『緑の抵抗値』

『緑の抵抗値』

著/桂たたら

原稿用紙換算70枚


 かきーん、と小気味の良い音が聞こえた。少し遅れて目の前に白球が現れ、また下へと落ちていく。
 ボールの軌道から、これは良くても外野フライだろう、と私はあたりをつける。
 ……下で騒ぐ声が聞こえる。応援と、キャプテンあたりの発破だろう。ボールの行方がどうなったのか少しだけ気になったが、フェンスまで歩いてグランドを確認しなくてはならないことを考えるとその気も萎える。
 つい数日前に八月が始まったばかりで暑さも盛況、これからも連日のように猛暑になることだろう。
 轟音が辺りを覆う。上空を仰げば飛行機が飛んでいた。
 この学校の屋上には親切にもベンチが備え付けてある。建前では立ち入り禁止になっているはずなのだけど、そんな規則ももはや文字だけになっていて、事故でも起こらない限りはずっとこのままにされるに違いない。
 ……思ってみれば、屋上に来るのもずいぶん久しぶりだ。
 私はベンチの定位置に腰を下ろした。ここからだと街並みを見下ろすことができるのだ。街を一望できる好位置で、バカと煙は高いトコが好きだなんていうけれど、わざわざ学校の屋上まで来て景色を眺めている私はやはりバカなのだろう。
 今年も例年どおりに始まった長期休みだったのだけど、この夏は少しだけ面白いことが起きた。
 きっと、聞いてもにわかには信じられないようなことだけど、それで良ければ、少し話そう。
 
 私の通う学校の隣には大きな森が広がっている。それはほんとうに冗談みたいな大きさで、私の住んでいる街は三倉といってどちらかといえば関東圏でも大きな都市の部類に入るのだけれど、その三倉の街とほとんど同じだけの広さがある森だった。
 今でもよく子供達の遊び場になっていて、昔は私も虫を獲りに足繁く通ったものである。友達との間では通称「トトロの森」などと呼んでいる。
 その森は街の端から始まっている。恐らく、上空から見たら、街と森の大きな円が二つ、わずかに重なっているように見えるはずだ。
 ここからなら森が一望できる――とはいえ、あまりに広大なために端の方は辛うじて目視できる程度なのだけれど。
 いつものように景色を眺める。雑然とした駅前のビル群から、碁盤目みたいな住宅街へ、そして街の隅を遠慮がちに流れる広い川とその河川敷。
 そして視線を森へと移す。
 緑の絨毯の中に、一軒の家屋を見付ける。
 森の真中、隠れるように。
 いつものように、寂しげに建っていた。
 白い一軒家で、取り立てて変わった点はない。二階建ての、どこにでもよくありそうな意匠の家だ。
 ただ、入道雲みたいに真っ白で、太陽の光すら反射しそうな塗装が目を引いた。
 高校に入学して、何度か屋上から景色を眺めるうちに気が付いた家である。私が見た、森の中の唯一の建物だった。
「……行ってみよっかな」
 なんとはなしに口に出してみると、それは存外に素敵な思い付きだと思った。
 周りからちょっと眺めるだけでもいい。
 日が沈むまでまだまだ時間はあるし、特に今日これから用事があるわけでもない。良い気分転換になるだろう。

 そもそも学校があるのが街の端だから、森へと行こうとすればすぐだった。暑い日差しの中、行き交う人影もまばらに、すぐに森の入り口に着いた。
 木々の前に立つと、その広さ、そして奥深さに改めて驚かされる。昼間だというのに薄暗く、視界は無数に乱立する木々に遮られとても良いとは言えない。
 最初の一歩を踏み出そうとして、
「あ。あの家の方向、きちんと確認してないじゃん」
 ……まあ良いか。もう二年間もあの家を屋上から眺めているのだ、大体の方角は把握している。
 むせかえるような緑の匂いを感じつつ、瑞々しく茂った草花を踏みしめて、私は森の中へと足を踏み入れた。
 そこは驚くほど涼しかった。ひやりと澄んだ外気が火照った肌から温度を奪う。木々に遮られ太陽光が入り込まないのがその理由だ。
 密生する木々で、やはり視界は悪い。木々の隙間から白い建物が見えないかと目を凝らしてみたけれど、あの家はやはり見られない。
 この辺りまでは近所の子供たちも遊びにくるのだろう、自然に踏み固められた道ができている。私はその獣道のような緑の隙間を慎重に進んでいった。
 鳥や蝉の鳴き声が途絶えない。心地よい周囲の音に耳を澄ませながら、また一つ茂みをまたぐ。注意深く移動しているのに衣服には草花が付着してしまっていた。私はスカートで来たことを後悔した。
 百メートルほど進むとフェンスが見えた。以前に見たことがないものだから、私がここまで来たのは初めてということになる。周囲に誰もいないことを確認して、フェンスに足を掛けてよじ登る。また足をかけて降りるのが面倒になって、私はひょいと飛び降りた。
 さて、と。そろそろ注意深く歩かなくてはならない。ここから先には子供たちの作った獣道がないからだ。家があるであろう方向へ目を凝らしても、まだ白い家は見えない。
 歩みを進める。フェンスを越えて、一層、緑が濃くなった。
 この方向で合っているのかと不安に駆られてくじけそうになっていると、
「あの……、こんにちは」
 と声をかけられて、うおっと思った。
 私の真後ろに、女の子が立っていた。
 顔も身体も小さくて、細い眉や切り揃えられた前髪がとても上品に見える。近所の中学校の制服を着て、少し怯えるような視線をこっちに向けていた。
「ど、どこに行くんですか?」か細い声で彼女はそう言った。
「あ、ああ。えと……、散歩、かな。特にどこに行こうというのはないけど」
 私はとっさに言い訳を口にした。しかし、それもあながち嘘ではないはずなのに、なぜか私は居心地の悪さを感じた。フェンスがあったのだから、もしかしたらあそこから先は私有地なのかも知れないからだ。
「……そ、そうですね。それは素敵ですね」
 なにが嬉しいのか彼女は笑って元気良くそう言った。私に害意がないことを察して安心したのかもしれない。
「あなたはここで?」
「はい。私も散歩です」
 そういって彼女は立ち位置を少し右にずらした。
「……その、さっき私、あっちのフェンスを乗り越えてきたんだけど。ここってどこかの私有地なのかな?」
「少し前までは。今は誰の土地でもないらしいですよ」
「ふぅん……」
 もしかするとあの白い家の子かな、と私は思った。
「気をつけて下さいね。この辺り、似たような道が多くて迷いやすいみたいですから」
 彼女は隣に聳えた太い木に手を触れた。撫でるように手を動かす。私はそこに迷わないための何らしかの目印でもあるのかと思ったけれど、いくら探してみてもその木にはそれらしいものはなかった。
「この辺、詳しいの?」
「いいえ。初めて来ます。でも、よく上から眺めてましたし」彼女は少し笑った。「そこでちょっと人に聞いたんです」
「人に?」
 私たちのほかにも人が居たということか。だとすると、この森は人の出入りが思ったよりも多いのかも知れない。
「迷い込んできてしまったのかと思って声を掛けてみたのですけれど、そういうわけではないようなので安心しました。私、あっちから背中が見えたので心配になって走ってきたんです」
 そして彼女はあさっての方向を指差した。真後ろから来た彼女と向かい合っているから、彼女が指差すのも必然的に彼女の真後ろだ。
 二言三言、当たり障りのない会話を交わしてから、「では」と彼女は会釈をして背を向けて去った。
 私有地でないならそんなに気兼ねすることもない。私は軽い足取りで、彼女と反対の方向へと歩き始めた。

