『Phantasmagoria-Melancholia』

『Phantasmagoria-Melancholia』

著/遥 彼方

原稿用紙換算35枚


 遠くで、パトカーのサイレンの音。いくつも重なって、聞こえている。
 暗闇の中で、エリオットはゆっくりと目を開いた。ソファの中に膝を抱えて、身体を埋めて――自分がどれくらいの間こうして眠っていたのか、よくわからなかった。
 空気はしんと冷えている。
 気だるい重さを胸のあたりに感じながら、のそりと起き上がると、薄いタオルケットが肩からずり落ちた。
 デジタル時計の青い数字が6:30、藍色の闇に浮いている。ちら、ちら、ちら、点滅するコロン。
 エリオットは背後の壁に手を遣り、電灯のスイッチを入れる。
 たちまち闇は消え、雑然とした居間の景色が現れた。フローリングの床には、いくつかの、積みあげられた書籍の山。そのひとつに安物のデジタル時計がぽつりと置かれている。ソファの前のコーヒーテーブルには、食べかけのポテト・スナックが口を開けたまま。
 部屋の隅にはミルクの瓶が砕けて散らかっている。
 鋭利なガラスの欠片を見遣り、エリオットは深いため息をついた。心に苦いものが広がり、夕方に起きた嵐のような出来事が思い出される。
 いや――。
 そのやりとり自体は、至極落ち着いたものだったのだ。
「出て行くことにしたわ」
 ソファに腰掛けたエリオットを無表情に見下ろし、ソーニャはたったひとことそう言った。 
 エリオットはスナックをつまみ上げた指を袋に戻し、ゆっくりと首を回して、彼女を見た。
 ソーニャの形の良い脚は、真紅のミニ・スカートのせいでまたいっそう長く見えた。胸元の開いた黒いニットも、憎らしくなるほどよく似合っている。彼女はその上にジャケットを羽織り、左手に半分ほど空いたミルクの瓶をぶら下げて、右手には、トランク。
「……そう」
 エリオットはまたのろのろと、ソーニャから視線を外した。それ以上、何を言えばよいのかわからない。
 ソーニャも黙ってミルクを飲んだ。やがて空になった瓶を、こつりと音を立ててテーブルの上に、エリオットの視界に入る位置に置いた。
「きっとその方が、あたしたちのためになると思うわ」
「……そうだね」
 エリオットはぽつりと呟いた。
「僕もそう思うよ」
 しばらくの沈黙。
 やがて、彼女はひとこと、暖かくも冷たくもないごく事務的な声で言った。
「さようなら。今までありがとう」
 そしてハイヒールのかかとをこつこつと鳴らし、モデルのように美しい足取りでエリオットの目の前を通り過ぎて、部屋から出て行った。
 二人はいつでも落ち着いていた。
 大きな声を張り上げたことも、相手を汚く罵ったことも、拳を振り上げて殴りつけたことも、一度もなかった。トラブルが深ければ深いほど、二人は冷静だった。苦しくなるほどにロジカルだった。先に爆発すれば、そちらが負けだった。
 ソーニャがいなくなるとエリオットは立ち上がり、ミルクの瓶を手に取って、フローリングの床に思い切り投げつけた。瓶はがちゃりと音を立てて、粉々に、砕けた。
 ――また、サイレンが聞こえる。
 どこかで事故でもあったのだろうか。
 エリオットはソファからのそりと降りると、腰に手を当て、身体を思い切り反らした。それから玄関へ行き、刷毛と小さなちりとりを取って来て、瓶の欠片を片付けにかかる。
 きらきら光るガラスをプラスティックのちりとりに集め、ごみ箱へ運ぶその間じゅう、ずっとソーニャのことを考えた。
