『自転車』

『自転車』

著/芹沢藤尾


 私はまだ小学生の頃、休日になると自転車に乗ってやたらと遠くに出たがる病気があった。
 ママチャリのハンドルだけをトンボ型に取り替えただけの、ギアチェンジもないエセマウンテンバイクで、十キロも二十キロも先の街や山に出かけては、自販機でジュースを買って一服し、特に目的もなくその周囲を探索して帰るだけの日帰り小旅行を繰り返していた。
 放浪癖というには遠く及ばない。単に自転車に乗って走るのが楽しくてしょうがなかったのだ。それは未知の文明に遭遇したときの興奮にさえ近いものがあったかもしれない。
 私は運動神経が良かったとはお世辞にも言えない子供で、自転車の補助輪を外すことができたのはクラスで一番最後。もう小学校の二年生になった頃だった。幼稚園の頃から一緒に遊んでいた、ひとつ下の学年の友達が先に補助輪を外したのを、実に悔しい思いで見ていたものだった。
 その反動だろう。いよいよ自転車から補助輪を外して自在に動かせるようになると、私はバカみたいにそれを乗り回した。朝食を食べると自転車にまたがり、昼ごはんを抜いて夕方まで線路沿いに走っては、見たこともない道を通って行った事もない街に行き、当然のように道に迷って夕飯に遅れて両親の説教を喰らうというのが、日曜日の過ごし方となっていた。
 腰のポーチにありったけの小金を入れたガマグチ財布と、ゲームボーイと通信ケーブル、それにお下がりでもらったテープレコーダーを詰め込んで、当てもなくぶらぶらした。
 休日に遊ぶ友達がいなかったわけではないが、彼らとは平日に学校で毎日会っていたし、放課後も大体似たようなメンバーで遊んでいたので、休日には見知らぬ土地で、見知らぬ誰かと出会いたかったのだ。今思えば、子供のくせにずいぶんと老けた考え方をしていたと思うが、実際それでずいぶんと多くの人たちとも知り合った。中には昔一度だけ遊んだだけの弟分とドラマチックな再開をしてみたこともあった。
 はじめて行った町では、その日限りの友達になった子もいれば、中学くらいまで続いた関係の子もいる。
 彼らの中には公園のベンチで一人でいた私に声をかけて遊びに誘ってくれた者もいたし、遠巻きに眺めているだけの者もいた。私は小学校の中学年くらいまでは、自分から積極的に声を掛けるようなことはしなかった。見知らぬ土地で不安になっていたのではない。むしろ見たことのない町並みや、はじめて見る公園の遊具などに興味津津だった。自分から彼らのコミュニティに加わろうとしなかったのは、公園のベンチに座って、一人で飲むコーラの味を堪能したかったのだ。
 どうもその頃の私は、世間から外れて一人でいることを格好良いものだと思っていたらしい。多くの少年が思う、アウトローへの憧れを私も抱いていたのだ。ただ、一人きりでいたのはやはり小学校の中学年頃までで、高学年に上がる頃になると、私はそれまで作ってきた各地のコミュニティーを市場として利用していった。
 当時、世間ではポケモンが第一次ブームの真っ最中で、私は友人から譲ってもらった本物のミュウ(ポケモンは面白いくらいにバグの多いゲームで、ミュウにはメーカーがイベントで配布している「純正」と、バグ技で生み出す「パチモノ」の二種類があった)を自転車で廻った遠くの町のコミュニティで、一匹五百円で売りさばいていた。
 ポケモンでは他にも色々な裏技、バグ技を使い、正統派のプレイばかりの小学生達を相手に荒稼ぎしていた。当時の月での小遣いが千円程度だったが、この副業では月にその五、六倍の収入が見込めた。
 小学生の小遣いで毎週自転車旅行なんかできるはずもないので、旅費稼ぎにはこうでもしないとやっていられなかったのだ。ただ、売り上げがいいときにはそれこそ一万円に届く月もあり、あげている小遣いの割りに羽振りの良い私を、両親が訝しがっていた。
 一度父親と自転車でツーリングに出かけた際、立ち寄ったコンビニで顧客の一人に声を掛けられたときには、内心ヒヤヒヤものだった。無邪気に私を見つけて喜んでいる子供とは反対に、当の私は同い年や年下の子供相手に荒稼ぎしていたことがバレたらどうしようか、などと考えていた。
 幸い、その時には何事もなく終わり、そのまま祖母の家に行って小遣いまでもらったが、そのときの私は地元の学校でやろうかと考えていたポケモンの販売は諦めようと決めた。バレたらどうなるか、ということを小学生の豊かな想像力の限界まで考えてしまったせいだ。
