『僕らの青年期~手紙』

『僕らの青年期~手紙』

著/星見月夜

原稿用紙換算55枚


 この部屋に――私が生まれ育ったこの家に戻るのは、とても久し振りのことだった。
 今日、私はこの家を離れることになる。
 最後に、荷物を整理して。
「普通は、先に入籍とかするものでしょう?」
「あのねお母さん、そういうことはもういいじゃない」
 大きく溜め息を吐いて、背中越しに振り返る。部屋の入り口に立っているのは、私のお母さん。
「だいたいね、同棲始めて一年も経つのよ? 私としてはやっとか、って感じなんだから」
 やっと。
 やっと私の恋人は、私と「夫婦」になろうと言ってくれた。いつもと変わらない、独り言のような口調で。
 けれど、その素っ気なさが嬉しかった。自然に、無理なく、私たちはちゃんとした「夫婦」になるのだと思えたから。
「結婚に反対してる訳じゃないのよ? ただねぇ……」
「はいはいはい、お小言は後でまた聞きますから。私は忙しいから、居間でお茶でも飲んでてよ」
 立ち上がって、お母さんの背中を押す。丸まって、少し固くなった背中。気がつけば私よりもずっと小さくなっていた、背中を。
「主婦にそんな時間はありません」
「はいはいはい」
 お母さんを廊下に追い出して、戸を閉める。部屋の中を振り返ると、ごちゃごちゃとしていて足の踏み場もないくらいになっていた。窓から差し込む光に、埃がきらきらと照らされている。苦笑いしながら、窓を開けた。
 ここから見える景色は、子供の頃からずっと眺めてきた景色。変わったところも、そうでないところもある。
 窓枠に、手を乗せる。
(昔はさ、ここにあごを乗せてたのにね)
 頬が緩んで、体が軽くなった。
「さてと!」
 まだまだ、荷物整理は始まったばっかりだ。

 持ち出す物と、残しておく物と。後は、捨ててしまう物。押入れの中も、クローゼットの中も全部引っ張り出して、選別をする。
(意外と重労働よね……)
 市指定のごみ袋は、もう三つも一杯になっている。ちょっと悩んでから、四つ目の袋に古い手帳を投げ入れた。
 この家で生まれて、育って、二十五年。その間に買った物や貰った物が、たくさん。
(どうしてこう訳の分からない小物とかが多いのかしらね……)
 多分その時の私には必要だったんだろうなぁとか思いながら、「残していく物」の詰め込まれた段ボール箱にしまう。残念だけど、これからの私には必要ないから。
 段ボール箱は、押入れの中にまとめて入れておくつもりだ。持ち出す物は、友達から借りたワンボックスの車に積んで、運ぶ。
 私と、私の旦那様になる人とが暮らすことになる、新しい部屋に。
(それでもやっぱり、持ち出す物なんてそんなにないわよねぇ)
 礼服と、それに合わせた靴。どうしても捨てられない本とCD。それくらいだ。普段の生活に必要なものは、もう持ち出してある。何かを持ち込む度に彼は「部屋がまた狭くなった」とぶつぶつ言っていたけれど。
 思い出し笑いをしながら、次は古い教科書を。
 高校の頃の教科書が何で未だに残っているのかは分からないけれど、とりあえずはもういらないだろう。段ボールの箱に、まとめてどすん、と入れる。ノートや、古い日記帳も、どすん。
(……ん?)
 箱に押し込まれた本の束から、ちょっと飛び出しているものがあった。箱の縁と本に挟まれて、折れてしまっている。手に取ってみると、それは封筒だった。普通の手紙に使うよりもかわいらしい、封筒。
(これって……)
 色褪せて変色してしまっているけれど、元は多分淡い緑色だったのだろう。封はぴっちりとされていて、開けられていない。頭の上にかざすようにして宛名を見る。
『新木達哉様』
 そして裏には私の名前が小さく、それでも丁寧な字体で書かれていた。ゆっくりと、声に出しながら書いたような、そんな字で。
「……ラブレターだわ、これ」
 新木君というのは、高校生の頃の同級生で……
 私が、ずっと好きだった人の名前。
 要するにこれは――
「出せなかったのね、私」
 その封筒は変色して、折れ目が付いていた。

