『僕らの青年期 ~ 声』
冷えた指先よりも冷たい、部屋の鍵。鍵穴に挿して、回す。渇いた音と一緒に、鍵が開く。
音を立てて軋む扉と、部屋に夜の空気が流れ込む感覚。ただいま、と心の中だけでそっと呟いて、後ろ手に扉を閉める。
ぎ……ぱたん。
今日は木曜日。明日が終われば、二日間の休み。普通なら気分が軽くなっても良いものなのに……。
何度目かの溜め息が、漏れた。
職場の後輩に一人、変わった子がいる。
仕事は一生懸命。なのに、どこかいたずらっ子のような感じがする。彼が何かを言うと、誰もが最初に「しょうがないな」と呆れて、それから笑顔を浮かべる。いるだけで周りの空気を軽くする、そんなタイプの子。
そんな彼――日吉君と接するのは、私としてはちょっと苦しくて……出来るだけ、距離を置くようにしていた。それなのに、
「かの子さん、僕と付き合ってくれませんか? もちろん、結婚を視野に入れて」
帰りのエレベーターの中で、そう告白された。
理由を聞くとか、答えを探すとかよりも、とにかく驚いてしまって――
何も言えないまま、開いた扉から逃げ出すしかなかった。
満員の電車の中で、重い気持ちを押し留めるのに必死になっていた。
どうやって断ろうか、必死になって考えていた。
家に着いてもまだ、上手な断り方が見つからないでいる。
テレビから流れる、お決まりの笑い声。似たような音楽と、聞いたことのある台詞。そんなものをぼんやりと眺めながら、夕食を済ませた。
例えば、私がもっと若くて綺麗な子だったなら、迷わず彼の言葉に頷いていたと思う。でも、私はそれほど若くないし、もちろん綺麗でもない。それに、正直なところ未だに誰とも付き合ったことがなかったりする。
友達だって、ほとんどいない。
だから休日が楽しいとも思えないし、誰かと付き合っても何が楽しいのか知らない。はっきり怖いと思うこともある。
こんな歳になっても私は、人との付き合い方を覚えられずにいるのかもしれない。そう考えると、また溜め息が漏れた。
こういう日は早く寝てしまおう。そう思って、シャワーを済ませるとすぐにベッドに潜り込んだ。蛍光灯を消して、スタンドをつける。切り取られた明るさが、枕元だけを浮かび上がらせる。
眠る前に、いつもすること。沈んだ気分の夜に、繰り返すこと。
枕元のラックに手を伸ばして、それを取る。掌できゅ、と握って、引き寄せる。
乳白色の明かりに照らされて浮かび上がるのは、マイクロレコーダー。あまり流通していない規格の、とっくの昔に廃れたタイプのレコーダー。
目を閉じて、一度呼吸をしてから、ゆっくりと再生ボタンを押し込んだ。
古いテープから流れるのは、ノイズの混じった声。優しくて、低く響く、男の子の声。
閉じた目の裏に、その姿を描く。日ごと薄れて行く記憶を留まらせようと、記憶を探る。
けれど……。
当たり前のように過ぎて行く時間は、私から思い出を一つ一つ消し去ってしまう。
古いテープレコーダーから流れる声は、今夜も変わらない。
だから私は、その声を聴く。
変わることのない思い出の一欠けらに、そっと手を伸ばすように。
思い出される場面は、高校時代。放課後の放送室で、あの人が冗談半分に録音した言葉。
他愛のない冗談で始まって、段々と真面目な口調になって、やがて言葉に詰まる。
本当の気持ちを語るのには、いつだって誰だって時間がかかる。
『俺はこの先何年か経って、今日のことを思い出して……ちゃんと笑えるかな?』
放送室の小さな窓は、哀しくなるくらい鮮やかな朱色だった。でも、部屋の中は灰色で……。
私は、そこでレコーダーを止める。
その後には、私の言葉が入っているはず。どう答えたかは、思い出せないけれど。
それでも私は、いつも同じ場所で止める。
『ちゃんと笑えるかな?』
私の答えは聞けない。聞きたくない。
あの人と離れ離れになってから、もう十年が過ぎようとしているのに。
