『恋敵の赤い眼鏡と最良の選択肢』

『恋敵の赤い眼鏡と最良の選択肢』

著/キセン
絵/和

原稿用紙換算55枚


 だんだんだん、学校を落ちる音なんて聞こえやしないはずだけど、わたしには聞こえた。ような気がした。そもそも全部で三校しか受けなかったのが悪かったのだ。無理があったのだ、認めたくないけど。揃いも揃って上位校ばかり受けて、模試ではいつも中途半端なCランクで、それを勝手に良い方向に解釈してまあ大丈夫と思って受けたらこの結果だ。結局、受かったのは滑り止めの女子校だけ。どこに行く、わたしの大恋愛。

                *

 南極の氷が融けて海面が三十センチほど上昇するくらい熱い略奪愛やロマンスどころか、そもそも普通の恋愛すらなかったわたしの中学時代。おかげで大西洋の島々の平和は守られているわけだけど。でもまあ、それは中学という組織のせいだ、きっと。義務教育という閉鎖されたシステムが生徒の心を締め付けて恋愛から遠ざけているのだ。陰謀だ、これは。組織が川崎都に恋愛をさせるなと命じているのだ。おのれ組織め。責任者出て来い。
 わたしは思い出す。二学期の終業式の日。クリスマスの直前だった。わたしは級友にひとときの別れを云うべく、彼女たちを探していた。しかし教室にはいない。わたしは学校じゅうを探した。はたしてわたしは学校のあちこちで級友たちを見つけた。――ただし、男連れで、クリスマスの予定を人目につかない場所で話しあっていたところを。その瞬間、わたしは悟っていたのである。なにもかもが充ち足りたような気がしていた中学校生活。ただひとつだけ、わたしはとり逃していたことを。
 しかし高校において義務教育という名の檻から脱出したわたしは堰を切ったように恋や愛だ。もうなにを云っているのかわからなくなってきた。しかし恋や愛なのであって、即ちそこに発生するのは燃ゆる炎。なんかさっきから同じことを云っているような気がするけど、たぶん気のせいだと思う。そう信じたい。
 ええっと……まあ、なんというか、そういう希望で満たされていたわたしの心は合格発表のたびにひびわれていったのだった。わたしの受験番号がないことを示す、五桁の数字と数字のあいだの数値的な空白はそのままわたしの心に出来た隙間のようであり……、ああもう、めんどうくさい、つまりわたしは落ち込んでいた。何度愛用の眼鏡拭きでレンズをぬぐっても結果は変わらなかった。落ち込みが最高潮に達したのは入学式のときだった。それまでわたしは現実を嘆きながらも、気分を切り替えて(そう、学校を落ちるたびにみんなわたしに『切り替えて』と云ってくれていたのだ)、見目麗しい男性教師との許されざるよろめきを期待していたのだ。それなのに、うう。入学式でわたしは愕然とした。そこにいたのは見目麗しくない男性教師と見目麗しい女性教師しかいなかったのだ。なんだそれは。どういうことだ。やっぱり陰謀だ。わたしの恋愛は陰謀によって阻まれているのだ。
 そういうわけでわたしは私立雪由梨女子高等学校に入学した。古くも新しくもなく、偏差値も高くなく低くなく、平均的な女子高以外のなにものでもなかった。ひとつだけ特殊な制度があって、上級生が下級生にロザリオ……あ、すいません、今嘘を吐きました。そういう制度はありません。だいたい、キリスト教系ではなかったし。だからといって数珠を渡すということもないけど。まあ、なにもかもが普通だった。……ひとつを除いて。

 入学式の真っ最中、ショックを引きずったままの私に、後ろに座っていた娘が話しかけてきた。長い髪を奇跡的なくらい、枝毛ってなんですかとでも云いたげにまっすぐ肘のあたりまで伸ばし、黒いフレームの真面目さを強調するような眼鏡をかけていた。清楚な印象だった。それにしても彼女をはじめ、なぜこの学校の生徒はみな無闇にかわいいのだろうとわたしはくだらないことを考えたのを覚えている。彼女は関西弁らしき言葉でしゃべった。しかし、なんか変だと思っていたので、一ヶ月ほど経ったころに、出身はどこか、と訊いたところ、顔色も変えずに学校から電車で十分ほどのベッドタウンの名前を口にした。要するに関西人にあこがれているだけのエセ関西人だったのだ。しかしほんとうの関西人はクラスにいなかったので、怒られる心配もなかった。
「大丈夫? なんか顔色悪いねんけど」
「あ、え、うん。大丈夫ですから」
 軽い感じの呼びかけとですます調の妙なマッチングがいかにも新入生同士の会話という感じだと、今になって思う。まあなにはともあれそれが私と榎本神楽の出会いだった。云う機会がなかったので今云っておく、変な名前、やーい。
 生徒がみなクラス分けにしたがって教室に分散したあと、好きな席に座ってよいという話だったので、わたしはとりあえずさきほど会話を交わした神楽の右隣に座った。だいたい席は埋まっていたが、ひとつだけ残っているところがあった。
 やがて担任の教師が教室に入り、軽い説明の後、クラス委員の選定を始めた。するとすぐに、左隣の神楽は立ち上がり学級委員になることを宣言してしまった。自分から立候補したのだ。学級委員に立候補する人間がいることをそのときわたしは初めて知ったのである。なんでまた学級委員などに。学級委員といえば激烈なじゃんけん大会の結果、名誉の敗北を積み重ねた者のみに与えられる称号ではなかったろうか。もしかしてそれは自分が所属した小学校及び中学校のみにおいてであって、それ以外の全ての学校組織において学級委員は強大な権力を背景にやりたい放題なのではないだろうか、ああもうこのクラスは彼女の手に落ちてしまったのだろうか、いわんや賢者をや。わたしはそのような妄想及び誤用を膨らませて周りの生徒を見た。みな絶望に包まれていると思ったからだ。だがみなも、なんて酔狂なという表情で神楽を注視していたのでわたしはやはり彼女が変わっているのだと悟った。ついでに文体を元に戻そうと思った。
 黒板に『学級委員:榎本神楽』と書かれたのを見届けてから神楽は席に座った。わたしは神楽に訊いた。
「なんで学級委員になんかなったの? いろいろと大変でしょ」
 彼女は、眼鏡のフレームを人差し指でくい、と押しあげてから、なにを当たり前のことを、という口調で答えた。
「人を支配することができるからやん」
 ……そうですか。もしかしたらこの人変かもしれない。
「それにしても」
 と神楽はわたしを見た。
「学級委員ゆーたら、都のほうがずっとそんな感じに見えるけどな」
「やめてよー」
 とわたしは笑った。実際冗談なのだろう。学級委員という概念は神楽にこそふさわしい。神楽は続けた。
「人を支配するのが得意そうやで」
 え、そういう意味? とりあえず帝王学を学ぶべきなのだろうか。

