『猫猫猫猫ネコノヒト!』

『猫猫猫猫ネコノヒト!』

著/星野慎吾
絵/綾風花南

原稿用紙換算60枚


 三月は立派な春と呼べるのだろうか。
 膝をつき、お墓に向かって手を合わせている母の後姿を見つめながら、朽葉時南《くちばときな》は、思った。
 桜の匂いを含んだ風が、冷たい頬を撫でている。唇まで覆ったマフラーに、熱い息が溜まる。二つに結んだ髪が揺れる。
 お墓に眠っている父に対し、十回忌を迎えた今、悲しみはない。皆無と言って良い程に。
「もう済んだ?」
 母に向かって確認する。
「あとちょっとだけ」
「構わないけど。こんなやつのお墓参りなんて」
 時南は路傍の石に視線を落とした。
「またそんなこと言う」
「お母さんに散々苦労かけて、酔った挙句に車に轢かれちゃって。私たちには何にも残してくれなかったくせに……。私はお母さんだけで充分」
「お父さんが悲しむよ」
「……。あ、こんな時間だよ。帰ろ?」
 腕時計を見ると、短針は五時を指していた。最近ではこの時間帯でも視界が明るい。しかし寒気は冬のそれと変わらず、夕暮れに紛れながら急に下りてくる。
「そうね。寒くなってきたし。今日は付き合ってくれてありがとね」
「良いよ、どうせ学校の帰り道だし」
 それから時南と母は、手を繋いで家に帰った。

 1

 見事な桜が道の両脇に並び、その下では遠来の客たちが一様にござを敷いている。花見の時期なのだ。客層は様々で、親子連れや恋人同士、会社員の団体、どこかの大学生と、余りにもその数は多い。
 時南はその花見客たちの間を縫って、いそいそと歩いていた。目的の場所は道の突き当たり、園咲中学校だが、先ほどから自分は進んでいないのではないかという錯覚を覚えている。並の混雑ではないのだ。
 イライラが腹の底にたまる。
「おはよっ」
 声のしたほうを向くと、桜の一枝に佇む男子生徒がいた。
 学ランの襟に青いマフラーを巻き、耳につけた銀色のヘッドホンがやけに目立つ。髪は短めで無造作にセットされ、好青年の容姿だ。しかし何より特異なのは、彼の背後に見え隠れするふさふさとした茶色の尻尾だった。
「おはよー、って相変わらず腹立つわ。そこから呼ばれると」
 軽く笑って、器用に身をひるがえした生徒は、人の群れでごった返す地面の僅かな隙に、ピンポイントで着地した。
「今日も朝から元気だねー」
「時南はえらくご機嫌斜めだな」
「あは、当たり前じゃん。これだけ人がいて、その中を必死に歩かなきゃいけない私の気持ちが、【ネコノヒト】の明良に分かるとでも?」
 明良と呼ばれた生徒は、頭を掻きながら困ったような仕草をする。
「分かるよ、馬鹿言っちゃ困る。俺だって音楽がなかったら、時南みたいに歩いてるさ」
「ふーん……。まぁそんなところ見たとこないけど。だいたい【ネコノヒト】たちって」
 腕を組んで睨む時南に苦笑いしつつ、
「まあまあ。いいから早く行こうぜ。稽古が始まっちゃうよ」と、明良は登校を促した。
 時南と明良は、共に中学校の演劇部に所属しているのだ。
 話を中断させられた時南は頬を膨らませた。しかし、明良は素早く時南の背後に回り込むと、
「よいしょ」
 そのまま右腕を彼女の脇腹に滑り込ませ、持ち上げながら音もなく跳躍した。
「うわっ」
 時南が驚くより早く、次の瞬間に二人は、桜の天辺に降り立っている。
「ちょ、こ、こんなとこで持ち上げられたらパンツ見える」
「尻尾で押さえてやるよ」
「お尻触るってことじゃん! 痴漢、変態!」
 明良は時南を片腕で抱えながら、そのまま桜の木から木へと華麗な身のこなしで飛び去った。
 
 ◇
 
 いわゆる【ネコノヒト】は、常に好みの音楽を何らかの形で携帯している。好きな曲は、【ネコノヒト】の力を引き出すのに必要不可欠なのだ。彼らはまさにその能力を発揮するとき、体の一部が猫のようになることからそう呼ばれている。例えば、耳が猫のような三角の大きな耳に変化し、尻尾が突如として出現するように。
 彼らが日本でも発祥し始めたのは、今から四十年ほど前にさかのぼり、それは六十年代に、アメリカやイギリスから新しい音楽が日本へやってきた時期とも重なる。
 当初は人の突然変異、贖罪と忌み嫌われた【ネコノヒト】だが、遺伝子の研究が進んだ今でも正体はつかめていないようだった。それどころか、反比例的にその人口は爆発的に増え、今やマジョリティとしての社会的地位を確保している。
 時南と同学年の垣内明良《かきうちあきら》は、生まれたときから【ネコノヒト】だった。胎教で母が聞かせた音楽が、たまたま彼の体に合ったらしい。しかし現在、明良は【ネコノヒト】を端的に象徴する、得意な脚力や体のしなやかさを特に伸ばそうとはしていなかった。
 運動は彼の興味の対象外なのだ。明良の興味は演劇にあった。そして時南はそのことをもったいないと思っている。

