『魔術師は悪夢の鍵を手に』

『魔術師は悪夢の鍵を手に』

著/六門イサイ

原稿用紙換算70枚

 神の夢と人の夢、それはつがいの男女に似て、行方定めぬ彷徨に。
 悪夢の行方は人知れず、死者の夢は神のみぞ知る。
 だが魔術師は夢の話をしない。
 神の形と人の形。神は己に似せて人を創造された。
 人の夢は神に似て、人の願いは霊に似て、さりとてその智慧は神に似ず。
 人は知らぬ、いまだ人であるが故に。
 誰が知るや、知るべきことは何か、知らぬことは何か。
 半分でも充分に智識を得た人などいはしない。

【1】
 神は言われた、「光あれ」。
 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。旧約聖書は創世記、第一章三節から五節。……遥かなる地獄の深淵の上、煉獄の辺土を覆い隠して、現世の大地を時の猟犬が駆け巡る。
 本日の起床時間は六時三三分、「私」が目覚める今日が来る。
「うん、いい目覚めだ」
 桐泉奈々世(きりずみ・ななせ)はすっくと背を伸ばし、寝台の上で正座を組んで呟いた。腰ほどもある黒髪が真ッ直ぐに背中を流れ落ち、カーテン越しの淡い朝日に艶光る。起き抜けとは思えないすっきりとした貌(かお)で、彼女は目覚めの深呼吸を始めた。
 学院の制服に着替え、髪を梳き、鏡の前に立つ。そこに映る乙女は、くっきりとした目鼻立ちに、意志の強そうな黒い目を持つ学徒(ネオファイト)だった。
「鏡に映ったのは誰の顔?」
 奈々世がくすりと微笑むと、鏡の中の奈々世も笑みをこぼす。
「目に見える世界だけが真実じゃない……」
 ご機嫌な様子で長い髪をかきあげ、奈々世は父が朝食を用意しているはずの階下へと降りていった。一二月の早朝、吐く息は家の中でも白くけぶるほど寒い。それでも、六時から起きていた父が働いていたおかげで、ダイニングの扉を開けるとふわりと暖かな空気にありつけた。
「お早う、パ……父さん。ごきげんよう、メンター・レクセン(レクセン師)」
「お早う、奈々世。ごきげんよう、ソロール・ガリラエ(姉妹ガリラエ)」
 二人は父娘の挨拶とともに、互いに同志の呼びかけをした。レクセンは父・桐泉優(まさる)の、ガリラエは奈々世の、それぞれ魔術名だ。二年前、優が首領を務める魔術結社「M∴G∴O∴」に参入した時に、奈々世はその名前を貰った。以来、奈々世は好んで魔術名を使いたがる。

 魔術師。超能力のあるなしに関わらず、魔術を実践する人々。悪魔崇拝者と混同されやすい不遇な趣味人。
 あくまで趣味人なのだから、魔術師は職業ではない。優の本職は牧師だ。ただし、後ろに「兼・隠秘学者(いんぴがくしゃ)」という肩書きがつくだけの。オカルトを訳すと隠秘学となるが、これはかつて神父や大学教授の知的楽しみが隠秘学であったことを偲ぶ言葉である。怪しい意味があるわけではない。
 隠秘学者の実態は隠秘学マニア。魔術師の実態もまた然り、いわゆるマニアやオタクと言われる人種は、往々にして魔術への親和性や興味が高い。一般には知的で常識的な人が多いこの業界だが、やはりどこか似た匂いがするのである。だがマニアも道を究めれば偉くなる。
 優などはかつて自身が参入した結社から独立して、この田舎町に自分の結社を作ってしまった超弩級のマニア、もとい、魔術師である。位階でいえば7=4の被免達人(アデプタス・イクセンプタス)だ。先ほどから言っている魔術結社も、また言うほど怪しげな団体ではない。
 魔術結社と言えば秘密結社とイコールで結ばれてしまいそうだが、伝統的に秘密主義が蔓延している魔術業界においても、秘密という言葉は死語となりつつある。……ように見えてやはり秘密がいっぱいなのだが、少なくとも魔術結社の「秘密」は建前と看板でしかない。
 最近の魔術結社はネット上にウェブページだって持っているのである。中には情報交換のためのメーリングリストだって存在する(黄金の夜明け系の「Golden dawn mailing list」など)。それでもまだまだ、情報が足りないのが現実ではあるが。
 さて、そんな時代においても魔術結社の役割といえば、あまり変わりばえしない。すなわち、魔術を研究し、教育し、儀式をし、時に団員同士で飲み会をしたりするための団体である。基本は非営利組織的サークルだ。たまに魔術書の自費出版など、同人誌製作も行う。……偉大な魔術書は、そもそもがほとんど同人誌だったのだ。現代においても、作ったところで殆ど売りさばけない(需要が圧倒的に少ない)から仕方がない。
 M∴G∴O∴は団員二〇名前後の小さな組織で、本拠地は優が勤める教会、毎週日曜日の定期礼拝のあと、「神智塾」と称して団員の集会を行っている。奈々世もその一員だ。というか、礼拝に来ている信者の皆さんの八割がたは団員である。ついでに教会の役員会議もそのまま行ったりする。
 奈々世は四、五年前、一〇歳の誕生日から父によって魔術の手ほどきを受けていた。
 女の子向けな星占いをまずダシに、十二宮と七惑星の記号や錬金術の元素記号(水素がHで、金がAuでという化学の方ではない)を全て覚えさせられた。その次にはヘブル語のアルファベット二二文字の読み方と書き方。そして生命樹の構造と、各セフィラの名前と意味。
 更には基礎の占星術とタロット・カードの学習。天文暦をもとにホロスコープを作成してアスペクト判断を行い、各カードのおおまかな意味を把握し、生命樹にカードを配属するまでが出来るようになる頃、一年が過ぎていた。
 それからの三年間は、単調な修行の繰り返しだった。リラクゼーション、LBRP(Lesser Banising Ritual of the Pentagram=小五芒星儀式)、中央の柱、パスワーキングなどの実践である。途中で飽きたが父から「継続は力なり」だの何度も説教され、どうにか続けた。
 その他にも、随分たくさんのことをやらされた。黄金の夜明け団の歴史、クロウリーやマサースといった有名な魔術師の人生、コレポン(Correspondence=万物照応)のやりかた、正統カバラやユダヤ教、キリスト教、およびオカルト全般の知識をひたすら学習、学習。
 父は魔術を「人生を喰い尽くす楽しい趣味」と言った。奈々世もそう思う。いつかは自分も、結社を立てることもあるだろう。父は偉大だ、古代から現代までの魔術の歴史と教義に精通し、魔術儀式はたいがい暗記していて、どの司官の役でもこなせる。ベテランの域を越えてマスターのレベルである。
 奈々世にとって、父親は魔術の師であり、尊敬すべき先達であり、憧れの存在だった。
「ね、父さん。先月もらったタロット、全部テレズマが充填できたんだけど」
 トーストにハスカップジャムとバターを塗りながら、奈々世はうきうきと自分の新しい修行の成果を報告する。
「もう出来たのか、早いな。じゃあ今日の仕事が終わったらチェックしよう」
 タロット・カードを護符として用いる場合、使用される札は小アルカナ各スートの二から一〇までの数札である。
 タロットの各スートは地水火風の四元素に照応し、更に数札はその数にしたがって生命樹のセフィラに照応する。これら数札には元素・惑星・生命樹によって、称号や十二宮の支配領域、及び担当となる二柱の天使が配属されるのだ。
 タロットといえど紙製品、店頭で購入しただけの状態では担当天使の力は何も入っていない。よって、しかるべき手続きに乗っ取ってテレズマ像(天使の名前から算出される天使像。護符とほぼ同じ意味)を充填することで、タロットは天使の力を得た護符となるのである。効力はカードそれぞれの称号と天使を見て適した物を選べば良い。
 しかし一枚のカードに二天使が配属されているからといって、二つとも充填するのは中々困難な作業である。よって優は、奈々世には一枚一天使として充填するように言っておいた。これが終われば、七二枚のタリスマンカードが出来ることになる。
「あのさ、七金属のタロットボックス買わないの?」
 出来上がったタリスマンカードはそれぞれ絹に包み、金属製の箱で保管する。だが保管法として理想的なのは、箱に使われている素材を七惑星に対応した金属にし、支配惑星ごとに分類しておくことだ。
「高いからなあ。ワンセットあるけれど、あれはウチの備品だし」
 世間一般に見られる父娘の会話からは、およそかけ離れた用語を交えながら、二人は和やかに談笑して朝食を済ませた。温かいコーヒーは、二人ともブラック派、主食はパン派。好みのピーナッツバターを切らした優は、渋々とバターを塗ったトーストをかじっている。
 明日は自分が当番なので、ハムとチーズを買ってこよう、などと考えながら奈々世は目玉焼きに醤油をかけた。
「奈々世、学校へ行く前に母さんに挨拶しろよ」
「はーい」
 母・桐泉信濃(しなの)は、奈々世が物心ついた時から神経を患い、ずっと自宅療養を続けている。治る見込みは殆どないらしいが、父はかいがいしく世話を焼いているし、奈々世も穏やかな(時々変なことも口走る)母がそれなりに好きだった。
 いきなり叫び出したり、暴れまわるようなことはしないし、言っていることに適当に頷いていると、何となく話が通じているような気になれる。あまり友達には知られたくないけれど、時々徘徊して行方不明になり、警察のご厄介にもなるので、学校では母の存在はわりとよく知られていた。
 母も、昔は魔術の徒だったらしい。魔術も悪くすれば、心を壊すことがあるのだと、ひどく説得力を持った現実が幼い頃から奈々世の目の前にあった。それでも、魔術を恐れることなく学んでいる自分が不思議だが、父はなぜ止めさせようとはしなかったのか、それも不思議だった。
 二階の東、階段をのぼってすぐ横が奈々世の部屋である。母の部屋は奈々世の部屋の前、廊下をまっすぐ行った突き当たりだ。部屋の中には、母が使うベッドと、食器類を置く小さなテーブル以外、殆ど物がない。ただ、窓辺の花瓶に優や奈々世が持ってくる花だけが唯一の飾りだった。
「ママ……じゃなくて、母さん。具合どう?」
 寝巻き姿のまま、ベッドの上で半身を起こした信濃は、力のない笑みを浮かべた。血色は悪くないし、少し痩せ気味だが、不健康というほどではない。テーブルの上の朝食もきれいに片付いていた。あまり元気が良いと、勝手に散歩に出て行きかねないので少し怖い。
「明日は双魚宮が火天大有、株なら今が売りどきですね。優さんはイプシシマスになりましたか?」
「うん、調子良さそうだね。父さんはまだアデプトだよ」
 メイガス、マジェスター・テンプリ、イプシシマス。黄金の夜明け団において肉体を持ったものが参入できないとされている、高次の位階だ。だが、実際にこれを名乗る人間は、魔術で電波になった人であることは間違いない。この業界には、ときたまそんな輩も出現する。
 優が自らをイプシシマスと称するようになったら、奈々世は真剣に家を出て一人暮らしをすることを考えなくてはならないだろう。
「そうですか、残念ですね。やはりIpsisimusの位は東方浄瑠璃宇宙の高校生には許されないのでしょう。
 ソロモン七二の精霊……のひとはしら……怪物の姿……を。従えることが出来ればあるいは……そうです、四兆七四七五億六五○万九九四三の世界を、アマオロシと共に正覚に拠らぬ剣技でもって渡り尽くせば、薬草や宝石、占星や数学の技術を魔術師にもたらす者にとてもよく似た名前の、かつてはテルミナスと呼ばれた古き星の……ああ、窓の外に! 窓の外に!」
 奈々世は朝日が明るく差し込む窓のカーテンを素早く閉めた。母の妄言は、たまにわざとやっているのかと勘ぐりたくなるような内容であることが多いのだが、彼女が正常であるか否かは、もう考えないことにしていた。
「じゃあ、私は学校に行くよ」
「スープレックスはおヘソで投げるのよ」
 意味は欠片も分からないが、気遣ってくれているらしい母の言葉を背に、奈々世は部屋を出た。今から家を出て登校すれば丁度良い時間帯だ。

