わらないもの──夏休みが始まる前の私の世界と地続きの存在だったのだから。いじめがなくなったことによって私は以前の慣れ親しんだ世界から完全に切り離された。
 それはそれで構わないと思った。不思議なことに自殺しようって気だけはさらさら無かったから、静かに暮らせるならそれに越したことはないと思った。きっといつかこの状況にも慣れて、自分なりに上手くやっていくんだろうと思った。結局、いま私がこうして何事も無く過ごしていられる以上、これは大したことではないのだと。

 ──勿論、そんなに上手くはいかなかった。

 変化は唐突で、容赦が無かった。
 自分を取り巻く全てに慣れ始めた十一月初頭のことだったわ。暑さは既に去り、一日ごとに冬の本番が近づくのを感じる。そんな時だった。
 初めはちょっとしたことだった。妙に寒く感じる日に学校へ行ったら、皆「今日は暖かい」といったようなことを話していた。私は訝しく思ったけれど、個人差という言葉でとりあえず納得した。でもそのうちに変化はどんどんと進行していったわ。
 わずか数日でいくら厚着をしても寒さを拭えなくなった。食べるものからは異臭がし、味も異質なものになった。自分が『聴いて』いる人以外の人間の言葉に聞き苦しいノイズが混じり始めた。
 おかしなことに、これらのことに気づいたとき私は混乱しなかった。ほとんど大悟したといってもいいくらいに、為すべきことを理解していた。
 人間の五感で一番発達しているのは視覚だというわ。だったら、異常な状態に陥った私の視覚に、他の感覚が引き摺られるということもあるのではないか? そう考えたの。というよりそう確信していたといったほうがより正確かもしれない。
 確かにいずれ慣れてしまうだろうとは思っていたけれど、こんな風に慣れたいとは思ってなかった。私はこれ以上症状が悪化する前に何か抜本的な解決を図らなくてはならなかった。そして、その為にはどうするのが一番良いか既に私は理解していた。

 今でもあのときのことは良く憶えているわ。
 学校帰りにコンビニによって色々なものを買い込んだ。お菓子とか雑誌とかバンドエイドとか。それらの品物には特に意味はなく、欲しかったのはビニール袋の底に詰め込まれたカッターナイフだった。カッターだけ買えば不審がられるだろうから、仕方なく買ったの。
 色々なものがぎっしり詰まったビニール袋を片手に、都合のいい場所を探して歩いたわ。この場合の都合のいい場所というのは、普段は人通りが少ないけれども、なにか異常があれば即座に気づかれる。そんな場所のことよ。
 これからすることを人に見られるわけにはいかなかったし、それを行った後できちんと自分で処置できるかどうか自信がなかったから。
 今でも本当に不思議なのだけれど、事ここにいたっても私は自殺する気なんてかけらも無かった。自分の五感が人間以外のものに変わるかもしれなかったのに。たとえ試みが成功したところで元に戻るとは限らなかったのに。そして、例えその試みが上手くいったところでこれからの人生が今までよりもっと暗いものになるのがわかりきっていたのに。──別に今死にたいと思っているわけではないけれど、どうしてあの頃の私が自ら死を選ぶということをほんの微かにでも頭に浮かべなかったのか。それがどうしても解らない。

 ──結局、いい場所が見つからずに家の近所にある公園で行うことにした。広葉樹の根元に座り込んで準備をする。携帯は通話ボタン一つで救急に繋がるようにセットして足元へ。あとはサングラスを外せば準備万端……というところでちょっと躊躇した。サングラスをどうするべきかで悩んだの。これからすることを考えるともう必要なくなるんだからそこらに捨て置いてもかまわないのだけれど、二ヶ月間毎日つけていたから愛着が湧いていてね。どうしても捨てることはできなかった。そんなときふとあることを思い出してね。ボクサーが試合で殴られた衝撃で舌を噛み切らないように口に含む奴があるでしょう? あれを思い出したの。これからすることはどれだけの痛みを私に与えるかわからない。もしかすると余りの痛みについ発作的に舌を噛んで死にたくなるかもしれない。だから、そんなことがないように堅い物をしっかりと噛み締めておいたほうがいいと思ったの。
 フレームの部分を歯に引っ掛けるようにしてしっかりと噛み合わせる。これで準備は完全に調った。あとは為すべきことをするだけだった。
 ……ところが、意に反して体がまったく動かない。ここまで何の躊躇いもなく準備を進めてきたのに肝心なところでどうしようもなくなってしまった。心の中で理屈を並べ立ててみても駄目だった。
 そうこうしているうちに日はどんどん沈んでいく。サングラスを外している私の目には、世界がどんどん明るくなり、またそれとともに暖かくなっているように感じられたわ。おぞましい世界が姿を現そうとしていた。
 ──私に最後の覚悟を決めさせたのは、赤く輝き始めたカッターナイフの刃だった。
 息を詰めて歯に力を篭める。決心が萎え切らないうちに刃を衝き立てた。
 凄まじい痛みとともに、私の意識は闇の中に落ちていった。