 荷物を整理して部屋に運ぶと、もう夕方を過ぎていた。
 借りた車を返すために、友達の家に。
「車、ありがとうね。助かったよ」
「いいっていいって。ほら、どうせ平日は私も家から出られないからね」
 そう言って笑うアキは、眠っている子供の顔にかかっていたよだれかけをそっとよけた。
「大人しく眠ってるなーと思って油断してると、すぐ泣き出すんだから」
 私の同級生の、アキ。私より一足先に結婚して、今では立派な主婦だ。同じ町で一緒に育って、これからも一緒に同じ町で過ごす友達。社会人になった今もこうして頻繁に逢っている。
「もうちょっと大きくなれば楽になるんじゃない?」
「あーそんなことないない。一人で歩けるようになったらそりゃあ酷いんだから。テーブルの上で泳ごうとするし、玄関から落ちて大泣きするし」
 アキはもう二児の母親。お母さん、という言葉にも大分馴染んできたみたいだ。部屋も、なんだか昔とは違って「子供のいる部屋」という感じになっている。足元に物は置かないように、手の届くところに危ない物は置かないように気を遣ってある。
「それで、上の子は?」
「真知は、お義母さんのところ。『おばあちゃんのところにいるー』って泣くから置いてきたのよ」
「嫌われてるわねぇ」
「お義母さんが甘やかせるから、家でもわがままになるのよね」
 溜め息をついて困る仕草も、どこか楽しそうだ。
「それで、そっちのダンナは何か言ってたの?」
「もう挨拶も一通り済ませたし、明日休み取って書類出して入籍ってことになるわね」
「今思えば私はそこで踏みとどまるべきだったわね……何が幸せにするよ。甘い言葉かけて結局私ばっか苦労して」
 とりあえず笑っておく。あはは、と。
「それよりもさ、こんなのが出てきたんだよね」
「何なに?」
 ハンドバッグの中から、あの封筒を取り出す。
「……そりゃまた、年代物ね」
「年代物よねぇ……」
 アキが手を伸ばしたので、手渡した。じろじろと、表と裏を何度もひっくり返して見ている。まるで何かを鑑定しているみたいだ。
「ねえこれ、開けていい?」
「ダメ」
「じゃあどうするの?」
 にやにやと笑うアキは、やっと面白いネタを見つけたといった感じになった。
「……ひょっとして退屈してるの?」
「当たり前じゃない! 専業主婦なんてね、家庭って言う名前の檻に閉じ込められたカナリアなんだから!」
「意味分からないよ……」
 ひったくるように手を伸ばすと、さっと逃げられてしまった。さすが専業主婦。素早い。
「開けようよー開けちゃおうよー。開けて、文面に込められた青い春の淡い恋心を私に読ませてよー。声に出して読ませてよー」
「絶対に、ダメ」
 だだっ子のように暴れるアキ。なんだか母親になってまた若返ったような気がする。結婚してすぐのときは、あんなにも落ち着いて見えたのに。
「ともかく、それは開けません。絶対にです」
 切り口上でそう言うと、「ちぇー」と不満そうではあったけれど、それでも大人しく封筒を返してくれた。
「そういえば、新木君って今何してるのかしらね」
「……もういいよこの話題は……」
 親戚の叔母さんに「昔は良くおしめを換えてあげたのよ?」とか言われた、あのときと同じ心境。出来る限り触れないで欲しい話題だ。恥ずかしいから……
「だって、高校卒業以来逢ってないし、噂も聞かないし。……確か遠くの大学に進学したのよね?」
「そうだよ。海洋学科のあるところ」
 海が好きで、そこに生きている生き物が全て好きで、とにかく勉強熱心だった新木君。
「成人式にも、同窓会にも来なかったもんね……」
「同窓会は私たちも出てないじゃない」
「まあそうだけどさ」
 私もアキも地元に残っていたから、それほど「同窓会! 行きたい!」とは思えなかった。薄情かもしれないけれど、地元に住んでいれば友達とはいつでも逢えるし。なにより仕事が忙しかったというのもあるけれど。
 色褪せて、折れて、その上少し皺のついた封筒をまたバッグにしまった。
「……ねえ。その手紙さ、出すの?」
「今更出してどうするのよ」
 笑う。だって、私は明日入籍をして、来月には結婚式が控えていて……
「今更と思うか、今だからと思うか、それはアンタ次第だけどね」
「……いいの。これは……後で処分します」
「ほら、処分するならここで私に読ませ……」
「ません」
「けち」
「だめ」
 そしてまたアキが訳の分からないだだをこね始めた。