 ◇
 
 体育館の入り口に辿り着くと、一足早く登校した演劇部員たちは、各自でストレッチや発声練習を始めていた。
「いい加減、下ろして!」
 時南は手足をばたばたさせ、腹に回されている明良の手を強引にほどくと、女子更衣室へと駆けて行く。
 それを眺めながら同じく建物の中に入った明良は、「おはよう、ジル」とあちらこちらで声をかけられた。明良は春休み中にある公演において、ジルという名の役を任されているのだ。
 一方、悠然とした足並みの明良とは対照的に、時南は顔を真っ赤にしながら女子更衣室へと入っていった。
 ジャージに着替えようとすると、室内の奥にいた女子生徒に呼びかけられる。更衣室には、先客がいるようだ。
「時南ちゃん。おはよ」
「あ」
 誰だか分かると、彼女は半瞬身を硬直させたが、
「……おはようございます彩香部長」と言って、乱れた呼吸を整えながら、首だけを女子生徒の方に向けた。
「あら、部長だなんて言われちゃうと、照れちゃうよ」
「じゃあ彩香さん、おはようございます」
「……ぶ、部長って呼んでもいいわ」
 彩香という名の生徒は、腰まである長い黒髪をなびかせながら近づいてきた。
 時南の一つ上、つまり四月で三年生になる上条彩香《かみじょうさやか》は、先の部長選において、演劇部を率いることになった部長だ。
 皆に選ばれた理由は様々だったが、根本で共通しているのは、彼女が魅力的な美貌の持ち主であり、加えてその類まれなる演劇センスにあった。
 演技のことなら彩香さんに聞け――それが演劇部の常識である。
「どう? 役作りの方はうまくいってる?」
「いや。難しいですが、頑張っています」
「そっかぁ、すごいねー。ただでさえ、お芝居がお上手なのに。私追い抜かれちゃうかも」
 彩香は少しあごを上げて、両腕を組んだ。
「今度の公演で、あなたと役が重なったときは悲しかった」
 にっこりと微笑んだ彩香は、時南の髪を右手ですくい上げ、
「折角の人材が、私に跳ね除けられて端役にまわってしまうんですもの。【ネコノヒト】じゃないのに、すごく頑張っている後輩を退けることになるなんて。部長としては、いたたまれないわ」
 高笑いをした彩香は、そのまま悦に入る。
 演技面では自他共に認められている彼女だが、彼女の性格が悪いこともまた、演劇部では常識だ。
 時南は拳を思い切り握り締め、負けじと言い返した。
「あはは、確かに先輩とぶつかったのは不運でした」
 自分の胸に手をあてると、
「不運過ぎますよね。【ネコノヒト】なのに加えて、お芝居の上手さを認められ、部長にまでせっかく上り詰めたのに。その部長になってからの初演を、主役で飾れなくなってしまうんですから……」
 彩香の厭味を真っ向からはねのけた。
 と思ったら彼女は既に、更衣室のドアから出て行くところだった。
「聞いてないのかよ!」
 激しくこける時南に、
「早く稽古場に来てね。いつもの【お相撲】が見たいから」
 そう言って彩香は更衣室を出ていった。
【お相撲】――それは時南の演技を評した渾名だった。一生懸命になるあまり、前へ前へと出て行く様子が、舞台監督によってそう名づけられたのだ。
 時南は入り口のドアに向かって怒鳴った。
「絶対負けないから! 【お相撲】なんて言わせないんだから!」
 
 2
 
 昼休みを告げる予鈴が鳴って、一時間の休憩がもたらされた。
 演劇部は真に運動部寄りの部活である。特に体力作りに重きを置くこの演劇部では、毎日五キロのランニングが欠かせない。それを終えてから発声練習やエチュードを延々と続けることで、午前は終わってしまうのだ。さらに春休みは時間がたっぷりとれることから、休憩のために開放された部員たちは、一様に安堵の溜息をついた。
 それぞれ、体育館の内外で昼ごはんのお弁当を開く部員たち。しかしそこに時南はいなかった。
 ではどこにいたのかというと……。
 ご飯を一緒に食べたがる明良に猫じゃらしを投げつけ、隙をついて屋上へと逃げおおせた。
「ありゃあ、一歩間違えたらストーカーだよ」
 息を切らしながらお弁当を広げた頃には、昼休みも半分が過ぎていた。
 空は突き抜けるような青さだった。
 時南は素早くお弁当を平らげると、さっそく台本を開いた。
 今度の公演で披露する演劇のテーマは、自分に合っていると彼女は思っている。
 熱望しているヒロインは、都会の路地裏で育った少女だ。名をアイシャ。幼くして亡くした父を思いながら、母を支え、やがて一人の男性と出会い、恋に落ち、幸せになるという結末だった。あまりにもベタな内容だったが、時南にとってはそこに自分と似た境遇を見ているから、思い入れが強い。
「アイシャになれるかな」
 台本を閉じると、立ち上がって金網から校門の桜を見下ろした。
「アイシャのお父さんと、私のお父さんが違うところ……何も残してくれなかったところ」
 時南は台本の中の父と、自分の父を照らし合わせた。
「【ネコノヒト】だったくせに」
 それきり、暫く独り言が途絶える。
 時南の父は【ネコノヒト】だった。そして、その中でも初期に発祥した類に入る。
 通常【ネコノヒト】となるには二つの方法がある。一つは、何の前触れもなく生まれた子がその力を持っていた場合で、六十年代の人たちがそれに当てはまる。もう一つは、両親のどちらかからその力をもらう場合だ。彼女の場合は、母がそうではないから、もらうとしたら父のほうだが、時南は【ネコノヒト】ではない。
「絶対、彩香さんなんかには負けたくない。【ネコノヒト】なんかには」
 一瞬、強く吹いた風によって舞い上がった桜の花びらを見ながら、時南は誓った。

 午後の稽古は、さらに熱を帯びた。
 役者を志望する者たちと、大道具作りに専念する者たちで別れ、時南は前者の輪に入った。役に対し、人数が重複している場合は上の学年が先に演じることになり、残った者は体育座りで、その様子を見つめる。見ることも勉強なのだ。
 彩香が長い髪を揺らすと、時南を一瞥して、舞台である講堂に上がった。
 物語は近現代のインド。主人公のアイシャ――彩香が、都会の路地裏で雨の中、膝をつき泣いているうち、イギリス人の青年、ジル――明良に傘を差し伸べられる場面だ。
 芝居が始まった。
 
「君……、大丈夫?」
 アイシャの背後に立ちながら、ジルが傘を傾ける。
「私、私……」
 続きを言おうとして、胸の辺りでつかえて言えないアイシャ。
「何かあったの? この時期の雨は体に毒だよ。とりあえず雨宿りをしないと……」
 言い終わらないうちに、アイシャがジルの膝に寄りすがる。
「私、どうしたらいいかわからなくて」
 頬を涙で濡らすアイシャが、懇願するように面を上げる。
「どうしたらいいか……」
 手を引き、立ち上がらせるジル。そのままいたわるようにアイシャの背中を撫で、道の傍らへと寄せる。
「何があったのかいってごらん? 悲しい顔をして」
 BGMはなく、まだ衣装も揃っていない。しかしアイシャは雨に濡れているようであり、ジルはその雨を彼女から避けてあげているようだった。雨は深い。
 
