『僕らの青年期 ~ 灯』

『僕らの青年期 ~ 灯』

著/星見月夜

原稿用紙換算100枚


1.

 結婚について遥子が口にするのは、これで何回目だろうか? 居心地の悪さを誤魔化すように、煙草を手に取る。
「ねえ航太、ちゃんと聞いてるの?」
 聞こえてはいるが、聞くつもりはない。
 そもそも、真面目な話だったらちゃんと正面に座って切り出せば良いじゃないか。洗い物の片手間に話を振るなんて、無視されたって文句言えないだろうに。
「この間、また電話で言われたんだからね。お盆休み、あるんでしょ?」
 確かに、盆休みはちゃんとある。彼女の地元に行って、両親に挨拶をして、帰って来て骨休めをするくらいの日数はある。けどなあ……。
 灰皿を持って窓際に移動してから、ライターで火をつける。細く立ち昇った煙が、窓の隙間から外に逃げて行った。
「休みはあるけどさー……」
 咄嗟に思いついた言い訳は、幾つかあった。その全てを飲み込んで、はっきり言う。
「また今度にしねーか?」
「えええ! またそんなこと言ってるの?」
 水の流れていた音が途切れて、どたどたと足音が近づいてくる。思わず腰が退けるくらいプレッシャーのある音だ。
「私たち、もう二十七なのよ? 九年も付き合ってて、未だに籍も入れてないなんてね……」
「分かってるよ。親戚もうるさいし、職場での体裁も悪いっつんだろ? 俺だってそりゃ同じだぜ?」
 地元を離れてこの街の大学に進学して、一人暮らしを始めて――彼女に出会って。あれからもう、九年も経ったのか。
「けどよ、まだ早くねーか?」
「遅いくらいよ」
 彼女のエプロン姿が目に馴染んでから、どれくらい経つだろう?
「お互いに仕事してて、自立してて、貯えもしっかりある。他に何が必要なのよ?」
 不満を通り越して、呆れ果てた口調だ。一気にまくし立てられて、少し頭が痛くなった。
「あー……」
 俺はといえば、吸わないまま灰になった煙草を押し消すくらいしか出来ることはなく。
「とにかく! 今度こそ覚悟決めてよね!」
 参った。どうやら今回は気合の入り方が今までと違うらしい。大抵、こうして俺がお茶を濁そうとしていると諦めるはずなんだけどな。
「分かったよ」と答える以外に、彼女を納得させる方法がなかった。

 終電に間に合うように、彼女の部屋を出た。
 電車で一駅の距離の、恋人同士。「いっそ同棲すれば良いのに」とは良く言われる。けど、俺はそういうのがなんとなく苦手で。寝るためだけに自分の部屋に戻る毎日を、こうして繰り返している。
「なんだかなあ……」
 遥子のことは、本当に好きだ。多少強引な面はあるにしても、基本的には俺を立ててくれる。結婚すれば良妻賢母間違いなしだろう。家計のやりくりだって見事なモンだし、料理だって上手い。不満なんて何もなくて、逆に「俺で良いのか?」と疑問に思うことすらある。それでも、いざ結婚となると、どうしても踏み切れない。要するに、俺に問題があるんだろう。俺の、気持ちの中に。
 平日の終電なんて、がらがらだ。特にこんな中途半端な都会なら尚更。堂々と席に座って、電車が動くのを待つ。
 中吊りには、「○○破局!」だの「○○熱愛発覚!」だの、ゴシップな記事が原色で塗りたくられている。別に誰が離婚しようが結婚しようが知ったことじゃない。自分のことで手一杯だ。
 思い出したようにドアが閉まり、おざなりな曲が流れる。おざなりな曲と、捨て鉢なアナウンス。終電なのは重々承知してるっての。
 他に誰もいないのを確認してから、大きく溜め息を吐く。がたん、と一つ揺れて、電車が動き出す。
 深刻な顔をした写真が、冷房の風に揺れている。

 この歳になって分かったことの一つ。大抵の物事は、自分で決める前に動き出すということ。
 振り返ってみれば、高校時代からそうだった。薦められるままに入学した高校と、なし崩しに受けることになっていた大学。大学時代だってそれほど大したことはしていない。それでも就職は決まったし、こうして今でも勤め続けている。
 別に不満はないはずだ。逆に自分で決められたのかと問われても答えられない。
 それでも、何というか、俺としては――
「……面白くねーわな」
 帰り道にいつも通る公園。真ん中にある池の辺りで、足を止める。
 夜の公園は不気味なくらい静かで、涼しい。水の匂いと、少し濃い空気と、オレンジ色の街灯。
 ポケットから煙草を取り出して、火をつける。紙の燃える音と、気弱な灯り。池の水面は嫌味なくらいに穏やかで、怖くなるくらい底なしに見えた。
 この公園も、昼間は近所の奥様方で賑わっているんだろう。風通しが良いからそれほど暑くもないし、水場だってある。子供を遊ばせるのにも、ちょっとした気分転換にも最適だ。
 でも、俺にとってはただの通り道でしかなくて。今日みたいに気分が沈んだ日に、ほんの少しの間だけ足を止める程度の場所でしかなくて。
「あーあーあー……」
 街灯に虫が当たって、乾いた音がした。
 結婚は嫌じゃない。でも、本当に結婚して良いんだろうか。そんなことばかり考えてしまう。
「……やめやめ」
 こんな日はさっさと帰って寝てしまおう。どうせ起きたら忘れてる。
 携帯灰皿に吸殻を押し込んで、止めていた足を上げる。
「あの、お兄さん」
 真後ろから声をかけられた。当然、凄く驚いた。
 跳ね上がる心臓を押さえるように、声の主を見る。花壇の中に人影が立っている。真っ黒な夜と区別のつかないくらい真っ黒な服を着た、線の細い人影。
「お兄さん、ライター貸してくれますか?」
 闇夜にぼんやりと浮かび上がるシルエットは、どう見ても子供の姿だった。そもそも、声が相当にガキっぽい。甲高くて甘ったるいのに、どこか気取っている声だ。
「煙草吸いたいんですけど、ライター落としちゃったんです。だから、火」
 へらへらとした、ふざけた口調。花壇の中からずけずけと歩み寄ってきたのは、やっぱり女の子だった。
「……そりゃ災難」
 面倒になって、ライターを放り投げた。受け取れたかどうかは知ったことじゃない。さっさと帰って寝ちまおう。
「あ、ちょっと待って下さいよ!」
 ばたばたと落ち着かない足音が近づいてくる。
「あのな、説教臭いことは言いたくないんだ。黙って帰らせてくれ」
 そうじゃなくても考えなきゃならんことがあるってーのに。
「説教してくれてもいいですよ?」
 街灯に照らされたのは、少女の笑顔。曇りも陰りも、悪意も何もない、まっさらな笑顔。
「あの、一目惚れってどう思います?」
 にこにこと笑う少女は、上目遣いにそう言ってライターを差し出したのだった。

 嫌いなことは幾つもある。
 生乾きのシャツの匂い。急な夕立ち。ディーゼル車の真っ黒い排気ガス。やたら長い信号や踏み切りも嫌いだし、もたもたしてるコンビニの店員も嫌いだ。その嫌いなことのリストの中に、こんなのもある。
「対応の出来ない質問」
 がしがしと頭をかきむしって、考える。
「……説教しても良いっつったよな?」
「はい」
 純粋そのもの、といった風に頷く。サンタはいるし、赤ちゃんはキャベツから生まれると信じている類の頷き方だ。はっきり言って厄介だ。事実を教えるのも意地が悪いだろうし、そのままにしておけば嘘つきにされてしまう。本当に厄介だ。
 とはいえ、今の問題はサンタでもキャベツ畑でもない。目の前に立つ、このクソッタレな少女のことだ。
「ガキは帰って寝ろ」
 ライターをむしり取るように回収して、踵を返す。煙草をもう一本取り出して、口に咥える。
「帰る家がないんです」
 踏み出そうとした足が、止まる。頭の中でぐるぐると幾つものストーリーが浮かんで、思わず肩越しに振り向いた。
「そう言ったら、信じてもらえますか?」
 俺は笑えない冗談も嫌いだ。
「あ、待って下さいよ」
「うるさい。黙れ。俺は帰って寝るんだ」
 明日も朝早くから夜遅くまで仕事なんだ。
「大声出しますよ」
「……卑怯だぞ」
 この公園の脇には、公団住宅がある。中にはこんな時間まで灯りのついている部屋もある。そしてこのご時世だ。すぐに制服が駆けつけるだろう。その後どうなるかは、想像するのも馬鹿らしい。
「それと、子供扱いするならちゃんと最後まで面倒見るのが大人の態度だと思いますよ?」
「……このクソガキが」
 怒る気にもならない。要するに、俺はからかわれてるだけじゃないか。
「ガキが煙草なんざ吸うな。ガキがこんな時間に出歩くな。ガキが大人をからかうな。ガキはガキらしくガキ同士で遊んでろ。こんなトコでいいか?」
「はい」
 にこにこと、変わらずに笑顔のままだ。憎たらしいくらいに人の話を聞いていない。聞こえていても、聞くつもりがないんだろう。
「それで、まだ答えてもらってませんよ?」
 他に何か言われたっけな。
「一目惚れってどう思います?」
「どうも何も……人それぞれだろそんなの」
 惚れる方にしても、惚れられる方にしても、だ。
 ……というか、何で俺は律儀にこんなガキの相手をしてるんだ。さっさと帰って寝ないと、明日が辛いじゃないか。
「それじゃあ、一目惚れしても良いんですよね?」
「はあ?」
「お兄さんに、一目惚れしちゃいました。良いですよね?」
「はあああああ?」
 完全に裏返っている俺の声を無視して、少女は笑顔を浮かべている。
「迷惑ですか?」
「それ以前に犯罪だろ……」
 どう見たって条例に引っかかる歳だ。
「彼女がいるんだ。もう結婚もする。それに、ガキは相手にしない。一目惚れしたいなら学校の先輩で間に合わせろ」
「中学生って、好きじゃないんですよね。大人ぶってたり、子供じみてたり」
「俺も中学生は好きじゃないな。大人をからかうなら尚更だ。ともかく俺は帰る」
「家まで追いかけますよ?」
「……あのさ、本当に頼むよ。疲れてんだよ俺」
 中腰になって、視線を合わせて、懇願する。この際、多少情けなくても構わない。さっさと解放してくれるなら。
「いいんですか?」
 そんな俺の必死の頼みを無視して、少女は俺の右手を指差した。
「煙草、折れちゃってますよ」
「……クソッタレ」
 知らずに握り締めていたんだろう、煙草はフィルターの辺りで折れてしまっていた。携帯灰皿を取り出して、ねじ込む。ついでにライターもポケットに戻した。
「煙草って吸ってておいしいですか?」
「……体に悪いモンは旨いんだよ」
 どっかの誰かがそんなことを偉そうに言ってた。正しい。全面的に賛成だ。
「私はおいしいって思ったことないんですけど、体に良いんでしょうか?」
「ガキにゃ分からないように出来てんだよ。煙草も酒もな」
 ついでに付け足すなら、法律だってそうなってる。
「あの、立ち話も何ですし、座りませんか?」
 それはまるで、午後のお茶会にご近所さんを誘う主婦のような言い方で。
「……分かったよ」
 指差された先にある、ペンキの剥がれかけたベンチを、恨めしく睨むしかなかった。

