『電気羊の夢を見る者たち』

『電気羊の夢を見る者たち』

著/秋田紀亜

 フィリップ・K・ディック著・浅倉久志訳『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(DO ANDROIDS DREAM OF ELECTRIC SHEEP? by Philip K. Dick) を読んで思い付いたことをつらつらと書いてみます。傑作は読む度に発見があり、多様な読み方ができます。このコラムは、あくまで秋田がこのように読んだ、このようにも読めるという感想です。


 このSF小説は、一九六八年のフィリップ・K・ディック(*1)の代表作です。押井守監督『攻殻機動隊』もイメージを借りているリドリー・スコット監督のSF映画の傑作『ブレードランナー』(一九八二年)の原作です。
 ちなみに、『ブレードランナー』では、「レプリカント」(*2)と呼ばれるものが、この作品では「アンドロイド」「アンディ」と呼ばれます。SF用語である「アンドロイド」を、現代俗語らしく「アンディ」と呼ぶところがおもしろいです。
 この作品は四〇年近く前の作品ですが、気分的に現代日本に通じる作品です。

 舞台は <最終世界大戦> 後、多くの人間が他の惑星に脱出した、放射能雨が降る地球のアメリカです。最終戦争で最初に死滅した動物がフクロウというのも象徴的です。フクロウはローマ神話の知恵と芸術の神ミネルヴァに仕える使者であり、欧米文化では知性の象徴とされます。哲学者ヘーゲルは「ミネルヴァのフクロウは黄昏に飛び立つ」と言いましたが、この小説では「ミネルヴァのフクロウは宵闇に死に絶えた」のです。
 暗い近未来というイメージ。これは、未来と言えば明るいというのが主流の当時のSFとしては、珍しかったようです。
 プロットや雰囲気のベースには、ハードボイルドの形式を使用しています。火星から逃亡してきた奴隷アンドロイド八人の首にかけられた莫大な懸賞金を狙って、市警察の安月給の賞金かせぎ(バウンティ・ハンター)が狩りを始めます。
 あらすじだけ読んだら、よくありがちな「SF+ハードボイルド」ですが、内容は都市で暮らす現代人の不安と苦悩を表現しています。

 ディックの手法の最大の特徴は、「アンドロイド」「火星」など、パルプSF(*3)の時代からあった手垢にまみれたSFガジェット(小道具、道具立て)を使って、文学的テーマを表現するところでしょう。「文学SF」とも言えます。

「ガラクタを使って芸術品を創った」

 これは伝説的なSF作家アルフレッド・ベスター(*4)の作品を評した言葉ですが、ディックや、クエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』、庵野秀明監督『新世紀エヴァンゲリオン』にも共通します。富野由悠季監督『機動戦士ガンダム』もそうでしょうか。
 ガジェットの使い方としては、例えば冒頭、主人公リックの倦怠期っぽい夫婦が、「情調オルガン」という一種の感情制御装置を扱うのですが、アメリカ人の使う精神安定剤か麻薬のようです。あるいは、人間達は「共感ボックス」というバーチャルな世界で、マーサーという教祖の言葉を聞く(*5)のですが、これもアメリカのテレビ伝道師(*6)のようです。
 ハードSFと呼ばれている本流のSFでは、作品内の小道具に一つ一つに科学的説明が付けられるのが常ですが、ディックのSFにはそういうことは全くありません。ディックにとっては、あくまでそのガジェットを使って何を表現するのかが大事なので、そこらの感覚は文系的と言えます。

 では、この小説で表現しているのは何でしょうか。
 主人公夫婦だけでなくこの世界の人々は、本物の動物を飼うことに憧れていますが、経済的に難しいので、機械動物で我慢しています。動物は単なるペットの域を越えて、人々の生きがいや夢にまでなっています。全財産をはたいてまで、動物を飼おう(買おう)としています。
 人々は、都市の中で人工的な物に囲まれて生きています。生きがいや夢までもが、機械仕掛けになっているのです。
 この作品のメインテーマは、「人間とアンドロイドの違いは何か」です。
 そのための判別テストが出てきます。テストには、生化学的なものと心理学的なものがあります。主人公が使うテストは、感情移入度を調べるものです。アンドロイドは、人間に比べて感情移入度が低いと考えられているためです。
 しかし人間とアンドロイドの違いは極めて微妙なもので、とうとう主人公は自分自身に対して判別テストをかけることになります。自分で自分に質問を読み上げて、その反応速度を計るこのシーンは、なかなか笑えます。このような「他者だけでなく、自己に対しての懐疑」が、この作品を現代的なものにしています。

