『蛍』

『蛍』

著/星見 月夜

原稿用紙換算45枚


 どうして苛立っているのか、説明する気にはなれない。ただ運が悪かったとしか思えなかった。
 とばっちりのように不運は降りかかり、俺に出来ることといったら苛立つことと、愚痴ることくらいだ。
 そう、例えばツレと酒でも飲みながら。
「――分かったよ。じゃあな」
 携帯の通話を切って、助手席のシートに放り投げる。ふて腐れたような音を立てて、二回くらいバウンドして、静かになった。
 付き合いの悪いツレを責めるつもりはない。せっかくの週末なのに飲みにも出られないような奴には同情したって良いくらいだ。それでも、滅多にない俺からの誘いに乗ってくれてもバチは当たらないだろうに。
 五人。ついさっき連絡を取った人数だ。その誰もがことごとく「悪いな」と言って断ってくれた。悪いなんて微塵も思っていないような口調で、だ。
 カーラジオのボリュームを上げる。週末の夜にありがちの、妙にハイで薄っぺらい叫び声が聴こえてくる。頭が痛くなりそうだ。
 キーを抜いて、ドアを開けて、外に出る。車の外は、熱気が下から這い上がってくる別世界だった。気分が悪い。
 さっさと店内に入って、缶コーヒーでも買って来よう。
 コンビニの店員がさっきからじろじろと鬱陶しいんだ。

 嫌なことは幾らでもあった。
 今の仕事のこともそうだ。大学を中退してふらふらしていたら、親父に半ば強引に就職をさせられた。大した仕事じゃないし、大した会社でもない。適当にこなす程度なら誰にだって出来るようなところだ。
 けど、そんな仕事でも些細なミスで怒鳴られれば嫌になる。
 望んだ仕事じゃない。好きで続けてる訳じゃない。いつ辞めたって構わない。
 そんな逃げ口上ばかりが浮かんで、自分が嫌になった。
 一つが嫌になると、全部が嫌になる。何度も直そうとして、結局この歳まで直らなかった癖だ。
 そもそも、俺は親父が嫌いだったんだ。だから就職が決まって収入が安定するようになってすぐに一人暮らしを始めた。
 嫌なことは、幾らだってあるんだ。

 冷えた缶コーヒーと煙草、それと切らしていたシェービングクリームを買った。コーヒーはドリンクホルダーに。それ以外は袋のまま助手席のシートに放り投げた。
 ここから部屋までは十分と少し。もし飲みに出るなら、ここから三十分ってところか。帰りに代行を使うことを考えると、出るのがバカらしくなるが。
 とりあえずキーを回し、エンジンに火を入れる。低く唸る音は、俺と同じで苛立ちを我慢しているように思えた。すぐにエアコンを入れて、シートベルトを締める。エンジンが神経質な声を上げた。
 コーヒーを一口飲んで、ステアリングにしがみつくようにして、考える。ひとりでも飲みに出るべきか、それとも部屋に戻ってふて寝してしまおうか。それとも、他のことをやろうか。
 ラジオから流れてくる曲に耳を預ける。古い洋楽が流れていた。カントリー調の涼しげな音楽は、夜にはあまり合っていないと思った。こういう曲は晴れた日の昼下がりにでも流すべきだ。BGMにして、ゆっくりと田舎道を走るんだ。全く、最近のラジオ局はセンスがない。
「ああ、そうか」
 たまには夜のドライブってのも悪くないかもしれない。このところ、ゆっくりとドライブをしたことなんてなかったしな。
 ギアを入れ、サイドブレーキを下ろし、クラッチを繋ぐ。ゆっくりと車は動き出して、コンビニの駐車場から国道へと出る。
 目的地は……走ってれば思いつくだろう。
 市街地から山間部へと抜ける国道は、週末にしては珍しく流れていた。

 赤信号で止まり、ラジオのボリュームを上げた。空気を読めない無駄なおしゃべりの間に、耳慣れない曲が流れていた。多分最近の流行歌なんだろう。ついていけなくなって、もう随分経つ。
 頭の中に地図を描く。国道をしばらく道なりに進んで、無人駅のある信号を右折、橋を渡る。崩れかけた住宅街を抜けて、急な坂道を越えて、そこからはワインディングの繰り返しだ。
 目的地はダム湖に決めた。昔は良くぶらっと遊びに行ったもんだ。この車も俺も新しくて、不満なんて一つもなかった頃だ。最近じゃあ燃費が悪いし乗り心地も悪くなってきている。おまけに、お互い体力も続かない。
