『FANTASION HOLIC.』

『FANTASION HOLIC.』

著/六門イサイ
絵/藤堂 桜

原稿用紙換算60枚


【1】


 他人のノロケ話ほど、退屈で苦痛な物はないが、目の前の相手が別にノロケていなくとも、あんまり幸せそうにしていると、不愉快になるものなのだなあ。――片腕で頬杖を突きながら、鬱屈と鬱憤と憂鬱をまとめて表した渋面を晒しながら、平岡鉄也《ひらおか・てつや》はため息をついた。
「ん、どうしたね、平岡君」
「いや、別に」
 にこにこした顔で聞いてくる話し相手をあしらって、またため息をついた。ああ、チクショウ、こいつ幸せそうだなあ。ほんのちょっとしたお節介で、余計な事を吹き込んでやっただけなのに、その挙句が恋のキューピッドか。おお、我ながら寒気がする。
「なあ、平岡君」
「なんだよ」
「……好きって、いいよね……」
 しみじみとした言葉に、思わず天を仰いだ。嗚呼、神よ、こいつに艱難辛苦を与えたまえ。仲人なんてするんじゃなかった。目の前の相手、高森由紀彦《たかもり・ゆきひこ》の透明な笑顔を、思わず拳で潰してやりたくなってくる。
「なあ、平岡君」
「黙れ。これ以上口を開いたら、爆竹口にぶち込むぞ」
 脅しではなく、机の下でモデルガンとライターを握り締めながら、本気で言ったが、由紀彦の笑顔は崩れなかった。ダメだ、まったくもってダメだ、幸せな奴といい奴には勝てない。特にこいつは、恋は盲目街道ぶっち切りの幸福感満点真っ最中なのだ。俺がどうにか出来る相手じゃない。
 由紀彦はここ二週間ほど、ずっとこんな調子だった。生まれて初めて、可愛い恋人が、出来たから。

 ことは一ヶ月前にさかのぼる。
 まだ雪が降っていないとはいえ、一一月上旬の夜気は冷たい。空気がもうキンキンと硬く張っていて、自分が吐く息が驚くほど白かった。もういつ、雪が降ってもおかしくないだろう。早く帰ろうと、学生寮へ向かう足を速めた。
 途端、風が強く吹き付けてきて、思わず身を縮めた。風がないならまだ耐えられそうな気温だと思っていたが、体感温度がぐっと下がる。うう、寒々……などと震えながら言って、何気なく月を見上げた。綺麗な物を見ると、少しは気が晴れるかもしれない、などと思ったからだ。また、風が吹く。
 風の中、その音にかき消されそうになりながら、別の音が混じっていた。――高く、鮮やかに甘い音。綺麗な、何かの音楽のようだった。
(歌? 違う……。何だ?)
 冷たく澄んだ空気の中、冴え冴えとした青い月とあいまって、不意に聴こえた音はひどく優しい。由紀彦はあたりを見回した。音が聴こえてくる場所を探そうと思ったのだ。少しでも音が大きく聴こえる、と思う、方向へ向けて走り出す。
(そう複雑な演奏じゃない、誰かが独りでやっているんだろう。でも、誰が?)
 吹奏楽部員の練習だろうか。演奏者を見つけてどうしようとは考えていないが、ただ、もっと近くに寄って聴きたかった。門限ぎりぎりまで図書室で本を読んでいたので、早く帰らないと寮監さんから怒られるのだが、一回ぐらい別に良い。そう思った。
 夜の校舎内と校庭を走り回るうちにも、音色は続く。
 由紀彦は、音楽に特別関心がある人間ではない。部活動はそもそも帰宅部であるし、音楽の授業も普通に受けているだけで、その成績も特別悪くも良くもない。ただ、冷たい月の夜にただ一人、不意に聴こえた音色に、不思議と心騒がされた。ひどく心惹かれるものがあった。
 少しづつ音源に近づいているのが分かる。
 だが、まだ演奏者の姿は見えない。由紀彦は一旦足を止めると、目を閉じて意識を耳に集中してみた。
(あそこかな)
 そうして、音は上から聴こえてくるのだと、ようやく気がついた。見上げた先には、月を背後にした校舎の屋上。小さな影が、見える。
 そこで音楽は唐突に鳴り止んだ。屋上に見えたと思った人影がひっこんで消える。こちらに見つけられた事に気がついてしまったのか。由紀彦はしばらくそこに立って、またあの不思議な音楽が聴こえないものかとしばらく待ったが、もう一度強い風が吹いてきたので、寒さに負けて帰った。
 屋上に背を向けた時、にゃぁ、と、猫の声が聞こえた気がする。
 その後はもちろん、寮監さんからは叱られ、夕飯もそのまま食いっぱぐれてしまった。けれど、損をしたような気はしない。また、もう一度あれを聴きたいとそう思った。月の夜に、どこからともなく聴こえてくる不思議な音楽。まるで妖精でも呼び出そうとしているような、あるいは妖精が奏でるような。
 あの音楽を、もう一度聴きたい。