「ただいま」と玄関を開けたのは、もう外が真っ暗になった頃だった。
「おかえり」と小さく聞こえた声。玄関には雑に脱ぎ捨てられた革靴。
 私は黙ってその靴をきちんと並べて、私の靴は下駄箱にしまって、鍵を閉めてから部屋に上がった。
「あーまたそんな格好でテレビ見てー」
「落ち着くんだよコレ」
 私の旦那様は、横になっているのに両足をソファーの縁に乗せているという、不思議な格好でテレビを眺めていた。見慣れてはいるのだけれど。
「足がむくんでるときはいいんだって。お前もやれば分かるよ」
「やりません」
 ぼそぼそとした言い訳を、断固として却下する。彼の両足を抱え上げて、床に下ろす。
「っと。重いわよもう!」
「ああ……背中が擦れて痛い……」
「少しはしゃんとしてよね」
「しゃん」
「口で言ってもだめです」
 はあ、と聞こえよがしに溜め息をついて、それでも体を起こしてくれた。
 これが私の旦那様。面倒くさがりで世話のかかる、大きな子供みたいな男の人。でも、職場では信頼の厚い人。
 今の私の、一番好きな人だ。
「夕ご飯まだでしょ? 何食べようか」
「あー……」
「はいはい。何でもいいのね。それじゃあ引越しそばの残りでいい?」
「じゃあそれで」
 テレビから目を離さないで、こっちを振り向きもしない。憎たらしいけど、なんだかそういうところが可愛らしいと思ってしまう。アキからは、「それこそ甘やかし過ぎよ」と呆れられたけれど。一年も同棲をしていたのだから、そういう点にも慣れるというものだ。
「お腹減ったあ」
「はいはい私もよ」
 水を張った鍋を、コンロに乗せた。

「疲れたから先に寝るよ」と、彼はさっさと寝室に行ってしまった。夕食を食べてすぐに。お風呂にも入らずに。
(明日は休みだからいいけどね……)
 入籍前日だというのに全く緊張感がない。こういう自然なところが、私はいいなぁと思う。お風呂にはちゃんと入って欲しいけど。
 食器を片付けて、洗濯機を回しながらお風呂に入って、髪の毛を乾かして……それから寝室を覗いて見ると、彼はもう寝息を立てていた。本当に先に寝ている。
(それじゃ私は家計簿でもつけましょうかね)
 ハンドバッグからお財布と、レシートを出す。
 家計簿をつける、と最初に言い出したとき、彼は当たり前のように反対した。というか面倒くさがった。でも、それも一年近く続けていれば慣れたみたいで、今ではちゃんと自分で使った分のレシートを毎日テーブルの上に出しておいてくれる。もしかしたら反抗するのすら面倒になっているのかもしれないけれど。
(んー……やっぱりしばらく苦しいかなぁ……)
 引越ししてすぐなので、出費が多かった。どれもこれもが必要な物ばかりなので、仕方ないけれど。
 前の部屋は、彼が大学時代から使っていた部屋で、十畳のワンルームだった。今の部屋は、2LDK。当然家賃も倍近くになる訳で。
 二人の収入と、家賃と光熱費と、食費と、雑費と……
(まあ、なんとかなるかな)
 彼はお酒も飲まないし、煙草も吸わないし、賭け事もしない。趣味は休日の釣りという、なんというか歳相応じゃない人だ。つまり、お金がかからない。
 私も、もう服とかアクセサリーとかにお金をかけようとは思わないし。
(なんか、結婚するとなると不思議なもんよねぇ……)
 今まで興味があったことのほとんどがどうでも良くなって、その代わりに今まで馬鹿らしいと思っていたことに一生懸命になる。
 例えば、卵の一パックの値段とか。
(『これからが大変』、かあ……)
 結婚するとなると、やっぱり周りの人からそういう言葉をかけられる。でも、まだまだ私にはそんな「大変」な実感が全くない。
(多分何とかなるだろうしね)
 面倒くさがりな旦那様は、ああ見えて締めるところはちゃんと締めてくれるし。
 家計簿を閉じて、お財布をバッグにしまう。
 かさ……
 手に触れたのは、あの封筒。
(……開けちゃえ、か)
 アキが面白半分にそう言っていた。けど、私はそうするべきなのか分からなかった。きっとこの中には、あの頃の私の、精一杯の気持ちが文になって込められているのだろう。それを、今の私が読んでいいのだろうか?
 私が結婚する人は、このラブレターとは全く関係ない。仕事で知り合って、なんとなくお付き合いすることになって、同棲することになって……
(捨てちゃおうかな)
 ぴらぴらさせながら、思い出す。
 あの頃の私って、どんな子だったのだろう?