【2】
 学校では占い師として名が売れている奈々世は、級友から見も知らぬ上級生まで、幅広い層から相談事を受けることが多い。通称「海中(海津中学)の魔女」などと言われ、文化祭の時も占い屋をやらされた。自作の儀式専用ローブを着けてみたら、「似合いすぎて怖い」と大評判だったものだ。
 団内では殆どの人が奈々世の先輩にあたるので、実力的にも下から数えたほうが早い位置にいる。だが学校では、「よく当たる占い師」として人気をかち得ているのだから、中々悪くない気分だった。常識さえ弁えていれば、優も特に口を出さない。
 今日は土曜日なので、授業が終わると奈々世は長々と相談者たちの相手をする羽目になった。魔術を実践するため帰宅部でいる奈々世だが、帰宅部でいるもう一つの理由は、占い師として活動するための時間を作るためでもある。ただ、今日は用事があるので早目に切り上げた。
「ただーいま」
 玄関を開けると、父はまだ帰ってきていないのか、家の中は静まりかえっていた。優が勤める教会は家のすぐ隣だから、母に何かあればすぐ帰ってこられる。忍び足で二階に上がり、まず母の部屋をチェックすると、信濃はよく寝ていた。改めて足音を潜め、自分の部屋に入って着替える。
 次は、階下に降りて母と自分の昼食の用意だ。鍋に火をかけて湯を沸かし、二人ぶんの二〇〇グラムより若干少なめにパスタを入れた。父の優は並みのほうだとは思うが、母の信濃や奈々世自身は小食のほうなので、スパゲッティの麺一人前に一〇〇グラムは多い。
 ソースは、混ぜるだけで出来る明太子と梅じそがあるので、麺さえ茹であがればすぐに食べられる。明太子は信濃、梅じそは自分用だ。ちなみに優の好みはカルボナーラである。……そういえばここ一年くらい、スパゲッティソースをまともに調理したためしがない。基本のミートすら即席だ。
「あ。のびる、のびるよ」
 デジタルタイマーの画面を確認して麺を一本、箸ですくいあげた。マグカップの水につけてすすると、まだ少し芯がある。時間がきて鳴り出すタイマーを止め、時計で数分の時間が過ぎるのを確認して、もう一本試食した。よし、今度は丁度いい。
 湯を切り、器に盛って、それぞれのソースと混ぜて明太子にラップをかけ、二階に持ってあがった。足音を忍ばせて部屋に近づき、そっとドアを開けると、丁度信濃が寝返りをしたところだった。
「母さん」
 もし寝ていたら起こさないよう、用心して控えめに声をかける。んー? と、布団の中から寝ぼけた声が聞こえてきた。
「ごはん、置いておくからね。食べにくかったら呼んで」
 信濃の部屋には、唯一内線が引かれているので、彼女が何か用があれば、すぐダイニングの親機が鳴るのだ。奈々世はテーブルの上に明太子スパゲッティを置いて立ち去った。階段を降りると、待ちに待たされた腹がきゅぅぅ、と小さな声で訴える。もう午後二時も半を回っていた。
 スパゲッティの正しい食べ方とは、フォークでくるくると麺を巻き取って、その塊をスプーンにとって口へ運ぶことらしい。生まれて一五年、実質一四年このかた、そんな食べ方をしたことはない。そんな食べ方を求められる場に赴くこともまだ先だろう。
 空きっ腹に好きな食べ物はよく響く。梅じそスパゲッティを美味しく平らげたが、まだ少し食べ足りない。自分の分だけ一〇〇グラムで茹でれば良かったか、と思いながら、鮭茶漬けと納豆(卵とワサビ)を食べてやっと満腹になった。……今度は、少し食べ過ぎた気がするが。
 信濃の呼び出しはないので、多分まだ寝ているのだろう。この時間になっても起きなければ、特に何もなければ夕方までは起きないはずだ。二階にあがり、一応部屋を確認する。やはり信濃はベッドに横たわったままで、明太子パスタに手はつけられていなかった。
 信濃の部屋を出てベランダに向かい、洗濯物を取り込む。まだ午後三時過ぎでも、冬は随分日が傾くので、生地が分厚いものは未だに生乾きで嫌になる。今日は天気もいいし、そちらはもう少し干して後で家の中に干そう。やることは一通り済ませたので、これでやっと「用事」に取り掛かれる。
 奈々世は一階に降りると、父の書斎へと向かった。
 普段は鍵がかかっているが、今日は前もって合い鍵を借りている。扉を開くと、冷え冷えとした空気と、吊るされた衣服や古書が醸し出す、カビ臭いような埃っぽいような、独特の臭気が漂ってきた。部屋は家の中でも特に日当たりの悪い位置にあって、真昼間でも薄暗い。
 扉の横の電気を灯し、奈々世はぐるりと左右の書棚を見回した。
 著名な悪魔召喚の書『レメゲトン』、民俗学の研究書『金枝篇』、学研M文庫の『NECRONOMICON』、『大いなる教書(グラン・グリモア)』、エロイムエッサイムの呪文で有名な『黒い雌鳥』……中には絶版になって久しいクロウリーの『Moon Child』もある。あとは聖書や神学研究の書、歴史関係、ただのオカルト小説。
「このムンチャが、中々貴重なんだよねー」
 書棚から『Moon Child』を取り出しながら、奈々世はほくそ笑んだ。彼女は一人でいる時に限って独り言が多い。インターネットで原文が読めるところもあるらしいが、やはり実物が手元にあるというのは良い気分だ。これを手に入れた、若き日の父に感謝したい。
 中身は、まあ、芸術的なまでに某魔術結社への悪口なのだが。
 一通り頁を流し見て書棚に戻す。そもそも目的の本はこれではない、ポール・クリスチャン著『魔術の歴史と実践』だ。クリスチャンはカバラ占星術を使う占い師兼魔術作家として有名で、七惑星を人間や世界に影響を及ぼす霊的回路とみなす、独特のカバラ占星術を持っていた。
 この著書には、クリスチャン独特のタロット観が記載されており、中々貴重なものだ。もっとも、この書斎にあるのはタロット解釈の項だけを抜き出して編纂された海賊版らしいのだが……アルカナの解説は一通り揃っているので、やはり貴重なことには変わりない。
「ん、これだこれ」
 壁際の下あたり、見つけにくい位置にあるその古書を取り出すために、奈々世は身をかがめた。かなり無理して本を詰め込んでいるらしく、きつく挟まっていて、無理に引っ張り出すと書が傷つきそうだ。幾つか頑丈そうな本を二つ三つ抜き出して隙間を作ると、ようやく取り出せた。
 手に取り、上体を起こした瞬間、背後で何かが落ちる音がした。ばさり、と書物が落下し、そう毛が長くない絨毯に叩きつけられる音。たいして大きくも激しくもない、ただの日常の雑音。それなのに、急速に全神経が背後に惹きつけられるような、有無を言わせぬ力を感じさせる音。
 ――なぜだろう、何かに呼ばれた気がした。それは落ちてきた書になのか、書を落とした何かになのかは、判然とはしないけれど。今、この瞬間に落ちてくることに、何か意味があるような気がする。この世界がいかに遠大であろうと地続きであるが如く、各事象は互いに影響を及ぼし合うのだ。
 偶然にこそ秘められたるは、神の御言葉。
 振り返ると、黒い本が赤い絨毯の上に転がっていた。慌てて拾い上げて確認したが、頁や表紙がうっかり折れ曲がったりはしていなくて安心した。頁があまり変色していないところを見ると、この部屋の蔵書にしては比較的新しい本のようだ。書を閉じて、表紙を確認してみる。
 黒革で装丁された表紙には、銀文字で「ALBTRAUM SCHLUSSEL・SCHERBE」とドイツ語の題字が書かれていた。後には何の装飾もない。
「あるぷとらおむ……、しゅりゅっせる・しぇるべ?」
 直訳するなら、悪夢の鍵といったところか。「Scherbe」はドイツ語の「欠片」だ。英語の「Fragment」に相当するとしたら、断章の意味になるはずだった。すると、これは完全な記述の書ではないらしい。開いてみると、誰の手によるものか、赤や黒のペンで英語の書き込みがあちこちに入っていた。
「父さんの字じゃないな」
 書き込みの筆跡は、優のそれには似ていない。父ならば英語で注釈を入れることもあるだろうが、それならどこかに必ず、英語の倍日本語の注釈が入っているはずだが、これには一切それが無かった。どこもかしこもアルファベットだらけだ。
 ここで会ったのも何かの縁、ついでに借りていってしまおう。奈々世は『魔術の歴史と実践(断章)』とともに、黒革の書を手に書斎を出た。