【2】


 不思議な音楽を聴いたものの、結局演奏者を見つけられなかったその翌日。
 元より規則正しい朝を過ごす彼は、その日もいつも通りに日課をこなして登校した。図書館で昨日借りた本の何冊かを返し、また何冊か借り出して、教室へ行く。ストーブは点けられたばかりで、教室はまったく暖まっていないが、空気はいい。特に朝早くは。それに、今日は天気も良く小春日和だった。
 清々しい気分で自分の席に座り、『鳥肌黙示録』(推理小説)を開く。
「高森、君……」
 不意に聞こえたか細い声が、一瞬誰の物なのか判じがたかった。一拍の間を置いて思い出す。白石槙《しらいし・まき》、同じ学級の女生徒。それほど親しい仲だった覚えはない。挨拶も、伏目がちに軽く会釈してすれ違うだけなどで、彼女から声をかけてきた事例は過去半年強、皆無に等しかった。
「おはよう、白石さん」
 それでも声をかけられた以上、敵意がないことを示すよう、朗らかな表情を作って返事をする。
「おは……よ、う」
 振り向き、ようやく彼女の姿を視認する。
 小柄な体、推定でも身長145cm前後、体重も軽いようだ。背をまるめ、俯き加減の姿勢を取っているため、更に小さく見える。表情は、重力に引っ張られて垂れ下がった、波打つ長い髪に隠れて確認が困難だった。黒い髪は少々栄養が足りないようだが、水分や表皮の状態は良好で艶やかだ。
 わずかに首を上下させて頷くと、それっきり彼女は背を向けて歩き出した。それを、ふと由紀彦は呼び止めた。
「白石さん」
「え……っ、私……?」
 まさか呼ばれるとは思ってもいなかったようで、驚いた白石槙は顔をあげて振り返った。やっと明確に、彼女の顔が確認出来る。
 フランス人形を思い起こす様な容姿だ。綺麗だけれど、生気がなくてやや陰鬱。それが、最初の印象だった。前髪を止めるヘアバンドと、全体に編みこまれた細いリボンの赤が、髪の黒に映えている。黒と赤と白の見事なコントラストが、一層その少女を人形じみて見せた。
「名前を呼び捨てにしてもいいかな」
 白石槙の全身が、眼に見えて固まった。背筋と神経が緊張し、不自然に動きを止める。いきなり驚かせてしまっただろうか、そう思いながら、由紀彦はニコニコと笑いながら続けた。悪意があって言っているわけではない事の意思表示と、愛想と、個人的感想による好意を含めた笑顔だ。
「名字だと、誰だか分からなくなるから、名前で呼べるほうが好きなんだ。それに、槙って可愛い名前だよね」
 由紀彦は考えた、個人を識別する名前は大事だ。名字には個人以上に先祖や土地や家系が背負わされるが、名前はそのひと一人一人の物である。――名前を呼ぶ事は親愛とお近づきのしるし、人類皆兄弟、LOVE&PEACE万歳。どうぞお嬢さん、これを縁に友好な関係を築きましょう。
「あ、呼び捨てが嫌なら、槙さんとか槙ちゃんとか呼ぶけれど。どう?」
 瞬間、白石槙の顔から表情が消え、両の目が焦点を失った。それから顔面がみるみる紅潮すると、背中から後ろに倒れ込み、その場で卒倒する。
 周囲が騒然となった。
「高森君。白石さんに何やったんだい、君」
 重量感満点の算盤(全鉄製)を手で弄びながら、同級生の師岡源《もろおか・はじめ》が非難がましく訊ねた。そんなこと言われても。
「いや……僕は別に、何も」
 それから由紀彦は、担任の村上教諭の命で(言われなくともそうしたが)槙を保健室まで抱えて行くことになった。周囲の男子が冷やかしたり、いやらしい事するんじゃありませんよ、と一部の女子から釘を刺されたりと、何やら皆の視線が痛い。というか、ちょっと怖いくらい痛いんですけど。
 由紀彦は逃げ出すように、槙を抱えて走った。


【3】


 視界を後ろへと流れていく、ずらりと並んだ教室では、授業が始まりだしていた。そこから、別世界のように隔離された廊下は人気が消え、ひどく静かだ。右手で背中を、左手で膝の裏を支えて、少女を抱え歩く自分の足音は妙に響く気がして、つい逸る足の歩みを遅くする。
 抱き上げた槙は、思ったよりも重いはずなのに、思ったよりもずっと軽かった。腕の力だけで持ち上げて、一瞬、バランスを崩すかと錯覚するほど、軽い。木の葉のように、とか。羽のように、ではなく、……まるでそこに居ないかのように、軽かった。
 腕の中で微動だにしない彼女は、色白な顔がやけに血の気がないように見えて、まるで死んだ人のようだ。花を添えれば、似合いそうな。花をいっぱいに敷き詰めた棺桶の中、染み一つない純白のウェディングドレスを着て、横たわる白石槙。……想像してみて、ちょっと罪悪感が湧いた。
 死者の花嫁、あるいはフランケンシュタインの花嫁。いかんいかん、縁起でもない。
(けれど、そういうのが似合う人だよなあ)
 槙の顔を覗き込み、そう思う。つい、目が口元、いや唇に吸い寄せられた。さっき、教室で浴びた痛い視線を思い出す。
 目を逸らして、まっすぐ廊下の向こうを見据えた。曲がり角が近い。この突き当りを曲がって、階段を下りれば、すぐに保健室だ。頭は別の事を考えようとするのに、手は、急に直接彼女の足に触れている事を思い出す。しまったとうろたえるが、どこを持ったらいいのか分からなかった。
 ――尻。論外だ。腰か。いや、それもちょっと何か何というかその、ダメだ。じゃあもうちょっと手を下に。いやいやいや、それじゃ太腿に触ってしまう、それは今よりもっといけない。じゃあ上か。いや、いやそれは持ちにくいだろう。なら腰を。だから却下だと言うに。
 由紀彦が迷っているうちに、保健室に着いた。扉を開けるにはノブを回さなければならないのだが、ちょうど彼女の体を置けるような場所はない。仕方なく、槙を抱きしめる格好になって手を伸ばし、ノブを掴んだ。ごめんなさいごめんなさい、勝手にこんな事してごめんなさい。でも頼むから、もう少し目を覚まさないで……などと考えるその鼻先に、彼女の黒髪が引っかかる。ふわっと、何かの香りがした。
 いい匂いだ。甘いと言えるほどはっきりした物ではないが、柔らかくて優しい、花というより花粉のそれに近いような……。
 一瞬、動きを止めながら、由紀彦は保健室の扉を開いた。先客が居たらこの格好はちょっと困るんじゃないか、と思ったが、幸い、誰も居ないようだった。安堵して息を吐きながら、槙を抱えなおす。足早にベッドに近づいて、彼女の体をそっと降ろした。
 槙の体が、完全に由紀彦の手から離れ、ベッドにその体重を沈めた時、小さな針で刺されるような感触が胸に湧いた。何だか物凄い喪失感。そういえば、女の子にこれだけ触っていたのは、男女の違いも分からぬ幼少時以来ではなかろうか。
(どうやら保健の先生も居ない事だし、このまま放っておくのもしのびないよなあ)
 言い訳のような事を考えて、由紀彦は槙を横たえたベッドの傍に丸椅子を置いて、それに座った。ちょっと考え、あまり近すぎてもいけないよな、と二歩ぶんほど離して座り直す。白いベッドの上の彼女は、先ほど空想した、棺桶に横たわったヴィジョンに少し近づいていた。
 ――何を考えているんだ、僕は。いい加減、クラスメートを勝手な妄想の材料にしては失礼だ。目を外して、窓の向こうの運動場を見やる。体育の授業をやっていた。規則正しいホイッスルの音にあわせて、ジャージの一団がランニングしている。
 意識を授業風景に向けようと思いながら、どこか、神経は背中の方に集中していた。校庭でジャージ集団がランニングを終え、体操を始めた頃、つい我慢できなくなって振り返り、ベッドの上の槙を見る。彼女の瞼はまだ固く閉じられ、目も覚めていないようだった。
 独り気まずくなって、また明るい外を見る。保健室は電灯がともっておらず、薄暗い。そのせいか、槙の肌が尚のこと、白さが際立って見える気がした。目を凝らし、授業風景を見つめても、瞳は過去の映像を繰り返し再生して、まったく別のところを見ていた。
 それでも、由紀彦は彼女のことなど興味がない、とそこには居ない誰かに主張するように、頑なに明後日の方向を見つめ続けた。やがて養護教諭がやって来て、保健室を出るまで、彼は意地になって槙を見ないようにしていた。

