『噂なんて知らない』

『噂なんて知らない』

著/星野慎吾

原稿用紙換算70枚

 1

 鍵を抜いてドアを開けると、もちろん誰も帰ってなかった。私は靴を揃えると、廊下をつたって居間を通り過ぎ、夕日の差し込む台所で食事の仕度を始める。電子レンジに冷凍食品のお惣菜とご飯を入れてボタンを押し、温めている間に二階へ上がって自分の部屋に入る。西日で暖まったベッドの上に制服を脱いで、ジャージに着替えるとすぐに階段を下り、また一階の台所へと戻る。その頃にはもうおかずとご飯がほかほかに仕上がっていて、あとはお味噌汁を温めなおすだけだ。
 中学生までは一連の仕度を済ませた後、四つ上のお兄ちゃんの帰宅を八時まで待っていたが、現在予備校通いの彼は、毎朝「ご飯は先に食べてくれ」と念を押して出かけるようになった。
 それが少し寂しいと思う。もちろんお兄ちゃんの気づかいは分かるし、私のそんな気持ちも察してはくれてるようだけれど、お父さんが九州に転勤中の今、私たち兄妹はもっと結びつくべきなのだ。朝夕のご飯を一緒に食べて、お風呂のあとは雑談を楽しんで寝る。それが私の理想だった。いつもそんなことを考えつつ、テレビを見ながらご飯を食べる。食べ終えると食器を洗い、お風呂が沸くのを待ちながら本を読んで過ごす。だいたい八時半頃にお湯は沸いて、それから一時間かけてお風呂に入る。お兄ちゃんは今日、予備校で何を勉強したのだろうか。
 お兄ちゃんがご飯をほおばる様子を、向かいの椅子に座って眺める時間が好きだ。ご飯が綺麗になくなった食器を私が洗っているとき、テレビを見て横になりながら、名物講師の話を面白可笑しく聞くのが楽しみだ。お兄ちゃんと過ごす時間は最高だった。学校なんかに比べれば……。

 私、暗部見咲(あんべみさき)は今年の春から高校生になったけれど、友達はほとんどいなかった。正確にいえば、入学当初にできたはずの友達が、一ヶ月も過ぎると皆去ってしまったのだった。引っ込み思案ですぐに怖気づいてしまう私は、テンポの早いみんなの会話についていけなかったし、話しかけられてもただ頷くのが精一杯だった。そんなつまらない私から、友達は一人また一人と遠ざかっていった。
 中学の三年間も、やはりそうして過ごしてきた。教室の女子たちが、昨日のテレビのお笑い芸人が面白かった話や、原宿に行って服を買ってきた話に興じている姿は、まるで彼女らの口先からキラキラしたものがこぼれているように見えた。廊下で人とすれ違ったとき、「おはよ」と挨拶することが、私にとってどれほど特別なことで羨ましいことなのか、教室のみんなは誰も知らなかっただろう。入部した書道部でも私はまもなく孤立して、夏の書道展覧会を迎える前には辞めざるを得なかった。結局帰宅部となった私は、みんなが帰る時間の一時間前、既に校門に立っていた。
 それでも寂しさを紛らわせてくれた唯一の人が傍にいた。お兄ちゃんだった。私が中学を卒業するまで、高校の授業が早く終わった日には必ず、とぼとぼと帰り道を歩く私を見つけ、一緒に家まで帰ってくれた。私たちの中学校と高校は、それほど離れた距離になかったのだ。私にはお兄ちゃんが必要だった。お兄ちゃんがいてくれさえすれば、寂しさは風に乗って消えていった。
 しかしもう、放課後の校門にお兄ちゃんの姿はない。冬に大学受験を失敗した彼は、四月から予備校に通い始めたのだ。きっと、高校のときに夢中になっていたバンド活動が、受験勉強に影響を及ぼしたのだろう。私は残念な顔をしてお兄ちゃんを慰めてあげたけれど、心の内では少し安堵していた。もしも大学に行っていたら、きっとそこには広い世界があって、お兄ちゃんはサークルに入って女の子と仲良くして、バンド活動にもますます熱中して、私に割いてくれていた時間も減ってしまうから。
 お兄ちゃんのトレードマークは、大きいヘッドホンだった。いつも肩からお気に入りのヘッドホンをぶら下げている彼は、音楽が大好きで、暇を見つけては部屋でギターを弾いていた。腕前はそこらのスタジオミュージシャンと、肩を並べられるくらいに確かなものだったし、ギター自体にこだわりがあるようで、特に机の横に立てかけられている愛着のアコースティック・ギターは、彼曰く「普通だったら手に入らないビンテージ物」なのだった。地元の古いリサイクルショップで手に入れたというそれは、ピックガードと呼ばれる、ギターピックから共鳴板を保護する部分がカスタマイズされていて、普通のものよりも幾分厚くなっている。お兄ちゃんはそこを気に入ったらしいのだけれど、私には他の部分で所々についた傷が痛々しく見えて、とても高価なものとは思えなかった。実際に値段も安かったらしいから、きっとだまされたんだと思う。しかし、お兄ちゃんにそう言うと、必ず返ってくる文句があった。
「リサイクルショップの店長が教えてくれたのだけれど、このギターの前の持ち主は殺人事件を起こした容疑者だったらしいんだ。未成年だから名前も世間には出なかったし、精神保養のために家族と引っ越したから、そいつはいつしか忘れられて、ギターだけが残った」
 お兄ちゃんは真剣な目つきをしながら話して、最後に一言付け加えて笑った。
「まあ、あの店長自体が胡散臭いから、この話も多分嘘だろうけどね」
 そうであったとしても、そんな物を買う趣味の悪さに閉口する。お兄ちゃんはそういうところが抜けているのだ。ギタリストにとって、いいギターを持つことは至福の喜びだというのは分かるのだけれど。