 フロントガラスが緑色に照らされたのを見てから、ゆっくりと走り出す。交差点を曲がってくる車なんて一台もいなかった。全く、無駄な信号機だ。
 路肩の街灯がオレンジ色に光っていた。つられるようにして俺もヘッドライトをつける。見える見えないじゃなく、もらい事故だけは勘弁してもらいたいから、だ。自己防衛なんて面倒なことをしなきゃならんような世の中、鬱陶しくて仕方ない。
 コーヒーを一口飲んで、奥歯を噛み締める。
「っきしょ……」
 いつの間にか、気分のざらつきが戻っていた。こめかみの辺りがぶるぶる震えてるのが自分にも分かる。目つきだって普通じゃないはずだ。
 大した失敗じゃなかった。いつもだったら謝って、フォローして、それで終わりのはずだった。そんな細かいミスを気にしてたら仕事なんてやってられない。それに、いつも失敗する訳じゃない。ごく稀に、本当に時々、たくさんの要因が絡み合って積み重なったときにしか失敗なんてしやしない。
 たかが一箇所、判をつく場所を間違えてただけじゃないか。それを鬼の首を取ったような勢いで責め立ててきやがって。
 思い出すだけで、うんざりだ。
 白髪交じりの、苦労人の部長。いつもむすっとしていて、眉間には深くしわが刻まれている。同じネクタイを二日続けて使っているところを見たことがない。シャツには染み一つなく、しわ一つない。そういうタイプの上司だ。最近子供が学校に行っていないという噂が流れている。ざまあみろ、だ。
 子供の気持ちだって分かる。普段はあんなにクールを気取っているのに、機嫌が悪いと血相を変えて怒鳴り散らす。ウチの親父と同じだ。叱るのと怒鳴るのが同じだと思ってやがる。そりゃあ部屋に引き篭もって出たくなくなるってモンだ。
「あーあーあー」
 頭の中で愚痴がぐるぐると回っている。口から外に出ていかない分、いつもより始末が悪い。目の奥の辺りがきしきしと痛くなってきた。クソッタレだ。
 薄暗くなってきた、片側一車線の国道。おまけに週末で、道は空いてる。少しくらいスピードを出したって誰も責めやしない。ただ、運が悪ければおまわりさんが追いかけてくるだけだ。
 アクセルを踏み込んで、ハンドルをきつく握り締める。
「っ! おい!」
 目の前を何かが横切って行った。反射的にブレーキを全力で踏み込んでしまって――
 一瞬、世界の全部が真っ白になった気がした。

 大きく息を吸って、吐く。無意識の内に息を止めてしまっていたらしい。心臓は驚くほど弾んでいた。
 とりあえず状況を確認しよう。鬱陶しいくらい大きなボリュームのステレオを止めて頭を振る。
 エンジンは止まっていた。エンストだ。クラッチを踏んでギアを抜いて、キーをオフにまで回す。落ち着け。
 首は痛くない。シートベルトもたまには役に立つ。カチリ、と音を立てて外す。
 ドアはちゃんと開いた。若干斜めになっているシートから、大きく足を伸ばして外に出る。
「ったく」
 熱せられたアスファルトから立ち上る嫌な空気。最低だ。愛車の左側に回り込むと、フェンダーの辺りがべっこりとへこんでいた。
「ツイてねえな、マジによ」
 小さく毒づいても、誰かが聞いてくれる訳でもない。かがみ込んで覗いてみると、左の前輪がしっかりと側溝に落ちてしまっていた。出られる気がしないくらいに。
「猫なんて轢いちまえば良かった」
 物騒なことを口走りながら、溜め息を吐く。本当に、ツイてない。これで今夜のドライブは中止だ。飲みに行くのもしばらくお預けだろうな。修理代を考えると頭が痛い。
 それに、この車をここまで派手にぶつけたのは、初めてだった。喉から胃が競り上がって来そうな、嫌な感じがする。汗が妙にべたつく。
 ……立ってても何も解決しない。知り合いの修理屋に引き上げてもらおう。
 シートに置いたはずの携帯は、助手席の足元に転がり落ちていた。

 奇跡的に中身の残っていた缶コーヒーを飲みながら、道路にべたっと座って煙草を吸う。頭の中はもう真っ白だった。愚痴も出てこない。もう許してくれ。とにかく帰って眠りたい。
 時々走り抜けて行く車が、俺の方を見て笑っているように思えてきた。腹は立つが、それだけだった。
 積載車が迎えに来てくれるまでの妙に長い時間を、じっと待つだけだ。
 今の俺はどんな顔をしているだろう。ふとそんなことを思った。頭をかきむしって、煙草を投げ捨てる。
