『箱の中のヒト』
0.
見上げる空にはいつだって、大きな穴がぽっかりと口を開けている。
1.
今でも時々ソウ兄ちゃんのことを思い出す。
空に開いた『大穴』を通って、その向こう側へと旅立った年長の友人のことを――。
記憶の中のソウ兄ちゃんは、いつだってトレードマークの着古した白衣姿だ。口の端に煙草を銜えながら、ぼくに自分の研究の内容を嬉しそうな顔で聞かせていた。ぼくが話の内容をまるっきり理解していなくてもお構い無しだったな、あの人は。
「なあ、お前はこの世界がもう駄目だって話を知っているか?」
煙草の煙に目を細めながら、とびっきりの悪戯を発見した時の悪ガキのような笑顔でソウ兄ちゃんは言った。
「どうやら、無理をさせ過ぎてしまったらしい。それなりに頑丈に作ったらしいんだが、それにしてもやり過ぎちまったんだと。もう少し早くそのことに気がつけば、やり直すこともできたらしいんだが。もう完全に手遅れなんだとさ」
その話が本当なら大変だ。世界が壊れてしまったら、ぼく達は一体どこに住めばいいんだろう? ソウ兄ちゃんだって、住む場所が無くなったらきっと困るはずだ。そのくせ、彼の口ぶりは他人事を話す時のようにあっけらかんとしたものだった。
「最初っから、壊れるように作られたって話もあるんだがな」
だとしたら『ヒト』ってやつ等は随分と意地悪な連中だったことになるな。
「まったく、これからだって時なのにさ。冗談じゃないよ」
一体、何がこれからなのか。それは多分、恋人のナナコさんとのことだろう。最近、彼は長い間交際を続けていた恋人にプロポーズをして受け入れられた。母いわく「出来ちゃった婚」だったらしい。頭はいいくせに、どこかおっちょこちょいなところがあるソウ兄ちゃんらしい話だった。
「まあ、しかし、これも一つのチャンスなのかもしれんなあ」
ぽりぽりと頭をかきながら、苦笑いを浮かべてソウ兄ちゃんは言った。
「ようやっと、これまでの研究の成果を試せる時が来たってわけだ」
ソウ兄ちゃんの研究――それは、いつの頃からかこの世界の空に口を開けた『大穴』と、そこからこぼれ落ちて来る『ゴミ』と呼ばれる物体、そして、この世界を作ったとされる『ヒト』と呼ばれる存在にまつわる研究だった。
「もっとも、こんなセリフ、ナナコの前ではとても口には出来ないけどな。こんなことを迂闊に口にしたら、おれはあいつにぶん殴られちまうよ。おお、コワ。」
まったく、ソウ兄ちゃんときたら結婚生活に入る前からすでに恐妻家の風情だ。
「こんなオンボロの世界を作った連中と同じ手段をとるしかないってのもしゃくな話ではあるが。まあ、仕方無いだろ。いつまでもグチっていたところで、どうにかなるものでもないしな」
煙草を携帯用の灰皿に押しつけながら彼は言う。口調こそ穏やかなものだったけど、その顔が一瞬だけひどく寂しげなものに見えた。それは、ぼくの気のせいだったのだろうか。
2.
空に開いた『大穴』からの落しもの、それは通称『ゴミ』と呼ばれていた。ソウ兄ちゃんは、『ゴミ』の回収と分析を仕事の一つにしていた。その方面では相当に名の知れた人物だったらしい。
『大穴』と『ゴミ』。それが、一体いつ頃からこの世界に現れたのか、それを知る『ヒトモドキ』はどこにも存在しない。気がついた時には、もう『大穴』も『ゴミ』も当たり前のものになっていた。誰もがその存在に疑問を抱かないほど、がっちりと日常の風景に組み込まれていたのだ。どうして、そんなふうになったのか。『大穴』が発生した瞬間『ヒトモドキ』達の認識が歪められたのだ等、様々な説があるにはある。しかし、そのどれもが決め手に欠けるらしい。原因は目下調査中。ちなみにこれは、ソウ兄ちゃんの弁だ。
しかし、おかしな話じゃないか。どうして、そんな当たり前のものを、わざわざ調べるつもりになったのだろう?