【3】
 淹れたてのミルクココアを横に、奈々世はクリスチャンのタロットそっちのけで、ついでの書を解読し始めた。
 魔術は英語の家庭教師とはよく言ったもので。日本は欧米に対して、魔術に関する情報や知識に恵まれていない。そんな辺境において、魔術を学んでいれば英語はどうしても必要になってくるのだ。洋書を原文で読めれば、それだけで安価に、深い知識を手に入れることが出来るのである。
 国外ではぺらぺらの文庫本で売られているような物が、日本の翻訳では高価なハードカバーになっていることなどは多い。魔術書を読むには、更にヘブライ、ラテン、ギリシア語などの言語も押さえておくのが基本だが、さすがにそこまでは奈々世にもきつかった。
 だが、英語ならば大の得意だ。ドイツ語と英語の辞書をそれぞれ用意して、中身を解読してみることにする。いざ一時間ほど取っ組み合ううちに、どうやらドイツ語以外に、もう一つ別の言語で書かれているらしいことに気がついた。
 何度か見覚えのある単語が並ぶその文章は、とある結社が作った魔術用の人工言語だった。いわゆるエノク語やナアカル語の同類かもしれない。エノク語を使った魔術が黄金の夜明け団において最高クラスの魔術であるように、この言語も高レベルな魔術に使われるらしい。
 読んでいくと、山ほどに書き込まれた注釈は、前の持ち主がドイツ語に不案内だったため、幾つかの単語を英語に訳しておいた物であることが分かった。
「神名と賛美歌の羅列、という処なのだな」
 ……Made. (Worm's, Maggot,)・Saiquor'th.
 ……LebenFlamme・Cy'gha. (will o' the wisp?)
 ……「Fyeta. Fyeta, Li-Ii. Li-i. Fyata, Li-i」(Hymn.)
 ……Cenosh. (「Come on Wind like this from Yicir'lde」)(EMINN・Y'GLAI FRAGMENTS&TheSevenCrypticalCanon IRATOFENETH.)
 ……ALH-HGA-HLIH. (Silver sigil)……Ithheca.
「むー。少なくともGD系ではないみたいだけど、どこの体系になるのかな?」
 AbraxasやAugoeidesを初め、グノーシス主義や、ネオ・プラグマティズムに関係する言葉が出てきているが、ジャンルではどのあたりの物かはよく分からない。父に訊けば分かるのかも知れないが、自分の力で出来るだけ調べておきたかった。
「んっ、これはクロウリーの引用?」
『These Keys or Calls being rewritten backwards, there appeared conjurations in a language which they called Enochian or Angelic.』(The Confessions of Aleister Crowley, chapter 66)。……Aethyrs(=エーテル)についての記述が、長々と一〇行近く引用されている。その英文の後、ドイツ語の訳文が続いているようだ。ざっと全体を流し見てみると、結構引用文は多かった。
「I am a little world made cunningly of elements, and an angelic sprite. われは元素と天使の霊により精巧に造られし小世界なり! あはは、ジョン・ダンの詩か。シェイクスピアにイエイツ、レヴィ、マザーグース……ドイツ以外でも、結構有名どころの引用ばっか」
 英語の書き込みと引用文をほぼ解読し終わると、あまり変わったことは書いていないように思えた。だが、Saiquor'th, Cy'gha, Cenosh, などなどの固有名詞が気になってくる。これらの神格については、章を設けて詳細に取り扱っているので、一つ一つそれらを見てみることにした。
 まずは目次の最初にある「Saiquor'th」だ。
「……夢魔の蛆、悪夢に涌く蛆。蛆が腐った肉を食うように、悪夢を喰って浄化してくれる善き存在。夢の……、妖、蛆? 妖蛆(ようそ)でいっか。時に自らの餌を作り出すため、人に悪夢を見せる悪しき存在。表と裏の妖蛆。表裏一体の妖蛆。人を狂わす蛆、人を惑わす蛆、悪夢の中にだけ生きる蟲」
 文章としての繋がりは今ひとつだが、一応だいたいの意味は掴めた。蛆というだけでエグそうだが、中々ホラーな存在である。しかし。
「ちょこーっと試してみるかな」
 章の最後に書かれた「Saiquor'thへの呼びかけの歌」の文を見たとき、ふっと奈々世はそんなことを思いついた。説明によると、あまり凝った準備は必要ではなく、ただ唱えて眠るだけで「Saiquor'th」を呼び出せるそうだ。手軽な儀式として、ひとつ実験的にやってみたかった。
 思い立ったが吉日、である。
「いいよね、パ……父さんが帰ってくる前に終わらしちゃえば」
 奈々世は父の立会いによる儀式においても、何らかの超自然存在を召喚することに成功したためしはない。だが魔術の学び手が多くそうであるように、彼女もまた勉強熱心な探求者だったのである。
 奈々世は召喚円の準備を始めた。といっても、用意するのは紙とマジックペン。時刻を確認すれば午後四時半前、五時に儀式を始めることにして作成する。召喚円には特に決まった作成法はない。あれこれ必要と思われる記号や文字を書いて作る、いわば巨大なホロスコープだ。
 必要なのは、まず召喚作業の日時から。季節は冬、曜日は土曜、時刻は午後五時。
「冬の名前――、冬の天使アマバエルとケタラリ、冬の表題アタリブ。冬の地の名前――、冬の太陽、冬の月。一二月の天使ハナエル、土曜日の天使ツァフイエルとカシエル、及びマカタンとウリエル。土曜午後五時の天使、月の第五宿、アルバカイの天使ガブリエル――」
 これらを召喚円独特の字体で書き込んで、外周部は完成である。後は各惑星の影響力を判断し、不足分を補ったり、中和させたりといった作業に必要な象徴を並べておく。この際、去年作ったタリスマンカードで代用しよう。
 悪夢の鍵にいわく、第三章恐るべき狂気のアラクヘム砂漠の神性について、第二五節妖蛆ラリンとサイクオラト。但しラリンについては詳しい説明は省かれており(断章ゆえの欠損だろうか?)、サイクオラトにのみ言及されている。その節における、サイクオラトへの呼びかけは以下のようにある。
『Amdei, Amdei, midho. Nit・nithuoghoaths, Med'uor. Tilgr, ghinye, Tilgrye. Mith・beamt, Mith・Yaela, Anev. A'esh・Mlg'h・Ognfahy.』
 それはただの「言葉」ではない、思い込みなどではなく、奈々世は直感でそう断じた。そして、信じた。
 その言葉は力ある言葉、かつてこの世ならぬ調べを奏でた哀れな者の聲、誰もが知っていて誰もが知らない類いの秘密深き大いなる言葉。それらを口に出して唱え、大気を震わせる実体を与えること自体に、多大な代償を伴うかと思うような言葉の群だった。
 魔術師の知性と好奇心が、そうと分かっていても奈々世を行動に駆り立てる。代償がいかなる物か考えることのないままに。
「……あむだい、あむだい、みどぅ」
 代償を求められると知りながら、代価を考えぬ行動は愚かのそしりを免れはしないだろう。軽率と愚鈍、稚気。奈々世がいかに軽い気持ちでそれに手をつけたとして、呼びかけの歌を眼にした時の直感を、彼女はもっと信じるべきであった。
 だが奈々世の歌は止まらない。
「にす・にすほぐあとす、まどら。しるじる、ぎにぇ、しるじらいえ」
 歌に唱和するものがある。手を掲げ、声をあげ、それはやってきた。誰もが知らぬ処から、誰もが知っている処から、過去でなく未来でなく今でなく、尋常ならざる時空にある場所から。XやYで表される座標軸などまるで役に立たぬ、人智を超えたとしか言いようがない、しかし胎児ならばすべからく知っている場所から。そして誰も覚えぬ場所から、二度と思い出されることのない場所から、それはやってくる。
「……みと・ばむす、みと・いえれ、あなう。あえーしゅ・むるぐ・おぐんふぁはい」
 代価を――。
 それ相応の、代価を――。
 甘やかな血肉、迸る生気の如き、瑞々しい代価を――。
 歌は繰り返される。
「アムダイ、アムダイ、ミドゥ。ニス・ニスホグアトス、マドラ。シルジル、ギニェ、シルジライエ。ミト・バムス、ミト・イエレ、アナウ。アェーシュ・ムルグ・オグンファハイ!」
 神々も姿を知らぬ、恐るべきものの呼び聲に、しかし慄くことなかれ。音無き呼びかけに耳を傾け、汝が声をもって応えながら、かのものの御名を口にすべし。さりとて祈りを捧げてはならぬ。ただ仰ぎ崇めよ、慄くものはその魂を連れ去られる。
 祝福せよ、いまという蜜月の時に!
「Amdei, Amdei, midho. Nit・nithuoghoaths, Med'uor. Tilgr, ghinye, Tilgrye. Mith・beamt, Mith・Yaela, Anev. A'esh・Mlg'h・Ognfahy!」
 人は智らぬ、いまだ人である故に。
 人はおのが智るものについて何を識るや。
 智るべき事は何か、智らぬ事は何か、誰が識るや。
 未智なる我が宇宙に愚神の悲嘆を聴きて、真実の眼を開くべし。
 人の眼は曇りて神の御姿を見ることはかなわじ。眼に見えるもの全てが真実とは限らぬ。
 故に、真実の眼を開くべし。代価を払う汝は誰か。なぜ求めるか。そして求める彼は誰か?
「Amdei, Amdei, midho. Nit・nithuoghoaths, Med'uor. Tilgr, ghinye, Tilgrye. Mith・beamt, Mith・Yaela, Anev. A'esh・Mlg'h・Ognfahy!」
  ――生ける神の手に落ちるとは、恐ろしいことだな!
 落ちた。
 ああ緑、緑、幾重にも幾多にも。何かを訴えるように、何かを嘆くように、湖のように深い翡翠の緑色が、無限にその手を伸ばして蒼穹を埋め尽くす。あまりに肥大した羊の樹は、大気なき真空に深く根を巡らし、永劫の向こう側まで無が統べる静寂を駆逐した。地上に残された羊たちは、風を巻き、砂を蹴散らし、雨水を吸い、天を舐めて久遠の海へと死の行進を敢行し、自らの枝葉でもって海面を覆い尽くす。羊たちは地獄で燃えるものを渇望し、「神よ、哀れみたまえ!」と叫びながら残らず底知れぬ海へと沈んでいった。いつかは汝自身も火の糧となろう。厚みなき砂の浜辺に打ち寄せる波が色を変え、その波紋に賢者は数え切れぬ龍の夢を見た。腐れゆく緑陰の海原、その波間に見える、消えゆく白痴と悪臭の泡蟲(あわむし)が、不浄の巨人が穿つ足跡に群がりまた泡沫の夢を織り成す。触手ある卑猥な双仔が支配する、恐るべき狂気砂漠の都市、ネシァの蜘蛛神がラリンとサイクオラトを貪り尽くした。風の中を歩む嵐の王に付き従って、姿なき下僕と形なき妖魔が天を踏んで舞い踊る。誰もが生ける焔に追い立てられることなく、安息のまどろみを得ることが出来るよう、今宵も激しく舞踏する。生き生き生きよ、死に死に死せよ、思えば悟り、語れば神、殺せば救い、さりとて隠された神の御業には到達せん。死せる魂のあるべき住処には、人の弱さには恐ろしすぎて、生きているうちは誰も近づけぬ。死よ眠りよ時よ、偉大なる摂理者の猟犬、天地を巡りなおも駆けるは誰がために。いかにも覚えを良くして、蒼褪めた星々の沈黙のうちに、その言葉を受け取らん。おお緑、緑、幾重にも幾多にも!