 ほどなく、木々に囲まれた、一軒の家が見えた。
 白っぽい一軒家の二階建て。木製のテラスがとても素敵だった。テラスの上には丸テーブルと、籐のようなお洒落な椅子が三つ、テーブルを囲うように配置されていた。
 白い塗装で二階建て、標準的な外見。確かに、上から見た家と条件は一緒だ。
 でも――、と私は思う。
 私が見ていた建物は、本当にこれだったのか、と。何か、印象が異なるような気がしてならない。
 ……いや、あんなに遠くから見ていたものなのだから、そんな印象の相違は仕方がないものだろう。
 周囲は本当に木々しかない。生活するにはさぞ不便なことだろう。ちょっとした買い物も、いちいちこの森を抜けなくてはならないのだから。ますます人が住んでいるなどとは考えにくい。
 ふいに、カン、と金属音が聞こえた。
 続けて、もう一度。恐らく発生源はこの家である。
 あまり近づかないように遠くからその家屋の周囲を回る。
 反対側の縁側で、一人の女の子がカナヅチで何かを叩いていた。音源はあれだ。
 彼女はあぐらをかいて、辛うじて抱えられるぐらいの大きさの藤椅子に向かってカナヅチを振り下ろしている。木屑が散らばらないようにだろう、下には新聞紙が敷いてある。膝よりも丈が上のハーフパンツに薄手のノースリーブを着て、薄いピンクのサングラスを掛けていた。
 私に気が付いて彼女は顔を上げた。私は少しだけ怖くなった。因縁つけられる、と思った。
「なにしてるの? おねーさん」
 まだ声変わり前のような細く高い声で、でも妙に落ち着いたイントネーションだった。
「道に迷った?」
「う、ううん。そういうんじゃないけど」なんだか人と話すたびに私はどもってばっかりだった。さっきの子といい、この子といい。
「ウチに用?」
 用というほどの用もない。以前からちょっと気になっていた家があったので、時間があるから足を運んでみただけなのだ。
「…………」
 私がなんと答えるか迷っている間、彼女は私に観察するような視線を送っていた。
「……まぁおいでよ。おねーさん、悪い人じゃなさそうだ。退屈してたの。お茶くらいは出るよ」
 私が野生の猫みたいにつかず離れずの距離を取っていると、
「家には誰も居ないよ。それに、なんというか、そういう心配をしてるんだったら安心して。私、足が悪くてさ。いざとなったら私よりもおねーさんの方が力、あるでしょ?」
 ごと、とカナヅチを傍らにおいて、彼女は立ちあがり、家の中へと消えていった。……なるほど確かに足を多少ひきずっている。
「なにしてるのよ。もしかしてなにか予定でもある?」
 彼女がひょいと顔だけ出して、そう言った。
 いいえ、と私は首を振って、彼女に続いて歩いた。
「そりゃそうよね。こんな昼下がりに森の中でふらふら歩いている女の子に、これからデートの予定なんてあるわけないものね」
 彼女は年相応ないたずらっぽい笑顔で言った。
 ほっとけ。

 テラスに回って待つように、と言われたので、テーブルを囲っている藤椅子の一つに腰掛けていると、彼女が危なっかしい足取りでコップを持ってきた。「オレンジで良い?」
「ありがとう」と答えて一息で飲み干した。喉が乾いていた。
「麦茶とか出すのが普通なのかな。でも私、オレンジが飲みたかったの。構わないよね」
 彼女はぎごちない動作で椅子に腰掛けると、テーブルの上に置いてある煙草の箱とマッチを引き寄せる。よく大人がやるように箱の端をトントンと叩いて煙草をくわえて火を付けた。とても手馴れた風で、少し、格好よく見えた。
 紫煙がゆらゆらと真っ直ぐに立ち昇った。
 彼女の年齢は明らかに私よりも下で、もしかしたら小学生なのかも知れなかった。サングラスの向こうの瞳は明らかに幼い少女のそれだし、体形だって少年なんだか少女なんだか分からない。
「それで。おねーさんは何をしに来たのかな。あ、ちょっと待って。名前を聞くのが先かな。なんて呼んで欲しい?」
 不思議な聞き方をする子だ、と思った。
「サキ」と私は答えた。
「サキさん。私はソト。よろしく」
 サングラスをちょいとずらしてこちらを見た。
 私は彼女の裸眼を初めて見る。
「――その目、」
「ん? 何?」
 彼女は私が何を言ったのか聞き取れなかったようだ。
 彼女の目。片目だけ色が違っていた。それはまるで植物のような緑に見えた。
「ソト。あなた、ここに住んでいるの?」
「まさか」彼女は少し笑った。「私の家は森の外よ。ここは、なんていうのかな、別荘っていうか物置っていうか、まあそんなようなもの。こんなところに暮らしてちゃ、不便きわまりないし」
 それもそうだ。
「フェンス、あったでしょ?」
「え? あ、うん。越えてきたんだけど。まずいかな」
「……フェンスを越えてまで、一体何をしに来たんだろうね、サキさんは?」
「別に、大した用事があったわけじゃないんだけど」
「それってホント? 何かを探しに来た、とかじゃなくて?」
 ……なんだろう。彼女はけっして詰問しているわけでもないのに、何故だか、胸がざわついた。
「それじゃ、聞き方を変えるね。ここに来るまでに、何か変なこと無かった?」
「変なこと、って?」
「変なことは変なことよ。違和感といっても良いけど。ただ、ぼーっと歩いてたら、なんとなーくここに着いたのかどうか、ってこと」
 ここに来るまでに起こった奇妙なこと?
 そういえば、中学生の女の子に一人会った。……けど、それがなんだって言うんだろう。私は「特に無かった」とだけ答えた。
 彼女は少しの間考え込んで、「そっか。そんなら良いや」と頭を掻いた。「ごめんね、この辺りって物騒でさ」
「はは、なら私みたいな人を誘うのも考えものだよ。それに、この辺りっていうほど、ここ、街から離れてないじゃない」
「うん、それもそうだね」彼女は短くなったタバコを空き缶に放り入れた。じゅう、と音がした。「でもね、森の外と、中とじゃ、結構違うものなのよ」
「どういうこと?」
 また新しいタバコに火をつける。彼女はチェーンスモーカらしい。
「大事なのは距離じゃないってこと。何が見えているか、そしてそれをどう捉えるか、なの」