 このポケモン行商は中学生になってからも続き、私は市場開拓のためにさらに遠くの町へと出かけるようになった。裏技の情報交換を通して仲良くなった子もいるし、新参者の私を快く思わないでいた子もいた。そうして稼いだ金で、プレステまで買えたのだから、本当にポケモン様様であった。
 で、相方の自転車の方となると、その頃にはもう小学生時代から数えて三代目に継承されていた。
 初代のエセマウンテンバイクは、中学に上がる前にサイズが小さくなってしまい、親戚の子供に押し付ける様にくれてやった。
 二代目は、誕生日のプレゼントに買ってもらったマウンテンバイクで、うれしくてこれもバカみたいに乗り回した。なにかの映画を見てドリフトに凝っていた友人が、後輪で急ブレーキをかけてタイヤ痕をアスファルトに刻むのに夢中になっていて、私もそれに付き合って自転車のケツを右に左に振り回した。
 結果、タイヤに負担がかかりまくり、私の自転車の後輪は蛇がのた打ち回ったかのように歪な形にゆがんでいた。よく一緒に遊んでいた友達からは「お前の後ろを走っていると、いつか車輪が飛びそうで怖い」などと言われた。
 それはいくらなんでも大げさだろう、とタカをくくっていた私だが、街中で偶然母親に出会った際、後輪のゆがみ具合のあまりの酷さに金を渡され、自転車屋に行って車輪の交換を迫られた。
「何をどうしたらここまで歪んでくれるのか」とは自転車の店長の弁である。そこまで言われて車輪の歪みがどれだけ酷かったのかを知った私だが、おかげで愛用の自転車は車輪交換のために一週間の「入院」を余儀なくされ、同時に私の商売も一週間の休業を迫られた。
 ちなみに、二代目の臨終は退院から半年程度で訪れた。行商とは関係のない自転車旅行に出かけた際、カーブを曲がろうと後輪のブレーキを掛けた瞬間、破滅的な音とともに、ブレーキワイヤーが盛大に引き裂かれたのだ。
 しょうがないので旅行は諦め、すごすご家に帰ることにしたのだが、前輪ブレーキだけで自転車を操作するのはもう二度と勘弁だと思った。ちょっとスピードを出してしまうと、ブレーキを掛けた瞬間に後輪が浮き上がってしまうのだ。最初は修理も考えたのだが、もういろんなところが耐久の限界に来ていたらしく、何処かを直しても何処かが次に確実にイカれるという重症患者さながらの状態になっていたため、悩んだ末に延命治療は行わずに翌週には粗大ごみとしてモルグ(ゴミ捨て場)行きとなった。
 この二代目は初代で開拓した市場を駆け回る行商としての相方で、彼のおかげで稼げた金額は総額で十万円近くになっただろう。そのほとんどはゲームやプラモに消えてほとんど残らなかったが、当時川崎に住んでいた私は、東京や横浜の子供はずいぶん金持ちなんだなぁ、と感心させられたものだ。
 初代が市場開拓、二代目が行商で大活躍してくれたのに比べると、三代目の立場は相当弱い。というか、ちょっと話せることがない。
 二代目の逝去から一年半。ようやく買ってもらった三代目なのだが……半年もしないうちにパクられたのだ。
 イトーヨーカドーに友達と、パーティーのプレゼントを買いに行ってうっかり鍵を閉め忘れたらしい。思えば、これまでの自転車が無事であったことのほうがよっぽど奇跡的だったのかもしれない。昔から物をよく忘れる癖があり、二代目の時にもチェーンロック(だけ)を何処かに忘れて来たこともあった。
 三代目の失踪と前後するように、極々身近だった親戚が病気で入院し、週末はその親戚への見舞いに費やされるようになった。私も私で高校受験が山場に入り、自転車で遠出するようなことはめっきり少なくなった。
 高校入学を機に新しく四代目を購入したが、それはもう新しい土地への探検や、行商といった役割を担うこともない、単純な足の延長としての自転車だった。行く場所は横浜から神保町までの半径二十キロ圏内に収まるようになり、私は道中で時折見かけるようになったブックオフで立ち読みをしては、帰りにわざと小道に入り、何処か見知らぬ場所に出はしないだろうかと淡い期待を抱いては道に迷うようになった。
 けれど最近は、もう道に迷うこともなくなってしまった。
 それを悲しいことだと思う時もある。道に迷うということは、自分が新しい場所に足を踏み入れるということでもあるのだから。
 今度、また何処か知らない場所にいってみようか。
 後輪が少しだけ歪んだ四代目の自転車を眺めて、最近、そう思うことが少し増えた。
 今はちょうど夏休み。時間はたっぷりあるのだから。


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