『陽炎の夏 第四回』

『陽炎の夏 第四回』

著/芹沢藤尾

原稿用紙換算75枚


 空を見るのが好きだった。
 日曜の昼。河川敷のグラウンド脇のベンチに腰をおろしたまま、直樹はゆっくりと目を開いて、ひとつ、重いため息をつく。
 昨日まであったはずの底抜けの快晴は、コンクリート色の雲に蓋をされてしまっていた。一年ぶりの試合に臨むにはあまりに非友好的な天気に、思わず文句のひとつでも言いたくなる。
 ホント、片思いばっかりだ。そこまで思って、間抜けな考えに再度嘆息する。
 空の色が冬のように重くても、じめじめと首筋にまとわりついてくる空気や、海側から川をつたって運ばれてくる潮の香りは間違いなく夏のもので、思わず意識をどっかに出張させたくなるような暑さは、極めつきに灼熱地獄だった。
 まったく本当に、太陽も出てないくせになんだってこんなにも暑いのか。そもそも、今日は例年よりも涼しくなるといっていたはずなのに。
 気象庁のくそったれめ。あそこは難しい試験をパスしたエリート達の巣窟のはずじゃなかったのか? どこの馬鹿だこんな的外れな予報をしやがったタコ助は。
「爆破したろかコンチクショウめ」
「なに怖いこと言ってるんですか、先輩」
 誰にも言っていないボヤキに、呆れたような声が返ってきた。
 ウンザリした思いで視線を降ろすと、同じくらいウンザリした表情の黒沢夏樹が立っていた。直樹に伝言を頼まれたばっかりに、休日にマネージャーの仕事を手伝わされる羽目になった彼女の機嫌は、控えめに見てもかなりの角度で傾いておられるようだった。
「はやく並んできてくださいよ。みんなこっち睨んでますよ」
 黒沢が指差した先には、すでにホームベース前で整列し、戸惑いと苛立ちが入り混じった視線をこちらに向ける両校の選手たちがいた。
「……ああ、そうだな」
 直樹は穴の開いた自軍の列に小走りで駆け寄りながら、最近こんなのばかりだなぁ、とどこか諦めの混じったため息をついた。

 明口学園の二軍と試合するのに用意されたグラウンドは、両校どちらの学校の校庭でもなく、地元の草野球チームが休日に使用している、河川敷のグラウンドだった。通常、このような場所にあるグラウンドを使うのにはいろいろと手続きが必要なはずなのだが、今回そういったことはすべて向こうのマネージャーが手配してくれたらしい。
 マウンドから明口のベンチの方を見ると、ベンチの端っこでスコアブックを持ってちょこんと腰掛けていた橘葵が、視線に気付いてピースの形に握った手を突き出してきた。
 小さく手を振りながら笑みを返すと、彼女のすぐ横から、金属バットを肩で担いだ北村俊哉が鷹のような眼で睨んできて、その子供染みた反応に思わず吹き出してしまった。
 なんともまぁ、仲のいい。
「なに笑ってんだよ、竹井?」
 マウンドに登ってきた山田が、訝しげに訊いた。
「いやなに。たいしたことじゃないさ」
「そうか? ならまあ、いいが。それより、サインは本当におまえに任せていいんだな?」
「ああ、まかせとけよ。おまえの方こそ、うっかりサイン見逃して後逸したりするなよな。頼むからよ」
「……言ってくれるじゃねぇか。この幽霊エースが」
 引きつった笑みを浮かべて、山田は直樹の胸に手を押し当てる。
「そこまで吹いたからには、無様なピッチングは許さねぇぞ。手抜きなんかしたらブッ殺すからな」
「言われなくても、手抜きなんかしないから安心しろよ。今日はそういう気分じゃないんだ」
「気分次第で手抜きすると公言してるヤツの台詞なんか安心できるか。いいから、とにかく全力のおまえを俺に見せてみろ。いいな、全力を出すんだぞ」
