『常常恋慕』

『常常恋慕』

著/桂たたら

原稿用紙換算90枚


 吉野屋奈々が闇雲に歩いて辿り付いた先は見知らぬ公園だった。
 彼女はほとんど自分の足で歩かない。どこへ行くにも専属の運転士と車があったからだ。だから、自分の育ったこの街ですら、ほとんど土地鑑というものがない。
 どこに行こう、という明確な目的すら彼女にはなかった。
 ただ、一度だけ。父の言いつけに反発してみたかった。そして願わくば、式を挙げる前にある人物に自分の想いを伝えたかった――これはたぶん、無理な願いだろうけれど。
 人気のない夜の公園に、ウェディングドレスでひとりきり。
 目的もなく、することだってない。そもそもこんな行動に意味なんてなかったのだろう。
 我ながら滑稽だな、と彼女は笑った。
 肌を刺すような寒気に身震いする。
 それでも、もう少しだけ、と。
 彼女はなにも考えず、綺麗な星空を眺めていた。

   *

 片山修は夕食の材料の買出しに出ているところだった。
 雪こそ降っていないが、寒さに重い荷物を持った手が痺れる。今夜の鍋の材料がたっぷりと詰まった袋を提げて、修は帰り道を急いでいた。日はすでにとっぷりと沈んでいたが、今夜は昼間からの快晴が続いているようで、気持ちの良い星空が頭上に広がっていた。それを眺めながら遠回りして帰ろうとしてすぐに止めた。それにはいささか今日の気温は低すぎたからだ。
 ――それなのに。
 薄暗い公園で。
 彼は、ひとり立ち尽くす――純白のドレス姿の少女を見た。

   *

 稲森志摩のアルバイト先は結婚式場だった。
 彼女が忽然と姿を消した花嫁と入れ替わることになったのは、新婦と背丈や体形が似ているからという理由もあるが、大半はたまたまその場に居合わせたという偶然によるものである。
「奈々――新婦が見つかるまでで良いんだ。ヴェールを被るからばれる心配もない。君はただ喋らずに大人しく俯いていてくれれば良い。ここで式を中止するわけにはいかないんだ。彼女は見つけ次第すぐに連れてくる。ただでとはいわない、この通りだ。頼む」
 志摩がその言葉にしぶしぶながら頷いたのは、謝礼の額も額だが、困っている人を放っておけないという生来の気質もあった。
 彼女はそのようにして厄介ごとを抱え込むことになった。

 ・1

 修の家はベッドタウンにあって、そこには大小いくつかの公園があった。買い物をしたデパートからの帰り道には、そのうちの一つを通るのが近道になるので、彼はいつものようにそこを通った。
 最初は――人に明かすのも恥ずかしい話だが――幽霊かなにかだと思ってしまった。
 人気のない公園。薄暗い街灯。そこにただ立ち尽くす白い影。後ろでまとめた髪の毛を艶やかに夜露に濡らしていた。
 まるで悪い夢でも見ているような気分だった。
「……片山君?」
 声を出さなかったことで最低限、男としての面子は保てただろう。真っ白になっていた修の意識を、その女の声が呼び戻した。
 白いドレスの女が上目遣いでこちらを覗っている。その遠慮がちな顔に見覚えがあることに修は更に驚いた。
「あ……、あ? よ、吉野屋……か?」
 ばかみたいにひらひらしたドレスで着飾っていたのは、去年、同じクラスだった吉野屋奈々という女だった。

「なにやってんだよ。こんなところで」
「そうね。ほんとになにをしているのかしら」
 彼女は気楽そうにカラカラと笑った。
 吉野屋奈々。三倉東高等学校の二年生で、学年でも、否、校内を見ても相当な有名人である。財閥だかなんだか知らないが、とんでもないほどの金持ちで、どこかの由緒正しい高貴な血筋とやらもあり、時折、高名な人物の結婚式や有名な賞の授賞式などでテレビにも出演している――とはいっても画面の隅にこっそりと申し訳程度に映っているだけだが。余談になるが、そのときのおすまししている吉野屋を見て修は大笑いをした。さらに、これは修が聞いた話になるが、彼女は「知る人ぞ知る」みたいにいわれているようで、どんな男性も一目置く容貌であることがその話に信憑性を持たせている。
「あのな。こんなところでそんな格好してたらいろいろと面倒だろ。警察とか」
「これねぇ、そうよねぇ。どうしようかしらね」
 吉野屋は自分の姿を見下ろしてため息を吐いた。少し強い風が吹き、肩まである茶色がかった癖っ毛が揺れた。
「黒崎さんも一緒じゃないみたいだし」
「へき!」
「え?」
「ごめん。くしゃみ」
 吉野屋は寒そうに腕を抱えた。こんな寒空にドレス一着では見るからに寒々しい。修は羽織っていた上着を彼女の肩にかけた。
「あ、ありがと」
 彼女は微笑んだ。そんな笑顔が見られるなら上着くらいいくらでも貸してやろうと思わせるあたり、まったく美人というのは得であると修は思う。
「ドレスにダウンジャケットだなんて珍妙な格好してるの、日本中探したってお前くらいだぜ。……で? 結婚式を抜け出して一体なにしてるんだよ」
 修の言葉に奈々が目を丸くした。
「やっぱりわかる?」
「……まさかとは思ったけど。少し前から学校でもちょこちょこ話が上ってたじゃないか。二年A組の吉野屋の結婚式がクリスマスだ、って」
「憶えてたんだ。片山君はそういう話に興味なさそうだと思ったんだけど。なに、気になってた、私の結婚式?」
「ばかいえっての」
 吉野屋は楽しそうに微笑んでいる。その笑顔の理由がわからず、それは自分には理解できないものなのだろうと修は考えた。
「んで。どうすんだ、これから。当てはあるのか」
「いや、正直なところ特には」
 テレビで撮影されている結婚式を放り出してまでこんなところに来て、なんの当てもない?
「そ、そんな目で見ないでよ。私も少しは無茶したなとは思ってるんだから」吉野屋は慌てて弁明した。
「戻った方が良いとは思うけどな……。今からでも、そのつもりがあるんなら、式場までは送ってやるけど」
 修は心配になってそう提案した。彼にとっては気を遣った発言のつもりだったが、吉野屋はその言葉で整った顔から表情を消した。
「私、戻った方が良いかしら?」
「……んなこと、俺に聞くなよ」
「片山君はどう思う?」
 彼女のどこか悲しげな目付きに耐えきれず、修は目を逸らした。
(それもそうだ。吉野屋は本人の意向とは関係なしに結婚させられようとしている)
 マスコミの情報操作は巧みなもので、吉野屋の結婚は本人達の熱愛の末によるものとされているが、ある程度彼女と親しいものならば、本人の意思とは関係ないところで決められていたものだということを知っている。
「しかしな、式は撮影されてるわけだし……、戻らないわけには」
「どうして私に付き合ってくれてるのかしら?」
 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。修はその一つ一つに答えるだけで精一杯で、彼女の真意を探ろうとするだけの余裕がない。
「どうして、って」考えたが気の利いた答えが浮かばない。
「ただの面倒ごとでしょう、そっちからしたら。私なんかに構っても。最悪、後でなんかの形でお咎めさえあるかも知れないわよ。それはわかるでしょう?」
「それは、そうだろうけど。……ここで吉野屋を放り出して行くわけには行かないだろう」
 わずかな戸惑いの表情を浮かべて「それって……、」と次の言葉を探そうとした吉野屋だったが、ぴくりと遠くの物音に反応する小動物めいた仕草で「ちょっと待って」とひそめた声を重ねた。
 革靴がアスファルトを叩く音が聞こえた。数人分はある。
 奈々さん、と夜のベッドタウンであるにも関わらず、野太い声が吉野屋の名前を連呼しているのが修の耳にも届いた。
「ごめん、隠れるね」とそれだけいって、吉野屋は公園の隅の茂みに隠れてしまった。
 直後、黒のスーツを着込んだ男達が数人、公園に足を踏み入れた。
「すまない、君。今この辺りに白いドレスを着た女性が来はしなかったか」
(どうする?)
 なんて、逡巡は一瞬。
 修は少しだけ黙考してなにかを思い出すような仕草をして見せた。
「えと……、確かあっちの方に行ったかと」
 修が指した出鱈目な方向に走り去っていく背中を見ながら、修は内心でため息をついた。こんなことして面倒なことにならなけりゃ良いが、と。
 姿が見えなくなってから、少し様子を見る。完全に去っていったことを確認してから、修は茂みへと歩み寄った。
「行ったみたいだぜ」
「へへ、ドレスが汚れちゃった」
 がさがさと草をわけて吉野屋が姿を見せる。あちこちに葉っぱや泥が付着していた。
「まぁ良いや! こんなの、お父様が勝手に決めた服だし。ありがとう、片山君!」
「いや、別に……、大したことじゃ。別に普通だと」
 吉野屋の笑顔に、修は恥ずかしいくらいに狼狽した。
「ちょっと、楽しくなってきたかな。戻ろうかと少し思ったけど、止め。とりあえず、行きましょう?」
 吉野屋は黒服達が去っていった方向の逆に歩き出した。修の腕を無理やり引っ張りながら、今にも鼻歌でも歌いだしそうな様子の彼女に、よくそんなにころころと機嫌が変わるものだと内心で苦笑しながら修は呆れ半分で問うた。
「行こうって、どこに?」
「まずは着替えたいかな。……ねぇ、服ってどこにいけば買えるの?」