 きれいで、知的で、お高くとまった娘だった。どうして一発でも、殴ってやらなかったんだろう。いや、怪我をさせたりしなくて本当に良かった。ああいう娘と自分の時間を共に過ごすことが出来たのは、とてもいいことだ。だけどまったく身勝手でふざけた女だ。いや、そんなことはない。彼女の言うとおり、別れるのが一番良かったんだ。だって、もう、愛、して、いない、し――。
 ――気が付くと、瓶の欠片はもう跡形もなかった。
 エリオットはのろのろと首を振り、空のちりとりを放り出すと、また深いため息をつく。そしてゆっくりと部屋の中を見回す。あちこちに本の積みあがった床が、ひどく癇に障る。
 彼はあぐらをかいて座り、手近な山から雑誌を一冊手に取った。
 名前のわからない、きらびやかな格好の女優が、長いブロンドをなびかせて完璧な笑顔をこちらに向けている。
 ――ソーニャのだ。
 エリオットはそれを床に放り出す。そしてもう一冊取る。表紙にはアコースティック・ギターを抱えたフォークシンガー。
 ぱらぱらと中をめくり、すぐにそれも放り出す。雑誌は二冊重なって、床の上を滑る。
 三冊目を取ったとき、ひらりと小さな紙が落ちた。
 葉書。 
 拾い上げる。
 何ヶ月か前に母親から届いたものだった。表側には丁寧な形のよい字で、メッセージがぎっしりと綴られている。元気ですか。こちらは三月なのにまだ雪がちらつきますよ。そちらは寒くないですか。ソーニャとはうまくやっていますか。
 裏返してみると、海の写真だった。深く冷ややかな蒼をたたえた、冬の海。
 手前に写った灯台が、象牙の彫刻のように白い。雲ひとつないよく晴れた空は、水平線で海と溶けあっている。
 風が強かった。
 エリオットはジャケットのポケットに両手を入れ、灯台の冷たい壁に背を預け、きらきらと絶え間なく光る波を見つめていた。
 ざああ……。
 ざあああ……。
 潮騒がゆっくりと響いている。
 強い潮の匂いに混じって、かすかに煙草の苦い香りが漂ってくる。
「上がってみる?」
 と、声がした。
 エリオットは振り返る。
 カーキ色のジャンバーを羽織った、背の高い男が立っていた。風にあおられた長い黒髪で目元が隠れているけれど、薄い唇は笑みの形にねじれている。
「――何に上がるって?」
 エリオットは小さな声で訊いた。
「これ」
 男は煙草を挟んだ指で、灯台の上をひらひらと示す。エリオットはそちらを見上げ、それから黙って首を横に振った。
「――昔はね、これでも、見学者とかけっこう来てたんだけど」
 男は煙草を口許に遣り、水平線の先を見た。
「灯台守ってやつなんだ?」
 エリオットが言うと、男は、いや、と首を振る。
「ただの受付係。こいつはもう、稼動していない」
 遠くからならあれほど白く見えた灯台の壁も、近くで見れば雨風にさらされて、灰色に汚れている。
「どれくらい古いんだい?」
 エリオットはなんとなく訊いてみる。
「さあ、知らない」
「受付係なのに?」
「受付係だからさ、ただの」
 絶えず顔にまといつく髪を、男は払いのけようともしない。
「ふうん」
 エリオットは水平線に視線を戻す。
「……綺麗な、海だね」
「そう。綺麗な海、綺麗な空気、綺麗な天気」
 男は良く通る無機質な声で、唱えるようにそんなことを言った。
 エリオットはもう一度灯台を振り返る。それほどには高くない。ずんぐりとした印象だ。
「小さいよな」
「小さいよ」
 独り言のつもりだったのに、男は律儀に答えた。
 エリオットは歩き出す。
 灯台の前の短い階段を降りると、ひび割れて汚れたコンクリートのベンチが円形に並ぶ、誰も居ない広場に出る。あの男はこのあたりに何の手入れもしていないらしく、地面にモザイク模様を描いて敷かれた石の間から、雑草が伸び放題になっている。鮮やかな緑。そして広場を取り囲むように、ブーゲンビリアがばかみたいに大量に咲いている。
 軽く背中を丸め、エリオットは広場を横切る。