目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸をする。
目を開ければ、涙が零れ落ちてしまいそうだから。
何年経っても、この気持ちは抑えられない。
私は、それでもまだ、あの人のことを忘れられないのだから。
スタンドを消すと、部屋の中には均一な黒が降りかかる。
熱く滲んだ目蓋の裏も、闇に混ざって溶けて行く。
彼の名前は、道行君。みんなからはみっちゃんと呼ばれていた。高校生にもなってみっちゃんはどうかな、と最初は思ったけれど、確かにそういう呼び方がぴったりな人だった。休み時間になると自然と周りに人が集まる。私とは違って、人当たりの良い性格だった。
それに、とても優しかった。
「放送部?」
椅子に座ったまま、私は声を上げた。
「そう、放送部」
無邪気な笑顔を浮かべた彼が、私を見下ろしている。
「転校してきたばっかでさ、あんま友達いないでしょ? キミさ、あんま運動部とか入るタイプじゃないみたいだし」
確かに運動部には入るつもりはなかった。どんなに辛い練習を乗り越えて、仲良くなっても……。
「そうだけど、でも、」
「ならさ、いいじゃん。一緒に放送やろうよ」
「でも、私は……」
多分、この街を離れることになるから。
そう答えるつもりだった。
言えなかったのは多分、寂しかったから。一人でいることの寂しさを、誤魔化したかったから。あの頃の私はずるい人間だったと、今ならはっきり分かる。
本当ならここで、ちゃんと断るべきだった。そうすれば……。
「大丈夫だって。設備と機材の使い方は俺が教えるし。それにキミ、すごく良い声だしさ」
真っ直ぐな笑顔。私にだけ向けられた、私のための笑顔。身勝手だけれど、そう思えた。
だから私は、彼と一緒に居ることに決めたのかもしれない。
それがきっかけになって、私は教室に溶け込むことが出来た。
子供の頃から転校を繰り返してきた私を、しっかりと受け止めてくれた道行君。私の居場所になってくれた学校。初めて離れたくないと思った、あの街。
けれど私は、あの街を離れてしまった。
もしも私がもう少しはっきりと自分の気持ちを表に出せたなら、と思うこともある。
「私は、ずっとこの街に居たい」
そう両親に言ったなら、どうなったのだろう、と。
もちろんそれはただの夢想でしかなくて、私は街を転々としながら高校時代を過ごした。
彼に一言も言えないまま、私はあの街を離れて――
テープに録音された日のことは、ちゃんと覚えている。
あれは、私が引っ越すことになる前の日のこと。
その日、私は職員室で先生と短い話をした。急に決まるのも、何かに追われるように街を移るのも、いつものこと。憂鬱なのは、次に通う学校の編入試験のことくらい。
でも……。
いつもと違ったのは、道行君がいたということ。
彼を探して、放課後の校舎を歩いた。
誰もが帰り支度を終えて、連れ合って笑顔で下校して行く。そんな背中を、他人事のように眺めながら。暮れ行く日を、異邦人のように見送りながら。
見つけたのは、放送室。
『これ、もう録れてるよな?』
彼は何も言い出せない私に、優しい言葉を投げかけてくれた。
テープに残るあの人の声は、いつまでも変わらない。
あの日と同じ、別れを思いもしない声。
浮かない顔の私に向けられた、温かい言葉。
でも……。
それを聴いている私は、変わってしまった。
あの日の私の気持ちは、テープに閉じ込められたまま。
最後の夜、流れる街灯が哀しかった。
望まない場所に行くのは嫌だと、初めてそう思った。
同時に、こう思うのは最後なのだろうと予感していた。
私はあの日から、どこにも行き場をなくしたままでいる。
朝の訪れに、私はいつも逆らわない。ありのままに受け入れている、という訳じゃない。ただ、朝になれば起きるものとしか考えられないだけ。嫌だなとか、辛いなとか、そういうことは考えない。
目を覚まさなければ、ベッドから出なければ、私はどこにも行けない。