 *

「今から式を中断するわけにはいかない」
 黒崎と名乗った男はドレス姿の稲森志摩に向かっていった。
「お偉いさんがたくさん集まっているしね。ここで花嫁がいなくなったのだと知れれば、いろんなところに迷惑がかかるし、第一、こんな重要なときにお嬢に逃亡を許したとあっては、ぼくも職を失ってしまうかも知れない」
 本当に職を失う危険性があるのならそんな風に飄々とはしていられないだろうと志摩は思った。
「楽団の演奏や来賓の演説が前座としてある。まぁ、簡単なショウのようなものだね。その間、花嫁はずっと席に座っている予定だ」
「……時間は?」
「およそ二時間程度。その間に、ぼくら使用人が奈々さんを探す。式の途中に何度か休憩やお色直しがある。そのときにまた入れ替われば良い」
「もし、失敗したら? 私が替え玉であることがばれたら?」
「平気さ。ばれないばれない」
 花嫁の控え室。志摩と黒崎は二人きりで膝を突き合わせている。志摩は不安げに顔をしかめて、そして相対する黒崎はにこにこと笑っている。志摩には黒崎のその笑顔がただ呑気に構えているだけに見えていたが、
(あるいは、この笑顔も私を安心させるためのものかも知れない)
 だとすれば、彼はかなりの大物であると志摩は判断した。
 この黒崎という男は、今回の新婦である吉野屋奈々の執事であるのだという。年齢も志摩とそうは変わらないように見える。おそらくは二十台前半といったところだろう。
 吉野屋という名前には聞き覚えがあった。確か、隣の高校に通っている同学年の女子生徒の名ではなかっただろうか。テレビで何度か見たはずの顔を思い出そうとしたが、うっすらと霞がかかったようにしかそれを再生することはできなかった。
「……ヴェールは外さなくても良いのだな?」
「ま、そこはしかたがない。本来はあまり好ましくはないけどね。髪型は――まぁ、後ろでまとめるから平気だろう」
 志摩は本来は肩まである黒髪を後頭部でまとめてピンでとめている。だから今の髪型にも違和感を感じなかった。
 彼女は時計を見る。式開始までほとんど時間がない。彼女は携帯電話を鞄から取り出した。
「申し訳ないが、こちらでも一つ、手を打たせてもらってもよいだろうか?」
 黒崎は不思議そうな顔をして、志摩の持つ携帯電話を見た。
「頼りになる人を知っている。彼女に協力を仰ごうかと思う。人員は一人でも多い方が好ましかろう? 私としても、少しでも早く花嫁が見つかるに越したことはない」
「良いとも。構わないよ。好きにすると良い」
 彼は快く承諾したが、露骨ではないにせよ、そんなことをしても無駄だろうと思っていることが態度からも志摩に伝わった。無理もない、と彼女は思う。一介の女子高生の人脈が、一人娘を探すために指揮された財閥の力に及ぶべくもない。向こうからすれば邪魔以外のなにものでもないのにそれを快諾したのは、志摩に頼みごとをしているという立場からきたものだろう。
 志摩は携帯電話のアドレス帳からある番号を呼びだした。画面には早野咲と名前が記されている。三回のコールで電話が繋がった。
「すまないが、今、時間はあるか? 頼まれて欲しいことがあってな」
「どうしたの、いきなり」起き抜けの声が答えた。
「こんな時間に寝ていたのか。人を探して欲しいんだ。吉野屋奈々、という名前を聞いたことはあるかの?」
「えぇ? だれそれ?」
 志摩は簡単に彼女のことと今の自分の状況を説明した。
「はは、まぁた面倒なことに首つっこんで」電話口から楽しそうな声が漏れ聞こえてくる。「えと、今から二時間以内に行方不明の花嫁を見つけて連れて行けば良いのね?」
「頼まれてくれるか?」
「ま、しゃあないわね」
「なにやらこっちの方でも彼女を探すためにいくらかの人員が割かれているらしい。吉野屋さんを探しているのは咲だけではないから、それほど気負ってもらうこともない。が、だからといって手を抜いてくれると困るが。いってしまえば咲は保険ということになる。彼らが見つけられないような場所に姫君がいる場合に備えての、な」
 志摩の言葉に、しかし咲は気を悪くした風でもない。「了解、了解」と気楽な声に、むしろ志摩が安心させられた。
「定期的に連絡をすることにしよう。三十分ごとに電話をする。上手く連携をとっていこう。なにか、必要なものはあるか?」
「えと……」電話口で咲が誰かと会話する気配が伝わる。「写真が必要、だってさ。あ、あと地図だって」
「地図と、彼女の写真をお借りできないだろうか?」
 志摩は黒崎に尋ねる。彼は怪訝な表情で頷いた。
 いまからそちらに向かう、と咲はいって電話を切った。
 見れば黒崎も誰かと携帯電話で会話をしていた。おてんば姫の捜索状況を現場に尋ねているのだろう、目撃証言がどう、お嬢を見失った、そんな言葉のやりとりをしている。
 その会話が終わるのを待って、志摩は彼に話しかけた。
「これは単純な好奇心から尋ねるのだが、奈々さんがここから唐突に居なくなった理由について心当たりはあるのだろうか?」
「……それがわからないから困っているんだよ」
「ふむ」志摩は視線を下げた。「マリッジブルーというやつかもな?」
「そんなものでこんなゴタゴタ起こされちゃたまったものじゃ……」
「そんなもの、ね」志摩は改めて自分の胸を見る。まさか自分がこの歳で着ることになるとは思いもしなかったウェディングドレスを見下ろして。「そんな風にいっているうちは、奈々さんの気持ちなんてずっと理解できないのではないか?」
 彼はその言葉の意味がわからなかったようで、そうかな、と曖昧な表情でいった。

 ・2

 吉野屋の家に仕える側近達は血眼になって街を駆けずり回っていた。
 自分の足で逃げたという話だが、万が一ということがある。一刻も早くお嬢を見つけ出さなくてはならない。
 式には代役を立て、婿にすら奈々の逃走は内密にしようと立案したのはお嬢に最も近い位置にいる黒崎という若い男である。だがその案に元当主である吉野屋喜久雄が賛成したため、内心で反対を唱えていたものも従わざるを得なくなったのだった。
 黒服の一人が現場で指揮を取る田口に報告を行った。
「そこの公園でお嬢の目撃証言が。あっちの方向にドレス姿の女性が去っていったと」
「よし、そっちに三人向かわせろ。残りは駅の方向と森の方向に別れろ」
 全員ではないのですか、と部下の一人が不思議そうに田口に問う。
「信憑性のない証言を鵜呑みにするなよ。忘れるな、お嬢にもしものことが起こる前に見つけ出すことが第一だ。報告は怠るな」
 わかりました、と若い黒服は数人の男を連れて闇夜へと消えていった。
 さらに男達は幾人かのグループにわかれ散り散りに駆けて行く。
 田口たちのグループはベッドタウンを探して歩く。日が暮れたとはいえまだまだ夕食の時分だった。
(まるで迷子の子供を捜す親のようだ。……お嬢はなにを考えている。こんな――式の直前に抜け出すなどと)
 彼女はこの街に対する土地鑑などまったくないに等しい。あんな服装で金も持たずに人気のない場所をふらふらしている彼女を思うと胸がざわついてしょうがなかった。
「――尋ねるが」
 いつのまにか、目の前に男が一人立っている。乾いた声だ、と田口は思った。恐らく堅気のものではない、と彼の経験が告げていた。彼は警戒の態勢を取った。
「さきほどから連呼している女の行方に心当たりがあれば教えて欲しい」
 この男も奈々の行方を探している? 田口は改めて男を観察した。
 年齢は恐らく二十台半ば。短い頭髪は逆立ち天をついている。黒いビジネススーツと紺のコートで身を固めていた。
「……なぜ彼女を探している? お前、吉野屋の家の者ではないだろう」田口は警戒心を隠さずに問う。
「行方を知っているかどうかを聞いているんだがな」抑揚のない声で男は淡々と告げた。「この辺りで名前を呼んでいたということは、ある程度の辺りはついているということか、それとも闇雲か」
「なぁ、兄さん」田口と同行していた黒服の一人が凄みを利かせた。「滅多なことは考えない方が良いと思うがね。どう見たって、アンタ、お嬢の知り合いには見えねえ。お嬢に用があるのなら、吉野屋の家の正門をくぐってくるんだな」
 短髪の男の襟首を掴みあげる。田口がそれを諌めようと口を開きかけたとき、ぐるん、と黒服の男の身体が縦に回転して――頭から地面に叩きつけられた。
「知らない、ということであれば今殺す。知っているのならば後で殺す。……どちらが良い」