「はい、そこまで」
 舞台監督の二年生が声をかけ、その場面は終わった。
 一列に並んで座っていた部員たちは息を呑んだまま、動かなかった。
 静謐な空気を、彩香の高笑いが打ち破る。
「皆さん、そんなにかしこまらなくっていいのよ! 悪いのは私の方、お芝居の申し子の私がこの空気に変えたのがいけないのだから」
 部員たちは催眠が切れたように、はたと顔をあげると、いつもの愚痴をこぼした。
「彩香さんはあれがなかったらいいのに……」「外見も綺麗なのにな……残念過ぎる」「演技力と性格って、反比例なのかな」
 地獄耳の彩香は聞き逃さない。
 体育座りの時南の頭上を飛び越えた彩香は、悪口を漏らした部員たちを追いかけまわした。
「要するに、演劇馬鹿ってことなんだよね」
 時南は、誰にも聞かれないくらい小さな声で呟いた。
「じ、じゃあ次の人、どうぞ」
 苦笑いの舞台監督が、時南を呼んだ。
 舞台に上がると、明良が目配せする。
「【お相撲】、とるなよ」
「……。あんたこそキザなとこ抑えてよ」
 芝居が始まった。
 
 時南の表情が一変する。感情がこもるというより、いささか強張っているようだ。
「君……、大丈夫?」
 ジルが傘をさしている腕をアイシャに向かって伸ばした。
「私、私……!」
 後に続けて言いたいことを言おうとするが、言葉にならないアイシャ。
「何かあったの? この時期の雨は体に毒だよ。とりあえず雨宿りをしないと……」
 ほとんどジルの台詞にかぶさるように、アイシャが彼の膝にしがみつく。
「……私、どうしたらいいかわからなくて!」
 懇願するように面を上げるアイシャ。眼差しは大仰だが、涙は出ない。
「どうしたらいいか……!!」
 手を引き、立ち上がらせるジルは、力んでいるアイシャの顔を見て頬が引きつった。
 そのままアイシャの背中を叩き、道の傍らへと寄せる。
「な、何があったのかいってごらん? 悲しい顔をして……ぷっ」

「そこまでー!」
 舞台監督が合図した。
「二人とも息あってないよー。時南はもう少し抑えて。あんまり【お相撲】とらないでー。明日はもう選考会だからって、そんなに力まないで」
 見学の面々がどっと笑い出す。恥ずかしさの余り顔を真っ赤にした時南は、
「す、すみません!」
 と一声張り上げて、舞台をかけ下りた。
 体育館の壁越しに座ると、遠くからの視線を感じた。
 彩香が先ほど愚痴った部員の首根っこを捕まえながら、時南に向かって勝利の笑みを浮かべていたのだ。
 時南は羞恥心と怒りでうつむくと、次の出番まで面を上げなかった。

 3

 体育館を出る頃には、沈む前の強い西日が桜並木を照らしていた。
「もうまじで最悪」
 時南は肩を落として学校を出た。落ち込んでいる原因は、また【お相撲】と言われたことにある。この一ヶ月間、自分なりに努力を重ねてきた演技が、選考会を明日にしてその結果だったのだ。
「むかつく……あの舞台監督め。ていうか、この花見客もむかついてきた」
 先ほどから歩いているのに、一向に進まない。桜の周りを巡回する人の群れに、時南は押し戻されそうになる。
「あー、いらいらする」
 やっとの思いで桜並木も中盤を過ぎた頃、どこからか小さな丸い物が飛んできて、時南の頭にぽんぽんぶつかった。
「すいませーん。それ取ってくれますかー?」
 謝りもせず、ぶつけた物を取ってくれなどと抜かす輩に腹を立てつつも、仕方なく地面に落ちた物を見る。
 マタタビだった。
「この猫がー!」
 叫んで落ちていたマタタビの塊を掴むと、声のしたほうに思い切り投げつけた。
「はぁ、はぁ……」
 華麗なフォームのまま息を荒げているところに、声がかかった。
「ストライクー」
 桜の枝に立ちながら、手を眉に当て、遠くを眺めるような動作で明良がこちらを見ている。
「お前もかー!」
 落ちていたマタタビの残りを拾い、声のした桜の木に向かって投げた。
「にゃーん」
 躊躇なくジャンプした明良が、空に散らばるマタタビを見事にキャッチして……落ちた。
「おい! 俺に反応させるな!」
「あはは。良い気味じゃん」
 学ランについた土ぼこりを払いながら、明良が寄ってくる。ヘッドホンを外し、携帯音楽プレイヤーの停止ボタンを押すと、茶色い猫耳と尻尾が消えた。
「体育館からすぐ消えたと思ったら……。待ってくれないんだもんな」
「は? 私はあんたの彼女か」
 頬をひくつかせた時南が、反対を向いて歩き出すと、その後ろを明良も追いかけてくる。
「まぁ彼女っていうか、何ていうか」
「照れるな!」
 時南は拳を振るわせた。
「しっかし、今日は時南頑張ってたなー」
「頑張ってた? どこが。意気込み過ぎて空回りじゃん。挙句の果てにあんた、演技の途中で笑ってたし」
「ああ。あれはかなり鼻息荒かったね。膝にしがみつかれたときなんて、はっ倒されるのかと」
「そりゃ悪うございました」
「特に涙を流すところなんて、涙よりも鼻水が!」
「出てない! ……馬鹿にしすぎ」
「あはは。でもなぁ、あれで良かったんじゃないの? 緊張して声が出なくなるより良いし」
 時南が言葉を付け足す。
「でもあんたと息が合ってないし、静かな演技ができない」
 明良はいつの間にか隣に来ていた。時南を見下ろして、きょとんとしている。明良の背は、時南の顔一つ分高かった。
「そんなことを気にしてるのか?」
「あ、当たり前じゃん。あんたと彩香先輩の息はぴったりだったし。抑えた演技ができるし、実際私も見入っちゃったし……」
 だんだんと視線の下がりがちになる時南を見かねて、明良は背中をぽんと叩いた。
「痛いなぁ。人が凹んでんのに」
「彩香さんは俺に合わせてくれただけだよ。お前はお前じゃん。時南の持ち味はさ、もっと別にあるんじゃないの?」
 時南は明良の顔をまじまじと見た。
「私の持ち味? 何それ」
「分からん」
「……聞いた私が馬鹿だった」
「まぁ役決めはもう明日なんだし、今更悩んでてもしょうがないだろ。自分なりに頑張れよ」
「いい加減だなぁ」
 二人はまた歩き出した。帰り際、「元気そうでよかったよ」と言いながら、ヘッドホンをつけた明良は、尻尾を手のように振って、林立する住宅の塀を越え、軽妙に飛び去った。
 いなくなってから、「ありがと」と呟いて、時南は家へと帰ったのだった。
 