 まだ試合も始まっていないのに、顔を真っ赤に唾を飛ばして全力全力喚きながら、マウンドを降りてホームベース奥のポジションに戻っていく山田を見送るあいだ、直樹は手の中の白球をくるくると弄繰り回していた。指先に感じる懐かしい、それでいてどこか新鮮なその感触を精一杯味わいながら、やっぱりこれはいいなぁ、と誰にも聞こえない声で呟く。
 明口の最初のバッターが打席に入り、審判がプレイボールを宣告したとき、その手は白球を直球の握りの形にがっちりと掴んだ。
 周囲の空気が徐々に色を失いながら凍り付いていく中、悠然としたフォームから放たれた速球は、逆風を切り裂いてキャッチャーミット目掛け、一直線に飛び込んでいった。

 フルカウントからの外角低目をうまく撃たれ、最初のバッターを塁に出した直樹は、続く二番打者を見せ球のストレートで打ち気にさせ、外角から外に外れるボール球に手を出させてゲッツーに討ち取ろうとした。ところが、狙い通りのピッチャーゴロを拾い二塁に投げたところで、反応の遅れた一年生がベースを踏み忘れた上、焦って一塁に悪送球をしてしまい、いきなりノーアウト二、三塁のピンチを迎えてしまった。
 明口の三番バッターはかなり気分よく素振りを繰り返しながらバッターボックスに立つと、大きな構えで直樹を挑発してきた。
 直樹はそれに構わずキャッチャーの山田にサインを送ると、山田は戸惑いながら立ちあがってミットを構えた。
 三番バッターを敬遠すると、明口のベンチからはブーイングの嵐が起きた。だが、守備が明らかに浮き足立っている現在の状況では、いっそすべての塁に走者を埋めておいた方が、直樹としては楽だった。この中でまともなプレーを期待できるのはキャッチャーの山田くらいのものだったが、彼のところでバッターをアウトにするには一塁が空いていては難しい。守備練習をするにしても、まずはチームに張り詰めたこの厭なムードを取り除かねばならなかった。
 四つ目のボールを投げ終えて、こちらを睨んでくるバッターを見送りながら、そういえばこれが初めての四球だという事に思い至って、直樹は苦笑した。その態度に、相手の側は怒りをあらわにしたが、それに応えてやるつもりもなかった。
 四番バッターへの一球目に、スピンをかけたストレートを全力で胸元に決めると、続く二球目には同じコースから内に逃げるシュートを投げ、三球目は反対に外の低めから外れるフォークを投げたが、かろうじて反応したバットに補らえられ、あわやホームランの大ファール。続くスライダーを見送られて、カウントは二―二。直樹はここで、一球目に投げたストレートよりも五十キロは遅かろうというチェンジアップをど真ん中から下に落ちるように放った。打ち気満々だったバッターはこの一球にタイミングをずらされ、ボールの二十センチも上を振ってあえなく三振した。
 続く五番バッターは四番よりも引き締めた顔をしてバッターボックスに立った。脇を締めた小奇麗な構えでバットを短く持ち、確実にミートできるようにキャッチャー寄りに足を置いた。
 無名の五流校相手に気を抜かないそのプロ根性に、表面上は薄笑いを浮かべながらも内心で嘆息する。
 こんな息抜きの試合くらい、好き勝手暴れてくれよ。
 直樹は外野に対して守備位置の前進を指示したが、あまり効果は期待していなかった。
 二球続けて外角低目に投げたボールに、シュートとスライダーの回転をそれぞれかけてファールを誘い、カウントを二―〇にしたが、バッターのスイングはタイミングの点でいえば直樹のボールを完璧に捉えていた。
 しょうがねぇなぁ。
 直樹は一塁から中途半端な距離を取りながら挑発している三番バッターに一睨みくれてやると、セットポジションから押し出し覚悟のビーンボールを投げた。バッターはのけぞりながらボールを避けたがバランスを崩して倒れ、立ちあがり様に敵意のある目で直樹を睨んできた。