 淡々とクラス委員は決まっていき、とりあえず今日は帰宅、という段取りになった。見ると、始業式が始まってからもう二時間ほどが経過していた。あわてて来た から朝食もとっていないし、なんとなく空腹を覚え始めていた。それに、ほとんどの者が初対面であるからある意味当たり前なのだが、教室のなかにはなんとなく、ある種の緊張感が漂っていた。その空気が少し身を刺してきたこともあって、わたしは早く家に帰ってしまおうと思った。
 学級委員であるところの神楽がやけに張り切った声できりーつ、と云い、全員立ち上がったところで、れー、と宣告する。わたしはまあ適当な角度で礼をして、一目散に出口を目指した。誰よりも早く教室を出――というところで、なにかわたしより一回り小さい影が眼の前に現れた。と思った瞬間に、鈍い衝撃がわたしを襲った。
 昏倒しながらわたしは、ぎゅう、という乙女にあるまじきうめき声を発していたような気がするが、気のせいだろうと思いたい。そうだ、気のせいに違いない。だから一瞬見えた、おそらくわたしに激突したと思われる生徒が、おそらくパンと思われるものを口にくわえていたのも気のせいに違いない。そんなベタ過ぎるシチュエーションなどわたしは認めない。これでもオリジナリティにはこだわりがあるのだ。第一お前、転校生じゃないだろう。ていうか、わたしも女子だし。根本的に間違っている。

 不思議なもので、家から学校までが遠い生徒ほど遅刻が少なく、近い生徒はその逆だという。おそらく、なまじ近くにあると気が緩んでしまうのだろう。遅刻してわたしに衝突した生徒の家は、歩いて三分ほどのところにあるらしい。遅刻していたわけだから、走ってもいたことだろう。その結果、パンをくわえたまま学校に到着するという芸当も可能になったわけだ。こうして謎は論理的に解明された。しかしこの世には論理ではどうにもならないことが山積している。名探偵諸君はそのことを常に意識しているべきだ。たとえば、なぜそのような状況下において彼女はパンをあきらめなかったのか、とか。
 教室には笑い声が充満していた。それまで教室内に漂っていたある種の緊張は完全に拭い去られていた。わたしの英雄的犠牲がクラスを打ち解けさせた、その栄光は認めよう。が、しかし、わたしがそのために払った犠牲は決定的に尊いものであった。これによってわたしは、『ぶつかった人』というあまりにも抽象的な認識で捉えられるようになってしまったのだ。生徒のなかにはわたしを『カギカッコ』と呼ぶ者すらいたのだ。なんなのだそれは。なんでも、転んだ時の体勢が『」』だったらしいのだが……。人類の尊厳はどこへ行ってしまったのか。歓迎するから帰ってきて欲しい。
 床に倒れこんだ衝撃からなんとか回復する。重い。なにかがのしかかっていた。……って、悠長に状況描写をしている場合ではないのでは――。
 日本語の発音には存在しないと思われる謎の音声を発しながらわたしは上にのしかかっていた生徒を突き放した。彼女の下から這い出て、すぐさま身体を支える。立たせて、一件落着だ。危なかった。なにが? いやさ、だって、いやいやあれはもしや胸だったりなんかしちゃったりなんかして。ねえ。ほら。背が小さいわりに出ているべきところは出ていて、ああお代官様、お主も悪よのう……ってそれはなんだか別の要素ではないだろうか。まあいいか。ていうかわたしよりも、こう、形が――わたしはなにを考えているのだろう? 破廉恥だ! そして学園だ! 永井豪先生リスペクト! ああでも別に同性だからいいじゃないか。そうだ。なんの問題もない。いやそれは云いすぎではないだろうか。そうだ。問題はある。どっちだよ。
 思考が行ったり来たりして同じ場所にとどまろうとしない。云い換えれば、混乱していた。
「――あ、あの」
 声がしていた。思考の安定に全神経を集中していたわたしは最初その声に気付いていなかった。うっかり突進してしまった相手が腕を組んでなにごとか考え事をしていたとしたら、やはり心配になるのだろう。当たり前だ。
「ん、なに」
 云ってからそっけなさ過ぎたとわたしは思った。しかしそこからあわててなにか付け足すのも格好悪い。ハードボイルドでない。そもそもわたしがハードボイルドである必要などないのだが。
「え、えと……その、ご、ごめんなさい」
 かわいい。あらためて直視すると、この娘はほんとうにかあいい。
 いや、かわいいといえば、この教室にいる生徒はなぜかみな――というかなんで誰も帰ってないんだろう――ひとり残らずかわいい。そういえばこの学校、受験の時に面接があった記憶がある。……なぜだろう、このことについて深く考えてはいけないような気がするのは。
 話を戻す。この娘は、そのなかでも秀でてかわいかった。いや、これはわたしの主観にすぎない。ほかの人が見れば別の娘がかわいいのだろう。だから、わたしがその娘をかわいいと思ったのはわたしの基準において、であった。……とにかく、わたしはその娘をかわいいと思ったのだ。
 わたしが彼女をぽけー、と見つめてしまったので、数秒間の空白ができた。気まずい空気が発生する。くすくす、とさざ波のような小さな笑いが教室中を、まだ伝播している。まずい、なにか云わないといけない。わたしは焦った。しかし焦れば焦るほど言葉は出てこない。そのときだった。俯いて地面を見ていた彼女がはじかれたように顔を上げたかと思うと、二歩ほど離れていたわたしのもとへ近づき、わたしを抱きしめる。さきほども感じた柔らかい身体がふたたび、わたしに接触する。えええ? なんで? ふと、彼女はわたしから離れたかと思うと、
「あ、あの、あたし鳥越香織といいます。よろしくおねがいします」
 そこで自己紹介というのは、なにか順番を大きく間違っていないだろうか。逆ならいいというわけでもないが。呆然としたまま向こうを見ると、神楽がなぜかにやにや笑っていた。香織はわたしの眼鏡を見つめている。わたしはこれからの高校生活をいかように過ごせばいいのかという問題が、きわめて難解なものになるのではないかという予感にさいなまれた。