 …………

「あなたに見えているものが世の中の全てとは限らないわ」
 ソトはサングラスを少しだけずらして私を見た。
「喋る猫の存在を知ってる? 犬と人間の亜種の存在を知ってる? 彼らは望むと望まざるとに関わらず、身体を弄られてね、歪な存在へと変えられてしまったの」
 ソトの瞳のその表面には、どろりとした淀みが膜を張っているように見えた。それが一切の光を遮り、彼女の本心を隠してしまっているようだった。
「死を叫ぶ草花と、死から追いやられる動物達を知ってる? 幽霊達を運ぶ列車は? 身体の一部を切り落として異能を手に入れる人達は?」
 私は瞳に沈む淀みの深さを知ろうとしたが不可能だった。それは、自分には理解できないほどに深く濃いものである、ということしかわからない。
「あなたには見えてる? それとも見えてない? そういうの」
「見えない。私には」と私は答えた。
「ふぅん、そっか」
 興味を失ったように視線を外し、サングラスを掛け直した。たゆたう紫煙を眺めながら、彼女はぽつりと零した。
「じゃあ忠告するけど。あなたの後ろに誰かいるわよ」

 …………

 次の日。
 私はちょっとした用事で友達と会っていた。
「そういえば昨日ね、ちょっと面白いことがあって」
「へぇ。どんな?」
 私はその一部始終を話した。
 最後のところまで話したところで、彼女は怯えたような声を上げた。
「うわぁ! 私が怖がりなのを知ってるだろう! なんでそんな話をする! 気を使え!」
 予想を遥かに上回る怖がり方だった。きっと私の話し方に問題があったのだろう。
「話し方が怖いんだよ、サキ」
 呪うような視線を送ってくる。
「うん。だってわざとだもの」
「な――!」
「あはは、ごめんごめん」
「ったく。……しかしそんな面白そうに話すなんて、その話、サキは怖くはないのか? 面と向かって、後ろに誰も居ないのに『誰かが居る』なんて言われたら怖くてしかたがないだろ」
「うーん、まあ確かにそうなんだろうけど」
「その話の内容だって然りだ。……なんだ、その、オカルトめいた話も、だがな……、信じているのか?」
「どうだろう。良く分からない。あの子が言った色々も、もしかしたらあるのかも知れないし、ないかも知れない。そんなのは誰にも分からないよね。簡単に否定は出来ないと思うから。……だけど、あの子が冗談とかで言ってるわけではないのだけは、分かったよ」
「……それって、かえって怖いだろ」
「あれ? そうかな」
「肝が据わってるというか、単に鈍いだけか……。で? そのソトって子のトコ、また行くの?」
 何故か彼女は心配そうな口調で言った。
「うん。だって、なんだか楽しくない? ファンタジーだよファンタジー。エブリデイ・マジックていうんだよね、こういうの」
「そういう風に捉えられるサキの考え方が理解できないよ……。まぁ、楽しいなら良いんだが。でもね、友人として忠告するなら、あんまり深入りしない方が良いと思う」
「どして? そんなに心配しなくても志摩と遊ぶ時間はとっとくよ」
「そういうことを言っているわけじゃない。いや、まあ嬉しいけど、そういうんじゃないんだよ。……さっき、『もしかしたらそういうこともあるかも知れない』と言ったろ。私もその意見には賛成なんだ」
「え? それってどういう―――」
「そのままの意味だよ。君は普段からちょっと抜けている上に夢見がちだから心配だ。注意だけはしたほうが良い」

 その友達と分かれたのが夕方だったので、その日はソトという少女のところへは行かなかった。いくら私でも暗くなった森の中へと足を踏み入れるような真似はできない。


 私が先日のようにフェンスを乗り越えてひょいと飛び降りると、また中学校の制服を来た女の子と出会った。以前と同じように、控えめな雰囲気を従えている。
「あ、あの。……そういう風に飛び降りるのはどうかと思いますー……。前も言おうか言うまいか迷いましたけど、あの、ぱ、パンツ……、見えてますよ――?」
「あはは、別に平気だよ。減るもんでもなし」
「……前から思ってましたけど、はしたないです……」
「う。自覚はあるんだけど。それはおいおい改善するとして。……あなたもまたここで散歩? ものずきだね」
「お互い様ですよぅ」
 彼女は大人しい笑い声をたてる。目を細めて唇の端を持ち上げた微笑みは、まるで「笑顔」という表情のお手本みたいだった。
「あの、暗くなる前に帰られた方がよいと思います。それに、森の中は迷いやすいですからあんまり無茶はしないようにしてくださいね」
 彼女と別れ、昨日と同じ道を辿る。一応、私は物覚えは良いので、目印の少ないこういった道でも、一度通れば迷うことはない。
 ――だから、というわけでもないが、私の直感が告げている。
 彼女との会話に違和感が無さ過ぎる、という違和感。それはまるで、何年来かの友人のようにすら――
 と、いつの間にか白い家の前に着いていた。
 カン、カンと裏からカナヅチを打ち付ける音がしている。ソトはまたなにか日曜大工でもしているのだろう。
 私は少しの間、その家を距離をおいて観察する。
 やっぱり、上から見た印象と何か違うような気がしてならない。なんとなく汚いように見えるのは何故だろう。薄暗いというのか、薄汚いというのか。
「あぁ――、そうか」
 そう、まるで、上から見えていたあの家が何十年も経過したらこうなる、という未来図のようなんだ。
 カラカラとガラス窓が開く。テラスにタバコを吸いに来たソトと視線が合った。
「サキさん。また来たんだ。あなたも暇ね」
「や。こんにちは。前に聞きそびれたんだけど、カナヅチでなに作ってるの? 今も音が聞こえてたよ」
「何って……。椅子とか、テーブルとか」
「自分で作るんだ。何かの拘りでもあるの?」
「拘りといえば拘りだけど。でも拘ってるとすれば、工作物というよりも、工具そのものよね。カナヅチが好きなの、私」
 泳げない人が好きだと言っているわけではないだろう。
 ソトに「どうぞ? 座ったら?」と椅子を勧められたのでそれに従う。これも彼女がこしらえたものなのだろうか、などと思いながら。