 即座にキャッチャーの山田がなだめるように頭を下げて、バッターはしぶしぶと構えなおす。
 そして四球目。真ん中やや高めの打ちごろのコースから落ちるフォークボールに手を出させた。
 ボテボテのピッチャーゴロをすばやくグローブで処理し、そのまま目の前の山田にトスする。満塁なので三塁ランナーのタッチを待たずにアウトを告げる審判を無視し、山田は一塁目掛けて鋭い送球をした。ピッチャーの直樹が羨むほどの速さでグラブに飛び込んできたそれを、ファーストの中村は初め、ボールだとわかっていないようだった。
 ファーストの審判がアウトを宣告し、三人遅れのダブルプレーが成立。
「おっし!」
 すぐとなりで拳を握り締める山田を横目に見ながら、直樹は微笑んだ。
 理由はわからなかったが、なぜかそうしたい気分だったのだ。

 銃声のような炸裂音がミットの中で弾け、バッターボックスの前で素振りをしていた一年生の木下が唖然とした表情でキャッチャーミットを見詰めた。
 殺人的な速球を受けたキャッチャーは落ち着き払った仕草でボールをピッチャーに返す。続けざま、北村のダイナミックなフォームから、さらに豪快な速球が放たれた。
 先ほどのノーアウト満塁を無失点でしのいで盛り上がっていた雪乃華のベンチは、それだけであっさりと静まり返ってしまった。
 バッターボックスに立つ前から戦意を失っていく味方を横目に見ながら、直樹には彼らを情けないとは思わなかった。むしろ、そんなことができるほどの力がある北村俊哉に、素直に感心してしまいたい気持ちさえあった。だが、北村が二球、三球と続けざまに豪速球を投げるのを見ているうちに、直樹は徐々にその奥から黒い気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
 それは、自分とはまったく別種で、しかし誰もが憧れるピッチングスタイルを取ることが許された者への、羨望と嫉妬だった。
 相変わらず、ふざけたボールを投げやがる。
 その怪物的なボールが中学の頃からまるで色褪せることなく、むしろ理不尽なほどにパワーアップしていることに辟易しながら、直樹はマウンドに立つ北村俊哉を睨み据えた。
 グラウンドの頂上に立つ北村は帽子のつば先をいじくりながら、なにやらピッチャーにサインを送ると、そのダイナミックなフォームから力強い剛球を、ど真ん中に構えたキャッチャーミット目掛けて投げ込んできた。木下はバットを振ることもできず、バッターボックスの前で固まっている。
 いつもならバカヤロウ、と叫んでボール球にでも手を出させる山田も、ベンチの上で腰を抜かして目を見開いていた。
「おいおい、冗談だろ?」
 ネクストバッターズサークルに向かうことも忘れて、二年生の高橋がそんな言葉をつぶやいた。
「ボックスに立てばわかるよ」
 実際、あの剛球は高校生が投げるものとしては反則もいいところだ。中学の頃でも調子がよければ百四十キロほど出ていたらしいが、今はおそらくMAX百五十キロを超えているだろう。足首を捻挫して夏の大会に出られなかった鬱憤を晴らしたいのだろうが、相手にされたこっちはいい迷惑だ。
 変化球と制球力を武器に、打者の心理を読み取り、コントロールして打ち取っていくタイプの直樹とは対照的に、北村のそれはまさにねじ伏せると形容するのが相応しい投球だった。
 投げる球種はひとつのみ。ストライクゾーンの中で適当に散らばる豪速球。ただそれだけ。それだけで、彼には十分だった。バッターが手を出せない球を投げているのだから、駆け引きも何も無い。完投できるだけの球数を放れるスタミナもある。そしてなにより、自分の力に絶対の自信を持っていて、マウンド上に立つその姿は、さながら雄々しく猛る獅子のように勇ましかった。