 こんな惨めな気持ちは久し振りだ。溜め息も出ない。
「転職でもすっかなー」
 突飛な考えじゃなかった。前から何度も繰り返し考えていたことだ。他にやりたいことがあるとかじゃなく、今の仕事は向いていない気がしていた。夜空を仰ぎ見ても、何も見えない。
 携帯を取り出して、時間を見る。小さなディスプレイがぼんやりと光って、暗くなった。さっきから時間の流れがおかしい。遅すぎる。
 車の流れが途切れて、静かになる。近くに家がないせいか、本当に静かだった。渇いた音がかすかに聞こえて、辺りを見回す。オレンジ色の街灯に蛾が群がっていた。何となく、見詰めてしまう。
 もっとマシな方法があったんじゃないだろうか。仕事のことにしても、その前のことにしても、だ。ガキの頃は良かった。大抵のことは思い通りになったし、思い通りにならなくてもそこそこの結果は出せた。いつからおかしくなったんだろう、と考える。
 考えても、分かりゃしなかった。蛾は街灯に体当たりを続けている。
 シャツが背中に張り付いて気持ちが悪い。立ち上がって体をひねる。腰の辺りがごきりと鳴った。骨まで歪んでる。良いトコなしだ。
 車が近づいてくる音が聞こえて、顔を向けた。路面が、景色が、だんだんと照らされる。待ちわびている積載車じゃない。あのオンボロだったら、もっと不安になるような音を立てるはすだ。
 何となく、そのまま立って眺める。白いワンボックスだった。まだ新しいモデルの車だ。ゆっくりと通り過ぎて、ブレーキランプが赤く点灯した。
「……あ?」
 ハザードをつけて、路肩に止まった。運転席から人が降りてきて――
「何やってるんだ?」
 驚いたような顔を俺に向けたのは、どこかで見たことのあるヤツだった。

 ガキの頃のことを思い出してみる。
 白々しいくらいに青い空と、額から顎まで流れ落ちる汗。雨上がりの土の匂いと、草の周りの濃密な空気。
 真っ白い入道雲と、痛いくらいに降った夕立ちと、雨上がりの空。
 冷蔵庫から持ち出したアイスを二人で分けて、自転車をこいで砂利道を走った。日焼けの跡がくっきりと境界線を引いていた。
 夏休みの思い出。
「なあ、そうだったよな?」
 声をかける。真っ直ぐに前を向いてハンドルを握っている、ソイツに向けて。
 ソイツは苦笑いをしただけで、何も答えなかった。代わりに、皮肉を返してきた。
「それにしても、猫を避けようとして事故なんてな。相変わらずというか何というか」
 余計なお世話だってんだ。
「けど、良かったのか?」
 横目で俺の方を見て、苦笑を浮かべている。
「車、あんな所に放り出して来ちまって」
「大丈夫だろ」
 一応、修理屋には電話連絡を入れておいた。「ツレに送ってもらうから、運んで直しておいてくれ」と。
「久々に逢ったんだしな」
「そうだな。何年振りだ?」
 指を折って数えてみる。高校が別になってからは、ほとんど逢っていなかったはずだ。実家は隣同士だったのに。
「何年か前の正月に一回逢っただろ」
「そうだったか?」
 覚えていない。正月に実家に戻ったことなんて、もう何年もない。つまり、それくらい顔を合わせていなかったってことだろう。
「で、日吉はどうなんだ?」
 昔みたいに下の名前じゃなく、苗字で呼んだ。そっちの方がしっくり来るような気がしたから。
 日吉は簡単に、今までのことを話してくれた。大学を卒業して、そのまま就職したこと。すぐに結婚して、今では子供が二人もいるということ。借りた部屋が会社から遠いので通勤が大変だ、とぼやいていた。
「お前はどうなんだ?」
 一通り話し終わると、俺に話題を振ってきた。
「別に、普通じゃないか?」
 鼻で返事をして、受け流しておいた。あまり詳しく話せるような気分じゃない。
「仕事は?」
「してる」
「結婚は?」
「まだだよ」
「実家にいるのか?」
「一人暮らししてるよ」
 短い沈黙。髪をかきむしって、言わなきゃならないんだろうな、と思う。昔からコイツのしつこい質問責めにはやられっぱなしだ。気になることがあると黙ってこっちが話すのを待つ。本当に手に負えない。
「大学中退したっつのは、聞いてるよな?」
 頷く日吉。目線は、真っ直ぐ前に向けられている。そろそろ街灯が増えてきた。街に、近づいている。