 新木君と同じクラスになったのは、高校二年生の頃だった。
 進学校でもない公立高校なんて適当なもので、進学か就職かで大雑把にクラスを別けるだけ。その進学クラスの中に、彼はいた。
 出席番号一番の、「あ」らき君。自己紹介も一番だった。
 音を立てずに椅子から腰を上げて、静かに。
「新木です。部活はやっていません。趣味は……」
 そこで一度、区切った。悩んでいるような、それとも迷っているような素振り。みんなの視線が、集る。
「趣味は、水族館巡りです」
 最初は冗談だと思っていた。実際、クラスの数人からは笑い声が投げかけられて、彼もそれに手を上げて笑い返していたから。
 けれど、それは冗談でも何でもなかった。
 彼は部活の代わりに、近くのガソリンスタンドでアルバイトをしていた。そうして貯めたお金で、連休になると遠くの水族館まで一人で小旅行をしていたらしい。それも、何度も同じところに。
「一回行っただけじゃあ全部じっくり見れないからね」
 当たり前のようにそう言う彼は、クラスでは「変わり者」ということになっていた。
 一度、夏休みにクラスの数人と連れ立って、近くの水族館に連れて行ってもらったことがある。
 私たちはイルカやラッコにばかり目を取られていたけれど、彼はそうじゃなかった。普通に食卓に上るような魚から、見たこともないような魚まで、熱心に観察していた。
 その目が、とても綺麗で――
 あのとき、私は新木君を好きになっていたのだと思う。
 帰りの電車の中でも、ずっとにこにこしていた新木君。もっとおしゃべりなのかなと思っていたけれど、意外に無口で、私は話かけることも出来なかった。

(青春時代なんてそんなものよねえ)
 封筒を、ハンドバッグに仕舞う。
 他の子の目が気になって、声をかけることも出来なかった。背中を目で追うだけで、精一杯だった。
(なんて、少し浸りすぎよね)
 苦笑いをしながら、テーブルの上を片付ける。
 今の私はどうなんだろうか?
 寝室で寝息を立てている、彼。もし彼がいなかったとして、他に好きな人が出来たとしたら……
 やっぱり、声をかけられずに終わってしまうのだろうか? それとも、強引にでもこっちを向かせる?
(……分からないわよね)
 あの頃は、目が合うだけで胸が弾けてしまいそうだった。近くにいるだけで、息が苦しくなった。彼のことを思うだけで、眠れなくなるくらいだった。
 高校を卒業して、短大を出て、会社に勤めるようになって……
 私は、大人になれたのだろうか? 大人になってしまったのだろうか?
(それとも、もっと恋がしたい?)
 バッグの表面を、手でなぞる。革製の、ブランド品のバッグ。今の彼からのプレゼント。これを贈られたとき、私はとても嬉しかった。気持ちが高まって、涙がにじんでしまうくらいに。充分かどうかは分からないけれど、恋をしてきた。それで、今こうして一緒に、新しい部屋で暮らすことになって……
 結婚、するのだ。
 ゆっくり目を閉じて、深呼吸をしてみる。新しい部屋の、まだ私たちに馴染んでいない空気。
「うん」
 膝をぽん、と叩いて立ち上がる。もう今日は何も考えずに、早く寝よう。明日は、きっと忙しい一日になるから。