「多分、そのへんのことも『ゴミ』を調べていくうちに分かって来るんじゃないかな。何しろ、こいつ等には不完全な形とは言え、世界の秘密が隠されているんだからな」
ソウ兄ちゃんは研究室へ遊びに来たぼくに、よく回収した『ゴミ』を見せてくれた。
「どうだ? 綺麗なものだろ」
両の掌をわずかに開いて、包み込んでいたゴルフボールサイズの『ゴミ』をぼくに見せる。
掌の闇の中で、それは青く暖かな光を放っていた。
「うん、綺麗だね」
「そうだろそうだろ。こいつらは『ゴミ』だなんて不名誉な名前で呼ばれているが、みがいてやればちゃんと光る、ダイヤの原石みたいなものなんだ」
「みがくって、ヤスリでもかけてあげるの?」
子供だったぼくの馬鹿げた質問に、少しだけ困ったような表情を浮かべながら、ソウ兄ちゃんは答えてくれた。
「みがくってのはものの喩えだよ。正しくは情報の修復だな」
「修復? ……壊れてるのこれ?」
「そうだ。『ゴミ』ってのはな、壊れてしまった情報の、そのまた壊れた断片なんだ」
「壊れた、断片?」
「そう。パズルのピースみたいなものだな。ピースの模様が汚れやシミで見えなかったら、パズルを完成させることが出来ないだろ? おれ達の仕事はな、そのピースの汚れを拭いてやって、本来あるべき正しい位置に収めてやることなんだ」
当時のぼくは、ソウ兄ちゃん達が、そしてぼく達『ヒトモドキ』全体が、置かれたのっぴきならない状況を、まるっきり理解していなかった。だからこそ、子供らしい残酷さでこんな質問が出来たのだ。
「それで、ソウ兄ちゃん達が作っているパズルは一体どんな絵になるの?」
ぼくのその問いかけに、ソウ兄ちゃんは一瞬息を詰まらせたかと思うと、笑っているような泣いているような不思議な表情を浮かべながら言った。
「それがなあ、情けないことにおれ達にも分からないんだよ。自分達が一体どんなパズルを組み立てようとしているのか、それがさっぱり分からないんだ。これは、お手本のないパズルみたいなものなんだ」
3.
昔、『ヒト』と呼ばれた存在がこの場所を作ったらしい。そのことは分かっている。
ある日のことだ、『ヒト』は自分達がそれまで住んでいた世界から去れねばならない事態に直面した。それが一体どのような事態だったのかは謎とされている。『ヒト』に関する情報は、繰り返されるコピーの中で原型をとどめないまでに壊されつくしてしまったから。ぼく達の手元に残されたものと言えば、『ゴミ』から復元された断片的な情報ぐらい。それだって、どこまで信用できるか怪しいものだ。
『ヒト』達が作りあげた、作りものの世界。その存在理由は、どうやら『ヒト』の記憶の保存にあったらしい。
細かい原因は不明だが、いろいろあって住み慣れた世界を捨てざるを得なくなった『ヒト』達は、新たなる住処を求めて遠い世界へと旅立つことになった。
古い世界を捨て新天地を目指す旅。それはひどく厳しい旅になると予測された。生来『ヒト』が持ち合わせている脆弱なカラダでは、耐え抜くことが出来ない程の厳しいものになるだろうと。
だから、彼等は自分達を『ヒト』以外の何かに作り換えることにした。新しい世界を目指す旅には新しいカラダが相応しいとばかりに。
それは、投じられた環境に応じて自身を自在に組み換えられる、柔軟性に優れたカラダが良いとされた。
その開発は様々な紆余曲折を得て、いよいよ実用化一歩手前まで来た。しかし、『ヒト』はそこで予想だにしない問題と直面することになる。
「まったく、間抜けた話だよ。普通、誰かが気がつきそうなものなのにさ。あいつらが開発したカラダはそりゃあ確かに高性能だったぜ? でもな、この場合それがかえって仇になっちまったんだな」
心底呆れたような表情で、ソウ兄ちゃんは言った。
『ヒト』の脳ミソの限られた計算力では、新しいカラダを制御することが出来なかったらしい。そして、あまりにも高性能なそのカラダを『ヒト』の脳ミソはもはや『ヒト』のものとして判断することが出来なくなった。結果、脳のボディ・イメージは暴走、そのまま新しいカラダは環境に応じた自己拡張機能、分子サイズの自動工作機械群――ナノ・マシンによるセルフ・カスタマイズを無限にくり返し、研究施設ごと世界の全てをのみ込もうとした。