居場所を探すことさえ、出来ない。
朝の光は押し付けがましく、窓を白く染め上げている。
吐く息が白くなって、しばらく経つ。私は薄手のコートにマフラーをつけて、会社まで通っている。
「おはようございます」
「あ……」
駅から会社までの道。たくさんの人が競うようにして足早に進む道。後ろからの声に振り向くと、そこに例の彼がいた。私に告白をしてきた後輩の、日吉君だ。
「かの子さん、ひょっとして寝坊ですか?」
「ううん、そんなことないけど……」
言われて、腕時計を見てみる。針はまだ、八時の少し前を指している。充分に余裕のある時間だ。
「あれ? でも今日って確か掃除当番の日ですよね?」
「それ、来週だったと思うけど」
女性社員にだけある、掃除当番。いつもより三十分早く出社して、職場を掃除する日。
ふと気付く。
「私の当番の日、どうして知ってるの?」
「いやでもまあ外れてましたよね」
はは、と照れ笑いが返ってきた。
会話をしながらも、私たち二人の足取りは止まらない。他の人たちの足音に置いて行かれないよう、懸命に足を進める。
「やー、やっぱりほら、そういうのってどうしても気になるじゃないですか」
どうして? とは聞けなかった。そのことに触れられるのが、怖かった。
私がそう言えば、昨日のことを持ち出されるかもしれない。そうなれば、私は断る言葉を探さなくてはいけない。理由はまだ、見つかっていないのに。
「……そうかな?」
俯き加減にそう言って、私はまた足取りを早める。少し遅れた日吉君には、聞こえなかったかもしれない。でも、それでいい。
「っ、かの子さん!」
二歩の距離を駆けて、彼は追いついてきてしまった。私は顔を上げられない。
「返事、待ってますから」
顔を上げられないまま、ほとんど走るようにして、私は会社に飛び込んだ。
仕事をしている間、私は何も考えずにいられる。
子供の頃に出会って仲良くなって、別れ際に泣いてくれた子たちのことも。
段ボールから本棚に移されることのなかった、教科書とノートのことも。
時々私の日常に触れて、揺らして、離れて行く。そんな男の人たちのことも。
そして……。
一度だけ自分の意志で足を運んだ、あの街のことも。
あちこちを流れるような暮らしが始まったのは、小学校四年生の頃だった。両親の仕事の都合。そんな有り触れた理由だった。
中学校の卒業が間近に迫った頃、お母さんが私に言った。
「やっぱり、どんなでも高校までは卒業して欲しいな」
一人でいることには慣れていたけれど、一人暮らしを頼めるほど経済的には恵まれていなかった。
高校を卒業してやっと、私の転校生活は終わった。
就職を決めてて一人暮らしを始めた街は、お父さんの生まれた街だった。
「じいちゃんたちがいるから、何かあったら頼りなさい」
お父さんは、そう言ってまた違う街へと越して行った。お母さんと二人で。
私が今居る街は、お父さんの生まれた街。おじいちゃんとおばあちゃんもここで生まれて育ったらしい。
けれど……。
どうしても、私はここが落ち着ける場所だとは思えなかった。思春期の全部を、あちこちに置いて来てしまった気がしていた。大切なものは全部、置き忘れて来てしまったのだと。
だから私は、それらをまた集めようと思い立った。
社会人一年生、十九歳の私は、最初にあの街へ行った。
話上手で、運動が苦手で、本を読むのが嫌いで、成績が悪くて……クラスの人気者だった、道行君がいた街へ。
初夏にありがちな、天気の悪い日だった。どっちつかずの気温が、妙な緊張感を後押ししていた。
空は薄く曇って、とてもじゃないけれど晴れやかな気分になんてなれなかった。
記憶に微かに残る、駅からの風景。哀しいくらい変わってしまった街並み。でも、どこかぱっとしない雰囲気は変わらないままだった。
高校生だった頃、私はこの街に暮らしていた。ごくごく短い間だけだったけれど、確かに。