「元々、俺と親父は仲が悪かっただろ? で、その絡みで余計悪化してさ。家にいづらくなったんだよ」
 顔を合わせる度に、がたがた言われた。仕事で疲れて、家でストレス溜めて、おかしくなりそうだった。
「で、勤め始めてから一度も実家に戻ってない」
 だから、日吉が結婚していたことも知らなかった。共通のツレもいないし、そんなモンだろう。
「けど、昔は結構仲良かったよな? 親父さんに海に連れてってもらったこともあったし」
 考えて、思い出そうとしたけれど、思い出せなかった。
「俺の家は両親共働きだったから、結構お前の家に世話になったよな」
「そういや、良く一緒に飯食ってたよな」
「トマトとか食えるようになったか?」
「うるさい」
 実は今でも苦手だ。
 足を組み替えると、爪先に何かが当たった。プラスチック製の、原色のおもちゃ。ちょっと前に流行ったキャラクターの、小さなキーホルダーだった。つまみあげて、何の気なしに眺めてみる。
「子供、ねえ」
「かわいいぞ。今度見に来いよ」
「幾つだって?」
「二歳半と、一歳」
 想像してみる。日吉が二人の子供と奥さんと一緒に暮らしている場面を。
 ……全く想像出来なかった。
 偏見の酷い男だった。とにかく口が達者で、屁理屈ばかりが多かった。その場のノリで押し通していた俺と、何故か馬が合った。いつも俺と並んでいた、幼馴染の男。
 それが、急に父親だって?
「言うことなんて全然聞かないし、すぐ物を壊すし、汚すし、散らかすけどな。やっぱかわいいよ」
「親バカだな」
「普通だろ」
 ぼんやりと窓の外を眺める。ほろ酔い加減で歩いているスーツ姿の集団が、街灯に浮かび上がっている。きっと二軒目を目指しているのだろう。本当なら、俺も今夜はあんな感じになっているはずだった。
 それなのに、今はこうしてツレの隣に座っている。何年か振りに逢った、兄弟同然に育ったヤツの車で、部屋まで送ってもらっている。
「お前、酒は飲まないのか?」
「飲めないんだよ。遺伝かな?」
「飲みにでも行こうと思ったんだけどな」
「帰りどうするんだよ」
 苦笑いをする日吉。癖、なのかもしれない。昔はなかった、俺の知らない間についた癖なのかも。
「あまり遅くなると子供がうるさいんだ。悪いな」
 本当に「悪い」と思っている「悪いな」を、久し振りに聞いた気がした。
「にしても、どうして逢わなかったんだろうな。どこかでばったり、ってのもなかったし」
 狭い街だし、同級生はそれほど多い訳でもない。何だかんだで地元に戻って来てるヤツも少なくはない。
 日吉は考えもせずに、さらりと答えた。
「行動範囲が違ったんだろ。独身時代と結婚してからじゃあ結構変わってくるし」
「そんなモンか?」
「スーパーだのデパートだのに行くか?」
 その通りだ。
 今度は日吉が訊いてきた。
「良く行く場所ってどこだ?」
 考えて、思い浮かんだ場所を口に出す。
「居酒屋とか、ファミレスとか、後は知り合いの自動車屋とかか」
「俺は酒が飲めないし、子供はまだ小さくてファミレスには連れて行けない。車は会社の組合に任せてる」
 確かに接点がない。全くない。
「日吉のさ、そういう話聞いてると……俺も結婚したくなるよな」
 毎日遅くまで働いて、家に帰れば家族がいて、たまの休みには家族でデパートに出かけたりして。
 刺激的じゃないけれど、確かに幸せな日々。正直、羨ましいと思った。
「結婚はひとりじゃ出来ないぞ?」
「うるさい」
 俺がふて腐れたのを確かめるようにこっちを見て、少し笑った。全く、こういうところだけは変わっちゃいない。
「どこで出逢ったんだ?」
「職場の先輩だよ。今は専業主婦だけどな」
「恋愛結婚ってヤツか」
「そりゃあもう、俺がべた惚れしててね」
「羨ましいこった」
「お前もそういう相手、いるだろ?」
 思い浮かんだのは、大学を中退したときに別れた彼女のこと。
「もう随分前に別れたよ」
「どうせつまらない意地でも張ったんだろ?」
 どうして分かるんだ。
「お前は昔から意地っ張りだったしな。プライドが高いっつか、我侭っつか」
「日吉だってそうだろ。中学校の先生相手に口で勝負挑んでたの、覚えてるぜ?」
「子供だったのはお互い様だな」