事故そのものは、ミサイルで暴走体を研究施設ごと跡形も無く消し飛ばすと言う、恐ろしく荒っぽい方法で何とか解決したのだが、この暴走事故をもって『ヒト』達の新世界への旅は、出向前から暗礁に乗り上げることになる。
「そこでおれ達の出番となるわけだ」
にやりと笑いながらソウ兄ちゃんは言った。
『ヒト』は新しいカラダによる新世界探しの旅を諦めなかった。そして、その執念は新たな実を結ぶことになる。『ヒト』はカラダだけでなく、自分達の脳ミソまで改造する方法を開発したのだ。新しいカラダに合わせて作られた新しい脳ミソ。頭がカラダについて来られないのなら、いっそのこと頭を丸ごとすげ替えてしまおうとは。『ヒト』と言うのは、とんでもないことを思いつく連中だったようだ。
「正気の沙汰じゃないな。おれにはとても信じられないよ。肉体だけじゃなく、精神まで作り換えちまうなんてさ」
そう言うソウ兄ちゃんの声は少し震えていた。
「でも、あいつ等はきっと根っ子の部分では怖がっていたはずだ。自分が自分以外の何かに変わっちまうってことをさ。それが、どれだけ必要なことでも、やっぱりいざって時には結局びびっちまったんじゃないかなあ」
まるで、見て来たような口ぶりだな。
「だからこそ、『ヒト』はこの場所を作った。かつての自分達を忘れないために。そして、そのために自分達の精神活動のゴーストであるおれ達を生み出したわけだ」
脳ミソを『ヒト』以外の何かに作り換えること。すなわち、それは『ヒト』の精神活動の終了を意味する。
『ヒト』はそれを種族の死に近しいものとして捉えた。そして、ソウ兄ちゃんの言うとおり、そのことに恐怖したのだ。
新しいカラダに新しいノウを積み、どこか遠い世界へと旅立って行った『ヒト』達。彼等は、新しいノウと引き換えることになった古いノウを、何とかして保存できないかと考えた。誰だって死ぬのは怖いからね。まあ、この場合は実際に死ぬわけじゃないんだろうけど、それでもやっぱり怖いものは怖い。何より、新しい世界へ降り立った時、自分達が一体何をしにそこへやって来たのか忘れているだなんて、情けないことこの上ないじゃないか。
そんなわけで、『ヒト』はこの世界――『箱庭』と名づけられたプログラム上の仮想世界――とそこで暮らす偽ものの『ヒト』、『ヒトモドキ』を作ったのだ。
新しいカラダの自己拡張機能を応用して作られた、無限に進化する巨大なマシン・ブレイン。柔らかい機械の頭脳。それが『箱庭』の本体だ。『ヒト』は、そこへ古いノウから自分達のあらゆる記憶と情報をデータ化して移した。そして、そのデータをもとに偽もののヒトが暮らす偽もののセカイを築き上げた。
「情報の鮮度を保つために、こんなまどろっこしい方法を選んだのだろう。圧縮から展開のプロセスで、情報を劣化させたくなかったんだな。まあ、肉や魚と同じようなものだ。どうせだったら、活きのいい状態で新世界まで運ぼうと考えたんだろうな」
彼等はきっと喜んだのだろう。これで、新天地にたどりついた時ぼく達『ヒトモドキ』から『ヒト』としての記憶を取り出すことができると。そこから、もう一度、正しいカタチで自分達の世界をやりなおせると。
「やつらは、完璧な再現を望んだのだろう。ご丁寧なことに「世界の崩壊とそれに伴う船出」まで組込んでくれやがったよ。しかしな、それが連中の間違いだった」
肩をすくめながら、ソウ兄ちゃんは言った。
「馬鹿な奴等だよ。記録させる情報の取捨選択もろくに出来なかったわけだからな。もう少し冷静に物事を判断できれば、自分達のしでかしたことがどんな結果を招くか想像出来ただろうに」
多分、それだけ向こうも切羽詰まっていたんだろう。何しろ、自分のカラダと精神を改造してまで生き残ろうと考えるようになっていたのだから。どう考えても、正常な判断がつくような状況じゃなかったはずだ。
「でも、まあ、気持ちは分かるかなあ。おれがヒトと同じ立場だったらきっと似たようなマネをするだろうなあ。おれがおれじゃない誰かに変わっちまうなんて、想像しただけでもブルっちまうよ」
ソウ兄ちゃんが、新しいカラダとノウで空の『大穴』に向かうことになったのは、この一週間ほど後の話だった。
4.