「それで、ダンナは何だって?」
「特に何も変わらないわよ。今まで通り。ただ部屋が広くなったからゆったり出来て良いな、とは言ってたけど」
「男なんてそんなモンよねぇ。名字が変わるのも女の方だしさ。子供を産むのだって、育てるのだって結局は女でさぁ」
「愚痴は聞きたくありません」
 口を突き出してぶーぶー言うアキ。相手をしてたらきりがない。
「そうなんだよねぇ。私、もう名字変わってるんだよね」
「実感、ない?」
「そりゃあね」
 入籍を済ませて、数日が過ぎた。
 書類は思っていたよりもずっとあっさり受理されて、余った時間は久し振りにデートということになった。彼は家に帰りたがっていたけれど、私は何だか嬉しくて、手を繋いで街を歩いてみたかった。街中の人に、私たちを見てもらいたいと思った。もちろん、口には出さなかったけれど。
 そうやって、私たちは法的に「夫婦」になった。
「あれよ、誕生日が過ぎて歳を取るのと大差ないわよ」
 確かに、そういうものかもしれない。
「結婚式やるとまた違ってくるんだけどね」
「そういえばアキはぼろぼろ泣いてたわね」
「……汚点だわ」
 でも、食器棚には今でもちゃんと二人の結婚写真が飾ってある。ウエディングドレスと、白のタキシードと。
「アンタは誰も呼ばないんだっけ?」
「うん。彼が嫌がって……。一応体裁もあるから、親族だけ集めてね。食事会の延長みたいな感じ」
 場所は、高原の有名な教会。白樺に囲まれた、とても穏やかな雰囲気のところだった。
「てんとう虫のサンバでも踊ってあげようと思ってたのに」
「踊らないで唄ってよ」
 アキのこういうところだけは、母親になっても変わらない。
「そういえば、今日はダンナは?」
「残業で遅くなるって。先に寝てて良いって言うから、多分夜中まで会社にいるんだと思う」
「ウチのダンナも同じだわ……全く、お金さえ稼いでればそれで良いって思ってるんだから」
「まあまあ」
 すぐ熱くなるところだけは、いい加減変わって欲しいけど。
「それじゃ、夕ご飯食べてく? それとも二人で外食でもする?」
「あのね、子供放っておいて出かけるのは良くないよ?」
「だーいじょうぶよ。どうせ二人とも寝たら起きないんだから」
「少し油断するとすぐ泣き出す、でしょう?」
「固いわねぇ相変わらず」
「アキがゆるいんだって」
 二人で、笑う。
「それじゃ、何か作りますかね」
 手を合わせて立ち上がるアキ。「手伝うよ」と言って、私も立ち上がる。
 キッチンがどうなっているのか、ちょっと参考にさせてもらおうと思った。

 今の彼と初めて逢ったのは、会社でだった。
 私が事務をやっている会社に、彼が営業でやって来た。
 連日足を運ぶ彼の顔を覚えるのは、それほど大変じゃなかった。コーヒーを出すのも、私の仕事だったし。
 先に声をかけたのは、私だったと思う。
「いつもご苦労様です」
 そんな、つまらなくて社交辞令的な、挨拶のような言葉。
 その次の週末には、何故か一緒に夕食を食べていた。多分、彼が誘ってくれたんだと思う。不思議とあまり良く覚えていないけれど。
 それから、だんだんと仕事以外で逢う回数が増えて、付き合うことになって、何故か一緒に暮らすことになって……
 考えてみれば、どれもこれもが「何故か」で、理由がない。
 はっきりとした言葉をもらった訳でもないし、それなりの意気込みがあった訳でもない。
 本当に、自然に。
 自然に流れる時間に合わせて、私たちは自然に関係を深くしてきた。