 日吉は楽しそうに笑った。昔のこと、子供だった自分のことを思い出して、笑っている。
 もしも俺がひとりで、隣にこうして日吉がいなかったとして――
 こんな風に、笑えただろうか? 子供の頃の、世間知らずの自分のことを。
「そういや、愚痴りたかったんじゃないのか?」
 そうだった。そもそもこうして日吉に送ってもらおうと思ったのも、久々に逢ったツレと愚痴を言い合おうと思っていたからだ。
 けど、何というか……。
 思ったよりもずっと、日吉は変わっていて。良いヤツになっていて。良い父親でもあるんだろうと、そう思えるような口振りで。
 信号が黄色になったら無理せず止まるし、スピードもそれほど出さないし、運転は丁寧だ。
 兄弟のように育って、俺だけがまだ――取り残されているみたいだ。
 愚痴なんて、言う気も失せていた。
「仕事のことでも親父さんのことでも良いぜ。何でも聞いてやるよ」
「あー……」
 親父のこと、か。話すべきなのかもしれない。
「中学三年のときにさ、結構もめてただろ?」
「ああ、進路のことか。でもあれは結局お前がいつまでも決めかねてたからだろ」
 もっともな意見だ。確かにそうだった。けど俺は、ちゃんと行きたい高校があって、それを口に出して言えなくて、言えないまま望んでもいない高校へと進学してしまった。
「整備士になりたかったんだよな。自動車のさ。だから本当は、工業系に進みたかったんだ」
「それ、初めて聞いたぞ」
「誰にも言ったことないからな」
 そう言うと、日吉は大きく溜め息を吐いた。
「昔からそうだよな、お前は。一番大事なことは誰にも相談せずに決めようとするんだもんな。友達がいがないっつか、寂しいっつか」
 けど、大事なことになればなるほど、自分自身で決めるべきじゃないか。そうじゃないと、他の誰かのせいにしてしまいそうで、嫌なんだ。
「周りの連中だって――俺にしろ、親父さんにしろさ、そういう話をちゃんとしてくれないと分からないだろ?」
「まあ、そうかもな」
「話せばさ、結構分かってもらえるぜ?」
 親父に半ば強引に決められた進路は、県立校の普通科だった。考えてみれば、あれは猶予期間だったのかもしれない。
 何も決められない(と思われていたんだろう、日吉の口振りからすると)俺が、自分のなりたいものを見つけられるようになるまでの、「探す」期間。
「で、高校の間はあまり親父と言い合いにもならなかったんだよな。バイトしてて忙しかったし」
「それは知ってる。スタンドでバイトしてただろ?」
 狭い街だし、誰がどこでバイトしてたっつのは、すぐに伝わる。
「そんで大学受験の時もまたもめたんだよ」
「お前、やっぱり何も言わなかったんだろ?」
「いや、就職するつもりだったんだ。そのままスタンドにさ」
 高校一年の夏くらいからずっと続けていた。在学中ずっと、だ。それだけ続けていれば顔も売れるし、責任感も生まれてくる。それと、安心感も。
「そう言ったら怒鳴られたよ。『そんな軽い気持ちで雇ってもらおうとするのは、他の従業員に失礼だ』ってさ」
 どういう意味かは分からないけれど、とにかく腹が立ったのだけは覚えている。俺の決心が「軽い気持ち」の一言で切り捨てられたんだ。面白いはずもない。
「俺は親父さんの言いたいことは分かるな。他の人に失礼だっつのもさ」
「どういうことだ?」
「結局お前はさ、このままで良いって思ってたんだろ? 実際そうじゃなかったとしても、そう取られても仕方ないことをやろうとしてたんだ」
「わかんねーよ」
 何というか、誰でも分かってて当たり前なのに、俺にだけ分からないような、そんなことを言われている気がする。もっと俺にも分かるように説明して欲しい。
「本当にその仕事が好きで、みんなのために働きたいっつならさ、専門学校なり大学なり出て勉強してからでも遅くないだろ? それに、そっちの方が後々になって役に立てるし」
「仕事はちゃんとやってたぞ」
「そうじゃないって。要するに、お前は現場レベルでの知識しか持ってなかっただろ? 他の正社員の人たちは専門の勉強をして、それから現場に出てんだよ。お前がやろうとしたのは、階段を一段飛ばしで駆け上がろうとするのと同じだよ。いつか転ぶ」
 日吉が言ってることの、半分も分からない。どうして仕事と階段が関係あるんだろう?