「人間に似せて作られた、機械でできたアンドロイド」
 これは、「本物と偽物」「オリジナルとコピー」の違いという普遍的なテーマにつながります。
 人々は人工的な都市の中で、機械を使って精神を調節し、救済され、機械の動物を飼うことで心を休めますが、その状況に対する疑問もあります。
 そして、リックは人生自体が宇宙の本質から外れた偽物ではないかと疑います。このように、登場人物たちは誰もが「本物と偽物」の中で苦悩をしています。

 そして「本物と偽物」「オリジナルとコピー」は、「文学に似せて作られた、ガジェットでできたSF」と置き換えて読むこともできるかと思います。
 この小説に出て来る「アンドロイド」「火星」などのSFガジェットは、これが書かれた時代にもSF的には既に古臭いものでした。小説の全編にそれらをちりばめることで、この小説はどこから見ても「SF」だと自己主張をしています。さらに、パルプSF的な安っぽさ、作り物っぽさまでが演出されています。このようにある種自虐的に「SFらしさ」を身にまとっています。
 そうした中で、小説のテーマは「人間とは何か」であり、人間性の追及をしているのです。これは文学の古来からの中心的なテーマであります。
 SF的なガジェットの小説で「人間とは何か」と問う作者ディックの姿勢は、機械に囲まれた都市で「人間とアンドロイドの違いは何か」と問う主人公達の姿に重なります。
 主人公をはじめとするキャラクターは、作者がSFというジャンルでやろうとしていることの写し絵であるかのようです。
 このように、主人公=作品=ジャンル=作者と重ね合わせてみると、「アンドロイドに、人間のような心はあるのか」というテーマは、「SFに、文学のような人間を書けるのか」という問いにも見えてきます。アンドロイドというSFガジェットを通して、SFというジャンルを語っているわけです。
 だからこの小説は、SF自身について語るSF、すなわち「メタSF」でもあります。

 さらにアンドロイドとは「SF」だけでなく、それに関係している人間である「SF作家」「SFファン」にも見えてきます。SF作家やSFファンというのは、SF小説を大量に読む人達で、まさに人工的な環境で生きる都市住民の最右翼であり、空想の世界に生きる人達です。
 これは今風に言えば、オタクでしょう。一九八〇年代初期、「オタク」という言葉が中森明夫によって「発見」されたのはSF大会ということにも示されている通り、空想の世界に生きるSFファンは、オタクの源流であると考えられるからです。
 つまり、アンドロイドは単なるSFガジェットではなく、現代都市住民、特にその中でも人工的な物に囲まれて生きているSFファン(オタク)を戯画的に書いているようにも思えるのです。
 かつて火星には高度な文明が存在したと考えられていて、E・R・バローズ等の冒険SFの舞台ともなりました。しかし、この小説の火星は草木も生えない地獄です。そこに住むアンドロイド達は、皮肉にも、古いイメージの火星人が出て来る昔のパルプSF・冒険SFを読んでいるのです。
 今の高度に科学的で乾きすぎた現代SFに耐えられないSFファンが、昔の非科学的で荒唐無稽で冒険物語的なスペースオペラを読むように。あるいは、現実の不毛さに飽き足らないオタクが、幻想の世界に夢を見るように。
 このように、ディックはSFガジェットを書くことを通して、都市に住むある種の現代人(オタクのルーツ)を書いているかのようです。もちろんそれは、作者ディック自身の姿でもありますが。

 同じようにオタク的な文化について言及した作家として、手塚治虫の存在を挙げたいと思います。
 手塚治虫は差別をよく作品のテーマとしたと言われ、「『鉄腕アトム』はロボット差別を通じて、人種差別を訴えた」などとよく評されます。果たしてこれは正しいのでしょうか。手塚治虫は人種差別を訴えるために、マンガやアニメ作品を作っていたのでしょうか。
 そうかもしれませんが、私は違う読み方もできるのではないかと思います。手塚治虫は日本のストーリーマンガやテレビアニメの創始者であり、生涯をマンガとアニメに捧げた作家です。そして、その地位の低さに憤慨していたことでしょう。このロボットというのは、実はマンガとアニメを指しているのではないでしょうか。
「ロボットだって人間と同じだ。差別するな」というアトムの叫びは、「マンガは小説より下ではない。アニメは実写より下ではない。マンガやアニメを差別するな」という手塚治虫の叫びではないでしょうか。
 手塚治虫にとっても、ロボットはマンガやアニメやそのジャンルの作家のメタファーとも読め、そのあたりは手法的にディックと似ています。