 どんな偶然が味方したとしても、勝てる見込みなど少しも無かった。去年、一年生にしてチームを甲子園のベスト八に導いた豪腕を前にしては、野球部ですらない無名校の同好会ごときが相手になるはずも無い。
 雪乃華三人のバッターをわずか十球、すべてストレートの三振でしとめ、悠然とベンチに引き上げていく北村の背中を眺めながら、直樹は重い気持ちでマウンドに向かった。
 負けず嫌いな自分の性格が、今ほど恨めしく思えたことも無かった。

 竹井直樹にとって二年ぶりで、北村俊哉にとって三ヶ月ぶりの試合は、両校打撃陣の思惑を外れ、完全な投手戦の様相を呈していた。
 主将山田と一年生藤岡のラッキーとしか思えないポテンヒットこそあったものの、それ以外ではバッターに出塁を許さずに三振を次々と奪っていく北村の圧倒的な剛球に対し、コーナーギリギリ、内外高低、緩急自在の変化球を駆使して打者を翻弄する直樹の老獪な投球術は、明口に凡打の山を築かせ、二人の対照的なピッチャーはその内容に差こそあれ、互いに相手チームを〇点に抑えていた。
 創立一年。厳密には野球部ですらない弱小校未満の同好会に思わぬ苦戦を強いられて、明口の二軍は混乱していた。試合開始前とはまったく反対の理由で、集中力が欠けてしまっている。焦りがリキみを生み、リキみが彼らのスイングを微妙に乱していた。
 一方、開始前は二軍とはいえ名門明口学園と戦うということにすっかり浮き足立っていた雪乃華ナインはというと、こちらは徐々に落ち着きを取り戻してきていた。六回までに犯したエラーは実に四つに及んだが、それでもなんとか失点はせずにすんでいる。
 掲示板に並んだ六つの〇を前にして、連戦連敗を喫しつづけていた胸になにが去来していたのか。雪乃華ナインの顔には次第に緊張感から開放されていく安堵の表情が浮かび始めていた。
「いいか、おまえら。この試合は絶対勝つぞ! 県内屈指の名門校に、俺達の名前を忘れられなくしてやれ!」
 山田が声を張り上げて、守備に慣れて緩み始めた選手達の気を引き締める。だが、その横でベンチに腰を落としていた直樹には、そんな山田の気合に応えられるような余裕は、すでになくなっていた。
「先輩、大丈夫ですか?」
 ベンチ裏からタオルとペットボトルを持ってきた黒沢が、心配そうな声で訊いてきた。
 直樹は無言でその手からペットボトルだけを奪い取り、キャップを外して中身を乱暴に自分の頭にぶちまけた。
 とたん、べたべたした液体が首筋を伝って汗まみれのシャツに染み込み、不快感と共に広がっていく。
「……スポーツドリンクだったのか」
「なにしてるんですか、先輩……」
 呆れたように眉をしかめて、黒沢が片手の中で余っていた濡れタオルを差し出してくれた。
 用意のいいやつだと感心しながら、直樹はそのタオルを受け取る。
「大変そうですね」
「わかるのか?」
「だって、今にも死にそうな顔してますよ」
「……そうか」
 運動不足が祟ってるなぁ。
 顔にかかったスポーツドリンクを拭いながら、誰に言うでもなく呟いて、手の中のペットボトルを握り締める。空のペットボトルには、力を込めた指先がわずかにめり込んだ以外、どこにもこれといった変化はなかった。ただ、その空ボトルを握っている直樹の腕が、力無くぶるぶると小刻みに震えていた。
 ホームベース奥に設置された掲示板には、これから埋めなければならないスペースが、まだ三つも残っている。試合は終盤戦に突入していたが、直樹には、その三つの空きを埋めることが、これまでの六回以上に困難なことのように思われた。
「辛いんだったら、交代したらどうですか?」
 黒沢のもっともな提案に、しかし直樹は頷こうとはしなかった。