 喧嘩慣れしているはずの田口でさえ、短髪の男が黒服の一人をどうやって地面に叩き付けたのか理解が及ばなかった。
(合気? ばかな、やつは手をポケットに突っ込んだままだ!)
 それは奇妙な光景だった。
 短髪の男はポケットに手を入れたまま歩み寄る。黒服たちがその敵意にようやく反応したころには、一人、二人とまるでお手玉でも放るみたいに次々と地面にたたきつけられていく。
 男は田口の前まで来て、足を止めた。
「お前が頭だろ。どうだ、お嬢とやらの居場所は知っているか?」
 どう答えたところで助からない。
 これでもいくつかの危ない橋は渡ってきている田口の嗅覚が、それを敏感に感じ取った。
「そうか」と男は田口の目を見ていった。「ここで眠れ」
 ぐい、と襟が引っ張られる。ここで田口は少しだけこの現象を理解するに至った。
(見えないもう一人が居る――)
 そうとしかいい様がなかった。足が払われ、どしんと腰に重量が当たり全身が持ちあがる。通常の背負い投げと違う点は強引に相手を頭から捻り落とそうとするところだ。投げ手に負担の掛かる投げ落とし方だから普通は使われない。
 諦める。潔さも美徳だと彼は学んでいた。

 *

 ぱし、と落ち行く男の頭をアスファルトすれすれで支えたのは女の細腕だった。
 それを見て俄かに短髪の男の眉が跳ねる。男は驚きの表情を顔に宿して、まるで車にでもはねられるようにして後方へと弾かれた。
「――――」
 なにが起きたのか認識する暇もない。
 二歩三歩と勢いを殺しながら男は態勢を整え、正面を見据える。
 今の一撃で通りの端まで――数字にしておよそ三十メートル――も後退させられている。
 距離が離れ過ぎている。闇夜の中、突然の闖入者の姿形をはっきりと捉えられない。小柄な体躯が二つ、重なっているように男には見えていた。
 男が距離を縮めようと足を踏み出す。
 同時に、周囲に不自然なまでの濃霧が発生した。突然の霧に男の視界が奪われる。
(これは……?)
 構わず男は地面を蹴る。
 しかし、男の攻撃が届く距離に達する前に、小柄な人影は霧に紛れて薄れていく。
 女だ、とだけ辛うじて認識できたときには、霧と一緒に跡形もなくその姿は掻き消えていた。
 ざしゃ、と地面を踏んで急停止し、辺りを見まわす。のびていた男達までも、忽然とその姿を消していた。
「…………」
 男はすぐにコートを翻して踵を返す。
 消える前の女の姿を思い返す。男にはその女の目付きが印象的に映っていた。
 恐れのない、こちらを睨む強い視線。観察するようでいて、そこにはわずかな敵意が込められていた。

 ・3

 式場へと足を踏み入れて志摩は眩暈を感じた。
 それ自体は取り立てて不自然な点はない。いつも働いている職場なのだから見なれた風景である。ただ、広さは最大級の会場ではあった。
 まず、撮影しているカメラ。それもフラッシュを焚くようなやつではなく、テレビの撮影などで使われるような足のついたでっかいやつだ。それが何台も、音もなくこちらにレンズを向けている。
 それだけで手が震えるというのに、さらには来賓席や親族の座るテーブルにはテレビでしか見たことのないような人が座っていて、一様にこちらに注目している。
 さらには会場の一角を管弦楽団が占拠し、自慢のトランペットだかフルートだかを演奏する機会を今か今かと待ち構えている。
(……あの指揮者、なんていったかな……。テレビで見たことがある……)
 思考が泳いでいるのを自覚する。
 薄暗い照明と、顔を隠すヴェールがなくては一秒だって騙せない。
 緊張からか、気分が悪くなり、続いて足が震えてきた。安請け合いするんじゃなかった、と志摩はいまさら後悔しはじめた。
 期待や祝福を含んだ無数の視線。厳粛な雰囲気。この入れ替わりがばれたときのことを考えると嫌な汗が浮かんでくる。
(た……頼む、咲……。一刻も早く本物の花嫁を……)
 胸元のラメが呑気にぺかぺかと光り輝いていた。

 *

 修は吉野屋を自分の家まで連れていった。荷物を置くと同時に着替えをさせるためである。
「もう少し小さいパンツはないのかしら?」
「ねぇよ。我慢してくれ」
 彼女にはサイズの大きいパンツとパーカを着させて、明るい駅の方向へと向かう。
 とくに話題もなく、二人はゆっくりと歩みを進める。
 ベッドタウンとは奇妙なもので、住宅が密集し人間の密度は高いはずなのに、ある時間を境に通りからはぱったりと人が途絶えることがある。
 人の気配はする。家々の明かりはついている。けれど表には人の姿がない。家々から届いてくる夕餉の香りや談笑が、通りの雰囲気をかえって奇妙なものにしていた。
 吉野屋には式場に戻るつもりはないのだろうと修は思う。こんな安っぽい格好で式場へと戻るわけにはいかないだろうからだ。ドレスは修の部屋の押入れの中に押しこんである。
 これからどうするつもりなのだろう、と修は吉野屋の横顔を覗った。
 彼女はきょろきょろしながら楽しそうに周囲を眺めている。
「この辺、雰囲気が良いわね。デザインとか、なんだかお洒落」
「そうか? そういうもんか。ずっと住んでるとわかんないな」
「ベッドタウンていうの? ご近所づきあいとか、あこがれなのよね……」
「もっと違うものにあこがれたほうが良いんじゃ……」
 目的もなく歩くのも悪くない、と思い、それはきっと隣を歩く人によるのだろう、という結論にすぐに達した。
 気が済むまで付き合ってやるか、と修は腹を決めた。今夜遅くなる前に送り届ければ十分だろう。
「ほら? なんていったかしら、あの映画? お姫様がお城を抜け出して、新聞記者と恋に落ちるやつ」
「ん……、知らないな。いつの映画?」
「ずっと昔の。白黒じゃなかったかな。あれ、すごい好きでさ」
 なにが原因なのだろう、と修は考え、それは適切な表現ではないと思いなおした。
(結婚式の直前だというのに彼女を逃げ出させたものは一体なんだ?)
 望まぬ結婚であることはわかる。そこから逃げ出すのはごく自然であるといえる。ただ、このタイミングで式から姿を消すというのは、修には理解できなかった。根本的な解決になっていないではないか。今日、このあと、家に戻ったとしても式の日程をずらすなどして、いずれは入籍をすることになるはずだ。
 彼女はなにをするために式を抜け出したのだろう?
「ねぇ、聞いているの?」吉野屋は口を尖らせた。
「悪い。なんの話だっけ?」
「学校」
「え?」
「学校、行ってみましょう」
「学校、って……。別にあと二週間もすれば、また始まるんだから。それに、気分転換ならもっと他の場所の方が良いと思うけど」
「他に、知っている場所がないんだもの」
 遊ぶならもっと楽しい場所がある、と修は説明した。ゲームセンタ、カラオケ、ボーリング、ショッピング。修は自分がよく遊ぶ場所を列挙した。
「それは……楽しそうね」と吉野屋は目を輝かせた。「でも、今は学校に行きたいのよ。夜の学校。カラオケとかは……、そうね……、今度。今度、連れていってくれる?
 ……こんな時間に外を歩くなんて初めてだし、これからもないだろうから……。今日は学校が見たいの」
 なら今度とはいつのことになるのだろう、と修は率直な疑問を抱いたが、それは口にしても詮ないことだった。
「僥倖、僥倖」
 背後から声が聞こえた。振りかえると、男が一人、街灯の冷たい明かりの下に立っている。
「人違いをしていると面倒だから確認するぜ。吉野屋奈々だな?」
 一人の男が、修と吉野屋を見据えている。短い頭髪が、男に野獣めいた印象を与えていた。ビジネススーツに一般的な紺色のコートを羽織っている。
(吉野屋の家の人か……? なにか、雰囲気が……)
「あの、どなた、ですか……?」吉野屋は震える声でそういって、揺れる瞳を男に向けた。ぎゅ、と無意識に彼女は修の服の裾を掴んだ。
「イエスかノーで答えろよ」
 会話をする気などない、と言外にいっている。
 相手にしてはならない、無視すべきだ、と吉野屋に伝える前に「……ええ」と戸惑いながら彼女は頷いた。
 とたん、ふわり、と吉野屋の身体が浮き上がる。
「…………っ!」
 男は手をポケットに入れたままだ。ひとりでに彼女の身体が浮いたようにしか見えない。
 吉野屋は喉元に手をやった。苦しそうにかきむしる。それはまるで首を掴まれてつるし上げられているようだった。
「騒ぐなよ」
 その声だけで男は修の動きを全て抑制してみせた。
「声を出そうとすれば喉を潰す。そこから一歩でもこちらによれば足を折る。黙って下がることは自由だ」
 不自然に浮いた吉野屋が足をばたつかせる。
 男はポケットに手を入れたまま二人を見る。
 修は動けず、声を出すこともできずにいる。
 ――下がる?
 音がない。奇妙なくらいに。
 ――彼女を置いてか?
 思考が定常領域を越え過負荷領域に突入する。
 ――この男は、吉野屋にいったいなにをしているんだ――?
 自然、修の足は地面を蹴っていた。前に向かって。それは打算もなにもない、無意識の行動だった。
 直後、足首がなにかに掴まれるような感覚に覆われる。その認識に修が至ったときには激痛と共に右の足首が奇妙な方向へと曲がっていた。
「――――」
 白熱した修の脳はその痛みを感じる前に、左足で最後の一歩を踏み出す。倒れ掛かるように、肩から男に突撃する姿勢だ。
 そしてその勢いは修の首に伸びた見えない腕によって止められた。
 ぶぢ、と嫌な音がして、喉が熱くなる。もうまともに声を出すことは不可能なことは鏡を見なくてもすぐにわかった。
 ニ秒前まで両足で立っていたのに、突然片足になってしまい姿勢を維持できず、修はアスファルトの上に転がった。
 吉野屋の驚愕する雰囲気が伝わる。
 ほどなくして、吉野屋の動く気配がなくなる。気絶か、はたまた死んでしまったのか。
 ――つまりは、自分はなにもできなかったということだった。