                *


 数ヶ月が過ぎた。
 予感は外れていた。
 特に深く考えなくても、日々は楽しく過ぎていった。クラスのみんなともうまくやっていくことができた。そのなかでもっとも深く付き合いをしていたのは、なぜか榎本神楽と鳥越香織だった。とりたてて不満はないが、しかしどこかで――というか、もちろん入学式の日だ――ボタンを掛け違ってしまったかのような違和感がわたしを襲っていた。
 二人とも変人だった。それは間違いない。しかしそれをクラスのほかの生徒に云うと、一人残らずお前も変人だ、鳥越川崎榎本の変人トリオが結成されて久しい、一日千秋の思いだ、と誤用を撒き散らしながら反論するのだった。これに関しては甚だ不満である。わたしは決して変人ではない。しかし奇人ではあるかもしれない。

「先生遅いなー、カギカ」
 神楽がわたしを見て、けだるげに云った。
 今の台詞からわかるように、わたしのことを『カギカッコ』などと不当極まりないあだ名で呼ぶのはほかでもない神楽だった。ていうか今では縮まって『カギカ』と化していた。意味わからん。わたしが香織とぶつかった次の日、登校したわたしに彼女はこともなげに、
「おはよー、カギカッコ」
 と声をかけたのだった。わたしは一瞬どころか数分なんのことだかわからなかった。彼女が「ぶつかったときこうやった(といって彼女は『」』の絵を描いた)からカギカッコや」などとのたまわなければ、わたしは永遠にその意味するところを理解できなかっただろう。だいたい、神楽はおかしい。わたしは身体をぶつけられた側なのだ。なのにぶつかった側の香織のことは普通に『かおりん』などと呼ぶのである。不当だ。裁判に持ち込んで逆転してやる。異議あり! 覚悟しておれ。
 そしてその香織といえば――わたしの腕に手を回してひっついている。ごく当たり前のように。
 現状を描写すると、休み時間、わたしと香織と神楽は椅子を引き寄せて雑談している。わたしとひっついている香織の二人組に神楽が向かいあうかたちだ。別に香織が近くにいるのが嫌なわけではない。しかしこれはくっつきすぎではないだろうか。くすぐったい。しかも香織は、登校途中に会ってから帰宅途中に別れるまで、授業中を除きずっとこの調子なのだ。最初はある程度面食らっていたクラスメイトたちも、もはや完全に慣れきっている。まったく、いつからこうなってしまったのだろう。
 今日は、それなりに特別だった。期末試験が終わったのである。戦況は悪く防戦一方、今日の試験はすでに撤退戦と化していた。わたしたちは敵に背を向けざるをえなかったのである。敵の追撃は激しかった。ああ、ここに絢爛舞踏がいたならば――そうだ、歌を歌うんだ、歌えばどうにかなる!
「カギカ――!」
 わたしの肩を神楽が揺さぶった。我に帰る。
「どしたん、今、『イ……イワタマンが司令……!』とかうめいたり、世界の果てを模した壁がどうとか云うてたけど――先生来とるで」
 なんか関係ないものが混じってなかっただろうかと思いつつ、わたしは教壇のほうを見た。先生が来ている。あわてて席に戻った。試験日ということで本来なら試験が終わったところで解放されるはずなのだが、夏休みの前日というわけで、諸注意などがされることになっていた。
 担任である館川先生は話を続ける。それにしても、この人も美人だ。美人なのだが、どうも間の抜けたところがある。この間など、プリントを配布するときに、今までそんなことをしたことなどなかったのに突然プリントに唾を付け始めていた。どうも、偉い先生がやっているのを見て、そうすれば知的に見えると勘違いしたらしい。ちなみに、ブーイングが起きていそいそと教壇の引き出しにしまったそのプリントを、ある生徒が休み時間にこっそり回収していたのを家政婦じゃないけどわたしは見た。それにしてもこうも美人が揃っているとは、いったいどうなっているのだ、この高校は。
「――というわけで、あまり夜遅くに繁華街に行ったりしないようにね。特に異性には気をつけるように――」
 軽く聞き流す私の横で、香織がやたら熱心に耳を傾けていたように思えたのは、いせい、と唇で呟いていたような気がしたのは、気のせい……ではなかったのだろうか。うう。