【4】
 人の頭には血と肉の宇宙が詰まっている。
 聖書にいわく、神は人に第六の能力である知性と、六つの能力を解釈する理性を与えた。
 知性以前の五つの能力は五つの感覚である。これは仏教に云う眼耳鼻舌触・五感五識であり、第六の能力は意識となる。これらはすべて真と迷の感覚であり、五識は迷妄によりて人を喜ばせると思われているが、その実、人に死をもたらす物である。
 だが第七の末那識(まなしき)にもまた真と迷があり、これをば真と頼り従えば破滅は必定、死して屍葬るものなし。それは決して六識の上位にある物ではない。だが、これより先の第八識を阿頼耶識(あらやしき)と云い、これのみ迷いなき真の感覚である。
 古来より仏僧は阿頼耶識に目覚めることを目指し、経文を読み滝に打たれ禅を組み問答した。阿頼耶識こそ悟りであり、これを得ることは小宇宙を得ることも同然であり、それを自在に操ることとは宇宙を自在にするも等しい。そして尚も喜ばしきことよ、世界は神の叡智で悉(ことごと)く満たされり。
 西洋において神の雛形と位置づけられる人間は、何も知らぬが、全てを知るべく運命づけられている。
 ――故に、人の脳内では常々名状しがたきものが生成されているのである。多くそれにロゴスを与える言語は形骸化した代用品がごとき物で、人と人との交流は時に絶望的なまでな溝を掘り、それが世界的規模にまで広がることは人類の歴史において珍しくはない(神よ、哀れみたまえ!)。
 しかし、また、営々と紡がれた歴史の中に時折、完膚なきまでに血肉の宇宙にて生成された姿のまま、この世に生を受けるものがあるのだ。それをば奇跡、と呼んでも良いのやもしれぬ。が、愚昧たる人々の口には妖しき魔術の類いとして恐れ慄かれることが常でもあった。
 桐泉奈々世の脳髄にて生成されしものは、「ALBTRAUM SCHLUSSEL・SCHERBE」に記述された「Saiquor'th」に、もっと具体的に言えば蛆虫に酷似していた。それはただのイメージであって現実に存在し得る物ではない。ただ、脳髄に広がる宇宙にしか生息し得ない虚構の産物だ。
 魔術師は奇跡を起こせない。修行しても火の玉は出せず、伝説の怪物を召喚出来る訳でもなく、猫を飼っても使い魔の役には立たない。金銭を稼ぐ役にとて立たないし、少なくとも魔術で幸せにはなれないだろう。仕事として成立せず、必要に迫られることもない、だが実践する。
 だから、誰にとっても魔術とは趣味以上の物にはなりえない。火の玉を出したり、地獄の悪魔を召喚したり、眼に見えない霊をコキ使える業ならばそれは魔法だ。しかも、魔術師をやっていれば魔法使いに出会えるということもない。
 しかし、今、奈々世の身に起きていることは何であろう。
 白い頭蓋の内に秘められた人間の宇宙には、神も悪魔も入っている。そこに生じた一匹の妖蛆は、これまで奈々世自身が実践する魔術のうちに蓄えてきた、巧妙で精緻な白昼夢の一つとして記憶されるだけのはずであった。白昼夢でなければ、何か。受肉せる悪夢である。
 不用意に魔術を行使し、昏倒した奈々世は背後にあったソファに全体重を預けていた。丁度、背もたれに背骨を乗せる体勢で仰向けになった彼女の右耳の奥に、妖蛆は出口を見出していた。いかにしてか鼓膜をすり抜け、耳孔を己の体で圧迫しながら、終(つい)にはその全身がまろび出るのだ。
 物理的にそれが彼女の脳のどの位置から生じ、どこをどう通って外界へと出たのかを考察することは恐らく不可能である。ただ、それは確かに彼女の頭蓋の奥で生じ、そして耳から産出された。肩に着地し、つるりと胸元まですべって、膝の上にてその姿を主張するのである。
 その蛆は確かに蛆たる特徴を備えてはいたが、大きさが尋常の物ではなかった。胴の太さはひとさし指ほどで、長さは三〇センチ前後という姿は、一瞬蛆よりも白い蛇を想起させる。だが、決して蛇には似ていない。体表は全体的に鱗があるような質感ではなく、蚯蚓(みみず)か芋虫のような節が連続した胴体を持っているのだ、白い巨大な蚯蚓を連想するほうが、蛇よりも的確にこの生き物を表現するだろう。

