『TV shows......』

『TV shows......』

著/遥 彼方

原稿用紙換算30枚


 腐れて朽ちた廃墟街は、魚たちの格好の棲みかだ。
 廃墟街の空気はいつも薄灰色に濁っていて、古い埃と濃密な海の臭いに満ちている。
 低い空はうすぼんやりと曇ったまま、決して晴れることはない。
 廃墟街となる前の街の姿を知るものは、どこにも存在しない。なぜこの街が朽ちたのかも、朽ちたのがなぜこの街であったのかもわからない。街が朽ちたから魚たちが棲み付いたのかもしれないし、あるいは魚たちが棲み付いたから街が朽ちたのかもしれない。もしかしたら最初から、この街は廃墟街であったのかもしれない。それは誰にもわからない。魚たち自身にもわからない。
 崩れかかったビルや民家の他にはほとんど何にもない街だが、ただ北の外れのほうには映写場があった。コンクリートが剥き出しの角張った建物で、正面玄関の側は大方崩れてしまっていた。だからお客たちは、裏手から中へ入ることになる。
 ドレスやタキシードで着飾った魚たちは、砂ばかりが広々と続く平坦な庭を横切って、蒼い塗装の欠片が残る錆びた鉄の扉の前へ行列を作る。
 シルクハットを被った鰯が、タキシードの襟元から懐中時計をしきりに出したり、入れたり、している。その後ろでちまちまと群れをなした十匹ほどのエンゼルフィッシュが、一様にじっと俯いて何かを考え込んでいる。秋刀魚は絵も写真もことばもない新聞を広げ、その紙の光るような白さに見入っている。クマノミは知恵の輪に興じる。
 新聞をめくる、懐中時計の鎖がしゃらしゃらと鳴る、知恵の輪が外れる、魚たちが身じろぎをする、腐れた海が遠くで寄せて返す――音たちが、群れをなしている。はっきりとしないざわめきのかたまりとなって辺りを満たしている。
 風景は決して止まらない。建物も、庭も、魚も。全ての輪郭は常に、かすかにゆらめいている。
 開場が近づくにつれて、魚の数は増えていった。
 列が百匹ほどになった頃、鉄の扉がごろごろと重い音を立てて開いた。魚たちは葬列のように静かに、ゆっくりと冷たい廊下へ入っていった。
 扉のそばには男がひとり立っていた。乱れのない黒いスーツからつやつやと白い陶器の頭を覗かせている。魚が男に紙幣を渡すと、彼は引き換えにチケットを渡す。
 チケットには今日の上映が始まる時刻(四〇〇)、そして上映場所を示す《二―四》の文字がそっけない白い色で書かれていた。
 天井に剥き出しの配管が走る薄暗い廊下に、大勢の魚たちがひしめき合う。空気はむっとするほど生臭い。コンクリートの壁のそこここに、白ペンキで太い矢印が書きつけられており、それにしたがって魚の群れはのろのろと流れていく。
 その部屋は一階のつき当たりにあった。
 朽ちかかった木の扉の横に、二―四と書かれた板が下がっている。
 十メートル四方ほどの正方形の部屋の中は、ひどく埃っぽかった。もっとも埃っぽいところで魚たちに不便はないし、そもそも少しでも埃っぽくない場所など、この廃墟街には存在しない。
 部屋の真ん中には、古い、今にも崩れ落ちそうな映写機が据えつけられている。左手の壁にはガラスの曇った窓がずらり。正面には洗い上げたように真っ白なスクリーンが下がり、後方の壁には濃緑色をした長方形の広い板が掛かっている。白い線で何ごとかが薄っすらと書きつけられているように見えたが、しかしその線の羅列の意味は、今では誰にも解らない。
 そのうちに部屋の中も、魚たちでいっぱいになった。
 ガラスカバーのひび割れた簡素な時計が四時を示すと、蒼い背広を着た陶器頭の男がやってきて、入口の扉をごろごろと閉めた。
 細かな木屑がぼろぼろと床の上に落ちる。
 部屋に入りきらなかった何十匹かの魚たちは、廊下の壁際に並んでこの次の回の上映を待つことになる。
 続いて陶器頭の男は、窓とドアに下がっている分厚い黒カーテンを引いて回った。彼が不思議に美しい動作で、ざあっ、とカーテンを引くたびに、部屋は少しずつ暗くなっていき、最後にはアンコウの額から下がったうす蒼い明かりが、静かにゆらめくだけになる。
 何かを繋ぐようながちゃりがちゃりという音がした後で、白い光が闇を裂いて、前方のスクリーンを照らし出した。同時にごろごろとドアが開いて、誰かがカーテンを掻き分けて入ってきた。
 彼はごくゆっくりとした足取りで歩いてくると、背筋をぴんと伸ばしてスクリーンの前に立った。膝がかすかに震えている。
 観客は一斉に身じろぎをした。空気が深く、とぷん、と揺れた。
 彼は胸元に拳をやって、軽く咳払いをする。
 臙脂色のスーツを着た彼の肩には頭がなかった。代わりに左の胸から、黒い筒が突き出している。筒の先には透明なレンズが嵌まっていて、まるで望遠鏡か写真機のようだった。
「み、み、……みな、さん」
 泣き出しそうに震える声で、レンズ男が言った。
「本日のご来場、誠に、心から、本当に、感謝致します」
 レンズ男は極端な寂しがりだった。
 彼は室内を埋め尽くす魚たちをぐるりと眺めて、その何十もの円い視線が残らず自分へ集まっていることを確認する。絶えず襲い掛かる嵐のような孤独から、視線たちが自分を守ってくれるのを感じる。
 レンズ男は安堵する。
 しかしその安堵のあまりの深さに、彼の機構は一時的にフリーズしてしまった。
 言葉が途切れる。
 静けさが幕のように下りてくる。
 遠くで響く腐れた潮騒が、しばらくの間沈黙を埋める。
「――あああ、さて――」
 やがて戻ってきた彼の声には、いくらかの張りが復活していた。
「上映の準備が整いますまでの間、皆さまにお見せしたいものがございます」
 本当は上映の準備など、彼が黙りこくっている間にとうに終わってしまった。しかし予め決められた予定を変更するというのは、彼にとってはちょうど自殺するのと同じ類の勇気を必要とすることだった。
 ぱむ、ぱむ、ぱむ。
 レンズ男は白い手袋をはめた手を、三回叩く。
 何も起こらない。
 もう一度。
 ぱむ、ぱむ、ぱむ。
 今度は入口のあたりで、黒カーテンがちろちろと揺れた。魚たちの視線がレンズ男から外れ、一斉にそちらを向く。
「はやくはいってきなさい!!」
 レンズ男は恐怖に襲われ、ひっくり返った声を上げた。
「はやくはやくはやく! もたもたしていないで!!」
 するとカーテンが、ばさり、大きく波打つ。外の白い光が一瞬だけ閃くと、何か小さな生き物が、スクリーンの前に勢いよく駆け込んできた。それはあやうくレンズ男の前を通過しそうになり、彼に右腕をがっしりと掴まれてようやく停止した。
 その生き物は少なくとも魚ではなかった。丸い頭が肩にきちんと載っているし、二本足で立っている。腕も二本ある。ただその全てが異様なまでに小さく、短い。――折り畳まれているのだ。
 レンズ男はその肩を掴んで自分の目の前にきっちりと直立させると、頭の天辺から順番に、ぱた、ぱた、ぱたん。慣れた手つきで広げていった。
 ぱた、ぱた、ぱたん。
 小さな生き物はまるでパズルのように、手際よく展開され、たちまち一基のテレビへと姿を変えた。
 魚たちはまた身じろぎをした。
「ご紹介しましょう」
 レンズ男は言った。
「テレビ男です。少し前に港で拾ったのですが、なんとも珍しいことに、彼はちゃんと映ります」
 そしてレンズ男はテレビ男のスイッチを、ぱちん、と入れた。
 ぶん、低い音を立てて、画面に映像が映し出される。