                *

 命短し恋せよ乙女。
 命短し鳴けよアブラゼミ。
 語呂は悪いがそんなことを気にするアブラゼミではない。容赦なしだ。
「うるさい――」
 学校の最寄り駅で電車を降りたその瞬間から、鳴き声がわたしの耳をつんざき始めた。定期の期限はもう過ぎていたので、普通の切符を自動改札に流し込んだ。外に出る。私立雪由梨女子高等学校までは、一本道だ。
 もう夏休みが始まってから一週間が経っている。登校日もまだ先だ。そんな日になぜ学校に来ているのかといえば、香織に呼び出されたからだった。朝起きて携帯を見ると、香織から、昨夜二時頃にメールが来ていた。
『明日午後三時、学校の体育館の裏で待っています。香織』
 意味不明である。なぜそんな時間にメールしたのか。なぜ学校なのか。百歩譲ってそれは認めるにしても、なぜ体育館裏なのか。体育館裏への呼び出し。さては香織、わたしに隠れて番長になっていたのだろうか。そしてドッジボール対決などにいそしんでいるのだろうか。ろくでなしになってブルースを歌うのだろうか。泥水を飲む覚悟はできているのだろうか。きっとこれは孔明の罠だ。戦々恐々としながらわたしは歩を進めた。やがて学校が見える。こうなった以上、三顧の礼で対抗するしかないだろう。それがだめなら火計だ。火だ、火を放て!
 火はなかった。だいたい、こんな日に火など放ったらまずわたしが熱射病で死ぬ。というわけで、学校に着く頃には、戦略は三顧の礼のみになってしまっていた。よく考えれば当然のごとく、学校は閉まっている。しかし往々にして、抜け穴というものは存在するものだ。太古、グラウンド側に張り巡らされた金網にほつれがあった。最初小さかったそれを、卒業生たちが決死の努力でだんだん拡張して、今は、完全に通り抜けが可能になっているのだ。
 わたしは、過去も何度かお世話になったことのある、その抜け穴に身体を滑り込ませた。香織もこの抜け穴の存在は知っているはずだから、きっとここからなかに入ったのだろう。人気のないグラウンドに陽光が反射して、暴力的なまでに強い熱気を放っている。遠くからはまだアブラゼミの鳴き声がする。
 わたしはたまらず木陰のほうに移動した。陽光がないぶんやや楽だが、グラウンドからの熱気は届くので、やはりつらい。早く体育館まで行ってしまおうと思い、歩を速めた。半分駆け足のようになる。体育館裏に辿り着いたころには、息が切れていた。水が欲しいと思う。
 息を鎮めて向こうを見ると、確かに香織がいる。こっちのほうへ向かってくる。ゆっくりとした歩調だった。わたしは流れる汗をぬぐう気にもなれず、ただそれをぼんやりと眺めていた。いったいなんの用だろうかという疑問がまた脳裏をかすめる。その一方で、ああ、やっぱり香織はかわいいな、と考える自分もいる。香織は、当たり前といえば当たり前だが、私服を身に纏っていた。皆無というわけではないが、やはり制服で見ることが多いので新鮮に感じる。淡い色を基調としたTシャツにはなんだか契丹文字のような柄がプリントされていた。まあ、そんなものをよく見たことなどないのだが。
 だいじょうぶ、ミヤ、と香織がいった。彼女はわたしのことをそう呼ぶ。まったく、カギカとはえらい違いだ、となんだか笑みがこぼれた。香織はわたしを不思議そうに見ている。そのしぐさひとつひとつが、ほんとうに――かわいい。
「だいじょうぶ。――香織、用ってなに。こんな暑い時に呼び出しといて、下らない用だったら怒るよ」
 わたしは云う。でも嘘だ。たとえ、香織に、あたしのためにジュース買ってきてと(そんなことを云うわけないが)いきなり云われても、今のわたしは買ってきてしまうような気がする。
 香織は息を吸った。なんだか撤退戦前でも見たことがないような真剣な表情になる。
「ミヤ。――都、」
 一息。
「都さん、川崎都さん」
 香織がわたしのことをさん付けで呼ぶのなんて入学式のとき以来ではないだろうか、と思う。香織は眼を瞑って、口を噤み、確かめるようにひとことひとことを口にする。
「気持ち悪がらないで……。ください」
「なんでそんなこ――」
 わたしは訊こうとするが、香織に手でさえぎられる。香織は、一つ息を吐き出して、云った。手を胸の前であわせていた。指をたがいちがいに組んで。まるで祈るかのように。
「好きです。付き合ってください」
 ……はあ。
「えっと――とりあえず、水をください」
 わたしは云った。

 ……なんだかんだで付き合うことになってしまった。
 もちろん断ったのである。それもはっきりとではなく、香織の心情を慮って、極めてもってまわった言い方を用いて。
「……その申し出はきわめてありがたく存じますが当方は今重大な危機に直面しておりましてそれはなにかと申しますとまったく厄介なもので東京にはご存知のとおりカラスが蔓延しておりまして風が吹けば桶屋が儲かるというかバタフライ効果と申しますか当方は喉が渇いているのも鑑みてもあなた様の申し出を承諾することはお互いのこれからに決してよい結果をもたらさないかと愚考する次第である所存です……」
 内容はともかく、表現に関しては今思い返してみても知性と配慮に満ちた素晴らしいスピーチである。二十二世紀を飾るにふさわしい。しかもわたしは感情を表に出しては――別に香織を、それこそ気持ち悪く思ったわけではないが多少驚いたのは事実なので――香織を動揺させてしまうかもと考え、きわめて平坦に、蚊の鳴くような声で、淡々と述べたのである。完璧だ。
 しかし香織は泣いてしまった。そのうえ、涙ぐみながらわたしの腹をぽかぽかと殴る。というか、狙ったわけではないのだろうが、香織の腕の位置がちょうどわたしの腹の位置に来ていたのだ。力が強いというわけではけしてないのだが、腹にクリーンヒットすれば痛い。擬音で云うと、げふ、という感じ。
 わたしは背を向け逃走を試みた。しかし当然のように追いかけてくる。十歩ほど逃走したところでわたしは水飲み場を発見した。げふ、の恐怖と喉を潤される喜び。わたしは二つを天秤にかけて後者を選択した。すでに喉の渇きは耐え難いものとなっていたのだ。水飲み場に駆け寄り、大急ぎで水分を摂取した。少し間をおいて、香織が寄ってくる。わたしは迫り来るげふ、に対する覚悟を決めて眼を瞑った。だが、げふ、は訪れない。おそるおそる眼を開けると、そこには、待っていてくれたのね、という歓喜にあふれた香織の表情があった。わたしはそれを見て、やはり、かわいい、と思ってしまった。そして、水分の摂取によって、精神にはある程度の余裕が生まれていた。香織はわたしに囁いた。
「やっぱり、あたしと付き合ってくれる気になったの?」
 いつもと同じ声だったが、わたしには一段とかわいい声になっているような気がした。わたしは気がつくと、
「――うん」と答えてしまっていた。
 じゃあさ、と香織はさらに表情を明るくし、声を弾ませて云う。
「恋人どうしなんだから、キスとかしようよ」
 そのひとことでわたしははっと我に返りあわてた。そりゃまずいと思う。とんでもない。翔んだカップル平成篇だ。胡桃沢先生だ。いかん。いかんて。ていうか、ほら、もう唇が眼の前にあるし。早いよ! きっと!
「い、いや、まだ、ほら、ね!」
 あわてておしとどめる。心臓の鼓動はさっきから早くなりっぱなしだった。香織は不満そうに唇を尖らせた。
「なんでー、いいじゃん」
「ダメだって、特に、ほら、もう完全に唇でするつもりだったでしょ? そういうのはさ、悪しき平成の風潮というか山田五郎の罠なんだから」
 次の瞬間に、言い募るわたしに、「じゃあ、唇じゃなきゃいいんでしょ」と小さくて早口な声で返答し、香織はわたしの頬に口付けた。それから、いつものように、わたしに抱きつく。けど、その行為の意味は、もう大きく変わってしまっている。頬に、わずかな水滴を感じる。汗はもう引いていた。香織の涙だと思った。
 今感じている、香織の身体よりも、さらに柔らかい唇の感触が、わたしの頬に残り続けていた。その部分が、すこし勢いを弱めた陽光のなかで一際熱くなるのを感じる。あ、わたし、なんでちょっと拒絶しちゃったんだろう、とぼんやりと思った。別にいいじゃん、香織と付き合ったって。向こうも女の子であることなんて、たいした問題ではないのに。
 もうちょっと早く気付いていれば、泣かせることもなかったのにな、と少し悔やんだ。


