『ブラッド・スカーレット・スター』

『ブラッド・スカーレット・スター』

著/ポーン

原稿用紙換算70枚


1.

 メロディを説明するにあたって、人殺しの話は避けられない。だからまず、『人を殺す』ということについて触れておく。

 ある人間が生きている。そして過ごす。嫌いな誰かや愛すべき誰かのことを考えたり、現在抱えている問題や義務について頭を悩ませたり、目的地を想いながらどこかへ歩いたりする。その者は、呼吸し、会話をし、運動をし、食事をし、排泄し、睡眠し――常に何かをしながら、半永続的にその活動を維持する。そして、その状態と、それが一切出来ない状態――完全停止している状態とを区別して『生きている』『死んでいる』と言い、また、生きている状態にある者のみが所有し、ハートマークや蝋燭の炎や光球などで表現されるステータスのことを『生命』と呼ぶ。この生命は、あらゆる生物にとってその活動の大前提であることと、一度完全に失ってしまうと(少なくとも現時点では)二度と取り戻すことが出来ないことから、万物の中でも屈指の価値があるとされている。どんな生き物の隣にも当たり前のように転がっているため、その価値は日常では看過されてしまいがちではあるが――ひとたびその喪失の可能性が挙がれば、たちまちに関心を集める。人の心の根源と密接な関わりがあることも指摘されているし、実際に崇拝の対象にしている者さえいる。これらのことから、神の玉座(完全に客観的な視点)を除外すれば、生命というものが非常に重要なものであることが分かる。
 それを踏まえると、人を殺すということが、いかなる意味を持った行為であるかを考えることも出来るようになる。人間ひとりひとりがたった一粒ずつだけ抱えている生命を、喪失させる行為。喪失。そう、なくなるのだ。それがあったところに、ぽっかりと穴を開けて虚無に帰す。その消滅が絶対的であることを考慮すれば、奪うという動詞さえ聞こえがいい。略奪行為というものには、得する者がいる分だけ救いがある。
 そんな残酷な行為だから殺しは、非難や否定、攻撃や侮蔑の対象となるのは必然と言える。言うは難し、反殺人主義は常識の座をかなりの確率で占めている。行うも難し、多くの国の法律が、殺人行為を禁じている。「なぜ、人を殺してはいけないか」――それは、古代から絶えることのなかった命題だ。人を殺したいのではなく、ただ人殺しの否定を否定し、常識的思考の不自由性を批判せんがために発せられるケースが多いこの疑問は、自然概念『生命』の強力さゆえに、ことごとくがその志を達することも出来ずに捻り潰されてきた。だって捕まる、だって殺されるの怖い、だって死ぬの怖い、だって逆に殺される、だって悪、だって恐ろしい、だって暗黒、だっていけないことだから。これらすべての主張に、巨大で宿命深い背景がある。
「なぜ、人を殺してはいけないか」――一見して冷静に見えるこの問いには、実は視点の欠落が隠れている。裏返すことによってそれは得られる。すなわち、「なぜ、人を殺すべきなのか」。その意思はどこにある、と言い換えてもいい。人殺しというものの、積極的な価値を模索することが忘れられているのだ。否定の否定から発想される「なぜいけないか」という疑問は、最終的には極めて消極的な意思にしか帰着できない。問い詰めて追求することにより「殺してはいけない」を否定できたところで、得られるのは殺すか殺さないかを選べるようになることのみ、つまり選択肢が増えるだけだ。「どちらを選んでも問題ない」程度の自由が得られたところで、意思の欠如は埋められない。
 ここで求められている、人を殺す理由とは、その行為に対する単なる見返りの話ではない。誰かを殺して鬱憤が晴れる、結構、誰かを殺してその所持品を奪える、結構、殺される前に誰かを殺して生き延びる、結構、誰かを殺してその感触に官能を覚える、結構……得がしたければ商人にでもなればいい。
 何かあるはずだ。人殺しという行為そのものが帯びている、普遍的で決定的な価値が。人の心にとっての根源的な必然性を伴う理由が。意思が。もしも、人殺しというものが何も意味を持たないものであったならば、全く同じ理由で人生にもまた意味は無い。
 ある殺人者は祈った――願わくば神が、人を殺すことを許される、やさしき心でありますように。
 残酷な行為はしかし、必ずしも行為者を残酷にはしない。


2.

 人を殺した少女がいた。彼女の名前はメロディ・ガンダーラ。幼くしてぼんやりとあらゆるものに絶望し、精神的に確実に行き詰っていた彼女は殺すことによって自分を得た。彼女が殺した理由は二つ。幸福のためと思考のため。彼女が彼女になるために殺した者も二種類だ。まず最愛の人たちを殺し、次に自分自身を殺した。後者の殺人は比喩ではあるが、生命を喪失させる実殺に匹敵する殺人性を備えている。見えない殺しは誰にも止められなかった。

