『バッド・ログ』

『バッド・ログ』

著/星野慎吾

原稿用紙換算50枚


   1


 酔っ払いなんてのは始末の悪いもので、楽しい気分に浸ってしまうと簡単な動作さえぶっきらぼうになってしまう。それ自体は多少目を瞑ってやってもいいのだが、しかし昨日の俺については許せるものではないだろう。なにせ今、俺の机の上には見事に液晶部分の砕け散ったノートパソコンが突っ伏していて、その愛機を壊したのは紛れもなく、昨晩泥酔して帰ってきた俺自身だったのだから。恐らく。多分。いや絶対そうだよな……。
 パソコンがなくては家に仕事を持ち込むこともできないので、仕方なく新しい物を買ってきた俺は、今日の夕方帰宅すると、さっそく液晶の破損したパソコンにフラッシュメモリを挿してデータの移行を開始した。だが取り出すことができたのは、数種のテキストファイルのみだった。はぁ……ハードディスクもやられていたのだろうか、計百キロバイトにも満たないそれらのファイルを眺めると、正直泣きそうになってくる。中身の確認も面倒になった俺は、気分を変えようとネットに繋いだ。さすが値段の張るマシンはパワーが違うのか、今までは情報量が多く表示に時間のかかったウェブサイトでも、このパソコンでは途端にブラウザ上に広がった。
 一息ついたところで日課を忘れていた俺は、ネット小説や書評をコンテンツにしているサイトの巡回を始めた。もう名前は忘れてしまったが、昔仲の良かった友人に感化され活字好きとなった俺は、今でもその趣味を続けていて、つまりネットを読書趣味の延長上で使用しているのだった。カチカチとマウスでリンク先をクリックする度に、即座に表示されるウェブサイト。しかし更新されていたのは唯一、とある書評サイトのリンク先にあった、アマチュア文芸誌のサイトだけだった。多少がっかりしてしまったが、期待せずに説明書きを一読して発見したのは、何とも面白い趣向だった。なんとこの文芸誌、律儀にも創刊号以来PDF版が用意されていて、小説を縦書きで読めるらしいのだ。ふふんと鼻を鳴らした俺は最新号をダウンロードしながら、興味にかられてWEB版の目次を目で追った。どうやら毎号テーマを変えているのか、今回は特集として実験小説が三つ載せられているようだ。はて、実験小説とは前衛的なようで漠然としてるがどのようなものだろう。俺は試しに題名からして最もつまらなさそうな一つを選び、読んでみることにした。後の二つはきちんと読みたいから、ダウンロードが終わり次第縦書きで読もうと思ったのだった。
 小説は次のように始まっていた。

『――どこで打ったのか、肩にできた青あざ。ズキズキと頭も痛い。そしてなによりこの気持ち悪さ。テレビで見た芸能人の名前が思い出せないような、喉元まで出かかっているウズウズとした気分の中、俺は今語っている。きちんと整理しながら書き留めれば、何かを思い出せるような気がする。仕方がない。最初から順に追って行くことにしよう。まずは中上との出会いについて。
 たしかあれは、当時野球部に所属していた俺が生意気だという理由で、先輩たちに怒られ、グラウンドの片隅で声出しをさせられているときだった。夕焼けの照らす校舎を後ろに、理不尽な思いをしながらも結局しめの部分で逆らえなかった俺は、好きな子の名前を大声で叫ばされるという罰を受けていたのだった。何とも恥ずかしいことだが、既に他の同輩もやらされていたから、俺だけがやらないってわけにはいかなかった。
 そんな俺の姿をポツンと立ち止まって見ている下校途中の生徒がいて、それが中上だったのだ。
「見てんじゃねえよ」
 最初にかけた俺の言葉は、随分ぞんざいだったと思う。
「ごめん。大変だなぁと思って」
 中わけの髪を掻き分けながら奴は口を開いた。背は俺と同じくらいで、日焼けしていない顔は夕陽を浴びても白かった。奴の影が、俺の元まで伸びていた。
「いいから、見ないでくれよ」
「何で樋口さんの名前ばっかり叫んでるの?」
 まるで見たこともない代物に出会ったようにキョトンとしていた中上は、俺の言葉を無視していくつか質問をしてきたのだった。
「それは……お前には関係ねえよ」
「あの人美人さんだよね」
「ああそうだけど……、ていうかお前俺と知り合いだっけ?」
「ううん。そう言えば話したことはなかったね」
 中上と俺と、俺が叫んでいた樋口由愛《ひぐちゆめ》は同じクラスだった。しかしこいつはどこか浮いていて、テストの成績が良いのに運動の方はからっきし。休み時間に本を読んでいるような大人しい生徒だった。つまり俺とは対照的な存在で、余計な言葉を交わしたことがない。
「もしかして、声出しってやつ?」
「……そうだよ。分かったなら早くあっち行け。先輩にまた怒られるし」
「あはは、ああそうかごめん」
 野球部の練習は秋季大会を控えていたため、季節の深まるこの時期こそがメインとも言える。既に太陽は沈みかけていて、一部の運動部の連中ぐらいしか学校に残っているものはいなかった。そこに軽い救いを覚えていたのだが、見事に同じクラスの生徒と出会ってしまったことは、俺にとってこの上なく不都合なことだった。
「じゃあ頑張ってね」
 奴が帰ろうと背中を向けたとき、俺は念を押して頼んだのだった。
「樋口の名前を叫んでたこと、内緒にしてくれるか?」
「うん」
「さんきゅ……」
「君が好きなことだけは内緒にしとく」
「てめえ」
 そのままゆったり歩き去る中上を見ながら、奴は最初から声出しがどんなものかを知っていて、俺に話しかけてきたのだと悟った。俺はばつが悪くなって、次の日教室でもう一度念を押すことになる。それが友達になったきっかけだった。
 しかしそれだけと言ってしまえばそれだけで、その二日間以降俺たちはまた知り合いからただの同級生へと戻ることになる。学校で会えば暫く言葉を交わすこともあったが、俺は秋季大会と樋口のことで頭がいっぱいだったし、中上は中上で塾に通い始めたから、つまりは時間が合わなくなったのだった。
 一方、俺が声出しで名前を出した樋口由愛は、今更語るべくもない俺の幼馴染だった。長めの髪を可愛らしく編みこんで、身長は周りの女子に比べると小さいものの、目鼻立ちのくっきりとしていてクラスでも目立つ存在なのだ。近所という理由だけで腐れ縁のように続いた仲は、中学に至って男女を意識し始め、俺たちは付き合っていないものの日曜日には二人で買い物に行ったり公園で遊んだりして、むずがゆい関係を楽しんでいた。クラスの連中に幼馴染だということを隠しているのも、何だか秘密を共有しているようで優越感があった。
 この頃はまさに俺の全盛期だったのだ。それから先にある延々たる下り坂など知る由もなく。