 *

 後手後手に回っているのは運が悪いとしかいい様がない、と咲は内心で舌打ちした。
(霧を)
 自分の後ろを追走する「彼女」に指示を飛ばす。たちまち周囲を濃霧が覆った。
 家々が連なる通りを全速力で駆け抜ける。五十メートルほど前方に人影が三つ見えている。
 吊るされるように宙に浮いていた人影は、写真で見た吉野屋奈々という女性に間違いない。傍らに自分とそう変わらない年頃の男の子が倒れているのが見えた。
(彼女を自由にしてあげて)
 追随していた気配が、速度を上げて咲をたちまち追い越していく。
 それを追いかけ濃霧の中を咲はひた走る。
 その場所に着くまで十秒ほどかかった。彼女は足があまり速くない。
 男性のそばに駆けより「大丈夫ですか」と声をかけて仰向けにして、咲は息を飲んだ。
(喉が……!)
「きゃ」
 黄色い声が上がる。
 霧が晴れ、視界がクリアになる。
 先行していたはずの「彼女」がいつのまにか咲の後ろでしりもちをついていた。
 短髪の男は、ぐったりした吉野屋を抱えて二人に油断のない視線を送っている。
「ワンパターンに過ぎる。先ほどと同じ具合に目隠しされれば警戒するのは当たり前だ。それでなくてもその霊体は気配が強過ぎる。能力は高くても使いこなせなければ意味はない。期待外れだな」
 そういい残し、男は吉野屋を連れて家を軽々と飛び越えて消えた。
「お――追いかけなくちゃ」と「彼女」がいう。
 ふわり、と空中に飛び出しかけた「彼女」を、咲は鋭く呼びとめる。
「――駄目。この男の子、息が止まりそう」
 修の喉は、声帯だけでなく、気管まで潰されていた。このままでは、ほどなく呼吸は止まるだろう。
 なにかに耐えるような、悔しげな表情で咲は「彼女」にいう。
「加賀美、治してあげて」
「う、うん」加賀美と呼ばれた少女は修の傷口を見る。
 咲が動きやすいジャージ姿でいるのに対し、加賀美はこれといって特徴のないセーラー服を着ていた。腰まで届きそうな髪を飾らずにそのまま垂らしている。
 咲は短いふたつのみつあみを揺らしながら立ちあがり、男が消えた方向に顔を向ける。
 考えをまとめ、咲は携帯電話を取り出した。

「あ、志摩? さっきは電話が繋がらなかったけどどうしたの? 連絡とれないといざってときに困るよ」
「……。よく考えたら三十分毎に連絡を取るのは難しかったよ。お色直しとか小休止はそれほど頻繁にあるわけじゃない。気分が悪いとかトイレといって抜け出すのも限度がある……」
 たった一時間で随分やつれた声を出すものだと咲は思った。
「……そう。こっちもあまり良くない報せがあるわ」
 咲は一部始終を志摩に話して聞かせた。黒服達を助けたこと、その時の男に吉野屋奈々が連れ去られたこと。
「……なるほど。その男の目的はなんなのだろうな。……いずれにせよ、私がここから離れられるのは少し遅くなったというわけだな」志摩の声が電話口から離れて声が遠くなった。「……ああ、奈々さんを探してくれている私の友達からだ。どうやら、奈々さんを見つけたは良いが、彼女の目の前で奈々さんが誰かに連れ去られたということらしい。なんでも、黒いスーツで髪の短い男だとか」また声が近くなる。「咲、いまどこに……、」男がなにかを志摩にいっている。「なんだ、場所はわかっているのか」と意外そうな志摩の声。再び声が近くなる。「悪い、咲。なんでもない」
「さっき運び込まれたウチのものも似たようなことをいっていた。短髪の、ビジネススーツの男か」と遠くから黒崎の声が聞こえた。
 彼らは頭蓋骨や頚椎にひどい傷を負っていたが、咲は加賀美に頼み、その傷を癒した。彼らが吉野屋の屋敷のものであることは、大声で吉野屋奈々の名を呼んでいたところから察しがついていた。
 咲は、志摩にいって黒崎と電話を代わってもらった。
「警察へ連絡するかどうかはそちらで判断してください」咲は無難な表現を使った。表面上は志摩が依頼人だが、その実は彼女を通じた吉野屋ともいえるからだ。事態を明るみにするかどうかは向こうの判断に委ねるべきである。
「……まあ、警察には報せないつもりだけどね。うちの当主ならそうするだろうから」
「あと、信じるかどうかはそちらの勝手ですが、彼女は恐らく港の方向へと連れ去られたものと思います」
「……そうか」
「あの。私のことを疑ったりはしないんですか?」
「――え? どうして」本当に意外そうな声が電話口から聞こえた。
「……私のような身元もまだわからないような相手のいうことを信じすぎてはいませんか? もしかしたら、私とそこの志摩がグルになって、その、奈々さんを誘拐した、とも取れると思いますが」
「はは、そんなことか」と彼は笑った。笑いに力がなく、空元気だろうと咲は思った。
「君に一切の情報をリークせずにいたにも関わらずに、うちの黒服とほぼ同時にお嬢に辿り付いたから、というのが理由かな。正直、君には見つけらないと思っていた。それにこのタイミングで君達がお嬢を誘拐するのではやり方がずさん過ぎる。その程度の事件ならものの数時間で解決するよ。
 それに、身元がわからないだなんて思ってもらっちゃ困るね、早野咲君。吉野屋の情報網は君の予想を遥かに越えているはずだ」
 咲は複雑な気分になったが、まあしかたがない、巨大な相手と組む、ということはつまりはそういうことだと自分を納得させた。
「それにね、君は君の能力を惜しげもなく活用してくれた上に、疑われるかもしれない、ということを理解しながらも、お嬢は港方向に居ると教えてくれた――君を信じる理由は、そんなところかな。
 と、早野君の話でこちらも動かなくてはならなくなった。少し忙しくなりそうだから、そろそろ稲森君に代わるとしよう」
「私はこれからどうしましょうか?」と咲は黒崎に尋ねた。
「……本来ならば、これは吉野屋の家の問題だ。君にはこれ以上関わることを避けることを勧める。探すのを手伝ってもらう、という話だったが、もう事情が変わってきている。お嬢の家出などという可愛らしい話ではなく、これは立派な誘拐事件だ」
「…………」
「でも。もし……、無茶をいうことを許してもらえるならば」彼はそこで少しいいにくそうに沈黙した。言葉を選んでいるのか、沈黙が少しだけ続いた。やがて、意を決したように彼ははっきりといった。
「君に迷惑でなければ、彼女を助けて――いや、せめてその正確な場所だけでもぼく達に教えてもらえると……助かる」
「まぁ……、もとよりそのつもりです」
「そうか……、すまない、恩に着る。うちの黒服たちにも、代わって礼をいうよ」
(それは一体なんのお礼だろう?)と思ったときには電話は志摩に代わっていた。
 ――残り時間は一時間を切っている。

 電話を切り、事態の推移を咲は頭で整理した。
 ことの起こりは資産家、吉野屋家の一人娘、吉野屋奈々の結婚式直前の逃亡。この時点ではそれはただの娘のおてんばで済む問題だった。
 そこで咲の友人である稲森志摩が彼女が見つかるまでの代役として抜擢され、花嫁代行の志摩が、本来の花嫁であり行方不明の吉野屋奈々を探すために早野咲に連絡を入れる。
 黒崎という奈々の付き人から彼女の写真を受け取り、吉野屋の黒服達に混じって、咲は街中を奈々を探して歩くことになる。そこで咲に憑いている霊――というしかない――日向加賀美の力を借りた。
 幽霊である加賀美はその能力の一つに、写真と地図があればその対象がどこにいるかを探り当てることができるというものがある。
 それを用い、おおよその場所を求める。ベッドタウンであることを突き止め、そこからさらに範囲を絞っていく。そこに足を運ぶと、いくつか通りを挟んだあたりから、吉野屋奈々の名を呼ぶ声が聞こえてきていた。
 そして、そこで咲は短髪の男に出会った。一見して、すぐに人種が違う、と悟る。
(あの人。彼女をさらってなにをするつもりなんだろう?)
 経緯は不明だが、彼の一方的な暴力から吉野屋の黒服達を助け、いったんそこから退いた。
 恐らく、ここで彼らを癒し、屋敷にまで送り届けたことが致命的なタイムロスになったのだ、と咲は分析した。
 吉野屋奈々に会ったときも、死にかけた青年を助けたことで短髪の男を追うことができなかった。ここに余分な時間があったといえる。