 なんだかなあ、変だよなあ。妙に彼女の事が気になったり、気になってしまう事が何だか気に食わなかったり。うむ、今日は何かおかしい。そんな葛藤に腕組みして考え込みながら、由紀彦は教室へ帰還した。自分のクラスとはいえ、授業中の教室に入るとは気まずいものである。
「遅かったな、高森」
 入るなり、重々しく、厳かといってもいいような村上教諭の声がかけられた。授業中であるため、元々静かだった空間が、更に澄み渡った静寂になる。その静寂は、鏡のように凪いだ水面のように冴えを見せるが、しかし水面に浮かぶ一枚の朽ち葉のために、波立ってしまうのだ。
 その朽ち葉が、自分だった。異物である事を思い知らされた体は、反射的に静寂に溶け込もうと、佇まいを正す。まだ四〇代のはずなのに、そのプラス二〇年くらいは生きていそうな風格があるこの教師の前では、どんなに素行不良の生徒も背筋を伸ばすのだった。
「すいません。保健室に誰も居なかったので、保健の先生が来るまで、白石さんの側についていました」
 由紀彦の返答に、好奇と疑惑の視線がちらほらと投げかけられる。
「そうか」
 それらの有象無象の視線は、村上教諭の一声で霧か霞かと切り散らされた。
 席につけ、と促される前に、後ろ手に戸を閉めて着席する。正直、この教師は苦手だった。いや、大概の生徒は村上教諭を苦手としている。何せ、その前に立てばどんな生徒も身を引き締めてしまい、一瞬たりとも気を抜けないのである。村上教諭が生徒を怒っている所を見た者はいないが、彼が語を荒げるよりも、静かに注意されたり諭されたりする方が、ぐっと説得力があった。得体のしれない威厳と迫力で、周囲を従わせてしまうのだ。
 親しみは持たれていないが、敬いはされている教師、それが村上一騎であった。


【4】


 村上教諭の担当は古典である。授業終了のチャイムが鳴り、教諭が教室を出て行くと、それまで異様な緊張感に包まれていた空気がわっと弛緩した。古典の授業の後は、どこの教室もこうだ。古典の勉強以上に、そのまま精神修養が出来そうだった。
 さて、極度の緊張から解放された級友達が、野次馬根性も露わに由紀彦に近づいてくる。
「いよーお、色男」
 何やら三下臭い台詞とともに、まず近づいて来たのは平岡鉄也だった。日本名のわりに紫の瞳と金髪を持っている、れっきとした白色人種だが、ちゃんと日本国籍らしい。彼は、なんだ、確かドイツ産かアメリカ産のどちらかだったような気がする。
「やあ、吸血鬼」
 昼間の教室でもサングラスを手放さない平岡を指して、由紀彦は返した。瞬間、額にモデルガンの銃口が押し付けられた。
「うるせぇ、ぶち殺すぞ人間」
「相変わらず、早撃ちだねえ」
 言った途端、銃口が密着したまま、由紀彦の額にBB弾が炸裂した。もんどりうって倒れる。趣味でモデルガンを懐に入れて持ち歩いたり、その銃口をクラスメートに向けたり、休み時間に分解したり改造したりするのはいい。しかし、本当に撃たないでくれと、そう思う。頭がぐらぐらした。
「あいた、いた、いたた、痛い痛い」
 自分の体と一緒にひっくり返った椅子を起こしながら、額を押さえる。きっと赤く痕が残っているに違いない。
「ザマーみろ。さぁ、保健室でナニをやったのかキリキリ白状してもらおうじゃねえのっ!」
「はぁ?」
 平岡はやたら嬉しそうにまくし立てた。満面スケベの笑み。
「絶叫監禁保健室、ここは男の欲望番外地。哀れ美少女■■地獄! 四次元殺法ばりに人体構造を無視したあれやこれやの××を強制しつつ、セーラー服も●●も三万遍剥がしちゃって、このド外道! 目のハイライトも無くなるほど△△されたヒロインの運命やいかに!?」
 由紀彦はふと、天井を見上げた。右から左、虫を追うように虚空に視線をさまよわせ、それから、平岡の顔を正面から見つめて言う。
「なあ、それで僕は、どこら辺から突っ込んだらいいんだろう」
「……俺に聞くなよ」
 興ざめした平岡は、やたらばつが悪そうな顔でちょっと目を逸らした。後ろの方で、タロットをいじっていた桜井が、一九〇センチを越える長身を揺らして笑っている。その桜井に、いつまで笑ってんだ、と一言吐き捨て、再び平岡は由紀彦に向き直った。急に顔つきが変わる。
 人目をはばかるように、さっと左右を見た。
「なあ、真面目な話。一つ言っておくぞ」
 雰囲気が変わったのを察して、由紀彦もやや背筋を正した。