 少女の名前は、花呼(かこ)というらしい。
「現在過去未来の過去じゃなくて、花を呼ぶって書くんです」
 中空を指でなぞる。説明だけで分かる。
「どうしてこんな名前をつけたんでしょうね?」
「親に訊いてくれ」
 にこにこと――本当に楽しそうに、にこにこと微笑んでいる。なかなか大したタマだ。親の顔が見てみたい。
「お兄さんの名前は?」
「スズキイチロウ」
「嘘ですよね」
 良く分かったじゃないか。
「お兄さんの名前は?」
 全く同じ口調で、全く同じ質問を繰り返しやがった。人形みたいな奴だ。
「永瀬航太」
 面倒になったので、ちゃんと本名を名乗った。良くある名前だ。別に都合悪くもない。何なら名刺を渡したっていい。渡さないが。
「煙草吸っても良いですか?」
 もう何も言う気が起きないので、黙っていることにした。
 花呼と名乗った少女は、黒いロングスカートのポケットから煙草とライターを取り出した。
「……持ってんじゃねえか、ライター」
 悪びれもせず、笑う。さすがに腹が立ったので、その煙草を手から奪い取った。
「没収だ。そっちもよこせ」
「コータさん、先生みたいですね」
 くすくすと笑いながら、それでも素直に従った。携帯灰皿に、もう一本煙草が押し込まれる。
「女が煙草吸うとな、子供産むときに影響が出るんだよ」
「私、生理もまだです」
 だったら尚更煙草なんて吸ってる場合じゃないだろうが。帰ってリリアンでも編んでろっつんだ。
「コータさんは吸わないんですか?」
 子供の隣で吸うほど、常識知らずじゃない。それに、思ったことをそのまま口に出したりしないのも、大人と子供の差の一つだ。
「惚れたら負けって、何かで聞いたことがあるんですけど」
「勝ち負けの問題じゃないけどな」
「この場合、私がコータさんに一目惚れしたから、私の負けになるんですよね」
 人の話を聞くつもりが全くないようだ。しかも、俺の冷たい目線にも気付かない。だからガキだっつーのに。
「勝てば官軍、っていうのも聞いたことがあります」
「だから?」
「勝ったコータさんは、私をどんな風にしても良いってことですよね?」
 何が言いたいんだこいつは……?
「敗者に弁はない、ですよね?」
「なら、帰らせてくれ」
「大声出しましょうか?」
 全然俺の勝ちじゃねーだろうが……。
 苦々しい気分で、空を睨む。夏の夜空には、天の川が見えるはず。織姫と彦星のアレだ。残念ながらここからは見えないが。
「コータさん、優しいですね」
「あん?」
 唐突な台詞に、顔を伺う。相変わらずの、純な笑顔。そこには含みも何もなく、ただ思ったことをそのまま口に乗せているだけの。
「一目惚れじゃなくなっちゃいました」
 考えてみれば、こんな風に真っ直ぐに「好き」と言われるのは初めての経験で――
 居心地の悪さを誤魔化すように時計を見ると、かなり致命的な時間になっていることに気付いた。
「おい、お前本当に良いのか? こんな時間だぞ?」
 腕時計を見せると、一瞬だけ目を向けて、ゆっくりと首を振った。
「学校なんて、行くだけで良いんです。寝てても誰も何も言いません」
 俺は先生に叩き起こされてた気がするけどな。
「家が、色々と複雑ですから。周りが気を遣ってくれるんです」
 出来る限り軽く言ったつもりだったんだろうが、表情の揺らぎはしっかりと見て取れた。街灯の、出来損ないの光の下でも。
 ……全く、鬱陶しいガキだ。
「俺は人生相談に乗ってやったことなんてないからな」
 諦めて、ベンチの背もたれに体を預ける。
「……だから、聞くだけだからな。話」
 投げやりにそう言うと、少し遅れてから「はい」と返事をしてきた。
 それは何故か、とても嬉しそうに聞こえた。

「私、子供の頃からお母さんがいなかったんです」
 そんな台詞を皮切りにして、花呼は自分のことを話し始めた。
「私はそれが当たり前になってるから、全然気にしません。でも、周りはそうじゃないんですよね」
 普通じゃない家の、女の子。
「自分のことは全部自分でやってきました。お父さんに心配かけたくなかったし、それが当たり前だと思ってたから。でも、周りの子たちはそうじゃないんですよね」
 中学校の頃の自分を思い出してみる。何一つ出来やしなかったのに、根拠のない自信だけはあった。無鉄砲で、周りの目ばかりを気にして気取っていた。振り返れば惨めなのに、あの頃は全部が楽しかった気がする。
「馴染めなくて、友達も出来なくて、でもみんな変に優しくしてくれて、嫌になります」
「……そうだな」
「お父さん、再婚したんです。相手は私の担任の先生でした。そういうのって、どう思います?」
 何が言いたいのかは分かる。先生が同情で父親と再婚してくれたんじゃないかと、そう疑っているんだろう。
「……どうだろうな」
 答えの出せない俺をそのままに、花呼は続ける。
「今は、みんなにも秘密になってます。でも私が来年の春に卒業したら引っ越して、一緒に暮らしたいんだそうです。私は、賛成も反対もしてません」
「そりゃまたどうして?」
「だって……反対しても同じですよ。高校生で一人暮らしなんて出来ません。私が決める前に、決まってるんです」
 笑顔を、浮かべている。
「そろそろ進路を決めなさいって言われても、行きたいところなんてないんです。お父さんに反対する理由もないし、先生をお母さんって呼ぶ気にもなれません」
「……そうか」
 思った以上にヘヴィな人生相談に、どう答えたら良いか分からない。
 もしもここで俺が適当なことを言えば、崩れ落ちてしまうかもしれない。そんな気もする。
 けど、こいつは別にさっき偶然出逢っただけで、別に俺の親戚でも何でもなくて……。
 がしがしと、頭をかきむしる。
「あー……あのよ、俺の話をするってのも変なんだが、聞くか?」
 我ながら何を言い出してるのかと思ったが、花呼は戸惑いながらも頷いた。
「ウチの親父がさ、結構偉いんだよ」
 一流大学を出て、役所に勤めて、役職に就いてる親父。子供の頃から理想で、同時にコンプレックスの対象だった。
「曲がったことが嫌いで、いつも言うことが正しいんだ。だからさ、俺はいつもびびってた」
 正座した俺を前にして、無言でじっと睨む親父の姿が目に浮かぶ。怒鳴り散らされるより、余程堪えた。
「けど、この歳になってさ……俺が働き始めてから、少しずつ変わってきたんだよな」
「どういう風にですか?」
「何てーんだろうな……」
 仏頂面は相変わらずで、風格も衰えてはいないんだけど、何というか……。
「認めてくれてる、のかな……」
 改めて口にすると、そう思えてきた。そうかもしれないと思えるようになった。
「たまに実家に帰ると、ろくに飲めないのに酒なんて持ち出して来てさ」
 コップ半分くらいのビールで、顔を真っ赤にしてたっけな。
「俺は母親の家系か、酒は強いんだ。で、親父は弱い。だから何つんだろな……」
 そういう、情けない面を俺に見せてくれるようになった。もちろん、酒に弱いから情けないってことじゃないんだが。
「親父が、俺に負けてくれるようになったんだよ」
「……それが、どうしたんですか?」
「あー……上手く言えねえんだけどよ」
 がしがしと、頭をかきむしる。こういう口下手な所は、本当に遺伝なのかもしれない。
「今は色々問題あっても、先のことは分からないってことだ」
 子供が大人になるように、親もまた変わるのだから。
「……そう、ですかね」
「まあ、知らねーけどよ」
 大体、詳しい事情を知らないんだ。口出しなんて出来やしない。そもそも打ち明け話は苦手中の苦手だしな。
「頑張れって、そういうことですか?」
「あー……まあ、そうだな。頑張れ」
 結局は他人事だ。どうだって良いっちゃ良いんだが。
「コータさん、一つ良いことを教えてあげます」
「あん?」
「女の子に『頑張れ』って、一番言っちゃダメな言葉なんですよ」
 ……そりゃ初耳だ。そもそも、「頑張れ」なんて普段軽々しく言わない。
「女の子は、いつも一生懸命頑張ってるんです」
「……ご苦労なこった」
 俺だって頑張ってるぞ。眠いのを我慢して見ず知らずのガキの相手したりして。蒸し暑くて堪らないってのに。
「でも、元気出ました。うん、良く眠れそうです」
 ぽん、とベンチから飛び跳ねて、姿勢を正す。
「コータさん、ありがとうございました」
 優等生がそうするように丁寧にお辞儀をして、また笑う。笑顔しか知らないんじゃないかってくらい、笑顔だ。
「また明日、待ってますね」
「はあああ?」
 何でそうなるんだ?
「大人って、最後までちゃんと責任持つ人のことだと思います」
 ……とんでもないガキに絡まれたもんだ。倒れてしまいそうなくらい疲れてきた。
「おやすみなさい」
 そう言い残して、軽い足取りで立ち去って行った。
 街灯の照らすサークルから、少女の姿が消える。
「……なんだっつんだ」
 夢でも見てたんじゃないだろうか。夢でも見てた方がマシだったんじゃないだろうか。
 黒いスカートの描いた弧が、オレンジの灯りにしばらく浮かんで見えていた。

 翌朝、不思議と目覚めは良かった。遅刻もせずに済んだ。

2.