 2

 その日学校に行くと、机の中に置き勉しておいた、国語と英語の教科書の裏表紙が半分だけ破れていた。そして、それが何を意味しているのか私にはすぐに予想がついたのだった。落胆して机の上に肘を置き、窓の外を見ると、とうに咲き終わった桜が揚々と黄緑色の葉をつけ、背後には黒い染みのような雲がふてぶてしく広がっていた。
 一限目の授業が終わると、私は意を決して席を立ち、二つ席が離れている中学以来の唯一の知り合い、多恵に話しかけようと近づいていった。しかし彼女は私に気づくと、くるりと振り返りそのまま教室を出て行った。
 思ったとおりだった。彼女は私を避けている。またいじめが始まったのだ。ここでなぜと問いただすのはおかしいだろう。はっきりしたきっかけもなく、ふと肘に当たったグラスが落ちるように自然なのがいじめの開始なのだ。中学のときに散々自問自答した挙句、私はそう結論づけた。多恵が避けるようになったということは、既に同じ組のみんなも同じかもしれない。私は何事もなかったようにまた席へと戻り、次の授業の準備をした。
 いじめのつらさは、休み時間に何もすることがない物足りなさだけでは済まないと私は思っている。確かに友達と時間を共有できない寂しさもあるが、無視をされるだけならまだ良いのだ。私はむしろ、排除しようという意志が働いたときの集団が生む昏い力を、とても恐れていた。
 放課後になって、購買で売られているフリカケの中身が、靴の中に入っていることに気づくと、三階の教室に戻って体育館シューズを持ち出し、再び教室を出た。階段を下りようとしたとき、階下から密やかな話し声が聞こえてきた。
「……ホントに?」
「ホント。あの子前の学校でもいじめられていたんだから」
「ふうん。暗い子だったの?」
「うん。だからみんなも注意したほうがいいよ」
 声の主が、一人だけすぐに分かった。中学の三年間を共にした間柄なのだから。多恵も中学のときはいじめにあっていた。つまり、私と同じように嗅覚が鋭い。恐らく彼女はいじめられる予感がして、先手を打つためまさに今、スケープゴートを用意しようとしているのだろう。私は気づかれないように暫くじっと待ち、彼女らが去ったのを見計らって階段を下り、下駄箱に向かうと汚された靴を持ったまま昇降口を飛び出した。
 校門を出ると、午前中に見えた雲はまだ同じ空に留まったまま、夕陽を受けてさらに黒々と膨れ上がっていた。学校の周辺は昔、深い森だったそうだ。時間を早めれば、鬱蒼と生い茂る森が辺りを侵食していく様子を垣間見れるだろう。私の心も、鎮守の森に閉ざされてしまえば楽になるのだろうか。もうすぐ六月の梅雨だった。鬱々とした雨はみんなの気持ちを少しだけ荒げて、そのつど私へのいじめを助長するだろう。張り裂けそうな心の繋ぎとめ方を、中学校のときに培ったとはいえ、つらさを和らげる術は見つかっていなかった。私は高校生活に淡い期待を抱いていたことを悔やんだ。最初から準備すべきだったのだ――独りでいるための準備を。未来は何も保障がないのだから。
 習慣になっている本屋通いをせずに、家へと帰るなり布団に潜ると、携帯電話から多恵の番号を消去し、電源を切った。夜になり帰宅したお兄ちゃんが、部屋の明かりを消していることに気づいたらしく、着替えもせずに私の部屋に入ってきた。頭だけ布団から顔を出した私は、ベッドに腰掛けた彼に抱きついて、何も言わずに泣いた。
 翌日はもう、鬱屈してはいなかった。予備校の自習室へと向かうお兄ちゃんを見送り、時間どおりに家を出た。携帯電話の電源は昨日から切ったまま。髪留めを黒に変えて、編み込みはもうしない。靴下は学校指定の紺色に戻した。期待をせずに呼吸を潜めていれば、コトは滞りなく進むのだ。学校にたどり着くと、チャイムが鳴る直前を見計らって教室に入り、誰も私の方を見ないのを確認しながらゆっくりと席に着いた。
 教室はいつもよりもひたすら騒がしかった。腕の中に顔をうずめながら耳をそばだてていると、女子たちが噂をしているのが聞こえた。
「だから、すごくかっこいいんだって」
「馬鹿じゃない? 転入生は、いつでもそう見えるもんよ」
「そうかなあ。でも多恵がホントにかっこよかったって……」
「あの子の話もあまり信じられないからね」
 転入生が来るのだろうか。予鈴が学校に響き渡ると、時間割の隣にあるドアが、一度ガタンと音を鳴らして止まってから、ゴロゴロとゆっくり開いた。先生が気だるそうに教室に入ってきて、その後ろには、確かに見たことのない顔立ちの生徒がついていた。
「新しい男子が来たぞ」
 先生が喋り始めると、ガヤガヤと女子が騒ぎ出した。
「火燈くん、挨拶しなさい」
「はい」
 呼びかけられた男子は、先生と入れ代わりに教壇に立つと口を開いた。
「火燈広行(かとうひろゆき)といいます。両親の転勤で、この学校に来ることになりました。よろしくお願いします」
 教室のいたるところから拍手が起こる。こういうとき、学校というのは不思議な場所だと思う。誰かが作文を教壇で発表するたび、運動部が県大会に出場するたび私たち生徒は拍手をする。しかし、拍手をする生徒のうち、本当にめでたいと思っている生徒は、何人いるのだろうか。学校で喜びを分かち合うことなど、形骸化した儀式に過ぎないのではないだろうか。それは集団に交われない私だけが思うことなのだろうか。ふいに私の名前が呼ばれた。
「暗部」
 ハイ、と私は小さく手を挙げた。
「右の席が空いているな。火燈はそこに座りなさい。それから暗部は、火燈に学校のことを色々と教えてあげるように」
 教室中の生徒が一斉に私の方を振り向く。幾人かはにらみつけているのが分かる。私は先生の言葉を疑った。目立たない生徒であることは、四月から分かっているはずだろう。仕方なくため息をつきながら、小声で返事をした。
 先生が促すと、鞄が両サイドに引っ掛けられて狭くなった机の間を、颯爽と転入生が歩いてきた。確かに顔は整っているようだった。細面のくっきりした輪郭に、カットした眉。同年の男子と比べてもりりしい顔立ちに、大きい喉仏。机に鞄を下ろした彼がこちらを向くと、真っ黒な髪が開きっぱなしの窓から入る生温かい風に揺れて光った。
「火燈です。よろしくね」
 そう言うと、火燈くんは右手を差し出してきた。
「握手しよう」
 驚いて動けないままに視線だけで見上げると、火燈くんは笑ってもう一度手を伸ばしてきた。私もつられるように右手をそっと伸ばすと、彼は笑って手を合わせた。火燈くんの手はすごく白くてスベスベしていて、まるで女の子のような柔らかさだった。私は視線を窓にうつしてから、赤らめてしまった顔を制服にうずめた。