 結婚したとはいえ、私はまだまだ会社に勤めている。
 外が薄暗くなった頃に会社を出て、電車に乗って部屋まで戻る。その頃には、もう完全に夜になっている。そしていつも、部屋の鍵を開けるのは私なのだ。
 かちゃ。
「ただいま、っと」
 もちろん返事はない。彼からは「今日も遅くなる」と電話があった。
(これじゃ入籍しても何も変わらないわよねぇ)
 苦笑いしながら、夕食を作ろうかどうか考える。毎日はこうして過ぎて、流れていく。今までもそうだったように、多分これからも。
 自然に、進んでゆく。
 でも……
(私から何かをしたことって、あったっけ?)
 洗面所で、少し考える。
 彼に食事に誘われた。彼がいつも私を誘ってくれた。付き合おうと言ってくれたのも彼で……
 彼はいつもそっけなくて、面倒くさそうにぼそぼそと喋る。そこが、私はかわいいなぁと思っている。でも、その奥で彼は何を考えて、決心して、言葉にしてきたのだろう?
 もしかしたら、私は……
(私って、何もしてないのと同じなのかな……)
 私は、変われているのだろうか?
 ちゃんと、大人になれているのだろうか?

「それで、どういう心境の変化?」
 電話の相手は、アキ。今日も二人の子供と一緒に、旦那様の帰りを待っている。
「どう、って言う訳じゃないんだけどさ」
 ぶっきらぼうな物言いのアキに、私の答えはごもごもと煮え切らない。どう言えばいいのかが良く分からない。
「なんか、入籍したとか結婚したとかそういうのじゃなくてさ、ちゃんとした一人の『大人』になりたいというか……」
「そんなのは思春期の頃にさんざ悩んだでしょうが。まだ悩み足りないの?」
「けどね、これってチャンスだと思うのよ。それで、これを逃したらだめだと思ったの」
 そう、チャンスだと思う。でも、そのチャンスをモノにするには、ほんの少し勇気が必要なのだ。
「だから、あの手紙を渡そうと思って。ちゃんと、全部話して」
 電話口の向こうで、アキが溜め息を吐いているのが聞こえた。
「そりゃあ冗談で出しちゃえばーとは言ったわよ? けど、相手が今どうなってるかも分からないのに渡してどうなるのよ?」
「それは……わかんないけど……」
 けど、渡さなければいけない。何が変わるとか、何が終わるとか、そういうのは分からないけれど……
 渡せば、きっとそれが分かる。
「別にね、そこまでちゃんとした区切りなんてないよ? 子供も大人も、恋人同士も夫婦もさ。結局はそんなの、本人の気の持ちようでしかないんだし」
「だから、その気の持ちようをはっきりさせるためにね」
「……分かったわよ。それで、私に頼みたいことって?」
 そして私は、電話をした本当の理由を話した。

 彼の寝顔を眺める。
 いつも私よりも早く寝て、私に起こされるまではずっと寝ている、私の旦那様。これから何度、こうして寝顔を眺めることになるんだろう?
 この顔が変わって、しわしわになっても、私は多分ずっと、飽きもせず眺めると思う。
 部屋のカーテンを開けて、窓を少し開ける。部屋一杯に満ちる、金色の朝の光。
 生まれたての、新しい朝の空気。
「ほら、起きて!」
 朝食の準備は、もう出来ている。

 あのラブレターは、ずっとハンドバッグの中に入っている。
 お財布を出す度に、ペンを出す度に、印鑑を出す度に、手が触れる。
 十七歳の私が書いた、想いの込められた文章。
 とても気になるけれど、やっぱり中を見る気にはならなかった。
 この手紙に書かれた気持ちは、手を加えずにそのまま伝えるべきだと思った。それが、今の私に出来ることだから。
 それと、もう一つ……
 今の私が、あの頃の私のために出来ること。
 それは――


 日曜日、私と彼は結婚式場に足を運んだ。細かい打ち合わせや、時間などを決めるために。
 彼は「任せるよ」の一点張りで、結局私が全部を決めることになった。有名な高原の、小さな教会。昔はある作家の人がここで式を挙げたらしい。打ち合わせをしている私たちの脇を、幸せそうに手を繋いで歩く二人。その先には、たくさんの人たちの笑顔。今までどれだけの人がここでこうして式を挙げたのだろう?
 どれだけの笑顔と、歓びの涙が繰り返されたのだろう?
 そんな教会で、私たちは結婚式を挙げる。大好きな人と、幸せに暮らすために。
 私の旦那様は、なんだか落ち着かない様子で何度も椅子に座り直していた。