「白石、お前のことが好きなんだよ」

 時間が止まる。呼吸が、思考が、瞬きが、一瞬完全に停止した。
「は……」
 好き? 彼女が、僕を? 名前を呼び捨てにしてもいいか、と尋ねたら、それだけで卒倒してしまうほどに? まさか。まさか、まさか。――憧れ、――憐れみ、――親近感、――信頼。どの、意味でだろう。どういう、理由でだろう。そもそも、なぜ、僕でなければならないのか。
 困惑とも葛藤とも付かない、けれどずしん、と胸に重く甘く沈むような気持ちは、ほんの一瞬だけ由紀彦を悩ませた。そう、ごく短い瞬間だけ。否定しようとすれば、簡単に消えうせて記憶に落ちていく、儚い感情に過ぎなかった。取るに足らない、ただの断片。だから、何でもないように、軽く返した。
「またまた、そんな。ぼかぁ、そんな冗談には乗らないよ」
「おやおや、可哀想に」
 対する平岡の口調も軽い。けれど、どこか寒気のするような、突き放すような冷たさを帯びた軽さだった。嘲りにも、似ている。
「それ、白石が聞いたら、今度は泣いて卒倒するぜ」
 サングラスの下で、紫の瞳が鋭く細められた。続く言葉は、更に軽く、今度ははっきりとした笑いを含んでいて、その中に針のような嘲りがあった。意地の悪い奴だ。けれど、これが冗談ではなく真面目な言葉なら、ちゃんと受け止めてやらない自分にも非はあるのだろう。
 責められる謂れがあるのか、ないのか、それはよく分からないのだけれど。
「……なあ、平岡君」
 ならば訊いてみよう。そんなに言うのなら、こっちだって多少の根拠は欲しい。
「おうよ」
「彼女は、一体僕のどこらへんがいいんだろうか」
 ケッ、と吐き捨てて、平岡は背を向けた。自分の席へ向けて歩き出す。
「さあな。本人に訊いてみな。おりゃ知らねーよ」
「そうか。うん、そうしてみよう」
「へ?」
 納得したように、腕を組んでうんうんと首を上下に振り、頷く由紀彦に、思わず平岡は振り返った。
 何考えとんじゃこのアホは、などと考えているであろう、呆れた表情で級友を見つめる。平岡が目の前でひらひらと手を振っても、それを無視して、由紀彦は次の授業が始まるまで、そのまま沈思黙考していた。
 白石槙はそれから、三時限目になって教室に戻った。槙と呼び捨てにしてもいい、と彼女から了解を得たのは、それから放課後のことだ。
 その日初めてまともに言葉をかわした槙の事を、由紀彦はひどく鮮やかに脳裏に焼き付けた。
 彼女の消え入りそうな声や、腕に抱えた時の軽すぎる体重と華奢な四肢の感触、甘い髪の匂い。それら全ての記憶に、妙に忘れがたいと思わせる感情が付随していて、何度も何度も思い返してしまうのだった。ああ、もしかしたら。ひょっとしたら自分は。
(僕は……彼女が好きになってしまうかもしれない)
 もう好きになっているのかもしれないけれど。


【5】


 深夜、それも月が頂点に達した夜更け。
 学生寮にあてがわれた自室を抜け出して、白石槙は校舎の屋上へ一人、いや、黒猫を一匹お供にしてのぼっていた。別に、彼女にとってそれは珍しいことではない。むしろこの夜の散歩は、彼女にとっては日々の安らぎを得るための重要な日課だった。
 槙にとって、本当に一日が始まるのは夜だった。朝は、彼女の一日の終わりが来る時で、夕方になってようやく元気が出てくる。眩しく、やかましい昼間という時間が、彼女は大嫌いだった。昼間は人が多い、人が多ければ雑音も多い、それに太陽は明る過ぎて自分には厳しい。
 日の下にいる間、槙はただじっと押し黙って、影のようにひっそりと時が過ぎるのを待つことしか出来なかった。授業中に居眠りなどして、不真面目に過ごしているわけではない、授業はちゃんと受けている。少々騒がしいが、休み時間よりは静かだし、周りが友達同士で喋っていたりはしないから。
 槙の話し相手は、いつも猫だ。この高嶺台《たかねだい》高校に入学する少し前からずっと一緒にいる、黒猫のクロエ。つやつやとした墨色の毛玉を腕に抱え、手に小さな袋を下げて、槙は屋上の手すり近くまで歩いて空を見上げた。真ん丸く膨らんだ月が、暗いドームのような一面の夜空からぶら下がっている。
 こうして風に吹かれながら、月を眺めて立ち尽くしていると、一日の出来事が思い返された。ちょうど、額の辺りに水を注ぐような、流れるように自然な回想だ。日々の出来事は瑣末なもので、思い出して猫に愚痴るような事はたかが知れている。けれど、今日はいつもと違って気になる事があった。
「高森、君は……どうして、急……に、私に話し、かけ……たのかな」
 決まっている、きっと自分が挨拶をしたから、話題の一環として持ちかけたのだろう。でも、だからっていきなり「名前で呼んでもいい?」などと訊かれるとは思わなかった。あの人は何を考えているのだろう。今まで、ずっと、私なんかに気づかなかったくせに。
「どぅ……し、て。わた、しの、名前……なんて、呼びたく、なったの、かなあ」
 にゃぁ、と、腕の中の猫が鳴いた。
「気絶、している間に……抱っこ、されちゃったの、よね。……どう、し、よう。私」
 槙は、由紀彦のことをずっと見ていた。
 彼はきっと覚えていないだろう。入学したばかりの頃、一度だけ言葉を交わした事があった。その時、槙は緊張のあまりいつもの悪い癖が出て、ひどくどもってしまったのだ。それが恥ずかしくて恥ずかしくて、罵迦にされると思ったのに。彼は、黙って、彼女が喋り終わるのを待ってくれていた。
 罵迦にしない、笑わない、呆れない、気味悪がらない。少なくとも、そんな態度を見せなかった。それがたとえ振りだけで、内心はそうだったとしても、態度に出されないだけで、それはとても救いになった。大事なのは、彼が辛抱強く、自分が言葉を紡ぎ終わるまで待ってくれた事実だった。
 いつからか、意識するしないに関わらず、いつも彼を眼で追いかけるようになっていた。
 でもたまたま彼がこちらを向くと、思わず眼を逸らしてしまって、その顔を正面から見ることもままならない。でも、彼が自分の事など眼中になくとも、今はただその姿を遠くから見つめられているだけで、精一杯生きていらられるような気がした。
「高森君、クラシック、好き、か、しら……」
 雪が近いことを予感させる、冷たく湿った風に晒されながら、槙は手さげの中身を取り出した。月の光を受けて煌めく、銀色のフルート。クロエと並ぶ、彼女の宝物だ。クロエは槙の腕から抜け出ると、屋上の地面に行儀よく座って、彼女の演奏が始まるのを待った。
「聴いて……、クロエ」
 呼吸を整えて吹き込み口の縁に唇を当てる。青い月を眺めながら、槙は空気を震わせ、音楽を奏でた。
『槙って可愛い名前だよね』
 高森の声を思い出す。あの見事な灰色の頭も。彼の髪は盛大に白髪が混じっているため、殆ど灰色に見えた。格好をつけた言い方をするなら消炭色、チャコール・グレイといったところか。
『呼び捨てが嫌なら、槙さんとか槙ちゃんとか呼ぶけれど』
 白石さん、槙、槙さん、槙ちゃん。その名前が彼の声で呼ばれ、彼の琥珀色の瞳に自分の顔が映るだけで、頭がぐるぐると回って沸騰しそうになる。全身の血液が、炭酸入りになってしまったかのように熱くて、じっとしていられない。
 ……やがて、槙の演奏に力がこもり始めると、クロエは後ろ足だけですっくと立ち、見事なバランスで歩き始めた。一歩前に出て次は後ろ、リズムを取るように計算された足運びで、時折くるりと回転し、まるでダンスを踊るような動きを見せる。
 クロエは、フルートに合わせてしなやかに踊っていた。尻尾までが、くいっくいっと左右にリズムをつけて振られ、ポーズをつけている。
 槙は別に驚かない。彼女がフルートを吹くようになってから、それを傍らで聞いていたクロエは、いつも何らかの動きを見せてくれていた。それが、だんだんと体系だてられるようになってきて、いつの間にかダンスのようになってしまったのだ。
 自分の何もかもに自信を持てない槙にとって、フルートの腕前だけはひそかな自慢だった。そして、自分の演奏に合わせて踊るクロエを見れば、何だか楽しくなってきて、嫌な事も忘れられる。彼女と猫だけの、秘密の演奏会だった。
 誰にも、誰にも秘密なのだ。フルートを他の誰かの前で、あるいは日のあたる所で演奏してみせるなんて、考えるだけで気が遠くなりそうだった。他人が聞けば、自信があるならなぜ、と首を傾げるかもしれない。けれど、他人の注目を浴びるような事はごめんだった。
(だって……怖いもの。人の視線は。目の光は。太陽と同じ、熱くて眩しくて、痛いんだもの……)
 不意に、クロエが動きを止めた。前足を地につけ、お座りの姿勢を取る。不思議に思いながら、ふと後ろを振り向くと、そこに由紀彦が立っていた。驚きに息を止めそうになりながら、演奏を続ける。やあ、と、片手をあげて彼は挨拶しつつこちらに近づいてきた。
「この間、僕が聴いた音楽、君のフルートだったんだね」
 にこやかな笑顔でそういう彼を、直視できなくて槙は下を向いた。演奏が止まる。どうしてこの人は、まっすぐ人の顔を見ながら笑えるのだろう。足元で、クロエが邪魔者を嫌がるように、フーッと威嚇した。フルートを口から放して、逆立つクロエの毛を撫でる。
 彼の笑顔がひどく眩しく思えて、まともに見れなかった。顔が、冬なのに寒くないほど熱くなる。
「やめちゃうの? 続き、聴きたかったのにな」
 残念そうに言いながら、由紀彦は隣に立った。胸の中、痛いほど心臓が鼓動を速める。何かを言おうとしても、心臓から這い上がる痛みが喉に詰まって、声が出ない。呼吸が、乱れる。時折、感情が高ぶった時、発作のように声が詰まって喋れなくなるのが、彼女の悩みだった。 
 けれど、救いがただ一つ。フルートを口に付けて吹けば、息が安らかになる。この発作は、楽器を通した時、ようやく声を出すのに必要な呼吸を取り戻す事が出来たのだ。だから今度も、槙は再びフルートを口にし、図らずとも演奏を心待ちにする由紀彦の要求を叶える事となった。