 一方、奈々世の意識はいまだに落ちていた。
 最初落下感を感じるほどの、それは速やかな眠りだった。一、十、百、千、万、億、兆、京……那由他、不可思議、どれほどの時間が経ったのか。はっと目を覚ますと、奈々世は背もたれに仰向けになっている自身に気づく。背中の痛みを堪えながら体を起こして、状況を確認した。
 ベージュのパンツに包まれた両膝の上で、白くて長い何かが元気にのたくっている。びちぴちぷりん。
(何、これ)
 白い蛇に似ているが、違う。蛇ならば目玉が二つ、片端についているはずであろう。だが、膝の上のそれはまるでのっぺらぼうだ。蛇ほどの大きさもある、白い、蚯蚓。そう言った方が近い。代わりのように、一端に口らしき割れ目があり、そこに歯と思しき白い突起が並んでいた。
(……これはいったい、何よ)
 奈々世はもっとそれに似た、だが眼前のこれより遥かに矮小な生物を思い出した。蛆虫。あれを蛇ほどの大きさと長さにしたような感じ。一度そう思ってしまうと、純白とはとても呼べない、やや黄ばんだ乳白色の体は蛆以外の何にも見えなかった。
(どうしよう、怖い考えが止まらないのだが)
 さっきから右耳の中に、変な感触が残っている。指のような、それなりの太さと長さを持った物に内部を何度も圧迫されたような感じが、鈍く軽い痛みになって残留していた。厭な想像が頭をよぎる。もしや、この巨大な蛆のような物が、自分の耳を通って出てきたのか?
 呆けた奈々世が、ソファの背もたれから上体を起こしたまま固まっていると、蛆のような蛇のような生き物はとうとう彼女の膝から転がり落ちた。しばらく、うねうねと床をのたくっているが、どうやら不器用ながらに前進しているらしい。動きは蛇よりも芋虫の類いに近かった。
 これは現実なのだろうか……ぼんやりと、うねる乳白色を見ながらそう思考する。そういえば、自分はそもそも何の眠りから目覚めたのか。不自然な眠りだった、急に高くそびえる目覚めの崖から突き落とされたような、あまりに唐突な意識の陥落だ。
 それに、書の一文を唱えた時、誰かの――何かの声を聞いたような気がした。自分の潜在意識は何を見せたのだろう? 自分は何か、とても長い永い夢を、見ていたような気がする。奈々世が考えている間に、生き物はテーブルに上ると、置いてあったココアのマグカップへ近づいた。
「うっわ、何なのコイツ!?」
 飲みかけのミルクココアが半分ほど入ったそれの中に頭を入れ、じゅずじゅずという奇妙な音を立てて飲み始める。自分のココアが飲まれたことより、何だかよく分からない生き物が、ココアを飲むという芸当を見せたことのほうが驚きだった。
「き、気味悪いヤツだな」
 口ではそう言いながら、少し面白くなってくる。奈々世はバターロールの袋を開けて、パンを一口サイズに千切ってマグカップの横に置いた。ココアを飲み干した生き物は、つるん、とマグカップの中に落ちたが、すぐさまココアで少し汚れた頭をカップの口から覗かせ、一声鳴く。
「ぬあふ」
(ああ……このカップもう使えないな)
 奈々世が泣きたい気分で眺めている間に、生き物はミルクココアで濡れた体を引きずってカップから脱出した。そして、傍らに置かれたパンの欠片を見て、不思議そうに頭を傾げる仕草をする。やけに人間くさいような動きが逆に不気味だ。生き物は更に、尋ねるように奈々世の顔を見上げた。
「らーだにゅよすぃのるしぃゆ?」
「いや、そんな可愛い声で言われても」
 だんだんと、自分の現実を認識する脳の回路あたりが麻痺しているような気がしてきた。おかしい、この現実は何かおかしい。それは分かっているはずなのに、一方で何がおかしいか分からなくなっている自分がいる。何もおかしくないような気がしないでもない。
「たとぅばじゅがまかつりゅとぅ~」
 生き物の声は、動物や虫の鳴き声というよりも、幼児が発する不器用な言葉に似ていた。実際、声も乳幼児のそれに酷似している。その為か、意外と愛嬌が感じられた。動きもどこかぎくしゃくして、本当に「生まれたて」という感じだ。強く叩けば、たちまち壊れてガラクタになってしまいそうな印象。
「ぬぃんばぬーかあぃおー」
「あーはいはい、食べていいよ、それ」
 こちらの言葉が伝わったのか、生き物は持ち上げた頭部らしき片端を下ろし、パンに食らいついた。二口でつるりと飲み込んで、「もっとないの?」とこちらを見上げてくる。何となく可愛く思えて、奈々世は更にもう二切れ千切ってやった。今度はがつがつと、一瞬で食らい尽くす。
「りゅやだとぅいとぅい!」
「何、もっとくれって?」
 生き物は奈々世の手のバターロールめがけて、体の中ほどまでを精一杯伸ばした。ややもすると、手に噛み付かれてしまいそうだ。そうなる前に、と慌てて大雑把に千切って放り出すと、血に飢えたピラニアを想起させる勢いでパンに食らいついた。
「すてぃあう、すてぃあう」
 バターロール一個をまるごと食べ尽くして、まだ食い足りぬとばかりに体を伸ばしてねだってくる姿が、少し怖い。いや、もともと普通の女子中学生なら敬遠したいような形状をしているのだ、この生き物は。言うなれば白い巨大蚯蚓。しかも、下手をすると餌代わりに噛みつかれかねない状態だ。
「へいらー・うふるふとく・ふあぬ・うぃるぐむ・いうるぐぬふふ」
「もしかしてこれ、異界の言語なのかねえ」
 奈々世は面倒になって、袋ごとパンを生き物の前に捨て置いた。中にはまだ四つのバターロールが残っている。人間の乳幼児(♀)のような可愛らしい声を出しておいて、凶悪な勢いで取り付くとたちまち袋を食い破り、中身を食い荒らし始めた。
 動かぬパンを相手に、獲物に飛びかかる猛禽の如き速度と、その後の食欲はそら恐ろしい。さすがに体の倍はある量のパンを食べたことで、胴体がぷっくりと膨らんではいるが、こころなしか全身が膨張した腹に合わせた太さになっていっているようだ。
(いや、眼の錯覚じゃあないな)
 あらかた袋のバターロールを食べ尽くしたその生き物は、明らかに初め見た時よりひと回りもふた回りも大きくなっていた。最初はひとさし指ほどの太さだった胴体は、今は足の親指ほどに膨らんでいる。全長も五センチかそこら、伸びているような気がした。