 私は今、社会的に「大人」になった。
 ちゃんと毎日会社で働いて、家では家事をして。休みの日には釣りに出る彼のために早起きしてお弁当を作ったりもしている。
 でも、忘れてはいけないことがある。私にも「子供」だった頃があった、ということ。
 毎日をどきどきして過ごして、伝えられない気持ちに胸を熱くした時期があったこと。
 歳を重ねるにつれて、そういう胸の高鳴りは薄れてしまったけれど……
 あの頃の私は、今の私にとっての大切な友達だと、そう思いたい。

 だから……


 封筒を持っている。
 一つは、あの色褪せて折れ目のついてしまった、ラブレター。
 もう一つは、真新しい封筒。あの頃とは少し違う筆跡で書いた、今の私からの手紙。
 二つの封筒を持って、私は歩く。

「結論から言うとね、新木君に逢うのは簡単だけど、話は絶対出来ないわね」
 アキにお願いしたのは、新木君の居場所を探して欲しいということ。今でも人脈が広くて、私よりもほんの少し自由になる時間の多いアキにしか頼めなかったこと。
 ちゃんと、突き止めてくれた。

 二つの封筒を持って歩く。
 窓から差し込む光は、ほんの少しだけ色付いている。昼下がりと夕方の間の、柔らかい日差し。斜めに入り込んできて、廊下を照らし出す。
 真っ白な、病院の廊下を。

「誰に聞いても『知らない』『分からない』の一点張りだったからね、思い切って実家にかけてみたのよ電話。そしたら……」

 人影のない、日当たりの良い廊下。
 かなり大きな病院で、でも人がいないということは、面会に来る人がいないということ。ここは、そういう病棟。
 有休を使って会社を休んで、新幹線と飛行機を乗り継いで、タクシーに病院の名前を告げて、ここまでやってきた。
 今までで一番の、一人旅。
 けれど、これはそんなに胸が躍るようなものではなくて……
 私の、エゴなのかもしれない。

「事故にあってね、意識が戻らないんだって。それも、大学に入ってすぐに、よ」

 受付で教えてもらった病室には、確かに「新木達哉」と書いてあった。
 一応ノックをしてから、ゆっくりと扉を開ける。

「そりゃあ誰も知らない訳よ。新木君って、元々友達作らない子だったしね。そこにきて遠くの街でそんなことになってればね……」

 確かに彼はそういうのは苦手だったかもしれない。
 でも、水族館の中にいた彼は本当に幸せそうで、目が綺麗に輝いていた。
 私は、そんな彼が好きだった。
 人付き合いが得意じゃなくて、でも好きなことには真っ直ぐで、ある面では「誰にどう思われても構わない」という強い優しさすら感じられるよな、そんな彼が――
 本当に、大好きだったのだ。

「それで、アンタはどうするの?」

 アキに「ありがとう」とお礼を言って、電話を切って、私は少しの間何も考えられなかった。
 私は大人になって、幸せで、幸せはまだまだ続いて……
 でも、新木君だけはあの頃のままで止まっているのだ。
 私は、新木君のことが本当に好きだった。上手く説明出来そうもないくらいに、大好きだった。そんな彼が……
 肩から力が抜けてゆく。泣いてしまえれば良いと思った。ずっと好きだったのだから、それくらいはするべきだと思った。
 けれど、頭の中はぼんやりと霧がかかったみたいに曖昧で……
 泣くことすら、出来ない。
 部屋の中を見回す。引越しから数日が過ぎて、もう私たち夫婦の部屋になっている、そんな場所。
 私は……止まっていない。ゆっくりかもしれないけれど、毎日はちゃんと過ぎている。
 そんな今の私が、彼に逢ったとして……
 どうすれば、いいのだろう?
 色褪せた封筒を手に取って、じっと眺める。
 今の私がやろうとしたこと。出来ること。時間をかけて、ゆっくりと考える。
 この手紙を書いた頃の、私のこと。新木君のこと。今の、もう話すことの出来ない彼のこと。
 私が、決めたことは……
「もしもし」
 受話器をしっかりと握って、はっきりとそう言った。