   2

 肩がこれ以上酷使できないことを知らされたのは、十月の秋季大会が終わった翌日のことだった。三年生とそりの合わなかった俺は、それまで実力のみを頼りにして何とか生き残ってきた。投手の代わりはさほど数もいなかったが、忠誠心のある一年生を推す先輩たちの意見をかいくぐり、ここまでエースとしてやってきた俺の肩は、つまり限界を迎えていたのだ。医者は長期の休養を俺に促したが、それが引退を意味することはすぐに分かった。今だからこそ淡々とこの頃のことを語れるが、打ちひしがれた当時の俺はそれからというもの、誰彼声をかけられても振り向かず、野球部の連中を見かけると逃げるように距離を置き、授業が終わるとすぐに学校を立ち去る毎日をおくった。声をかけられること自体が嫌だったのかもしれないが、それよりも全く肩のことについて触れずに話しかける連中に気を遣われている気がして、俺はそのことに耐えられなかったのだ。だから暫くはゲーセンに行ったり、本屋で立ち読みをしたり、由愛や少数の友人としか会わなかったし、先のことなんて考えなくなるようになっていた。
 そんなときに中上と再会したのは、俺にとって幸運だったのかもしれない。
 ある日ある夕方、駅前のゲーセンを出た俺は暇つぶしの種もなく目的のない散歩をしていて、中上が歩いているのを見かけたのだった。ここは駅から住宅街へとなだらかに続く坂道。当初、奴は塾に行く途中なのかとも思われたが、それにしては遅い時間帯で既に日は落ちている。そのまま後をつけると、公園に至ってベンチへと腰かけた中上は膝の上にノートパソコンを広げ、なにやらキーを叩き始めた。俺はそれを遠くから見ていたが、声をかけないのもなんなので近づきながら挨拶した。
「よう」
 中上は気のぬけた声で手を振り返した。
「あ、君かぁ久しぶり」
「あぁ、久しぶり」
「こんな時間に何してたの?」
「そりゃこっちの科白だよ。お前、塾の時間じゃなかったっけ?」
「あはは、サボってるんだ」
「ふうん。そうか」
 言いながら、俺はドスンと中上の隣に座る。
「有名校とか、目指してるんじゃないのか?」
「いや、最近の授業内容は簡単なところだからつまらなくてね」
「お前頭いいもんな」
「まぁそういうわけじゃないけど」
 中上は俺の方を向かずに話していた。奴の視線は手元のパソコンに向かっていて、何やら柔和な笑みを浮かべている。
「……お前、さっきからそのノートが気になってるみたいだけど、塾の予習か何かか?」
「そうじゃないよ。さっき買ってきたんだこれ。知らない?」
 そう言って目の前に差し出されたパソコンの画面には、可愛らしいフォントで『交換日記』と書かれているウインドウが表示されていた。
「交換日記って、お前……。何かダサいな」
 少し眉をひそめた俺に、中上は鼻で笑った。
「ええっ。君知らないの? 学校で超流行ってるんだよ。クラスの人が休み時間にフラッシュメモリを交換してるの、見たことない?」
「全然。最近は休み時間には寝てるしなぁ」
「そう言えば、放課後もすぐ帰っちゃうみたいだね。野球部はどうしたの?」
「あぁ、辞めたんだ」
「えっ。君、エースだったんじゃないの?」
「まぁそうだったんだけど、肩が故障しちゃってね」
「……そうかぁ、聞いて悪かったねぇ」
「いや、別に気にしてないんだ。周りの奴に意識されるとウザイけどな」
「そかそか……。なら気にしないでおくよ」
「そうしてくれ」
「ふうんそうかそうか。……じゃあ、ちょうどタイミングがよかったね」
「ん? 何が」
「だから、交換日記だよ」
「はぁ?」
「僕としてみない?」
 言いながら、奴の目がにわかに輝きを帯び始める。
「だせっ。お前男が交換日記なんてだせえよ。あはは」
「阿呆だなぁ君」
 思わずこけそうになってしまったが、奴はそのまま話し続けた。
「この交換日記ソフト、今学校中で流行ってるんだってば。クラスの男子見てみ? みいんな休み時間とか放課後とかにフラッシュメモリを交換してるから。あれの中身にはこのソフトが入っていて、みんな日記を交換してるのさ。してないと逆にダサいよ。女子は言わずもがなだし」
「えぇ……。なんで流行ってるんだよ。全然意味分かんね」
「流行るのに意味なんてないよ。みんながやってるから流行るのさ。昔のものってリバイバルして、周期的に流行るもんなんだよ」
「へぇ。でも俺はやらない」
「ぶっ。やろうよ。君野球部辞めたんなら暇してるんでしょ? 放課後ゲーセン行ってお金もないのにたむろってるくらいなら、よっぽどましさ」
「……なぜお前、俺がゲーセンに行ってることを」
「僕もたまに行くからね。あはは」
 そんな調子で俺たちは薄暗い時間から、とっぷりと闇が落ちて公園のライトが煌々と光るまで話し合い、説得された俺は交換日記をするハメになってしまったのだった。
 三十分ほど喋ってから、公園の入り口で俺たちは分かれた。中上が住んでいるのは駅の反対側で、つまり山の手に当たる高級マンションだった。対して俺の家はここからさらに二十分ほど下った坂の終わりにあった。
「それじゃあ書いてくるから、明日楽しみにしてなよ」
 中上が手を振る姿を見ながら、俺も振り向いてその場を後にした。
 ……とまぁ、そんな成り行きで半ば強引に始まった交換日記だったのだが、やってみるとこれが案外馬鹿にできない代物だった。中上は本をたくさん読んでいるらしく、日記の内容も物語のようになっていて、それを読むのが面白かったのだ。俺は受け取ったフラッシュメモリをパソコンに挿し、ソフトを起動してそれを読むたびにちょっとした満足感を覚え、俺の文章の下手さに軽くへこんだ。あいつの毎日だって、そんなに何かが起こってる訳ではなくて、端的に言ってしまえば学校に行って塾をサボるだけのことだったのだが、書き方がうまいのだ。俺はよく中上の日記を見たあとで、将来こいつは書き物の職業につくのかもしれないと、ぼんやり思ったものだった。そしてそれを見るたびに、俺の今までの全てだった野球を思い出した。
 