 主人公リックは、アンドロイドの女性レイチェルを好きになり、とうとうセックスまでします。そして、アンドロイドを機械ではなく生物と認識し、殺せなくなります。人工的な幻想の美少女にハマってしまったわけです。
 私などが読むと、一般人にまでコスプレ少女萌えが広がっていく、現代日本の姿のようです。ちなみにコスプレ文化も、元を辿ればアメリカのSF大会に行き着きます。リックは、アンドロイドのレイチェルに「萌え」てしまったのです。
 しかしクライマックスで、リックは仕事上、最後の指名手配のアンドロイドを殺します。

「そうか、おまえも彼女を愛してたんだな。そして、おれはレイチェルを愛してた。あのマル特(*7)は、もうひとりのレイチェルを愛してた」

 リックにとっては、アンドロイドの女は皆レイチェルであり、とうとう愛することができる対象になったのです。アンドロイド同士、人間とアンドロイドの間の愛が、物語上でわずかに確認されたところで、アンドロイド達は全員殺されます。
 ここまで来て、「アンドロイドに心があるのか」という問いの答えは出ました。
「人間とアンドロイドの違いは何か」の問いから始まった物語は、「人間にもアンドロイドにも愛はある」という結論に達します。

 ラスト、アンドロイドが出演者のテレビのお笑い番組が「マーサー教は俳優とセットで作られたいかさま」と告発します。お笑い番組とテレビ伝道師は、視聴者の心の獲得という競争をしているのです。
 マーサーは偽物でしたが、マーサーの言葉自体は真実として生き続けます。容れ物は偽物でも、内容は本物だったということです。
 主人公リック夫婦の生きがいである、全財産をはたいて買った生きている本物の羊は、レイチェルに殺されます。アンドロイドは「嫉妬」をしたのです。感情を持ったのです。
 リックが外で喜んで拾ってきたヒキガエルも機械だと分かりますが、夫婦の仲は戻ります。妻は幸せな気分で、夫のために機械のヒキガエルを注文します。お互いの存在で心を満たされあっている二人にとっては、動物が生物か機械かは既に関係の無いことなのです。

 このハヤカワ文庫解説に収録された後藤将之氏の評論は卓見です。

 ディックは、「アンドロイド」と「人間」の形式上の区別には関心がない。コピーも原物も、親切であればすべて本物である。
 (中略)
 彼が問題としているのは、人間と機械の、その双方における、「人間」性および「アンドロイド」性の対立の構図である。
 従って、長編『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』においても、そこに「人間」として登場する者も、「アンドロイド」として登場する者も、全て、「人間」であり、かつ「アンドロイド」でもありうる。

「アンドロイド」と「人間」を「文学」と「SF」というジャンル論的に読み替えて見る本稿の論旨にからめて言うと、表面的なガジェットやジャンルの形式上の分類だけで区別するのではなく、作品で表現された内容こそが重要ということでしょう。
 人間ではないキャラクターでも、人間性=親切=愛は表現でき、立派に感情移入はできるのです。使い古された一見安っぽいガジェットでも、現代人の心情が投影できる斬新な世界観は作れるのです。

 以上をまとめたものを、以下に図示します。

[図]形式的分類と内容的分類の対比

 このようにして、先人の作家たちは自分の作品を通して、周りの現実的な人達と違って、幻想の世界に惹かれる自分達を表現してきたと言えるでしょう。メタオタク作品のルーツと言えます。
 現在のオタクブームの火付け役とも言える庵野秀明監督『新世紀エヴァンゲリオン』でも、「オリジナルとコピー」というテーマが出て来ますが、「神と人間」だけでなく、「人間とクローン」「人間と人形」というモチーフを使っており、「コピーも心(内容)を持つことができるか」がテーマの一つとなっており、ここに『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の影響を見ることができます。
 二〇〇五年現在、オタクがブームのようになっています。巨大匿名掲示板2ちゃんねる発の本『電車男』が映画・テレビドラマ化され話題となり、メイドカフェが毎日のように深夜番組で取り上げられています。
 オタクが「浸透と拡散」(*8)をした現代においては、現代人の誰もが、一般人と言えどもどこかオタク的な部分を持っているとも言えます。『エヴァ』の影響を受けている現代のオタク達にも、ひいては全ての現代人にも、示唆に富む物があるのではないでしょうか。