 ……それからの事は、よく覚えてはいない。緊張と興奮で、無我夢中だったから。ただ、由紀彦が微笑んで、「綺麗な曲だね」と言ってくれた事、そして夢心地のふらふらとした足取りで、どうにか自室へ帰り着いた事だけをかろうじて記憶していた。
 今度、彼にまたフルートを聴かせる約束を取り付けた事を思い出したのは、翌日の朝だった。


【6】


 そして一ヶ月の時が流れた。
 結局、槙は何度か――というよりも殆ど毎晩、クロエと由紀彦を聴衆にしてフルートを演奏してみせた。
 猫以外に自分の腕前を披露する事は、滅多にない経験で、いつ失敗するかと内心怯えていた。だが、長年覚えこんだ技術は彼女に失敗を許さず、緊張さ故ややぎこちないものの、完璧に思い通りの曲を奏でる事が出来た。後はもっと、自然体で演奏する事を覚えるばかりだ。
 だが、自分にとって問題なのは、どうも自分達は、クラスの皆から「付き合っている」と思われ出しているらしい事だ。
 由紀彦を演奏会に招待するようになって一ヶ月も経ったところで、槙はようやくそれを自覚した。別に自分達は付き合っている訳ではないのに、どうしてか周囲は他人のプライベートにそういうロマンスを求めたがるようだ。……だが、そう誤解される事は恥ずかしくも嬉しい事ではあった。
 いやしかし、二人は付き合ってはいないのか、と問われると、答えに窮する。
 黙っていても由紀彦は昼になると、彼女の所へ机を寄せて一緒にご飯を食べようと誘いをかけてくる。授業の合い間の休み時間には積極的に話しかけてくるし、放課後には一緒に帰ろうとか、買い物に行こうとか遊びに行こうとか、とにかく四六時中槙と一緒に居たがった。
 先に誰かに誘われたら、それにひょいひょいと付いていく由紀彦だが、その際にも「槙も一緒に来ない?」と言ってくるのだ。誰が見たって、どう考えたって、これは、あれだ。もう一つしかないのではないか。自分達の関係に関する噂は、もう半分本当なんじゃないかと思う。
(もしかしたら、由紀彦君は、やっぱり、私と付き合っている、とか。そんなつもり、なのかなあ)
 実際、由紀彦の思いはそうであり、両者の見解はちょっと行き違いがあった。高森由紀彦は正式に告白こそしていなものの、好意は既に伝えているし、白石槙と交際しているつもりなのである。周囲の噂も、自分達の関係が公認された証だと考えている。
 今も、彼は意気揚々と二人が食べるために見繕ったパンと飲み物を抱えて、槙の前に立っていた。カレーパンが一つ、メロンパンが二つ、ドーナツが二つ、サンドイッチが一つと、夜食にしては多すぎる量だ。大鑑巨砲主義というか、大きい事と多い事は良い事だという単純明快な主張故である。
「槙、飲み物はどっちにする?」
「あの……演奏、終わってからでも、いい?」
「うん、じゃあ、そうしようか」
 一応、(半分ほど残したが)夕食は既に終えてきた槙である。時間を置かないと腹には入らない。というか、パンの一コたりとも完食する自信はなかった。由紀彦には悪いと思うし、食べ物だってもったいないとは思うので、後でクロエにも少し食べてもらおう。
「ねぇ、今日は……ちょっと、特別な事する、のよ」
 パンとジュースを置いて、槙は由紀彦の顔をまっすぐ見つめながら言った。まだ、その琥珀の瞳に自分が映るのを見るのは、目眩がするけれど。恥ずかしくて、少し怖くて、すぐ俯いてしまうけれど、それでも精一杯彼の眼の中に居た。下を向く自分を不甲斐ないと思いながら、懸命に声を出す。
「とても、とっても特別な事、なの……。ぜったい、ほかの人に、は、秘密、なのよ」
「凄いなあ。楽しみだ」
 嬉しそうな彼の声に、緊張する。大丈夫、失敗なんかしない。きっと彼は驚くだろうが、喜んでもくれると思う。
「じゃあ――見てて。目を閉じちゃ、だ……め、よ」
 槙は顔をあげると、真正面から風を受けて、顔面がひどく熱い事に気がついた。夜目でも赤い事が分かってしまうのではないかと、危惧するほどに熱い。心臓がまた痛くなってきた。息が乱れだす前に、急いでフルートを取り出す。楽器のひんやりとした金属の感触に、少し落ち着ける気がした。
 夜の演奏会が始まる。