 ――それからどうしたんだっけなぁ。
 そうだ、思い出した。淡々と続けていた交換日記に、少し飽き始めた頃だったと思う。中上の日記は面白かったのだが、元から文章など書きなれていない俺は書くネタも段々と尽きてきて、正直に言って書くのが面倒になっていた。だが、ちょうど時期を同じくして書かれていた奴の日記の奇妙な部分に、思わず目を奪われたのだった。
 その日の最初に書かれていた、『樋口さんと昼休みにベランダで話した』という一節がそれだった。由愛は昨日の昼休み、その日記を読んだ前日は俺と一緒に先生の所に行っていたのだから、中上と会う時間なんてなかったはずなのだ。口裏あわせをして一緒になった俺たち美化委員は、その日給食が終わったらすぐに職員室に向かって、先生の指示を仰ぎながら美化新聞を作るための打ち合わせをしていた。それは五時間目の授業開始ギリギリまで続いてたし、俺と樋口由愛は教室に一緒に戻った。つまり中上があいつと会うには、時間が足りなさすぎるのだった。俺は漫画で埋もれた机の前で小一時間考えたあと、一つの結論を出すことにした。
 すなわち、中上も日記に飽き始めていてネタもなく、ついつい嘘を書いたのだ。
 ところが次の日フラッシュメモリを渡す時、俺はしたり顔でそのことを問い詰めたのに、中上はそれを強く否定した。それどころか、それを境に由愛について書かれた日記は多くなっていき、俺を戸惑わせたのだ。奴は俺が由愛を好きなのを知っているし、たまに俺を茶化すくらいだったから、俺と彼女の仲を分かっているはずだった。なのに今更持ち出すなど、意図が分からなかった。疑問符を頭に掲げた俺は週末に公園でデートをしたとき、念のため由愛に確認してみたが、彼女も出口のない迷路に迷い込んでしまった様子で俺を見返していた。
「中上君て……たしか同じクラスの?」
「あぁ。お前は話したことないだろうけど、退部してから仲良くなったんだよ」
「へぇ、意外。あの人秀才じゃん。全然折り合う接点がなさそうなのに」
「うるさいな。実はお前に隠していたけど、俺頭がよろしいんだよ」
「あはは。冗談が相変わらず下手だね」
 俺は不機嫌な振りをして、由愛の肩を軽く叩いた。
「でも交換日記って面白いよね。私今、友達三人とやってるもん」
「それぞれ三人と?」
「もちろん。女の子は書くこといっぱいあるんだよ」
「あるって言っても書きすぎだろ……」
「んー。まぁ私たちの場合は恋の悩みを書いてみたり、先生たちの悪口を書いたり、あったらいいなって思うことを書いたりしてるから……」
「あったらいいなって思うこと?」
「うんとね。例えば私の好きな漫画の主人公が、もっとこうなってくれたらいいなって思うことを実際に書いて楽しんだりとか」
「つまり根っからのオタクのお前が、好きな主人公の行動を勝手に創っちゃうってことか」
「根っから、は余計だよー」
 由愛はそう言い残し、二人で座っているベンチを立つと、ブランコの方に歩いて行った。
「ねぇこれで遊ぼうよぉ」
 とりあえず由愛が中上と会っている訳ではないのに少し安堵した俺は、解決しないままの疑問を置き去りにして、由愛と一緒にブランコに乗ったのだった。


 
   3

 頬をさすり俺をからかって、学校、駅、公園、坂道へと去って行った木枯らしは、同時にささやかな日差しを浴びる地面から温度を削った。俺の家から駅まで続く坂道に生えているイチョウが、黄色く紅葉して綺麗だった。
 季節が冬に変わったのだ。
 中上は相変わらず由愛のことを日記に書き綴り、俺は答えの出ない疑問を抱えていて、段々と鬱屈した気分が汚泥みたく胃の中にたまっていくような気分でもう嫌気が差し始めていた。中上のことが信じられなくなったのだ。あいつは性格上嘘をつく奴じゃないはずだった。なのにここまで俺と張り合おうとしているのは何故なのか、分からない。一つ思い当たることがないと言えば嘘になるが、それは中上にとって余りにも無謀な気がする。しかしそれが本当に当たってしまった時、俺は虚しさを覚えた。