                *

『恋敵の赤い眼鏡と最良の選択肢』


 それから、週に二度か三度、香織と会うようになった。たぶん、デートと呼んでいい儀式であったと思う。もっともわたしには先立つものがないので定期で行ける範囲の場所に限られていたけれど。香織は学校の近所に住んでいるのでそもそも定期がないのだが、彼女の家はかなり裕福であるらしく、その点では問題がなかった(香織がもらっている月々の小遣いを訊いたところ、わたしのそれの数倍であったときには腰を抜かした。もちろん比喩である)。
 デートの内容、それ自体はほんとうにたわいもないものだった。一緒に安い雑貨を見に行ったり、買ったり、ちょっとした軽食を二人で食べたり、店のなかでお互いの近況を話し合ったり。下手をすれば、それ以前に何度か、友達どうしとして遊びに行ったときにしたことと、まったく同じかもしれなかった。お互いの内面は違うかもしれないが。デートの最中、香織はわたしの身体に触る。その頻度は、今までと同じくらいかもしれない。けど、その意味は、もう違う。
 表面上、すぐわかる違いといえば、デートの最後に交わすお互いの頬へのキスぐらいなもので、でもその、たった一つの行為が、何か決定的なものであるということくらいは、鈍いわたしにもよくわかっていた。つまりそれが、内面の相違の象徴的な表出だった。と、デリダが云ってました。嘘。
 一度、わたしのどこがいいの、とわたしは香織に訊いた。香織はしばらく考えてから、んーと、体温かな、と云った。体温? わたしの平熱はちょっと高めの三六度六分であるがそれがどうしたのだと訊き返したら、なんだか困ったような顔をしたのをわたしは覚えている。
 会わない日にはメールのやりとりをした。香織は何度も何度も返信をした。眠くなったこっちがあからさまに話を終わらせようとしても、どうにかして続けようとしていた。わたしにはそれが普通のことなのかよくわからなかった。パケット代が心配になった。それは、薄情なことなのだろうかと思う。香織には訊けなかった。
 そうこうしているうちに夏休みが終わった。
 わたしと香織は宿題をなにひとつやっていなかった。

 二学期が始まってから、わたしはなんとなく苦労していた。香織との関係を秘密にしていたからだ。
 しばらくの間は大丈夫だった。関係を秘密にすることもなんだかスリリングに思えて、なんとなく愉しく感じていたくらいだった。だが、一ヶ月ほど過ぎてから、なんだか、わたしはおかしくなりはじめていた。
 授業中にも、前のほうの席に座っている香織のことが気になる。香織がほかの誰かとしゃべっていると息苦しい。だれかにこの感情を吐露することすらできない。香織は、一学期と同じようにわたしにくっつき、抱き、腕を回した。わたしの鼓動は速くなる。そうする彼女がいとしい。はじめは香織の気持ちを受け止めるような感覚でいたはずなのに。気がつけば、自分がメールのやりとりを引き伸ばしている。携帯の契約を定額制に切り替えている。香織の気持ちは、まだわたしにあるのだろうか。そう思うと、メールのやりとりを、香織が早く打ち切っているような気がする。心配でしかたがない。嫉妬に近い感情を覚えることすらあって、自分の卑しさに嫌気がさす。
 十月の半ばだったと思う。そうするうち、ふとした拍子に、一連のことを神楽に洩らしてしまっていた。つまるところ、もう限界だったのだと思う。そんな状態で、放課後の教室、二人きりになったのが運の尽きだったといえるだろう。
 神楽。教室に流れ込む橙色の、まるで蜜柑の果汁を振りまいたかのような光のなかでそう彼女に呼びかけたとき、すぐに堰を切ったように言葉が生まれ、口をついて出た。どうしよう、と、その流れのなかで何度も繰り返した。このまま耐えられそうになかった。このまま立っていられそうになかった。自分の体重を支えられそうになかった。自分の精神を支えられそうになかった。だれかにだいじょうぶだと云ってほしかった。自分がだいじょうぶであるという確信が欲しかった。
 神楽は期待にこたえてくれた。ねえ、わたしはだいじょうぶ、と訊いたわたしの腕をさすって、だいじょうぶやから、と云ってくれた。神楽の長い髪がわたしの肩にかかる。薄い光が彼女の眼鏡に反射する。状況がなんだか香織に申し訳ないような気すらして、奇妙に可笑しく思える。
「あたし、――たぶん二学期の最初から、あんたらが付き合ってる、気付いてたわ」
 神楽が云った。口元がにやけている。
「かおりんに関しては一学期からわかってたかもしれん。近うで見ててわからんはずない。そんくらいあからさまやった。で、二学期になって、カギカがそれ以上に眼からハートマーク出してる、というわけや」
 わたしは、神楽を見る。
「両思いや、何の問題もあらへん、そうやろ? だいじょうぶ、や」
 繰り返すように神楽は云った。そうしてもらうことで、たしかに、わたしの表面のささくれは癒される。でもなぜか、内面の腐敗はさらに進んでいくように思えた。もうわたしは立てるし、身体も精神も支えられるだろう。しかし、そのなかで、わたしはどんどん腐っていく。なぜだろう。
 たぶん、神楽が最後に、こう付け加えて、それにわたしも心当たりがあったからだろう。
「でも、気い悪くせんといてほしいんやけど、かおりん、なんか時々、カギカやなくて、カギカの眼鏡に興味があるような気がすんのやけどな。まあ、その眼鏡はいいと前からあたしも思うていたけど、まさかそんなわけないやろうな」
 そう云って、神楽は笑った。冗談のつもり、だったろう。でもわたしは笑えなかった。わたしを見て、神楽は参ったな、という表情をした。滑ったと思ったのだろう。でも違った。わたしは、ほんとうに、香織の目当てが自分の眼鏡ではないかと、このとき思ったのだった。
 笑うな。