 ――このフルートの音色は、槙の声に他ならない。喋る事が苦手な彼女の、もう一つの声、歌声だと、そう思う。初めて聴いた時は、曖昧にしか聴こえなかったためか、ひどく神秘的な印象だったけれど、何の事はない、綺麗なクラシックだった。
 由紀彦はいつもなら、目を閉じてじっくりとその歌声を味わうのだが、今日は言われたとおり瞼を開いておいた。そして、見た。
 槙の演奏に合わせ、クロエが立ち上がるのを。
 月の光を浴びて、銀の笛の音楽を身に纏いながら、まるで人間のように。まるで御伽噺の中の妖精のように、自由自在に、我は猫であって猫ではないと言うように、クロエが踊る様を、見た。何かが猫の着ぐるみでも着ているようだと思ったが、確かにそれは猫だった。
 ビロードのような墨色の毛皮に、月光が青く照り返す。小さな、本来は前と揃って足の意味をなすはずの後ろ足が、見事な二足歩行でリズムを刻む。二本の腕の代わりに、二本の前足を振ってポーズを取り、首の振り方まで決まっている。猫にしてはえらく達者な踊り方だと思った。絵になっている。
 実際、絵画にしたくなるような幻想的な光景だった。幻だと思うほどに、綺麗だと。
 そうして由紀彦は、幻を悪いほうへ解釈した。


【7】


 猫、猫はいけない。あれは駄目だ。なぜなら不気味だからだ。
 見ているんだか見ていないんだか分からない目付きだとか、軟体生物のようにふにゃふにゃ柔らかいくせに、毛皮に覆われている事とか。まあ、とにかく好きにはなれない。由紀彦はそう思うが、槙の前で口には出さなかった。彼はどちらかというと犬が好きである。同じく犬派の級友である渡辺や西村とも、犬の話題で時折話が盛り上がった。
 けれど、猫にもいい所はある。なぜなら槙があのクロエだかロデムだかといった黒猫を抱いている姿は、よく似合う。
 高森由紀彦、恋愛=白石槙に関しては殊盲目となる男であった。そういう訳で、彼にとって猫の価値とは恋人の膝の上でにゃーと鳴いて彼女を和ませたり、彼女の手で撫でられたり、彼女の足元に擦り寄ってごろごろと喉を鳴らす事にこそあった。ごろにゃん。
 ……案外、由紀彦は自分で思っているよりも猫が好きなのかもしれない。が、彼は別に槙以外の物事を自分が好いていようが嫌っていようが、あまり関心がないようでもあった。だが、猫は嫌いだと思う。変な奴だ。もしかしたら、嫉妬かもしれない。
 それはそうと、彼は猫が嫌いな理由をもう一つ見つけた。一応口止めされているので、演奏会の事や彼女のフルートに合わせてといった部分を抜き出して説明してみる。今夜発見した事実は、早急に解決しなければ大事な恋人に危険が及ぶかも知れないと思うと、気が気ではなかった。

「猫は四足動物であって、普通二足歩行はしない。そして二足でなければ出来ないような動きをそう長時間に渡って行ったりはしない。つまり、猫は踊らない。だが黒猫は踊った。――あれは悪魔に違いない!」
「……へぇ」
 夜中、非常識な時間帯に押しかけてきて、螺子の外れた内容を訴えた由紀彦を、師岡は曖昧な態度で出迎えた。こういう礼儀知らずを相手にすると、寮に入らず独り暮らしをしていて良かったなあ、と思う。腹立たしくはあるが、そこを堪えて、冷静に話し合ってみる事にした。
 しかしなんで自分は、開口一番帰れと言わず、わざわざ家にあげてしまっているのだろう。
「猫が、本当に踊ったのか?」
「踊らないのに踊るから悪魔なんじゃないか」
 そりゃそうだ。ひとまずその点が事実かどうかの検証は明日に回して、今はとりあえず別の疑問から解決していこう。
「それで、どうして僕のところへ来たんだね」
「班長と班員のよしみじゃないか」
「そうか。それはしまった。僕は運が悪い」
 確かに学級の割り当てではそうだった。チキショウ。
 だが、由紀彦もそこまで適当な理由だけでやって来たわけでもなかった。
「それに、ぱっと考えてまず君が一番腕っ節が強い」
 師岡源、生徒会の暴力会計。人を殴る事を前提に、大きく、重く、頑丈に作られた喧嘩算盤を手に日夜「経費削減」に走り回っている。目的のためには手段を選ばない行動力と、学園最強を誇る暴力を併せ持つ、恐怖政治の象徴のような人物だ。
 尤も、目的以外の私事などで、その暴力は振るわないという分別というかポリシーを併せ持っているので、意外と温厚な人物でもあった。
「それで僕のところに来たって事は、化け猫退治でもする気か? それなら、山村さんにでも声をかけたらどうだい」
 山村茉緒《やまむら・まつお》、神社の娘。習っている薙刀も段を取る実力である。まあ、神社の娘だからといってお祓いが出来るかどうかは別問題だが。
「彼女は駄目だ。男が持ちかけた話ならまず断る」
「ああ、そうだったな」
 山村茉緒、男嫌いの女傑でも通るのであった。過去には、痴漢を練習用の薙刀でボコボコにしたとか、女を泣かせた上級生を大算盤に正座させて、膝に三冊辞書を乗せ、ついでにその上からぐりぐりと踏んづけた、とか。物騒な武勇伝も数多く抱え込んでいる。しかし、こんな夜中に訪ねて行っても、どのみち門前払いであっただろう。今の由紀彦なら時間帯も気にせず、思いつけば即日押しかけるに違いない事だし。
「ふむ」
 師岡はやおら腕を組み、しばし考え込んだ。過去の記憶を思い起こし、口に出して語れる所まで鮮明に再生する。口を開いた。
「こんな話がある。『三河万歳』といってな、岡本綺堂の『半七捕物帳』の一編だ」
 由紀彦は訝しげな顔で師岡を見たが、黙って聴く姿勢を見せた。崩れ気味に正座していた脚を組みなおし、背筋を伸ばす。
「或る日の夕方、富蔵という香具師《やし》の留守宅に、市丸太夫という漫才師が入り込んだ。何気なく三味線を引くと、いきなり飼われていた白猫が立って踊り出したので、市丸太夫は『これは化け猫だ』と思って、三味線で撲り殺してしまった。
 ところがその白猫は、富蔵が三味線に合わせて踊る芸を仕込んだものだった。……というわけだ」
「つまり、槙がフルートに合わせて猫が踊るよう芸を仕込んだと?」
「猫が悪魔だという話より、よっぽど信憑性があると思うがね。仕込みじゃなくとも、まあ、何かのはずみで猫が踊る事はありうる、という事だよ」
 というか、最初に単なる芸だとか考え付いてくれ、と師岡は思う。今日は満月だから、月光に中《あ》てられたとでも言うのだろうか。
「それに、悪魔退治といっても、君は本当に彼女が可愛がっている猫を殺したり……は、しなくとも、勝手に捨てたり出来るのかい?」
「うぬぅ」
 今度は由紀彦が腕を組んで考え込んだ。勝手に人様の飼い猫に手を出そうとするならば、今こいつの話を聞いてしまった自分が、まず殴ってでも止めねばなるまい。とりあえず早く帰りやがれ、と思うのだが、間違いを起こさないよう説得しておかねばならないだろう。
(ナゼダ。なぜ僕が、こんな面倒を背負い込む)
 白石槙は、顔と名前がかろうじて一致するだけの、印象の薄い同級生だ。とはいえ、その財産(飼い猫)が侵害されるかもしれない可能性があるという事態は、知ってしまった以上あまり気分の良い事ではない。さて、どう言い聞かせたものか。