「うーん。害意は無さそうなんだけど」
 ソトは唐突にそう言った。
「ね、この人に見覚え、ある?」
 ――信じられないことが起こった。
 彼女は椅子から立ちあがる。その手にはいつの間にかカナヅチが握られていた。ひょこひょこ足を引きずってテラスから降りて土の上、何もない場所で立ち止まる。
 私がその様子を見守っていると、ソトは急に手に持ったカナヅチを振り下ろした。
 ごちん、と音がした。
「あひゃん!」
 黄色い声と共に、虚空から一人の少女が現れた。
 ……実際、そうとしか言いようがない。何もない空間から、突如として人間が現れたのだ。
「痛いですよー、なにするんですかー?」
 涙声で抗議する。よっぽど痛かったのか、額を手で押さえている。どうやらそこを殴られたらしい。
「どう? この人」
 ソトに問われるが、私の舌は上手く回らない。自分で思っているより、私の頭は混乱しているようだった。
「ま、そりゃ驚くわよね。……で、貴方は何してるの? 前にサキさんが来たときも居たわよね?」
 彼女もあうあうとうめくだけだ。あまりの驚きに口が回っていないように見える。今の私と同じ状態だ。
「ま、なんでも良いわ。霊体になってまで世界に干渉したがる人に善人はいないってのが、長年の私の持論なの」
 ぱし、ぱし、とカナヅチで手のひらを打つ。
「誤解です、誤解なんですー! あわ、は、話を聞いてくださー」
「人の後をこそこそと付けまわすのは、あんまり感心とは言えないわ。話は後でゆっくり聞くとしましょ」
 ゴチ。
「ぅあふ」
 あえなく気絶。
「安心なさい。このカナヅチは霊体を消滅させずに、一時的に無効化するだけのものだから……、ってお約束ね、聞こえてないわ」
 ソトは「やれやれだわ」と言いながら肩を竦めて戻ってきた。
「あ、あの子は?」私は辛うじてそれだけ口にできた。
「あそこ。しばらくは起きないはずだから、心当たりがあるかどうかだけ確認したら?」
 気絶した彼女はぷかぷかと横になって浮いている。幽霊は気絶しても地面に落ちないようだ。なんて場違いな考察。
 恐る恐る近寄るが、今さら確認なんてする必要はないのだ。彼女と会ったのは、二度。どちらとも、ここへ来る途中に出会っただけ。少なくとも私の記憶では。どれも分かりきっている。
「どう? 知ってる娘?」
 私は彼女と会ったときのことを話した。
「サキさんの方には覚えがないのね。それじゃあ憑いてた理由はあの娘の一方的な理由かな。どちらにせよ、起きて理由を聞くまではどうしようもないわね」
 私はぷかぷかと浮かんでいる女の子の顔を見つめた。こんな距離でまじまじと見つめるのは初めてだけれど、やはり綺麗な顔をしている。叩かれたおでこが赤く腫れているのが可哀想だった。閉じた瞳の端に涙が溜まっている。足はあるのかな、と思い見てみると、やはりある。さっきはその足で歩いていたのだから当然か。
「……なんていうか、ここまですることはなかったんじゃないのかな。や、私はよくわかんないし、素人意見なんだけど」だがソトがそうすべきだと判断したのなら、私としてはそれに従うほかない。
 ソトは少し気まずそうに頬を掻いて視線を逸らした。
「私も、ちょっとやりすぎたかなって思う。悪い娘には見えなかったし、話くらいは聞いてあげるべきだったかな……」

 暗くなる前に私は帰ることにした。時刻は午後の五時を過ぎている。わずかに空に朱がかかり始めてきている。
「この娘は私が預かっておくね。一晩は起きないはずだから、また明日か明後日ぐらいにいらっしゃい。いろいろ話を聞いておくから」
「う、うん……」私は我慢しきれずに、今日何度目かの頼み事をする。「ね、もう一回触らせて?」
 ソトが呆れ顔で、「はいはい」とくだんのカナヅチを手渡してくれる。
 それはずっしりと重く、何の変哲もないただの釘を打ち付けるための道具にしか見えない。
「すごいなー、これがかー。へぇー」
 ソトは困ったように笑っている。「落としたら危ないから注意してね」
「魔法、魔法! 吹けよ風、呼べよ嵐っ!」
「なにしてるのよ……」
 どことなく寂しげに彼女は笑った。

 どういうわけか、この森の中では通常ならあり得ないことが起こるようになっている。
 幽霊の存在と、それに触れることのできる道具。
 そして、それを所持する、足が不自由で片目が緑の女の子。
 遠くから見ると真新しいのに、近くに寄るとまるで歳月を経たように変化する建物。
「なによ。ちょっとどきどきしちゃうじゃないの」
 知らず、呟いていた。だってそうだ、こんなのは想像の産物だと思っていたのだから。本や漫画で読むような出来事が自分の身に起こっているのだ。これで心踊らぬわけがない。きっと、フィクションを物語という形にして売り物にしている人達のほんの一部は、自らの体験を元にしているに違いない。
 森の中の帰り道――、ふと、気付けば、見覚えのない景色の中に居た。
 考え事をしていたせいか、道筋を外れてしまったのだろう。
「……普段なら、道に迷うなんてことはないのにな」
 ソトの家に訪れたのはニ度目である。一度目は迷わずに帰ることが出来たのに、何故か今度は迷ってしまったらしい。焦っても仕方がないし、そんなに大きく道を外れているという感覚もない。それに少し歩けばフェンスが見えるはずだから、そこまで行けば森を出たも同然だ。私は全くと言っていいほど憔悴していなかったし、すぐにこの森を出られる予感があった――いや、それは確信といっても良い。
「…………」
 だから。
 また目の前に白い家が現れていたときは、焦りよりも違和感を感じた。
 違和感。ここのところ感じることが多い感覚だ。
 ……ソトの家からならば、また先日と同じ順路を辿れば森から出られるはずなのだけど。
「――あれ? でも、この家……」
 遠くからその家を眺める。
 違う、と私は思った。
 ――この家は、ソトの家ではない。
 さっきまで居た彼女の家とは、どこか印象が違っている。
「どうして」
 けれどその家には見覚えがあった。
 初めて見る家ではない。しかしソトの家でもない。
 幾度も幾度も。
 私は、その家を数年も前から眺めていたのだ――――。