 自我の目覚めは凡庸だった。動物の如く単純に機能する脳が言葉を覚えてから、そこに言霊が宿るまでに要した時間は三ヶ月。とりたてて早くも遅くもない。世界が発し続ける信号にただ手を振るだけではなく、自ら手を伸ばして干渉することを覚える最初の年頃に、彼女は夕暮れの公園で老人と出会った。健康であるための処世術として、決して未知に耳を貸すなと繰り返し刷り込まれていたにもかかわらず、老人が差し伸べる手を取ってしまったのは、彼が連れていた犬が可愛かったからでは決してなく、穏やかに声をかけてきた老人に、なけなしの勇気を振り絞って一歩を踏み出す、少年のような健気さを見て哀れに思ったからだった。誘いを受諾したときの彼の何とも言えない歓喜の表情は、今思い出しても彼女の気を和ませる。
 メロディは老人に手を引かれ、ぶどう畑の横の大きな家に連れられた。どうだい広いだろう、と、おもちゃでも見せびらかすように老人が自慢したから、彼女はその広さを試すべく、老人が茶菓子を用意しようと別室に席を外した隙に、そっと自分も席を立って冒険を始めた。
 子供の冒険は偽物だ。それは子供自身も知っていて、ただ未知を踏破するだけでもその小さな主観は歓喜するに足る刺激をどこからでも拾って来られるため、生命を賭した極限の戦いとは全く無関係なものでしかないことを忘れるだけだ。ちょっとめずらしいだけの赤くてきれいな石ころとか、誰かが捨てたラジオの残骸とか、触れると弾けてしまう花のつぼみとか、俗に宝物と呼ばれる宝物のようなものは見つかるが、宝物が見つかることは無い。不健康な事情で念入りに隠蔽された秘密にしたって、子供が踏み込める程度の場所には転がらない味の無さが現実の常だ。
 メロディははしゃいでいた。奇跡のドレスを翻すお姫様には決してなれないことや、美という美の集約された深紅の宝石を手に入れることも決してないだろうという常識的で憂鬱な占いをすっかり忘れ、また忘れているということも忘れ、他のあらゆる子供と同様、現実と夢想のズレについて無自覚に、ただ目の前の夢想色の現実をむさぼるように、その大きな家の外の壁伝いに建物と建物の間の隙間を通り抜け、その先の中庭の脇にある目立たない木の板を剥がして、地下へと続いている濁った石の階段を見つけ出した。そのとき彼女はまだ、自分を知らない。自己の中の未知という概念が無いために外装として認識されない精神的外装の、愚直に欲するところに従ってその階段を下りた。自分が子供だと信じて、それを疑う必要もなく。
 二十二段を降りてゆき、陽の光が届かなくなったところで漆喰の扉に当たった。取っ手はあるがノブは無い。引けば階段に当たるから押すしかない。押しても開かない。力一杯押しても開かない。全体重をかけて押しても開かない。が、扉は唐突に奥へと沈み、彼女は短い足をもつれさせながら向こうの空間に踊り込んだ。カチリと音がして、その閉じた空間に淡い光が満ちる。それは天井の中心からぶらさがった電球によるものだった。振り向くと、扉を押し開けた老人がいた。電球のコードが天井を伝って、ドアの横のスイッチにまでつながっており、そのスイッチに老人が手をかけていた。老人は出会ったときと同じように、優しげに微笑んだ。けれど彼女には自暴自棄な何かが見えた。意味が分からないから、それはまだノイズだ。
「見つけてしまったね」
 確実なことだけを言うときの口調で、老人はそうつぶやいた。メロディは、その言葉に素直な疑問を持ち、自分が何を見つけてしまったのかを知るために周囲を見渡した。そこには子供の死骸が七点あった。すべて、彼女と同じ年齢層の少女のものだ。冒険のフェイクで麻痺していた感覚が、今更思い出したように悪臭と悪寒と吐き気を訴えた。幼き彼女は状況に恐怖した。
 その恐怖を、そのままその小さな体で、突き動かされるままに表現していたら、すべてはそれまでだっただろう。そのとき老人は八度目の絶望を味わい、メロディ・ガンダーラの首を絞めて殺していただろう。そして、幼いメロディは自分を知ることなく息絶えてしまい、両親や知人たちに思い出と悲しみだけを残して消えていっただろう。他のあらゆる生き物と同じく、特に意味が定められている訳でもない凡庸な死を与えられていただろう。だが、メロディが感じたその恐怖は、彼女の体外についぞ発散されることは無かった。彼女の奥に、まだ見ようとも覗き込もうともしなかった、未発達の闇があった。その闇の底から、白い小さな手がゆらりと伸びてきて、少女が禁室で見た悪夢を掴むと、乱暴に力を込め、その指の隙間から悪夢の構成液が流れ落ちて跡形がなくなるまで、徹底的に捻りつぶした。それは少女が実感しただけの内的な出来事であり、老人の目からすれば少女が二、三度まばたきしただけのことではあったが、それまで少女がこの死体の群れや老人に対して感じていた嫌悪や恐怖は霧散し、情景はただの光景に成り下がり、少女は人間にとって絶対に必要なはずだった何かと引き換えに、どこかむなしい冷静さを得たのだった。彼女は、その白い手が何者のものであるかを見極めようとした。そして、闇の奥に潜んでいた眼差しと目が合ったような気がした――が、ふたたび目を凝らしても何も見えず、手もすぐに闇の奥に引っ込んでしまった。
 そしてメロディは意識を現実に引き戻した。老人はじっと、自分の秘密を知った少女の様子に注意を払っていた。一触即発――彼の神経を逆撫ですれば、そこに転がっている死体と同じ運命を辿ってしまうであろうことは容易に占える。少女は、老人に向かって小さな手をすっと上げた。あるいはそれは、先ほど幻視した白い手と同じ意味を持っていたのかも知れない。老人は少女が動いたのに反応し、びくりと緊張した。少女はほっと溜め息をついた。どうということはない。この老人もまた、恐怖しているのだ。闇と、孤独と、これまで出会った少女たちの反応によって暗に指摘され否定され続けてきた、怪物のような自己像に。だから少女は、笑ってあげることにした。苦しんでいる人には優しくしてあげましょう。困っている人には、手を差し伸べてあげましょう。枯れ木には水をやりましょう。どれも学校で習ったことだった。老人は涙交じりに顔をほころばせた。少女と老人は、良き友人になった。

 メロディは家に帰って、自分の部屋で床に就いてから、深紅の宝石について思い出した。宝石、さて、何のことだったろう。老人の家のどこかで見かけた気がする。むかし見た本か映画か、何かの物語に出てきただけのような気もする。ただの喩えだった気もする。白い手がぬっと浮かび上がり、蜘蛛の巣を払うように、それらの連想をすべて散らせてしまったため、それ以上深紅について追想することは出来なかった。

 メロディは老人を家に招いた。彼女の両親は、娘の新しい友人の招待のために簡単なもてなしの準備をしていたが、メロディが手を引いて玄関の中まで連れてきた来客が自分たちの親の親ほどの歳の老人だったことに面食らった。が、
「いやあ初めまして、驚かせてしまったようですみません」
 と老人が頭を下げると、メロディの両親も、とりあえずつられて頭を下げて挨拶した。その上半身の下降に合わせ、老人はすっと右手を前に出した。その手に持っていたのは、彼が鶏と少女の屠殺に使っていた肉斬り包丁。メロディの父親が、自分の家の玄関を首から噴出する血で汚しながら絶命し、どさりと崩れた。その唐突な夫の死に、メロディの母は嘆く暇も驚く暇も与えられなかった。現象が正しく理解されて悲鳴に変わるよりも前に、老人が右手を翻して凶刃を彼女の胸に突き立てたからだ。彼女は後ろに倒れ、白い壁にひとすじの血痕を引きずってずずずと沈んだ。