 終電よりも少し早い時間に、腰を上げた。
「帰るよ」
「あれ? 今日は早いじゃん」
「昨夜あんま寝てねーんだわ」
 一日分の疲れが、今になってどっと出てきた。
「おかげで眠くてな」
 あくびも出るってモンだ。
「泊まってけばいいじゃない」
 まあ、それでもいいんだけどな。
「やっぱ帰るよ。これでも大人のつもりだからな」
「は? 何のこと?」
「何でもないよ」
 責任感云々はどうでも良いが、もしもということもある。考えるのも鬱陶しいが。
「それじゃあ、また明日な」
「うん。おやすみ」
 玄関から一歩出ると、粘りつくような熱気。うんざりしながら、駅へと向かう。
 そうだ、もしもってこともある。もしも、昨夜のあの少女が本当にあそこで待っていたとしたら――
「……バカか俺は」
 期待してる訳じゃないし、楽しみにしてる訳でもない。本当に、うんざりだ。この時間の電車は混んでるから、一本でもずらしたいのに。
 駅前通りは、スーツ姿の人たちが足早に歩いている。俺も少し歩調を速めて、駅までの短い距離を急いだ。

 水の波打つ音に、耳を澄ます。咥えたままの煙草には、火をつけていない。それにしても相変わらず人のいない公園だ。街灯の数だってそれほど多くない。管理しようって気がどこにも覗えやしない。
「……さて」
 火をつけるべきか、つけざるべきか。
「こんばんは、コータさん」
 ……諦めて、煙草を箱に戻した。
「お前な」
「花呼ですよ。コータさん」
 振り返ると、想像通りの笑顔。憎たらしいくらいに良い笑顔だ。
「本当にいるとは思わなかったぞ」
「私はちゃんと来るって思ってました」
 にこにこ。本当に腹が立つ。
「とりあえず来たぞ。満足だろ?」
「はい」
 それにしても背後を取るのが上手いガキだ。正面から堂々と登場出来ないモンか。
「それじゃあ、座りましょうか」
「……一つ訊いていいか?」
「はい?」
「お前、何がしたいんだ?」
 ただの通りすがりの男を捕まえて、真夜中だっつのにたらたらと話をする。自分にとって辛いはずの話をしながら、笑う。
「名前」
「あ?」
「花呼です。私の名前。ちゃんと覚えて下さいね」
 指一本を真っ直ぐに立てて、ベンチへと歩く。俺がどう思っているかはお構いなしに。
「……おい、カーコ」
 一歩踏み出して、呼び止める。彼女はそのままベンチに座って、俺を手招きする。
「立ってると疲れませんか?」
「……寝不足だしな」
 食えない奴ってのは、こういう奴のことを言うんだろうと、改めて実感した。

「煙草は止めただろうな」
 わざと乱暴に、腰を下ろす。隣に鞄を投げ出して。
「今日は吸ってませんよ」
 引っかかる言い方だ。
「学校は?」
「行きました」
「宿題は?」
「やりました」
「部活は? 夕飯は? 親とちゃんと話したか?」
「コータさん」
 軽く頬を膨らませて、不満そうに俺を見上げている。
「ひょっとして、お説教ですか?」
「説教してもいいんだろ?」
 別にこんなガキがどんな青春を送ろうが知ったこっちゃないが、俺の邪魔をするのは我慢ならん。
「さっさと更正して、良いコにでも何にでもなってくれ」
「私、迷惑なんでしょうか」
「はっきりとな」
 ここで甘さを見せたら、昨夜みたいに遊ばれるだけだ。少しは大人の厳しさを見せてやらないと。
「迷惑でもいいですから、お話しましょうよ」
 だめだ。こいつ本当に人の話を聞こうとしてない。まあ、時間にはまだ余裕があるから大丈夫か。
「部活はやってません。本当はダメなんですけど、私は特別みたいです」
 良い身分だな……と、単純にそう言う訳にもいかないだろう。詳しいことはまだ全く分からないしな。
「夕飯は、ちゃんと食べました。でもお料理は苦手だから、いつもピザを取ってます」
「自分で作れ」
 そんな俺の意見を、彼女はにっこりと笑って受け流した。
「コータさんの彼女さんは、お料理出来るんですか?」
「ああ」
 だいたい俺たちくらいの歳にもなれば、女だろうと男だろうと一通りのことは出来る。大人だから。
「彼女さんの名前、何て言うんです?」
「イトウミドリ」
「嘘ですよね」
 何で分かるんだ。
「遥子(ようこ)。高峰遥子」
「で、もうすぐ永瀬遥子さんになるんですね?」
 そうなんだが……なんというか、そのことを考えると……苦い。
「私、出遅れちゃったみたいですね」
「はああ?」
「コータさん、取られちゃいました」
 取られたも何も、彼女とはもう九年も付き合ってる訳で。九年前っつったら花呼は幼稚園児じゃないか。
「今、幸せですか?」
「今現在、この瞬間のことを言うなら、相当疲れ果ててるけどな」
「大変ですね、お仕事。ちゃんと食べて、ゆっくり眠った方が良いですよ」
 皮肉の通じないガキだ。
「幸せですか?」
 お得意の、同じ口調。本当に、何で俺はこんなガキに付き合ってんだかな。
「幸せかどうかは問題じゃない。ただ、他の誰かじゃ遥子の代わりにはならないし、遥子がいなけりゃ困る」
「ふーん」
 実際、そんなモンだろう。けど、そういうことをひっくるめてまとめて、ちょっと視点をぼかすと――幸せってことに、なるんじゃないだろうか。
「好きなんですか?」
「……うるせい」
 彼女に「付き合おう」と言ったのは、俺だった。二つ返事でオーケーされた。何度もケンカして、その度に仲直りして、ここまでやってきた。
 そう、俺はもうすぐ結婚するんだ。
「ふーん」
「……なんだよ」
 何かを言い含めるような、意味深な笑顔。嫌いなタイプの笑顔だ。
「お前な、本当にそろそろ帰れ。そんで、二度と夜に出るな」
 訳の分からない苛立ちから、口調がどうしても荒くなってしまう。こんな子供相手にとは思っても、一度出た言葉は戻せるはずもない。
「俺だって中坊の頃は色々あったけどな、全部何とかなったんだよ。だから今こうやって……幸せなんだ」
 幸せ、と口にするのに、一瞬だけ躊躇った。俺が口にして良い言葉なのか、迷った。
「だからお前も、こんな危ない時間に出歩いて逃げ出してないで……」
「花呼」
「あ?」
 話の腰を折られて、思わず間抜けな声が出た。
「私の名前、今日でちゃんと覚えて下さいね」
 こいつはもう本当に……どうしてくれようか。
「どうしたんですか? 眉間がぴくぴくしてますよ?」
「……疲れすぎて顔面神経痛でも出てんだろうさ」
 怒ってんだよ。お前の面の皮の厚さに。
「カーコ、帰れ」
「そんなカラスみたいな呼び方しないで下さい」
「被害妄想だ」
 わざとやってるんだ。そもそも花呼の服装が悪い。夏場なのにロングスカートと長袖のブラウス。しかも色は全部黒。カラス扱いされても文句は言えないだろうが。
「結婚するのって、どうなんですか?」
 また偉く抽象的な質問だ。
「どうも何も……まだ分からねえよ」
 思わず本音が出てしまった。まだ分からない。結婚してしばらく経てば、少しは分かってくるんだろうが。
「分かってないのに、航太さんは結婚するんですね」
「分からないから結婚するのかもな」
 多分、誰もがそうなんだろう。そんなことをふと思った。
「私のお父さんは、分かってるんでしょうか」
「知らん。直接聞け」
 俺よかずっと経験豊富だろうさ。別に皮肉じゃないが。
「私は、まだそういうのって全然分からないんです」
 まあ、俺だって学生の頃はそんなこと考えもしなかった。ただ、ずっと一緒に暮らすんだな、程度の認識しかなかった。
 でも花呼は、そういった家族の当たり前の部分を知らない。自分が生まれて喜んでくれた人たちのことも、良く分かってないんじゃないだろうか?
「育ちの差だろ。もっと歳取って、恋人が出来て、それから考えても間に合うんじゃないか?」
「でも、航太さんは結婚するんですよね」
「だから……」
 俺と花呼は明らかに違うし、参考にしようもないだろうが。
「友達も作れなくて、将来何になりたいかも分からなくて……それでも私は、幸せになれるんでしょうか?」
 ぼんやりと、どこか遠くを眺めるような目。ひょっとして眠いんじゃないだろうな。
「……なりたいなら、なれば良いだろが」
「それ、大人の人の答えじゃないと思います」
「知るか」
 大体、花呼の望む「幸せ」ってのが何なのか、俺には全く分からない。
 お金持ちになること? 良い家に住むこと? 良い男と一緒に暮らすこと? 平穏な家庭を築くこと? それとも、他の何かがあるのか?
 ……俺にとっての幸せってのは、何なんだろう。無性に煙草が吸いたくなったが、我慢した。
「あの街灯……」
 ついっと手を上げて、斜め上を指差す。先にあるのは、古びた街灯。どこにでもあるような、気の利かないデザインの無骨でひたすらに実用的なだけの街灯。
「あの街灯、何日か前まで消えかかってたの、知ってます?」
「ああ、そういやそうだったな」
 毎日この道を通ってる訳じゃないし、それほど気にも留めてなかったが。
「壊れたら、交換してくれる人がいる。それって、幸せですよね?」
「お前……言うことが生意気だな」
 半眼で睨むと、花呼は予想していた通りに笑い返してきた。憎たらしいガキだ。街灯にまで嫉妬してどうする。
「航太さんは恋人さんと結婚するんですよね」
「ああ。彼女……遥子がそう望んでるからな」
 唐突に変わる質問に、それでもはっきりと答える。
「でも、航太さんはそれで良いんですか?」
 ……答えられなかった。
「本当に、それで幸せなんですか?」
 それが分からないから、昨日からずっと悩んでいるんだ。それなのにこのクソッタレな黒いカーコのせいで答えが出せないでいるんじゃないか。人の気も知らないで。
「……どっちにしても、お前には関係ないことだろ」
 とりあえず今は、そう言って突き放すしかない。答えが出ていないんだから、他にどうしようもない。
「それ、凄く無責任な答えです。私は認めたくないです」
 初めて、花呼が語調を荒げた。厳しい目で俺を見上げて、掌をきつく握っている。自分の父親のことや、他の色々なことと、重ね合わせているのかもしれない。でもそれは……。
「お前な、現状が上手く行かない八つ当たりだったら止めとけ。余計自分が惨めになるだけだぞ」
 そう、ただの八つ当たりだ。自分のことは結局自分で解決しなきゃならないし、他人のことに口出しするのは生意気だと思われるだけだ。それが、大人になった俺が学んだことだ。
 一歩下がって物事を見据えて、自分のやるべきことを見出す。それが出来なければ、社会から排斥されるだけで……。
 クソッタレ、俺は何で今になってこんなこと考えてんだ?
「私は惨めだなんて思いません。ただ、納得出来ないんです」
 花呼は、睨むように俺を見上げている。黒髪と黒い服のその姿は、見様によっては死神にも見えるかもしれない。馬鹿馬鹿しいことだが。
 肩を竦めて、そんな視線を受け流す。軽く息を吐いて、答える。
「……遥子が幸せなら、俺も幸せなんだ。それで良いだろ」
「航太さん、何も分かってないです。それじゃあ私は幸せになれません」
「あのな……」
 今の話は「俺が幸せかどうか」じゃなかったか?
「もっとちゃんとした答えをくれないと、私は許してあげませんよ」
 にっこりと、微笑んだ。花呼が俺を見てる。
 飲まれる。飲まれてしまう。服と同じ、真っ黒な目。何で俺こんなに……戸惑ってんだ?
 こいつは、俺にとって何なんだ? 大したことないはずだ。ただ俺をからかって遊んでる、ちょっと複雑な事情のある少女で――幾つもの笑顔を持っていて、人の話なんて全然聞いていなくて――
 でも、消えてしまいそうな儚さを持っている。
 そうだ。放っておけば消えてしまいそうなんだ。このまま、闇夜のカラスみたいに、夜に溶けてしまいそうな……。
「私、そろそろ帰ります」
「お、おう」
 気がつけば、手は離れていた。正体の分からない頼りなさに、思わず煙草に手が伸びる。
「また明日、待ってますね」
「はああああ?」
 だめだ。こいつ本当にだめだ。
「あのな、俺が言いたいのは……」
「それじゃ、おやすみなさい。コータさんもゆっくり眠って、明日も頑張って下さいね」
 去り際の鮮やかさだけは、見習いたいと思う。それくらいあっさりと帰って行った。
「頑張ってって、言っちゃだめなんじゃねーのかよ……」
 何となく、手を掲げてみる。目の前に。わしわしと、握ったり開いたり。
「……俺もな」
 あんな小さな手だった頃があった。それがもう、こんなだ。無骨で愚直な、端的に言うならば、ごっつい手。俺の親父みたいな、男の手。
「……ちっくしょ」
 もしも俺が、こんな手じゃなくて……もっと優しい、柔らかい手をした――あの黒ずくめの花呼と同じくらいの年頃だったら。
 だったら――
「どうしたってんだよ、全く」
 がしがしと頭をかきむしって、立ち上がる。知ったことか。俺はもうすぐ結婚して、そこまでだ。
 雑な仕草で鞄を取って、煙草を咥えて火をつけて、俺も歩き出した。
 帰り際、一度だけ公団住宅の方を見てみた。幾つかの部屋にはまだ灯りが点っていた。