「わっかんねーって」
「お前な、仕事っつのはバイトの延長じゃないんだぞ? いつまでもお客扱いはしてもらえないし、そんなヤツはいても邪魔なだけだろ?」
「……日吉さ、ひょっとして部下とかいたりする?」
「これでも役付きなんだよ、俺は。だからいつまでも下っ端で良いやって思ってるヤツは嫌いなんだ」
 急に個人的な意見が出てきたので、面食らった。
「向上心のないヤツなんてな、雇っちゃもらえねえよ」
「あったって」
 あったはずだ。確かに。
 整備士の資格を取って、車を整備したかった。勉強をして、もっと知識を蓄えたかった。
 日吉の言いたいことは良く分からないままだったけれど、でも、確かに……そうだったのかもしれない。
 俺は、場所を選び間違えていたのかもしれない。
 勉強なんて、職場でやるモンじゃないってことか。
「ったく」
 分かったことが、一つ。日吉は多分、俺よりもずっと苦労をしてきたんだろうってこと。久々に逢った分、それが良く分かる。嫌になるほどに、だ。
「で、大学はどこに行ったって?」
 俺が進んだ大学の名前を言った。学部は経済学部だった。
「中退するくらいなら、始めから行かなきゃ良かったんだよ。お前が受かったおかげで、確実に枠が一つ減ってるんだから」
「……何だか説教されてるみたいだな」
「一般論で言ってるだけだよ、俺はな」
「中退してしばらくゆっくり考えようと思ってたんだ。そしたら彼女にもフラれ、親父に強引に就職させられた」
「当たり前だろ? お前は大事なことを何も言わないで、どうでも良いところで意地を張るからそうなるんだ」
「なあ、それも一般論か?」
「幼馴染としての意見だよ」
 真っ直ぐに前を見ている日吉には、俺のどこが悪いのかはっきり分かっているのかもしれない。でも、俺はわざわざ説明してもらっても、分からない。
「じゃあ俺はどうすりゃ良かったんだよ」
「良いも悪いもないだろ。済んだことなんだから」
 何というか、酷く冷たい気がする。
 でも、どうしてだろう? これだけ言われているのに、全く苛立ちはしていないのは。
 赤信号で車は止まり、エンジンの唸る音も小さくなる。この時間だというのに、もう道はがらがらだ。片側二車線の国道なのに、数えるくらいしか車が走っていない。街灯が、無駄に歩道を照らし出している。
 日吉は何も言わない。俺も何も言わない。言えない。
 信号が青に変わって、車が動き出す。次の信号は赤。無理に速度を出さずに、ゆっくりと進む。
 日吉が口を開いた。
「俺はさ、俺だって嫌なこととか相当あったぞ? それでも、何とか仕事も頑張ってるし、結婚も出来たんだ。俺とお前にそう差があるとは思わないけどな」
「幸せか?」
「一言で言うとそうなる」
 羨ましい限りだ。
 先の信号が青に。ウインカーを出して、国道から外れる。この道は、商店街に抜ける道だ。
「それで、どこに送って行けば良いんだ?」
 今住んでいるアパートの場所を説明する。
「あそこ、昔は怖い爺さんが住んでたよな」
「あの爺さん、養老院に行っちまったよ。アパートは息子夫婦が管理してる」
「この辺りも随分変わったよな」
「そうか?」
「久し振りに来たよ」
 通りに人はいなかった。もうそんな時間だ。商店街じゃなく、飲み屋のある通りなら人も見れるだろうが。
 意味のない街灯が、街灯の照らし出す文字が、俺たちの育った街の名前を示している。
「――さ」
「ん?」
 頭の中に入り込んでいて、聞き取れなかった。
「小学校の……いつだったか、夏休みだったな。川沿いの道で、一匹だけ蛍がいたの覚えてるか?」
「……なんだそりゃ?」
 全く記憶になかった。あの頃は昼となく夜となく出歩いていたから、確かに見ていてもおかしくはないが――
「この街で? 蛍を?」
「まあ、いいよ。ちょっと思い出しただけだから」
 それきり、日吉は黙ってしまった。俺も黙って考える。
 蛍? こんな中途半端な街で?