 前方には背の低い錆びた手すり――その少し先で、陸は垂直に途切れていた。
 彼は手すりをまたぐと、崖のふちに立った。
 生臭い風がびょうと吹き上げてくる。はるか下方で波がゆったりと、それでも力強く打ち寄せ、砕け、ざわざわと白く泡立つ。
 知らず、身体が強張った。
 ざらざらとした手すりを、両手がきつく握り締める。
 それを、引き剥がすようにして。指を一本ずつ。ごくゆっくりと、離す。
「あとは、一歩踏み出すだけだな」
 背後で男の声がした。エリオットは振り返ることが出来ない。
「よせよ」
 男はごく淡々とした口調で続ける。
「家族とか、恋人とか――悲しむ人が、いるんだろう」
 それを聞いたエリオットの口許には、自然と硬い笑みが浮かんだ。
「母親がいたけれど、去年死んだよ。恋人は――居ない。別れた。出て行ったよ」
「ああ……」
 男は腑に落ちたような声を上げた。
「そうかあ……まあ、そうだな、そうだよなあ」
 こつり、こつり、足音が。男がこちらへ近づいてくる。
「じゃあ、背中を押してやるよ」
 その言葉に、エリオットは乾いた笑みを漏らした。
「わかんないなあ。止めたいんじゃないのか」
「――関わりたいだけさ」
 男が言う。
「人の生き死にってやつに?」
 とエリオット。
「そう。かもしれない。わからない。ただ、関わりたい」
 風が、一段と強くなる。ジャケットの裾がぱたぱたとはためく。エリオットはもう上手く目を開けていられない。それでも、彼の両足は強く地面を踏みしめて動かない。
「じゃあ、押してくれよ!」
 そう言ったエリオットの声は、意外なほどに高らかに響いた。
 こつり。
 足音がすぐ背後まで来て、止まる。
 広い手がエリオットの背に触れ、ぐいと強く力をかけた。心臓が跳ね上がる。足許がぐらりと揺らいで、身体が傾き、そして、落下する。
 吸い込まれるように真っ直ぐに、波の中へ向けて。
 耳元で風がひゅうひゅうと鳴る。目が、痛い、涙が止まらない。
 ガラスをちりばめたように光る水面が、近づいてくる、恐ろしい速さで――。
 そして、最期にとぼん、と、落ちた。
 エリオットの身体は冷え切った水を泡立てながら一度深く沈み、やがてまたふわりと浮き上がった。手足をでたらめにばたつかせながら、エリオットは身体がずいぶんと軽くなっていることに気が付いた。
 苦しい。
 水面を見上げる。
 きらきらと、明るい。
 そこへ、影が。
 誰かのほっそりとした、やわらかな手が伸びてきて、エリオットの両脇に差し込まれた。そのまま、彼は水の中からぐいと引き上げられる。
 途端、プールサイドの喧騒がどやどやと耳に流れ込んできた。
 わきあがる歓声、きゃらきゃらと弾ける笑い声。ばちゃばちゃと水の音、小さな子の叫ぶような泣き声、悪態、それらが一緒くたになった音の塊。
「そろそろ帰りましょうか、エリオット」
 赤い髪を高く結った母親が、やわらかな笑顔でそう言った。
 彼女は幼いエリオットをプールサイドにちょこんと立たせると、軽く弾みをつけて水から上がった。濃紺のビキニの水着を着た、彼女の身体は苗木のように細かった。
 夕暮れ時で、辺りの景色は薄っすらと金色に染まっていた。それでも、プールはまだ充分に賑わっている。
「さあ、おいで」
 母親はつぶして畳んだ浮き輪を右手に持って、左手でエリオットの小さな手を、包み込むようにやさしく握った。冷たい、やわらかな手だった。
 人ごみを縫うようにして、二人は歩いた。
 エリオットの裸足に、プールサイドのごつごつとした床が少しだけ痛かった。
「ねえ、おかあさん、おかあさん」
 エリオットは母の背中を、精一杯首を伸ばして見上げる。
「気持ちよかった?」