 4
 
 玄関を開けるとカレーの芳しい匂いが漂ってきた。靴を脱いで揃えながら、
「お母さん、ただいま」と言った。
 母からの返事はなく、代わりに聞こえてきたのは古めかしい鼻歌だった。
 明良の励ましと、カレーの匂いに気分を持ち直し始めた時南だったが、そのメロディラインを聞いた途端に顔をしかめ、居間のドアを通り越しそのまま二階の自室に上がっていった。
 母が歌っていたのは父が好きな曲だった。もうほとんど思い出せなくなっていたが、母がたまに口ずさんでいるのを少しでも聞いてしまうと、父の記憶が急に蘇ってくる。だからそのときは耳をふさぎ、何らかの理由をつけて母の傍を離れた。さすがに、歌わないでとは言えなかった。父に対する思いは、自分のそれとは異なることを知っていたからだ。一度、母に何故その歌を口ずさむのかと尋ねたが、返事は返ってこなかった。ただ、にっこりと笑っていた。
 自室に入って着替え、数分もすると階下から母が呼んだ。
「時南ーご飯だよー」
「はいよー」
 部屋を出ると、母が階段の脇からひょこっと顔を出している。
「ご飯なんだけど、その前にお使い頼まれてくれる?」
「いいけど、何を?」
「コンビニでレトルトカレー買ってきて」
「え。さっき作ってなかった?」
「ああ、作った作った。そして失敗した」
「ぶっ。焦がしたの?」
「平たく言えばそういうことね」
「平たくも何も焦がした以外ないじゃん。失敗って」
「まぁまぁ。お願い、時南ちゃん」
 母は掌を合わせて、時南にウインクした。
 
 七時を過ぎて、夜の帳は落ちている。家の周辺は静かだった。
 玄関を出て右に曲がり、百メートル程進むと、小さな市民公園の隣にコンビニはある。時南はつかつかと歩いていき、辿り着くと手早く買い物を済ませた。
 コンビニを出て、寒いから駆け足で戻ろうとしたときだ。
 通り過ぎそうになった公園から、聞き覚えのある声がした。
「ああ……」
 声のするほうを振り向けば、ブランコを照らす灯りの元に人影があった。
「私はあなたのことが好き。だけど……あなたと私では、何もかもが違い過ぎる。お父さんのことだってそう。私にはあのお店を取り戻す使命があるから。あなたには愛を打ち明けられない――」
 時南は訝しげに見つめていた。闇に目が慣れてくると、灯りに照らされた人物が誰なのか分かった。
 彩香だ。
 公園の周囲に植えてある、背の低い木々に隠れ、時南は様子をうかがう。
「この五階建ての古びたアパートからは、あなたのお家がよく見える。とても綺麗なお家。もしも、もしも私に何の枷もなかったら」
 かぶりを振って、彩香は言葉を止めた。それからブランコに腰を下ろしたようだった。
 彩香が今言っていたのは、舞台の台本だった。役の台詞をほぼ暗記している時南には、すぐに分かった。
「どうして彩香さんが、こんなところで稽古……?」
 自分よりも芝居の上手いライバルが、夜になってなお稽古をしているという事実。それが時南の胸をえぐる。
 彩香の右上から当たる街灯は、足元まで伸びている。
 時南は早く家に帰りたくなった。今夜寝る寸前まで、稽古しようと誓う。
 かがめていた背を伸ばし、足を家へと向ける。
 だが帰ろうとして、彩香の妙な話し方が気になった。
「……そうだよね。ごめん」
 まるで誰かと話しているような口ぶり。台本にないその台詞は、彩香そのものの言葉のようだ。街灯は彼女が見ている先までは照らしていない。闇に隠れた人物がいるのか。
 耳を澄ますと、相手の声も聞こえてきた。
「……いいえ。すみません。俺、もう帰ります」
 聞きなれた男の子の声だ。
「分かった。では明日」
「ええ」
 まさかと疑った。鼓動が早まるのを感じる。彩香の相手は、立ち上がると次第に光の中へと出てきた。
 だが予感は的中してしまった。彩香と話していたのは明良だったのだ。
 時南は慌てて、茂みの中に身を沈めた。明良は公園の入り口まで来ると、猫耳と尻尾を出して、時南の前を通り過ぎ、飛び去った。
「明良と彩香さんが、どうして一緒に」
 思ったことが、思わず声に出た。二人で稽古をしていたのだろうか。だとしたら、どうしてライバルに手を貸すような真似をするのだろう。
 胸裏にやり場のない暗鬱が染み出た。私に付きまとう普段の明良は、仮の姿なのか。私は二人に騙されていたのだろうか。動揺が首をもたげて、時南の肩にのしかかった。
 家に戻ると、母に頼まれたレトルトカレーを渡して、自室のベッドに潜った。選考会は翌日なのに、最後の稽古をする気分になれなかった。二人が公園に居た理由を考えてしまうと、気もそぞろになる。
 結局この日は、夜ご飯を食べずに寝てしまった。
 