   ――緩く弧を描いてどこまでも続く真っ白な砂浜。打ち上げられた木切れやごみや海藻の黒いのたうつ線。ざぁあ、ざぁあ、波が寄せて返す。
   湿った砂を蹴り上げて。波打ち際を歩く少年がひとり。焼け付くように鮮やかな緑のシャツ。潮風にはためく。両手に下げたビニール袋は黒。
   少年は目を細め空を見上げる。雲のない空は無機的な青。高い高いところでゆっくりと円を描くトビ。
   ざぁあ、ざぁあ――。
   絶えることのない潮騒。
   少年は立ち止まり屈みこむ。砂をほじくる。指先ほどの青い小瓶を拾い上げる。ビニール袋に放り込む。かしゃん。ビニール袋に入ったいくつもの瓶の底に小瓶は沈む。
   そして少年はごみの列に近づいていく。眉根を少し寄せて。
   生白い手のひらが伸びて、ごみをざくざくとかきわける。
  「あ!」
   急に手が引っ込む。
   少年は下唇を軽くかんで手のひらをじっと見つめる。
   人差し指の関節からぎらぎらと赤い血がゆっくりと垂れ落ちる。
   舌打ち。唇を尖らせて前髪を吹き上げる少年。
   遠くで長く低い汽笛。
   少年は振り返る。
   水平線上。濃淡の青の境界。とろとろと航行する黒いちっぽけな船。
   少年はゴミ袋を引っ掴むと、弾かれたように駆け出す。