 母親が尋ねる。
「……わかんない……」
「あら、そう?」
 本当のところ、エリオットは水に入るのが好きではなかった。手も足も思うように動かないし、それにいつも何か広いものに呑まれるような感じがして、少し恐ろしい。
 水から上がったあとの、身体が重いのもいやだ。
 エリオットはぼやぼやと首を振った。
「――ねえ、おかあさん、ねむたいよ」
「じゃあ、おうちに帰ったらお昼寝しましょうか、ね」
 売店の前まで来たところで、母親は不意に立ち止まった。
「あら……?」
 息子を振り返る。
「帽子――」
 エリオットはそこで初めて、今日の朝、母がつばの広い麦わらの帽子を被っていたことを思い出した。
「ないよ」
「どこかに置いてきたのかしら?」
 母は腰に手を当て、ふう……とひとつため息をついた。そして膝を折り、息子の顔を覗き込むと、困ったような微笑を浮かべた。
「ちょっと戻って探してくるわね。そこで待っててちょうだい」
 そしてエリオットの身体を、さっきと同じようにやさしく抱き上げると、売店の前の赤いベンチに座らせた。
「すぐに戻ってくるからね」
 母はいつも、エリオットの目をじっと見て話をする。彼女の目は美しい、澄んだ灰色をしている。
 エリオットは声を出さずにこくりと頷いた。
「じゃあ、ね」
 一度ひらりと手を振って、母は人ごみの中へ駆け出していく。小さな背中が知らない背中に埋もれ、すっかり見えなくなってしまうと、エリオットの胸の中に薄っすらと不安が広がった。
 ――置き去りにされた、ような気がした。
 夕暮れに照らされて金色がかったコンクリートの地面に、長い影がくっきりと落ちている。エリオットが小さな脚をふらふらと揺らすと、影も同じようにふらふらと動く。
 エリオットはぐいと腕を伸ばし、指で複雑な形を作って、影絵遊びを試みた。けれども彼の腕は短すぎて、どんなに一生懸命伸ばしてみても、指先の形は自分自身の影の中に隠れてしまうのだった。
 太陽は少しずつ傾いていった。
 地面の上の影は徐々に長さを増して、しまいには薄くなり始めた。
 辺りの景色は金色から深い青へと変わっていく。プールサイドの明かりが、ぽつぽつと白く灯り始める。
 母は戻ってこなかった。
 濡れた身体が冷えてきて、エリオットは知らないうちにがたがたと震え出していた。
 客たちはもう、次々とプールから引き上げ始めていた。満足げな顔をした大人や子供が、つぶれたビニルの浮き輪やビーチボールを手に抱え、続々と彼の前を通り過ぎていく。エリオットはベンチの縁をぎゅっと握り締めて、その中にじっと母の姿を探す。睨みつけるような目で。
 ブロンドの髪をふたつに分けてくくった幼い女の子が、父親の太い腕にぶら下がっている。少女たちが長い髪を揺らし、はじけるような笑い声を上げて歩いていく。ずんぐりとした老夫婦が穏やかな微笑を浮かべている。
 母親は居ない。
 見つからない。
 やがて、黒髪を肩まで伸ばした男がひとり、人々の集団から少し離れ、ひどくゆっくりとした足取りで歩いてきた。
 エリオットの前で、男はつと立ち止まる。前髪が呆れるほどに長く、目元を覆い隠している。
「どうしたんだい」
 抑揚の無い声。
「――母さんを待っているんだ」
 エリオットは細い声で答えた。男はプールサイドをちらりと振り返り、
「もう誰も居ないぜ?」
 彼は最後の客だった。
「……」
 エリオットは何と言えば良いかわからないまま、足許に視線を落とした。
「……だっ、てっ……でもっ、……」
 そしてとうとう、肩を震わせ泣き出してしまう。
「待ってろっ、って、だってっ……」
 両手の甲で懸命に拭っても、涙は溢れて零れて、足の上にぼとぼと落ちる。