そう思うことは切なくて、気が緩めば涙がこぼれてしまいそうなくらいだった。
高校までタクシーで移動して、そこからいつも下校していた道順を辿った。坂道を下って、住宅街を抜けて、神社の脇を抜けて、大通りを横切って……。
私たち家族が借りていたアパートは建て直されて、ペパーミント・グリーンのハイツになっていた。灰色の空と、白けた緑色の組み合わせは、どの角度から見てもちぐはぐに見えた。
それから私は、彼の家があった場所に向かった。
一番の近道は、神社の境内を抜ける道。天気の良い日は真っ白な光が降り注いで、木々の吐く息を照らし出していた。その景色は記憶の中で色褪せることなく残っている。
けれど、神社の御神木は何故かなくなっていた。台風か落雷で倒れてしまったのかもしれない。思わず止まっていた足をはがすようにして、私は道を進んだ。
生垣のある家、水の張られた田んぼ、自動販売機の多いたばこ屋さん……。
細い三叉路を右に曲がって、その奥にあるのが、彼の――道行君の家。
緊張感は期待に変わって、鼓動は自然と早まっていった。
濁った日差しも、優しく感じられた。
でも、その場所は空き地になっていて……。
微かな日差しを求めるように揺れる雑草は、私に「もうそれは終わってしまったことなんだよ」と教えてくれた。
私はそれから、どこかへ行くことを諦めた。
置き忘れてしまった大切な何かは、もう集められないのだから。
休憩時間、私はいつも他の子たちと連れ合って休憩室へ行く。
前の日のテレビドラマの話題。自分の、それと知り合いの恋愛の話。服装のこと。流行の化粧品や、香水。そんな話を楽しそうに感情を込めて話す、若い女の子たち。私はその端っこに座って、静かに微笑んでいるだけ。
「かの子さんは、明日どうします?」
明日は、職場の人たちが集まってスキー場に行くという話が持ち上がっていた。この時期だとまだ人工雪の場所が多いけれど、初滑りにはいいだろう、と。
「ん、私はやっぱりいいわ。疲れちゃって」
いつものように、私は柔らかく断る。集まった視線も、自然に逸らされる。目立つことも、咎められることもない。
チャイムが鳴って、休憩所から職場に戻る。
また、考えることのない時間がやってくる。右から左、左から奥へと物事は流れて……。
「かの子さん」
控え目な声に、私の意識が引き戻された。顔を上げると、にこやかな笑顔。
いつかどこかで見たような、記憶を刺激する笑顔。
「……日吉君」
「明日、行かないんですか?」
「あのね、もうお仕事始まってるから、」
そういう話は後にしてね。そう続けようとした。周りの人たちは、もう仕事に取り掛かっているし。
「僕のせいですか?」
く、と胸が詰まるような気がした。日吉君の声はいつもと違ってとても真剣で、必死で、重く揺らいでいて――
そんな声を出させたのが私だというのが、苦しい。
「そうじゃないの。ただ、少し疲れちゃったから……」
「かの子さんが行かないなら、僕も行きません」
『……ら、俺も……ていい……』
耳元で、ノイズが走った気がした。一瞬で世界の色が変わったような、時間がずれたような、そんな感じがした。
顔が、軋む。
「そうだ、これ僕の携帯の番号です。もし明日か、そうじゃなくても明後日に時間が空いたら……」
「あ、あのね、日吉君……今はもう仕事中だから……」
それでも強引にメモ用紙を押し付けてくる彼に、私は極力声を抑えて抗う。周りの人たちの目が、ちらちらとこちらに向けられている。
「でも、仕事よりずっと大事なことですから」
そう、はっきりと言い切って……言い切られてしまえば、私に逆らう力なんてなくて……。
何も考えなくて良いはずの時間が、何も考えられない時間になってしまった。
一度だけ、他の人の転校に立ち会ったことがある。
帰りの学級会が終わった後、お別れ会が開かれた。プレゼントと、寄せ書きの色紙が渡された。その子は、ちょっとだけ泣いて、大きな声で「ありがとう」と言った。