 ガチャリ。
 ダイヤルが回って、チャンネルが切り替わった。
「こいつは気まぐれでしてね」苦笑するようにレンズ男が言った。
「すぐ勝手にチャンネルを変えるんです」

   ――プラスティックの白いまな板の上。すらりとした銀色の秋刀魚の死体。
  「まず内臓を取りますねー」
   妙に甲高い女の声がする。秋刀魚の肛門に鈍色の刃物があてがわれる。
  「刃は内臓を傷つけないように、なるべく浅く引いてください」
   えらへ向かって一直線に裂ける秋刀魚の腹。
   太い指が伸びてきて、傷口からざくざくと赤黒い内臓を引きずり出す。
  「内臓を傷つけてしまうと、取り出すのが大変になりますからね」
   水。上から下へと流れ落ちる。ばたばたばたばたばたばたばた――。
   そこへ魚を持った手が登場。開いた魚の腹を水に曝して洗う。うす赤い滴が手首を幾筋も流れ落ちる。水滴が散る。ばたばたばたばた――。
   まな板の上に戻った秋刀魚。
  「お鍋に入るように小さく切ります」
   鈍色の刃物が秋刀魚の頭をざっくりと切り落とす。胴体だけになった秋刀魚はさらに三つに切り分けられる。

 ガチャリ。
 チャンネルが切り替わった。

  「はいどうもーエンゲルスですー」
  「どうもー」
  「どうもこんにちはー」
  「どうもどうもー」
  「はいどうもー」
  「どうもー」
  「……っていつまでやっとんねん」
  「ええ?」
  「ええ? やないて。どうもどうもて、やりすぎやわ」
  「いやでもあれやでー、挨拶は大事やって絶対」
  「いやそりゃ大事やけどな、限度っちゅうもんがあるやろ」
  「そうかー?」
  「そやわ。どうもどうもー、言うとるだけで持ち時間終わってまうわ。……で、ね。まあ。ほんと、秋ですよ。秋といえば秋刀魚が美味しい季節ですが……」
  「そんなことより聞いてえなカズちゃん」
  「ええ? なんやねんなもう。お前いっつも人の話の腰折りよんな」
  「おれな、熱帯魚飼ってんねんけどな」
  「シカトかい! ……まあええわ、で?」
  「そんでな、おれな、熱帯魚飼ってんねんけどな」
  「いやそれもう言うたわ。熱帯魚飼ってて、んでどないしてん」
  「ああ、ええとな、あれやで、エンゼルフィッシュ飼ってんねん」
  「ああ、エンゼルフィッシュなあ、ひれがでっかくて、ひらっひらしてて綺麗やなあ」
  「これっくらいの水槽に十匹くらいおんねん、いつもは。せやけどこないだ仕事から帰ったらな」
  「おう」
  「おらんのや」
  「おう!?」
  「一匹もな。水槽空っぽ。ごぼごぼごぼってあの、空気出てるだけ。ほんまにおらへん」
  「おう……」
  「もう、どないしたんやろ?! 思てな。そんで……そう、俺、猫も飼ってんねんけどな」
  「ああ知っとるわ、あのでっかい太った白猫やろ」
  「そや」
  「……まさか!」
  「いやァな予感がしたんや。でいつも猫がおるこたつの部屋、走って行ったらな……案の定や」
  「おう……」
  「口こんなんなっとった」
  「うわ! うわわ、もぐもぐしてる! もぐもぐしてる! うわ! ……えェェ」
  「なあ」
  「おう」
  「食べられてしもたんや。みんな。俺もう悲しくってなあ」
  「おう……」
  「そいで腹も立ったわ」
  「おう、そりゃそうやろなあ、大事なエンゼルフィッシュやもんなあ」
  「な。あんまり腹たったもんやから、俺台所から包丁持ってきてな。猫にお仕置きしたったわ。仰向けにして縦に掻っ捌いて、胃から腸からエンゼルフィッシュ全部取って、もとの水槽に戻したった」