 それらの淡白な殺戮劇を黙って見ていたメロディだが、両親の死を認識し、はっと顔を歪ませた。
「パパ……? ママ……?」
 世界の振動を感じた。すぐに、それは自分が震えているだけのことだと知れた。何が起こっている? 何に出くわしている? 分からない。あまりに分からないので、自分が取り乱して叫ぶべきことを、慎重に選ぼうとしてさえいた。
 パパとママが死んだ! それははっきりと、衝撃だった。目がぐるぐる回り、見えているものが歪む。二つの死体を前に目を細めている老人が悪魔に見えた。なんで殺したの。どうして殺したの! 何のためにこんなことしたの! そう叫ぼうとした。
 だが彼女は口を塞がれ、まだわずかに残っていたらしい、人間のものと思しき衝動を声に出すことに失敗する。左右から二本、顔の下半分を覆っているのはあの白い手だ。それを取り除こうと、指の一本を思いっきり噛んだが、白い手はぴくりともしなかった。そして首筋にふっと息を吹きかけられた。悪寒に背筋を震わせながら認識した。後ろに誰かがいる! メロディは抱きしめられている。その顔の見えない何者かが、メロディの耳元でぼそぼそとつぶやいた。
「――知っていたくせに」
 きらきら光る、一筋の銀光が飛来した。それは容赦無き真実の指摘の矢だった。寸分の狂いなく、メロディの心臓の中心に音を立てて突き刺ささった。
「そうら、ハートオブハートにクリーンヒット」
 蒼ざめながら彼女は認める――そうだ、こうなることは分かっていた。この老人が悲劇の招き手であるのは明らかだった。しかし拒まなかった。ここまで連れて来てしまった。この老人が拳銃なら、その引き金を引いたのは自分だ。全ては占っていたことだ。予想のうちのことだった。分かりきっていた。けれど自分はそれを避けようとしなかった。決して難しいことではなかったはずなのに……。
「喜びなさい。悲劇を、絶望を」
 背中にへばりついている女が嘲笑う。メロディは暗黒の中で、ゆっくりと自問を繰り返す。自分は、この状態を望んでいた? ――その通り、望んでいた、だからその通りにした。では、自分は両親を憎んでいたのか? ――違う、愛していた。世界中で何よりも、誰よりも。ならば、自分は、最愛の者を殺されたかったのか? ――殺したのは自分だ。それなら問い直そう、自分は、最愛の者を殺したかったのか? ――違う、それはない、それは狂っている。わたしは狂っていない。親の死を望むほど自分は歪んではいない。ならばまた問おう、自分は……自分は、望まないことを……望んでいたのか? そこまで問いが転がったところで、まぶしい光を見た。
「そうだ。それがすべての始まりだからだ!」
 自分を抱きしめている自分が叫んだ。自分が抱きしめている自分と一体となって。老人がびくりと振り返ってこちらを見る。既にシーンは現実だった。
「くそじじいが」
 メロディは、吐き捨てるようにそう言って、母親の胸に刺さっている包丁を右手で抜いた。
「許さない……」
 彼女は左手で、自分のポケットの中にあるひとつの感触を確かめた。冒険の途中で拾った、小さな赤い石ころ。それは偽物の宝物。けれど、意味なき意味、仕組まれた偶然、統一された意思の象徴でもある。メロディはそれを口にいれて――ごくりと飲み込んだ。精神と肉体が、急速に加熱されてゆくのを自覚する。
「メロディ?」
 怒りと殺意を剥き出しにするメロディを不思議そうに見つめている老人に、メロディの両親や少女たちを殺した攻撃性は無い。なぜなら、メロディは老人にとっての理解者、味方、信頼すべき家族になっているからだ。すでに彼女は、老人の精神的な懐に飛び込んでいる。
「パパと、ママを……殺したわね」
 ゆらゆらと燃えている。ざらついた歌声が聞こえてくる。秘密の紅き自我に目覚めるために、この悲劇は必要だった。だが、悲劇を引き起こした老人を、許す訳にはいかなかった。老人に復讐するためには、力が必要だった。すなわち、秘密の紅き自我。蛙は蛙に、ゴンドラはゴンドラに。
 この状態を望んだのは、自分だ。だからこの老人に感謝する。ありがとう。……『だけれど』……絶対に許さない。
「さよなら」
 メロディは、血塗れた刃を自らの首筋に向けた。老人は、慌てて少女を制止しようとした――同時にメロディは包丁を、老人に向かって翻した。刃は皮膚を切り裂いた。首筋を切られた老人は、メロディが死ななかったことを心底喜びながら、メロディの父親の死骸に重なって倒れた。悪魔の血もまた赤色だった。哀れだった。
「誰だったんだろうね」
 メロディは、行きずりの友人の死に対する感慨を葬るようにそう言うと、改めて自分を殺すべく、自分の心臓に包丁を突き立てる。たった今も三人殺した包丁は、少女の胸の中に吸い込まれ、煮崩れるようにとっぷりと沈んでいった。
「ふふふ……」
 両親と、名も知れぬ友人の死骸を見て、少女が笑う。意味が分からないのは、まだ同じ。だがそれらはすべて、分からないまま我が物となった。自分の行動につじつまを合わせるのはもう終わりだ。すべてはなるべくしてなったことなのだ――そう定義して何もかもに目をつぶれば、怖いものはすべて灰になる。メロディはもはや、少女とは呼べないものになろうとしていた。
 浴びた返り血をそのままに、玄関から外に出る。輝く青空で太陽が彼女を迎えている。
「おはよう!」
 簡単なことなのだ。ここで四人の人間が死んだ。そしてそれらを生贄に、一柱の魔王が召喚された。魔王は愉悦していた。自分が存在しているという、ただそれだけのことがひどく面白く、こぽこぽと沸き立つコーンポタージュのように、鍋の内側で幸福を囁いている。彼女は世界と正しくリンクするために、その蓋を取って閉鎖を解除した――自分の名を唱えた。
「****・******・***」
 しかし、それが何と言う名だったのかは、まだ誰にも分からなかった。自分自身でさえ聞いていなかった。
 ただ――魔王は太陽を直視し、それが何色なのかを、明らかに認識していた。


3.

 プラットフォームの真ん中に据えられた冷房の効いた喫茶店で、真夏の太陽の光を照り返して電車がこの駅に着き、そして発つのをガラス越しに何度も見送りながら、聖なる剣が誰にともなくひとりごちる。
「気をつけてはいたんだ。だってその時は大事だと思っていたからね。細心の注意を払っていたんだよ」
 店員が飲み物を運んできた。何を頼んだかは覚えていないし、今も思い出せない。思い出せないままカップに口をつけてその液体を喉に流し込む。それもほとんど無意識に、体が覚えているままの飲み方に任せて。辛うじて水分を摂っているということだけは認識するが、それ以上は関わらない。味も、温度も、認識するほどの価値は無いと思うし、またその余裕も彼には無い。彼はもっと、別のことに集中していた。
「気をつけて考えることで、何か嫌なことが起こらないようにしようとしていた。ぼくの人生が良くなるか悪くなるかは、ぼくの手に委ねられていると思ったんだ。だからぼくは頑張っていたし、みんなも頑張っていたし、そうやってより良い一秒後を追い続けていれば、やがて死ぬ頃には最善に辿り着けると――本気で信じていた」
 誰かに聞かせようというつもりは無かった。しかし聞かれていた。声を潜めようともせずにしゃべり続けているため、周囲の人間にすべて筒抜けになっている。隣の席に座っていた女が、トレイを持ってそっと席を立った。変態は避けられる。
「けどね、あるんだよね……罠ってものがさ。いや、わかる分にはいい。罠でございっていう罠がそこにあれば、避けるなり飛び越えるなり撤去するなり、それなりの方法を取れば立ち向かえる。けどちょっとでも意外だったり、タイミングが悪かったりすると……それは見逃される。意識の外に漏れてしまう。目の間の蜂の巣に触れないように頭を下げていると、足首に痛みを感じたりするんだ。そして凶暴なトラバサミに噛まれているって気づいたときにはアキレス腱は切れているし、外すことも助けを呼ぶことも出来なくなっていて、電話をかけようとしても圏外だ。もはや窮地の奥の底。まあ、そんな明確な悪意を向けてくる敵がいなかったとしても、ぼくの注意力や集中力にも限界がある。無数に潜在している罠のどれかには、息してるだけでも必ず引っかかってしまう。そうしてぼくは削られ削られ衰弱して、やがて夜空にぽっかりと浮かぶ月に向かって問いかけざるを得なくなったんだ。『いったい、ぼくの何が悪かったんでしょうか?』って」
 緑色の電車が来た。駅員によってその行き先がアナウンスされているのが聞こえてくる。聖なる剣は立ち上がって店を出た。襲い来る屋外の熱気も気にせずに。
「それでもし、もしも……『何も悪くないよ』なんて答えが返ってきたとする。そしてその答えが、正しいものだったとする。だとしたら月は、あまりに心ないよね。残酷すぎるよね。つまりそれは、何も悪くないのに罰を受けさせられているってことだし、悪いところが無いから何も改善できない――罠を避けるために、それ以上できることが無い――つまりは、無力だってことだから」
 まぶしすぎる日差しを手で遮りながら、電車の中に乗り込む。しゃべりながら車内に入ってきた少年に、何人かが注目した。そしてすぐノイズと看做して無視した。
「そこまで気づいたらもう止められない。どんどん問いかける。どんどん考える。やがて行き着いたのが、自分の存在意義への懐疑。醜いよね。本当に健康なら、意味を問うたら具体的な誰かの顔が浮かんできて、それが十分条件になるはずなんだ。どんなに足掻いたところで他人のために生きていてしまうのが自分なんだってことを、まんざらでもない気持ちで受け入れて、それで日常に戻るべきなんだ。でも、ぼくには……それが無かった」
「何なのよ」
 座席から一人が立ち上がった。喫茶店で彼の隣にいた、スーツ姿の女だった。彼女は聖なる剣をにらみつけ、カツカツと近寄った。彼女が変質者じみた未知に対する小さな恐怖を乗り越えたことを、聖なる剣は敏感に見抜いた。
「さっきから人につきまとって、訳の分からない……」
「ぼくは」
 電車が動き出す。窓越しに、汚れた高架に描かれている意味の無い落書きを見やりながら、聖なる剣は言葉を続ける。
「ぼくは、ぼくがぼく自身のためにしか生きられないのを知っている。そして、心底うんざりしたんだ。だから、」
「うるさいのよ!」
 物理的な音量そのものは些細な、しかし、心理的には爆音とでも言うべき音が、車内に響いた。女が癇癪を起こし、口から妄想を垂れ流す少年に平手打ちを見舞ったのだった。
「――」
 痴漢でもしたかのように扱われた少年であるところの聖なる剣は、そこで初めて、言葉を止めた。はっと気がついたように、遠くの風景ではなく目の前の現実に焦点を合わせた。なんだか見知らぬ女が怒っている。
「ええと、あなたは」
 引っ叩かれたことは全く気にしない。彼の役割上、乱暴な扱いを受けるのは珍しいことではなかったからだ。少年は、常に求めていながらも何度も裏切られてきたひとつの期待が、ふたたび首をもたげてくるのを感じた。少年はずっと待っている。待っていた。
「ぼくを」
「二度と近づかないで!」
 少年の言葉を遮って怒鳴ると、女はそっぽを向いて歩き出した。その背中を見送りながら、少年は溜息をついた。また、期待が裏切られたからだ。彼は若き友人たちの生死を見届けながら数百年の時を生きてきたが、無限に残されている訳ではない時間を思うと焦りも感じてくる。このままであり続ければ、錆びてしまう日がいつか必ず来る。
 剣の時代が過ぎ去って久しい。もう何百年も起こしてもらえていない。
 半年後、地獄の日を迎えたときも、少年は鞘の中で眠ったままだった。