 商店街を抜けて、古いブロック塀の角を曲がる。中学校の脇を通る道だ。対向車が来たらすれ違うのにも苦労するような、狭い道。舗装は荒れていて、マンホールの蓋は妙に盛り上がっている。
「親父さんもさ……」
 静かな、消え入りそうな声。車のエンジン音に消えてしまいそうなくらい、小さな声。
「心配だったんだろ。お前のことがさ」
「心配、ねえ」
 口数の少ない人だった。白髪の増えた髪をぐしゃっとかきむしるのが、怒る前触れだった。
 そして、顔を真っ赤にして本気で怒っていた。何を言われても腹が立って、悔しくて、苛立たしかった。
「付き合ってた相手のこと、まだ聞いてないぜ?」
「もう随分前に別れたって言っただろ?」
「いいから聞かせろよ」
 思い出す。好きだったのに「好きだ」と言った記憶がない。別れたきり、電話もしなくなった彼女。確かに俺は、大事なことを口に出さないでここまで来てしまったのかもしれない。
「変な女だったよ。やかましいくらいに喋ったと思ったら、すぐに黙り込む。でも不機嫌とかじゃなくて、にこにこ笑ってるんだ。良く気が利いて、とにかく良く笑う女だったな」
「なんで別れたんだ?」
 なんで? なんでだろう? そう言えばどうして別れたんだろう?
 理由を考えても、分からなかった。幾つもの理由があって、ありすぎて、分からなかった。
「ガキだったんだろ。俺がよ」
 肩をすくめてそう言うと、日吉は小さく笑った。
 ハンドルを大きく切って、畑の脇道に入る。ここを抜ければ、もうすぐだ。
 子供の頃、コイツと一緒に泥だらけになって遊んだ畑。爺さん婆さんに見つかって怒られたこともある。そりゃあそうだろう。作物の上で遊ばれたんじゃあ誰だって腹を立てる。
「ああ、そうか……」
「どうした?」
 思わず声に出ていたらしく、日吉がこっちをちらりと見た。
「いや、何でもない」
 分かった気がする。俺がどうして腹を立てていたのか。腹を立てて、何をしたかったのか。
 何が嫌で、何をして欲しかったのか。
 だんだんと、分かってきた。
「子供の話、聞かせろよ」
「何だよ急に」
 笑いながらも、嫌そうじゃなかった。心なしか、ハンドルを握る手が優しくなったようにも見えた。
「結構喋ったりするのか?」
「下の子はまだ何言ってるか分からないけど、上の子はうるさいくらいだよ。女の子だからかもな」
「泣くだろう?」
 そうだ。当たり前じゃないか。どうして怒ったり泣いたりするのかなんて。
「泣くなんてもんじゃないぞ。壊れたスピーカーと同じくらい酷い」
「子供は泣くのも仕事ってことか」
「そうだな。それに、泣いてくれないと分からないこともあるから」
 分かって欲しいから、泣く。
 何てことだ。要するに、そういうことなのか。
 俺は日吉の子供と同じレベルだったってことじゃないか。
「……ったく、参るよなホントによ」
 いつまでも経ってもガキのままの、自分に。
「でもかわいいもんだよ」
 俺が参っているのは別のことなんだがな。まあ、日吉は幸せそうで良かった。
 坂の上り口で車を止めてもらう。
「悪かったな。わざわざ送ってもらっちまって」
 本当に「悪い」と思って、口に出してみた。
「こういうときは、『ありがとう』って言うんだよ」
「口うるさい親になりそうだな、お前は」
「お前みたいなガキに育ってもらっちゃあ迷惑だからな」
「言ってろ」
 笑って、ドアを開く。
「正月さ、実家に帰るんだろ?」
 そう聞くと、日吉は頷いた。
「なら、俺も久し振りに帰るかな」
「その前に盆休みがあるぜ?」
「忘れてたよ」
 口の端をつり上げて、笑う。
 あのさ、と前置きをして、思ったことを口に出してみる。
 たった数十分の道のりで、短かった会話で、久し振りの出逢いで、思ったこと。たったひとつのこと。
「お前、俺の兄貴みてえになっちまったな」
「俺は昔っから、お前が弟だと思ってたけどな」
 からかうような笑顔に肩をすくめておいた。
「愚痴くらいなら聞いてやるから、今度は家に遊び来いよ。ついでに子供の相手でもしてやってくれ」
「そうだな。そうするよ」
 車から降りて、軽く手を上げる。