 少し、呆としていた。

 身体を覆う圧迫感に我に返る。

 帰らなければ、と思う。
 けれど、ここからどうすれば帰ることが出来るだろう?
 ここは間違いなくソトの家とは違う。いや、というよりも、先刻まで居たソトの家とは異なっているように見える――少なくとも。
 ソトの家から帰ろうとして迷い、またここまで戻ってきたら家屋の様子が変化していたのだ。これが魔法でなくしてなんであろう。
 日が暮れる。もう数時間もすれば、明かりも当然ないここは真っ暗闇になるはずだった。
 立ちすくむ足を叱咤して一歩を踏み出し――満足に動かない体に気がついた。
「――――あれ?」
 私は無様に転んでしまう。
 足の動作が緩慢だった。全く動かないわけではないが、妙に反応が鈍い。足が自分のものではないみたいだった。
「なに、これ……?」
 土の匂いが鼻をつく。転ぶときに手も突き出すことが出来なかった。動かないのは足だけではない……?
 圧迫感があった。うつ伏せに倒れる私の背中にのしかかるような。
 息苦しく、呼吸が満足に出来ない。うつ伏せだからってこんなにも息がしにくいってことはないはずだ。
 起きあがることが出来ない。僅かに残っていた手足の自由すら、完全に失われている。
 倒れて狭い視界に誰かの足が映る。
 ああ――――、
 理屈じゃない。言葉でもない。直感でもない。ただ、分かった。
 私はここで終わるのだ、と――――。
 目前の足はその場から一歩も動こうとはしない。頭が上手く働かないためかその足もぼやけて見える。履いている靴はどんなだろうという私の小さな疑問にすら答えがない。私に何の咎があったのかは分からない。
「――――」
 首筋が冷やりとした感触に包まれる。
 握られた……らしい。
 あとはちょいと縊れば、終わり。
 なんて簡単で、
 呆気ない。
「――――あ、」
 この感覚は上手く説明できない。首を掴まれている、という事実は本物なのだろう。けれど、それはただ単に圧迫感が強烈なものになっただけという感じで――、首を絞める、という行為の本来の目的である血流と酸素の供給を断ち対象を死に至らしめるという効果は少しもないような――――、
 けれど、薄れゆく意識と、身体を満たす死の気配は――紛れもない事実だった。
 今のふっと体が軽くなる感覚は貧血に似ていた。
 意識が遠のき、視界が白だか赤だか一色に染まりかけたそのとき、
 ゴチ
 聞き覚えのある音がした。
 より硬いもので硬いものを殴ったような音。直後、首にかかる力が取り除かれて呼吸が幾分楽になる。それでもまだ息がしづらいことには変わりはなかったけれど、いつのまにか動くようになっていた手足をばたつかせるようにして動かして、その音源を確かめる。
 薄暗い闇の中で、頼りなさげに赤い光が細く点っていた。煙草の光だ、と私は瞬時に思った。
「どこに捨てようかしらね、この煙草……。ポイ捨てなんてして私の家まで焼けちゃったら笑うに笑えないし」
 ふう、と彼女は煙を吐き出した。
「ソ、ソト……」
「災難だったね、サキさん」表情に陰影はないけれど、声色はなぜか申し訳ないと思っているように聞こえた。「はは、ここで煙草を指先でピンと弾いてかかって来い、みたいな風に出来たらカッコ良いんだろーけどね。持ったままじゃ――邪魔だしさ!」
 ブン、と風を切る音。
 ガシャ、と私の後ろで何かが砕ける音がした。そこで、ようやく私は、ソトが私の背後の何かにカナヅチを振り下ろしたのだと悟った。
「――私の仕事、私の生きがい、私が抱える枯れ尾花。君らが縛る緑の瞳。互いに食らおうずっとずっと。気の済むまで生の尽きるまで――」
 それはどんな歩き方なのだろう、確かに足はひきずったままなのに――ソトの移動は、私の全力疾走よりも遥かに速い。
 私の周囲には半分透けている人間のような形を取った人型が――、いや、回りくどい言い方はよそう。これはまさに幽霊だ。ぼやけていて全体像は把握できるけれど細部までは良く見えない。……やっぱり足はある。
 それが、私達を取り囲むように、何体も。十――、は超えているようだ。
 ゆらり、と各々が距離を縮め包囲を狭める。す、と差し出された手をかいくぐって、ソトはそれらにカナヅチを打ち込んでいく。幽霊の殴られた個所はまるで落とした陶器のように砕け、その破壊が伝播するように全身へと及び、跡形もなくすうと消えていく。
 ソトのその無駄のなさは、あらかじめ動きの定められた殺陣のようにすら見えた。
「――私が死ぬまで私が死んだら。一緒に居ようそれまでは。共に居られるそれからは。永く続いたオマジナイ、これからも続くこのノロイ――」
 カナヅチを振るいながら、彼女は詠う。
 その表情は能面のようで何も読み取れず、声色にも感情の一片も感じ取れない。だから、彼女がどんなつもりでその詩を詠っているのかは分からない。ただ、聞こえるか聞こえないかという音量でぼそぼそと、無意識のうちに口をついてしまっているような印象だ。
 ……暗闇に緑の軌跡が引かれているのを私は見た。
 ソトはサングラスを外しているんだな、とあまりにも間抜けなことを考える。
 猫の眼のそれと違い、彼女の片目は光を発している。彼女の頭の動きの後が、一本の緑の道となって痕を曳いていく――。

 瞬く間にソトは幽霊たちを一掃してしまった。私はただ呆けていただけである。間抜けにもほどがある。
「――立てる? とりあえず、ウチに行こうか」
 おずおずと。なぜかそんな調子で、彼女はへたりこむ私の手を取った。
 ソトは悲しげに笑っている。
 彼女とはほんの少しの付き合いしかないけれど、そんな表情を見たのは――いや、そんな表情をするような人とは、思いもしなかった。

「怪我はない? ……そう。なら良かった。今度は森の出口まで送っていってあげるから。今度は迷わないようにね」
 瞳を覗きこんだり、首筋に触れたりして、一通りソトは私の身体を点検した。そのとき、首筋に触れた手が少しだけ硬直したのを、私は見た。まるで腫れ物を触るような手つきで、ソトは私の首筋を撫でる。そのときも、彼女は申し訳なさそうな表情になっていた。
 ごめんね、と。彼女が呟いたような気がした。
 森を抜け、フェンスをソトの手を借りて越え、出口まで手を引いてもらう。
 ……その間、ほとんど私は口がきけなかった。恐怖、などではないと思う――自信はないけど。ただ、少し驚いていただけなのだ。
 家まで送るというソトの申し出を断り、私は一人帰路についた。
 こんなときだって私は一人で家に帰ることができる。また帰りに迷うかも、なんて考えなど一蹴できている。
 ほら。なんて楽観的なんだろう。
 私はひとり、無理に自嘲する。