 5
 
 明け方、父の夢を見た。
 そこはぼんやりとした桜並木。時南がその中を徘徊していると、桜吹雪から現れた影が鼻歌を歌いながら寄ってきて、彼女の肩を叩いた。顔がよく見えないが、父だと思った。時南は言葉を発しようとしたが、声が出ない。父は時南の頭を優しく撫で、また去っていった。
 目覚めると、時南の耳には鼻歌が残り、頬には涙の跡があった。
 選考会の朝を、最悪の気分で迎えた時南は、それでも素早く登校の準備をした。
 一階の居間で用意されていたパンを食べ、早めに出かけようと玄関に赴く。
 母がついてきて、
「晩ご飯のお買い物頼むかもしれない」
 連絡用の携帯電話を渡した。
「頑張ってね」
 言葉を添える母に、背中で返事をしながら、スカートのポケットに預かった携帯電話を落とした。
 
 桜は今日も見事だった。絢爛豪華とはこのことだろう。まるで今朝の夢に見た、桜吹雪のようだ。そしてそれとは対照的に、時南の気分はかげっている。昨夜の出来事が尾を引いているのだ。
 故に。
 先ほどからうるさく時南を呼ぶ声も無視している。
「時南ー」
 時南の歩調に合わせて飛んでくるその声は、木々の間を軽妙に飛び回る、明良のものだった。
「時南ー。おーい」
 名を呼ばれるたび、時南は目を伏せた。
「おいったら」
 突然肩を叩かれ、視界の少し上で展開されていた台本が途切れ、代わりに明良の顔が飛び込んでくる。
「ぎゃあ!」
「選考会のこと考えてたのか? あんまりぼーっとしてるとこけるぞ」
 目と鼻の先にある明良の顔には、笑みがこぼれていた。
「お化けみたいに、いきなり出てこないで」
「さっきから呼んでたよ。お前が気づかなかっただけじゃん」
 いつの間に買ったのか、明良は見慣れぬヘッドホンをしていた。
「別に、気づいてた」
「えっ、そうなん?」
「……そうだよ。だからどうしたの?」
「どうしたってこともないけど」
 まぶたに、昨夜の公園の一幕が思い出された。
「まぁ、つれないのはいつものことだけどなー」
 時南が歩き出したので、明良も向き直り、その横についていく。
「それより、今日はうまくいきそうな感じ?」
「さあね。頑張るけど、結果なんて分からないし。それに」
「それに?」
「裏で仲良く練習してるあんたたちに、勝てそうもないしね」
「あんたたちって?」
 歩みを速める時南に、明良は追いすがる。
「明良と彩香さん」
「俺と彩香さん?」
「仲、良かったんだね。昨日公園で……」
 言いかけて、時南は終わりまで言うのをやめた。
「まあいいよ。私先に行くから。あんたに構ってる暇はないから」
「ちょ、ちょっと待てって。公園でって?」
「もういいよ。【ネコノヒト】は猫同士で仲良くやってれば。私急ぐんだから、じゃあね」
 時南は駆け出して、正門をくぐった。
「え」
 取り残された明良は、暫し呆然と立ち尽くしていた。
 
 ◇
 
 選考会の空気はまさに張り詰め、はち切れそうだと時南は感じた。
 午後一時から、それぞれ希望の役が重複している部員たちが、課題のシーンを演じていった。ヒロインのアイシャを希望する者は、時南と彩香の二人だけだ。そしてそれは台本決めの以前から予想されていたことであり、つまりは彩香とヒロインを争う猛者が時南以外にいないことを示している。
 午後三時十分。女子更衣室にいた時南に、お呼びの声がかかった。
 ついに順番が回ってきたのだ。時南はロッカーの鏡で、今一度衣装の襟を正した。
 スカートは制服のそれだが、ジャケットは本番の衣装と同じもので、気合が入った。ラメの入った赤色の髪留でお下げを二つ作ると、鏡の中の自分を見つめる。
 顔が強張り、眉根が寄っている。
 このままじゃいけないと、両手で頬を軽く叩く。
 ――負けない。絶対に。
 明良も、自分のライバルも【ネコノヒト】だ。それだけで、父を連想させる【ネコノヒト】。時南は夢で見た父と、昨日の明良と重ねた。明良も笑顔のまま、自分の元から去ったのだ。所詮、【ネコノヒト】は【ネコノヒト】だ。
 腐りそうな気持ちが切り離せない。しかし時間は過ぎて、
「時南ちゃん、出番! 早くー」
 女子更衣室のドアから、同学年の女子がひょこっと顔を出した。
「ごめん、今いくね」
 返事をして、ドアを開ける。
 舞台では、彩香の演技がちょうど終わるところだった。
「はい、カットです!」
 舞台監督が、右手に持っていた台本を勢いよく左手に打った。
 部員の面々は、拍手で張り詰めた空気を解放する。
 絶賛だった。
 照れながら頭をかく明良の隣で、彩香はこちらを見て不敵に笑った。
 彩香は歓声に答えながら、さも満足げに舞台を降りた。
 時南は舞台上で待つ明良を一瞥し、無言でおもむく。明良のせいで集中できない。苛立ちが募る。
「じゃあいくよー」
 三時二十分。
 丸めた台本を叩く乾いた響きが鳴り、舞台が始まった。
 