次の日から、その子の席はもうなくて……クラスの誰も、その子の話はしなかった。
誰かがいなくなるのは、その程度のことなのだと思えた。
あれは確か、小学校六年生の出来事。
夜がとても騒がしい、そんな街での出来事。
帰りの電車の中、私は窓の外を見ている。
いつもよりも少し早い時間。だんだんと早くなる、夕暮れの景色。この時間でも、外はもう街灯とネオンで鮮やかに彩られている。
光は上下に揺れながら、伸びて帯になる。いつも見ているこの光景は、あの思春期の頃に何度も見た、車窓を流れる光と同じで――
会社と部屋との往復も、たったそれだけの移動も……私にとっては、辛い旅に思えてしまう。
私は放送部に入った。部員は道行君と私の二人だけ。私が入部する前は、顧問の先生と二人きりの活動だったらしい。
唯一の晴れ舞台は体育祭だったと、笑いながら言っていた。
けれど、私は良く知っていた。お昼休みに流れるクラシックは、彼の私的なコレクションからなのだということを。
「体育の木村さ、あんな顔してんのにクラシックマニアなんだよ」
そんな話をしながら、とても楽しそうに曲を選んでいた。
私はそんな彼の姿を眺めながら、ゆっくりと時間をかけてお昼を食べていた。
あの頃――
私は、確かに笑っていた。彼が私に、笑顔をくれていた。
今の私は、きっと……。
部屋に戻って、いつもと同じように過ごす。時々時計を見て、時間がちゃんと過ぎているのを確かめながら。
今日は金曜日。明日と明後日は、休日。休日は、いつも私を戸惑わせるだけ。
たくさんの、考えなくてはいけないこと。これから先のこと、仕事のこと、おじいちゃんたちのこと、お父さんたちのこと。それと、日吉君のこと。
全部を閉じ込めて、ベッドに逃げ込む。マイクロレコーダーに手を伸ばして、再生を押して……。
『これ、もう録れてるよな?』
ノイズ混じりに流れ出す声。
『ちゃんと聞いとけよ? 将来有名人になるかもしれない俺が、貴重な音源を残すんだからさ』
私の短い笑い声。少し、擦れている。
『浮かない顔した、かのちゃん。彼女に何があったのでしょう? そして俺はそんな彼女に、ちょっと良い話を聞かせてあげるのです。ほら、顔上げてよ』
数秒の空白。『うん』と頷いた声。
『ベートーベンと、交響曲第九番の話。
彼が第九を完成させて、初めての公演。既に音を失っていた彼は、それでもオーケストラの前に立ったんだ。タクトをしっかりと握ってね。目を閉じて、タクトを振るベートーベン。当然、オーケストラはそんな指揮じゃあ演奏出来ないから、舞台袖に別の指揮者がいた。もちろんベートーベンには内緒で。
音のない世界で、目を閉じて、自分を見ていないオーケストラの前でタクトを振る。そんな彼の背中を、とんとんと叩くソプラノ歌手。
ベートーベンは手を止めて、目を開ける。ソプラノの彼女は何も言わず、ただ彼の後ろ……客席を指差した。
ベートーベンが見たのは、総立ちの客席。手を振り上げ、口々に賞賛の声を投げかける人たち。
――こうして彼は第九を世界に発表することが出来た、って話』
私は何も言わないで、黙ってその話を聞いている。
『俺は思うんだ。その時、彼は何を思ったんだろう、ってさ。そんで……いつも泣きそうになる。つってもこの話、木村の受け売りで、ホントかどうかも怪しいんだけどね』
彼がただひたすらに明るく、笑う。
『で、俺が何を言いたいのかって話。かのちゃんはさ、いつも寂しそうにしてるけど……本当は、みんなかのちゃんのこと気にかけてるんだよ。だからいつかきっとさ、ちゃんと笑って見せてよ。ベートーベンだってきっと、嬉しくて嬉しくて、ぼっろぼろに泣きながら、心から笑ったんだって思うから』
道行君が、私を見ている。息が詰まりそうなくらい、真っ直ぐに。
『辛いこと、苦しいことを超えたらさ、絶対笑えるんだから』
そんな彼の肩を、夕陽が朱色に縁取って――
る、るるるるるる!