 放課後、下駄箱をそっと覗いて靴があるかどうかを確認してから、ほっとした私は靴を履き替え、校門まで足早に歩いていった。すると、校門に立っている人物がいる。火燈くんだった。見ない振りをして通り過ぎようとすると、彼は焦ったように、私を呼び止めた。
「暗部さんっ、ちょ、ちょっと待って」
 呼ばれてから二、三歩進んだところで、首だけで振り向く。
「先生から聞いたんだけど、僕と暗部さんて帰る方向が同じなんだ。一緒に帰りながら、学校のこと教えてくれる?」
 私が返事をせずに立ち尽くしていると、彼は不安げに「暗部さん?」と呼びなおした。
「止したほうがいいよ」
「え、なにを?」
「一緒に帰るの」
「どうして?」
「……私みんなに少し嫌われてるから」
 いじめられているとは、いえなかった。
「そういう風には見えなかったけど……」
「……。私先に帰るね」
「ま、待ってよ」
 向きなおしてまた歩き出そうとすると、手首を引っ張られる感触があった。私は首から頬がじわりと熱くなり、下を向いて靴を眺めた。
「ご、ごめん掴んじゃった」
「別に……それはいいけど」
「帰る人いないんだ」
 少しだけ、はっとした。火燈くんは、今日初めてうちの高校に来たばかりの転入生なのだ。興味半分で話しかけられることはあっても、まだ友達もできるわけがないのだった。引っ越して間もない彼は、土地勘もほとんどないのかもしれない。
「あ、そっか……ごめんね」
「謝らなくていいよ。それより、一緒に帰ってくれる?」
「それは止めた方がいいよ。私と話してると、友達できないよ……」
 火燈くんは、俯きがちな私を見ながら、不思議な笑顔を浮かべている。
「あはは。そんなの気にしないよ。いいから、帰ろう」
 彼は私の背中を軽く押して、歩みを促した。仕方なく私は、校門から駅のあるメインストリートの入り口まで続く、両側を田んぼで占められた広いあぜ道を、火燈くんとゆっくり歩き出した。道は夕焼けで赤々と染まっている。
「暗部さんは、下の名前なんていうの?」
「……見咲です」
「そっか、いい名前だね。僕の名前は広行。土地が広いのヒロに、行くのユキ。なんとも普通の名前でしょ」
 火燈くんがほぼ一方的に喋って、私がときどき返事をしたり、頷いたりしながら、最寄の駅を目指した。私がぎこちない素振りで、つたない言葉で話しているのに、彼はとても楽しげだった。なぜそれほど楽しくしていられるのだろう。聞いてみようともしたが、なかなか言葉が上手く出てこない。この喋りの鈍さが一番嫌いな部分だった。早く何か喋らないと。頭ではこうしてたくさん考えているのに、言葉にしようとすると喉のところでつっかえてしまう。私は次第に単語で返事をするに留めるようになり、ついには頷きもしなくなってしまった。
 駅に着いた私たちは、プラットホームで重い時間を過ごした。出会ったばかりの転入生に対して、なんてそっけない態度なのだろう。そして、なんて私は馬鹿なのだろう。電車に乗ると、私は自己嫌悪にさいなまれながら流れる景色を見ていた。きっと火燈くんはもう私と帰らないだろう。
 しかし、電車が最寄の駅に近づいて速度を落とし始めた頃、彼は意外な言葉を発したのだった。
「今日は楽しかった。ありがとう」
 私はあまりの驚きに、言葉を失った。教室で自己紹介をしたときそのままの、くったくのない笑顔で語りかける火燈くんは、
「次の駅で降りるから、ここでお別れだけど……。今度から、ヒロって呼んでくれたら嬉しいな。僕もミサキって呼んでいい?」
 そういって笑った。
 足元を見失いそうになりながら電車を下り向きなおると、黄色いドアがゆっくりと閉ざされていった。滑るように動き始めた電車の中、ドア越しにこちらを見つめる火燈くんを目で追いかけながら、私は頬を赤らめてこくりと頷いた。火燈くんは口を大きく広げて、「じゃあね、ミサキ」といっているようだった。
 いよいよ速度を速めた電車が、火燈くんを隣の駅へと連れ去っていき、その影が見えなくなった頃、私は抑えていた制服のスカートから手をどけ、その手を胸に当ててみた。鼓動は早まり、息は短くしか吐けなくなっている。
「ヒロ……」
 一言呟いただけで、首筋が熱くなってしまった。ホームから家路を急ぐ人たちが去った後も、私は暫く動けなかった。

 一週間もしないうちに、一年生の女子たちはヒロのファンクラブを作ったようだった。運動もできるし、頭もいい。なのに決して威張ることはなく、他人を立てる彼は、男子からも信頼を置かれつつあるようだった。一方で、私とヒロは毎日一緒に帰るようになった。本当に意外なことだったが、あの日以来私たちは仲良くなったのだ。
 他の女子に見られると、彼までクラスの人たちから見放されると思いつつも、ささやかな願いを抑えられなかった私は、校門を出て少し歩いた場所にある橋のたもとで待ち合わせをして、一緒に帰ろうと提案をした。彼は女子の目など一切気にしないといってくれたが、それだけは譲れなかった。
 最初はヒロが例のごとく一方的に喋り、私が頷くだけだった会話も、日が経つにつれて少しずつバリエーションが増えていった。私の中で、変わり始めたものがあったのだろうか。ヒロは私のつたない喋りを、話し終えるまで丁寧に聞いてくれた。途中で私の言葉が引っかかって中断してしまうようなことがあれば、ゆっくりと相づちを打って最後まで興味を持ってくれるのだ。ヒロは話を聞く天才なのかもしれない。ヒロは私をミサキと呼び、恥ずかしかったけど私も彼をヒロと呼んだ。声に出して男の子の名前を呼び捨てにするのは、私の人生において初めてだろうと思う。家族でもない男性を名前で呼ぶことに特別さを感じてしまうのは、普通の高校生ではありえないことなのかもしれない。我ながら古風だと思ったが、彼はにこやかな口調で、「いいことだと思う」といってくれた。それにしても、高校に入学してから、初めて本当の友達ができたような気がする。多恵とはもう話していないし、既に多恵は私の中で過去形になってしまったから。高校という暗闇に灯った一つの明かり。それがヒロなのかもしれなかった。
 また、放課後以外でも変化は起きつつあった。休み時間に何気なく話しかけてくるヒロを見ていたクラスメイトが、つられて私とヒロの会話に入ってくるようになったのだ。もう望まなくなっていた願い。クラスの人たちとのお喋り。進展することはなかったが、それでも私にとっては充分すぎる変化だった。ヒロがもたらしてくれたものは大きい。そして、彼自体の存在が大きい。