 思い当たる節はあった。すごくあった。
 たとえば、夏休みのある日の風景。
 わたしと香織はデートをしている。わたしたちはその辺のファーストフードの店に入る。隣どうしに座る。香織はすぐさまわたしにじゃれる。わたしはそれを憎からず思う。いつもある光景。だけどその日にはひとつのイレギュラーがある。わたしは、眼鏡を外すのだ。理由は覚えていない。なんとなく汚れているような気がして拭こうと思ったのか、あるいは眼が疲れていたのか。まあ、とにかく外したのだ。で、テーブルの上に置く。
 すると香織は、わたしの眼鏡に飛びつき愛で始める。わたしは特に気にしなかった。別に香織が眼鏡を愛でているからといってわたしがそれを止めたりする必要もない。いきなり眼鏡を強奪などしたらわたしが変人だ。
 というわけでわたしは眼鏡を愛でる香織を愛でていたのだが、それにしても香織の愛でぐあいは凄い。全方位から眺め回し、指で輪郭をなぞり、至近距離でじいっと眺める。そのうち舌を出して舐めはじめるのではないか、などと、変な想像をしてしまうくらいだった。今思い返すと変だ。欲求不満だったのだろうか。眼鏡がなく視界がぼんやりとしているのもあいまって、不安定な気持ちになる。
「香織ー、おーい」
 そういう風にわたしが声をかけても無反応。だいじょうぶだろうか、とわずかに思う。こう、眼鏡からなにか瘴気のようなものが吹き出ていて、それに香織はやられてしまったのではないだろうか。ふくろからどくけしそうを出せ! ケアル! ゲームが違う!
 どぎまぎしながら待っていると、やがて、五分くらいだろうか、香織は眼鏡を名残惜しそうにテーブルの上に戻した。わたしはそれをまたかける。クリアな視界が復活した。すると、眼鏡を外していた間は見向きもしなかったわたしに、香織は再びじゃれ始める。わたしは微かな違和感を抱えながら、それに対応する。
 たとえば、そういう風景を思い出す。

 心の、片隅にぽつん、と描かれた小さな黒い染み。最初は、誰も気にしないくらいの大きさ。でも、なにかの拍子に、それに気付いてしまう。するともうダメだ。口内炎、かさぶた、小さなかすり傷。なんでもいい。一度気付いてしまうと、どうしてもそれが気になってしまう。指で触れる。広がる。めくれあがった表面をなぞる。さらにめくれあがる。すぐに、それは大きくなる。異変に動揺し、さらに触れる。繰り返し。その繰り返し。ずっと繰り返し――
 どうしようもなくなるまで。
 ずっと。
 馬鹿げたことだと思う。自分の眼鏡に嫉妬するなんて、こんな笑い話聞いたこともない。これこそ、どうでもいいような小ネタでごまかしてしまうような事柄なのだ。
 でも無理だった。
 神楽と話してから、何度わたしは、眼鏡を粉々にしようと思っただろう。投げて、踏み潰して、流しに突っ込んで(ゴミ箱はダメだ、ゴミ出しの日まで自分と同じ場所にあることが耐えられない)。
 でも無理だった。
 もしかしたら、この眼鏡がわたしと香織をつなぐ最後の線かもしれない。もしこの眼鏡を捨ててしまったら、もう明日から、香織はわたしに近付きもしないに違いない。いつのまにか「しれない」は「違いない」に変わる。
 そうしてわたしは、恋敵を身に着けていた。
「無理」の重なりは、確実にわたしの心にのしかかっていく。誰が悪いのでもない。でもそこに苦しみは間違いなくあった。
 だからそればかり続いていたら、すぐにわたしは我慢の限界になっていたかもしれない。でも、もちろんそれだけじゃなくて――、たとえば週末にデートして、最後に夕焼けのなか、ちょっと人目につかないような路地裏で互いに頬へのキスを交わして、わたしが香織の頬にキスしたときにわずかに身体を震わせて小さな溜息を漏らしたりする姿や、わたしの頬にキスをするためにつまさきで立って小さい唇を寄せる姿を見るたびに、やはりわたしはもう少しがんばらなければいけないように思ったりする。