4.

 ****・******・***。
 定義されるよりも早く唱えられてしまったその名は、自らが座すべき具体性の地平を求めて概念界の海をふわふわとさまよっていた。それは残響音のような尾を引いていたから、自身は寄せて返す波のような刹那の現象に過ぎなくとも、始まりから終わりまでの挙動を以って一塊の何か苛烈なものとして認識されることを可能としていた。収束できない世界観を貫く幾千幾億もの物語のうちの一筋としてそれは、他者に与えるばかりではなく自身でも何か認識しているものがあるのだと、反証不可能性の天幕の内側で占い師たちは淫らにささやきあった。例えば六つの夢を見た。


(エンドラ)

「ねえねえ、立てる……?」
 鈴の鳴るような声はしかし、決して気持ちの良いものではなかった。
「立てないのかな、****・******・***」
 彼女は上機嫌で僕を踏みつけている。みんなは呆然としている。僕の気分は最悪だった。
「ねえ、ねえ、ねえ……」
 寝転がされている僕は青空を見た……広い公園だ。サッカーをしたって、缶蹴りをしたっていい場所だ。寝転んでる人間がいたってなんの不自然も無い。あるいは公然とリンチが行われたとしても、それを見咎めて止めに入る人間が現れるまで、現実に待たされるのは何分か、何時間か、何日か。
 スカートの下からすらりと伸びた彼女の足。控えめにきらりと光るラメの入った、赤くてきれいなサンダル。それが動いて僕の腹にぶち込まれた。僕は思わず呻いてしまい、余計に彼女を喜ばせてしまう。
「ねえねえ、どーお、こういう趣向って? いい? よくない? まあ、たとえどっちだとしてもやめないけどね! あ、そうだ」
 しゃらりと何十本もの紐が垂れ下がる、半ばドレスみたいなコートを着たその女――メロディ――は、鞄から何か箱を取り出した。そして事の成り行きを見守る友人たちを見渡して、ピカピカーンとか言いながらその箱を掲げた。
「本命チョコ~! みんなはこんなん見たことあるかな? 無いかな? 剋目してください!」
 そんな幼稚な言い回しも、シーンがシーンなら、あるいは周囲を沸き立たせたのかも知れない。だが友人たちは展開についていけずに引いてしまっている。それをよそに、メロディはその箱を開けて中身を一粒つまみ出し、包装紙を解いて自分で食べてしまった。しかも、何のつもりなのか、くっちゃくっちゃと音を立てて、茶色のカカオ菓子が唾液と混ざっていくのを必要以上に強調しながら。メロディは美人だが、これは正直、見苦しい……と思っていると、すぐに彼女の意図は知れた。彼女が膝をつき、僕の髪をひっつかんで顔を寄せてくる。
「おい、てめえ……ふざけんなよ」
 もはや腕一本動かす体力も残らないほど弱らされた僕は、言葉だけで抵抗する。
「ふざけんなよ、メロディ! 殺すぞ!」
 メロディは笑いながら、空いてる手で僕の頬を引っ叩いた。やめろ、と言ったらもう一度引っ叩かれた。そしてそれが勢いづいてしまい、僕が何も言わなくなってからも五十六回ほどしつこく引っ叩かれた。地獄に落ちろ、と言いたかったが言えなかった。そうかこのビンタ、一種の口封じと言うか、猿轡的な行為か……と冷静に考える僕は何の役にも立たない。
 息を荒げていた僕の口が、笑う彼女の口で塞がれた。鼻をつままれ、でろでろと注がれた汚泥みたいなチョコレートを、僕は飲み込まされてしまう。悪寒のする甘さ。あり得ない屈辱に身震いする。絶対に忘れない。咳き込みつつ、涙が出そうになるのを全力でこらえる。これ以上、こいつを喜ばせたくない。これ以上みじめになりたくない。
 ぶはあと口を離して、メロディは僕の耳元でそっとつぶやいた。
「****・******・***、もう逃げられないんだからね」
 僕の名前はそんな名前じゃない。別に彼女は僕相手の時に限らず、ときどき話している相手のことをその****何たらとかいう名前で呼ぶ。その由来は分からない。彼女がその名の向こうに、何を見ているかは分からない。けど、ひとつ確かなことがある。僕はそんな呼ばれ方をするのがとても嫌だということだ。だから、その意思表示をした。
「……クソ女」
 彼女の頬にぺとりと、僕が吐き出した茶色が付着した。彼女は、それはそれは嬉しそうに、にっこりと笑った。
 ああ、また殴られる――そう思ったが、予期していた衝撃は来なかった。何もされなかった。だが僕はその事に、今までの仕打ちより何より恐怖を感じた。しかもそれは、恐怖というほど自覚的ではなく、茫洋としたうすら寒さとしてのみ感じられたため、それに屈してはならないことまで、思い至らなかったのだった。
 メロディ……途切れてしまえ。


(クルシェ)