 ・4

 修は軽い倦怠感を感じながら目を覚ました。
「ああ……、目が覚める前にここを離れるつもりだったのにな」と女の声がいう。「ごきげんよう、気分はいかが? 痛いところはない?」女はひらひらと手を振った。
 自分が生きている、ということにまずひどく驚いた。
 喉と、足を実際に触って確かめる。なんともなっていない。歩けそうだし、呼吸も問題ない。
「家まで歩いて帰れるよね? 歩ける?」
 回りを見渡して吉野屋の姿を探したが見当たらない。短髪の男も。既にこの場所を移動したのだろう。
(なんの目的があってあの男は吉野屋を連れ去ったんだ)
 金目的の誘拐、と一番最初に思い当たる。
 夢だったのではないか、という考えがもっとも妥当な気がしてきた。見えない力で釣られた吉野屋と、潰された喉、折られた足。起きてみれば治っている傷――――
「あ、あれ? もしかして喋れない? どうして? 加賀美、治らなかったの?」焦った声が問いただす。
「え? うそ。治ってるはずなんだけど」と細い声が答える。
「――あ? あんたらは……?」ようやく修が隣に立つ人影に気がついた。
「……、しゃ」
「うん?」修は素直に彼女を見上げた。座ったままの修よりも立っている彼女の顔の方が位置が高かった。
「しゃべれんじゃないのよ! 驚かせて!」
「わ、なに?」
 修の目前に立つ女は首を横に振った。「なんでもない。取り越し苦労」
 じゃあね、と女はハンドサイズの地図を取り出して歩き出した。
「なぁ、いまここにもう一人、女が居なかったか?」修はその背中に問いかける。
 ぴたり、と彼女の足が止まる。
「……さぁ? 聞き違いじゃないの?」
「聞き違いってなんだ。もう一人いたはずだろう。いかにもお嬢様って感じの――じゃないか、今の格好は」
 はぁ、と彼女はため息をついてこちらに振りかえる。
「しょうがないな。加賀美。出てきて」
 声と同時に、どこからか女が姿を現した。セーラー服と長い黒髪の育ちの良さそうな少女だった。
「もう、焦って加賀美に話しかけたのが良くなかったかもね。どう、聞き違いじゃないってわかって気は済んだ?」どこかなげやりにいう。
「誰だ? そいつ」
「……へ?」みつあみの女が目を丸くした。
「俺がいっているのは茶色の髪の高校生くらいの女だ。サイズの合わない服を着ている」
「――あー」女はこめかみを押さえてうめく。「やっちまったかな?」
「ところで」修は新たな疑問を口にする。「いま、そこの彼女はどこから出てきたんだ……?」

「考えてみりゃー、君が一番気になるのはさっきの彼女――吉野屋さんのことに決まってるよね……」と女は眉をしかめて呟いた。
「ちょっと待て。吉野屋のことを知っているのか」
「知っているというか……探しているの」
「なんで吉野屋を探しているんだ?」
「結婚式から抜け出したんだってさ」と女はいった。それは修も知っていることだった。「私の友達がその代役してて。前座が終わるまでに奈々ちゃんを見つけて欲しいんだってさ。そんでただいま奔走中ってわけ」
(軽いノリの女だな)と修は率直な感想を抱いて女を観察した。頭には短いみつあみを二本結わえていた。服装はなんの特徴もない黒っぽいジャージである。自分と同年代の女性にしては飾り気があまりにもなさ過ぎる。
「んー。悪いけど、私、ちょっと急いでいるのよ。連れ去られた彼女を探しに行かなくちゃいけなくってねー」
「……おい、居場所がわかるのか?」
 頭の切り替えが早い、と咲は修を評価した。「付いて来る?」
「――なんだって?」
「良いよ、来ても」あっけらかんという。「ここで来るの来ないの問答するのも面倒だしね。あの男には近づかないこと、私から離れないこと。それだけ守ってくれれば良いや」
 地図を眺めながら歩き出す女に、慌てて修は追いすがった。

「幽霊……?」
「多分、君が抱いたイメージそのままで良いんじゃないかな。死んだ人の魂。死者がこの世に姿を現したもの。さっきのは、どこからか出てきたんじゃなくて、見えないものが見えるようになっただけ」
 咲と名乗った女は、さきほど突如姿を現した女について、そう説明した。
 加賀美と紹介された女はというと、斜め後ろに大人しく控えている。
(……なにをいっているんだ。電波女め)
 なにが幽霊だ、と修は思う。危ないのに会っちまったな、と。
「付き合ってられるか」と修は踵を返した。
 吉野屋の行方を知っている、という言葉も、この調子ではどこまで本当なのか知れたものではない。
 咲は面白くなさそうに修を眺める。
「急いでいるから私の話を信じようが信じまいが別にどっちでも良いかな、と思ったけど。……私、変な目で見られているみたいだし?」
 瞬間、貧血が起こったのだ、と思った。
 気付けば――三倉の街を眼下に見下ろしていた。
「――――」
 風が冷たい。上空であればなおさらだ。
 頭の上で囁くような声が聞こえる。
「ごめんなさい。咲ちゃん、負けず嫌いなので」
 おっとりした喋り方だった。加賀美という女の声だ。
「あ、高いところ、お嫌いですか? そうならすぐに下ろして差し上げますけど」
「別に……嫌いってほどじゃ……」しかし修には自分のそのあまりにも間の抜けた返答に辟易している余裕すらなかった。
 街のとなりに茂る森も、端から端まで見とおすことができる。下には光る宝石をちりばめたような光景が広がっていた。街の明かりだ。
「……寒いですね。戻りましょう?」
 今度は移動の過程を目で追えた。二人は地面に向かって落ち始める。とんでもない速度で地面が近づいてくるが、速度がだんだんと緩やかになり、ついには柔らかく地面に着地した。重力を無視した動きだった。
「どうだった? フリーフォール」にひひ、という形容がぴったりな笑顔で咲がいう。「さって、よく考えるとこんなことしてる場合じゃないんだよね。今夜の出来事は悪い夢をみたとでも思って忘れると良いよ。人に話すことじゃないね、少なくとも。……さ、少し急ごう」