 ガチャリ。
 チャンネルが切り替わった。


   ――からからからからからからからから――。
   映写機の回る音が響いている。
   着飾った魚たちがスクリーン上に展開する映像に見入っている。
   モノクロームの映像にはひどいノイズが混じっている。壁にあいた穴がひとりでに広がる様子。古風な形状の窓や扉。そういう風景が何の脈絡もなく映し出されていく。
   古いスピーカーから流れ続ける、音の割れたオルガンのメロディ。
   魚たちの表情は映像の薄明かりに照らされて青白い。
  「この作品で使われておりますのは、《ばっは》という名前の、ずいぶん昔に生きておりました音楽家の作曲した曲で、ございまして、えー……」
   スクリーンの横ではレンズ男が際限なく喋り続ける。泣き出しそうな震える裏声。
  「映像は、残念ながら誰が作ったものかはわかっておりませんが、おそらくは《ばっは》を極めて好きだったのでしょうねえ、非常に優れて芸術性の高い映像であると評価されており……って私が勝手に評価しているのですがね、ははは……」
   魚たちは誰一匹としてレンズ男を見ない。レンズ男は喋る。魚たちの視線はスクリーンの映像に釘付け。ちらりとも他を見ない。
   レンズ男は頭のない肩をびくり、びくりと震わせる。
  「それでですね……それで……そうそれで……」
   やがてレンズ男の身体は、がくがくと震え始める。
  「……それで……それで……それで……それでそれでそれで……それでええええっええっえっえええええっ」

 ガチャリ。
 チャンネルが切り替わった。

   ――「この近海では独特の銛を使った、伝統的な漁が行われています」
   有機的な深い青をした海の上を一艘の船が走っていく。船体は黒い。
   嵐の後の空模様。灰色のざわざわとした雲。切れ目から金色の光が幾筋も海面に落ちる。波がちろちろときらめいている。
  「このような空の色の時こそ、魚たちは外へ出てくるのだと、船長のカミーユさんは言います」
   船が止まる。何もない海の真ん中。
   甲板へ次々と人間が上がってくる。男。四人。皆ぴったりした黒い潜水服を着ている。右手には銀色の銛。刃先が美しい弧を描いている。
   男たちは静かに水の中へ入っていく。足先からゆっくりと。水音も飛沫もほとんど上がらない。
   やがて全員が吸い込まれるように海へ消える。

 ガチャリ。
 チャンネルが切り替わった。


   ――ドレスやタキシードで着飾った魚たち。錆びた鉄の扉から一斉に外へ出てくる。砂ばかりが広々と続く平坦な庭を横切って街へと向かう。
   ざぁあ。
   ざぁあ。
   水の音。
   何匹かの魚が立ち止まり空を仰ぐ。うすぼんやりと白く曇った空。黒い影が見える。
   四つの影が空を泳いでいる。人間の影。ちょうど平泳ぎの格好。
   ざぁあ。
   ざぁあ。
   さらに何匹かの魚が立ち止まる。円い目で珍しげに影を見上げる。
   影は魚たちの頭上で止まる。
   続いて。何か銀色に光るものがかすかに泡を巻き上げて降ってくる。
   それは切っ先が弧を描く棒。
   その先端がトビウオに突き刺さる。えらに深く深く突き立つ。煙のように立ち昇る赤黒い血。トビウオは一度跳ねる。力を失って空へと吸い上げられる。浮かんでいく。
   魚たちは恐慌に陥る。砂ばかりの庭をちりぢりに逃げ惑う。
   そこへまた銀色の棒が降りそそぐ。ひとつは砂の上に垂直に立ち、ひとつはマグロの右目へ斜めに深く突き刺さる。ひとつはマイワシの背中を貫く。
   空気が赤に染まる。