 時南は、明良に背を向けて芝居を開始した。
 場面はヒロインのアイシャ――時南が、ジル――明良と恋に落ちた後、亡き父の経営していた花屋を取り戻したところだ。クライマックスを迎える大切なシーンである。
「ついに、戻ってきたんですね……」
 ジルが視線をゆっくり上げ、花屋を見ながら、アイシャの背に向かって言葉を選ぶように告げる。
「君の元に、全てが戻ってきた。お父さんもきっと喜んでいるでしょう」
 アイシャの腕を取り、花屋の方を向かせるジル。
「ええ。父を亡くした時、私は何もかも失ったと思いました。この世から光りが消え、目に映るものが色を失ったようでした。ここまでこられたのは、あなたのおかげです……」
 花屋を見るアイシャ。仰ぎ見る表情には、感慨が灯る。
「全てはあなたが私にさしてくれた傘から始まりました。あなたと出会い、一つ一つの坂を乗り越え、時には不満を漏らし……」
 台詞と気持ちが連動して、気持ちが移り変わる。
「打ちひしがれ、私が自暴自棄になったときにも、あなたは傍にいました。傍にいてくれました……」
 ジルの方に向き直るアイシャ。
 時南は昨夜以来、明良の顔を正面から見たことがなかった。目の前に立っているのは、少なくとも表面上はいつもの明良だった。それが、時南の思う内面と余りにも対照的で、唐突に悲しみがこみ上げてくる。
 胸中で思いが錯綜すると、焦りが生じ始めた。
「改めて御礼を言わせてください」
 気持ちとは裏腹の台詞を言い、足元に視線を下ろす。
「ありがとう」
「御礼を言うのは僕の方です。君がいたからこそ、僕は僕の事業をやってこれた。君を心の拠り所とした。僕が深夜、悩みに目を閉じると、君の笑顔があった……」
 時南は明良の顔を見上げると、目を剥がせずに立ち尽くした。
 元気を出せという明良がいた。仲良しの腐れ縁だと思っていた。それが案外と心地よかった。でも、明良は私と同じ思いではなかったのだ。
 アイシャの肩を抱くジル。
 二人の距離が近づくと、抗いようのない拒絶が、心に染み出す。
 本来なら、ジルの言葉を耳にして、互いの思いを確認するような芝居が求められる場面だった。
 だが、表情は次第にかげっていく。事前の役作りから、気持ちが離れる。
「この傘をお返しします。太陽が陰っても、常に雨を避けてくれたこの傘を」
 ジルは古びたその傘を両手で見てから、アイシャの前に差し出した。そして、静かに話を切り出す。
「この傘は元々僕の物ではないのです。僕も君に出会う前、この傘をある人物から頂きました。その人は不幸にも今は他界しましたが、立派な娘さんを持っていらっしゃった……。この傘は、その人の物なのです」
 傘を落としそうになるアイシャ。その傘を右手で捕まえるジル。
 その手を見て、ついに台詞と外れたことを言ってしまった。
「どうして……」
 両手を胸の前で組み、
「どうして、父は離れていったの? あの日以来、つらかった。お母さんと私は今まで頑張ってきた。父の幻を夢に見ながら。どうして、あなたは去ろうとするの? どうして」
 時南の声はうわずっていた。
 明良は半瞬硬直し、視線で台詞から外れていることを知らせる。
「き、君のお父さんのことは分からない。で、でもお父さんは、いつでも見守っていると思うよ。君が君の道からはずれていても、いつでも見守っていて……」
 明良が表情を崩したのが分かった。
 はっとした。時南は芝居から脱線していることに、初めて気づいた。
「もう、駄目……」
 舞台監督の声が掛る前に、時南は舞台を駆け下りた。
 静かに見入っていた部員たちは、何が起きたのか分からず、姿勢を崩さなかった。むしろ、演技が続いているように見えているのかもしれなかった。
「時南!?」
 明良が固まった時間から解き放たれた。彼女の後をすぐに追いかける。
 