 メロディ、不思議な子。三番通りに住んでいる、とっても可憐な女の子。死ねば死ぬほどかわいくなる。今年だけで百回死んで、百一倍かわいくなったウィッチ・プリンセス。メロディ、メロディ、かわいいな。ああ、とってもとってもかわいいな。どうしてあんな子がいるのかな? あんな素敵がどうして実在するのかな? 素敵なのは、素敵と思うわたし自身の脳味噌なのかな? ああメロディ、仲良くなりたいな。ああ、メロディ、もっともっといろんなこと知り合いたいな。真っ赤なソウルを共有したいな。メロディメロディ、わたしだけのものにしたいメロディ。もっと近寄りたいメロディ、抱きしめて、溶けて、沈んで、埋もれて、そのまま中に入ってしまいたい。メロディをわたしに、わたしにメロディを。
 奏でたい。
「とか、ちょっと気持ち悪いかな……」
 ブルッと震えたのは、別に自分の内心ポエムに悪寒がしたからでは断じてなく、単に寒いから。大通りからひとつ外れた小道にあるこのカフェは、頭がキュッてなるほどコーヒーがおいしいのと、二階のベランダ席から見える町並みが絶品なのがいいところだけど、屋内の座席がたった三席しかなくって冬場も屋外に追い出されてしまうのが玉にキズだ。寒い、寒いよふざけたカフェめ! 当てつけに飛び降りてやろうか! 二階ですけど!
 イラッときたわたしはそのストレスを、ため息にして吐き出した。青空を背景に、ぽっと白い炎が出てすぐ消える。こんなにわずかな空気の移動も、風の範疇に入るのかな?
 そのとき、後ろから、きらきらと輝く声が飛び込んできた。
「はあい、わたしの****・******・***」
 きゃー! と咆哮をあげそうになるのをわたしはぐっとこらえた。やばい、まずい、極上の奇跡、神様がどさりと落っことしてきたプレゼント! でも取り乱して嫌われたらいけない、わたしは一呼吸置いてから、慎重に振り返った。ベランダの板張りをこつこつと歩きながら小さく手をふる彼女を歓迎する。
「メロディ!」
「クルシェ、こんにちは。合席させて頂いてもいいかしら?」
 もちろん、とわたしは彼女を招いた。ただ座るだけの仕草にも、いちいちわたしは見とれてしまう。ああメロディ、会えないだけでひどく心が痛むのに、会えたら会えたで飢えてしまう。素敵、素敵、あなたはまるで罪悪だ。
「なあに?」
 こちらの視線に気づいたメロディと目が合って、わたしは息が止まった。純人間種特有の、真っ黒な髪と真っ黒な瞳。その瞳に吸い込まれてわたしは、赤く燃える炎を垣間見た気がした。メロディには、なぜか深紅のイメージがある。それは不思議と、わたしの自己像と重なる。わたしたちは絶対、もっともっと仲良くなれる運命にある。****・******・***、わたしなら理解、きっとできる。
「はいどうも」
 メロディの声で、わたしは我に返った。ウェイトレスさんがチョコレートケーキを持ってきていた。あ、二皿だ! メロディ、ケーキを二切れも頼んだんだ! 何のために? 自分が二倍食べたいから? 本当にそう? そうでないとしたら? 意味は――
「ねえ、ケーキ食べる?」
 メロディは勧めてきてくれた。やっほ!
「うれしい! ありがとうメロディ」
 わたしは喜んで、片方のお皿を取ろうとした。そしたら、拒否ーとか言われて手のひらでブロックされた。あれ? ケーキくれるんじゃなかったの? 何? 嫌がらせ、フロム、メロディ、も悪くないけれど……
「違うよ、****・******・***。そうじゃないんだよ」
 そう言って、メロディは自分だけフォークでケーキを割って自分の口に運んだ。味わいに集中するように目を閉じながら、ぐっちゃぐっちゃ、と口を開いてその中の咀嚼を見せ付ける。あ、なんかきれいかも。ほんと不思議、メロディってこういう事、計算でするのかな。自覚してるとしたらあまりにナチュラル、無自覚なのだとしてもあまりに完成している。……えーと。今、なんか頭をよぎった。それは一個の言葉だった。劇……
 さらにメロディは逸脱した。チョコレートクリームのカオスになっている自分の口の中に、人差し指を入れて一片をすくい取る。そしてその指先は、ゆっくり、わたしの方に差し出された。メロディは何も言わない。でも意味は伝わってくる。応え方も分かる。
「わあ……いただきます」
 わたしは彼女の指に、ぱくりと食いついた。そして味わった。あまりの幸福に、背筋がシビれてしまうほどの甘さ。ぞぞぞぞぞ、たまらない。


(地平)

 そこは、世界を感じるのに十分な広さを持った平原だった。大地は視力の限界まで伸びて、ひとすじの曲線に漸近しており、曲線上にはときどき緑の起伏があり、そしてそれらの確かな世界と向き合うようにして、青くて青くて、しかもさらにまた青い空が広がっている。ときどき流れている雲は、こんもりとして小さくて白かった。そして、やはりなお、空は青かった。
 その平原上に、ぽつんと四角い影が見える。一頭の雄牛が横を向いていた。牛は何をするでもなくそこにいて、尻尾を揺らしている。たまに、モーと鳴いた。
 牛はしばらくそこにいた。やがて牛は倒れた。原因も目的も意味もなく、ただ死んだ。哀れなその牛の末期の、目撃者はいない。


(セファラト・アイランド)

 メロディが私の元を去ってから、もうかれこれ二年になる。
 感傷に浸るのは良くないことだと理解しつつも、時に私は浸ってしまうことがある。なぜかと言うと、浸るべきではないと考える自分と、浸る自分は別の人間だからだ。そしてそれらはいずれも自己本位なのだ。記憶は共有しているので二重人格とは言えないが、時によって自らの意思が統一されない絶望を見過ごせるほど私は無神経でも強靭でもない。そんな惰弱な私だから、メロディのような理想を求めたのは極めて必然だったと言える。
 メロディは、私が私の欲求を満たすために創生した具現化人間だ。その創生方法は、魔法(原理の隠蔽)という概念を用いれば容易に説明できる。つまり、私の愛を拒んだプリーティの容姿に、エルフィン・ハイウェイ(己の弱さに見切りをつけたエルフ共がテレパシーで構築した現実逃避ネットワーク)のデータベースから多数にとっての公約数的な思考定石を引っ張り出してきて常識の礎とし、ノイズを引っ張り出してきて霊魂とし、私の性癖も混ぜて水に漬けて、そして一週間の醸成を待つと現れたのが彼女だった。彼女は驚いたことに、自ら名を名乗った。メロディ・ガンダーラ。
 しばらく私は、その具現化人間に対話を持ちかけたり、家事をさせたり、さまざまなことをしたりして自分を満たしたが、ある日彼女は私の元からの離別を希望した。私は許可した。それが取り返しのつかない選択だったのは分かっていた。魂を持つものの場合、同じものを二つ作ることは出来ないから、もうメロディを作ることは出来ない。まあ、それも仕方あるまいと思える程度には私も変化していた。元々、彼女は輝ける希望を持って作ったものではなかった。プリーティのかけがえとして仕方なく作った――むしろ自分の衝動に作らされたようなものであった。しかしその渇望も、メロディを作れる自分を知ることで収束した。けだるい満足感と共に。私の中で、メロディはもはや軽い。
 しかし、メロディは去り際にこう言ったのだった。
「さようなら、****・******・***」
 知らぬ言葉だった。彼女を見送った後、未知が嫌いな私はすぐに、****・******・***なる語句を子飼いのエルフに全文で検索させた。まる三日待ち続けてリザルトを得たが、有益な情報は何一つ得られなかった。もしかしたら、私がメロディを具現化するにあたって発見した魔法は、創生ではなく召喚だったのかも知れない。自分の無意識や、あるいは、想像し得るものし得ないもの全てを含んだあらゆる可能性をその構成要素とする概念界からの。この無明な仮説が魔法の限界だ。泥に手を入れて見えないものを探るような実験でしかその原理を探求できない。
 ときどき考える。素直にメロディの不在を嘆けない私は、勇敢だろうか、哀れだろうか、それとも歪んでいるだけか。


(エイジャ)