 部屋に戻っても、当然のように誰もいない。慣れ切った一人暮らしの、自分の部屋。
 ただいまの挨拶はしない。黙って鍵を閉めて、チェーンロックをかけて、靴を脱ぐ。
 コンクリート建築の、動かないままむっとした空気。誤魔化すように、冷房を最大に。
「花呼、か」
 覚えてない訳ないじゃないか。あんなインパクトある奴の、ちょっと変わった名前を。
 シャツを脱いで脱衣所に放り投げる。スラックスはハンガーに。洗濯物は週末に彼女が来て、いっぺんに洗ってくれる。週末だけの通い妻、ってところか。
「受け入れられないわな」
 受け入れられない。そう簡単には。流されるままに、この歳になった。付き合っている彼女とも、ここまで来た。
 遥子。押しの強いあいつには、ぴったりの名前だ。いつまでも一緒にいられたら、とも思う。惚れてる。それは間違いない。幸せなのも……嘘じゃないさ。
 けど、けどな……。
「結婚かあ」
 下着のまま、ベッドに倒れ込む。灯りを消して、目を閉じる。眠気が、思考を鈍くする。
 ……流されたまま結婚して、幸せでいられるのかよ。
 浮かんだ疑問は、すぐに溶けて消えた。

3.

 仕事を終えて、遥子の部屋からの帰り道。
 結局こうして、公園のベンチに座っている。
「お前な、本当にこんなこと止めろ。そうじゃなくても物騒なんだから」
 俺がもし来なかったらどうする気なんだ。というか誰かが来たら絶対誤解されるし、最悪通報されるぞ。
「大丈夫ですよ。コータさんだったら、良いですし」
 何が良いんだ何が。
 花呼は相変わらずの、カラスみたいな格好をしている。街灯の灯りを照り返して、複雑な色合いに見える。
「何度も言うけどな、悩み相談だったら他当たってくれよ」
 相談したことも、されたこともほとんどない。そう考えてみると、今まで割りと順調に生きて来たのかもしれない。このガキに捕まるまでは、だが。
「それじゃあ今日は普通のお話しをしましょうよ」
「そういうのは学校の友達とやってくれ」
 そっちの方が話題も合うだろうし、何より健全で標準的だ。俺が頭を悩ませることもなくなるしな。
「友達って、どうやって作るんですか?」
「知るか」
 子供の頃なんて、そんなこと考えたことはなかった。気が付けば一緒にいるようになっていて、それが「友達」なのだと後から知った。
「相手の話を聞いて、自分の話をして、一緒に遊ぶ。そういうのが友達なんじゃねーか?」
 というか結局人生相談になってるしな。
「それなら、コータさんと私は友達ですね」
 こういうときの花呼は息が詰まるくらい綺麗に笑う。こういう顔を見せてやれば、幾らでも友達なんて出来そうなモンだけどな。
「とにかくな、少しずつでも良いから友達作るようにしてみろ。そうすりゃ、今こうやってることがどんだけ異常か分かるから」
 腕時計を見る。俺がガキの頃だったらとっくに眠っていた時間だ。たまには深夜ラジオを聴いたりして夜更かしもしたが、一人で家から出るなんてことはなかった。
「コータさんが私と同じくらいの頃って、どんなでした?」
「どんなって言われてもな。普通、だったんじゃないか? 友達もいたし」
 思い返しても、特別なことは何もない。好きになった子もいたけれど、進学した先が男子校だったのもあって、縁はそこで切れた。部活も適当にこなしていたし、成績は平均だった。友達も、ちゃんといた。
 このガキがこんなことを言い出すとは思ってもみなかったので、少し驚いた。もっとそういうのに大してはクールに接してると思ってたんだがな。
「そうですよね」
「なんだ、やっぱ友達が欲しいんじゃねえのか」
「ちょっと、分からなくて」
 途中で笑い方を忘れてしまったような、出来損ないの笑顔。悲しいときに無理矢理笑おうとしたら、こうなるだろうか。
「友達は多い方が良い……とも言えないけどな。一人もいないっつのは、やっぱり寂しいだろ」
 当たり前のことだ。それがどんな人間だとしても、一人きりは寂しい。
「私、実は結構男の子にもてるんですよね」
 ……そうですか。
「それで、女の子からは大人っぽくて綺麗で羨ましいとか言われて」
「そんだけ自慢出来るならアイドルにでも何にでもなれよ」
「私は、全然嬉しくないです」
 苦笑いを、強引にちゃんとした笑顔に変える。でもやっぱり、そこには寂しさが見え隠れしていて。
「だって、学校にいるときなんて……話す相手がいないから黙ってるだけで、退屈だから授業を受けてるだけで……それで大人っぽいとか言われても、困ります」
「ガキなんて無責任なモンだろ?」
 励ます気はさらさらない。花呼の気持ちは、俺には分からない。結局は他人事だ。深入りしても仕方ない。
 深入りしても、何もしてやれない。
「友達になれないっていうか、馴染めないんだと思います。大人の振りをしてる子にも、子供のままでいる子にも」
「俺にしてみりゃお前もガキで、他のガキと差なんてねーよ」
 でも、あの頃の俺はそう思えなかった。クラスの一人一人が絶対で、狭い世界が全てだった。
 だから多分――もう俺は、花呼の悩みが分からない。それが、大人になるってことだ。
 気付くと、花呼は俺をじっと見上げていた。揺るがない、真摯な眼差しで。
「……コータさん、私のこと好きですか?」
 その言葉に、息が詰まる。誤魔化すように、目を逸らす。
「好きも嫌いもないだろ……大人をからかうんじゃねえよ」
「大人って、何ですか? コータさんは、ちゃんと大人なんですか? 私はクラスの他の子よりも大人なんですか?」
 矢継ぎ早に並べ立てられる質問を、俺は一言で切り捨てる。
「俺は大人で、お前らはみんなガキだ」
「そんなの、分からないです。ちゃんとした答えがないと、納得出来ません」
 うつむく花呼に、溜め息を吐いてから答える。
「俺は、お前が今味わってる疎外感とか苛立ちとか、全部経験してきた。そうやって大人になったんだよ」
 辛いことも苦しいことも全部、乗り越えてここまで来た。
 会社に入ってすぐ、先輩たちと衝突した。仕事で手を抜こうとする先輩たちに、嫌気が差した。でも、結局は俺も手を抜くことを覚えた。
 何年か勤めて、少し責任が増えた。自分で出来る仕事を他人に回すことで、上手くこなすことを覚えた。
 眠らずに働いたこともあったし、それを遥子に咎められたこともあった。
 だから今、俺は大人なんだ。
「でも、コータさんは幸せそうに見えません」
「……あのな、俺は」
 幸せかどうかなんて、結局は捕らえ方の差でしかないだろう? それに、見えることが全部じゃないはずだ。
 そう言い返すために、息を吸い込んで――止めた。
 花呼が、俺を見ている。黒く輝く、吸い込まれそうな目で、真っ直ぐに俺を見ていた。
「私、一目惚れじゃないです。本当はあの日の前にも、コータさんのことを見てたんです」
 時間が、止まった気がした。