 そんなある日、昼休みが始まってすぐ。わたしは購買の近くにある弁当売り場でダブルハムマヨネーズサンドとジュースを買い、教室に戻ろうとするところだった。少しでも、ほかのことから思考が解放されると、すぐに香織のことを考えてしまう。そしてやりきれなくなる。胸が苦しくなる。喉が渇く。香織たちが待つ教室に、戻りたくないとすら思ってしまう。香織がいとしいのにでも怖い。
 ちょうど、教室のある二階に辿り着こうとしていたときだった。校内放送の合間に、ぴんぽーん、とチャイムが挿入される。なんだろう、と思い足を止めた。
『一年B組の川崎さん――』
 その声はまさしく担任であるところの館川先生のものだった。わたしは飛び上がった。しかしこれも、凄い比喩表現だと思う。
『――至急職員室まで来てください』
 確か、館山先生のいる職員室は三階だったはずだ。教室には香織たちがいる。数秒儀礼的にためらってから、わたしは三階への階段に脚をかけた。
 普段三階まで上ることは滅多にない。そのせいかどうか、踊り場から左に進んで突き当たり近くにある職員室に着く頃には、息が切れ始めていた。扉を開けて「失礼しまーす」と声をあげる。すると、「川崎さーん」という館川先生の声が部屋の奥から聞こえた。わたしは歩を進める。館川先生は窓際の席で幻の秘宝と呼ばれるトリプルカツサンドを摘んでいた。というか摘めていなかった。今にも具がはみ出そうである。それにしても、初めて見た。開始五秒で売切れてしまうというあの幻のトリプル。わたしはそれを指差して云った。
「何分並んだんですか?」
「三時間目が終わってすぐからだから、一時間くらいかな。それでも三度にいっぺんくらいしか買えないけど」
 馬鹿だ。
 わたしは気を取り直して訊いた。
「それにしても、なんですか、突然」
「あ、そうそう」
 先生は周りを見回した。誰もいない。
「なんで誰もいないんですか」
「ん、全体職員会議だから」
「え――、会議だったらなんで先生は出てないんですか」
「呼ばれなかったから」
 ……もしかしてこの人は本当に馬鹿なのではないだろうか? まあ、そんなことを気にしてもしょうがない。先生は続けた。
「で、川崎さん」
「は、はい」
 びしいっ、と擬音が出そうなくらいまっすぐに先生はわたしを指差す。
「あなた、恋で悩んでるでしょ」
「……はあ」
「悩んでるでしょっ」
「……ええまあ」
 しまった。あんまりはっきり云われるからついつい認めてしまった。だがしかしそれよりも、
「あの、具が、スカートの上に……」
 ――そしてその時、悲鳴が全校に響き渡ったという…………。めでたしめでたし☆

 いや、めでたしとかじゃない。だいたいなんのパロディなのかすらわからない、それは。とにかく、まだ終わっては困るのだ。話は終わっていない。先生は半泣きでこぼれた具を始末している。ソースが致命傷だ。
「せっかく一時間かけて並んだのに……」
「……そっちですか……」
 せっかく美人なのに、なんでこの人はこんななんだろう。かといって、恋で悩んでいることを認めてしまった以上、ここで帰るのはあまりにも薄情というものだろう。まったく始末はついていなかったが、ひとつ溜息を吐いて、先生はわたしのほうを向き直って、またわたしを指差した。
「さて、川崎さん。さっき、あなた認めたわよね」
「……はい」
「恋で悩んでいるって認めたわよね?」
 わたしは沈黙で応答する。
「洗いざらい喋っちゃいなさいよー。授業だってまったく集中できてないでしょ? この間の小テスト酷かったし。相談乗ってあげられるわよ、たぶん」
 普通の精神状態だったら、まず間違いなく話すことなどなかったろう。だがそのときわたしは普通の精神状態ではなかった。あるいは、眼前で展開されたスラップスティックで、ある程度、精神が解凍されたのかもしれない。つい口が緩んだ、というか、この人には相談してもいいかもしれない、という気になってしまった。
 実は、と前置きをして、話し始めた。すでに一度、神楽に話していたので、要領を得て話すことができた。なんとか平静さを保っているというアピールがしたくて、口元には妙な、人工的な笑みが張り付いていた。変な話でしょう、と繰り返した。だが、話が核心に迫るにつれ、笑みは崩れ始めた。整然と進めていた話にも、つっかえる箇所が多くなる。途切れ途切れになる。
 ようやく話し終えたころには、懸命に笑みを保とうとしているのだけど、どうにも無理がある感じになっていた。不自然な状態と云いかえてもいい。
 先生は、机に肘を乗せて、終始微笑を浮かべてわたしを見ていた。そして、一つ息を吐いて、
「若いわね」
 と云った。
 まだ他の先生は戻ってこない。
「わたしにもそんな頃があったわ。だいたい一緒。友達だと思った娘に告白されて、それを受け止めるような気でいたはずなのにいつのまにか自分のほうが好きになってて、周りに見えるもの全てに嫉妬して――まあ私はさすがに眼鏡には嫉妬しなかったけどね」
 それから先生は腕時計を見た。
「さ、そろそろ時間ね。――信じなさい。信じなきゃ、ダメになるから」
 そのまま颯爽とした振る舞いで立ち上がって、館川先生は授業へ向かうのか、ドアのほうへ歩き出した。それはそれまでとは違って、その美しさに見合うものだった。一瞬だけこちらを振り向いたその視線を、わたしはまともに受け止めた。なんだかそこには、わたしにはまだわからない、いろいろ混ざったなにかが含まれていて、わたしは、――そう、怖気付いた。なんだか変だが、しかしそう表現するのが一番正しいような気がする。
 わたしは先生の後を追って職員室を出ようとした。扉に手をかけたところで、
「きゃー、先生それどうしたんですか!」
 という生徒の声を聞いた。あー、そういえば服、汚れたままだっけ……。
 わたしは信じられるだろうか、と自問しながら階段を降りた。なんだか永遠に答えが出ないような気がしていた。が、降りて、香織たちが待つ教室に辿り着いたところで、答えは、出た。
 ――答えはいいえ。
 教室に入るところで、足がすくんでしまった、そのはっきりとした感覚に、わたしは背を向けることができなかった。