 3

 月曜から降り続いた雨は水曜日になっても止まずに、校門のロータリーにある花壇の花々を痛めつけた。見事に咲いていた赤や白のアマリリスが、首をもたげて雨滴を耐え忍んでいた。季節は既に梅雨へと移ったのだった。
 私は眠い目をこすりながら、昇降口の階段を上がりつつ傘を閉じた。
 昨夜、ご飯もお風呂も済ませてしまった私は、居間でテレビをつけたまま、本を読みながらお兄ちゃんの遅い帰りを待っていた。心配して携帯電話にメールをしても、お兄ちゃんから返事は返ってこなかった。結局彼が帰って来たのは、十二時を過ぎた深夜だった。傘を無くしたという電話があったので、帰宅時間に合わせてお風呂が沸くようタイマーをセットしたあと、私は玄関にて待つことにした。帰宅が遅くなるのは予備校で自習をしているからと理解しているが、こんな時間になるまでやっていたら、翌日に影響して元の木阿弥だろうと思う。お兄ちゃんは頼りがいのある一方、少し時間にルーズなのだった。
 そんな不満を漏らしながら待っていると、玄関の鍵を開ける音がした。パーカーもジーンズもずぶ濡れになったお兄ちゃんだった。よれよれと腰を下ろした彼は、お酒の匂いを漂わせながら鼻歌交じりに「ただいま」といった。まだ未成年なのに。私が眉をひそめながらそのこと注意すると、お兄ちゃんは笑っただけで言葉を発しなかった。仕方なく思いつつ、用意しておいたバスタオルを肩にかけてあげる。ふと気づいたことがあった。お兄ちゃんの首に、いつものチャームポイントがない。ヘッドホンが首に下がっていないのだ。聞けば電車で失くしたという。私はいよいよ腹が立って、ぐしゃぐしゃと彼の髪をタオルで拭いた後、食事の用意だけして部屋へと戻ってしまった。まったく妹の心労を、お兄ちゃんは今ひとつ理解しきれていないのか。部屋に戻ったとはいえ、こうして耳をそばだてて様子を気にしている私がいる。もう少し分かってくれたらいいのに。そんなことを考えながら、ベッドで横になった。時折ゴトンと音がすると、何かに体がぶつかった痛みを声にするお兄ちゃんを気にしながら、そのうち私のまぶたは下りていった。
 いつの間にか寝てしまった私が、深夜に目覚めてから学校の宿題をし終えたときには、すっかり朝になっていた。昇降口で階段を上がり損ねて手をついてしまったり、今もこうして欠伸が漏れるのはそのせいだ。お兄ちゃんへの不満はまだ収まっていない。愚痴でも聞いてもらおうとヒロのことを思いながら教室に入って席に着くと、彼は神妙な面持ちで近づいてきた。
「今聞いてきたんだけど、軽音の人が変質者に遭ったらしいよ」
 欠伸途中のだらしない口元を手で隠しつつ、顔をヒロに向ける。
「軽音楽部の男子?」
「そう……あ」
 ヒロが破顔して、目線を上げた。
「その赤いピン、可愛いね」
 私は赤い光沢のあるピンを髪につけていた。実はヒロと仲良くなってから、周りの空気感が少しだけ良くなったことに気を良くした私は、教室のみんなに気づかない程度で、お洒落をし始めたのだった。それにしても、ヒロは細かい所に気がつく。
「あ、ありがとう……。それで、変質者ってどういうこと?」
「ああ。首を絞められたんだって。あそこの橋の付近で」
 あそこの橋とは私たちが帰りの待ち合わせをしている場所で、学校の周囲を取り巻く田んぼに水を供給する用水路にかかる、小さな橋だった。特に名前はつけられていない。私たち生徒は登下校時、必ずそこを通るのだった。ヒロの話によると、昨日の夜六時頃、音楽室で個人練習をしていた軽音楽部の男子生徒が、部活を終えて帰る際に、学校を出て橋の辺りまで行ったところ、突然後ろから首を絞められたという。
 私は軽音楽部に良いイメージを持っていなかった。音楽自体はとても素敵だと思う。私自体音楽が大好きだし、お兄ちゃんの影響でインディーズ系の音楽を聞くのにも抵抗がない。しかし彼らが実際におこなっていることは音楽活動といえたものではなく、極まれに音楽室から聞こえてくる演奏の音もひどいものだった。しかも彼らは私を率先していじめていたように思う。あるとき、下駄箱で靴が盗まれていた悲しみをこらえ、苦虫を噛み潰して顔を上げると、昇降口にはちょうど去っていく軽音楽部たちの背中があったのだ。一人が私の靴を、汚い物を扱うように指先でぶら下げていた。
 多恵と話さなくなる前に聞いた話だが、彼らの目的は演奏にあるのではなく、女子に気を引くための口実ただそれだけのことだった。異性から好かれたいという気持ちは悪くないと思う。しかし、それは実力を伴ってのものではないだろうか。そして私は別の事実も知っている。私は見たのだ。授業の終わった夕方、下駄箱を抜け、校舎を出てから振り返った校舎の二階。埃立つ音楽室の窓際、多恵が誰かとキスをしていたのを。私の心から、多恵は完全に去ってしまったのだった。
「……怖いね」
「橋のところにあまり居ないほうがいいのかもしれないね」
 ヒロは周りの様子を伺いつつ、耳元に口を寄せてきた。
「待ち合わせ場所、変える?」
「ううん。どちらかが長く待ったりとかもないし。大丈夫」
「そっか」
 二、三言交わして、ヒロは去っていった。細やかな気づかいがヒロらしいと思いつつ、耳には彼の息の感触が残っていて、どうにもこそばゆくなってくる。私は自分自身の気をそらそうと、彼の背中を見ながら、お兄ちゃんのことを考えた。この話を聞いたら、どんなに驚くことだろう。この手の話が好きな彼は、きっと興味津々で詳しく聞いてくるに違いない。先ほどまでの不満はどこ吹く風で、私の気持ちは騒いでいた。

 その日の帰り道。橋で待ち合わせをしたヒロと私は、饒舌になっていた。今朝聞いた変質者騒ぎについて、ヒロはあれこれと想像を巡らせ、私はその突拍子もない空想にお腹がよじれてしまうほど笑った。ヒロは想像力が豊かなのだと思う。本当に、彼には欠点が見えない。それだけに、ヒロと話し終わった後は彼がどうして私と仲良くしてくれるのか、不思議に思ってしまう。ときどき理由を尋ねてみたくもなるが、書いたメールはそのまま保存ボックス行きになる。
「でもさあ、一応変質者がいるっていうのは事実なんだから、少し気をつけないといけないかもね」
 ヒロは眉毛を逆さ八の字にして、さらに付け足した。
「僕もミサキも帰宅部だから変える時間は同じだけどさ。この近くに変質者がいるのだとしたら、迂闊にしてちゃいけないよね」
「そうだけど、駅までヒロと一緒でしょ? だから心配はしてないよ」
「はは。頼られると嬉しいね」
 ヒロは住まいが同じ市内だが、最寄の駅は一つ違う。私が先に電車を降りるのだ。彼は暫くの間、家まで送りたいと提案した。私はあまり気にしてなかったが、男の子としてはそういう気持ちになってくるのだろうか。悪いと思う反面、彼がとても頼もしく思えて、私はせっかくの厚意を受けることにした。
 私たちは一緒に駅を降りた後、ロータリーの先に広がる商店街の中を突き進んでいった。家が見え始めた矢先、私は家の前に誰かが立っているのを見つけた。お兄ちゃんだった。今朝までの不満が既に去ってしまっていた私は、勢い良く声をかけると、彼は気づいてこちらに近寄ってきた。
「おかえり」
「驚いた。お兄ちゃんから先にそういってもらうなんて」
「あはは」
 互いの顔から自然に笑みがこぼれる。暫く談話していると、ヒロが肘でつついてきた。しまった。お兄ちゃんをヒロに紹介しなくては。
「火燈くん、兄の智信です」
 私が紹介すると、ヒロは丁寧にお辞儀をした。お兄ちゃんはにやけたまま挨拶をすると、「彼氏?」と私に囁いた。思わず顔から火が出そうなる。
「同じクラスの火燈広行です。ミサキさんに、いつもお世話になっています」
 お兄ちゃんは目を見開いて驚くと、
「お前、友達ができたのか! ……そうか」
 柔和な笑みを浮かべて、喜んでくれたのだった。
 私は恥ずかしさのあまり、あたふたとしながらうんと頷いた。お兄ちゃんは喜びをかみ締めるように、肩を震わせている。本当に喜んでくれているようだった。私に友達ができたことの特別さを、誰よりも分かってくれているのだ。
「妹を、よろしくお願いします」
「こ、こちらこそ……」
 深々と頭を下げたお兄ちゃんにつられて、慌てたヒロはそれよりも深くお辞儀をした。それを見た私は、嬉しさと恥ずかしさでむず痒くなってしまった。
 街灯はいつの間にか灯り、気がつけば日は落ちて、私たちの顔も闇に溶け、おぼつかなくなっていた。
「じゃあ、今日はここで帰ります。ミサキさんまたね」
 ヒロはにこにこしながら振り向くと、夕闇の奥にゆっくりと消えていった。
 その夜、ヒロから来たメールを読んだ私は、顔を枕にうずめてしまった。
「ミサキがあんなに楽しそうに話してるの、驚いた。今度は僕にもあの笑顔見せてね」
 