 体力は順調に尽きようとしていたし、精神力は徐々に蓄積する疲労と反比例するように削り取られていったが、それでも、直樹は自分から降りようという気にはならなかった。
 辛いと思わなかったわけではない。だが、それ以上に楽しかったのだ。
 いつからだろう。少なくとも、最初の回からではなかった。
 それでも、バッターを前にしたときの高揚と、ランナーを背負ったときの緊迫感。ヒットを打たれたときの悔しさと、エラーを出されたときの苛立ち。三振に切って取ったときの爽快感と、計算どおりに打者を打ち取ったときの優越感。体力馬鹿の教師を手玉に取っていたときとはまるで違う、自分の思い通りにならない戦いを、それでも思い通りに操ることの達成感。
 いつの頃からか直樹の胸の内で、郷愁の落とした雫が、止水に広がる波紋のように広がっていった。その波紋が、やがて納まり、消えていくのがいやだった。
 だからこのままもう少し、投げていたかった。
 右腕の心地よい疼きを――たとえその先に何があろうと――もう少しの間続けさせたかった。
「……先輩?」
 心配そうに顔を覗き込んでくる黒沢に、直樹は呟くように答えた。
「まだ、投げるよ」
 黒沢の表情が、複雑な感情で歪んだ。
「まだ、投げるんだ」
 やっと戻って来れたんだから、と直樹は胸の内で呟いた。
 空のペットボトルを握り締める。
 手の中で、指先がめり込む音がした。

 だが、そんな感情の変化などに関わらず、限界はいずれやってくる。
 七回の下位打線を無け無しの体力できっちり抑えきり、八回の一番からを、二本ヒットを打たれながら無失点でしのいで迎えた九回表。
 それまで無安打に抑えていた六番打者が打席に立って始まった最終回に、それは響いた。
 透明に澄んでいて、無機質で、そのくせ妙に若々しい音。直樹の大嫌いな音だった。
 金属バットに捉えられた白球が、内野の隙間を縫って強烈な勢いで外野に運ばれる。
 試合の最後に訪れたノーアウトからのランナーという好機に、明口のベンチは一気に沸き上がった。
 ファーストベースの上から指を立てずにファックポーズを取ってきた六番打者を露骨に無視して、直樹は苛立ちも顕わにマウンドを蹴り上げた。
 クソ、だから金属バットは嫌いなんだ。だいたい高校生にあんなモン持たせんじゃねぇ。あぶねぇだろうが。
 打たれた球はコーナーを突ききれずに内に甘く入ったうえ、最後のキレがまったくなくなった棒球だった。相手のバッターはそれでもつまり気味に打ちにいったのだが、金属バットの反発力がそれを強打にしてしまった。だが、それを不運ということは出来ない。金属バットは高校球児の標準装備だ。問題はボールにキレを与えることができなかったことであり、それがなにを意味するかというのは、当の本人である直樹には、痛すぎるほどにわかっていた。
 スタミナ切れか。もう少しくらいもつと思ったんだがな。
 二年前に比べて、すっかり綺麗になってしまった右手を見ながら、歯噛みする。
 その様子を見て不安になったのか、山田が審判にタイムをかけて、こちらに駆け寄ってきた。
「どうした、竹井。大丈夫か?」
 山田の声は、試合が始まる前とは別人のようだった。ああ、こいつはこうやってピッチャーを気遣うんだな、と直樹は他人事のように思った。
「いや、ちょっと疲れてきただけだ。大丈夫。次は気をつけるよ」
「そうはいうが、さっきの球、キレがなくなってたぞ。きつくなったんなら、いってくれ。替えのピッチャーを用意するから」
「中村に任せたら、あいつ火ダルマになっちまうだろ」
「そこで大丈夫だから下がれって強がれないようじゃ、疲れてるってことじゃねぇか」
 山田の指摘に、直樹はうっと息を飲んだ。自分ではまだ大丈夫だとどこかで思っていたのだが、言動に本音が出てしまっていた。