閉じていた目を、開ける。電話の電子音が、着信を告げている。けたたましく、まるで急かすように。
慌てて起きて、受話器に手を伸ばす。
「はい」
『あ、良かった起きてた。かの子さん? 日吉です』
「……えっと、」
『やっぱりどうしても、早く返事を聞きたくて電話しちゃいました。番号は会社の連絡網で調べたんです』
頭が上手く働かない。どうしよう、何とかして電話を切らないと……。
『……僕、ひょっとして迷惑かけてますか?』
受話器から聴こえる声は、いつもの彼とは全然違って、まるで別人みたいに落ち着いて聴こえて……。
『かの子さん、いつも僕を避けてましたよね。嫌われてるんじゃないかってずっと思ってたけど、やっぱり好きだし、どうしても諦めたくなくて』
「あのね、日吉君。私はただ……」
声が上手に出て来ない。ひび割れそうなくらい、喉が渇いている。
心臓が、言葉の邪魔をする。
『かの子さんみたいな人がずっと一人なのって、ダメですよ。僕はまだ子供で、頼りがいもないかもしれないけど……』
日吉君の言っていることが、何一つとして理解出来ない。とにかく、一度落ち着いて、電話を切って……。
きゅ、きゅう……。
枕元の辺りで、音がした。違う。そうじゃない。ずっと、それは鳴り続けていた。
レコーダーは、回り続けていた。
『俺はこの先何年か経って、今日のことを思い出して……ちゃんと笑えるかな?』
道行君の声と、
『かの子さんを、ちゃんと幸せにしたいって、そう思うから』
日吉君の声が、交差する。
『私は……私は、分からないな。もしかしたら、笑えないかもしれない』
聞きたくなかった、思い出せなかった、私の答えが――。
「あの、ごめんね。またかけ直すから……」
『それなら、俺は、』
閉じ込められた、あの日の声と、
『ちょっ、かの子さん待って! 切らないで!』
今耳元に響く、一生懸命な声が……。
『それなら俺も、笑えなくて良いや』
妙にさっぱりとした、道行君の声。どうして良いか、分からなくなる。
『僕は、本当にかの子さんのことが、どうしても、』
離した受話器から聴こえる、悲鳴にも似た声。苦しくて、私は声も出せなくて。
『かのちゃんが笑えないなら、俺も笑えなくて良いよ。俺はさ、かのちゃんのことが』
落とした受話器が、床に当たる音。
焦って伸ばした手が、マイクロレコーダーを弾き飛ばす音。
鼓膜が痛くなるくらいの、私の声。大きな大きな、今の私の叫ぶ声。
それと――
古いテープが絡んで、千切れる、最後の音。
ぎ、ぎいゆう……。
「あ……ああ……」
ベッドから落ちたレコーダーは、ボタンが壊れてしまっていた。テープはケースから半分飛び出してしまっていて……。
もう、再生をすることなんて、出来ないくらいに――
「ああああ、ああ、うわあああああ!」
抱き上げて、抱き締めても、壊れたテープは直らない。
途切れた、あの日の出来事を切り取った、変わらない言葉も……もう、聴けない。
「いやあ、ああああ! あああ、わああああ! あ、あああああああ!」
ぼろぼろと、涙が止まらない。止めるつもりもない。
聞きたくなかった言葉を聴いてしまった。聞きたい言葉はもう、聴くことが出来ない。
あの頃の記憶は、ここに留めておけない……!