 週末になると、太陽が雲の目を盗んで僅かに顔を出した。帰宅部の私とヒロは、運動場で汗を流す陸上部を横目に、二人で校門を出た。土曜日は特に皆帰る時間がまばらだった。私たちは橋を渡り、日差しに蒸れた草むらを避け、水溜りを飛び越しながら、田んぼのあぜ道を軽快に歩いていた。そして、その歩くリズムよりも私の胸は早く脈打っていた。今日はヒロが私の家に来るのだ。お兄ちゃんが、友達なら一度家に来てもらうべきだろうと私を促したのだった。私は照れながらも、もちろん快く同意した。ヒロにそれを伝えると、彼も快く応じてくれた。
 家に着くと、さっそくヒロを部屋に案内した。買っておいたクッションに座ってもらうと、そそくさと台所に行ってお菓子とお紅茶の準備をする。といっても、お菓子は今月の初めに駅前の商店街にオープンしたケーキ屋さんで、帰り際にヒロと一緒に買ったものだった。部屋に戻ると、正座を崩さないまま行儀良くじっとしたヒロがいた。私はそれを見て笑ってしまった。
 暫く雑談していると、隣の部屋から心地良い音楽が壁を通して聴こえてきた。お兄ちゃんが久しぶりにギターを弾いているのだろう。いつ聴いても、その演奏の上手さは変わらない。さすがにプロの演奏と比べてしまうと、テクニックにおいては甘い部分があるが、一音一音のニュアンスを弾き分けるのが丁寧なお兄ちゃんの演奏は、贔屓目でなくとも充分に素晴らしい腕前だった。ヒロも音に気づいたらしく、どうやら聞き入っているようだ。
「お兄ちゃんが演奏しているんだけど……聴こえる?」
「うん……」
「どうしたの? ぼーっとしちゃって」
「あ、いや。凄く綺麗な音色だね……」
「はは。でしょ? お兄ちゃんはギターが上手いの」
 聞けばヒロも以前からギターに興味があったらしいが、周囲に演奏している人もいないから、始めあぐねているということだった。そんなことを聞いて、私の頭に名案が浮かんだ。
「……お兄ちゃんに、聞いてあげよっか?」
「何を?」
「ギターをやってみたいのなら……。お兄ちゃん予備校あるけど、暇なときならヒロに教えてくれるかもしれない」
「まじで。ホントに?」
「うん」
「じゃ、じゃあさ、今聞いてみてよ」
「いいけど……、ヒロの華奢な手で弾けるのかな」
 ヒロは茶化したのも気づかずに、そわそわしながら期待の目を寄せている。仕方ないという素振りを見せつつも、ヒロの喜びように嬉しくなった私は、彼を連れてお兄ちゃんの部屋に入ると、さっそく手短に話す。一も二もなく、お兄ちゃんは願いを聞いてくれた。可愛い妹の頼みを聞かない兄など、どこにいようか。
 ヒロにギターを持たせると、お兄ちゃんはさっそくドレミを教え始めた。ギター初心者は、左手と右手を交互に見ながら弦の位置を確認するため、そのつたなさが際立ってしまう。私は二人が熱心にギターを眺める様子を見ていると、お兄ちゃんが私の前で、初めてギターを弾いたときのことを思い出した。彼は、最初から演奏が上手だった。
 ふと気がついた頃には、ヒロはドレミファソラシドが弾けるようになっていた。飲み込みの早さに興奮したお兄ちゃんは、ギターの細かな知識を披露し始めた。こうなってしまったらもう、口が止まらない。ヒロが聞き上手なこともあってか、お兄ちゃんはひたすら饒舌だった。
 たとえば、アコースティック・ギターは六本のスティール弦が張られると、ネック、つまり左手で弦を押さえる部分にはだいたい五、六〇キロを越える圧力がかかるらしい。それだけ弦の力は強いから、一気にはずすと、ネックの部分が場合によっては傷んでしまう。他にも、弦は錆びやすいから二週間も過ぎたら張り替えたほうがいいなどと、予備知識もないヒロにとって、馬耳東風に聴こえるだろう話を熱心に語った。お兄ちゃんの財布が、弦のためにすっからかんになっていることを知っている私は、その話を聞くたびに苦笑してしまう。
 そのうち、お兄ちゃんはとっておきのギターの自慢も始めた。例の曰くを語り始めたのだ。ヒロは興奮した面持ちで、凄い凄いと目を輝かせた。饒舌なお兄ちゃんももちろんだが、そんな彼と意気投合してしまうヒロもヒロだ。気分だけは既に一人前のギタリストのつもりなのだろうか。私は二人に呆れながら、その様子を微笑ましいと思うのだった。
 夕闇が訪れて、ヒロの帰宅時間となった。結局彼はギターの練習よりも、お兄ちゃんの語る知識の方を多く吸収して帰ったようだった。お兄ちゃんはヒロに、ギターを買う際の注意点と、そして毎週土曜日なら教えられることを伝えた。私はそれを横で聞いて、耳が熱くなってしまった。ヒロが毎週くるなんて。
 玄関でヒロの後姿を見送ると、お兄ちゃんが語りかけてきた。
「ヒロくんて、いい人だね」
「お兄ちゃんもそう思う?」
「ああ。妬けるねえ、ヒロくんを見るお前の目」
「ば、ばっかじゃない」
 私はプイとそっぽを向いて、部屋に戻った。