 そう、幾度となく言い聞かせても、
 私の身体の震えは、家の明かりを見るまで止まらなかった――――。

 *

 そんなことがあったものだから、私の部屋に例の女の子が入ってきても、私は特に驚きはしなかった。
 あれから二日が経過した。
 近所の中学校の制服を着用した彼女は、カガミと名乗り人の良さそうな笑顔を浮かべて言った。
「あの、えと。……お久しぶりです。お怪我の具合はいかがですか?」
 彼女も先日の幽霊と同じものだよなぁ、と思うと少しは警戒しなくちゃいけないのかも知れないけれど、この娘の笑顔を見ていると、そんな風に考えること自体が失礼に当たりそうにすら思えてくる。彼女はそんな風に笑う。
「あはは、怪我だなんて大袈裟。もうぴんぴんしてるよ。それより、私のことよりもカガミちゃんのことだよ。……額、平気?」
 彼女は地面から数センチメートルほど浮かんでいる。礼儀ということで椅子を勧めてみたがやはり必要ないらしい。
「あの、その……。この間は、ごめんなさい」
 と、彼女は唐突に、そう切り出した。
「私、誤解されるようなことしちゃって……。私、あの人たちに騙されちゃって、私のせいで……。それでサキさんに迷惑をかけちゃって、サキさんはなんにもご存知ないのに……! そういえば、あの、えと、こんな風にお話しちゃっても平気なんでしょうか? あの、親御さんとか、あ、それにこんな風に来ちゃって吃驚しちゃってるんじゃ……」
「待って、待って、落ち着いて。ゆっくりで良いから」
 話しているうちに感情が昂ぶってしまうタイプらしい。話が脱線して支離滅裂になるまえにストップをかける。
「えと、先ず、私はカガミちゃんがここに来たことについて驚いたり警戒したりはしない。それは君のことをソトが無害だと判断したからに他ならないから。自由になった君が私のところに来ることを、ソトが考えないわけがないしね」
「あ、そうですそうです」カガミちゃんは嬉しそうに両手を合わせた。「ソトさんとおっしゃる女性にも一生懸命説明してやっとわかって頂けたんですけど、私、サキさんに憑かせて頂いてるんです」
 ……憑く、とはまた。
「あう、あの、そう不安そうな顔をしないでくださいー。えと、霊に憑かれるというのは基本的に良いことづくしなんですよ? たまにちょっと問題なのも居ますけど、私はそういうのは決してありませんから、はい!」
 コクコクと一人頷いて笑う。自分の言うことが無条件で信じてもらえると疑わない笑顔だ。……幼いなぁ、と思うのと同時に、ちょっと愚かだとも感じる。
「普通は相性とかあるんですけど、サキさんはそういうの超越してるみたいなので、私みたいなしょうもない小娘でも憑かせて頂けるようです」
 ……でもやっぱり、この会話の内容だけは胡散臭いことこの上ない。
「あなた、ちょっと胡散臭いんだけど」
「はう!?」
 だからそう言ってみたら彼女はショックを受けたように固まってしまう。俯いてなにやら呟いた後、「……いえ、これからです。なんとかサキさんに信頼してもらえるように頑張れば良いことです」と決意もあらわにキッと顔を上げた。
 ……まぁ、私が胡散臭いと思ったところで、彼女という『本物』を目の前にしてその存在を否定しようもないのだけれど。
 今の会話だけでも、聞きたいことや説明してもらいたいことがいくつかあるけど、それはおいおい聞いていくとして。
「ま、部屋で話すのもなんだから……、学校の屋上にでも行こうか。天気も良いしね。それに……、」
「なんですか?」
「……やっぱり、カガミちゃんのことは他の人には見えないんでしょう?」
「ええ。私を認識されたサキさん以外の方には見えないはずです」
「――サキ、お友達? あら、誰も居ないじゃない。……お昼ご飯が出来たわよ?」
 母がノックの音と同時に部屋のドアを開いて言った。私は電話だよと返事をして、母の足音が階下に行くのを待つ。
「……部屋で一人で喋ってると不思議に思われるしね」

「太陽の光に当たっても平気なんだねぇ」
「へ? なんですか?」
 なんとなく幽霊というのは夜しか活動できないイメージがあるが、実際にはそうではないらしい。いつものベンチに腰掛けて、肩のあたりを漂う彼女を見上げた。
 青白い肌は健康的とは言えないが、それでも不健康に見えるほどではない。太陽の光すら跳ね返しそうなほどにきめこまかい肌だ。……まぁ、嫉妬は、しないでもないな。
 ――彼女の名は、日向カガミという。没年は丁度十年前とのことだ(やはり幽霊とは死した人間がなるものらしい)。そして、私に憑いたのが、三年ほど前からになる、と彼女は話した。
「へぇ。つまり守護霊みたいなものだと思えば良いの?」
「そうですね。それに近いです。そ、その……、どうですか、三年前を境に、それ以前と以後で生活は変化しましたか……?」
 彼女は親に通知表を見せる子供のような調子で、私に問う。
「……あんまりかわんないように思えるな」
「はは、そ……そうですか」
 彼女は落胆して肩を落とした。
「ねえ、ちょっと確認したいことがあるんだけど。カガミちゃんがはじめて私に姿を見せたときさ、あれってもしかして私のことを誘導してくれたんだよね?」
 そうです、と彼女は控えめに頷く。私の脳裏には、フェンスを越えた後に出会った彼女の不自然な言動が思い出されていた。
「ソトがあなたを気絶させたでしょ? ごちんって」
 あれは痛かったです、と彼女は苦笑いを浮かべた。
「あの後に、いつもは迷わない道で迷ったのよね。私、一度覚えた道は絶対に間違わないの。例えそれが獣道みたいなものでもね。その私が迷った。で、迷う前と迷った後で何が変わっていたか、って考えると――そう、君が居なかったんだね」
 こんな考え方が出来るのも、カガミちゃんから話を聞いたからだ。でなければこんな考えには思い至らない。
「今まで私が危ない目に遭わなかったのも、カガミちゃんのおかげなんだね。ありがと」
 私の言葉に、彼女は先生に誉められた生徒みたいにはにかんだ。
「そういえばさ、ソトとはどんな話をしたの? 彼女、何か言ってた?」
「え? いえ、とくには。サキさんに宜しく、危ない目に遭わせて済まない、とそのくらいです」
「ふぅん……。済まない、ね……」
 私は勢いをつけてベンチから立ちあがった。わあ、とカガミちゃんが慌てて避けるが、逃げ遅れた彼女と私の身体は接触し、そのまま通り過ぎた。
「急に立ちあがらないでくださいー。びっくりするじゃないですかー」
「おお、やっぱり通りぬけるんだ」
「……はい。でも、気合入れれば触れますし、周りから見えるようにもできます」
「お嬢様が気合とかって言うかな……。ま、いいや。それじゃあちょっと付き合ってもらうよ。当然一緒に来てくれるんでしょ?」
「ええ、そういうものですからご一緒しますけれど。……どこに行くんです?」
 屋上に来たときから、私の視線は一点に注がれていた。
 森の只中の、一軒の白い家に。