【5】
 蛆、という共通点から、奈々世はその生き物を「サイクオラト」だと仮定することにした。サイクオラトはいわば獏のような生物で、悪夢を喰って生きるという。だがここは現実だ、サイクオラトが喰うための悪夢は転がっていない。とりあえず、コイツは何でも食べるようだった。
 どれだけ食べればどこまで大きくなるのか、奈々世の興味は尽きなかった。故に、食わす。
「ほれ、林檎だ」
「はつらぃぬかな・ぬぐかまごぐかまぐけぇま」
 ふじりんご三つ、サイクオラトは一分とかからず食べ尽くした。
 あとに残った甘酸っぱくも瑞々しい果汁の匂いに、自分の分も残しておけば良かったと、やや後悔する。奈々世が何か与えるまで、サイクオラトは芯やヘタや種まで齧っていた。どことなく猫が猫じゃらしにじゃれつく姿にも似て、可愛いような気になってくるところが、また、余計に憎らしい。
 サイクオラトを量り器に乗せると、体重は一二六グラムほどだった。
「よーし、冷蔵庫の残り物だ」
「うふるふとく・だーどへいる」
 古くなってやや黒ずんできたキャベツ、乾燥しきった干し葡萄、忘れて賞味期限が怖い温泉卵、ちょっと端が溶け始めたホウレン草。どれも、綺麗さっぱり完食してくれた。もうちょっと食材を大事にしようと反省する。量り器が示すサイクオラトの体重は四七二.五グラムに倍増していた。
「ええい、食えるものなら食ってみよっ」
「うぃるぐむ・ふふぬぐるうい」
 醤油も葱もなく、かき混ぜてもいない、包装を取っ払っただけの納豆にも、サイクオラトは食らいついた。体重はおよそ一.八キロを突破。
「大奮発! ラーメン食いねえ」
「らつぬむ・あ・ぐにーむむくおぶ・いぶ」
 熱々のカップラーメンにもサイクオラトは果敢に全身で突っ込んでいった。最初の体型ならばいざ知らず、もとの一〇倍以上に成長した体では、当然カップの中には入らない。案の上、カップがひっくり返りそうになるので、奈々世は中身を改めて洗面器にぶちまけた。
 もう量り器に乗らないので、計測器を体重計に変更する。何と六キロを超えていた。
「……まだ、食べる?」
「りゅっさふ、るるふたらーすくく」
 当然だ、と言わんばかりに、サイクオラトはぴこぴこと、尻尾(と、思しき片端の先)を振って応えた。いちいち受け応えが人語を解しているように見えるのが不思議だ。初めひとさし指ほどの太さしかなかった胴体は、いまや中型犬ほどもある。全長も元の三〇センチから、現在は……五メートル近い。
 ごろりと寝そべると、二人がけのソファよりずっと長くなってしまっている。口の中に見える歯も、人間のそれとほぼ変わらない大きさで、形がよく確認できた。じろじろと顔のあたりを観察してみたのだが、どうしても眼に相当する器官は見つけられなかった。ぬっぺら坊である。
 さすがに、そろそろ気づくべきなのかも知れない。自分は何か取り返しのつかないことを仕出かしてしまってはいないか?
「あはははは、育て過ぎたなあ、これは」
「た・えしゅおふ・しふ・に」
 逃避ぎみに明るく言った奈々世に合わせるように、サイクオラトも朗らかに幼児のような声をあげる。
「うるさい、黙れ」
「ふぉ、どなおず……」
 サイクオラトはしゅん、とうな垂れるように、顎のあたりを床にぺたんとつけた。
 これは明らかに、尋常な生物ではない。少なくとも奈々世は、短時間のうちにこれだけ食べたら食べただけ成長する、巨大な蛆虫のような動物は知らない。これが果たして魔術で呼び出された「Saiquor'th」だとして、このまま食べ続け肥大し続けたらどうなるのか。
 ただ浅はかな好奇心にだけ突き動かされてきた奈々世に、ようやく危機感が沸き始めた。
 巨大な蛆、そう思わなければこいつは結構可愛いらしい、かも知れない。少なくとも爬虫類が苦手でなければ、大概の人はそう思えるかも知れない。だが、そんな感情はさて置き、抜き差しならない状態に陥りつつあるのだろうことは、明白だった。
 このまま成長し続ければ、あたりの犬猫に始まり人すらも食べ物として襲いかねない。それでなくとも、「飼う」には危険が大きすぎる。食えば食うほど育つ巨体を、いったいどうやって世間の眼から隠したものか。それ以上に、予想もつかない危険をこれは秘めているのかも知れないのだ。
(それにしても、世の中には物騒な品があるのだなあ)
 呪文を唱えるだけで召喚されるとは、あの魔術書はそれ自体既に魔力が込められていたのだろうか。何にせよ傍迷惑な話だ、と奈々世は自身の不用意さは棚上げにしてそう思った。ともかく、こうなったらあの書を解読して、こいつを退去するしかない。
「サイクオラト、お前そろそろ自分の世界に帰りたいとか思わないか?」
 ソファの上に置いておいた「ALBTRAUM SCHLUSSEL・SCHERBE」を手に取り、奈々世はそう問いかけた。それに反応して、ん? と、サイクオラトの頭が床から五センチほど持ち上がる。やはり、人の言葉が分かるのだろうか。
「ここはお前の世界じゃないの。だからちゃんと故郷(ドミニオン)の……ええっと、恐るべき虹色に輝く狂気の山脈だとか、風吹かぬ星々の高みの奥涯(おうがい)とかさ」
 きるる……と、サイクオラトは鳴いた。それは今までの幼児が発する、人間的で親しみや愛嬌が感じられる物ではなく、もっと異質な、犬の唸り声か昆虫の羽音のような鳴き声だった。金属的で、耳障りで、空気がひんやりとして感じられるような、厭な音。
「帰るのは厭? 私は、お前をいつまでもここに置いておくわけにはいかんのだよ」
 サイクオラトの鳴き声が強くなった。明らかな拒絶の意志、怒りの意思、悪寒さえもよおすその波動に奈々世は自身の失敗に気づく。しまった、退去の正式な手順も踏まぬまま、帰れと言うべきではなかった。自分は油断があまりに過ぎた。
 サイクオラトが上半身を持ち上げる。それだけでこの生き物は、もう奈々世の頭よりも高くそびえてしまうのだ。その影に、全身がすっぽりと収まって電灯の明かりさえ覆い隠されてしまう。ごろごろしているから気づかなかった。改めてこいつは、こんなに大きくなっていたのだと思い知る。
「らーだにゅよすぃのるしぃゆ?」
 餌を、要求しているのだろう。ぱっくりと、白い頭のやや下部を横断する口はまるで傷口のようで、唇に類するような隆起は見て取れない。血が滴りそうに新鮮な肉を切ったような、赤い赤い口の中。青海苔やミカンの皮や納豆の粒に汚れながら、白さを失なっていない歯がびっしりと並んでいた。
 肉食獣の鋭い牙ではない、人間のそれに似て平たい、雑食性を示す歯だった。
「らーだにゅよすぃのるしぃゆ!?」
 ぐん、と上からサイクオラトは顔を近づけ、奈々世の額に息を吹きかけた。いやに冷たい、魚のような生臭い吐息だった。息は額から顔全体に絡みつき、首筋をすべり落ちて、背中から更に冷たい汗となって彼女を濡らした。開いたサイクオラトの口の端には、涎の滴が引っ掛かっている。
 つ……と落ちるそれは、粘り強く長い長い糸を引いて、奈々世のスリッパの先を汚した。
「私は餌じゃないっ!」
 奈々世は逃げた。