 4

 衝撃的な出来事だけが、突然起こるのではないと思う。たとえ嬉しいことであっても、悲しいことであっても、それらのディテールを眺めれば分かることがある。必然も偶然も、それほど差異のあることではないのかもしれない。
 人が、殺された。
 変質者の騒ぎから、まだ数週間も経過していないこの学校の傍で。あの橋のたもとで。私たちはその犯人を、もはや変質者とは呼べない。同一人物であったとしても、全くの別人であっても、私たちその橋を通るものに対して、学校に日々通うものに対して、犯人はさらなる脅威を持ったのだった。
 学校は朝から慌しかった。体育館で緊急集会が開かれ、校長は先日の変質者騒動との因果関係に触れつつ、殺された男子生徒を弔った。被害者となったのは、またもや軽音楽部の生徒。そう、かつて春先に私のことをいじめていた内の一人だったのだ。下駄箱を開けると空間を埋め尽くしている雑巾、教室のドアを開けると一斉に静まる声、体育着には何かで湿った後。一つ一つを反射的に思い出すたび、私の胃は重くなり、憎悪の念に駆られた。殺してしまいたいと思ったこともある。しかし私はそうしなかった。殺してしまいたい理由とは別に、殺したくない理由がいくつもあったから。
 午後の予鈴が鳴る前には、既に学校中で噂が駆け巡っていた。同じ変質者の犯行だという説、新手が現れたのだという説。そして、生徒の誰かがやったのだという説。軽音楽部の生徒に好意を持つ女子は少なくないが、同時に敵意を持つ生徒もいるはずだった。私の中で遠い過去となった多恵や、彼女の他にも軽音楽部と付き合いだして、短い期間で振られる女子は絶えないと聞く。当然その中には、自分と入れ代わりに付き合い出した女子や、当の男子に対して恨みを持つものだっているだろう。
 しかしそんな類推とは裏腹に、噂は私を追い込んでいった。あくる日になると、私に疑念の目を向ける人が現れ始めたのだ。たしかに私だって、恨みを持っていないといえば嘘になる。でも私がそうでないことは、皆本当は分かっているはずなのだ。いじめに耐えた時間が、学校に来て授業を受け、誰とも話さず休み時間をやり過ごしていた事実が、私ではないことを証明しているはずなのに。悲しくてしょうがなかった。五限目が終わった際に、背中に飛ばされた紙飛行機。書いてあったのは〈お前だろ〉の四字。それを見て、目頭が熱くなった。私は思い切り叫んで、ヒロに声もかけないまま教室を出た。靴を履き替え、校舎から駆け出した。所詮私はみんなの輪に加われていなかったのだ。ヒロがせっかく築き上げてくれた小さな砂の塔さえ、私には守る力がなかったのだ。無力感に襲われる。俯きながらあぜ道を歩く。
 不意に何かにぶつかった。勢いのままに、私は体勢を崩した。踏み出していた左足が膝から崩れ、持っていた鞄が振り子のように後ろへ投げ出され――体は地に落ちず姿勢を保ったまま、体は泥一つつかなかった。背中には私の体を支える腕。まぶたを開くと、ヒロが驚いた顔をしていた。彼が支えてくれたのだった。
「大丈夫?」
 背中から伝わる僅かな温もりは、私の体に浸透すると、膨張した空気となって肺や胸を満たした。腕を伸ばしてヒロに泣きついた。ヒロは私をゆっくりと起こしてくれると、何も言わずに手をとって歩き始めた。温かい手の感触。ヒロが大きい。私の全てに思えてくる。私はヒロが好きなんだ。そう自覚した。
 家に帰ると私は疲れ果て、寝てしまったらしかった。学校のことを思い出し、宿題も手につかないまま眠りこけていたことに気づくと、椅子から立ち上がった。午前零時の時計が鳴った。そのとき、階下から玄関の鍵を開ける音が聞こえてきた。お兄ちゃんが帰宅したようだった。階段を下りて呼びかけると、彼は疲れ果てたように両腕をぐったりと下ろし、靴を脱がずに座っていた。首から提げているはずの、ヘッドホンもない。
「お帰りなさい。どうしたの? 予備校疲れた?」
「いや……うん」
「昨日も遅かったじゃない」
「最近忙しいんだ。今度全国模試があるから」
「大変だね……。あれ? ヘッドホン持っていかなかったの?」
「……昨日なくしたんだ」
「また? そっか……疲れてるんだね」
 お兄ちゃんは首だけ私に向けて、苦笑いをした。
「あのね、お兄ちゃん」
 私が今日の出来事を話そうとすると、彼は靴を脱ぎながら「すまない」といって階段を上がり、自室のドアを閉めてしまった。そうして今夜、部屋から一歩も出ることはなかった。私は突き放されたような気がして、いたたまれなくなった。
 お兄ちゃんはここの所、憔悴しきった様子で帰ってくる。夏を迎えるにあたって浪人生は本腰を入れ始めるのだろうが、果たしてここまで疲れて果てているものなのだろうか。まず様子がおかしかった。帰宅時間が一定している彼が時間を乱したのは、記憶している中ではたったの三回だけだった。一度目は変質者の騒ぎがあった日。二度目は昨日で、そして今夜で計三度目となる。昨日は軽音楽部の男子が不遇な目に遭った日だ。一、二度目とも、お兄ちゃんは騒ぎがあった日に遅く帰ってきた。果たしてこれは偶然の出来事なのだろうか。中学までは、努めて私を守ってくれていたお兄ちゃん。高校生になってから、私がまたいじめられはじめたことを知っていたお兄ちゃん。そんな私思いのお兄ちゃんが、私を守ろうとした挙句、いびつな方向に走ってしまったとしたら――。
 内臓が鳥肌立つような感覚を覚えた。まさかそんなはずはない。手に汗がにじんだ。普段温厚なお兄ちゃんは怒りにかられたとしても、いじめ相手に危害を加えることなど、考えられなかった。私を守ってくれることはしても、相手をやっつけるなんて一切しない人だったからだ。信じたくないことゆえに、もうしそうであったらという悪い予感が、蛇のように私の首を絞めつける。息苦しい。どうしよう。このことを誰に相談すればいいのだろう。私が心を打ち明けられる人は、一人しかいない。私は携帯電話のメールで、ヒロに呼びかけてみた。返事はなかった。もう眠ってしまったのだろうか。時計に目をやると、既に午前一時になっていた。しかし、眠りにつけるような冷静さは持てなかった。私はベッドに横たわりながら、明日ヒロに相談しようと朝を待った。
 翌日。目を赤く腫らした私を、ヒロは優しく慰めてくれた。頭をなでる彼の手が温かい。馬鹿な妄想とは受け取らず、真剣な顔で「そんなはずはない」といってくれたことが嬉しくて、涙が滲んだ。繊細で華奢で、がっしりとした体つきではないのに、今はヒロがとても男らしく思える。しかも私にわだかまりがあることを見抜いた彼は、こう告げた。
「僕も横についているから、お兄さんに聞いてみよう」
 お兄ちゃんに聞いてみるということは、犯罪者として一瞬でも見てしまった事実を打ち明けてしまうことでもある。ショックを受けてしまわないだろうか。
 ヒロは「素直に全てを打ち明ければ、大丈夫」といった。
「お兄さんは、誰よりもミサキのことを大切に思っているのだから」
 背中を押してくれるヒロの言葉が嬉しかった。なんて優しいのだろう。私の胸に生じた、かすかな勇気を大切にしようと思った。