 日吉も手を上げる。
 挨拶を交わして、ドアを閉める。
 すぐに車は走り出して、見えなくなった。
「ったく」
 久し振りに逢ったっつのに、やけにあっさりと帰って行きやがって。
 少し笑って、駐車場に入る。いつも車を止めている場所には何も止まっていない。明日の朝一番にでも、修理屋に電話してみよう。代車を用意してもらわないとな。この街で車がないなんて、何も出来やしないんだから。
 だらだらと歩きながら、煙草に火をつける。赤い灯がぼんやりと瞬いている。
 静かな夜だ。紙の燃える音まではっきりと聞こえる。はた迷惑な暑さも、もう和らいでいる。
 久し振りに行ってみるか。
 そう思って、踵を返す。
 あの道までは、歩きでもそう時間はかからない。

 明るい夜だった。
 あぜ道を抜けて、雑草だらけの砂利道を下る。
 やぶ蚊を手で追い払い、蜘蛛の巣に顔をしかめながら、その道に出た。
 川沿いの道。ガキの頃、良く自転車で走り回った道だ。
 水の流れる音が、皮膚に染み込んでくるような気がする。それくらい川に近い道。台風の季節には水かさも増え、水の土色に濁る。最近は良い天気が続いていた。水も綺麗なモンだろう。昼間だったら見れたのに、残念だ。
 夜の川を見ると、いつもおかしな感覚にとらわれる。音はする。川はそこにあるし、水は確かに流れている。でも、その姿がほとんど見えない。
 岩にぶつかって砕ける水の飛沫が時々見える程度だ。
 昔を思い出しながら、あの頃よりもゆっくりとしたペースで道を進む。何となく空を見上げると、星が幾つも輝いているのが見えた。
 夏休み。茹だるくらいに暑い日が続いていた頃。
 俺と日吉は家の冷蔵庫からくすねたアイスを食べながら、片手で自転車に乗ってこの道を走った。自転車の後ろにグローブ。自転車のスポークの間にカラーボールを入れて。
 この道を進めば、河川敷にグラウンドがある。その隅の方で、二人でキャッチボールをしていた。喉が渇いたら水道の水を飲んで、暑くて仕方ない日は河原に下りて水遊びをして。冷房の効いた部屋で椅子に座って本を読むような、そんな上品な育ち方はしていなかった。潰した靴の数だけ、大人に近づくものだと思っていた。
 それは多分、親父の教育方針ってヤツで――
 思えば、勉強をしなくて怒られたことなんて、一度もなかった。
「ったくよ」
 何を思って、俺を育てていたのか。知りたいと思った。今の俺はこうなってしまったけれど、確かに愚痴っぽくて意地っ張りなのかもしれないけれど――
 少しは大人になれたのか、知りたいと思った。
 俺の知らない間に結婚して子供まで作った、日吉には届かないとしても。
 日吉はどうだろう。今日のことを嫁さんにどう話すのだろうか。
「古いツレに久々に逢って、説教してきたよ」
 そんな風に話すのかもしれない。
 景色が段々と変わって、木のトンネルに差し掛かる。昔はもっと背も低くて、道幅も広かったはずだ。木と木の間だってスカスカだった。それが今では、ちゃんとした並木道になっている。川沿いの、桜並木。春先に来てみるのも良いかもしれない。今度は、昼間に。ひとりじゃなくて、誰かツレを誘って。
「ああ、そういえば」
 思い出したのは、川の上流のこと。
 確か何年か前に、「蛍の里」と銘打って蛍の養殖を始めたとか何とか。
 もしかしたら、日吉が言っていたことも確かにあったのかもしれない。一匹だけ迷って河原にまで出て来てしまった、はぐれた蛍。たまたまそれを見たのかもしれない。
 俺はどうして覚えていないんだろうと、少し悔しくなった。もしも今、あの草葉の中に一つだけ、ぼんやりと明滅を繰り返す蛍の光があったなら――
 色々なことがあった今日も、綺麗に終わらせられるのに。そう思って、笑った。
 足を止めて、川の方を向く。蛍はいない。どこにもいない。
 煙草に火をつけて、来た道を戻る。
 明日朝起きたら、修理屋に電話を入れる前に――
 実家に電話をしてみようと思った。
「盆休みには帰るよ」
 そう連絡するために。


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