『十一月二十日。晴れ。今日は樋口さんと一緒に帰った。これを書くと君に悪いかもしれないけど、正直に書きます。樋口さんは、僕がマンションの前まで送って行ったとき、ラブレターをくれました。どうも僕は好かれているようです。彼女のことを、君が気にいっているのは分かっているから、申し訳ないです。でも僕も樋口さんのことが好きなような気がします』

 中上が書いたこの日の日記に俺は正直腹も立ったが、可哀想な気分になった。奇しくもそのとき俺と由愛は、学校帰りに話し合い、正式に付き合おうと約束したから。
 翌日の二時間目の休み時間に、俺は中上を諭すように怒った。
「嘘なんて書くなよ。由愛はお前と一緒に帰ってないだろ?」
「だから……嘘はついてないよ。君も樋口さんのことが好きみたいだから、打ち明けるのはどうしようかと思ったけど……」
「馬鹿な。由愛はお前と喋ったことないって言ってたぜ」
「そんなぁ。じゃあ隠したかったのかな……」
 噛み合わないやり取りを続けているうちに予鈴がなって、俺はついに堪忍袋の尾が切れたのだった。握った拳に力が入る。中上はそれを驚いた様子で見つめてから、
「……もう、じゃあ書かないよ」
 とだけ言うととぼとぼと自分の席に戻って行った。俺はばつの悪い気分になったが、謝ろうとはしなかった。むしろ謝るべきは奴なのだ。俺は付き合ったことを報告して、一緒に喜んで欲しかったのだ。
 次の日からあいつの日記には、由愛のことが一切書かれなくなり、俺たちは会話をなくしていった。交換日記は続けたが、フラッシュメモリ一つ渡す際にも言葉はなかった。そして日記自体、盛りあがりのない平坦なものへと姿を変えた。由愛の一件をささいなこととは呼ばないが、みんなも何らかの経験の後で、日記を書かなくなるのだろうか。いや、それは違うのかもしれない。近頃では休み時間にフラッシュメモリを渡しあう光景もあまり見なくなった。俺は中上が以前言っていた言葉を思い出し、流行るのに理由がないのと同じで、廃れる理由も特にないのかもしれないと思ったのだった。日記をやめた生徒たちは、次の暇つぶしを見つけたのだろうか。
 放課後、俺は中上に日記を渡すため、教室から出て待つ間、廊下から校庭を眺めていた。秋季大会が終わり、次の部長も決まって早くも来年に向け精を出す野球部の面々は、二年生と一年生に分かれて紅白戦を行なっている様子だった。二年生のマウンドには、俺よりも肩が弱く、俺よりも制球力のある控えだった投手が、今やエースとして堂々と一年達を抑えている。物事の終わりのなんてあっけないことなのだろう。他の守備位置にコンバートし、打者として生きる道もあったはずなのに途中で投げ出した俺は、間違っていたのだろうか。
 肩をポンと叩かれたので後ろを向いた。いつの間にか、中上がそこに立っていた。久しぶりに一緒に帰る道すがら、俺はさっきの光景を思い出すうち、急に交換日記なんて代物がつまらなく思えてきた。一種の暇つぶしとして位置づけていただけだったけれど、由愛の一件では中上に翻弄され、弄ばれたような気分だった。あれから中上は平静を装っているのか、怒られたことを全く気にしていないのか分からなかったが、内気なはずのあいつは由愛のことを書きはしないものの、ちょくちょく小さい嘘を日記でついていた。俺はそれを見て一瞬ほくそ笑み、気分はすっかりうんざりしていた。それを中上は気づいていない。夕陽に照らされた俺の影は電柱にかかる度、大きくなってまた元の形に戻る。歩きながら、俺の心の中に日記なんて終わらせようという気持ちが強くなっていった。

   *

 ――普通に終わらせたのでは面白くない。何かやらかして、中上に衝撃を与えて終わらせてやろう。そう思ったのは、十二月に入ってからだと記憶している。近所の田んぼの跡にも霜が降りるようになって、夕方五時にはすっかり夜の帳が訪れていたからだ。
 俺は終わらせる過程の一環として、同じように嘘を書くことを思いついた。ただしあいつのように、その日のことに虚構を交えて語るのではつまらない。そこで俺は、中上の過去の日記を出鱈目に変えてしまうことにした。あまり目のいかないここなら、行きすぎがあってもばれないと思ったからだ。無論ばれたらばれたで、由愛のことで謝らなかった中上同様、突き放して止めてしまえばいい、それだけのことだった。
 俺は試しに一週間前に書かれた、奴の日記を適当に書き変えた。パソコンソフトはこういうときに、とても便利だと思う。これが紙の日記帳であったなら、きっと消しゴムで消して書き直すのも、過去の日記を検索するのも一苦労だろう。見ればその日の夕方、中上は本屋に寄って文芸書を買ったらしい。覚えていないのは、たぶん興味がなかったからだろう。これじゃあつまらない。ベッドで仰向けになりながら日記を探っていた俺は、机に向かうと、数分頭をひねって、奴が買った本をエロ本に変えてみた。最初から読み返してみる。

『十二月三日。曇り。今日はとても寒かった。帰りに本屋に寄って、以前から欲しかったエロ本を買った。この作者は描写が巧みで、読んでいると恍惚とした気分になる。万人にお薦めできるわけではないけど、僕は自信を持って面白いと言えるエロ本だった』