 5

 土曜日、私たちは授業が終わると、いつものごとく橋のたもとで再会して、一路私の家を目指した。強張る私の顔を見て、ヒロは肩をつつきながら顔が怖いと茶化した。緊張が幾ばくかほぐれ、不安が僅かに融解する。
 ヒロと一緒に家に帰ると、お兄ちゃんはいなかった。余裕の見えたヒロでさえ、家が近づいてくると無口になってしまったが、それも私の部屋で暫く時間が経過すると、緊張を忘れようと楽しくしゃべる私たちがいた。もしこのまま帰ってこなかったら、今日はもう聞くのをやめよう。そう思った。
 時刻は四時を過ぎていた。相変わらずお兄ちゃんは帰ってこない。手持ち無沙汰になったのか、それとも本当は最初からいいたかったのか、ヒロがギターを弾きたいと遠慮がちに呟いた。例のギターは勝手に触れると、お兄ちゃんが不機嫌な顔をする。私はそれを危惧したが、ヒロに頼まれると断ることはできなかった。そういえば、お兄ちゃんがいないときに部屋に入るのは、初めてかもしれない。私の心に軽い冒険心が湧き上がるのを感じた。
 お兄ちゃんの部屋は白いベッドと黒いテレビ、そしてあのアコースティック・ギターとその周辺道具があるだけのシンプルな落ち着きだった。当然、他人を想定してのクッションなどもなく、私は机の椅子に腰を掛け、ヒロにはベッドに腰掛けるよう促した。通常ならば、お客さんを椅子のほうに座らせるのが常識なのだろうが、お兄ちゃんは小学校以来同じ椅子を使い続けているため、座る部分の布は破れ、すわり心地がひどく悪いのだった。家族とはいえ、実の兄ではないお兄ちゃん。物を欲しがらないのは、そのことを気にかけているからなのだろうか。少しだけ胸が締め付けられる気がした。私が意識していない、私たち家族とお兄ちゃんの間にある境目を、彼だけが感じていたのだろうか。
 ヒロはギターを見つけると、壊れ物に触れるように丁寧に持ち上げ、感嘆のため息をもらした。よほど気に入っているのだろう。もしかしたら、彼もそのギターに、お兄ちゃんと同様の価値を感じているのかもしれない。私は苦笑した。透き通る良い音色、綺麗なメロディライン。一曲引き終わった後で、練習したんだと得意げにいうヒロが可愛らしく思えた。
 そうしているうちに、胸中に悪戯心が芽生え始めた。今この時間の内に、お兄ちゃんが犯人でない証拠を探すことを思いついたのだ。何も見つからなかったら、聞くのは一切やめよう。そう判断した。
「勝手に探すのは、良くないよ」
 ヒロは兄弟といえど、プライバシーの侵害は良くないといった。私は口を尖らせて、「そのくらいで怒らないもん」とクローゼットを物色した。
 証拠は見つからなかった。気になっていた例のヘッドホンはなかった。当然お兄ちゃんが出かけている今は、部屋にあるはずがないのだ。他にも何か探そうとしたが、部屋には本当に物が少なかった。結局、証拠らしい証拠を見つけることができずに、時間だけが流れた。やはりお兄ちゃんが犯人だなんて、そんなわけがないのだ。ヘッドホンだって、本当にたまたま失くしたに違いない。疲れてしまった私は、机の中の物を広げてしまった椅子に座ることができずに、ベッドでギターを練習しているヒロの左隣に腰掛けて、音色を聞きつつ、安堵の息を漏らした。窓からは落ち始めた太陽が、部屋をだいだい色に染め上げている。壁、床、ベッド、机、全てが綺麗なオレンジ色だった。横を向くと、ヒロの顔が夕日に映えて、陰影が端正な顔立ちをさらに際立たせていた。お兄ちゃんが帰ってきても、問いただすのはやめようとヒロに提案した。ヒロは無言で頷くと、ギターの演奏をやめて、「面白い話があるんだ」と呟いた。
「こないだ、お兄さんから聞いたあの噂だけど、ネットで調べたら面白い事実を見つけたんだ」
「えっ……何のこと?」
「未成年が殺人事件を起こしたっていう話だよ」
「ああ、その話かあ……」
 思わず吹き出しそうになった。ヒロもついに、お兄ちゃんと同じ道を歩み始めてしまったらしい。やっかいなギター好きが、私の周りに増えてしまった。
「犯人は、親と一緒に保養のために引っ越したわけではないらしいんだ。事件を起こした事実は、その町に家族が留まることを許さなかったらしい……。彼らは町の人の目に耐えられず、追い出されるように引っ越したんだって。そして暫く後に母親は他界。犯人は児童施設に送られたんだけど、母一人子一人だった彼は、引っ越すときに失われてしまったギターを母の形見として、今も探している。誰にもとられたくないっていう強い母への異様な愛情から……」
 私は驚いた。お兄ちゃんが、リサイクルショップの店長さんから聞いた話とは少し違っているみたいだけれど、噂自体は本当だったのだ。
「お兄さんは、ある意味すごいギターを持ってるんだね」
 ヒロは笑わせようと落ちをつけた。
 私はあまりにもその落ちがつまらなくて笑ってしまった。
 二人で笑った後で、暫くの沈黙。
 ヒロは膝に抱えていたギターを床に置くと、私のすぐ傍に座りなおした。そっと手が重なる。緊張で強張る膝。ヒロが私の手を包み込むように握ると、男の人のゴツゴツとした手の感触の中で、固まっていた私の指々がほどけていった。触れた部分に私の意識が集中して、そのうち首筋から頬が熱くほてってくる。私たちは向き合うと、少し顔を近づけたところから、あとは自然と吸い寄せられるように唇を寄せた。
 初めてのキスだった。ヒロが私の頬に左手を寄せてくる。ギターで硬くなった指先とは裏腹に、彼の手の平はとても柔らかく、ピタリとくっついた部分が熱を持つ。溶けてしまいそうな感覚。互いが惹かれあうように、キスは続く。
 あれ……。
 何か……何かが違う。唇はこんなに熱いのに、胸はこんなに揺らされているのに……頭はなぜか冷えている。違和感が頭の奥に芽生え始めている。気になる……。何が気になっているのだろうか。自分で自分が分からない。
 そうだ。
 ヒロの手のゴツゴツとした感触。ギターを始めて間もないヒロの手が? まさか。疑念が腰を回って首へとよじ登る。ヒロが舌を入れてきた。ねっとりと絡みつく舌と舌。思考を止めさせるような熱さ、痺れ。私は彼の思いを受け止めながら、頭をフル回転させようと感覚を外に追いやった。ギタリストは練習を重ねるうちに、左手の指先がなめし皮のように硬くなる。しかし練習したとはいえ、ヒロの手がギタリストのそれと同じになっていることはありえない。なのに、彼の手に感じている熟年のギタリストのような感覚はなんだろう。彼の手は華奢な女の子のような手だったはずだ。初めて握手をしたときの感覚ははっきりと覚えている。けれど。握手をする手はどっちだ。私たちは右利き。すると華奢だと思っていたのは、右手……。
 ヒロが急に唇を離した。私は思わず体勢を崩して前のめりになってしまう。もしや私の変化に気づいたのだろうか。彼は顔を上げると、目を見開いてから視線を落とした。不意に腰を落としてギターに触れると、ペグをゆっくりまわしていく。一つ、また一つとほどかれていく弦。
 それを見て、私の体から血の気が引いていくのが分かった。軽音楽部の生徒が、ギターの弦で首を絞められていたとしたら……。
 ほどいた弦を右手で束にして、表情が固まったままのヒロは、何かを囁こうと口をパクパクさせているが声は出ていない。心臓が伸縮を繰り返し、暴れだそうともがきだす。私はヒロを突き飛ばした。そうして、半ば腰を抜かしつつも、四つんばいで部屋を出た。転がるように階段を下り、靴さえ履けぬまま私は家を飛び出した。
 犯人が分かってしまった。私は虚脱感と失望に打ちひしがれながら、あてどなくひたすら歩いた。ヒロだったのだ。私のことが好きなあまり、軽音楽部にいじめられていたことを知っていたヒロは、彼らに復讐をしたのだ。私が二度といじめられないように。なんてことだろう……。
 彼はとんでもない間違いをしてしまったのだ。私はそんなこと望んでいない。私はヒロがいてくれれば生きていけたのに。彼を思い浮かべると、あれだけ見慣れていたはずなのに、知らない人のような気がしてきた。私の部屋で、ギターの弦を握り締めた彼は、私の知っているヒロではなかった。ひどく強張った表情をしていた。あんな顔はヒロじゃない。彼らしくない。
 でも……。私の知っているヒロとはなんなのだろうか。そもそも、私は彼のことを深く知っていたのだろうか。
 胸中で、淡い思い出と絶望が入り混じった。
 校門で交わした何気ない会話。初めて一緒に電車に乗ったときの戸惑い。ヒロの屈託ない微笑み。ミサキと呼んでくれたこと。私がヒロと呼んだこと。ヘアピンを褒めてくれたこと。私の部屋でお喋りしたこと。お兄ちゃんと楽しそうに笑っていたこと。私をかばってくれたこと……。一つ一つの思い出がよぎるたび、愛しかった過去がガラリと表情を変えた。一通り思い出した後には、胸に居座っていた彼への思いが消え、空虚だけが残った。彼の私への執着が、今は気持ち悪く思える。もしかしたら、私は騙されていたのではないか。転入してきたとき、私が教室で孤立していた様子を見抜いたヒロは、私に取り入ろうとしたのではないか。そもそも、私の彼への思いは、初めから幻だったのではないだろうか――。
 雨が降り始めた。私のまぶたは開いていたが、視点は定まらず、辺りの景色はぼやけていて良く分からなくなっていた。どこを歩いているのだろうか。分かったことは、梅雨の夕日が急速に沈み、既に私を照らしていないということだけだった。