茶の間から母の呼ぶ声がする。声に呼ばれるまま、二階の自室から茶の間のある一階へ下りて行く。茶の間では、コタツに入った母が煎餅をかじりながらテレビ鑑賞に勤しんでいた。
「見てごらんなさいよ、ソウスケちゃんがテレビに出てるから」
コタツに入り、母の言うとおりテレビに視線を向ける。
「ソウスケちゃんの新しいカラダ、凄いわねえ」
母がソウ兄ちゃんと呼ぶモノ。それは、映画や小説の挿絵に登場する、地球侵略にやって来た悪い火星人のように見えた。ただし、カラーリングは赤じゃなくて、少しだけ濁りのあるスケルトン仕様。だから、景色に溶け込むことなくその姿を視認することができる。大きな頭に沢山の触手のような手足。それを足代わりにして立っていた。何だかそれは、間違って陸に上がって来てしまったお化けクラゲのようにも見えた。そして、そのお化けクラゲが、何十体も整然と並びテレビ画面に映っていた。
母さん、ぼくにはどれがソウ兄ちゃんなのかさっぱり分からないよ。
「金村宗助博士です」
ニュース番組のレポーターが、一体の火星人ともお化けクラゲともつかないモノの前に立ち、そう紹介をする。
「こんにちは、金村宗助です」
見た目はともかく、声は確かにソウ兄ちゃんのものだった。緊張のあまりか声がだいぶ上ずっているけど。と言うか、あのイキモノに発声器官があるとはとても思えないのだが。
「博士は『大穴』と『ゴミ』、それに『ヒト』研究の第一人者であられますが、今回はどのような経緯で自ら穴調査隊の陣頭指揮を取られることになったのでしょう? そこのところをおひとつお聞かせ願えればと思うのですが」
「えー、それはですねえ……」
しどろもどろになりながら、説明を始めるソウ兄ちゃん。その姿はぼくの知っている彼とは文字通り別人のようで、正直みていられない気分になった。何だか、格好悪い。
「すでに金村博士と調査隊のメンバーには、新しいノウが移植されています。インタビューの音声は録音したものを使用しました」
レポーターのその言葉が聞こえたのと、ぼくがテレビのスイッチを切ったのはほぼ同時だったと思う。
ばちん。
テレビのスイッチが、切れる音。
それは、ぼくとソウ兄ちゃんの繋がっていたはずの世界が切れる音。
「ちょっとお、人が観てるのに何するのよお」
母が非難の声をあげた。
「偽もののくせに、何が『ヒト』だ。片腹痛いわヒトモドキ」
ぼくは、まるで地球侵略にきた悪玉火星人の親分のような口調でそうつぶやきながら、茶の間から出ていった。
5.
今でも時々、夢に見る風景がある。
新しいカラダに乗り換えた数え切れないほど沢山の『ヒト』達。それが、群れを成し宇宙空間を渡って行く風景。
その柔らかい機械で作られたカラダは、どことなくクラゲの姿を彷彿とさせた。
大きな傘を帆の代わりにして、太陽の光を受け、それを推力に真空の闇を進んでいく宇宙クラゲの群れ。
そして、その群れの中央にはとりわけ巨大な宇宙クラゲがいるのだ。
あれが『箱庭』なのだろうか? 不意にそんな考えが頭をよぎった。
長い長い『ヒト』達の歴史。その中で蓄えられた様々情報を詰め込んだ貴重な『箱』だ、あれぐらいの貫禄あってもいいじゃないか。
もし、あのお化けクラゲが『箱庭』だと言うなら、ぼく達『ヒトモドキ』は宇宙クラゲに乗って旅をする星の旅人――。
6.