 俺は思わず飲んでいたジュースを吹いてしまった。うぶな中上がエロ本を読んでいるのだ。しかも、塾は当然サボったままで。エロい話題になると散々口をつぐんでいたあいつが自信を持って面白いと言えるエロ本だとは。俺は腹を抱えて笑い、ベッドの上をのたうちまわった。たちまち日記が面白く思えてきた俺は何度も読み返し、大笑いして疲れると適当に今日の分の日記を書き、床に就いたのだった。朝になって冷静に考え多少の悪気を感じたものの、中上にフラッシュメモリを渡して数日がすぎても、結局奴は何の反応もしなかった。それどころかなんとはなしに聞いてみるも、
「な、なんで知ってるの?」
 怒らずにそれきり顔を真っ赤にして俯いてしまう。今度貸すから誰にも言わないでと念を押された俺は、首を傾げつつも安堵して、気をよくしたのだった。そこから、俺の悪戯はエスカレートすることになる。
 俺の書き変えた日記の中で、中上はとんでもなく異様な変身を遂げていた。普段目立たない奴だからこそ、面白いのだ。学校の帰りにアパートで下着を盗むわ、本屋やスーパーで万引きするわ、太陽が昇る前に起きて町内を逆立ちで一周するわ、学校で校長の弱みを握っていて、顎で使ってるわ。実に面白い。最初にあった申し訳程度の罪悪感は、日を追うごとに俺の中から消えて行く。俺は自分の日記を書くより、中上の日記を改変することの方が明らかに楽しくなっていた。一応自分の方も書くものの、つまらなくて内容なんて覚えてやしなかった。いや、そんな程度ではなかったのだ。休み時間や放課後に中上と日記を交換したときから、家に帰って読むまでの間のことさえ覚えていない。ご飯や風呂のときにも気はそぞろで、それくらい読むこと、書き変えることに夢中だった。

   4

 ――最高の気分だったように思う。そして、俺は最悪だったな。
 ああ、次第に思い出していると気分が沈んでくる。でも俺は何かを思い出さなきゃいけない。こうして机に向かい、真夜中に明かり一つを眺めていると、急かされた気分になってくる。ちゃんと思い出さないと取り返しがつかない気がする……。それからどうしたか。気分が最高に乗っていたときの俺。たしか由愛と会ったんだ。
 