 そして、神楽と話してから二週間ほど経った日。限界はあっという間に、前触れもなしに外面だけは平和な休み時間に訪れた。
 いつものように、わたしにじゃれあってくる香織。いつものように、それを受け入れるわたし。いつものように、わたしたち二人を見守る神楽とそのほか数名。でも、わたしに抱きつこうとする過程で、香織はわたしの眼鏡に触れてしまう。それを感じた。糸が切れる。それは堪忍袋の緒と呼ばれるものかもしれないし、緊張の糸と呼ばれるものかもしれない。でもとにかく糸だった。
 次の瞬間、わたしは、切れた糸に触れて、それがそのまま落ちていくのを知って、
「やめて!」
 そう云っていた。『云った』つもりだったけれど、悲鳴だった。それはすぐに自分でもわかった。悲鳴なんてあげたのいつ以来だろう、それから刹那の間、ほんの一瞬だったが、確実に思考はその疑問で占められていた。
 ほんの一瞬。教室が、しん、と静まり返るまでの。
 あ、とわたしは、そう洩らしていた。やってしまった、と思った。う、あ、いや、その――
「香織――」
 わたしはどうすればいいのかわからなくなっていた。まず謝るべきか、それとも事情を説明するべきか、あるいはこうなってしまった以上一気に問い詰めるべきか。
 でも、わたしのほうを、哀しそうに、ぽかん、と見つめる香織の姿を見て、迷いはとりあえず捨てるべきだと悟った。わたしは、選択肢のカーソルを一番上から動かさずに決定ボタンを連打した。そうしたら先行入力が有効だったらしく、それからの行動もすべてそこで決定されてしまった。
「ごめん、香織」
 そう云って、香織を抱きしめた。拒絶されて、突き放されたなら、それはもう仕方がないと思った。そうなったら、これは最後の愛情表現となる。そういえばわたしから、香織を抱きしめたことが何度あったろう。もしかしたら一度もないのかもしれない。ふざけた話だ。だから、最後になるかもしれないから、わたしはこうやって香織を抱きしめる。好きだよ、と心のなかで繰り返しながら。口に出して云えば良かったのに、と今は思う。けど、周りにはクラスメイトが大量にいた。わたしが英雄的主人公だったなら、彼女たちの眼など気にしなかっただろう。しかしわたしはそうではなく、ついに無意識が作った壁を突破することはできなかった。だからただ、思うだけだった。小さく、かわいく、いとしい香織を抱きしめながら。
 きっかり心で十秒数えて、わたしは香織を離した。
 香織は、
「気付いてた――?」
 と云った。
 うん、気付いてた。――やっぱり香織は、わたしじゃなくて、わたしの眼鏡が好きだったわけ――?
 香織は不安そうな表情のまま続ける。
「やっぱり、わたしがミヤの眼鏡掛けたら、変だと思う?」
 …………はあ?

「最近眼が悪くなってきちゃって……」
 はあ。
「で、前々からミヤの眼鏡ってかわいいなーと思ってたから」
 そうですか。
 放課後、夕焼けの教室。神楽との時と同じように二人きり。その後わたしたち二人に向けられる、散弾銃の弾のような視線を、近未来的に仰け反るなどの技術でくぐりぬけたわたしは香織に疑問をぶつけていたのだった。これだけわたしを悩ませたのだから完全に疑問は解決されなければいけない。
 粗筋はこんなところだ。
 夏休み、視力が悪くなってきた香織は、眼鏡を作ろうと思い立った。どんな眼鏡がいいだろうかと、店で一通り眺めてみたが、いまいちピンとこない。ふと我に返ってみると、当時は一方的に恋焦がれていた、わたしの眼鏡が非常にかわいいものであると気付く。夏休みという時期に、先走り気味に告白した理由にはそれもあったらしい。もちろん、眼鏡が目的で告白したなどということはない。一応訊いてみたが、完全に『なに云ってるの?』という眼をされた。眼は口ほどに物を云うという言葉を、今わたしは信じる。――で、とにもかくにも付き合うことになったので、ことあるごとにわたしの眼鏡を眺めていたらしい。だったら事情を説明してわたしに見てもらうように頼めばいいじゃないかと思いそう云ったが、なんだか助けを借りるようで無念だ、などと口走った。意味がわからない。だいたい二ヶ月も迷い続けるなよ。――ほんとうに笑いたくなる。
 なんだか今、こんたくと、という言葉が頭を過ぎったが、もやがかかったようにその言葉に思考のピントを合わせることができない。非常に残念である。

 それにしても……くだらない。
 はっきり云ってしまうが、ほんとうにくだらない理由だ。でも逆に、くだらない理由でよかったと思う自分がいる。これがもしトラウマがらみだったりしたら、わたしはどのように振舞えばいいのだろう。わたしのちっぽけな頭ではきっと、最良の選択肢を見つけることなどできないに違いない。
 でもこういう、どうしようもなくくだらない状況なら、わたしは最良の選択肢を見つけることができる。わたしは、今香織の姿をクリアにしてくれた、二週間だけの恋敵、赤いフレームの眼鏡に感謝をする。あなたのおかげで、わたしは香織の身体を、顔を、唇を、はっきりと見つめることができるのだから。
 わたしは、眼鏡どこで買えばいいのかな、とかまだなにか呟いている香織をもう一度、きちんと抱きしめる。
 今度はさっきの二倍、二十秒。いや、時間とかもう、わりとどうでもいい。一分でも二分でも、何分でも、気が済むまで香織を抱きしめる。香織も腕をわたしの身体に回す。それから、好きだよ、と呟く。大好き、ともう一度耳元で呟く。香織が、あたしも、だと云ってくれているのが微かに聞こえる。もう一度、抱く力を強める。
 それから身体を離す。
 香織の身体、その輪郭の感覚がまだわたしの腕に残る。わたしは周りを見回す。廊下には誰もいないことを確認する。それからもう一度香織を見る。その唇を見る。いつもの頬ではなく、唇を見る。
 そして肩を掴んで、顔を近付ける。腕が微かに震えるのを、気取られないように気を付ける。
 今度、わたしが行きつけにしている眼鏡のお店を紹介するつもりだ。


                                            了

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