 ベッドタウンを抜けてしばらく行くと穏やかな丘陵がある。
 三倉の街には南西の方向に巨大な森林地帯が広がっていて、この森がその先にある隣の高碑市との交通経路を遠回りさせている。街の南東部の戸坂港の側を通り、丘陵地帯を通って森の南方を迂回しなくてはならない。街の北部には、平原を挟んで、ぽつぽつと標高の低い山々が連なり、そちらが郊外と呼ばれる地域になっている。山々を右手に見ながら進むと鳩山市がある。そして街の東部から南東部にかけて海が広がっているため、この街に訪れるための交通経路は山々と森、または海岸と森に挟まれた道を通らなくてはならなくなるのだった。そこが遮断されると完全にこの街のアクセスは死に、これが三倉は住みにくいといわれる所以である。
「――吉野屋はどこにいるんだ?」
「今から探します。ちょっと待ってくださいね」
 加賀美は吉野屋の写真とこの街の地図を持って見比べ始めた。
 街の外れに近づくにつれて、家屋の数に反比例するように田園の数が増えていく。既に街灯は少なく明かりが薄い。穏やかな地面の起伏が目前に広がって視界を遮り、意外なほど見通しはよくなかった。
「あら、お早い心変わりだこと」と咲が茶化す。「さっきはあんな態度だったのに、もう私達のことを信じているの?」
「信じているわけじゃない。……判断を保留しているだけだ」
「着いて来るなら同じことだと思うけど」
 藁をも掴む気分だった。根拠は不明だが、彼女達は吉野屋の居場所に心当たりがあるらしい。躊躇いのない歩調からもそれが知れた。闇雲に歩くよりは幾分マシに思えた、ただそれだけのことだ。
 修の心の中にはまだ、この二人のことを気が違っていると考えている部分があった。
「そうだ。警察に連絡を」気が動転していて重要なことを忘れていた。
「あぁ、私がしておいたから。あなたがさっき気を失っていたときに。
 そう、最初に注意しておくね。また会ったとして、最低でもあの男の二十メートル以内には近づかないこと。たぶん、もうちょっと射程は短いと思うけど。その距離ならまず安全」
「……近距離パワー型ってことか」
「なにそれ?」
「や、なんでもない」
「まあ良いけど。あと、怪我したらすぐに私にいってね。大きく部品が欠けてさえいなければ傷も治せるから」
「だから離れるな、ってことだな。さっきの俺の傷を治したのもそれ……なのか」信じられない心持でそう呟く。「そうよ。失敗したかと思って慌てたけどね」と彼女は答える。「クレイジー・D?」「わかんないってば」
 地図から加賀美が顔を上げた。「やっぱり舞阪港の辺りにいるみたい」
 頭の中に地図を呼び出し、舞阪港の位置を探す。たしか、街の東南にあったはずだったか。
「それは戸坂港」咲は修の言葉に首を振る。「舞阪港は、三倉の東端」
 ううん、と呻いて、咲は考えごとに没頭し始めた。
「もう少し近づいて、もっと正確な位置を掴みたいところだけど……。気配が強い、か……。あんまり近づくと気付かれるのかな……」
 目の色や態度、言葉遣いを見てもなんら健常者と変わるところはないように思う。もしかすると異常者ではないのかもしれない、と修は考えを改めるべきか否かと思案した。
「ああ、そうそう。もっと心配なのはあなたの頭の中身」と思い出したようにいう。
「は? どういうことだよ」
 幽霊だのなんだのといっている電波女にそんなことをいわれる筋合いはない。彼は憮然とした気持ちで問い返していた。
「殺されかけたことは理解している? その相手にまた近づこうとしていることはわかってる? いくら『幽霊憑き』だって、死にたがりの気持ちだけは理解できないわよ」
「…………」
「あなたのことをかならず守れるわけじゃないから。死んじゃっても怨まないでね」
 修は黙って足を進める。二メートルほど前を行く咲の背中が、歌でも歌うように続ける。
「感覚が麻痺してる、優先順位が違ってる。心の強さっていうのは偏っているほど強いと思う。つまりは恋よね」
 田畑が広がる田園風景の中で、ちかちかと頼りない光を灯す街灯のスポットライトの下、咲はくるりとターンするように振り返って修に向き直る。
 咲は彼の反応を見る。彼は聞いているのかいないのか歩みを緩める気配がない。咲は結論をいう。
「――極端な話をするけどさ、死ねば良いって思ってない?」
 余計なお世話だ、と修は思う。
「彼女はたぶん、生きてるよ」
「生きて――いるのか」
 努めて考えないようにしていた問題をふいに振られて頭が硬直する。瞬時に、(当たり前じゃないか)と考えている自分がいたことに気がついて、修は気分が悪くなった。
「そう。良かったね。後追いみたいなことしたら早まるだけだからね」
 ……死にかけた、という事実に対しては今でもなにも感じない。それは、ほとんど痛みもなく、その傷も癒えてしまったからだと自身で分析したが、それが正しいという確証はどこにもなかった。
 もっとも怖いのはこのまま逃げ出すことだ、と修は考えていた。
(一生後悔を背負うくらいなら――)
 そこで、はた、と冷静になる。
 ――なら、なんだっていうんだ……?
「あなたも頑固で意地っ張りでしょう。そゆとこ私にもあるから、気持ちはわからないでもないんだけどね。たまにいるみたい。私とか、あなたみたいな、考え方がおかしな人間って。予備軍、なのかもね。なんらかのさ」
 返答を期待しているわけではなさそうなので、修は黙っていた。
「さあ、跳んでいくから、しっかり掴まっててね。……高いところは嫌いかな?」

 港に近づき、潮の香りが強くなってきたころ、咲は再度、携帯電話を取り出した。
「よかった、繋がった」と電話に出た志摩の声を聞いていう。「舞阪港にさ、一番大きな倉庫があるでしょう? 彼女はたぶん、そこ」
 志摩の声が離れる。「……さっきいったとおりだな。奈々さんは――港に居る」
 遠くから黒崎の声がする。「了解した。うちの黒服を向かわせよう」
「……警察には?」と咲が尋ねる。志摩がそれを黒崎に伝える。
「通報していない」と黒崎は静かに答えた。
 いったいそれがどういうことなのか、考えようとして志摩はすぐにやめた。それは自分には関係のないことだ。

 ・5

 夜の港。
 埠頭の傍の巨大な倉庫の中で、男は人を待つ。
 傍には一人の女性――吉野屋奈々がコンクリートの上に寝かされていた。潮風が男の短髪を撫でていく。吉野屋が寒そうに縮こまった。男はそれに気付いたが、興味がなさそうに遠くを見つめ続ける。
(霊憑きの女が近い……)
 自分に対して、ちりちりとした敵意が向けられている。だが、その敵意の理由として思い当たるものは男にはなかった。女が呻き、覚醒が近いことが知れた。

 吉野屋奈々は冷やりとした潮風で意識を取り戻した。港町特有の塩を含んだ風が吉野屋の髪の毛をべたつかせ、その茶色がかった癖っ毛を頬に張り付かせている。
 頭の中に霧がかかったような気分だった。頭痛もある。
「目を覚ましたか」
「あなたは――」
 すぐに身を起こし、ばっ、と吉野屋は彼から飛びのいた。無意識に腕で体を覆い隠す。
「ここはどこですか。あなたは――誰ですか」
 彼は答えない。無視をするように、遠くを眺めているだけである。
 しかし、彼はこちらを見ていないにも関わらず、逃げられるような気がまったくしない。まるで彼の見えない手が、彼女の身体を押さえつけているようなイメージがあった。
 奈々は記憶をさかのぼる。混乱した頭だったが、すぐに気絶する寸前の記憶を蘇らせた。
「彼は――」奈々は勇気を振り絞って尋ねる。
 男は奈々を一瞥する。それだけで、まるで呼吸が止まってしまいそうだった。
「五分以内に病院に搬送されたなら助かる。十分以内に優秀な術者によって治療されたなら助かる。それ以外ならだいたい死ぬな」
「……え?」
「状況を鑑みて――死んだ可能性は五分ってところか」男は呟くようにいった。
「……どう、して」
「お前は身内に売られたんだよ」男はいった。「これから身代金を要求するグループにお前の身柄を引き渡す。俺はお前の誘拐を手引きした。……自分が、どういう境遇で死んでいくのか、それくらいは知っておくと良い」
 男の話など彼女の耳には入らない。
(片山君が……)
「奴はお前のために死んだ。お前は死ぬ前にそれを思い出せ。死から逃れられない奴は、皆そうする」
 ぐらぐらと揺れるような思考が、わずかな感傷と少ない事実だけを奈々の意識に提示してみせた。
 ただ、確かなことは、
 ――足と、喉にひどい怪我を負った修の姿が脳裏から離れない。
 もうきっと。大切な人達――父や母、良くしてくれた側近の人達には会えない。
 片山修には、会えないだろうということだった。
 目の前の男が――修になんのためらいも見せずに死に至る傷を負わせたこの男が、自分の未来を死だといったのだ。その上で更に生還を楽観視できるほど奈々も鈍くはなかった。自分にかけられたこの言葉は、情け、というものなのだろう――死に逝く者に対しての。
(いわなくちゃ――いけないことが、あったのに)
 勇気がなくて先延ばしにした。こんなチャンス、もうきっとなかった。
 そもそも、私が式場を抜け出した理由は――。
 後悔、なんて言葉じゃ、ぜんぜん足りない。
 吉野屋奈々は、焦点の合わない瞳を夜の海へと向けていた。

 ほどなくして、その場に二人の人間がやってくる。
 年齢は四十を数えそうな男性が二人。動きやすそうな服装で、警戒心を隠そうともせずに短髪の男に近づいていく。
「コレだ」と短髪の男は吉野屋をあごで指した。「無事だ。まだ人質としての価値はあるだろう。あとは煮るなり焼くなり好きにしな」
「……ご苦労だった」とだけ男は発音し、吉野屋に猿轡をかませ縄で縛っていく。手際がよく、手馴れていることがすぐに見て取れる。
 彼女は力なく、されるがままになっている。
 それを最後まで見届けることなく、短髪の男がその場を離れようとした――その時。

 轟、と強い風が吹いた。
 男たちをその場から押し出そうという意思を持った強い風――
(あの女だな――)

 喝、と太陽のような光が目を焼いた。
 その倉庫内を全て照らす志向性の光――

「――全員大人しくしろ! そこから動くな!」

 拡声器で増幅された波動が耳朶を打つ。
 同時にいくつもの足音がこちらへと向かってくる。
 男の視界が即座に明るさに対応し、足音の正体を視界に捉えた。
 それは大勢の警官達だった。

 *

 二人組が奈々を縛り上げるのを見て、咲は、吉野屋の黒服たちが来るのを待っていては間に合わない、と判断を下した。
 目的は吉野屋の奪還である。無理に短髪の男の相手をすることもない。倒さずに戦いを避けるのならやりかたはある。
 ベッドタウンでの様子を思いだす。
 彼は距離が離れたときに走って近づこうとしていた。あのとき、自分たちがあの場から離れたときの相対距離はおよそ二十メートル。最低でもそれだけの距離を置けば十分だということだった。
(吹き飛ばすほどの暴風を)
 加賀美に心中で指示を出し、身を乗り出しかけたとき、
 強烈な光が彼女を襲った。

(やば)
 倉庫内に潜入していた咲は舌打ちをする。
 なんてタイミングだろう、まさか仕掛けの瞬間に邪魔が入るなんて――!
 物陰から飛び出した瞬間だった。強い志向性の光が目を焼いた。
(これはつまり、向こうからはこちらが見えているということ――!)
 眩んだ目の代わりを加賀美に任せ、心の中で指示を出す。
(霧を!)
 倉庫内を突然の霧が覆う。わずかにざわめきが起こった。
(彼を回収して! すぐにここから離れる!)