 裏街道を泳げば、見えるのは月だ。煌々と光る赤い円が地平線よりもわずか上のところに描かれる夜には、聖者でさえ欲情して自らの体を掻き抱く。
 野良犬のように走りながら俺が求めていたのは狂気だった。自分が自分であることを最も欲しない俺は、茹で上がった世界と同じくらいに自分を破壊したがっていた。だから探していた、知覚できないほどに大きくなった石造りの牢獄を壊すきっかけを。それは分かりやすければ分かりやすいほどいい。たとえば、女、鎖をされた生贄、羊、ガラスの花瓶、恋心、翼竜……苛烈に朽ちるものども。
 やがて俺は、ジジジと明滅する自販機のそばで立ち止まった。そのそばで、赤いコートの女が背をこちらに向けてうずくまっていた。苦しんでいるような息遣いがわずかに聞こえた。
 ああこれは確実に罠だ。確信した。だから俺は踏んでみた。知ったかどもがうそぶく――虎穴に踏み入る程度にはバカさを備えていないと、虎子の一匹すら得られない。そういう奴らはいつだって口だけだったから、代わりに俺が火傷してやるだけだ。
「もしもし、お嬢さん、大丈夫ですか?」
 罠と決まりきっているのに、罠でない前提でそんなことを言ってみる。俺は、誰に話しかけているのだろう? 女は、ぜえはあと淫乱に喘ぎながら答えた。
「胸が、くるしくて……」
 なんだと? 胸だと? 俺は頭が悪い。
「さ、さすって、いただけませんか……?」
 俺は戦慄した。単純に恐ろしい。こんなにもしらじらしくて分かりやすいウソを堂々とつけるのは、相当なマッチョと相場は決まっている。ちょっと俺は尻込んだ。俺は今でこそ粋がって冒険だとか狂気だとか謳ってもいるが、根は糞インテリハゲだったりするから、天然のマッチョは苦手なのだ。
「はあ、はあ、もうだめ、お願いします!」
 女の淫劇はさらに高まる。怖くて歯の根が鳴る……糞っ! 俺は何を躊躇してるんだ? こんなんだからいつまで経ってもニセモノなんだ、踏ん張れよエイジャ、身を捨てろ! もしかしたら、罠とかじゃなくって本当に単なる女チャンス(女と出会うチャンス)だったのかも知れないし。そら踏み込め! 自己は壊れるものではなく壊すものと知れ! いけ、燃えろ、能書きはもう終わりにしろGO!
「どれ……」
 と伸ばした手が最初の攻撃対象になった。俺の手から、ひとすじの柱が経つ。赤い柱だ。自販機の光を受けてしぶきをあげるそれは、傷口から吹き出た血だった。遅すぎる警告信号が俺の中で鳴りまくってうるさい。女は右手に肉厚の包丁を閃かせて、既に振り向いている。彫刻細工みたいに整ったそのツラに浮かぶ優しげな笑みは、しかし、明らかに逆説、明らかに攻性、明らかに狼、明らかに邪悪のそれだと俺のわずかな霊感が告げた。
 聞いたことがある……この状況、このシーンは、人が一生に一度は必ず遭うと言われている、致命的遭遇、過激の段――ヘルバトルだ! 死のリスクと獲得経験が共に十倍。きっとあれだ、俺がマッチョにシフトする最初で最後のチャンスなんだ!
 斜め。左肩口から、右脇腹へ。恋人が爪でそっとなぞるようにソフトな、それでいて速い第二撃を、この女は、もはや俺に食らわせていて譲らない。言えよ。攻撃するんなら。俺が華麗に避けて蜂みたいな一撃を叩き込めないだろうが。脳内で文句たれている間に俺の皮のコートがさくりと裂けた。皮膚からきっと赤いよだれが漏れただろう。まずい。ようやっとバックステップで反応し、俺はこの女と距離を取った。二歩、三歩と続けて距離を開く。あの包丁なら、十分これで遠くて無力。一息。
 俺は口を開いた。右肩に接続されている方の自分の手を女に向かって突き出しながら。
「虚空、海鳴り、山河の防衛者――」
 と、まだ始めのところで唱えを中断させられた。飛んできた包丁を避けなければならなかったからだ。萎えるほど女は超反応だった。そして女もまた唱える。
「はじめまして、****・******・***」


(聖なる剣)

 もしも大気に色を混ぜて可視化すれば、おそらく女神の髪のように流れるうねりを見せるのであろう風がその日に限っては歪みぐずんでいた。異物のスタッカートを交えながら霊識ある者に破滅の予感を説いている。
 地獄を突き抜けた朝――街は、冗談みたいに血だらけだった。惨劇は容赦なく広範囲に渡っており、壁際、マンホールの上、車の中、電信柱、駅の階段、なぜか街路樹の枝の上――マーキングでもされたかのように、ありとあらゆる場所に血痕を残していた。そしてそれらの横には当然のごとく死体があった。すべてが必ず斬殺だ。その儀式じみたこだわり方はまるで、あなたの死にはそれなりの意味があるんだよって、殺した者をなぐさめているみたいだった。
 ぼくはその中を歩いてゆく。全能力を駆使して安全な場所と食料を求める人たちとは逆の方向に。血の匂いがより深くなる方向に。空すら赤く染まりつつある方向に。流れてくる違和感は次第に大きくなり、メッセージとして鮮明なものになっていく。やがてそれは歌声なのだと知れた。地獄に乱れた空気をたったひとときだけ鎮めて整える、安らかな旋律だった。
 トンネルの近くでぼくは彼女に出会った。彼女は道路の血溜まり――自分が作った、おびただしい数の死体の傷口から流れ出たもの――から避難するみたいにガードレールに腰かけて、サンダルの足をぶらつかせていた。眼を閉じて歌っている。ぼくは声をかけた。
「機嫌が良さそうだね、メロディ」
 歌うのを止めた彼女は、醒めた目を一度こちらに向けた後、またそっと伏せた。どうやら思っているようだ。行為の余韻に浸っていたのだろう。彼女はぼくとは違う。
 それから彼女はおもむろに地面に飛び降りると、血溜まりをぴちゃぴちゃ跳ね散らかしながらこちらに四歩だけ歩み寄った。赤い水滴が足やサンダルにつくが、油でも塗ってあるみたいにつるりと滑り落ちて彼女を汚さなかった。魔法をくだらないことに使っている、と無駄な価値判断をぼくはしなかった。できなかった。
 ぼくは、ぼくがぼく自身のためにしか生きることができないことに、心底うんざりしていた。だからぼくは、剣になろうと考えた。ぼくはぼくを、その刃の先にあるものを攻撃する、純粋な機能として鍛え上げようと考えた。自由になれることを祈って、ぼくは心を捨て去った。
「そう。面白いのね」
 彼女がぼくの内心に言及する。馬鹿にしている様子ではなく、言葉どおり面白いと思っているようだった。
「面白いとおもう」
 そのとき声が聞こえた。デフォルトで旋律を伴っている彼女の声が。しかし彼女が出した声ではなかった。血溜まりの中心で彼女は、口をつぐんだまま自分を抱きしめている。にもかかわらずここで彼女の声はした。彼女ではない彼女が、ここで何かを言っている。自分の肩をきつく抱いている彼女の手が、いよいよ皮膚に爪を食い込ませていく。彼女の妖精のように澄んでいた顔が苦痛に歪み始めた。同時にうっすらと笑いながら。
「面白いけど――でも、特別扱いはしないわよ」
 彼女は何も言っていない。彼女は自らの手でもたらされる破壊に、痛みに、息を荒げて官能するのに精一杯だ。その両手の指は己の体のどこに当てても、皮膚と肉を突き破って骨まで達し、自らの腹を、胸を、肋骨を、首を、頬を、愛情とも憎しみともつかぬ不規則な激しさで掻き回していく。空を見上げながら虚ろにとろける瞳。それは人には耐え難いはずの、ぼくのように心なき者にしか出来なかろう所業なのに、その一方で心があるとしか思えないほど動物的に振る舞っている。彼女は血の涙を流しながら、一瞬だけぼくの姿をその目に捉えた。――助けて――彼女の口は確かにそう動いた。助けて欲しくないのにそんなことを言う彼女はおそらくもう耐えていない。彼女は自らの苦しみを喜んでいる。彼女は自分を虐げている。彼女は自分に虐げられている。そうして嗜虐と被虐の溶け合った世界で愉悦している。もう引き返す気は無いのだろう。
 自分の手によって徹底的に破壊し尽くし、破壊し尽され、ダメージが臨界を越えたところで彼女は破裂した。その残骸はぼろきれみたいになりながらなおも蠢いて、ばっくりと大きく口を開けた。さらに中から亡者のような手が飛び出したかと思うと、裸の女が血に塗れながら這い出てくる。彼女だった。脱ぎ捨てた母体と変わらぬ大きさ、変わらぬ姿で血の海に立つ。自分で自分に産み落とされた彼女が真っ赤に濡れている指を動かすと、血の海の一部もまた糸引かれるように躍り出す。それは天女の羽衣のように虚空ではためいて、彼女の体に巻きついた。
「死が定められていて、しかもそれがわたしの手によるものになる以上、あなたたちは一人の例外もなく――」
 かざした右手に一振りの包丁を現出させ、ぼくに突き付けて彼女はささやいた。
「――ブラッド・スカーレット・スターなの」


5.