      *

「──その後、私は病院に運ばれたの。自分では痛みも何も感じていないつもりだったけど、実際はかなりの絶叫を上げていたらしいわ。駆けつけてきた救急の人の話だと、両手で眼を隠しながら気絶していたらしいわ。銜えていたサングラスは地に落ちていて、その周りには抉り取った肉片が散乱していたみたい」
 全てを語り終えた梓は、そこで深く息を吐いた。
(──意外ね)
 もっと、こう……何かしらの反応があるかと思っていたのだが、そんなものは一つもなかった。叫びだしたくなることもなければ、悪寒が走るということもなかった。何一つ、いつもと変わらない。
 もちろんそれは喜ばしいことのはずなのに、どこかそのことに対して納得していない自分がいるような気がしてならなかった。
 もうそれだけの年月が過ぎたのだろうか。ここでの静かな生活はそれだけの癒しを自分に与えてくれたのだろうか。
 自分の内心の変化に戸惑っていた梓は、隣から聞こえてくる声に現実に戻った。
「それから……ずっとここに?」
「まあ、そう言って構わないと思うわ。最初に運ばれたのは交通事故で運ばれたあの病院だったけど、すぐにこっちに移されてね。それからずっとこっち──この白い病室にいるから」
「中学の時にこっちに……って。失礼ですけど、お幾つなんですか?」
「幾つに見える?」
 梓が笑みを含んで問いかけると、瑞樹はしばらく悩んだ末に答えた。
「三十歳くらい……ですか?」
「あら、予想よりは大分若いわね。てっきり六十代とか言われるのかと思ってたのに」
 瑞樹はもう一度ゆっくりと梓の顔を見た。いや、本当の意味で彼女が梓の顔を見たのは、これが初めてだったかもしれない。
 普通、病院の看護士というものは患者の顔をまじまじと見たりはしないものだ。まして精神病院の患者はいろいろな意味でデリケートな人間が多いため、世話をするほうも彼らを気遣ってなるべく刺激しないように──言い換えれば機械のように──仕事をするのが常である。
 そういう意味において、今の瑞樹の梓の関係は極めて珍しいといってよかった。
 瑞樹はじっくりと瑞樹の顔を眺めた後、自分なりの答えを口にした。
「四十代後半……くらいですか?」
「正確なところは解らないわ。こっち来てから数えるのを止めてしまったからね。──ただ、三十は超えていないはずだけど」

 瑞樹は強いショックを受けた。ショックがあまりにも強すぎてつかの間呼吸を忘れるほどだった。
 彼女をもう一度見る。艶を失いながらも豊かな白髪。肌に目立った染みや皺はないものの、やせ細った肉体は骨がくっきりと浮き出ていて、すこしでも手荒に扱ったら壊れてしまいそうだ。老いと若さが奇妙に同居している体。
 先ほどはそのせいで年齢を見切ることが難しかったのだが、まさか自分より若いとは予想外だった。
「恐怖と極度のストレスで髪が……なんて話は漫画なんかだとよくあるけど、まさか本当にそうなるなんて思ってもみなかったわ」
 そう言う口調には苦しさのようなものが含まれていなかった。
「辛くはないんですか?」
「髪のこと? 想像するとちょっと嫌な気分になるけどね。結局私は白くなった自分の髪を見ていないから実感がわかないんだと思う」
「自分の髪を、見ていない?」
「ええ。紙がストレスで白くなり始めたのは退院してからのことで、その頃の私はわざわざ鏡なんて見る余裕はなかった。目を抉ってからは言わずもがなよね」
 もっとも、見ていたとしても色なんてわからなかったでしょうけどね──。自嘲気味にそんなことを言う梓を見て、瑞樹は深い同情の念が沸き起こってくるのを感じた。
 この人は自分の今の状況が何もわからないのだ。目を抉ることはその時の彼女が狂わないでいるためにどうしても必要なことだったのだろう。しかし彼女は目を抉ったことによって、はたして自分が今も正気かどうか確かめる術を失ったのだ。