 男はエリオットを見下ろして、困ったように肩をすくめた。それからまた、ゆっくりとした足取りで歩き出す。
 エリオットがぐしゃぐしゃの顔で、去っていく後姿を呆然と見つめていると、彼は少し離れたところで立ち止まり、言った。
「来ないのか?」
 エリオットは目を見開き、転げるように駆け出す。
「来るのか」
 男はため息をつくように言った。
「いいさ、好きにすればいい、どちらにせよ俺たちは独りぼっちだ」
「どういうこと?」
 男の横に並び、エリオットは泣き濡れた目を上げて尋ねる。
「そのうちにわかるさ」
 男は言った。
 更衣室のドアを開けると、そこはひどく狭い通路だった。上品なココア色の壁に、ほの暗い照明がぼうっと並んで灯っている。黒い礼服に身を包んだ人々が整然と列を作り、低いざわめきが充満していた。
 エリオットは列の最後尾につくと、スーツの襟もとをそっと正した。慣れない正装はなんとなく肩が凝る。
 客たちは静かに熱狂していた……ぼろぼろぼろぼろぼろ、声を潜めてみんな、それぞれの連れと絶え間なく何かをささやきあっている。
 ――ああそれがたしかにどうしようかつていたそのすべのきのうあさわたしかすれきりゆめあと――。
 意味のない声の中で、連れの居ないエリオットは独り黙ったまま、列が流れるに任せて少しずつ前へ進んだ。
 通路の出口には木製のカウンターがあり、上品な身なりの美しい男が立っていた。
「チケットを」
 エリオットはスーツのポケットから葉書を出した。海の写真の刷られた絵葉書だった。受付係の男はそれを手に取りしばらく見つめると、やわらかな微笑みを浮かべて言った。
「結構です。どうぞ、お入りください」
 通路を抜けると、そこはこぢんまりとしたホールだった。前方に臙脂色の緞帳が下りた舞台、それを取り囲むように座席が並ぶ。さほど広くは無いものの、壁に並ぶ柱には花や草木を象った華麗な彫刻が施されている。床には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、革靴で歩いても音が立たない。天井には硝子の欠片がきらきら光る大振りなシャンデリアが下がり、落ち着いた橙色の明かりでホールを照らしている。
 エリオットは最前列、一番奥の座席に腰を下ろした。右隣ではでっぷりと太った女性が座席をふたつ占領し、白鳥の翼をそのままもぎ取ってきたような広い扇をひらひらひらと振りながら、低い声でしきりに何事かを呟いていた。耳を澄ませてみても、何を言っているのか少しも聞き取ることが出来ない。その目はどこか遠くを見ている。
 エリオットは眉をひそめ、女性をなるべく視界に入れないように、舞台のほうを眺めた。
 扇の起こす風が、化粧の臭いを含んで彼の所にまで吹いてくる。長く伸びた黒髪が揺れる。ずいぶん伸びた……前髪などはもう、目許を覆うほど。エリオットはそれに指を入れ、真中で分けて、耳に掛けた。
 びいいいいいいいいいい――。
 ブザーが鳴った。ホールの照明がすうっと暗くなり、緞帳がゆっくりと上がる。
 舞台上には、雑然とした居間の景色がつくられていた。フローリングの床にはいくつかの、積みあげられた書籍の山、そのひとつに安物のデジタル時計がぽつりと置かれている。若い男がひとりソファに腰掛け、ポテト・スナックを齧っている。
 そこへ、下手から女が。モデルのように颯爽とした、美しい足取りで歩いてきた。
 気の強そうな女だった。ブロンドの長い髪をして、真紅のミニ・スカートから伸びる脚はすらりと長く、胸元の開いた黒いニットもため息が出るほどよく似合っている。彼女はその上にジャケットを羽織り、左手に半分ほど空いたミルクの瓶を、右手にはトランクを提げていた。
「出て行くことにしたわ」