ナナコさんとその赤ちゃんの葬儀にはぼくと父親で出席した。母もお線香をあげたかったようだが、どうしてもパートが抜けられなかったらしい。「お香典ちょろまかすんじゃないわよお」とだけ言い残し、ドタバタと仕事に出かけて行った。
葬儀には沢山の人が出席していた。ナナコさんの友人知人以外にも、ソウ兄ちゃんの仕事仲間もかなりの数いたらしい。父がそう教えてくれた。
みんな黒の喪服姿で、お化けクラゲはどこにもいやしなかった。
不幸な事故だったらしい。これも父から聞いた話だ。ドライバーの方に非は無かったらしい。見通しの良い道路で真っ昼間に起きた事故だから、目撃者は大勢いた。だから、きっとその話は本当のことなんだろう。
赤信号だと言うのに飛び出してきたのはナナコさんの方だったらしい。ドライバーはとっさにブレーキを踏んだ。けれども、間に合わなかった。手遅れだったのだ。
ナナコさんの身重のカラダはその形状どおり、まるでボールのように勢いよく弾み、綺麗な放物線を描きながら上昇して行ったらしい。どこまでも高くはずんでで飛んだ。ソウ兄ちゃんが旅立った、空の『大穴』へ届きそうなぐらい高く高く。けれども、この仮想世界である『箱庭』内にも再現された、絶対の物理法則である重力の力にナナコさんは逆らうことが出来なかった。最後には、地べたに落ちてはじけて消えた。
多分――いや、きっと彼女は追いかけようとしたのだ。
大好きなソウ兄ちゃんのことを。
まだ生まれていない、名無しの子供と一緒に。
ひょっとすると、ナナコさんの中ではもう名前が決まっていたのかもしれない。そして、その名前をソウ兄ちゃんに伝えるため飛んだのだ。今ごろきっと、穴の向こう側で家族仲良く暮らしているのだ。
ソウ兄ちゃんとのつながりを切ってしまったぼくに、そこへいく資格はない。追いかける方法もない。
それが、少しだけ寂しい。
もう、後悔しても遅いのだ。
ナナコさんの葬儀でそんなことを考えながら、ぼくは少しだけ泣いた。
7.
ソウ兄ちゃんが『あちら側』へ旅立つほんの数日前の話。二人で研究所の近くを流れる川の方まで散歩に行ったことがある。良く晴れた春の昼下りで、お陽様がぽかぽかと暖かかった。
「誇らしい仕事だとは思ってるんだ。何しろ、おれはこの世界の救世主になれるわけだからな」
柄でも無いセリフを照れたような表情で言いながら、煙草を銜えて火をつける。
「穴の向こうは、どうやらこちらよりもデータの劣化が少ないようだ。そこでなら、『箱庭』の崩壊を食い止めるヒントぐらいは見つかるかもしれない」
ソウ兄ちゃん達がしようとしていたこと。それは、この壊れかけた『箱庭』の修理だった。
もともと、『ヒトモドキ』は自分達が偽ものの『ヒト』であることを知らなかったらしい。ソウ兄ちゃんは擬似自我の保護がどうだとか難しいことを言っていたが、詳しい話は覚えていない。まあ、とにかくそこにはいろいろと複雑な理由があって、この世界が仮想的なものであり、ぼく達が実は電脳の内部を走るただの電気信号にすぎないことは巧妙に隠され続けていた。
しかし、その巧妙に隠されていた真実が白日の下にさらされる日が、ある時、突然やって来た。
今なお『大穴』から落下し続けて来る『ゴミ』。その『ゴミ』を解析していくうちに、ぼく達『ヒトモドキ』は自分達の正体と存在理由を知ることになった。けれども、驚いたことに、そのことを知ったせいでぼく達の生活が変わると言うことは無かった。そう、『大穴』と『ゴミ』がこの世界に現れた時と同じ現象が起きたのだ。『ヒトモドキ』は自分達が偽ものの『ヒト』であると言う事実を、あっさりと受け入れてしまったのだ。
それよりも、『ヒトモドキ』は『ゴミ』の解析で分かったもう一つの事実を問題視した。
自分達が住む作りものの世界、『箱庭』が崩壊の危機を迎えていると言うことを。
うっかりものの『ヒト』達は、自分達が滅びかける原因になった大災害のデータまで、『箱庭』の中に運び込んでしまった。
おかげで、『箱庭』の中の『ヒトモドキ』まで、『ヒト』が滅びかける原因となった大災害を体験することになってしまう。
そんなわけで、『ヒトモドキ』は、『ヒト』がそうしたようにもう一組の『箱庭』と『ヒトモドキ』を作ることにした。