 沈黙が続く。気まずいわけではないが、さりとて快いものでもない。両者ともに内に籠もって自身の考えに没頭しているために起きる静かな沈黙だった。長く続く沈黙に耐え切れなくなった瑞樹かとにかく何か話そうと口を開きかけたその時、突然梓が笑い出し始めた。口元に軽く手を当てて、どうにも耐えられないというようにクスクスと忍び笑いを続けている。
「ああ、そうか。そういうことだったのか」
「ど、どうしたんですか!?」
「いやいや、なんでもない。こっちの話」
 やはり話してよかった、と梓は思う。今こうして話したおかげで自分が知りたかったことの一つがすっかり解った。
 ──どうして自分は目を抉ることにこだわったのか。
 考えてみればまったく単純なことだ。復讐。それ以外ありえない。あのときあの場所には、私をいじめた人も、私を轢いた人も、私を治せなかった医者も、私から離れていった友人も、誰一人いなかった。だから復讐する対象としては目を選ぶしかなかった。ただそれだけのことだったのだ。

「ねえ、今何時かしら?」
「今ですか? 十時五分ほどです」
「そう……。もう少ししたら外に散歩に出てみたいのだけど、頼めるかしら?」
「散歩ですか?」
 瑞樹が梓の世話をするようになって随分経つが、散歩に連れて行くように頼まれたのはこれが初めてだった。
「ええ。今までは外に出るとまた病状が悪化するんじゃないかと思ってずっとここに居たんだけど、あなたに話して何か胸のつかえが取れたような気分になったわ。そうしたら外に出てもいいかなって思えるようになったの」
 そう言うと瑞樹のほうを向いて笑った。思わず見とれてしまうような、そんな笑いだった。
「それに、こんなに天気がいいのに外に出ないなんてもったいないと思わない?」
「……そう、ですね」
 また一つ、風が二人の間を吹き抜けていく。それを感じると梓は目を閉じて呟いた。

「──ああ、本当に幸せな気分だわ。本当に、人生で一番幸せといっても良いくらい」

 瑞樹は愛想笑いを浮かべながらこの状況をどう切り抜けるかについて考えていた。彼女と交わした今までの会話と先ほどの話を総合した結果、瑞樹の中である結論が生まれていた。

 ──東雲梓の病状は悪化の一途を辿っている。

 少し考えれば誰でも思いつくことだ。人間の感覚の中で一番受ける情報量が多いのは視覚だ。そして、目を抉る直前には彼女の視覚情報が他の体感覚にも影響を及ぼし始めていた。
 それを危ぶんだ彼女は自分の目を抉ったわけだが、人間の体というのは上手い具合にできているもので、感覚が欠損するとその欠損を補おうとして他の感覚が鋭くなることがある。目が見えなくなった代わりに耳がよくなったとか、刺激に対して敏感になったというような話はよく聞く。
 ならば、彼女が目を抉ったことによって『影響を受けた』他の感覚が一斉に鋭くなったとは考えられないだろうか。つまり、彼女は間に合わなかったのだ。全ては手遅れだった。もちろん確固たる根拠があるわけではない。しかし彼女の様子を見ていれば、それが正しいとしか思えないのだ。

 さっき瑞樹は十時五分といったが、それは午前ではなく午後だ。
 梓が感じている暖かい日の光は猛烈な勢いで降り続ける吹雪だ。
 梓が蝉の声と思っているのは隙間風が立てるかん高い音だ。
 彼女が感じている全てのものは、この場に存在してはいない。

 このまま彼女を庭へ連れ出せば、彼女は温かな日の光を満喫するのだろう。降り注いでくる光を受け止め、満足そうに微笑むのだろう。そして、穏やかな日の光に誘われるようにして寝入り──凍死するのだろう。
 自分はまだいい。彼女は目が見えないのだから何枚着込んでいようと、ポケットにカイロを隠し持っていようと彼女にはわかるまい。しかし、彼女にはいったいどう説明する? 無論彼女もそれなりに厚着をしているが、病室の中が暖房完備なこともあって、外に出るにはとてもじゃないが足りなすぎる。
 問題は、彼女が感じる感覚のレベルがきちんと正比例になっていないことにある。外は凍死するくらいに寒いのだから、彼女もまたのぼせるほどに暑く感じるのかといえば決してそうではないのだ。正常だった頃の感覚がまだ残っているのだろう。なにより、外には吹雪がある。確かな実体を持って降ってくるそれを、単純に温かな日の光と認識するほどには、彼女は狂気に侵されてはいないだろう。
 いったいどうすればこの場を凌げるのだろうか。なにかしら理由をつけて散歩を断念させるということも考えたが、それが原因でまた病状が進むようなことになっては大変だ。