 ソファに腰掛けた男を、無表情に、しかしどこか嘲るような目つきで見下ろし、そう言った。 
 男はスナックをつまみ上げた指を袋に戻し、ゆっくりと首を回して、女を見る。
「……そう」
 呆然とした顔でひとこと呟き、それ以上、何を言えばいいのかわからないといったふうだった。
 女は黙ってミルクを飲んだ。空になった瓶を、こつりと音を立ててテーブルの上に置く。
「きっとその方が、あたしたちのためになると思うわ」
「……そうだね」
 男はぽつりと呟いた。
「僕もそう思うよ」
 しばらくの沈黙。
 やがて、彼女はひとこと、乾いた声でこう言った。
「さようなら。今までありがとう」
 その、言葉の、声色の、表情の。あまりの冷たさに、エリオットは吐き気に近い苛立ちを覚えた。
 男はまるでロボットのように無機的な動作で首を回し、怒りも悲しみも存在しない、まったくの無表情を観客に向けた。
「僕は……」
 そこで一度、くるりと両目を回す。
「僕は、今、迷っています。僕は、いま、どうするべきでしょうか。皆さんが決めてください。僕は、どうしたらいいですか」
「やっちまいな!」
 真っ先に叫んだのはエリオットの横に座る太った婦人だった。まるで少女のような、高い声をしていた。
「髪を掴んで引きずり倒して殴って蹴って殴って頬の骨を折っちまえばいいんだ!」
 エリオットは慌てた。頭がかっと熱くなる。
「よせ、そんなの……」
 上げようとした彼の声は、しかし周囲からわきあがるもっと巨大な声にかき消される。
「そうだ! やっちまえ!」
「殴り倒せ!」
「蹴り上げろ!」
「叩きつけて壊せ!」
「殺しちまえ!」
「殺しちまえ!」
「殺しちまえ!」
 太い声が甲高い声が、客席にいるエリオット以外の全ての人間の声が、ひとつの渦になって巻き上がる。殺しちまえ! 殺しちまえ!
 舞台上の男は、ふっと笑った。ように見えた。
 そして立ち上がると、下手へ去ろうとしていた女の後ろ髪をぐいと掴んで、力いっぱい床に叩きつけた。
 ばん!
 重い音が響いた。
 客席からわああああああああああああっ、と歓声が上がる。
 男は倒れた女の腹を踏みつけ、さらにわき腹を蹴る、黒いニットに革靴のつま先が深くめり込む。もう一度、二度、三度、どす、どす、どす、いやな音が響く。そのたびに客席が沸く、わあっ、わああああっ……。
 何かよくわからないものを口の端から垂らしながら女は腕を伸ばし床を這い、男から逃れようとするがかなわない、更に背中を踏みつけられ、ニットの首許を掴まれ引きずり上げられる。男は拳で女の頬を殴りつけ、手の甲に食い込む女の爪に舌打ちをし、膝の先でまた女の腹を蹴る、女はのけぞり、白い喉が照明に照らされ光り、声にならない声を上げて、
「あああああ……!」
 エリオットは両手で顔を覆った。
「やめてくれ、やめてくれ、お願いだから……!」
 声は届かない。
 気が付くと、ソーニャは動かなくなっていた。
 崩れた雑誌の山の中に、彼女は仰向けに倒れていた。フローリングの上に長い髪がざらりと広がり、額には細く血が流れている。口は微かに開いたまま。涙の溜まった大きな瞳が、エリオットをじっと見上げていた。
 ぐるり、と。眩暈を感じて、エリオットは壁に寄りかかった。
 まるで頭が心臓になってしまったように、ひどく脈打っていた。吐き気がこみ上げてくる。
 やっちまった……やっちまった。
 額の汗を腕で拭う。息が苦しい。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう……僕はどうしたらいい?
 逃げろ。
 エリオットは駆け出す。雑誌に足を滑らせながら、転がるように玄関のドアへ。冷たいノブを引っ掴んで、回す。
 ばたん!