 金曜日の夜は、彼女の――遥子の部屋に泊まる。土曜日は一日一緒にいて、日曜日は俺の部屋で過ごす。ここ何年かの、お決まりのパターンだ。
「あのさ」
 と、切り出す。何をするでもなく眺めていたテレビでは、週末のゴールデンにありがちなお笑い番組。食事時の、害のない番組だ。
「なにー?」
 彼女は丁度夕食の支度を終えて、食器をテーブルまで運んでいるところだった。
「中学生の頃って、どんなだった?」
「どんなって言われてもね……」
 思案顔の彼女。まあ、質問が曖昧すぎたわな。
「友達とか親とかさ、どうだった?」
「どうしたの急に?」
 どうしたんだろうな、俺は。十年以上も昔のことなんて、今更どうでも良いはずなのに。
 俺が黙ったままでいると彼女は諦めたらしく、食器を運ぶ作業に戻った。テレビからは、無意味にハイテンションな声が垂れ流されている。

 思い出したことは幾つかあった。思春期の、今となっては下らない悩み事。思ったことが口に出せなかった。気持ちを伝える言葉を知らなかった。何になるのか、何をして良いのか分からなかった。不安と、自己嫌悪と、裏づけのないプライド。
「……困ったモンだよな」
「何が?」
 並んで座る彼女が、俺の顔を覗き込む。
「ねえ、さっきから何考えてるの?」
「いや……あれだよ、挨拶の言葉」
「ああ。ウチの親にする挨拶? 別にそんなに考え込まなくてもいいんじゃないの?」
 咄嗟に嘘を吐いて、誤魔化す。彼女は嬉しそうに微笑んで、距離を詰めてくる。
「それよりもさ、結婚式とか新婚旅行とか、考えることは他にあるじゃない」
「ああ、まあ、そうだな」
 けど、何でだろう? そんな大事なことなのに、現実味が全くないのは。事が大きすぎて現実味がないのだろうか?
「ちょっと待って。今日ね、仕事帰りに色々パンフ貰って来たんだ」
 立ち上がって、両手一杯のパンフレットを持ってきた遥子に、俺は苦笑を返した。

 金曜日の夜が、そうして過ぎた。

 土曜日。特別な用事がなければ、一週間分の買い物をする日。大抵の用事は近所で済む。
「やっぱりさ、籍入れたらこっちに住もうよ」
 確かに、遥子の部屋の方が便利だ。駅までは十分程度で着くし、商店街も近い。大手デパートだってある。難点といえば、多少治安が悪いことくらいだろうか。一本通りを裏に回るだけで、呼び込みのお兄さん方が声をかけてくる。
「あの部屋だと少し狭いぜ?」
 彼女が学生時代から住んでいる部屋。俺も学生時代から良く通っていた部屋。
「何言ってんのよ今更」
 呆れ顔で、買い物袋を持ち直す。
「広い部屋がいいなら、別のところを探してもいいけどさ。やっぱりこの街が良いと思うのよね」
 まあ、そうなんだけどな。
「まだ先の話だろ?」
 そんな先のこと、想像も出来ない。
「あのね、来月には実家に挨拶に行って、結婚式場の予約して、来年の春には私たち夫婦になるのよ?」
 来年の春。確か鬼が笑うとかそういう風に言うんじゃなかろうか。
「本当はすぐにでも入籍だけは済ませたいくらいなんだから」
 それが彼女の本音なんだろう。けど、俺がそれを拒否した。結婚式と同時に入籍、なんてことに憧れてはいないが……なんというか、本当に実感がないのだ。せめて、夫婦になったって実感が出てきてからでも遅くはないと思った。
 土曜日の昼間の、商店街通り。日傘を差した人や、俺たちみたいに買い物袋を下げている人。自転車で走る子供や、手を繋いで歩く恋人同士。
 そんな中に、制服を着て歩く少女たちがいた。なんとなく、目が追いかけてしまう。
「ってえ!」
 足を派手に蹴り飛ばされた。
「目線がいやらしいわよ」
「あのな、そういうじゃなくて俺はただ……」
 じとりと重い視線に、言葉が詰まる。
「……遥子があのくらいの頃ってどんなんだったかなって思っただけだよ」
 半分は嘘だ。でも、もう半分は本当。
「あんなに短いスカートは履いてなかったわね。ブラウスのボタンもちゃんと全部してたし」
「いや、だからさ……」
 完全に機嫌を損ねたのか、大股でずかずかと歩いて行ってしまった。
「……ったく」
 週末の商店街には、たくさんの人が溢れている。中には俺たちみたいに、結婚を間近に控えた恋人同士もいるんだろう。でも、彼女に蹴り飛ばされて置き去りにされるのなんて、俺くらいなモンだ。
「待てって!」
 両手の買い物袋を揺らさないようにして、小走りに駆け出した。

 買い物から戻って、彼女の部屋でごろごろする。
「眠いの?」
「んー」
 確かに、少し眠い。昼は外で済ませてきたし、今日はもう出かける用もない。気が抜けたのか、それとも疲れが出たのか、頭がぼんやりとしている。
「眠るならベッドでね」
「んー」
 部屋の掃除も、土曜日のお決まり。床で寝られると邪魔なんだろう。もそもそと体を起こして、ベッドに転がり込む。
「ねえ、夕ご飯は何が食べたい?」
「んー」
 答えを口に出す前に、意識が鈍くなって、途切れた。