 日記の書き変えが楽しすぎて、イカレてしまうんじゃないかと思っていたが、それでも由愛にはときどき会い、着々と距離を寄せていた。特に野球を失ってからは、交換日記と由愛の二つが俺の毎日を占めていたように思える。
 クリスマスが近くなり、由愛からデートに誘われた。都会に比べると何にもない片田舎の町で、それでも夜になると、駅から続く坂道沿いにある商店街はライトアップされる。洋菓子屋は店頭に売り子をだし、ホールのクリスマスケーキを売るのに忙しい。揚げ物屋やひなびた婦人服屋でさえ、通常よりも人が入っているようで、この時期ならではの賑わいがそこにあった。駅ビルにもたれるような夕陽は、もうすぐそこから落ちそうだった。
 俺と由愛は寒さに肩をすくめつつ、距離をとって歩いていた。俺の茶色いダッフルコートのポケットには、いつもなら繋いだ手が入っていて汗ばむくらい暖かいのに、今日の由愛は一人で先に歩いていて、俺は早足で後を追いかけている格好だった。
 ダサいこの町で妙に浮いているチェーン店のお洒落なカフェ。その二軒のうち一つに、俺たちは入った。中学生がカフェなんてませてるけれど、その特別な緊張感で俺はドキドキとして、由愛と今ここにいる幸福感を味わっていた。
 コーヒーは苦いから紅茶を二つ頼み、クリスマスにはどこに行こうかと話していたとき、俺は会話の盛りあがりに乗じて交換日記のことを少し話した。彼女も友達同士でやっていて、今も続けている少ないうちの一人なのだ。
「ああ日記ね。まだやってるんでしょ?」
 熱すぎる紅茶に息を吹いて冷ましつつ、上目遣いで俺に聞いてくる。店内の暖気にほだされたのか、由愛の頬が赤く染まった。
「ああ、やってるよ。親しい奴が一人いるんだ」
「中上君のことだよね。前に聞いた気がする」
 俺は中上と喧嘩をしたままでいることは、由愛に話していなかった。親しい奴と自分で言っておいて、その言葉が自然と出たことに少しだけ驚いた。もうすぐ、仲直りの時期が来ているのかもしれなかった。
「よく廊下で話してるよね。私があなたを呼ぶときとか、中上君も会釈してくれるしね」
「ふうん。そうかぁ」
「ところで、日記面白い?」
「……ああ」
 クリスマスの予定を決めるはずなのにとだるく思いながらも、俺は日記という言葉を聴いただけで途端に吹いてしまった。
「急に、何?」
 と目を見開く彼女に、俺の最近の趣味について、笑いを抑えながら早口で喋った。
「一時はつまらなかったんだけどさ、あることを思いついてから楽しくって仕方がなくってさ。いやぁあることっていうのは、日記の書き変えなんだけどな。あいつの過去の日記を面白く変えちゃうんだよ。例えば、いきなり学校を休んで地球の裏側に旅行しに行ったとか、体育を休んだのは女子の着替えを盗むためとか……」
 俺の喋りは止まらなく、それどころかどんどん饒舌になって、今までにないくらい熱心に会話をした。対して由愛の表情は段々と曇り、俯いてため息をついたり、眉をしかめたりして、そのうち合いの手を入れることもなくなり彼女は黙り込んだ。彼女の変化に俺が気づいたのは、一通り喋り終えてからのことだった。
「……最低だね」
 喋りすぎたと思うには、余りに遅い俺。由愛はそんなことをするのは信じられないとでも言いたげに、俺を睨んでいた。
「それは……そうかも知れないけど。でも中上だって最低だったんだよ。俺だって何もなかったら、そんなこと思いつきやしないし。分かるだろ? 俺の性格」
「分かんない」
「じゃあ分かんなくてもいいよ。お前に話してなかったけど、ずいぶん前に中上と放課後会ったことあるかってお前に聞いただろ?」
「うん」
「あの時期、中上の日記にお前のことがたくさん書いてあったんだ。毎日。一緒に帰ってるだの、手を繋いだだの、俺のことをお前と中上でよく話すだの」
「……それで?」
「お前と付き合う約束をした日に、中上もお前からラブレターで告白されたってあいつの日記に書いてあったんだよ。だからお前に放課後会ったことある? って俺は聞いた。ないってお前が言ったから、やっぱり中上の嘘だったんだって確信して、あいつに怒ったんだ。でも中上は嘘なんかついてないって言った。……そういうことがあったんだから、俺が少しくらいあいつの日記をいじったって別にいいじゃん」
 由愛は俺の話を聞いている間、多少は表情を崩すものの、呆れたようなしぐさは変わらなかった。とにかく俺は精一杯、自分の正当性を主張し、日記を書き変えることなど瑣末な悪戯だと説得にかかったが、言えば言う程、彼女の肩は強張っていった。
「もう、会うのやめる?」
 言葉を尽くした俺の胃を千切ったのは、たった一言だった。
「ど、どうして。日記をいじるのが悪いことなら、じゃあもうしないよ」
「別にそんなことじゃない。それも辟易したけどね」
「ならどういうことだよ」
「あなた、最近変な噂が絶えないよね」
 由愛は友達から聞いたという俺の噂について、一気にまくし立てた。すなわち、俺はここのところこの商店街や学校によく出没しているらしい。本屋で万引きをしたり、スーパーで補導員に捕まったり、他校の女子を引っかけてカラオケに行ったり、あまつさえ夜の繁華街の路地裏で、その生徒とコトに及んでいたり、辞めた野球部への腹いせに部室を壊したり、引退した先輩部員の靴を片っ端からドブに投げ捨てたという。
 彼女は、言いながら声を震わせていた。俺には不思議とそれが、笑っているように見えた。俺が中上にしたことをそのまま繰り返すような、強烈な出鱈目を言って、会うのをやめると言った由愛自身の言葉を嘘だと言ってくれるのかもしれないと、俺は彼女に淡い期待を抱いた。
 しかし、何もジョークにならないまま言葉は続く。
「信じられなかったけど、全部本当なんだね」
「……俺がそんなことするわけねえじゃん」
「よく言えるね」
「言えるも何も、そんな奇行するわけないって。馬鹿じゃねえの?」
「じゃあ、昨日の放課後は何してたの?」
「昨日は……」
 何も覚えていなかった。記憶が不確かだ。放課後、中上と会って日記を交換してそれから……。
「言えないじゃん」
「き、昨日はまっすぐ家に帰ったよ。帰って日記を書くのが習慣だから」
「一昨日は?」
「……」
「やっぱりね。さいってい」
 一昨日のことも、覚えていない。風呂には入った気がするが、記憶が鮮明になるのは日記を開き始めてからだった。
「覚えてないけど……、そんな変なことは絶対してないって」
 俺の声は怒気を帯びていた。カフェに場違いなこの声が響き渡って、他の客が静かになった。流れているはずのBGMは、全く耳に入らない。
「なあ、俺のことまだ好きだろ?」
「はぁ? 気持ち悪い」
「信じられないのかよ」
 由愛が立ちあがって、俺を上から見下ろした。
「私も、実際見たんだから」
 彼女はそれだけ言うと、椅子を立ってカフェを出て行った。
 そして俺は絶望した。
 日記なんかのただの遊びにかまけていて、俺は何を失ったのか。二つの紅茶はすっかり冷めて、飲む気もせずにカフェを出た。陽が落ちて、通りにはクリスマスに向けて設えられた飾りが並木道を彩り、金色の電球が駅まで続いていたが、俺の目にはそれらが色を失って見える。まるで通りを歩く人並みは陽炎。胸が拳で押しつぶされたように苦しい。引きずるように足を動かし、なんとか自宅に戻った俺は、自室に入って椅子に座ると日記も開かずただただ視線を空にさまよわせた。焦燥感と失望感。見るもの全てが俺を責めていて、目を閉じたくなる。好きだった子に誤解され、解けないまま気持ち悪いと言われ、そのままあっさり失恋した俺。好きな子に拒否されることが、こんなにつらいなんて。日記なんて書くんじゃなかった。歯止めのきかない悪戯なんて、書き変えなんてするんじゃなかった。由愛に言われて気づいた。人の日記を勝手に変えるなんてたしかに最低な行為だった。日記は人の過去がつまっているのだから。行為も最低なら、書いた内容も最低、最悪、最凶だな。中上の日記に対してしてきたことを思うと、愉悦感が脆くも崩壊して、自己嫌悪が俺を支配する。そうして由愛のことを思うと、彼女の言い放った罵倒が記憶の底からよみがえってきて、俺の頬に汚れた涙が伝わる。由愛との関係が、奇行という誤解も解けないままに今や崩壊したことが受け入れがたい。俺は居ても立っても居られずに、吐き気を催してトイレで吐いた。
 その日は食事もとらず、眠らず、日記も書かず、布団に潜ってひたすら朝が来るのを待った。この孤独を誰かに共有してもらいたかった。脳裏に浮かんだのは、野球部の仲間ではなく、中上だった。
 翌日。俺は学校を休んで、この二ヶ月間を後悔しながら昼すぎに家を出た。鞄には中上に見てもらうため、ノートパソコンとフラッシュメモリを入れた。あいつが下校する時間まで校門の外で待ち、奴を見つけると無言で近寄った。中上は果たして、俺が日記をいじっていたことを知っていたんだろうか。そして、由愛のことで怒られたから、文句も言えずに黙っているのだろうか。そう思い立つと、ますます気が滅入っていった。
 俺に気づいた中上は、神妙な面持ちで俺の横まで来ると、
「来てくれてホッとした」
 と、思わぬ科白をもらしたのだった。