 *

「なんで逃げるんだ! 吉野屋が!」
「落ち付いてよ。大声だしたら見つかっちゃうでしょ」
 咲と修は倉庫の屋上に身を潜めていた。
 下からは、怒号や、固い声で飛ばされる指示が聞こえてくる。靴が地面を叩く音がいくつも聞こえていた。赤い光が周期的に周囲を染める。
 縄で縛られ猿轡を噛まされる彼女を見て、どれだけあの場から飛び出そうと思ったかわからない。頭に血が上り、男二人を力の限り殴ってやろう、といったことしか考えられなかった。
「でも、こうしている間にも……!」
「たぶん、あれ警官よ。よね、加賀美?」
 はい、と加賀美は頷いた。
「じゃあ、なんであの場から離れるんだよ。なにも悪いことなんてしてないだろ」
「基本的に、こういうことするときは他人に顔を見せず、痕跡も残さないようにするものだからね。……あとね、たぶんあの場に居たら私達も一緒に捕まってるよ」
「な――なんで」
「じゃあ、どうやって私たちがあの場にいたことを説明するの? なんていえば被害者の受け渡し現場にいたことを怪しまれないと思う?」
「それは……」修が言葉に詰まる。
「…………」
 話しながらも、ずっと。
 最大の疑問が咲の頭から離れない。
(……そもそも、この件を警察に通報したのは一体誰?)
 咲は下で起こっている騒ぎに注意を払う。
「まぁ、これで彼女の身柄の安全は確保できたわよね。むしろこれで危険になったのは――」
 咲はいいよどむ。視線を眼下、数多の警察官に向けた。
「……なんだよ」修は先を促す。嫌な予感と共に。
「――私達」

 *

 明かりを当てた瞬間は、人影が五人以上は見えたはずなのに、なぜか拘束できたのは中年の男性が二人だけだった。
 その二人はわめき暴れていたが、警官に数で取り押さえられ、今では警察車両の中に押し込められている。
(拉致事件の被害者と……犯人のうちの二人を確保。……しかし、影の数からすると、まだあと数人がどこかに――)
「大鳥警部」と警官の一人が彼の前で報告する。「被害者と思われる女性を保護しました。外傷はないようです。錯乱している様子もありません」
「そうか。……港内でほかに不審者は?」
「は。いまのところは見受けられません」
 あの一瞬で、どこに消えたというのだろう――それも、一人や二人ではない人間が。
 倉庫内の物陰は全て徹底的に探されている。もう人が隠れられるようなスペースはないはずだった。
 硝子が割れたような音を聞いた、という部下が何人かいた。見れば、倉庫の高い位置にある窓硝子が割れている。ばかな、と大鳥は首を振る。あの一瞬で、あの位置まで? バッタでもあるまいに。
 タレコミを信用するなら、犯人の一人は早野咲という女子高生である。しかし、既に彼女の自宅で張りこんでいる部下からの連絡もいまだない。
 ……依然、残りの数人は見つかる気配がない。

 *

 倉庫の屋上から咲と修が去ろうとしたとき、目の前に短髪の男が現れた。かつ、と革靴が倉庫の屋根で静かな音をたてた。
「――――」咲が息を飲み、ちらりと視線を加賀美へと向けた。二人はその動作だけでお互いの思考を理解し合っているようでもあった。
「待て。そう警戒する必要はない。俺の仕事は終わってな、お前とやる理由はない」
 ここは倉庫の上だ。いったいここまでどうやって来たのだろう、とそこまで考えて、既にそれを可能にする知り合いが一人いることに思い当たった。男も、咲と似たような能力を持っているなら、そう難しいことではないのかもしれない。
「上手く逃げたようだな。優秀な霊体だ、大事にすると良い」
 男は眼下で右往左往している警官たちを眺めて舌打ちをした。
「お前らがなにを目的にして、どこの命令で動いているかなんて興味もねぇが……。もし必要なら、吉野屋って財閥の黒崎ってわけぇ男を調べてみな。そいつ使えば」といって男は加賀美に目をやった。「そんくらい楽にできんだろ? もし必要ないってんならこの話は聞き流せ」
(黒崎?)聞き覚えのある名だった。吉野屋のもっとも近しい側近が同じ名前である。
「なんでそれを教える?」咲が問う。
「面白くねぇから」と男は答える。「もうあんな男に興味もねぇし、関わるのも面倒くせぇ。所詮相方を見る目がなかった俺が悪かったってことだ」
 修は理解できない言葉を連ねる男を注視し続ける。自分を殺そうとした男だ、と忘れかけてすらいた事実が胸中で渦巻いたが、それはすぐに霧散した。どうだって良い、吉野屋が無事ならば。修は内心で首を振ってその思考を遠ざけた。
「端的にいやぁ、利用されて裏切られたわけだ。
 ……女。その力はブタバコで腐らすにはもったいねぇ。いっぱしになったら俺んとこに来な。力の正しい使い方からウマい話まで教えてやる。俺の名は――」
「…………」咲は沈黙している。
 裏切られた、といっていた。話の流れからすると――その相手は黒崎という男になる。
(黒崎さん――の、ことか?)
 ほんの数瞬の思考から戻ると、すでにそこには男の姿はなかった。

 *

 咲はすぐに電話を取りだし志摩にかけた。回線が繋がったことを確認する間すらもどかしかった。
「いま、黒崎さんは一緒?」
「いや。なにやら慌しくあっちこっちと動き回っとるようだが。……なにかあったのか?」
「うん。警察が来た」
 少し沈黙してから「そうか。もしやと思うておったが」と答えた志摩の声の調子には、わずかな落胆のような響きがあった。それを不思議に思いながら、咲は携帯電話を強く握り締めた。
「……それで、吉野屋さんを連れて行った人から聞いた話だと、」
 志摩が咲の話を遮る。「黒崎――彼の指示だ、というようなことをいわれた、のかな?」
「き――気付いてたんならもっと早くいってくれれば良いじゃん!」
「なんの確証もなくてな」志摩は小さな声で申し訳なさそうにいった。「で、彼女――吉野屋さんは」
「警察が保護してる」
「重畳」
「まあ、とりあえず。これからそっちに向かうから」
 携帯電話の電源を切り、咲は修に向き直る。
「警察の方に私の名前と人相が割れてる可能性がある」
 いつになく真剣な表情で咲はいう。
「でも、たぶんあなたは平気。あなたが私と一緒に行動していることを知っているのは、私とあなたを除くとあのスーツの人だけだから。今の彼になら、このことを知られても問題はない。……あなたには選択肢がふたつある。
 一つは、つまらないだろうけど、私と一緒に式場まで行って謎解きと悪人を凝らしめるって内容。
 もう一つは、ここで下に下りていって、何気ない風を装いながら警官の中に入っていって、お姫様との感動の対面、ってやつね。ま、あなたとしては選ぶ余地はないんじゃない?
 ああ、例外の三つ目、このまま家に帰る。ほとぼりが冷める頃を見計らって彼女に会いに行く。でも三つ目を選んだら私が許さないから。大切な人にあんまり心配かけないよーに」
 咲は立てた指をくるくると回して、にっこりと微笑んだ。
「……でも、ちょっと待てよ。いま、俺が降りていったって捕まるだけだ、ってさっきいってただろ」
「状況が変わったの。糸を引いている人物がグレーからブラックになったわけ。あとは丸く収まるはずだから……いや、収めてみせるわ。……まあ、ちょっと状況が状況だから、降りていっても乱暴に取り押さえられるかもだけど」
「お前、」
 俯いたその拍子につまらないことに気がついて修は言葉を止めた。俯いてさえ視界に入るその顔。彼女は自分よりも頭一つ分は小さいのだ、と。だからそれがどうした、と問われれば返答に窮するしかないが、とにかく修はその事実に両拳を握る力を強くさせられた。
「――良いやつだな」
 それを聞いて咲は呆れたように半眼になる。「――あなたね、もうちょっと、こう……、こんなシチュエーションで、もっと気の利いた台詞はいえないの?」
「――その、謝るよ。悪かった」
「へえ、なにに?」咲はすぐに答える。
「それは、」修は顔を上げる。
 ――底意地の悪い、にやけた笑みがそこにあった。
 恥ずかしさに耐えていったというのに、それはあんまりな対応だった。