 外は夕暮れ。まぶしいくらいの朱色が目の中に飛び込んでくる。
 エリオットは走った。
 上も下も右も左も、判らない。どこまでも、どこまでも朱色、ゆらゆらと揺らぐ夕焼け。
 ただ。
 ざああ……ざああ……。
 潮騒が聞こえる。
 ざああ……。
 音へ向かって、ひたすらに。エリオットは走る。手足をほとんどでたらめに動かして、もがくように、朱色の空気の中を泳ぐように。
 その色の真中に、すうっ、と、真っ直ぐに水平線が現れる。
 海……きらきらちらちら、波が光る。潮騒が近くなる。
 ざあああ…………。
 いつしか、エリオットは海のそばを走っていた。
 風が強くなっていた。濃い潮の香りを含んで、吹き付けてくる。エリオットの長い黒髪がなびいて、視界をさえぎる。何度手のひらで払っても、しつこくまとわりついてくる。
 やがて。
 燃え上がるように群生する、ブーゲンビリアの茂みが現れた。
 そこをまわり込み、小さな円形の広場に駆け込んで、彼はよろよろと立ち止まった。背中を折り、手のひらを膝について、荒い息を整える。
 広場は荒れ果てている。コンクリートのベンチは二つに割れて、もう用をなさない。モザイクを描いて敷かれた石畳はあちこちでがたがたに歪み、ひびが入り、そこへ茂った背の高い雑草が、風に煽られてしなっている。
 そして、灯台。
 短い階段の上、夕焼けの澄んだ空を背にして。薄い橙色に染め上げられた灯台は、静かにそこに立っていた。
 彼はしばし魅入られたように、じっと立ち尽くし、それを見上げた。
 風に、ざわざわと草が鳴り、波の音は絶えず、彼の耳を満たす。
 やがて彼は、ゆっくりとした足取りで、歩き出す。階段を一段一段、踏みしめるように上っていく。
 夕焼けの光の中では、灯台の壁の、黒ずんだ汚れさえも美しく見えた。指の先でそこへ触れると、ひんやりと優しく冷たかった。
 壁に手を当てたまま、彼は灯台の周りを歩いた。地面に長く、くっきりと彼の影が落ちて、彼と共にするすると移動した。
 何周か、歩きつづけた。
 途中でジャンバーのポケットに煙草があることを思い出した。箱から一本取り出して、火をつける。潮の匂いをかきわけて、苦い香りが立ち昇った。
「ねえ?」
 声がした。彼は立ち止まる。
 灯台の壁に沿って、彼の反対側から、華奢な女性が歩いてきた。枯れ木のように老いた、しかしおどろくほどに姿勢の良い女性だった。夕暮れに溶け出すような赤い髪を、頭の後ろで高く結い上げている。大きな瞳は硝子のように澄んだ、上品な灰色をしていた。
「この上を、見学できるって聞いたんだけれど……」
 老女は穏やかな微笑を浮かべてそう言った。
「ああ……ええ……」
 彼は思わずぼんやりとした声を上げ、それから慌てて笑顔をつくった。
「ええと。チケットを買ってください」
「チケット?」
「絵葉書です」
 そう言うと彼は、ジャンバーの、煙草を入れていたのとは逆のポケットから、革の表紙の小さなアルバムを取り出した。
「どれでもお好きなのを」
 言って、老女に手渡す。
「これを一枚買えば、上がらしてもらえるの?」
「ええ」
 アルバムの中には十五種類の絵葉書が収められていた。すべてがこの辺りの写真、まだ灯台がその本来の役目を果たしていた頃の、古く美しい写真だった。
 そのひとつひとつを丁寧にめくりながら、老女は
「綺麗ねえ……」
 と、ため息と共に呟いた。
「ちょうどよかったわ。息子に送る絵葉書を、買おうと思っていたところだったから」
「息子さんに、ですか……」
 どういうわけか、彼は急に、胸が詰まるような悲しさを覚えた。
「そうよ。もうずっと連絡を取っていないから」
 老女は目を閉じて、静かに言った。
「きっと喜んでくれるにちがいないわ、きっと……」
 風が、びょう、と強く吹きつけた。
 伸びた髪が彼の顔にまといつき、視界を黒く覆い尽くし、そして、何も見えなくなった。


                                             fin.

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