   5

 ――もうこれ以上、思い出すのが苦しい。でも駄目だ。最後まで思い出さなきゃいけない。焦りが生まれている。早く、最後まで詳細に思い出さないと。中上は、中上は……。このあとどうしたんだっけ。俺が謝って……いや違う。あいつが歩き出して……。

 学校を休んだから心配してくれていたのだろうか。中上は俺の顔をちらりと覗くと、先に歩き始めた。俺は全てを打ち明け、謝るタイミングをうかがっていたが、歩きながら学校の話をする中上の前で喋るきっかけが掴めずにいた。意を決して、謝ろうとした時だった。俺の言葉を遮り、奴は急に立ち止まると振り返って深く頭を下げてきた。
「ごめん!」
 中上は腰を曲げた姿勢のまま、それから暫く言葉を発しなかった。それを見つめたまま、機先を制された俺は中上の後頭部を見ながら、とりあえず顔を上げてくれと頼んだのだった。
「何……、言ってるんだ?」
 なおも伏し目がちで、まともに俺の顔を見ようとしない中上を問いただしてみる。
「突然謝ってもらっても、分からないよ。それに謝るなら俺の方が……」
「ごめん!」
 もう一度、中上が頭を下げた。俺はすっかり訳が分からなくなっていた。こいつが何を謝ろうというのだろうか。
「だから、どうして頭を下げるんだよ」
「……実は僕」
 中上の声は震えている。
「ああ?」
「日記を……君の日記を書き変えてたんだ」
「……えっ」
「僕から言い出したことだから、書くのに飽きてしまっても辞めようとは言えなくて……。それで過去の日記を見てネタ探しをしている時、思いついたんだ。君の日記を書き変えたらすごく面白くって。つまらない自分の日記を書くことなんていつしかどうでもよくなっていて……」
 まさか。中上の言葉がすぐには理解できず、俺は言葉を失った。
「いつも冷や冷やしていた。君がいつか気づくんじゃないかって。でもその悪戯を止めることはできなかった。面白くて。……面白くて。君は自分の日記を読み返したことはある? 僕はなかったんだ。だから大丈夫だと高をくくっていて……」
 額から落ちる汗を見て、こいつの言っていることが本当なんだと理解した。同時に背筋が凍りついた。俺は強張る手で鞄からノートパソコンを取り出すと、自分の日記をその場で確認した。中上の変えた日記の中で、俺はイカれたガキだった。本屋で万引きをしたり、スーパーで補導員に捕まったり、他校の女子をを引っかけてカラオケに行ったり、あまつさえ夜の繁華街の路地裏で、その生徒とコトに及んでいたり、辞めた野球部への腹いせに部室を壊したり、引退した先輩部員の靴を片っ端からドブに投げ捨てたり……。
 初めの方から最近のものに至るまで、エンターキーを押すたびに、俺の奇行は度を増して理解しがたいものになっていった。俺の両手はもつれ、ついに膝に乗せていたノートパソコンを落とした。
 空をさまよう視線。やっとの思いで少しだけ上げると、謝罪の姿勢を崩さない中上の背中が見えた。昨日由愛に振られて、一晩中思い悩んだこと。中上に取り返しのつかない悪戯をしてしまったと、どう謝ろうか考えていたこと、今直前まで謝ろうとしていたこと、中上が俺の日記を俺と同じく、いやそれ以上にえげつなく汚く書き、俺をとんでもない人物に仕立て上げていたこと……それらが刹那に脳を巡って胃に落ちていき、ドロドロと混ざりあった。中上が声を上げる。
「君……ちょっと待っ」
 既に脳が沸騰していた。俺は地面に落ちたノートパソコンを拾い上げると、大きく振りかぶって中上の頭に打ち下ろした。奴の体が後ろに二、三度転がった後、土の地面に仰向けに止まった。破裂する液晶ディスプレイと、割れて飛び散る外装。それを捨てると今度は間髪入れずに飛びかかり、上からのしかかると顔面をしこたま殴り続けた。中上は何か言っているようだったが、俺の耳には届かない。俺の視線はぼんやりとし、段々と赤黒く腫れて殴るたびにバウンドする中上の顔が、ぶれている。無我夢中の夢遊状態。拳に宿る重みにつられ、俺の頭まで揺れている。ゆらゆらゆらゆら、酔いそうだ。
 突然背後からの急襲。
 今度は俺の体が宙を舞って、中上の横に転がった。腰から肩へと走る激痛。地面にぶつかっただけでないことが間をおいて分かる。四つんばいになり片手で背中を撫でると、破れた学ランの隙間から剥がれかかった俺の皮膚。手のひらには血。こみ上げる吐き気。
「ストップ、ストーっプ!」
 室内の如く響き渡る声。その方向に、土煙が目に沁みるのをこらえ首を向ける。
 同じ中学の制服を着た女が立っていた。
「駄目だ。今回はやりすぎちゃったなぁ」
 頭をかきながら、近づいてきて中上の顔を覗き込むと、
「こりゃ死んでるね」
 彼女はスカートについた埃を払いながら、ため息をついた。昨日俺を絶望に突き落とした、憎くて愛らしい顔がそこにあった。
「争いあうまでは面白かったんだけどなぁ」
 茫然自失の俺に近づいて来る彼女の右手には、石が握られていた。
「仲間割れしちゃって。あなたたちの友情って薄っぺらいもんね」
「何でお前がここに……」
「あはは。どうせ記憶も残らないだろうし……もう終わりだから話しちゃおうかな」
 彼女の顔は狂気に満ちる。
「あなたが夢中になってた交換日記のソフト、中上君が買ってきて始めたんだよね?」
「……」
「あれ、実は私があげたんだなー」
「……中上は買ってきたって言ってた」
「はははっ。それ嘘だよ。ていうか、学校でみんなが交換してたのは、全部私があげたやつだし」
 少女は恍惚に揺れる表情のまま雄弁だった。
「中上君て可愛いよね。嘘はつかないし、私のことが大好きみたいだし」
「……冗談だろ?」
「カフェでは思わず、笑いだしそうになっちゃったよ。ばれるかと思って冷や冷やした。……ぷぷ」
 彼女は破顔すると腹を抱えてゲラゲラ笑った。右手に石を握り締めたままで。
「またね」
 