 6
 
 時南は体育館の入り口へと走った。
 途中で、どうしてか苦渋の表情を浮かべている彩香にぶつかりそうになり、弾かれるようにかわした。
 体育館を出ると、向かいの西棟校舎の階段を駆け上がった。
 もつれる足を動かして屋上に辿り着いた。外は晴れやかな空だった。
 屋上の端まで歩くと、一部破れた金網の間から、桜色に染まる景色があった。
 寒暖の混じった風が、髪を撫で後ろに去っていく。
 膝に手をつき、肩で呼吸をしながら、時南は致命的な失敗を悟った。
 安易なミスだった。芝居に集中していないなど、初歩的なミスだった。あれほど努力してきたのに、それがふいになってしまったのだ。
 呼吸が整ってくると、涙腺が緩んだ。明良を、彩香先輩を、そして父を――意識しすぎたのだろうか。後悔の念より、ただ胸中に浮かぶそれぞれの顔を思った。
 唐突に、時南を呼ぶ声が屋上に響いた。
 明良が、自分を追いかけてきたのだ。
「どうしたんだ?」
 ちらりと明良の方を見る。
 声を張り上げようとしたが、言葉は喉に引っかかって出ない。
「お前」
「……あっちいってよ」
 弱みを見せまいとする時南は、声を振り絞った。
「私はアイシャになれない。もう放っておいて」
 時南は金網に背中を預けて、座り込んだ。金網の破れた部分がきしんで、クッションのように時南を包んだ。
「泣いてる……のか?」
 距離を確かめるように、明良は近づいてくる。
「放っておけるか。選考会の最中なんだぞ」
「分かってる。でももう終わったから」
「終わってねえよ。お前、見えてなかったのか? 演技に見惚れて、目を輝かせてた部員の……」
 時南はかぶりを振った。 
「そんなわけない。私は集中できてなかったんだから。もう励ましの嘘はいいよ。私、分かったんだ。【ネコノヒト】には敵わないんだよ」
「励ましの嘘?」
「どんなに頑張ったって、所詮、報われないことになってるんだよ」
 明良の顔が、急激に強張っていった。
「いい加減にしろよ。お前らしくない」
「私らしいって何なの? 努力が空回りして、力みすぎては馬鹿にされて」
「でも頑張ってた。それがついに、報われようとしてしてたんだよ!」
「嘘。私が一番分かってる。本番のとき、頭に別のことがよぎってた。気持ちが入ってなかった。それだけがとりえなのに……笑っちゃう」
 時南は卑屈に口を歪めた。
「分かってないのはお前じゃんよ。気持ちが入ってなかった? 知らねえよ。お前の胸の内は誰にも分かるわけない」
 言葉を一旦切って、さらに明良は近寄った。
 西棟校舎にぶつかった風が壁を上り、屋上をかすめていく。
「でも分かるか? 俺は時南が、いやアイシャが胸に秘めた思いを探ろうとして必死だった。お前の言葉から、指先の演技一つから捕らえきれないくらいの感情が伝わってきた」
 堰を切ったように言葉を尽くす。
「少なくとも、さっきの俺たちはすごかった。それは部員たちにも伝わっていた。舞台監督の顔、見てたか? 時南に魅了されたあの表情を。彩香さんの、悔しそうな表情を」
 明良の言葉は不可解だった。舞台上から皆の顔つきを見る余裕などなかったのだから。
「う、嘘だよそんなこと」
「嘘じゃない」
「だって! 私は【ネコノヒト】に勝てないんだもん……」
「さっきから【ネコノヒト】って。そんなに【ネコノヒト】がうらやましいのか?」
「羨ましいよ! あんたには分からない。いつも思ってたよ。私とあんたの違いを、私と彩香さんの違いを。明良は【ネコノヒト】同士で仲良くやってればいいじゃん」
 時南は歯止めが利かなくなっていた。いつの間にか、声も震えている。
「【ネコノヒト】同士ってどういうことだよ」
「あ、あんたと彩香さんだよ。昨日見たんだから」
「何を?」
「二人で演技の練習してるのを」
「誰が?」
「……彩香さんと、あんたが」
「はぁ? 何言ってるの?」
「とぼけないでよ。昨日会ってたじゃん!」
 時南は怒りと羞恥で、自分の言葉が理解できていなかった。いや、理解はしているが言いたいことが止まらない。
「とぼけるも何も、練習なんてしてない」
「嘘嘘嘘! コンビニに行った帰り、見たよ。彩香さんと公園にいたの」
「公園に……」
 明良は暫く言葉を反駁してから、気づいたように目を見開いた。
「あー、あれか……」
 時南の目に涙が溜まっている。戸惑いつつも、明良は呆れ顔に変わった。
「お前もしかして、そんなことが気になってたのか?」
 言い当てられた時南は顔を真っ赤にし、俯いた。
 と付け足した。
「買い物帰りにたまたま会ったのさ。帰り道の公園でね」
 腰に手をかけ、一旦下を向いた明良が気を取り直したように面を上げる。
「俺は昨日、駅前のデパートに行ったんだ。買い物があってね」
「…………」
「朝見ただろ? 俺の新しいヘッドホン。あれ買ったんだ。その帰りに公園を通ったら彩香さんがいたんだ。ちょうど稽古を終えた後のね。そこで俺は一緒に練習しようと誘われた。でも俺は断ったんだ。不公平だからね」
「……そんな、嘘」
 時南は整理しきれない情報を前にし、へたり込んだ。腰が抜け、お尻をぺたんと落とす。
「嘘じゃない」
「だってあんなとこ見たら」
 時南は声を上げて泣きだした。それを見た明良が、
「勘違いも程ほどにしとけよなー。そんなことで芝居中に気持ちが散漫になったのか」
 明良が腕を組む。時南は全身の血が熱くなった。完全に自分は誤解をしていたのだろうか。認めたくはなかった。
「帰ろうぜ」
 明良は一段落したことに安心して、時南を体育館へ連れ戻そうとする。
「いや……帰れない。今更駄目だよ、それに集中できなかったのは、それだけじゃないもん!」
 お父さんのことが、と付け足すつもりだった。
 不意にぱちりぱちりと音がして、視界が揺らぐ。
 明良の姿がふっと消え、目の前に青空が広がった。
 風が吹いた。
 西棟校舎の外壁をぶつかり、しなやかに伸び上がる風に乗って、桜の花びらが舞う。大量に、吹雪のように。
「あ……」
 背中を預けているほつれた金網が、ほどけていくのだと分かったのは、金網の向こうに再び明良を見たときだった。
「時南」
 背中が重力から開放され、屋上の床を越えて中空へと傾いていく。
 明良から、ほぼ無表情のまま反射的に伸びた右手。
 それが弧を描き、空気を虚しく掻き抱いた。
 時南も手を伸ばすが、僅かに届かない。
 粘着質の濃い時間。
「とき……!」
 静謐な空間に、桜の匂いがした。
 花びらが無数に浮かんでいる。
 綺麗。
 ゆっくりと屋上から投げ出される時南。
 そのとき、不意にどこからか音が鳴った。
 停止したように思える時間の中で、一つだけ自由な存在だった。
 時南はそのメロディに懐かしさを感じた。
 聞くだけで、琴線に響く音階。古い曲なのに何故か知っているその曲。
 音の出所は、携帯電話だった。
 母から晩ご飯の買い物を頼まれていたために持っていたそれは、スカートのポケットに入っている。
「お父さん」
 父を呼んだのは、いつ以来だろうと思った。
「お父さん、助けて」
 何も残してくれず、もう見限っていたはずだった。それなのに、時南は驚くほど素直に助けを求めていた。
 時南は目を瞑った。
 暫くの沈黙。
 …………。
 …………。
 音が何もしない、着信メロディを除いては。時南はその音階に合わせ、ゆらゆらと体を揺り動かした。心地よかった。
 自分は屋上の金網から、放り出されたのだ。
 校門前のコンクリートに叩きつけられ、即死は免れていないだろう。そういえば、体のどこにも痛みがない。
「時、南……」
 近くで、私を呼ぶ声。
「近くに?」
 時南は自問した。
「時南」
 何故明良の声が聞こえるのだろう。屋上から地面までは、そうとうな距離があるのに。
「時南、おい!」
「何よ!」
 ついに時南は目を開いた。
 すると、誰もいなかった。奇妙なことに、声は背中の方からしている。
 振り返ってみる。
 膝をつき、あんぐりと口を開け、明良がこちらを見つめている。
「間抜けな顔……」
 時南は笑いそうになる。先ほどの口喧嘩はもう頭になかった。
 明良は右手の人差し指で、時南の方を指差したまま硬直している。
「それ、見てみろ」 
「あぁ? 何よそれって」
「……いいから見ろ」
「見ろ見ろって。何でいつも命令口調なの!」
 口を閉じ、ぷっくりと頬を膨らませながら、明良の視線の先を見た。
 そこには金網があり、柔らかな毛並みをたたえた、黒いロープのようなものがまとわりついている。
 まるで動物の尻尾のようだった。
 そのまま、行方を目でたどる。
 それは、スカートの中から出ていた。
「何これ?」
 尻尾とスカートを時南は交互に見返した。
「あはは、尻尾みたいのがある」
 状況を理解できない時南は、お笑い番組でも見ているように笑い出した。
 その様子を呆けて見ていた明良は、やがて思い出したように、がっしりと時南を抱き寄せ、屋上の床に下ろした。
 時南は尻尾を手で握り締める。
 強く引っ張ると、腰に痛みを感じた。
「私のお尻から生えてる……の?」
 不可思議な思いに囚われた時南は、頭の天辺から足のつま先まで、全身を隈なく触ってみた。
 変化は尻尾だけではないようだった。
 耳が大きく三角に尖り、ふさふさした毛で覆われていた。
「あ、お母さんから電話だった」
 着信メロディが鳴ったままであることに気づいた時南は、ことの次第を飲み込めないまま、ポケットから携帯電話を取り出すと、ボタンを押した。
「あー時南? お母さんだけど」
「ああ、うん」
「選考会は終わった? どうだった?」
「終わったには終わったけど、終わりというか終わってしまったというか終わっちゃったというか」
「終わったの五段活用ね」
「上手い! 座布団三枚」
 母はいつでも調子がいい。
「ところで、今日の夜はカレーにしようと思うんだけど」
「いいねー……あ、そだ」
 うわ言のように同意してから、時南は重大な変化を母に報告した。
「お母さん、私尻尾生えた」
「あらそう。……って、ええ!」
 電話越しに、盛大な物音がした。仕事場の椅子から落ちたようだった。
「生えたのね、そっかそっか。よかったね」
 母の声はすっかり震えた。
「どうして私、尻尾が生えたの? 私も【ネコノヒト】なの」
「【ネコノヒト】というか、【ネコノヒト】だったというか【ネコノヒト】になったというか【ネコノヒト】」
「座布団持ってってー」
「厳しいよ! 私は三枚あげたのに」
 電話越しに深呼吸をした母は、すぐに調子を取り戻したようだった。
「それより、じゃあ玉ねぎと人参とじゃがいもとマッシュルームとお肉とカレーのルーとサフランとお米五キロ買ってきてねー」
「全部じゃん! ていうか昨日もカレーじゃ」
 突っ込みを聞かずに、母は電話を切った。
 それと同時に、時南のネコ耳と尻尾も消えたのだった。
 