そして、困ったことに『ヒトモドキ』は『ヒト』がそうしたように二つ目の『箱庭』にも大災害のデータを運び込んでしまったのだ。
あとはもう、同じことの繰り返し。
『ヒトモドキ』によって作られた『『ヒトモドキ』モドキ』も3つ目の『箱庭』に大災害のデータを運び込んだ。
そして、『『ヒトモドキ』モドキ』によって作られた『『『ヒトモドキ』モドキ』モドキ』も、かつての『ヒトモドキ』と同じように4つ目の『箱庭』にやはり大災害のデータを運び込んでしまったのだ。
最後には『箱庭』の中に数え消れないほどの『箱庭』が生まれた。そして、そこには数え切れないほどの『ヒトモドキ』が住むようになった。ぼく達の住むこの世界は、その数え切れない程繰り返されたコピーの果てに生まれた最も新しい『箱庭』だ。最初の『箱庭』から、無限とも言える程の距離を隔てた『箱庭』の終わり。マトリョーシカ人形の最後の一つ――。
そして、『箱庭』の本体は、内部から送られて来る予想外の負荷にとうとう耐えることが出来なくなり、今まさに壊れる直前なのであった。
「まあ、例え向こう側に何も無くても、そこからどんどん世界を遡って行けば、多分どこかで『箱庭』の修繕プログラムか何かが見つかるはずだ」
「……何かさ、随分とアバウトな計画のような気もするんだけど?」
ぼくの当然な突っ込みに、ソウ兄ちゃんは苦笑いを浮かべながら答えた。
「はは。仕方が無いんだよ。他に方法も無いワケだし。『ゴミ』から得られるデータには限度があるんだ。復元したデータ同士を関連づけて、何とか完璧なものに復元できればとも思ったんだがな。まあ、お手本の無い状態でパズルを完成させようだなんて、都合の良すぎる話だったってことなんだろう」
世界の天井に開いた『大穴』。それは、どうやら壊れかけの『箱庭』に発生したプログラムの綻びらしい。そして、そこからこぼれ落ちて来る『ゴミ』とは、無限にコピーされていく『箱庭』と『ヒトモドキ』、及びその中に含まれた『ヒト』のデータの断片だった。
高い所から低い所へと水が流れるように、呆れる程の複写の果てに生まれたこのどん詰まりの世界へと、沢山のデータ片が流れ着いて来るのだ。
ソウ兄ちゃん達は、流れ着いて来た断片同士をつなぎ合わせて、『箱庭』全体の正しい見取り図を完成させようとした。そして、その正しい見取り図から、壊れかけた『箱庭』を救うための手立てを見つけ出そうとしたのだ。
バラバラに壊れてしまった『ヒト』と『セカイ』の記憶達。そんなものが落ちて来るだなんて、『箱庭』は一体どこまで駄目になってしまったんだろう。
「それでも、何とかしてみせるさ。例え作りものの世界だとしても、ここはカミさんと生まれてくる子供の住む世界だ。しっかり、守ってやらなきゃいけないだろう」
ソウ兄ちゃんはポンと、ぼくの頭に手の載せ、にいっと笑いながら一言つけ加えた。
「ま、この世界にはお前もいるわけだしな」
8.
ソウ兄ちゃんが旅立ってから、幾つかの年がすぎた。
ぼくは、あの頃よりも幾らか大人になっていた。
ごく普通に進学し、ごく普通に就職し、ごく普通の生活を送っている。驚いたことに、未だこの世界は壊れかけのままで何とか踏み止まっているのだ。
そんなごく普通の日々の中で、時々、こうやってソウ兄ちゃんのことを思い出す。
ソウ兄ちゃんは今頃元気でやっているだろうか。ここではない遠いどこかで、『箱庭』を修復するための方法を探し求めているのだろうか。
ナナコさんも、二人の間に生まれた子供も、もう居なくなってしまったけど、それでも彼は頑張っているのだろうか。
ソウ兄ちゃん、ぼくは、ぼちぼち元気に頑張っているよ。
会社からの帰り道。月明かりが眩しかったので何となく空を見上げてみた。
そこには嘘のように大きな満月と、ぎらぎらと光る沢山の星。そして、一筋の流星。
あれは、空の穴から零れ落ちて来た、この世界の小さな欠片――。
その軌跡を逆に追って行く。するとそこには、相変わらず大きな穴がぽっかりと口を開けているのだ。
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