私は、掌が切れるのも構わずに、強くその残骸を握り締め続けた。
そして、声が出なくなるまで、意識が途切れてしまうまで、そのまま泣いた。
このテープを見つけたのは、高校を卒業して一人暮らしを始めた頃だった。
引越しの荷物に紛れていた、高校時代のバッグ。その中に、息を潜めるようにして入っていた。
あまり流通していない規格の、マイクロカセットテープ。
それはタイムカプセルのようで……中を調べるには、それなりの手順が必要で……。
仕事が休みの日にリサイクルショップを回って、レコーダーを探し出した。
二十代前半の、まだ社会人になりかけの時期。辛いことがあると道行君の声を聴いた。目を閉じて、再生を押して……途中で止める。
まるで、何かの儀式のように繰り返した。
再生、停止、巻き戻し、再生……。
初めて再生を押したときのことは、鮮明に思い出すことが出来る。
早足で部屋に戻って、すぐに電池を入れた。
焦って開かないケースに苛々しながら、それでも丁寧にレコーダーに入れる。
蓋を閉めて、再生。
乾いた音と、一拍遅れて流れ始めるノイズ。
『これ、もう録れてるよな?』
高校時代毎日のように耳にしていた、あの人の声。
最初に日付と、天気を言う。それから、私に向けて声がかけられる。
『ちゃんと聞いとけよ? 将来有名人になるかもしれない俺が、貴重な音源を残すんだからさ』
小さく聴こえる、笑い声。私の笑い声。
私はそれを聴いて……みっともないくらい、ぼろぼろと、涙を流したのだった。
今の部屋に落ち着いて、一人きりで生活を始めて……辛いことも、苦しいこともたくさんあった。当たり前だけれど。
その中で、思春期のワンシーンが私を支えてくれていた。
短い間だったけれど、私を幸せな気持ちにさせてくれた人がいたこと。温かくて優しい言葉を投げかけてくれた人がいたこと。
それは、他のどんな出来事よりも、ただ純粋に、嬉しかった。
思春期の気持ちを、ずっと忘れずにいられた。
けれど……。
初めて引越しをした日のこと。
友達と別れることが寂しくて、車の中で泣いていた。目を覚ますと、窓の外は見たことのない風景。知らない街並みが流れていた。
知らない街並みを、たくさんの人が歩いていた。
その景色を見て、私は――。
どきどき、していたんだった。
寒さで目を覚ました。
ベッドにもたれかかるようにして、私は眠ってしまっていたらしい。掌が引きつって、痛みが走る。スタンドの淡い光にかざすと、少し指を切っていた。血は乾いて、傷は塞がろうとしていた。
傷は、塞がるけれど――
震える体を無理矢理に立たせて、冷たいプラスティックの塊を枕元にそっと置く。
顔でも洗おう。熱いシャワーを浴びた方が良いかもしれない。そう思って振り返ると、視界の端で何かが光った。
見ると、窓の外がぼんやりと白く浮かび上がっている。デジタル表示の時計は、夜が終わる少し前を示している。
カーテンをそっと開けて、外を見る。
「あ……」
まだ明け切っていない、藍色の夜。昇りきっていない、色のない太陽。輪郭だけを浮かび上がらせる街に――
雪が、舞い降りていた。
私は降り続ける雪を眺める。真っ白な頭の中に、雪の舞う景色が色濃く焼き付いて行く――
眠って起きると、体が妙に軽かった。時計を見る。土曜日の、もう夕方に近い時間。こんなにも深く長く眠ったのは、いつ以来だろう?
落ちていた受話器を拾い上げて、戻す。日吉君は、昨夜どうしたんだろう? 突然切れた電話に、不快な思いをしただろうか?
もしそうなら、私のことを諦めてしまうだろうか?
でも、どうして私は……。
窓の外。今年初めての、雪。
降り始めた雪は、積もるだろうか? スキー場に行った子たちは、楽しんでいるだろうか?
私はどうして、「疲れているから」なんて嘘をついたんだっけ?
「……そうよね」
別に嘘をつく必要なんてなかった。黙っていることもなかった。微笑みで我慢せずに、ちゃんと笑えば良かった。
壊れたテープは、もう何もしゃべらない。あれから十年が過ぎようとしている。私の思春期のワンシーンはもう終わって、戻ることはない。
だから……それでいいのかもしれない。
哀しいけれど、これで区切りがついたのかもしれない。
たくさん泣いて、その分体も軽くなった。
「さて、と」
どうしてだろう? 哀しいはずなのに、ちゃんと笑えそうな気がする。昨夜の出来事なのに、遠い過去のことのように思える。
『俺はさ、かのちゃんのことが』
その後の言葉は、ちゃんと思い出せた。それを聴いた私がどんな顔をしたのかも、もう忘れない。
だから、大丈夫。
雪の粒はだんだんと小さくなって、厚い雲も風に流れて行く。
もしもこの雲が消えて、明日が晴れたなら――。
日吉君の告白を受けてもいいかなと、いたずらっぽく思って、私は笑った。
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