 ――そこから俺の記憶は途切れていて、気がついたときには自分の部屋に戻っていたのだった。電話をかければ中上は元気で、交換日記の話題を出したら、白を切っているのか俺をからかっているのか、流行っているらしいねとだけ言って電話を切った。部屋に戻った俺は、何か思い出そうとするが、泡を掴むように大切なことが喉元まで出かかっては消え、今に至る。俺は自分の部屋で、机に向かって座っている。時刻は午後八時だった。
 何としても思い出したかった記憶。とめどない焦燥だけが俺を動かして、その一片を取り戻すために、ほとんど真っ白な国語のノートを開き、これを綴り始めたのだ。肩が痛く、頭がとても重かった。触ってみると傷はなかったが、鈍痛だけが記憶の深くによみがえる。肝心なことはどこにある。二度と味わいたくないあの痛み、繰り返したくない過去。……そうだ、あやふやだが、俺はこれを何度も味わっている。この夢幻からいや無限から抜け出すために俺は日記を書き始めたのだ誰にも見つからないように書いたこの記録なんのために書いているのかようやく思い出した敵が誰なのか』

 ブッツリと千切れたみたいにこの小説は終わり、最後の方は焦って書いてあるのか読点すらつけられていなかった。読み物としては稚拙、さらには雑な終わり方。しかし奇妙な臨場感。読後感が最悪で、ジャンルも何もあったもんじゃない。他の小説でも読んで気を取り直そうと、ダウンロードの終わったアマチュア文芸誌のPDF版を開こうとして、先ほど古いパソコンから取り出したテキストファイルがそのままになっていることを見つけた俺は、その内一つをテキストエディタで開いてみた。
 瞬間、唖然とした。ディスプレイ一面に表示されたのは、今読んだ糞小説と一字一句違わぬ文章だった。WEB版の文芸誌から知らぬ間にコピーして読んでいたのか。それとも昨日の酔いが残っているのかな。エディタのサイドバーにカーソルを置き、確かめてみるも目に映るのは異なる部分のない文章。主人公が野球部を辞め、中上と出会い交換日記をし始めて……。変だ。どうしてネットに書かれている文章と、俺のパソコンに入っていたテキストが同じなのだろう。湧き起こる頭痛を無視して何度も何度も読み返すうち、次第に募った漠然とする何か。胃の中の虫がうずくというか、どうしたらいいのか分からない心地悪さ。ああ、胸騒ぎがする。この主人公、こいつはどこかで見た気がする。小学校から野球をしていて、いつも孤独で、疎外感を感じていて。中学になって実力でのしあがっても、野球部を仕方なく退部して、時間を持て余していて。そして秀才の良き友と出会い。出会い。中上という名前。よく塾をサボっていた中上。中学の頃、確かにいた俺の親友。異な縁で知り合い仲がよくなって。放課後の校庭、公園、駅前。細々としたことが蘇ってくるのと同時に、胃から胸へとこみあがるそわそわとした感じ。湧きあがる感情。噴き出す記憶。まるで昨日のことみたいな……。
 昨日のこと。昨日のこと……。
 おかしい。本当に昨日の出来事みたいに感じてしまう自分がいる。最近仕事に疲れて現実逃避気味になっていたからだろうか。ありありと浮かびあがってくる中上の顔。笑った表情。青黒いあざに腫れた顔。殴った罪悪感。その後の絶望感。敵とは誰だ。昨日の俺は確かに酔っ払って、ノートパソコンを壊してしまって……今日になって新しいパソコンを買ってきて……。いや、安月給なのに何故買えたのだろう。そうだ、レシート。あれを見れば買った時間が書いてあるはずだ。頭が痛いな。すごく痛い。鞄はどこだっけ。ベッドの上に置いたかな……。
 椅子から立ちあがるとめまいがした。頭を右手で撫でながら、ヨロヨロ鞄を取りに行く俺。押さえた頭にはザラつく触感。指先に残る微かな砂と、僅かな血痕、黒いかさぶた。ベッドの前でしゃがみ、見つけたのは仕事という趣でない白い肩かけ鞄。まるでそれは中学生が持つような。中を開けばノートの山と、転がり飛び出るフラッシュメモリ。財布を取り出してもレシートなんてどこにもない。ていうか安月給ってなんだ? 仕事って……。総毛だって立ちあがり、ゴミ箱に足を取られ前のめりに転倒。広がるゴミは、全てフラッシュメモリの群れ、群れ、群れ。四つんばいになり首を上げると、鏡に映った中学生の如きあどけない顔。額に浮かぶ汗。よぎる女の子の顔。何か思い出せそうな気がしている。それを思い出すことは怖い。とても怖い。でも思い出さないといけない。背後に感じる気配は誰だ。早く思い出さないと、俺は間に合わな

                                     了

『バッド・ログ』

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