【8】


「高森君は、猫、嫌い?」
 朝、通学路にて、何やら考え込むような難しい表情をしていた槙は、開口一番そう訊ねた。目に見えて不自然に固まる由紀彦。
「い、いやあ、嫌いじゃぁ、ないヨ?」
「嘘」
 ひきつったような作り笑いがそうだと言っている。彼は結構、嘘をつくのが下手なようだ。冗談のように分かりやすい。少し哀しくなりながら続けた。
「だって、高森、く、ん。一度もクロエに、触っていない、じゃ、ない」
「それは……」
 由紀彦は応えに窮すると、口を真一文字に引き結んだ。本格的に、どう応えたものかと悩んでいるらしい。それだけ悩むという事は、やはり彼は猫があまり好きではないのだろう。もしかして、犬やげっ歯類のほうがいいのだろうか。それとも、動物そのものが好きではないのだろうか。
 槙が哀しげな眼で見つめていると、その視線から逃れるように、由紀彦は額を押さえて少し顔を隠した。
「……槙」
 しばらくの間を置いて、手を離し、いやに真剣な表情になる。どきりとして、何事かとその顔を見上げた。
「僕が思うに、あの黒猫は、化け猫じゃないかと思うんだ」
「え――」

 昨夜、師岡は由紀彦にとりあえず早まった事はするなよと言い聞かせはしたが、由紀彦は何事もすぐ口と表情に出るストレートな人間であった。お喋りだという訳ではないが、まあ、バカ正直なのである。だから不用意な事も言ってしまう。
 だが、幸いにも槙はその言葉を冷静に受け止めた。
「そんなこ、と。ないわ。私、の、友達……だ、もの」
 うーん、と唸る由紀彦。確かに、彼女があの黒猫を可愛がっているのは知っている。
 肉球をプニプニと揉みながら、猫の肉球にもツボがあって、マッサージの仕方もあるのよ、と活き活きと解説したり、ふわふわの腹に頬ずりして物凄く嬉しそうに笑ったり。由紀彦に体重を預けながら、幸せそうに自分の膝の上でごろごろしているのを、足がしびれてもそのままにしていたり。
 そういえば以前、槙と一緒の布団で寝た時、あの猫が割り込んで来たのは鬱陶しかったなあ――などとそこまで考えて、由紀彦は思考を止めた。
「クロエ、は、化け猫じゃなくて、妖精、なの、よ」
「妖精?」
 そうきたか、とつい身構える。何もそこまであのふわふわを可愛く思わなくても。妖精なら槙のほうがそれに相応しい。由紀彦は本気で、かつナチュラルにそう考えた。自分の発想が恥ずかしいとか行き過ぎだとか夢見過ぎだとかいった思考は、一切入る余地がなかった。
「……猫の妖精よ。ケット・シーという、の。クロエは、その末裔。あのこが自分で、そう言っていた、わ」
 昨夜、あれは化け猫だと言った由紀彦にも匹敵する真剣な表情で、槙は言い切った。自信満々。
「槙がそう思うなら、それでもいいけど……」
「ほんと、ぅに?」
 じっと、槙は由紀彦の顔を見つめた。いつになく視線は鋭く、頬がやや紅潮している。眉も吊りあがっているし、あれ、もしやこれは怒っている?
 即座に由紀彦は謝り倒す事を考えた。彼女が自分以外の誰かに好かれる事は予測しても、彼女が自分以外の誰かを好きになる事は予測しない男である。が、彼女が自分を嫌う可能性だけは、恐怖のあまり最初から予測出来なかった。そんな事、一秒たりとも考えたくない。
 けれど駄目だ、怒らせるような事をしてしまったら、自分は彼女に嫌われてしまうかもしれない。
(可愛い女の子はいっぱいいる。綺麗な男の子もいるだろう。けれど、自分は白石槙がいい。彼女でなければ、イヤだ)
 なぜ彼女なのか、そう何度も自問したが、答えは出なかった。だが、由紀彦のどこか無意識の領域は、既に答えを知っているようだとも感じていた。人が恋をする不思議とは、まさにその答えが解になるのだろう。分かるけれど、分からない。ならば、問うても仕方あるまい、と彼はいつしか諦めた。
 恐らく好き、とは、好きというだけで理由になるのだ。それが全てなのだ。そう結論した。
(だから、僕はこの世の誰よりも、何よりも、君が一番大切なんだ!)
 謝罪の言葉を百遍並べ立てるよりも、今すぐそう叫んで槙を抱きしめたい衝動に駆られる。
 いつからこうなのか。初めて、彼女の名前を呼んだ日からか。あの、ひどくか細い体重をこの腕に感じて、華奢な肢体に触れてしまった時から。それとも、やはり、あの夜の笛を耳にして、それが彼女が演奏した物だと知った時から。きっとずっと、夢中なのだろう。そうして日毎に自分の脳内での、彼女の事を考える部分の割合は、素晴らしい速さで増していった。
 最大限客観で計測すれば、それはおおよそ九七パーセント、残り三パーセントで日常生活をやっているような有様と言って良い。逆に言えば、彼女に嫌われたら、それだけで廃人になって病院で介護されながら生活しなきゃならないようになる自信がある。愛に燃え尽きて死ぬのだ。
「じゃあ、教え、て、あげる」
 錯乱しかかって硬直している頭に、槙の静かな声が入り込んだ。二秒ほどかけて、それの意味が染み込む。が、まだまともな返事は出来ない。
「……なに、を?」
「妖精はいるのよ。御伽噺の中だけじゃなく、月明かりの夜の隅っこだけじゃなく、日の光があたるアスファルトの上にだって。妖精は、呼ばれさえすれば、ちゃんとそこに現れるのよ」
 槙が、こんなにすらすらと喋るのを由紀彦は初めて聞いた。
 言った彼女自身も少し驚きながら、鼻息も荒く手さげを探ってフルートのケースを取り出した。学生鞄を放り出し、通学路の真ん中で組み立てた銀の笛を構える。二人が話している間に、通学途中の他の生徒はだいたい既に行き去ってしまったので、あたりは穴が開いたように人気がなくなっていた。
「いい、呼ぶわよ」
 鮮やかに甘い音色が風に乗って流れた。今にも雪が降り出しそうな、どんよりと重たい灰色の雲に覆われた空を、すべるように高らかと響く。夜の屋上でしか聴いた事のないそれは、今まで抱いていた月のようにひっそりとした印象とはまた異なる趣がある。
 それなのに、なぜだろう。初めて、月夜に聴こえた謎の音色に、今までで一番近いように思えた。
(ああ、そうか)
 ――まるで妖精でも呼び出そうとしているような、あるいは妖精が奏でるような。あの夜の時も、きっと同じだったのだ。