「私さ、カガミちゃんがこうしてやってきてくれるのを待ってたんだ。きっと」
 屋上から続く階段を降りながら、少し遅れてくる女の子の霊に話し掛ける。
「あんなことがあった後に一人であの森に立ち入るのは怖くて。昨日一日、気持ちが晴れないまま過ごしてて、それがずっと続くかと思ってた」
「……なんで、また森に入ろうだなんて思うんですか?」
「ソトに会わなくちゃいけないから。会ってお礼を言わないと、ね」
 会えないかも知れない。
 口をつく言葉とは裏腹に、胸中ではそんな風に私は思う。またソトに会えるなどという保証が一体どこにある? 私が出入りするのはあの森なのだ。カガミちゃんが来てくれたことで(彼女の言葉を信じるならば)、これで危険な目には遭わないようにはなったはずだけれど、また迷って『あの家』に辿り着かないとも限らない。
 彼女が会いたくないと思えば、私なんてこの森の入り口で追い返されそうなものだ。まるで森に住む妖精だ。
 ……妖精、か。彼女の不可思議な雰囲気と可憐な容姿はその形容がぴったりだ。……服のセンスや言葉遣いなんかに目をつぶるなら。
「あのですね」カガミちゃんがおずおずと口を開いた。「お気づきですか? その、驚かすつもりはないんですけど、どうやらサキさんは生まれとか周囲の環境が特殊らしくて、引き寄せる体質らしいんです」
「引き寄せる、ね。霊感体質みたいなものかな」
「そう思ってもらって良いです。この間、私から離れたサキさんがあの家へと行ってしまったのも、こうして私が憑いているのも、それが原因です」
「……なら、またあの家に行っちゃうってことはないんだね。それは嬉しいな。……あとさ、一つ聞きたいんだけど」私は改まって尋ねる。「どうして――私を? 私を守ってくれる、その理由って……」
 あまり口に出したい話題ではないが、そうもいかない。
 体質が特殊なのだと彼女は言う。彼女のような霊を引き寄せる体質だと。けれど、それはあくまで引き寄せる理由でしかなく、……彼女が私を守ってくれる理由にはならない、と思う。
「あなたに憑いたのは偶然です」と彼女は笑った。「……と言いたいところですけど、本当のところはですね、ただ憑くにしても、こういってはなんですけど……競争みたいなところがありまして。サキさんみたいな体質の人は依り代として狙われることが多いんです。だから私が見るに見かねて、みたいな感じですかね、えへ」
「この前の、幽霊みたいなものに狙われる?」
「はい。生きる人に憑くのは、現世に残るためのパスポートみたいなものでして。手段を問わずに乱暴に依り代を得ようとする人もいます。先日に会った人たちがそうですね。……でも、私が彼らに道を尋ねたときは悪い人に見えなかったんですけど……」
「……じゃあ、貴方もそうなの?」
「はい?」
「貴方も、私に憑いているのはこの世に残るため、なの?」
「…………」
 彼女は呆けたような表情になった。そしてすぐに底の知れない浮遊したような笑みを浮かべて言う。
「そうですよ――と言ったらどうしましょうか?」
 私は彼女の様子をうかがう。カガミちゃんは半眼の流し目でこちらを見る。手を口元に当てて、笑みは崩さない。
「そうですね。私はサキさんに嫌われることさえなければ、ずっとこちらに居られるわけですからね。サキさんをその体質から守るかわりに、私の依り代になってもらう――。これって良い関係ですね……?」
「……うん。そうかも知れないね」
「――え? あれ?」
 私があっさり肯定してみせたからか、彼女は少し面食らったようだった。
「さ、ソトの家、気合入れて探そうか」
 惑わされて追い返されようと、とりあえずは動かなくてはならない。
「あの――。さっきのは冗談なんですー……」
 でしょーねと私は肩を竦めて見せた。
「少しでも、あの、和んでもらえるようにと思って言ってみたんですけど……。昔からサキさんはこういうの嫌いでしたね、そういえば……。ご、ごめんなさい」
「……君のことは信じるよ。――そろそろさ、迷わないように注意してもらえる?」
 私達は既に森に足を踏み入れていた。ひやりとした空気が肌を撫でる。先日は帰りで迷ったからと言って、行きが容易だとは限らない。今度は行きですら化かされるかも知れないのだから。
「ちょっと聞きたいんだけど。カガミちゃんが居ると別に迷わない、ってわけじゃないのよね?」
「はい。私は他の幽霊達からの干渉を防ぐだけです」
 ……迷わずに行けるかな、ソトの家。
 先日、帰り道に迷ったのは霊による干渉なのだという。それを防ぐのだから迷うわけはない――のだが。その確証なんてどこにもない。
 よしんば辿り着いたところで、古ぼけた『ソトの家』か、真新しい『あの家』のどちらに着くかも分からない。それにしても不思議なものだ。上空からでは、真新しい白い家が一軒見えるだけだというのに、辿り着くのは古ぼけた『ソトの家』だというのだから。ソトの家がこの森の中に本当に存在しているのかどうかすらも疑わしく思えてしまう。
 ソト。彼女は一体なんなのだろう?
 幽霊の居る森なんかに平気で住み付いている彼女。どこか浮世だった雰囲気を持ち――、霊を叩き、その姿を見――、緑に光る瞳を持っていた。
「――――」
 まるで木々が手招きをしているようだ、なんて月並みなフレーズが頭をよぎる。
 意地。
 そう。これは意地だ。
 怖くないわけがない。不安がないといえばそれは嘘だ。
 あのとき、ソトにお礼の一つも言えなかった私の不甲斐なさが私の気持ちの原動力。このまま別れるなんて気分が悪い。ソトにあなたは悪くないと言わねばならないのだ。
 活を入れる。
 ……気持ちの準備は整った。
「さて、行こうか」
「どこによ? 痛い目みたんだから、ちょっとは懲りてよ、もう」
 え?
 後ろから、声。
「また襲われたらどうする気? 助ける身にもなってみろというのよ」
 私の後ろに立つソトは、学生鞄を手に提げてセーラー服を着ていた。片目を瞑り、気だるそうに立っている。
「……あれ?」
 セーラー服?
「あ、これ? 夏休みだっていうのに補習なの」彼女は照れくさそうに顔を逸らした。「頭悪いのがバレたら恥ずかしいから見られたくなかったんだけど……」
 女子中学生。
 マジですか。