*1 フィリップ・K・ディック (Philip Kindred Dick, 一九二八年一二月一六日-一九八二年三月二日)アメリカのSF作家。シカゴに生まれたディックは、カリフォルニア大学に入学するも兵役忌避のため退学。一九五一年に処女短編『ルーグ』を発表。以降、一五〇編以上のSF短編・長編を著した。一九六二年に発表した長編『高い城の男』でヒューゴー賞を受賞。経済的にはあまり恵まれず、離婚と結婚を繰り返した。SF作家としての評価は高まっていったが、神経症の治療からアンフェタミンを常用した時期があり、自殺未遂も数々起こしている。後に薬物とは縁を切る。一九八一年に総決算とも言える『ヴァリス』、『聖なる侵入』を発表。一九八二年三月二日に心臓発作で死去。五三歳だった。その年の夏、ディック作品初の映画化となる『ブレードランナー』が公開された。一九八三年に、ディックを記念して、フィリップ・K・ディック記念賞が創設された。これは、その年にアメリカでペーパーバックオリジナルとして出版されたSFが対象となる。(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

*2 レプリカント 語源はおそらく「REPLICA」+「-ANT」 replica=[名]1…レプリカ:原作者自身による自作の写し。2…(一般に)模造品、複製品、写し。生き写し。[形]折り返した[重ねた] -ant=(形容詞・名詞を作る)「…性の」「…する人[もの]」 replicate=[動] 1…を模写[複製]する。2〈葉などを〉折り返す。3…を繰り返す。4…と返答する。〔自〕折り重なる。

*3 パルプSF アメリカで一九二〇~四〇年代に黄金時代を迎えた、安手なざら紙を用いた大衆向け雑誌(パルプマガジン)に載っている、荒唐無稽な宇宙冒険物(スペースオペラ)が主流の読み物。

*4 アルフレッド・ベスター (Alfred Bester、一九一三年一二月一八日-一九八七年九月三〇日) アメリカ合衆国の小説家、SF作家。代表作は、『分解された男』『虎よ、虎よ!』『コンピュータ・コネクション』

*5 マーサー教 共感ボックスを使い、石ころをぶつけられながら山登りをする、ウィルバー・マーサーという老人との精神的心霊的な同一視をともなった肉体的融合が再現される。石ころによる傷の痛みと山登りは、この世の不条理、苦難、孤独、無意味の象徴と思われる。教祖を通して、感情移入と共通の集団感情の体験を得られる。アンドロイドは共感ボックスを使えない。

*6 テレビ伝道師(説教師) (テレヴァンジェリスト televangelist)アメリカで、テレビを通じて神の言葉、福音を伝える伝道師。専門テレビ局もある。主に南部を拠点とし、数千万人といわれる視聴者を引きつけて保守層を支える一大政治勢力となっている。一九二〇年代末、ピッツバーグでのラジオ放送が始まった数ヵ月後にはすでに宗教番組があった。一九五二年レックス・ハンバードがテレビの前に群がる群衆を見て、テレビ伝道を開始した。代表的説教師は、ビリー・グレアム、オラル・ロバーツ、レックス・ハンバード、ジェリー・フォルウェル、ロバート・シュラー、パット・ロバートソン、ポール・クラウチ、ジム・ベイカーなど。(引用元:http://web.maizuru-ct.ac.jp/human/yosinaga/rands/preachers/

*7 マル特 特殊者(スペシャル)。 <最終世界大戦> の死の灰によって、遺伝子に悪影響が出た者。

*8 浸透と拡散 一九七〇年代当時の日本のSFの現状を表した言葉。日本万国博覧会、小松左京の『日本沈没』、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』、映画『スター・ウォーズ』などが社会現象となり、SFの浸透と拡散が起こった。



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