 遠くで、銀の笛が曇り空を震わせた。波が来る。自分の名前を呼ぶ、美しい声の波が。
 遠く大きく、近く小さく、寄せては返す、途切れぬ甘き声。その声がある限り、妖精は老いることも死ぬこともなく、現れる。伝説が、語り続けられる限り、決して色あせる事がないように。それが物語のお約束。今も、昔も、心の中にだけ現れる幻想の誇りとして、その約束は守られ続けた。
 妖精《ファンタジア》。
 雀を追いかけて、けれどちっとも捕まえられなくて苛立ち、にゃーと鳴いていた猫の妖精CHLOEは、その呼び声を聴きつけた。ファンタジーを幻では終わらせない、夢を夢で終わらせない、白昼夢ともまた異なる、目が覚めたまま見る夢を求める声。幻想曲《ファンタジア》の調べ。
 たとえどれだけただの猫にしか見えなくとも、猫妖精は猫妖精。猫であって猫ではない。CHLOEは、音が聴こえてきたほうをきっと正確に見つめると、その瞳を輝かせて、宙へと高く高く跳躍した。その姿は、地面に着地することもなく、掻き消える。

「CHLOE《クローエ》!」
 ドイツ語の、本来の発音で愛猫の名を呼んで、槙は虚空から現れたそれを抱きしめた。由紀彦は呆然と、手品か何かのような目の前の光景を眺めている。今、いったい、どこから、あの猫は出てきた?
 常識と理性は一斉に否定要素をがなり立て、由紀彦は思わずそれらに真剣に耳を傾けようとしたが、槙の顔を見て寸前でそれを止めた。そして、先ほどのフルートの音色を思い出しながら、クロエと槙の顔を交互に見つめる。あの音色を聴けば、もうそれで証拠には充分だと思った。
 そうだ、確かに妖精はいる。
「ねえ、槙。僕が君の事を名前で呼んでもいいって訊いた、その前の夜も、君は妖精を呼んでいたの?」
「……う、……ん」
 少し恥ずかしげに、槙は頷いた。その表情と仕草に目尻が下がりまくるのを感じながら、そのまま微笑んで言った。
「でも、槙。やっぱりクロエは妖精じゃないと思うんだ」
 はっと不安げな顔でこちらを見る彼女に、少し心が痛む。彼女の笑顔に少しでも影が差すのは、厭なものだ。
「妖精は、槙の方だよ。クロエは、招き猫だ」
「――え――」
 ぽかん、と槙は呆けたように由紀彦の顔をまじまじと見た。開いた口が、塞がらなくなってしまっている。そういう顔も可愛い。
「槙が妖精を呼ぼうとした、あの音楽。あれを月の夜にふと聴いたのが、僕が君に惹き寄せられた初めの切っ掛けじゃないかと思うんだ」
 続く由紀彦の言葉を、もう槙は聞いていなかった。名前を呼んでいいかと訊ねたあの時より更に、そう完熟のトマトのように顔を真っ赤にして、雪が浅く積もった道路に倒れる。ばたんきゅう。クロエが心配そうに、槙の顔の横で甲高く鳴いた。由紀彦は、ただ困惑するばかりである。
「ぇ……と」
 頬を掻き、空を見上げる。何か悪い事を言っただろうか? さっぱり分からないと思いながら、槙の体を抱き上げると、そのままお姫様のように、大事に両腕で抱えて、由紀彦は学校へ向かって歩き出した。困ったけれど、しばらく槙が起きないといいなあ、などと暢気に考えながら。
 耳の中では、妖精を呼ぶ音楽が残響している。
 聞けば胸を甘く騒がせる、朗々たる銀の旋律。いつか自分もこの猫のように、いつどこで呼ばれても、すぐ駆けつけられるようになれたら。いや、そうなってみせるとも。彼女が呼べば、どこへでも、どこまでも、すぐにでも! 離れない、離さない、一人にしたりなどしない。
 耳に響き続ける余韻と、胸に滾るこの想いに誓って。

 ――この後、槙を保健室へ送り届けて教室へ登校した由紀彦は、事態を聞きつけた山村女史の怒りを買った。そして、女性に不埒な事を働いたとして、地獄の仕置きを受けるのだが。……それは、また別の話である。

                                                 (END)

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