 7
 
 橙色の空が綺麗だ。
 校門前の桜並木は夕暮れを迎え、いよいよ人の活気でむせ返り始めている。並木の端から端に渡された、上品な色の提燈に火が灯った。
 二人は立ち上がって、金網越しから目下の桜並木を見つめていた。
「お前も【ネコノヒト】だったんだな」
 明良が言った。
「そうなんだろうね。生えちゃったし」
「生えちゃったって……。まぁとにかく、助かって本当によかった」
「……うん。ありがと」
 時南は鼻歌を歌い始めた。
 父の好きな歌――それは母の携帯電話の、着信メロディになっていた。
 音になびかれて、時南の耳に変化が現れ始める。黒い尻尾がゆっくりと首をもたげた。
 今まで抑制されていた、父の記憶。それを辿ると、意外にもきちんと再構成されて、時南の胸に蘇った。
 去り行く背中に、思い出はないと思っていた。
 そう思い込んでいた。
 しかし今、時南のまぶたには、ちゃんとしたエピソードが色を帯びている。
「とっても幼かった頃。一度だけ、私、お父さんに叱られたことがあった」
 誰に言うともなく、時南は話し始めた。
 それは夕飯の仕度の最中だった。時南はテーブルの上に上がり、食器並べを手伝っていた。いつもなら何てことないその行為。しかしその日は、皿を床に落として、私もフローリングの床に落ちてしまった。幸いにも打ち身だけで済んだけど、泣きじゃくって止まらなかった。
 父は時南のことを叱った。手伝って褒められたかったのに、悔しかった。
「でも、何故幼い私が、テーブルの上に上がることができたかってこと……。私にも、ネコ耳と尻尾が確かについていたんだ。お手伝いをして叱られた私は、それがきっかけで【ネコノヒト】になれなくなって」
 いつしか、時南の頬を涙が伝っていた。
「そのまま、お父さんが亡くなって、私は今まで【ネコノヒト】になることはなかった。この力自体を、お父さんの記憶と共に、封印してしまっていた」
 桜の匂いを含んだ風が、時南と明良の間を柔らかく去った。
「お父さんのこと、ずっと悪く言っちゃってた……」
 語り終えた時南に、明良は目を細めた。
「今から感謝すればいいんだよ。何事も手遅れなんてないんだから」
 明良は、眼下の桜を見下ろしていた。
 夕陽は桜並木の向こう、駅前のビルででこぼこした地平線にもたれかかっている。
「あ!」
 と、明良が唐突に叫んだ。
「やべ、行かないと」
「どこに?」
「選考会の発表に決まってるだろ。そろそろ、体育館の外に張り出されてるはずだよ」
 時南は表情を曇らせた。
「……明良だけ行きなよ。私は落ちちゃったもん」
「そんなことない。お前は受かってる」
「えー、だって途中で飛び出しちゃったし」
「絶対大丈夫。俺が保証する」
「あんたに保証されたって」
 頬を膨らませる時南に、
「あははは。まぁ行こうぜ! ちょっと携帯貸して」
「え? うん、いいけど」
 明良は携帯電話を何事か操作すると、先ほどと同じ着信メロディが鳴り出した。
 途端に猫耳と尻尾が、二人に表れる。
「え? その尻尾、どうして……」
「俺もこの曲、好きになったのさ」
 時南は何故だか、顔中が熱くなるのを感じた。
 明良は時南の背後に回りこむと、右腕を彼女の脇腹に滑り込ませた。
「うわっ、何するつもり!」
「早く選考会の結果が見たいから、校舎の壁を降りるんだ」
「……それ、死ぬって!」
 明良は時南を脇に抱える。
「だから、パンツ見えるっちゅうに!」
「尻尾で押さえてやるって」
「結局お尻触るんじゃん! 痴漢、変態!」
 桜の花びら舞い踊る中、二人は西棟校舎の壁を駆け下りていった。


                                                  了

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