「まったく、学校なんて必要ねーわよ」
 彼女はそう言ってすぐに私服に着替えた。今日は膝丈のジーパンに、臍の出ているシャツ、その上にカーディガンを羽織っている。変な取り合わせだ。
「義務教育なんだから。それに、学校、悪いことばかりじゃないでしょう?」
「言ってみただけよ。学校は楽しいわ、補習さえなければね。……はっ、悪くない、全然悪くない、ってね」
「え? なにそれ?」
「私の好きな小説によく出てくるフレーズ」
 私の、少しくらいなら勉強を教えることができるという言葉を彼女は鼻息で一蹴した。
「はん、教えてもらわなくても一人でやってみせるわよ。それに、勉強が少しくらい進んでいるからって年長者ぶらないで欲しいものだわ」
 言葉の内容とは裏腹に、口調は拗ねた子供以外のなにものでもない。私は声を出して笑いたいくらいだったけど、いくぶん控えて、にやけてみせるに留めておいた。ソトは私を睨むだけで、何も言わずに口を閉ざしていた。
「……で、何をしに来たの?」
 彼女の家のテラスで、私たちは向かい合って座っていた。
「お礼を言いに」
 彼女は出来の悪い生徒を相手にするような表情になった。
「それだけ?」
「そうよ」
「…………」
「ありがとね」
「……あなたって友達とか家族によく心配されるタイプでしょ?」
 ソトに言われるまでもなくその自覚はある。
 しょうがないのだ、それしか方法が思い浮かばないのだから。
「うん。バカだからね、私。他にどうしたら良いのか分からなくて」
「あはは」彼女は愉快そうに笑った。いつも見せる皮肉げな笑顔ではない。「いいね、そういうの。サキさんみたいな人がいるから世の中つまらなくないのよ。ほんとうに、冗談とかじゃなくて」
 私も一緒になって笑っていると、彼女は少し慌てて「バカにしてるわけじゃないわよ」と付け加えた。
 彼女はさて、と言って態度を切り替える。
「まさか本当にお礼だけ言いに来たってわけじゃないでしょう? ……聞きたいことがあるならどうぞ? ここからはサキさんにとっての解決編ね、言ってみれば。答えられる範囲でなら、質問は聞くわ」
「うーん……。カガミちゃんにいろいろ聞いてるから、とくにこれといって尋ねたいこともないんだけどねぇ……」
「――ところであなた」
 そのソトの言葉は私にあてられたものではないらしい。彼女の視線は私の後ろに注がれていた。
「は、はい。なんでしょうか……」
 カガミちゃんは怯えたように身を縮こまらせる。
「そんなに怯えないでよ……」ソトは困ったように眉根を寄せた。「言ったでしょ? サキさんがここに来たいって言ったらそれとなく止めるように、って」
「えと、それは無視させてもらいましたー……」
 思いがけない言葉に、ソトは表情を硬くする。
「――ふーん。……それはどういうこと? あなたがついていても危険は全くなくなるというわけではないと言ったはずだけれど」
 ソトの声は氷のように冷たい。ただ事実を確認するだけの口調だった。
「サキさんを止めたなら」カガミちゃんはおずおずとした語調だったけれど、私はその中に退かぬ意志を感じた。「誰もよい思いをしなくなるからです」
「誰も……?」
「はい。ここに居る、みんながです」
「みんな、がね……」ソトは諦めたように嘆息を一つ漏らした。「ま、こうなるのは目に見えてたんだけどさ。サキさんは止めても来るだろうとは思ってた」
「――そうだ。一つ、聞いても良いかな?」
 質問はと言われて真っ先に脳裏に浮かんだのは、やはりこの質問だった。
「ときどき遊びに来ても良い?」
「とことんズレてるわね、あなた」
 ふいに、ソトのその表情が翳る。少しの躊躇の後、ソトは静かに言った。
「私のこと、怖くないの?」
「くだらない質問だね。つまんない問いは一回きりだよ。ソトのこと、怖いと思ったことなんて一度もない」
「物珍しいから?」
「――え?」
「私のことが珍しいから、そういうことを言うのかしら?」
 私は少しの間、無言になっていた。
「……つまんない問いは一回きりだって言ったはずだけど」
 私の声には抑えきれない不機嫌さが混じっていた。――いや、この場合は抑える必要なんてないはずだ。
「――――」
 でも私は二の句を継げなかった。
 君と友達になりたい。
 それだけの言葉が続けられない。……それは、なんて言いにくい言葉なんだろう。考えてみればそれも傲慢な言葉なのだ。
 言葉面は綺麗だけど、その中身は、相手の同意を得なくては成立し得ない関係になることであって――。
「……あー、いーよいーよ、好きなだけ来なさいよ」
 ソトは呆れて笑う。仕方がないわねとでも言うように。
「その娘、カガミさんが憑いてる限りは決して迷うことはないから、心配することはないわ。でもね、これからは森を歩くときは注意すること。カガミさんから離れない、決まった道以外は通らない、5秒以上目を瞑らない。……オーケー?」
 彼女のその笑顔は、以前と比べていくらか親しげなものになっているような気がした。

 ソトの家を後にしようと席を立つ。
 今日も連日の記録的猛暑とやらの一日に名を連ねるほど暑かったわけなのだけれど、いつものように、この森の中だけが季節から取り残されたように涼しい空気を含んでいた。木々が日の光を遮っているので、森の中は外と比べ暗くなっている。
 ん、と伸びをする。意識すると蝉や小鳥の鳴き声が耳に入ってくる。心地よいそれを聞き流しながら、私はなんとはなしに空を眺めた。
「あ」
 なんてことだろう。
 その瞬間、私の中でいくつかの疑問が氷解する。
 そういうこと、か。
「どうしたの、呆けて。間抜け面が強調されてるんだけど?」
 うるさいな。
 私は改めてソトの家を眺める。それはやはり、陰影を含んだ、どこか暗いような印象だ。それを私は今まで年月が経過したようだと感じていたが――。
「あ――あは、はははは、なぁんだ! そういうことだったの!」
「え? あの、サキさん?」カガミちゃんは突然笑い始めた私に不可解そうに尋ねる。「あの、どうか――?」
「そうだ、そうだよ、こんな大事なこと聞き忘れてるなんて! ソト、この間、私が襲われた白い家って、この家とは別のものだよね? ……あ、待って、今更何をそんな当たり前のことをって顔してるけど、私さっきまで勘違いしてたのよ」
「勘違い?」
「そう。あの真っ白な家と、このソトの家が同一のものだ、ってね。確かにこれだけ色々起こる森の中だもの、そう勘違いしちゃっても無理ないと思わない?」
 先刻まで、私は、森の中を歩いているうちに、家の外観が変化してしまったのだと考えていた。
 しかし実際は違う。考えてみれば当たり前のことだったのだ。
 私は上空を仰ぐ。
「ここからじゃあ空が見えない――」
 私の頭の上は木々がその手を伸ばして、空も見えないほどなのだ。見えるのは蒼の欠片だけ。
 地面から――この家から、空が見えない。それはつまり、空からもこの家は見えないということである。
 簡単なことだ。学校の屋上からこの家は見えるわけがない。
 今まで屋上から見てきた家は、私が襲われたあの白い家であり、ソトの家が古ぼけくすんで見えていたのは、ただの光の加減というわけだ。どんなに外観が白くても、それを照らし出す光がなくては白は映えない。
 ――遠くから外観を眺めるのと、近くで細部まで観察するのとで、こうまで違うなんて。
「なに? 一体どうしちゃったの?」
「いえ、私にもよく分からないですー……」

 たった一人で不思議を観測し、一人でそれを解決して、しかも解説の必要もなしとは、とても虚しいものだと思った。


 それ以来、私はあまり屋上に行くことはなくなった。なぜか分からないけれどあまり楽しいと思わなくなったのだ。それをソトは「バカが治ったのよ」と嘯いた。
 連日暑い日が続いている。夏休みはまだ長い。たまにはお洒落して遠出しようと思い立つことも増えた。
 色々なものを見逃さぬよう目を凝らし、よく見てみる。
 きっと、楽しいことなんて、そのあたりにたくさん転がっているものなのだから。

                                                 了


『緑の抵抗値』

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