 夜の濃密な空気が、張り詰める。息が苦しくなって、気温が少し下がった気がした。
 花呼の声が響く度に、他の音が遠くなる。
「お父さんと先生の再婚が決まった日、ベランダで外を眺めてたんです。頭の中がぼんやりとしてて、何かを考えるのが苦しくて」
 飲み込まれるのに抗うようにして、煙草に火をつけた。花呼の隣で、初めて煙草を吸う。
「そしたら、この公園の――ここの街灯の下で、恋人同士みたいな二人が歩いてるのが見えたんです」
 花呼は立ち上がって、街灯の光の真ん中に歩み出た。
「女の人は、とても幸せそうでした。一緒に居られることが楽しくて、嬉しくて、幸せなんだって分かりました」
 くるりと回るその姿が、とても美しいダンスのように見えて……。
「でも、男の人は退屈そうに見えたんです。落ち着かないで、何をして良いのか分からないみたいに見えたんです」
 少しうつむき加減のその顔に、笑顔が浮かんでいるのが分かる。
「だから、興味があったんです。そんな男の人のどこが良いんだろう、って。そんな男の人と一緒にいて、どうしてあんなに幸せそうなんだろう、って」
 唄うように、花呼は語り続ける。長い髪が、風に揺れた。
「最初は、あの女の人とお話しをしてみたかったんです。でも、逢ったのは男の人で……コータさんで……」
 自分の中から言葉を引き出すように、肩を寄せている。俺は、煙草を吸うしか出来ない。
「確かに、少しからかってみようかなっていう気持ちはありました。でも、すぐにそうじゃなくなりました」
 光の加減で、花呼の顔が良く見えない。
「コータさんが幸せそうに見えなかったから。全然、大人の男の人に見えなかったから」
 甲高くて甘ったるい、ガキの声。
「本当にコータさんは大人なんですか? 大人になれたんですか?」
 一歩、歩み寄る。ベンチに戻るように、俺の前に立つように。
「今のまま……このまま結婚して、幸せになれるんですか?」
 ……気がつけば、煙草はほとんど吸われることなく灰になっていた。
 花呼の言葉の全部を、思い返す。噛み締めるように、頭の中で繰り返す。携帯灰皿に吸殻を押し込めて、ゆっくりと立ち上がる。
「俺は俺で、お前はお前だろ。お互い、やることちゃんとやらないとな」
 答えなんて、見つかりっこない。だから俺は、花呼の頭に手を載せて……誤魔化す。
「でも、私はコータさんに……」
 細く柔らかい髪の毛の感覚を掌に覚えさせて、そのままポケットにしまう。
「何が大人かっつったら、その責任感みたいなのが最低条件なんだろうよ」
 決めたことをやり抜く。簡単に思えるけれど、そんな簡単なことすら出来ないようじゃあ、やっぱり大人とは言えない。
「本当に……本当にそうなんですか? それで、望まないまま大人になって、幸せになれるんですか?」
 街灯を見上げる。オレンジ色の安っぽい光。最近は淡いブルーの街灯が主流なのに、未だに古びた外見のまま立っている。そんな、飾らない灯り。
 目を閉じて、答えを探す。
「遥子が好きなんだ。初めて逢った時から好きで、付き合ってもっと好きになった。あいつが結婚したいっつなら、俺もそうすべきなんだろ」
「何でそんな他人事みたいに言うんですか?」
 もしも声だけですがりつくことが出来るなら、花呼のその声がそれなんだろう。でも、俺にはもう何の足止めにもならない。
 背を、向ける。
「俺だって、迷ってたさ。でもな、こういうのも一つの区切りなんだろうよ。ちゃんとした大人になるための」
「そんな答えじゃ、私は納得出来ません。だって、コータさん自身がどうしたいか、何も言ってくれてないじゃないですか」
 もう一本、煙草を咥える。
「答えてくれないんですか?」
 火をつけてから、初めて喉が渇いていることに気付いた。
「……自分のことちゃんとカタつけてから言いな、クソガキ」
「好きになっちゃったのに、いけないことなんですか?」
 答えない。答えられない。
 それは今までの冗談やからかい半分の台詞とは、全く違っていたから。
 そして俺も、最初に出逢ったあの頃に比べれば、変わって――
「そうやってちゃんと答えないのが、大人なんですか?」
 溜め息と一緒に煙を吐き出して、肩を竦める。なんとなく、口の端が持ち上がった。
「お前な、もう夜に出るな。お日様の下で同じ歳の友達と遊べ。それが合ってるよ」
 こんな薄暗い夜の中で、喪服みたいな格好をしてるから――俺みたいな奴が気になるんだよ。
 真昼の日差しの下で、もっと楽しいことを探して欲しい。幸せになりたいなら、そっちの方が良い。
 花呼ならきっと、幸せになれるから。
「コータさん!」
 肩越しに手を上げて、その場を立ち去った。
 花呼の声は、もう聞こえなかった。
 ふと思い出したのは、そろそろ世間じゃあ夏休みに入るんだってこと。
 団地の灯りは、いつもよりも少なく見えた。

 目を覚ましたのは、夕方頃だった。土曜の夕方はいつも、空が妙に青い気がする。これを過ぎれば日が落ちて、夕焼けの色になるんだろうが――何なんだろう、この妙な青さは。
「気の持ちようってヤツか」
 寝汗で湿ったシャツを、脱ぐ。
「遥子?」
 見回しても、いない。もっとも、見回すほど広い部屋でもないが。
「……トイレか?」
 脱いだシャツを、脱衣所のかごに放り投げる。替えのシャツは確か、ベッドの下にあったはず。一番上にあるのを適当に取って、袖を通す。トイレの扉を見ると、無人を示す青マーク。戸を開けても、当然いない。
「出かけたのか」
 大方、買い忘れたものでもあったんだろう。少し心配になったが、この時間ならまだ安全だろう。試しにテレビをつけると、俺にとっては全く面白味の分からない番組しかやっていなかった。ゴルフだの競馬だの、だ。諦めてテレビを消す。
 テーブルの上に丁寧に置かれていたのは、昨夜もさんざん見たパンフレット。結婚式場や旅行会社のだ。うんざりする気分を抑えて、ごろりと横になる。考えることは色々ある。山ほどある。唸るほどある。でも――
 この歳になって分かったことの一つ。考えて答えが出ることなんて、それほどないってこと。
「あーあーあー……」
 この歳になっても、大人になっても、結局こうしてだらだらすることもある。それほど変わっちゃいない。暑けれりゃだれるし、寒けりゃ動きたくなくなる。
「なーにが大人だよ……」
 ごろりと横になって、手足を伸ばす。
 何一つとして自分で決めたことはなかったのかもしれない。
 何一つとして最後までやり抜いたことはなかったのかもしれない。
 でも俺はこうして、大人になって――
「ホントにこれが大人かよ……」
 浮かんだそんな疑問を、考えずに目を閉じた。

 部屋の外から、室外機の唸る音と、都会で鳴く蝉の声が聞こえていた。
 夏は、更に深まろうとしている。

4.

 日曜は、一日俺の部屋で過ごす。一週間分の洗濯や、部屋の掃除を二人で分担して。とは言っても、ほとんど俺は何もせずに寝転がっているだけだが。
 夜になって遥子を駅まで送るのは、お決まりだ。
「もうすぐ本格的に夏って感じよね」
 夜の空気の粘度が上がりつつある。蒸し暑くて眠れない時期がまた来るってことだ。
「海でも行くか? 休み取って」
 思いついたことを口にする。職場の同僚に車を借りて、民宿に一泊。悪くないプランだと思う。
「んー……あんまり日焼けするのもね」
「それじゃプールか?」
 確か新しく出来た室内プールのレジャー施設がどこかにあったような。
「そうね。プールならいいかも。楽しそうな場所、調べておくね」
 遊びに関する調べ物は、やはり女の方が得意だ。俺が適当に調べたんじゃ、遥子も納得しないだろうしな。
 俺の部屋から駅までの、広い道。車道に面した、バス停や自販機がぽつぽつとある道だ。街灯も多くて、足元もちゃんと見える。いつもは公園を通り抜ける。圧倒的に近道だし、俺がいれば彼女も安全だ。でも今日は、わざわざ遠回りをしている。遥子はあまり気にしていないようだが。
 時々通って行く車が、熱気の残る空気をかき乱す。
「ねえ、航太は私と付き合う前って、どんなだったの?」
「あん?」
「ほら、この間そんなこと訊いてたじゃない?」
「ああ、そうだっけな」
 気まずさから、目を逸らす。本当は、別のことが知りたかった。
「……前にも話しただろ? 別に普通だよ」
 特に誇れることもないし、目立つようなこともなかった。普通の、ガキだった。
「好きな子とかいた?」
 少し考えて、正直に「いたよ」と答えた。嘘吐いても仕方ないしな。
「どんな子だったの?」
「お前、どうしたんだよ急に」
 今まで遥子がこんなことを訊いてきたことは一度もなかった。九年間で、一度もだ。
「ん……何でもないんだけどさ」
 誤魔化す仕草が、誰かと重なる。笑い切れない笑顔。
「……勉強が出来て優しくて可愛い子だよ。別に普通だろ?」
「悪かったわね。私は勉強出来ないし優しくないし、可愛げもないわよ」
「何怒ってんだよ……」
 全く、九年間一緒にいるってのに、未だに彼女の考えてることが分からない。足早になった彼女に、並ぶ。
「ねえ航太」
 前を向いたまま、そう言う。駅までは、もう少し。あの交差点を越えればすぐだ。
「やっと、夫婦になるんだね」
「……そうだな」
 正確には、ちょっと先なんだけどな。
「私、主婦になりたい」
「何度も聞いたよ、それ」
 苦笑して返す。結婚したら専業主婦というのが、彼女の夢だった。
「早く子供も欲しいね」
「……ああ」
 恋人同士から夫婦になれば、引け目を感じることもない。当たり前のことになる。子供を産んで、育てること。名前を考えたり、学校や塾に通わせたり、ピアノや水泳を習わせたり。そういう、当たり前の大人の――
「ねえ、航太」
 信号は、赤。並んで立ち止まる。
「病気とか怪我とか、しないでね」
「ははっ、気をつけるよ」
 何を言い出すかと思ったら、そんなことか。
「あのね、お互い健康でいることが一番大事なんだからね?」
「はいはい、分かってるよ」
 言いたいことは、ちゃんと分かるさ。
 信号が、青に変わる。
「ここでいいわ」
「おう、また明日な」
「うん、おやすみなさい」
 俺はそこに残って、遥子は歩道を渡る。渡り切って、振り返って、一度だけ大きく手を振った。俺もそれに応えて手を上げる。
 駅の灯りに吸い込まれた遥子の背中は、とても幸せそうに見えた。

 帰り道、何となく公園への道を選んだ。
 石段を降りて、砂利道に。砂利道を進んで、池の脇に。そこで足を止めて、辺りを見回す。手入れを放棄されている花壇と、青葉の生い茂っている桜の木。この公園が年に一度だけ盛り上がる花見の季節。そのためだけの、桜の木。池の向こう側には、東屋がある。一昔前に流行った、ログハウス風の東屋。使われているところなんて見たことがない。
 街灯は――
 一年を通して変わらず、光を放っている。夜を退けている。立派なモンだ。
 煙草を吸おうとして――止めた。考えてみれば、最近吸う本数が減ってきてる気がする。このまま禁煙ってのもいいかもしれない。子供が欲しいと言った遥子のためにも。
「……さて」
 もう一度ぐるりと視線を回して、一歩踏み出した。
 公団住宅のまばらな灯りを、一度だけ横目で見てから。