 ──いったいどうすればいいのだろうか。

 瑞樹が梓のほうを向くと、彼女は幸せそうな顔でまどろんでいる。
 例え感じているもののことごとくが偽物であったとしても、彼女が幸せな時間を過ごしているであろうことは疑いようがない。
 彼女が過ごしてきた時間は結局のところ、正常な世界に生きる多数の人間にとっては理解の範疇外のものでしかないのだ。彼女が向こう側に飛び出てしまったのは、なにも彼女のせいばかりじゃない。世界という器は、全ての人が人らしく生きようとするには、あまりに狭すぎるからだ。だからこうして、外側に押し出される人間が出てくる。
 人々がそんな彼らにしてやれることといったら、僅かな空間を切り取って彼らに与えてやることだけだ。せめて、彼らが自分なりの現実を生きられるように。
 彼女──東雲梓は、外に出たいといった。しかし、たとえ外に出たところで、外にはもはや彼女の現実は存在しない。この小さな病室だけが唯一彼女と地続きの現実なのだから。ここにいる限り、彼女は自分の感じたいものを感じ、感じたくないものを感じないままでいることができる。だが、一度外に出ればその保証はなくなる──たとえそれが散歩程度の他愛のないものであっても。彼女が何か気づきたくないことに気づいてしまえば、バランスはあっという間に失われるだろう。そうなれば、この穏やかな空間もまた失われることになる。
 それが解っているからこそ瑞樹は悩まずにはいられない。彼女を外に連れて行くのが果たして正しいのか、否か。
 彼女は言った。こうして生きている以上、大したことではないのだと。死ぬつもりだけは無かったと。しかし、彼女が自身の状態を確実に把握したとき、それでも彼女はその決心を翻さないだろうか。
 無言のままの二人の間を、また一つ風が通り過ぎる。
「……それでは、仕事を済ませてからお昼過ぎにまた来ます。散歩の許可は多分取れると思いますから、一緒に行きましょうね」
「ええ。本当に楽しみだわ。ありがとう」
「……これが私の仕事ですから」
 一見冷淡にも聞こえる台詞だが、梓は彼女がこちらに気をつかわせまいとしているのだと悟り、内心で苦笑した。
(本当に、もう少し要領が良ければねえ)

 微笑を浮かべる梓の眼前で、瑞樹は人形のような能面を保っていた。
 実の所、彼女がそういった言い方をしたのは、そうしなければ何を言ってしまうかわからないからだった。自分の中に渦巻く感情がどんな言葉になって発射されるか彼女自身にも想像がつかない。それこそ、梓が現在享受している幸せをぶち壊すような事を口走ってしまうかもしれない。それほどまでに──重い。黙して語らず、なにもせず、そのまま飲み込めるほど軽い話ではなかった。
 瑞樹はほとんど意地だけで──自分はプロの看護士であるという矜持だけで平静を保っていた。
「それでは、またなにかありましたら手元のボタンを押してくれればすぐに駆けつけますので」
「ええ、わかっているわ。ありがとう」
 瑞樹は無言で一礼すると、踵を返してドアに向かった。その足取りは普段と変わらなかったが、ドアに近づくにつれてだんだん早足になっていった。
 病室のドアに手をかける。ゆっくりとドアが開いてゆくとともに、病室内に新たな風の動きが生まれる。
 ──瞬間、うなじが逆立った。
 病室側から生まれた風が瑞樹の体に纏いつく、体に食い込んで染み渡るような冬の冷たい風ではない。ねっとりと肌の表面にへばりつく生暖かい風。思わず息を呑む。若々しい命を漲らせた緑の香気が鼻を衝いた。
 そこに覆いかぶさるように梓の声がかかった。
「長々と引き止めてしまってごめんなさいね。お仕事、頑張って」