 女の人も、男の人も、おばあちゃんおじいちゃんも、女の子も男の子も、まるで恋人みたいな出会い方をした人たちを、みんなみんな、星にしてきた。愛してあげるっていう意味の、特別な言葉を贈って、出来る限り幸せに近づけるように心をこめて。それが彼女ら彼らに、本当に届いていたのかどうかは、実はあんまり気にしていない。べつに想いを伝えるためだけに星にしている訳でも無かったし。そんな些細なことよりも、わたしが彼らの想いを汲み取ってあげる方がずっとずっと大事だった。断末魔に浮かぶ妄想、それは彼らがその思うところの奥の奥の奥また奥に、厳重に秘匿していた最後の願い。閉じ込められ過ぎて、誰にも、自分にさえも聞いてもらえなかった小さな小さな想い。千年前からきっと刻まれていた一瞬の夢。感極まって胸から噴き出す、一人として同じものの無い色とりどりの鮮やかな深紅。以って、虚空を走り抜けて世界を染める。それが死の意味、殺戮の意義。これまでは、その名が知られることもなく垂れ流しになっていたブラッド・スカーレット・スターを、一瞬で霧散しまうばかりだったブラッド・スカーレット・スターを、わたしなら、この手で捕まえて縛り付けてわたしのものに出来る。
 そんなわたしの前に初めて、わたし自身をブラッド・スカーレット・スターにし得る者が現れた。彼は聖剣だった。そして不在の意思にそぐわない、凄まじい集中力を伴った瞳でわたしを見つめてくる。そしてこんなことを言った。
「いいや、メロディ。ぼくはそれにはならないよ。むしろ、その無益な殺戮を、ぼくは止めにきたんだ」
 今までは誰にも理解されずに疑問符を浮かべさせるだけだったわたしの告白は、ここに来て初めて、他人からの反論の的になった。
「生かす、だなんておこがましいことは言わない。ぼくが持っているのは力だけだ。ぼくが使えるのは強さだけだ。君が誰かを殺すなら、ぼくは君の殺しを殺す」
「ぷっ――」
 わたしの口から息が漏れた。
「く、あははははははは! 可笑しい――」
 衝動だった。くだらなくって、馬鹿馬鹿しいっていう。あまりに面白いもんだから、わたしは肺を、ビクリビクリと引きつらせてしまう。新手の攻撃手法だったら素敵だなと思うそれを、かなり必死に押さえ込みながら、わたしは言った。
「っは……まったく、ふふ、何を言っているんだろうね。勇者不在の聖剣ごときが、わたしをどうにかするって、そう言ったの?」
 なるほど、確かに聖剣は強力だ。魔王を殺すほどの攻撃力を冗談ではなく有している事も、わたしはどこかで聞いている。けれどわたしは、その別の本質もまた知っている。しょせん武器は武器だし道具は道具だ。引き金を引いてくれる人がいなかったら、石造りの武器庫で平和に眠り続けるだけだ。なら関係無い。一ミリの意思も殺意も無い現象では、決して滅びることが出来ないほど高い領域までわたしは届いてしまっているのだから。例えば――
「虚空、海鳴り、山河の防衛者。天使は東を見た、そこには光があった、そして西は見なかった!」
 わたしは右手を横に振った。たったそれだけで、この星にいる人間たちのうち半分が死んだ。すべてその喉元深くの同じ場所に傷口を開いて、噴出す赤をぶちまけて。二十年を研究に費やして発見した最強の力を、分不相応なヘルバトルに飛び込んでしまったがために、遂に使わないまま死んでしまった哀れな男のブラッド・スカーレット・スター。
 聖剣の子は、じっとわたしを見ている。長く楽しもうと思っていたのに興奮したせいで億のオーダーの人たちをわたしがさらっと星にしてしまったのを知覚しているくせに、なおかつそれを食い止めようと思っていたくせに、関係ないとでも言いたげにそれを無視して、あくまでわたしそのものだけに集中して。いやん。なるほど、冷静の極限、確かにこの子は機能としてかなりの完成度を誇っているみたいだった。
 そして聖剣の子は、わたしを軽くたしなめた。
「もう十分だろう」
 満腹だろって決め付けて、そんなことを少年が言う。どうやら彼は、わたしが誰だかまだ分かっていないみたいだ。
「まさか。まだまだよ。わたしは、ロスティスまで辿り着くって決めたんだもの」
「……ロスティス?」
「この地上で唯一の、そして真なるブラッド・スカーレット・スターよ」
 それはいかなるものだったか? それは、喪失の女性形――それは、世界という世界が滅び滅び、生きているすべてのものが消え去ったときにこの地上で一輪だけ咲く――それは、花。終焉するところで奏でられる涅槃の旋律をわたしは見たい。そのためになら、どんなにかけがえが無いものだって捧げられる。


6.