 月曜日、火曜日、水曜日――
 三日が過ぎた。
「どうしたの?」
 ぼんやりとしていた俺の顔を覗き込んで、彼女が心配そうにしている。
「あん? 俺?」
「他に誰がいるのよ」
 まあ、そりゃそうだな。我ながら間抜けなモンだ。
「別にどうもしてないぜ?」
「あのね、どうもしてなかったら心配なんてしないわよ」
 それもそうだ。
「……疲れてるのかもな」
 適当に、お茶を濁しておく。
「マッサージでもしてあげようか? それとももっと違うことが良い?」
「余計疲れるだけだろ」
 笑って、立ち上がる。
「帰るわ。明日も早いしな」
「泊まっていけばいいじゃない」
「いや……仕事が残ってんだよ」
「そう」
 嘘だ。嘘を吐いた。本当は、そんなことよりずっと気になることがある。
「ねえ、もし具合が悪いなら仕事休んだ方が良いんじゃない?」
「……大丈夫だよ」
 強がって笑って見せた。遥子の心配顔は変わらない。
「本当に、ほんの少し疲れてるだけだよ。急に暑くなったからな」
「それじゃ、明日はうなぎでも食べる?」
「お、いいね。山椒たっぷり振ってな」
「うん、楽しみにしててね」
 多分、彼女は俺のことを分かってる。疲れてるのは体じゃなくて、心だってことを分かってる。でも――何も言わない。これが男を立てるってことなら、大人の態度だってなら、彼女はもう立派な大人だ。
「おやすみ」
 部屋を出て、思うこと。
 もう三日も……土日を入れて五日も……花呼に逢っていない。
 もう、夜に出て来ることはないのかもしれない。結局俺は、あいつに何一つとして答えを与えることが出来なかった。
「……ったく」
 俺は何やってんだ。あんなガキ相手にマジんなって。
 頭をかきむしって、靴を鳴らして歩き出す。来ないってことは、何もかんも上手く行ったってことで、喜ばしいじゃねえか。それでいいはずだ。全く……。
「何が一目惚れだよ」
 ぼやくように呟いた言葉に、奥歯を噛みしめるしかなかった。

 足元に気をつけながら、石段を下る。
「ん……」
 街灯の照らし出すサークル。その端に置かれた貧相なベンチ。俺と花呼が二人で過ごした場所に――誰かが座っていた。
 一段飛ばしで下りて、砂利を踏みしめる。見ると、白い服を着た女の人のようだった。いや……。
「花呼、か?」
 目を凝らしても、分からない。髪型も違うし、服装も違う。体格は似ているような気もするが……。ここからじゃあ、良く分からない。
「……別に」
 別に、どっちでも良いじゃないか。花呼だったとしても、他の誰かだったとしても。
 出来るだけ足音を立てないようにして、ベンチの方を見ないようにして、進む。闇が薄くなって、水の匂いがして……。
「コータさん……」
「やっぱりお前かよ」
 口元に手を当てて、声の方を向く。立ったまま、その姿を見下ろす。
「もう来ないモンだと思ってたけどな」
 そう言うと、ゆっくりと顔を上げて――笑った。どこかすっきりとした、吹っ切れたような笑顔。
「お父さんと、先生……お母さんと、ちゃんと話をしたんです」
「……そうか」
「どうすれば良いのか分からない、ってちゃんと言いました。そしたら、一緒に考えようって言ってくれたんです」
 親と向かい合って話し合うことが、どれだけしんどいことか知っている。でも花呼は逃げずに、素直に自分のことを話すことが出来たんだろう。そういう笑顔だ。
「この服、お母さんと一緒に選んだんです。この髪型も、一緒に美容室に行って。お父さんはかわいいって褒めてくれました。」
 本物の、嬉しそうな笑顔。花の刺繍がかわいらしい、白いワンピース。喪服みたいな格好よりは、よっぽど似合ってる。
「良かったな」
 俺も手を除けて、笑い返す。頭に手を置こうとして、止めておいた。せっかくの髪型が台無しになるのも気が引ける。
「クラスでも、ちゃんと友達が出来ました。夏休みは一緒に遊ぶ約束もしてます」
 少し照れたような笑顔。歳相応の、含みのない笑顔。花呼には、似合っていると思った。
「それが当たり前のことなんだよ。こうやって夜にふらふら出てくることは、やっぱり異常なんだ」
 花呼は、自分で踏み出した。少しずつ、努力している。悩んでいたことも、苦しんでいたことも、自分で一つずつ解決しようとしている。だからもう、こんなことは必要ない。
 寂しい夜に逃げ出して笑うようなことは、もう必要ないんだ。
「今ならそれも、ちょっとだけ分かる気がします。でも……」
「お前はまだまだ、やらなきゃならないことがあるんだろ? 少しずつカタつけて、まともに戻れ」
 この前も言ったことを、もう一度繰り返す。
「お日様の下で、ちゃんと胸張ってやってけ」
 今の花呼になら、きっと出来るから。
「コータさん、私……少しだけ大人に、なれたんでしょうか?」
 そんな質問に、俺は答えを探す。答えなんて、いらないのかもしれない。ただ、俺は思ったことを言えば良い。
「ゆっくり大人になりな。クソガキ」
「……はい」
 花呼は素直に頷いた。もう大丈夫だ。
「コータさんは、どうするんですか?」
「俺は……そうだな。どうするかな」
 考えるまでもなかった。答えはもう、ちゃんと出ていた。
 それを言わないのは、俺の最後の意地だ。間抜けで惨めな、間違った大人の、最後の意地。
「私、コータさんのこと、本当に好きですよ」
 緩む頬を隠すように背を向けて、ポケットに手を入れる。
「俺はガキは嫌いだよ」
「私、コータさんの癖知ってますよ」
 肩越しに振り返ると、花呼はいたずらっぽく微笑んでいた。
「嘘を吐くとき、ポケットに手を入れますよね」
「……っはは」
 笑えた。俺も、素直に。
「ゆっくり大人になって、頑張って、そんで幸せになれよ」
 何が大人なのかなんて分からない。無責任に「頑張れ」って言うのが必要なときもある。
 幸せになりたいなら、きっとなれるさ。
「航太さんは、どうするんですか?」
 いつかのような、全く同じ口調。でも、今度はほんの少しだけ強い口調。
 答えずに、手を振った。
 もうこの道を通るのは止めようと、そう決めて歩き出す。
 小さな足音が離れて行くのが、かすかに聞こえた。

 その数日後、公園は改修工事で全面通行止めになっていた。

 俺は、一つのことを決めていた。

 花呼と話したことを思い出していた。家のこと、自分のこと、それと――幸せについて。
 花呼は自分で何とかした。あいつはもうガキじゃない。まだまだ子供だけど、ガキじゃない。勇気を出して親と向き合って、分かり合うことが出来た。戸惑いながらでも、大人になって行ける。
 なら、俺はどうなんだろう?
 そんなことが、ずっと気になっている――

 だから、俺は――

「……それ、どういう意味?」
「……どうもこうもないよ」
 彼女に――遥子に、別れを切り出した。
「冗談でしょ?」
 信じられない。そんな風な、ひきつった笑顔を浮かべている。
「悪いけど、本気なんだ」
「だって、もうすぐ私たち結婚して、夫婦になって……」
「ああ」
「ウチの両親に挨拶して、それから航太の両親にも挨拶してさ……」
 頷く。それしか出来ない。
「俺はさ、多分まだ……ガキのまんまなんだ。自分で何も出来ないし、何も決められない。だから……」
「そんなの! そんなの別にどうだって良いじゃない! だから私たちは二人なんでしょ?」
 遥子の言いたいことは、はっきりと分かる。
「でももう、決めたことなんだ。もう一度、やり直したい。流されたまま、このまま結婚するのだって良いとは思ってたんだ。でも……それじゃあ、俺は多分、納得出来ない」
 辛いけど、辛さを噛みしめて、遥子の目を見詰める。真っ直ぐに、逸らすことなく。
「だって……だって! 分かんないよ! 私には航太しかいなくて、他の人なんて……っ!」
「俺だって、遥子しかいない」
「なら、それならさ……」
 見詰め合う目が、潤んでいる。分かるんだろう、俺が本当に、本気だってことが。何しろ、九年もお互いだけを見詰めてきたんだから。
「結婚とか、そういうのを抜きにして、もう一度やり直してみたいんだ。もっとちゃんとした、ひとりの大人になりたいから」
 そうだ。そうじゃないか。ありきたりで平凡で普通な俺が、今まで自分で何を決めてきた? 選んできた? 何もないじゃないか。こんな俺が彼女と一緒になっても、幸せになれっこない。要するに俺は、大人になりきれてなかったんだ。その覚悟が、出来ていなかった。
「でも! 別れることなんてないじゃない! 結婚が嫌ならしなくてもいい! 私が悪いなら変わるから! だから……っ!」
「遥子」
 違う。彼女は悪くない。何も悪くない。悪いのは、俺だったんだ。ずっと、そのことから目を逸らしてきただけだったんだ。だから――面白くなかったんだ。退屈そうに見えたんだ。
「しばらくひとりで、やってみたいんだ」
 高校を卒業して家を出た、あの日から。
 慣れない街に足を踏み入れるのが怖かった。あてがわれた部屋が自分のものだって実感もなかった。苦労して作った飯は不味くて、母さんの偉さが始めて分かった。バイトは辛くて、親父の凄さが身に沁みた。
 もう一度、あの気持ちからやり直したい。
「だから――」
「……別れて、友達に戻るのね?」
 初めて出逢った彼女は、迷いながらも笑っていた。自分ひとりでやっていこうという覚悟を、ちゃんと決めていた。だから俺は、遥子に惹かれたんだろう。その恋が実って、こうやって九年も平穏に過ごすことが出来た。
 感謝、してる。
「無理よ、もう」
 遥子は大粒の涙をこぼしながら――笑った。それは、全てを認めてくれた笑顔。同時に、諦めた笑顔。
「私、実家に帰るね。仕事も辞めて、この部屋も引き払う。もう、航太のことを思い出したくない」
 そう言われても、仕方ない。これは俺の我侭で……覚悟のなさが生んだことなんだから。
「地元で仕事を見つけて、お見合いでもする。もう、この街にも来ない」
 でも俺は、あの部屋で暮らし続けようと思う。仕事も辞めない。やり直すことと、逃げ出してしまうことは違うから。
「この指輪も……返すね」
 二人のイニシャルが刻まれた指輪。テーブルの上に、音を立てて置かれた。俺はそれを拾い上げる。残しておくべきじゃない。これは、俺が持っておくべきだ。もう二度と、同じ跌を踏まないように。
 立ち上がって、背を向ける。部屋を去るためには、背を向けなきゃならない。
「こうたぁ……」
「俺、酷い奴だよな」
 奥歯を、噛みしめる。拳を握り締めて、前を睨む。自分に浸るつもりはない。でも、俺は酷い。そのことだけは、しっかりと認識しなくちゃいけない。
「私じゃ、だめだったのかなぁ……?」
「……そういうことじゃないよ」
 違う。そういうことじゃない。分かって欲しいのは、そんなことじゃない。
「俺が、ガキだったんだよ」
 戸を開けて、外に出る。後ろ手で戸を閉めて、すぐに歩き出す。身軽さなんてない。胸が締め付けられるだけだ。後悔ばかりが頭を過ぎっている。彼女の泣く声が、耳元で鳴り響いてる。でも……。
「それが大人なんですか?」
 そう言ったあいつの言葉も、頭に浮かんだ。
「分かるもんか」
 頭の中だけでそう答えて、雑な足取りで駅へと向かった。
 何が大人かなんて分からない。俺はこれから、またやり直すんだから。
 今度こそはっきりと胸を張って「大人だ」と言い切れるように。
 花呼や遥子に負けないような、ちゃんとした大人になるために。
 だから、しばらくは――
 昔のような、クソガキのまんまだ。