 部屋の中はひんやりとして、とても静かだった。
 カーテンで仕切られた、その向こうに……
 新木君が、眠っている。

 新木君の実家には、彼のお兄さん夫婦が暮らしていた。電話に出たのは、お兄さんの奥さんだった。
 事情を話すと、詳しく教えてくれた。
 ご両親は病院の近くにアパートを貸りて、そこで暮らしているらしい。元々、新木君の親戚の家が大学の近くにあったとか。
 それと、どういう事故に遭ったのか、ということ。
「達哉君のことは、私も良く知っていて……だから、今でも悔しくて……」
 彼の義姉さんは、そう言って、言葉を詰まらせていた。
「次の連休には病院に行きますから、もし良かったらその手紙、預かりましょうか?」
 その申し出は、断った。自分で、直接渡したかった。例え、彼の言葉を聞けないとしても。彼に言葉を聞いてもらえないとしても。
 電話を切って、考える。意味があるのだろうか? 私がやろうとしていることに。
 ……どれだけ考えても、答えは出なかった。答えなんて、ないのかもしれなかった。

 けれど、だから、私はこうしてここにやってきた。

 カーテンをそっとよけて、覗き込む。
 体のあちこちに管を繋がれて眠ったままの、男の人。
 顔立ちが変わって、痩せこけて、顔色は真っ白だけど……
 間違いなく、新木君がそこにいた。
 あの頃の私が好きだった、大好きだった人が、そこに眠っていた。

 色褪せた封筒を見詰めながら、私はペンを走らせた。真新しいレターセットに。絶対に読まれることのない手紙。届かない気持ちと、言葉。それでも、私は一生懸命頭を悩ませて、書いた。
 ラブレターじゃなく、「ありがとう」の手紙を。

 新木君の瞼はしっかりと閉じられていて、胸はゆっくりと上下している。眠っているようにしか、見えなかった。
 私はその枕元に、そっと封筒を置く。
 あの頃の私が書いたラブレターを。
 今の私が書いたお礼の手紙を。
 
『あの頃、私は貴方のことが本当に大好きでした。
 けれど、その気持ちを伝えることは出来ませんでした。
 今更かもしれませんが、あの頃の私が書いた気持ちを、届けようと思います。
 今の私には別の好きな人がいて、結婚もしました。
 でも、だから、新木君にはちゃんとお礼を言っておきたかったのです。
 あの頃の私に、誰かを好きになるという気持ちがあることを教えてくれたのは、貴方だったから。
 ありがとう。
 人を好きになるという想いをくれて、ありがとう。
 私はこれからも、忘れません。あの頃の、どきどきした気持ちを。
 だから、幸せになれると思うのです。
 本当に、ありがとう』

 扉を閉める。
 斜めに差し込む日差しは、だんだんと色を濃くしてきている。
 夕暮れが、近付いている。
 その場に立ち尽くして、ゆっくりと深呼吸をする。
 これで、私の思春期の思い出は終った。ちゃんと、区切りがついた。
 良かったか悪かったかは分からないけれど……
 はっきりと、一つの出来事が終ったのだ。
「……うん」
 誰にでもなく頷いて、歩き出す。
 足音は長く、弱く響いて、消える。
 このことを彼に話すべきなのだろうか? それとも黙っているべきだろうか?
 そんなことを考えながら、病院を後にして、帰途についた。


 私には、好きな人がいた。
 けれど、その記憶はずっと忘れられていた。あの、色褪せた手紙が出てくるまでは。
 どうして忘れていたのかは、分からない。もしかしたら、それは必要なことだったからかもしれない。
 大人になって、幸せになるために。
 今の私には、ずっと一緒にいたいと思える人がいる。そして、その人と結婚をした。
 幸せは、ずっと続いて行く。辛いことがあっても、苦しいことがあっても、ずっと。
 そんな私が、想いを手紙に書くだけで精一杯だったあの頃の自分にしてあげられることは……
 もう、はっきりと分かっている。
 これからは、それを証明するために、日々を送ろうと思う。
「ただいま!」
 私の旦那様は、いつも通り気のない返事で「おかえり」と言う。私がどんな手紙を書いて、誰に渡してきたのかも知らずに。
 幸せになろう。
 私は、私自身にそう誓った。


                                              了


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