【6】
 背後にあった冷蔵庫の扉をすべて開き、奈々世はダイニングを飛び出した。入り口を閉め、扉の硝子越しにサイクオラトが冷蔵庫に取り付くのを確認し、一息をつく。今のは人生で最大の瞬発力だった。だが安堵の息は出なかった、冷蔵庫の前で、歯止めを失ったように蛆の体が膨張していく。
「う、そ……」
 呆然と呟くことが奈々世に出来る精一杯だった。手には、まだあの魔術書を握っているが、それを再び開くことを頭が思いついてくれない。ずるずると体がずり落ちていくのを、奈々世は一歩離れた意識の外で見つめた。ぺたんと座る膝と腿に、硬い床の感触が伝わる。
 冷蔵庫の物を食い尽くしたら、あの化け物はもっと巨大になって、この扉を軽々とぶち破るだろう。何てこと、まさか巨大な蛆虫に食われて死ぬなんて。あいつにはもう、あいつを呼び出した私自身も餌の一つでしかないのだ。そんな絶望的な考えが目の前を暗くする。
 奈々世は考えることを諦めつつあった、絶望の呼び声とは甘いもの、恐怖の縛めは強固でまた巧妙だ。……その時父が隣の職場から帰ってこなければ、奈々世は二度と希望を持てなかったかもしれない。救いの神は、たいてい意外な時に現れるものである。
 玄関先で靴を脱ぎ、廊下の突き当りを歩いて、桐泉優はダイニングの入り口の前で放心している奈々世を見つけた。
「おやおや、Sr. ガリラエ、そんなところでどうしたんだい?」
 軽い調子で挨拶した父だが、すぐさま娘が尋常な様子ではないことに気が付いた。奈々世は、父が帰ってきたと理解してもすぐさま口を動かせない様子で、ただ口をぱくぱくと開閉させながら、ダイニングの扉の向こうを指さした。
「何か、いるのか」
 優はおそらく、強盗かそれに類する現実的な脅威を連想したことだろう。扉の向こうを覗いた瞬間の、呆気に取られた表情が、予想と現実の食い違いのほどを物語っている。だが、そこは奈々世より遥かに研鑽を積んだ魔術師である、彼は娘と違ってすぐさま立ち直った。
「奈々世、玄関のあれ持ってきなさい」
「う、うん」
 扉の向こうから眼を離さないまま、優は指示を出した。奈々世はただそれに頷き、玄関へ向かって走る。下駄箱の横、傘立ての中に突っ込まれているゴルフクラブを手に取った。優はゴルフなどしたこともないが、随分昔にゴミ捨て場から拾ってきたものだ。
 長年に渡って桐泉家で活躍してきたそれは、何度も曲がってはそれを真ッ直ぐに叩き直したため、やや柄のあたりが波打っている。ほかにも、細かな傷やへこみがちらほら。この家では、朝寝坊した者と禁煙の掟を破る者は殴っても良いことになっている。
 奈々世はクラブを手に、父がサイクオラトを見張るリビングのドア前へと戻った。
「よし、持ってきたな」
 頷く奈々世。
「じゃあ父さんを殴りなさい」
 奈々世は三度優の頭部を殴った。
 クラブを大きくスイングして、まずは後頭部、固い感触。たぶん、頭蓋は大丈夫そうな手ごたえ。次に体が傾いでこっちを向いた右のこめかみ、鈍い音。崩れ落ちる頭頂に、脳天唐竹割りとばかりに渾身の一撃。クラブがちょっと赤くなった。
「どう、父さん?」
 奈々世はクラブを肩に担いで、潰れた蛙のように廊下の上でのびた父親を見下ろした。これで死ぬとは思っていない。実際、奈々世の問いからきっかり三秒の間を置いて、優は頭をふりふり起き上がった。少し呻いていて、額が流血でべっとり濡れているが、問題ないだろう。
「ゥゥぅむ、夢ぢゃなひな」
「そうだね……。どうするの」
 奈々世は少し疲れを感じた。思ったより父も状況を把握していないようだ。しばらく痛む頭を抱えていた優は、やがて一つの提案を掲げた。
「そのクラブをこっちに貸しなさい、お前を殴ろう」
「痛いのはいや」
 奈々世はクラブを抱え、後退って即答した。
「これが私の夢じゃないなら、お前の夢に決まっているじゃないか。お前の悪夢に私を巻き込むんじゃあない。分かるだろう?」
「知らない。せめて、抓(つね)るだけにしておいたら?」
「私だけ殴られるのは損をした気分じゃないか」
「いいじゃないの、不公平は自然の摂理なのだから。世界が本当に全き平等なら、そんな畸形宇宙一瞬で崩壊すると思うなあ」
「母さんもそうだった、魔術師は奇跡を起こせない。魔法使いにも起こせない。魔術師に出来ることはいつも夢を見ることだけだ」
 地獄へ降りて悪魔と契約した、ような気になる。守護天使と語らう、ような気になる。人間が備えている想像力を用いて、意識を自在に制御し、リアルな夢(白昼夢あるいは覚醒夢)を見る。魔術とは何かと問われたなら、このように答えることが出来るだろう。
 すなわち魔術の体系とは、どんな夢を見るかという「設定」であって、唯一絶対の真理にあらず。
「何、急に」
 だが、それが今どう関係あるのか。奈々世はいぶかしんだ。
「いつか必ず。夢から目覚める時は必ず来る、そしてまた現実を生きるんだ。だが、時折、目覚めかたを違えたものが、目覚めたあとに夢を繋ごうとする、魔法使いになる。ありもしない、荒唐無稽で、非現実的で、馬鹿げた幻にとり憑かれ。失ったものが本物であれ、幻であれ、そのままで終わらせようとはしない、傍迷惑なやからが。魔法使いだよ、奈々世! お前の母さんは魔法使いだったのさ! 魔法使いの娘はやはり魔女だった!」
 優はダイニングの扉を開け放つと、ずかずかと中へと乗り込んだ。そして、人差し指を立て冷蔵庫に取り付いているサイクオラトを指さす。
「さあ、お前の悪夢を片付けておくれ、Sr. ガリラエ! 魔女ガリラエ! 大魔法使いガリラエ! 退去の呪文を、送還の式を、さぁさぁさぁさぁッ」
「ぱ、パパ……」
 どうしよう、父が壊れてしまった。優のような理知的な(だと思っていた)大人でも、こういった配線の切れ方をするものなのかと思うと、何だか幻滅を感じてしまう。奈々世は何やら虚しくなってきた。娘の尊敬を失いつつあることを知らない父は、無遠慮に妖蛆の肥えた胴体をぺちぺちと叩きだす。
「プロスペロは言ったよなあ、シェイクスピアのテンペストで! 我らは夢と同じ物質でできている、と。まさしくそうだ、こいつがそうだ! きっとこいつはまだお前の頭とへその緒で、繋がっているに違いあるまいともさ!」
 優はサイクオラトの体に手をつけたまま、天井を仰いで笑った。むろん、呵々大笑などとカラッと明るい笑いではない。顎が外れそうに大きく口をあけ、淀んだ吐息で大気を波打たせる、壊れたオルゴールのような病んだ笑い声だった。奈々世は、父の眼に涙が滲んでいる気がした。
「あえーすっ! えふと・えふと・えぷはぃ」
 サイクオラトはそんな優を面倒に思ったのか、それとも、何でもいいから口に入れたかったのだろうか。下段の野菜室に突っ込んでいた頭を出して、こちらに向き直ると、かっと大口を開け、大上段から優へと覆いかぶさった。無論、彼の体はサイクオラトの口にすっぽりと収まる。
「あ」
 コキン、と妙に軽くて甲高い、骨が折れたらしい音がした。
「あああ、あー、あ~、あ」
 ――バキパキペキ、ごりゅ、ズルズル、チュパチュパ、グヂャ……ッ、クチッ。
 桐泉優の体が、サイクオラトの巨大な口内に消えてゆく。最初の一口で絶命したのか、優は特に抵抗もしなかった。ただ、胴体まで呑まれて、床から浮きあがった足がカクカクと宙で揺れる姿が怖い。蛆は行儀がいいことに、血の雫をこぼすこともなく綺麗に平らげてしまった。
 綺麗すぎて、いきなり父が食われた実感が乏しいくらいだ。
「……あっちゃあ」
 奈々世は呆けて呟いた。それ以外の行動が頭に出ない。
 もしかして、次に食われるのは自分か。それを考えると恐怖が襲ってこないはずはないのだが、思考が停止した頭はその事実を認識しながらも、感情がピンぼけしていて、何の感慨も沸きあがってこない。さしあたって、今日の夕飯二人ぶんでいいかな、などと少し遠い未来のことを考えていた。
 サイクオラトの口の端から、ぽろりと優が突っかけていたスリッパの片方が落ちて、軽い音を立てる。自分はどうしたらいいのだろう、恐怖に、或いは父親を食い殺された悲しみに泣き喚けばいいのか。それとも、このスリッパで叩くなり何なり、無駄に一矢報いればいいのか。
 悪夢の妖蛆は、優を食い終わったその姿勢のまま、じっと動かない。本来悪夢を喰うはずの生き物を、餌のない世界に招いた自分が悪いのだ。そうでなければ、こうも暴食することはなかったのだろう。こいつは、私をあざ笑っているのだろうか。――ダイニングの扉が、微かな音と共に揺れた。
「奈々世、どうしたの? さっきから凄い音」
 扉から流れ出る、よく知った声が奈々世を思考の迷宮から掬いあげた。
「マ、ママッ!?」
 青白い顔の信濃が、カーディガンを引っ掛けて入り口から中を覗いていた。不思議そうな顔で入ってくるが、奈々世の目の前のサイクオラトは、なぜか微動だにしない。急に固まって、蝋人形にでもなってしまったかのようだ。どうしたらいいものか、とりあえず状況の説明を始めることにした。
「いや、その……」
 恐る恐る、サイクオラトを指さす。
「これがさ、パパを食べてしまったんだけど。どう……しよう……、ねえ」
「あらあらあら、まあまあまあ」
 信濃はおっとりとした仕草で、掌を頬にあてて困ったように眉根を寄せた。正直、ちっとも困っているようには見えないし、真剣味も足りない。それが母のポーズであれ何であれ、奈々世は妙な疲れとともに信濃の次の言葉を待った。それより、動かないサイクオラトが怖い。
「うふふ、簡単よ。私いいこと思いついちゃった」
 シンキング・タイムが終わった信濃の第一声は、妙に明るかった。ぴん、とひとさし指を立てて提案を口にする。
「これに優さんの身代わりをしてもらいましょう」
「はい?」
 一瞬、奈々世は信濃の言葉が理解できなかったが、次の瞬間には、カチリと合点がいった。それは歯車が合うように、パズルのピースがはまるように、実に気持ちのいい合致感だった。もしかしたらその歯車もパズルも、根本から歪んでいたのかも知れないが、奈々世は深い納得を得た。
「……あ、そうか! それでいいんだ!」
 世の中、罵迦(ばか)ばかりだ。