 聖剣の子の初手は、全く単調な拳の一振りだった。女の子の顔面を殴ってやろうとする、その思いやりの欠如は武器ゆえに仕方が無かったとしても、この、鈍牛のような遅さはどうしたものだろうか。ゆっくりにもほどがある、ほら、まだあと十五センチくらい距離が開いている。彼のぐりぐりとした大きな目は、破壊目標であるわたしに釘づいていて、わたしも彼の目を見たら、目が合って、あ、って思っても拳はまだ遠い。まだ来ない。まだ来ない。わたしは何の緊張感も無く、左に一歩動いてそれをよけた。すごく萎えた。神様か何かに舐められているような気さえする。あんまりといえばあんまり過ぎるこの仕打ち、この失望を、わたしは少しでも誤魔化して和らげようと思って、目の前をとろとろ通りすぎる彼の拳の小指の第一間接のところに、そっと、やわらかくキスをしようとした。それが間違いだった。
 触れた瞬間にわたしの頭は爆散した。わたしの顔の皮膚も、その下の肉も、骨も、脳髄も、それらを通って満たしていた赤も、彼の拳に帯びてほとばしっていた真っ白な鋭いエネルギーに細切れにされて、空中に飛散した。網膜を失ってわたしの世界は一瞬にして暗黒になった。さらに聖剣は、主を失って棒立ちになったわたしの体に手刀を二度三度と叩き込んで破壊し尽くそうとする。
 わたしは迅速に対応した。好き勝手に滅茶苦茶されている肉体はどうとでも再生できるから問題無いとしても、脳味噌が細切れになったことへの対応が緊急を要していた。宿り木を失って精神が停止すれば、たとえその後に脳味噌と心が再生されたとしても、自我の連続性は保たれない。二度目のわたしはわたしじゃない。わたしはわたしを途切れさせてはならない。途切れてしまったメロディは、そこで終わってしまうから。うさぎみたいに世界の隅で震えていたエルフたちのブラッド・スカーレット・スターを始動させて、わたしはバラバラに分かれて空中を漂っている脳味噌のかけら同士で電磁波を送受信させて通信を行わせた。直接に連結していなくとも、空間越しに十分な密度のネットワークを形成していれば、そこに浮かぶおぼろげな精神はなんとか維持できる。
 一方わたしの体の方は、無形の白刃の容赦ない斬撃群によって粉々にされて、わたし自身が星々の歌を歌うことでこの地面に作っていた血溜まりの中に沈んでいった。お気に入りだったスレンダー・ボディはもう使えないねとわたしは判断せざるを得なくなった。肉体を何度再生したところで、そのつど再生した瞬間にこの少年に破壊されてしまうだろう。それではキリが無い。今現在、球形に組成して虚空を回る電磁波のうねりの集合として存在しているわたしは、とりあえずこの場を跳躍してエルフィン・ハイウェイに逃げることを考えた。彼女ら彼らの素敵な桃源郷を、わたしの色に染めるのも悪くない。
 が、聖剣の子の体もまた、彼自身が生み出した白のエネルギーによって、分解された。しかも彼はその肉体を消滅させる寸前まで、わたし――物理的な意義としてはかなり希薄になっているはずのわたし――を、それまでと変わらずしっかりと凝視していた。ここでわたしは、もう失われているはずの背筋が震えるのを感じた。彼は何をしたのか。力を制御できなかったために自分をも破壊してしまったのか。違う。わたしを殺し、目的を達したと思って自殺したのか。違う。彼は確たる狙いがあって自らの体を消滅させた。霊化したわたしを追走する気なのだ。小賢しい。
 宿り木無しに自我を維持できるのは数秒程度。その限界の中で、聖剣は霊化してもその属する世界で表現されるところの白くほとばしる刃となって、わたしに襲いかかってきた。さっきキスをしようとした時と同じ愚を犯す理由も無いので、今度はわたしも素直に逃げた。彼の動きが遅いのは変わらなかった。わたしは一足先にハイウェイに着地し、その草原に住まう無数の優しそうな動物達を血に染めながら駆け抜けて、その牧歌的かつ幻想的な光景を拠り所としていたエルフたちを次々と狂わせた。そして、一部のエルフたちがわたしへの心理的な圧迫を試みてくるのを軽く捻りつぶしながら、このハイウェイに接続している中で思考がひときわ美しかった娘を見つけて、手を振って近づいた。娘を捕まえるとわたしは、いやいやするのにも構わずにその口を無理やり開かせて、わたしの舌を強引に捻じ込む。そうしてわたしは、ライラックという名を持つこの娘の脳を速やかに占拠した。さらにこの娘以外のすべてのエルフを完全に狂わせてハイウェイが地獄へと変貌するのを見届けると、ライラックとハイウェイとを結ぶリンクを切断した。これで、あの聖剣の子はわたしを追えず、滅びゆくだけの地獄で立ち往生するしかなくなる。ざまあない。
 脳の玉座をわたしに奪われて恐怖と混乱に陥ったライラックは当然ながら、涙ながらにわめき散らしてわたしを追い払おうとしてきた。わたしはこの娘もすぐ星にしてしまおうかなと思ったけれど、キンキンとがなりたてるその罵声さえひどく美しいことに気がついて、このまま歌わせておくことにした。ライラックは数時間ほど暴れていたが、やがて、泣き疲れて静かになった。おやすみなさい。
 安アパートの一室で目を開けて、わたしが最初にしたことは鏡を探すことだった。ハイウェイからでは接続者の容姿など欠片も見えやしないので思考の美醜を基準にこの娘を選んだが、やはり新たな自分が物理的に美しいのか醜いのかはわたしとしても大きな関心を持つところだった。わたしはベッド脇の小さなテーブルに置かれていた手鏡を取って、そこに映る娘の形成りを確認し、うん、と頷いた。顔の左半分が無残に焼け爛れていたものの、骨から美しいこのエルフの味わいはむしろそれで増しているのが面白かった。霊肉一致の迷信を少しだけ信じた。玄関に通じる台所の床に寝そべってケタケタ笑いながら定まらない視線で壁の染みの数を無限に数えているエルフの青年を踏み越えて、わたしは外に出た。そこは、昼のこの時間になっても陽のあたる場所が切れ目ほどわずかしか無いほど過剰に密集した団地だった。なるほどエルフ種らしい最果ての生活圏だ。わたしは上方に見えた建物の切れ間を狙って跳躍し、一つの建物の屋上に立った。天国のごとき陽光がわたしを満たした。やはり物質は心地が良い。そして見渡すと、その屋上からは海が見えたのだった。青かった。
 それからわたしはエルフの娘の姿をした魔女となって、武器はあの名も知れぬ老人が遺した肉斬り包丁だけと決めて、百年の歳月をかけてあらゆる人々を訪れ、殺し殺して殺し歩いた。最後の二人となった妊婦とその懐中の胎児を殺したのもまた、海の近くだった。断崖まで追い詰めて切り刻んで飛び散らせた赤は、ふわりと波の上に落ちると、みるみるうちに染み広がって海を真っ赤に染めた。きっと真紅に変貌したであろうこの星を誇らしく思いながらわたしは、海を眺めるために崖のふちに腰掛けた。その時、座った拍子にサンダルが脱げ落ちてしまった。サンダルは崖伝いに遥か下方に落ちて、寄せては返す赤の波に飲まれてしまった。まあいいや、わたしのものじゃないし――と思ったところで、その本来の持ち主であったライラックがまだわたしの心の中で生きていたのを思い出した。彼女はわたしがもの思うところの隅で膝を抱えて、相変わらずの美しい波長で、ぶつぶつと何かをつぶやいていた。それはとても遅くて、意味が分からないほど複雑奇怪なものであったため、最初は言葉だと分からなかった。殺すべきものをすべて失ってすることが無くなっていたわたしは、何千年もの歳月をかけて、じっくりとそれに耳を傾け、意味を丁寧に汲み取っていった。編み物をするみたいに地道なその工程で浮かんできたのは、線だった。今見えている水平線に似た、けれどその色において決定的に異なる地平線――それはどうやら、光景のようだった。この娘はたった一人で、自分の想像力だけを頼りに、独立したハイウェイを構築していた。


7.

 そこは、世界を感じるのに十分な広さを持った平原だった。大地は視力の限界まで伸びて、ひとすじの曲線に漸近しており、曲線上にはときどき緑の起伏があり、そしてそれらの確かな世界と向き合うようにして、青くて青くて、しかもさらにまた青い空が広がっている。ときどき流れている雲は、こんもりとして小さくて白かった。そして、やはりなお、空は青かった。
 その平原上に、ぽつんと四角い影が見える。一頭の雄牛が横を向いていた。牛は何をするでもなくそこにいて、尻尾を揺らしている。たまに、モーと鳴いた。
 牛はしばらくそこにいた。やがて牛は倒れた。
 その死には原因も目的も意味も、何も無かった。それは、病とか、呪いとか、争いとか、絶望とか、時の流れとか、あるいは深紅の魔女だとか、そういった具体的で汚らわしい理由とは全く無縁の、透明な死だった。
 なおかつその死は、誰にも目撃されなかった。誰かに観察され、あるいは鑑賞されて、穢されるなどということは、この空の青色に誓って、決して無かった。その死は神聖だった。
 倒れた牛はもう動かない。だがその後、胸のあたり――心臓があるところ――が、わずかに盛り上がった。それはゆっくりと、しかし確実に大きくなってゆき、千年かかって拳大の大きさになった。さらに千年が経ち、その膨らみがぴしりと二センチほど裂けた。そして次の千年で、その小さな亀裂から何かが割って出てきた。ライラック・ゴールドハートの妄想の中で、さらに五千年の月日が過ぎ去り、出てきた芽がつぼみとなって、やがて花を開かせた。その花びらは一点の曇りもなく真っ白だった。やわらかい風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。朝も夜も分からずに。何の夢も見ずに。救いも求めずに。いかなる歌も歌わずに。自分が咲いていることも知らずに。たった一輪であることも知らずに。孤独に。


8.

 花は三日で枯れた。


                                                  (了)

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