 ──なんと答えたのか記憶にはない。
 鐘宮瑞樹が自分を取り戻したときには、彼女は病室のドアに背を預けて荒く息をついている最中だった。気を落ち着ける為に深呼吸しようとすると、今まで無意識にやっていた呼吸の吐こうとした息と吸おうとした息とがぶつかり合って、胸に鋭い痛みが生まれる。それとともに肺の中に滑り込んできた冷たい空気が、瑞樹の頭を急速に冷やしていった。
(……そう。そうだ)
 これが現実なのだ。外では記録的な猛吹雪が荒れ狂い、建物の隙間からは寒風が容赦なく吹き込んでくる。特に暖房措置の取られていない廊下は、いまやほとんど外と変わらない。暖房がある病室にしたところで、この寒さでは余り役に立っていないだろう。
 例外は、ただ一つしかない。
 ──東雲梓。彼女だけが今包まれるような幸せの中にいる。寒さと乾き、全ての命が眠りにつく冬の夜ではなく、明るさと暖かさ、命溢れる夏の朝を感じている。中学のときに眼を抉り取り、それからずっと病室の中にいた彼女にとって、おそらく生涯でもっとも幸せな時間に違いない。
「……私には、あなたを外に出すことはできない」
 瑞樹は扉に向かって囁いた。まるで扉の向こうに聞こえてしまうことを恐れているかのような小さな声だった。事実、それは隙間風の立てる甲高い音に掻き消され、彼女自身の耳にすら届いていなかった。
 梓と共に居ることによって、彼女の世界に囚われてしまうことを恐れる気持ちというのは確かにある。だがそれ以上に、自分が彼女の幸せを壊してしまう人間になってしまうかもしれないという恐れのほうが何倍も強かった。そんなことをするくらいなら死んだほうがましだとさえ思う。
 しかし、それでも。たとえそう決意していたとしても、梓に頼まれれば嫌とは言えないだろうという予感があった。幸福の絶頂にいる相手に頼みごとをされて、しっかりと断れる人がどれだけいるだろうか。
 なにより、既に約束は交わされてしまった。鐘宮瑞樹は東雲梓を外に連れて行かねばならない。たとえそれによって彼女の幸福と平穏が永遠に失われる可能性があったとしても。もはや自分一人ではどうしようもなかった。
 瑞樹は廊下左手の突き当たりにある窓から外を眺めた。吹雪は未だに止む気配がなく、全天を白銀の輝きが覆い尽くしていた。
 瑞樹は外の吹雪に向かって祈った。梓にとっての温かな日の光に祈った。

 ──どうかもう少しだけその勢いを強めて、彼女を安らかなる眠りの淵に追いやってください。

 それだけが、事態が丸く収まる唯一の方法だった。そしてそのまま時間がすぎて吹雪が治まってしまえば、梓との関係も元に戻るだろう。いままでと変わらない付き合いができるはずだ。幸福な時間は過ぎ去り、彼女はまた笑わなくなるだろう。しかしそれは、幸福が根底から打ち崩されることに比べればどれだけましだろうか。過ぎ去ったものはまたやってくるかもしれない。しかし、壊れたものはもう決して元には戻らないものだ。──東雲梓が、そうであったように。
(だからそれまでの間、どうか──)
 瑞樹の祈りに答えるかのように、風がひときわ高い唸りをあげる。吹き込む風の冷たさも、一段と増したように感じた。
『それ』を了解の返答と受け取った瑞樹は、思わず表情を綻ばせた。
 しばらくそこに佇んでいた瑞樹だったが、やおら踵を返すと廊下の奥に向かって歩き始めた。
 ゆっくりしている暇はない。やるべきことはまだ残っているのだから。日付が変わる前までにそれらを終わらせて、梓がきちんと眠っているかどうか見に来なければならない。もし布団をはだけていようものなら風邪をひいてしまうかも知れない。そうなってしまったら大変だ。はやく仕事に取りかからなくては──。
 そんなことを考えながら廊下を歩く。だが、彼女自身歩く速さがいつもより速いことには気づいていなかった。その速度は進むほどに増していき、最後にはほとんど走るようにしてその場を立ち去っていった。
 そうして、誰もいなくなった。やがて時が過ぎ去り、非常灯が落とされても尚、吹雪は一向に止む気配を見せなかった。

 ──東雲梓の幸福な一日は、終わることなく続いていく。

                                     了

『人生で最も幸福な一日』

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