【7】
 サイクオラトの主食は悪夢である。故に、目覚めの世界においては多大な飢餓感に襲われ、あたりの物を食い散らすという悪癖を持つ。「彼」いわく、桐泉優は「腹のあたりに粥みたいなのが詰まってて」非常に美味だったらしい。
 さておき、これは喰った夢を再現できるという特性を持つ。平たく言えば、食った相手の知識、性格、技術、そして容貌や肉体を完全に再現出来るのである。信濃が言った「身代わり」とは、優を食ったことで優を再現可能になったサイクオラトに、この際ずっと優を演じ続けてもらおう、ということだった。
「ねえサイクオラト、私のパパは美味しかった?」
「それはもう、Sr. ガリラエ」
「その呼び方は止めて」
 サイクオラトが再現した桐泉優は、容貌、声、仕草の一つ一つまで、完璧に再現されていた。それが、奈々世にはひどく腹立たしい。恐ろしいと同時に、いつかこのままサイクオラトが演じる父に慣れて、本物の優がこれに食い殺されたことを忘れてしまうかも知れない。
 けれど、今はこいつに頼らざるを得ないのだ。
「それでね、サイクオラト。お前が食べた人は魔術師なの。自ら団も率いちゃうマスタークラス、アデプトクラス。その人が私の魔術の師匠だったのだけれど、お前、私に魔術教えられる?」
「それはもちろん」
「じゃあ、それで良しとしておく。今後ともよろしく。……いつか、お前を退去してやるけどね」
「はは、今後ともよろしく」
 いつどこの時代で覚えたものなのか、サイクオラト=優は、恭しく奈々世の足元にかしずいた。
 その姿を見ながら奈々世は思う。これは、自身の中から生じた悪夢だ。ばかばかしいくらい非現実的で、大事な日常の一つであった父の存在を破壊した化け物。それを呼び招いたのも、すべて自分の迂闊さ故だ。これが、代償なのだろうか。
 自分はもう二度と、かつての日常には戻れないだろう。あったように思えても、それはただ過去の行動をなぞった模倣だ。底辺にあるものは、まるで違う。けれど、それがどうした。悪夢には、しっかりと鍵をかけておくに限る。
 夢の扉の鍵さえしっかり管理しておけば、それに惑わされることなどない。ないはずなのだ。
 自分の手には、悪夢の鍵がある。

                                                      (END)

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