5.

 夏が過ぎて、秋になった。
 遥子は部屋を引き払って、街を離れた。残暑見舞いの手紙には、今度見合いをすると書いてあった。正月には年賀状を出そうと思う。俺の名前を見る度に辛くなるかもしれないけど、それは俺だって同じだから。
 けれど、何でだろう? 俺はそれほど辛くなくて、妙な爽快感があった。
 何日か考えて、その理由が分かった。この感覚は、いつか感じていたものと同じだということ。
 子供だった頃に、だんだんと大人に近づいていく、あの胸の高鳴るような気持ち。遥子は失ってしまったけれど、俺はもう一度やり直すことが出来る。辛いけれど、嬉しい。俺はまた、大人を目指せる。
 仕事は急に忙しくなって、休日出勤までするようになっていた。慣れない部署に回されたこともあって、毎日必死で働いた。
 公園の改修工事は延期されていた。一度、日曜に散歩がてら覗きに行くと、大分綺麗になっていた。芝はまだ茶色くて、春までは寒々しい景色になるだろうなと思った。桜の木も、戻されていた。中央に水路のような水場が造られて、その両脇が桜並木になるらしい。春には今まで以上に賑わいそうだ。
 街灯――
 街灯は、洒落たデザインの、ブルーの灯りの物に変えられていた。温かみのあるオレンジ色じゃない。デザインは昔のガス灯をイメージしているらしく、かなり凝った装飾が施されていた。
 不思議なことにベンチは設置されないらしい。公園にベンチがなかったらどこで休むというのだろう? 芝生? 花壇の縁? 水路の脇?
 一周をぐるりと歩くと結構な距離になる。これだけ綺麗な公園なら、申し分ない。
 完成したら、たまには足を運ぼう。そんなことを思った。

 冬は長かった。
 年を挟んで二回、大雪が降った。十年振りくらいの大雪だ。つまり、この街に住むようになって初めての大雪。雪で遅れた電車で出社して、凍えながら帰ってきた。雪が溶けるまで、一週間近くかかった。
 正月に実家に帰ると、親父にまた睨まれた。睨まれて、溜め息を吐かれた。酒を飲みながら、今の自分のことを話す。
「不器用なところは似なくて良いのにねえ」
 母さんはそう言って笑っていた。ひょっとしたら、親父も若い頃は俺みたいだったのだろうか? 真っ赤になってこたつで眠る親父を見て、少しは親孝行をしようと思った。
 遥子に年賀状を出した。ちゃんと返事は来た。今は地元で子供相手にピアノ教室の真似事をやっているらしい。見合いは三度して、三度とも失敗したとか。まあ、あの強引さについていける男はそうそういないだろう。苦笑しながらそう思った。
 風が強い日に、コートの襟を寄せる。骨まで冷えてしまうような冷たい風だ。咥え煙草のまま歩いて、フィルターに火がついて唇を火傷したりした。間の抜けた話だ。携帯灰皿は、四代目。誰かさんを思い出すような、真っ黒の携帯灰皿。難点は、それほど容量が大きくないということか。

 結局――
 あれから、花呼に逢うことはなかった。
 引っ越してしまったのか、それともまだこの街にいるのか、分からない。
 雪が溶けた頃、公園の工事も完全に終わっていた。仕事帰りには、公園を通って帰るようになった。途中の自販機で缶コーヒーを買って、それを片手にゆっくり歩く。おかげで運動不足は解消された。
 時々、あのベンチがあった辺りから公団住宅を眺めてみた。遠目には変わらないように見える。けど、多分変わっているのだろう。それくらいのこと、俺にも分かる。
 変わらないことはない。変えられないことはない。そう信じているから。

 桜が咲いた。まだ肌寒いけれど、おかげで夜桜が綺麗だった。
 いつもよりも何十倍も騒々しい公園を、それでも一回りした。手に持つのは缶ビールだ。舞い散る花びらが水場で流れて、街灯に照らし出される。桜のトンネルと、桜の川。これを狙っての改修工事だとしたら、大成功だろう。
 数人の酔っ払いが飛び込んだりして、警備員が慌てて引き上げたりもしていた。

 そしてまた、夏がやってきた。

 俺は職場を営業に移して、何とかやっている。自分では向いていないとは思うのだが、周りのフォローのおかげで役職に就くことにもなった。これから先の忙しさを考えると、目の前がくらくらする程だったが。
 遥子から電話があった。
「夏休みになったら海行こうよ」
 からっとした態度。思い出したくない、と言っておいてこれだ。休みが取れたら、という条件で約束をしておいた。どうやら紹介したい友達がいるらしい。男なのか女なのかは聞かなかったが。
 夏――
 この季節に、俺は花呼と逢った。そして、遥子と別れた。思い出深い季節だ。あれから一年が過ぎたなんて、ちょっと信じられない。
 俺は、変われたんだろうか?
 歩き慣れた公園。コーヒーは、ホットからアイスに変わった。たまに花火をしている子供たちがいて、そういう時は遠目にその灯りを眺めた。派手に空まで伸びる花火。鮮やかな色彩を広げる花火。夏らしくて良い。水面に映る花火もまた、綺麗だった。

「……ったく」
 頭をかきむしる。
「誰がこんな伝票書いたんだよ」
 シャツのボタンを一つ外して、ぼやく。誰が書いたとしても、判子を押したのは俺だ。最近はどうも、他人の尻拭いのような仕事ばかりしている気がする。帰ったら部下をいじめてやろうかどうしようか。そんなことを考えながら客先へと向かう。タクシーでも拾おうかと思ったが、止めておいた。そうじゃなくても経理に睨まれてるんだ。俺が歩けば、部下も少しは見習ってくれるだろう。
 ビルの日陰を渡るようにして、通りを歩く。夏休み中の学生や、買い物の主婦。俺と同じような格好と顔をした人たち。こればっかりは、去年も今年も変わらない。
「さて、と」
 取引先は、確かこの通りの裏だったはず。角の花屋を過ぎて――
 花屋を、過ぎ……て?
「あ」
「あ」
 メモを手に、思わず固まる。花屋の店先で見かけた顔は……。
「名前の意味、親に聞いたか?」
「凄く単純でした。花っていうのは幸せのことで、それを呼ぶように、だそうです。死んだお母さんがつけてくれたみたいです」
 全く関係ない、下らない言葉が出てきた。
「この名前、今は結構気に入ってるんです。こうやって花屋さんでバイトも出来ますし」
「そうか、高校生になったんだな」
「はい。今、この近くに住んでます。お父さんと、新しいお母さんと、三人で」
 見かけた顔は、花呼。少し成長して大人びた――あの頃とは違う、魅力的な顔で笑う、花呼。
「航太さんは、結婚したんですか?」
「逃げられちまったよ」
 肩を竦めて、笑ってみせる。嘘だ。でも、嘘だって良い。どうせ花呼にだって分かってる。
「私、十六歳になりました。もう結婚だって出来ます」
「犯罪でもないな」
「はい」
 満面の、笑み。今この瞬間が幸せなのだと、そういう笑顔だ。ずっと、見たかった笑顔だ。
「お前さ、大人って何なんですかって訊いたよな?」
「はい」
「俺も分からないまんまなんだよ」
 一年経っても、さんざ悩んでも、答えなんて出なかった。要するに、まだまだ俺はガキってことなんだろう。
「私も分かりません。でも、幸せにはなれそうです」
 この笑顔は変わらない。多分、花呼が大人になったとしても変わらないんだろう。
「一緒になるか? 大人によ」
 差し出した手に、花呼が掌を重ねて――
「はい」
 そう言って、笑ったのだった。
 真昼の降り注ぐ灯の真下で――



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