 ガチャリ。
 チャンネルが切り替わった。
「あれえ?」

   ざああああああああああああああああああああ

 ガチャリ。
 チャンネルが切り替わった。
「おっかしいなあ……」

   ざああああああああああああああああああああ

 ガチャガチャガチャガチャガチャ……。
 少年は眉をひそめ、ダイヤルをでたらめに回した。どこに合わせても灰色の砂嵐しか映らない。ついさっきまで何ともなかったのに。
「このやろ!」
 ばんばんばん! テレビの両側を思い切り叩いても、少しも変わらない。少年はぺたりと床にあぐらをかくと、唇を尖らせ、長い前髪を吹き上げる。
 そして台所に向かって大声を上げた。
「ねえちゃあん! テレビ壊れちまったあ!」
「ええ?」
 壊れかかったスピーカーの鳴るような、姉の声が返ってきた。
「あんた一日中見てるからでしょー? 酷使しすぎよ、絶対。学校行けってことねー!」
 それを聞いて少年はたちまち眉を吊り上げた。
「うるッせえよ!」
 畳を拳で叩き、立ち上がる。
「一日中なんか見てねえだろ! 海だって行ってら!」
「でもほとんどそこにいるじゃないの!」
「黙れ糞ババァ!」
 少年は怒鳴ると、自分より背の低いテレビを睨みつけ、靴下を履いた足の裏で正面から蹴った。テレビは後ろへ傾き、ばん! と重い音を立てて壁にぶつかった。どこかで配線がいかれたのか、雑音が途切れ、画面も暗くなった。
「やめなさい!」
 姉のとがめる声。
「壁に傷、つくでしょ!」
 少年は顔をしかめて四畳半を見渡した。緑色の壁紙はどこもかしこも白い傷だらけだ。
 いつもならばここでクソッタレとでも言い返すのだが、どういうわけか今日はそんな気になれない。少年はもう一度、倒れたテレビに目をやる。画面には何も映っていない。何度か蹴りを入れてみても、うんともすんとも言わない。
 妙に寂しいような気持ちになった。
 少年は部屋の隅に置いておいたビニール袋を取ると、部屋を飛び出した。姉の後ろを駆け足で通り過ぎ、半ば解体しかかった靴に足をつっこみ、外へ出る。
 家の裏に回り、短い林を抜けると、海はすぐそこだ。
 緩く弧を描いて続く真っ白な砂浜に、打ち上げられたごみや藻の、黒いのたうつ線が延びる。
 少年はヒルガオが這いまわる緩い坂を、波打ち際へ下っていった。
 潮風は生臭く冷たく、空は灰色に曇っていた。波はほんの少しだけ高いような気がする。
 湿った砂を蹴り上げながら、少年はごみの列にそって歩いていく。
 時折、砂に埋まったガラスの瓶を見つけては、掘り出して袋に入れる。彼は瓶を集めるのが好きだった。学校に行かなくなってから、瓶の数は格段に増えた。学習机には教科書の代わりにさまざまな色や形の瓶が並んだ。蒼いもの、緑のもの、透明なもの、茶色のもの。首の長いもの、四角いずんぐりしたもの、円筒形のもの。
 握りこぶしがそのまま入るほどの瓶を見つけた少年は、それを波打ち際まで持っていき、水にさらして中の砂を洗い落とした。
 目の高さまで持ち上げてみる。ガラス越しに見る海はゆらゆらと歪んでいる。
 そのままゆっくりと首を回す。歪んだ景色がゆっくりと移動する。
「あ!」
 ふと変わった形のものを見つけた気がして、少年は瓶を顔から離した。
 黒々と溜まるごみの上に、見慣れないものが落ちている。
 大きな瓶をビニール袋に放り込むと、少年はごみの列へ駆け寄った。
 それは望遠鏡だった。黒く、太い望遠鏡。
 覆い被さった海草を払いのけて、少年はそれを手に取りまじまじと見つめた。望遠鏡の先端のレンズの半分は、割れてなくなっていた。覗いてみると景色が滲んで、頭が痛くなりそうだ。
「ふうん……」
 少年はこれをどうしようか、少し迷った。
 ぼう――。
 遠くで低い汽笛が鳴る。
 びくりと顔を上げ、少年は海を振り返った。
 水平線上、空の灰色と海の濃紺の間を、黒い船がのろのろと航行している。
「やっべ……」
 父親の乗っている船だった。
 向こうからこちらが見えているんじゃないか、そう思うと少年は急に不安になった。お前は今日も浜に出てたな、瓶ばかり拾ってないで学校へ行きなさい。夕食の席で、太い眉を吊り上げてそう言う父の姿が、脳裏に浮かぶ。
 少年は望遠鏡を放り出すと、ビニール袋を引っ掴んで弾かれたように駆け出した。
 それでも足は踏み出すたびに砂に埋もれ、おそろしく走りにくかった。おまけに砂は靴の中にまで、どんどん侵入してくる。
 学校へ行こうか――。
 ひょこひょこひょこと不格好に走りながら、少年はちらりとそんなことを思った。

                                                 - fin -
『TV shows......』

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