 どれくらいの時間が経過したのだろうか。夜のとばりが下り、遠くに転々と住居の明かりが見える。靴下のままの足は泥で重たくなり、砂利で傷ついたのか、じくじくと痛い。辺りは田んぼで、私が歩いているのはあぜ道だった。次第に見慣れた橋が見え始めると、ここが学校の近くであることが分かった。知らぬ間に私は何駅分も歩いていたのだ。歩き続けていた時分には、喪失感の一心で気づかなかったが、私の疲労は恐らく限界にまで達していた。私は橋のたもとに腰をかけ、膝を抱えてうずくまった。涙と目ヤニが乾ききって閉じにくくなった目をこすりながら、夜空を見上げた。大きな満月が、川岸にある木々の間から見える。雨は既に止んでいた。
 背中で声がした。私は振り向かずとも、それが誰なのか分かった。私の名前を呼ぶのは、この世界にごく僅か。振り向くと、お兄ちゃんが涙を浮かべながら、ようやく見つけたといった。胸が締め付けられられるように熱くなって震える。お兄ちゃんは、予備校で夏期講習の申し込みがあって、遅く帰宅したところでヒロを見つけたといった。彼は兄の姿を目に留めると、そそくさと部屋を出て行ったらしい。
 顎が震えて上手く喋ることができなかったが、私は一部始終をお兄ちゃんに語った。最後の言葉を吐き出したとき、口から熱いものが出たように、少し楽になった気がした。私の失望を彼は優しく受け止めてくれた。お兄ちゃんの存在が、何者よりも大きく思えた。
「そんなわけないじゃないか。偶然だよ。ヒロくんはギターを買ったっていってたし、きっと一生懸命練習したんだと思うよ」
 お兄ちゃんは後ろから手を回して、私の肩を力強く抱いた。枯れ尽くしたと思っていた涙が、堰を切ったように溢れて落ちる。
「お兄ちゃん……。私にはやっぱりお兄ちゃんしかいないよ……」
 私は厚い胸に寄りかかった。懐かしい匂いがする。目を閉じて温もりを味わうと、何も考えられなくなった。
 不意にジャージのポケットが震えだした。携帯電話が鳴っている。取り出すと、私は恐怖でそれを放り捨ててしまった。視線を向けると、着信画面にはかつてカメラで撮ったヒロのいやらしい笑顔。お兄ちゃんは私を固い腕で抱きながら、片手を伸ばしてそれを拾った。「でてみなよ」とお兄ちゃんがいう。何でそんなこと……を。私たちには、もう関係ないのに。
「大丈夫だから、出てごらん」
 お兄ちゃんは着信ボタンをそっと押した。かすれた声で、ヒロが叫んでいるのが聞こえてくる。手を添えられながら、私は電話にでた。
「どこにいるの? 聞こえてる?」
 聞くだけで、吐き気を催すヒロの声。
「ギターを良く調べたんだ。お兄さんなんだよ。お兄さんがやったんだ」
 言っていることが分からない。彼はおかしくなってしまったのだろうか。
「キスしてるとき、気づいたんだ……。ミサキが出ていってしまった後、ギターを調べたら、ピックガードの裏に手紙が挟まっていた。母親から子供に宛てた手紙が出てきたんだよ。軽音楽部の連中が殺されたのはきっとお兄さんのことを昔追いやった……」
 ピッと音がして、声が切れた。
 お兄ちゃんが携帯電話を取り上げ、後ろに放り投げた。
「ヒロくんがネットで調べたのも、所詮噂話だよ。あの事件の犯人は、母親が他界したあとで、親戚の家に預けられた。そして、そこで何不自由なく育ててもらった」
 お兄ちゃんは何でも知っている。そうだ、ヒロはまた私を騙そうとしたのだ。どこからのくだらない噂を信じて。全く腹立たしい。噂なんて知らない。
「お兄ちゃん、大好きよ」
 私は後ろを振り向いて、お兄ちゃんと視線を合わせた。お兄ちゃんの他には、もう何もいらなかった。息苦しく、熱いものを首に感じたが、気にせず私は目を閉じると、そのまま広い胸に沈んだ。至福の思いに漂いながら、私の意識は静かに薄れていくのだった。


                                              了


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