 ・6

「ねえねえ咲ちゃん」
「うん?」
「わりとあっさりとあの子が着いて来ること認めたよね?」
「ああ……、あれね」
 屋根から屋根へと飛び移る。港から式場まで歩いていけば三時間はかかる距離だが、この速度を維持すれば数分で着くことができるだろう。
 電波塔の中腹を足場にして、さらに高いビルへと飛び移る。街の中心部に近づいてきている。さきほどまでは高い建物はほとんどなかったが、街中までくれば高所を維持できるので人に見つかる心配は減る。風が冷たいのは我慢するしかない。
「べつに、吉野屋さんを連れて帰るときに、彼女の知り合いがいた方が話がスムーズに進むと思っただけよ」
 まあ、これも本心ではある。
「二人とも喜んでたね」と加賀美は嬉しそうにいう。咲は「そうね」と同意した。
「羨ましいなぁ、ああいうの」と加賀美はうっとりした声でいった。「良いことしたよね。よかった、よかった」
「まだ早いよ。これを処理してはじめて落着。――だから、ちょっと急ぐよ」
 二人は一層速度を上げる。
 がいん、と烈しい踏み切りにビルの屋上の手摺が歪む。コンクリートの塗装が剥がれ、瓦葺を砕いて空を駆ける。
(あ、瓦はやばいな。後で直しに来ないと……)
 式場は、目前だ。

 *

 最後のお色直しは和服である。このお色直しまでに吉野屋奈々を見つけることが条件だった。和服ではヴェールを被れないから顔のごまかしが利かないからだ。
 時計を見る。式開始からちょうど二時間、咲が式場へと舞い戻ったのはまさにぎりぎりのこのタイミングだった。もっとも、いまとなってはこのリミットに意味はないが。
「やほー」咲が窓から顔を覗かせた。
 花嫁の控え室。ドレス姿の志摩と、電話で慌しく指示を出している黒崎を見て満足そうに頷いた。
「黒崎さん、居るね。好都合、好都合」
 黒崎は少しの時間だけ驚いた表情をした。「……ここを離れるわけにはいかないからね。稲森君が花嫁の代わりをしていることを外に漏らさないためにも、ぼくがここでガードしてなくちゃならない」
「ま、それももう無意味ですけどねー」咲は気楽な声でいった。「この式、どう転んだところで――もう、中止、ですものね?」
「…………」黒崎は黙って咲を見つめる。
「吉野屋奈々さんを誘拐させたのも、私を犯人に仕立てようとしたのも、全部、あなたが首謀したことですね?」と咲はいきなり核心に切りこんだ。
「面白いね。話の続きを聞かせてもらおうかな?」
「まず、例の短髪の男が奈々さんの正確な居場所を知っていたのが疑惑の発端で――」と咲は切り出してから、慌てた声で付け加えた。「って、ちょっと。もしかして時間、ない?」
「残念ながら」と志摩が呆れたような表情でいう。「式が始まるまでもうあと数分といったところだ」
「――とまあ、そういうわけですので」強引に話を戻す。「もしそうなら、警察に流した私の情報をなんとかしてください。これ以上、警察に睨まれるのは勘弁っす」
「今年の夏以降の君の経歴は興味深いものがあるね。……さておき、ぼくが首謀者と君はいうけど、実際に証拠のようなものがなくてはどうしようもないよ? 君と、吉野屋を背景に持つぼくの意見、どちらが信憑性が高いだろうか。喚いたところで煙たがられるだけだ」
「それが簡単に済む方法があるんですよ」
「ミステリなら反則だな」と志摩がいう。
「……なにかな?」咲の正体不明の自信に黒崎が気圧されているのが志摩にも感じ取れた。「君の姿を見たものが部下の中にいる――。うちのお嬢を連れ去ったのは早野咲、君だ。……これが事実だ。君にはこれを覆せない。名前と住所まで割れているんだ、縄が君にかかるのは時間の問題じゃないかな」
 それはもっともな意見だろう、と志摩は同意する。
 もしその相手が早野咲――『幽霊憑き』でないのなら。
「首謀者の自白」と咲がいう。
「ぼくは真実をいっている」と黒崎は答える。
「きついのにしやれ」志摩は少し怒りを込めていう。「灸を据えてやらんとな」

 ・7

 いつまで経っても姿を見せない花嫁――代理だが――に式場の雰囲気が痺れを切らし始めたころ。
 式場で部下に指示を出すことに専念していた田口が、花嫁の控え室へと足を運んだ。
 花嫁の身代わりについては一切を黒崎に任せているため、田口以下、吉野屋喜久雄ですらドレスを着ているのが誰なのかを知らない。興味がない、といった方が正しいかもしれない。
 花嫁の控え室に向かう途中、式場のアルバイトと道すがらすれちがった。
 彼女がぺこりと頭を下げる。女は後頭部で髪の毛をまとめてピンで止めていた。
 控え室では中で騒いでいる声が聞こえた。ノックももどかしく田口はドアを開ける。
「――なんだ?」
 黒崎は頭を抱えて蹲っていた。そして何事かをぶつぶつと呟いている。
「あ、あぁ、田口、さん」と黒崎は顔を上げる。どこか瞳が空ろに見えたが、普段からとらえどころのない男だと田口は彼を評価していたので、彼の普段と違った様子を気に留めることはしなかった。
「――おい。花嫁はどこだよ」田口は部屋を見渡す。「居ないじゃねぇか」
「……ぼくがトイレから帰ったら居なくなっていたんだよ。大方、逃げ出したんじゃないのかな。臆病風にでも吹かれたんじゃ――」
 黒崎の瞳が大きく見開かれる。田口を見て恐怖の叫びを上げた。
「う、うわぁああ! 寄るな、寄るなぁぁ!」
「なんだ! おい、どうした、しっかりしろ!」
「のどが! 詰まる! やめ……」

 *

「で、結局なにをしたんだ?」
「ある行動をすると幻覚が見えるようにしておいた」
「ある行動?」
「嘘を吐くこと」
「……なるほどな。彼にはぴったりであろ。……で、幻覚、とは?」
「おまんじゅうを無理矢理食べさせようとするおばあさんの幻」
「……なんでそんなのが」
「さあ? よくわかんないけど、なぜかそれが一番のトラウマらしいの、彼にとって。おおかた喉でも詰まらせたんじゃないの?」
「肝心の仕置きがそれか……。シュールだな」
「いやしかし」咲は明るい声でいった。「持つべきものは優秀な友達よね!」
「お互いさまだよ。ありがとう……、というべきなのかどうか……微妙な件だったのう……」
「で、どうしてよ?」
「港の話をしたろう」志摩は咲の質問の意味をすぐに汲み取った。「私はな、港、としかいっていないんだ。この街には舞阪と戸坂の二つの港があるにも関わらず、なぜ黒崎はそれについてすぐに了承できたのか。……どうして、というなら他にも諸所あるがな。一番露骨だったのはそれだ。
 ちゅうか、咲もわかっていたのはなかったのか。黒崎に、得意げに説法たれようとしとったろ」
「はったりよ」咲は少しだけ罰が悪そうにいった。「それに、途中で説明変わってもらうつもりだったし。代わってくれるつもりだったんでしょ?」
「ま、違やせんがな。……しかし、ばかにしておる。奴の中では、私はそれほど意識を払う必要のない相手だったということか。低く見られたものだ」彼女は鼻を鳴らした。「そもそも黒服たちのお礼というのはなんなんだ、善人であるように見せかけようとしたのだろうが、思いっきり墓穴だというんだ。奴には咲が黒服の人たちを助けたということを話してはおらんというのに、あの台詞が出てくるか。アレを不思議に思わぬほうがどうかしとる」
「珍しい。志摩が怒るなんて」
「あの薄汚い根性を見せられればそんな気分にもなる。妙な件だった割には収穫はないしな」
「いつもいってる兆しとかいうやつ? やめなよ、そんなの追うの」
「は、オカルトの化身がなにをいうんだ?」

 *

 私は聞き覚えのある声が車外で騒いでいるのを耳にした。
 婦警の制止を振り切って、車の外へと飛び出る。
 一人の男の子が、三人ほどの警官に静かにしないかと押さえつけられていた。
 彼――片山君がこちらに気付く。
 その瞳に安堵が宿る。
 私はそのまま彼にタックルでもするみたいに飛び付いた。
 死んでいない、死んでいない。あの喉も、足も綺麗なまま。
 どうしたんだよ、といつもみたいなぶっきらぼうな声で彼はいう。
 あのとき。朦朧とした意識の中で、彼はたいへんな傷を負っていたように見えたけれど。
 見間違いでもなんでも良い。彼が無事でいてくれるなら。
 私は、知らず泣いていた。
 ちゃんと身体がある。暖かい。ちゃんと生きてる。
 夢じゃない。幽霊なんかじゃ、ない。
 ――――いわなくちゃ。
 さっきまで、夢の中でさえ後悔していたんだ。
 想いを伝えられずに離れ離れになるなんて――もうぜったいに嫌だった。
「式場に戻りたくない。結婚なんてしたくない。あなたが――あなたが、好きだから」


                                                  了


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