「辛いんだったら、もう下がってもいいんだぞ。試合前に言ったとおり、おまえは気を抜かずに投げ抜いてくれた」
 山田は直樹の肩に手を置いて、真剣な目を向けてきた。
「正直に言えば、俺は試合が始まるまで、おまえのことを疑っていた。どこか適当なところで手を抜いた投球をするんじゃないかと、ずっと勘繰ってた。だがおまえは、最後まで手を抜こうとはしなかった。俺は、おまえに謝らなくちゃならん。俺は、おまえの野球に対する気持ちを疑っていたんだ」
 直樹は、それは違うと言ってやりたかった。自分がこの試合で手を抜かなかったのは、もっと個人的な理由だった。野球に対する気持ちなどないのだと、叫んでやりたかった。
 だが、その思いは言葉となって外に出ることは無かった。自分でもわからなかったが、何故か、それを口にしてしまうことは、酷い裏切りになるような気がした。
「たしかに、中村に任せるのには、まだ不安がある。だが、残りは下位打線で、しかも残りは一回だ。少しくらい、後輩を信じてやってもいいんじゃないか?」
 山田の声には、投げる力が無くなった直樹をマウンドから引き摺り下ろそうという気持ちは欠片もなかった。それは、純粋に気遣っての言葉だった。
 直樹はそのとき、山田が自分で作り上げたこのチームの中で、監督兼コーチの役割をほぼ一人でこなしていることを思い出した。おそらく、今の山田の中では選手を戦術の駒として扱う監督としての面と、選手を育てるコーチの親のような面とが、複雑に同居して、自分がとるべき態度を決めかねていたのだろう。
 直樹は山田から視線を外して、ファーストの位置にいる中村に目を向けた。山田も、直樹の視線を追った。
 マウンドから自分に向けられる二つの視線に気づいて、中村が神妙な面持ちで駆け寄ってきた。
「交代、ですか?」
 どこか不安げな面持ちで訊いてきた中村に、山田はああそうだ、と即答した。
「残りは下位打線を一回だけだ。ランナーは無視していいから、思いっきり投げてこい」
 山田は中村の肩を叩いて、力強く言った。そして、横で驚いた様子で固まっているな直樹に向き直り、やわらかな笑顔を向ける。
「もう十分だよ。ホントは、七回からきつかったんだろ」
 直樹は目を見開いた。気付いていたのか、と反射的に訊ねると、やっぱりか、と山田は顔を曇らせた。
「気付いていたが、試合の流れを壊したくなくて黙ってた。そのことも謝らなくちゃいけないな。すまん」
 頭を下げる山田を見て、直樹は天を仰いだ。
 押しこめていた疲れが、一気に噴出してくるようだった。
「大丈夫です。先輩が作ってくれたこの試合は絶対に壊しません。必ず抑えますから」
「中村には、前の回から肩を作らせておいた。すぐにでもいけるぞ」
 それが決定打だった。直樹は視線を落とし、山田を一瞥すると、グローブをはめたままの左手で、中村の胸を叩いた。
「任せたぞ」
 それだけ言って、直樹はマウンドを降りた。胸のうちで、なにか妙なしこりのようなものが残っていたが、そんなものは無視することができるはずだった。
 そして山田が審判にピッチャーの交代を告げようとして。

「タイム」
 その時、明口のベンチから上がった声に、グラウンドにいた全員が目を向けた。
 相手チームのタイム中にタイムを申し出た明口のマネージャーは、自分に向けられた三十人分の視線をものともせずに敵チームのマウンドに歩み寄ると、山越しに直樹を見据えてくる。
「逃げるの?」
 多分に挑発的な口調で、橘葵は詰問した。
「俊哉はまだ降りてないわよ」
「当初の約束は果たしたぜ。望みどおり、先発は勤めた」
「それで許されると思ってるの」
 険悪な空気が、彼女の方から直樹に目掛けて流れてきた。二人の間に挟まれている山田と中村がそれに飲み込まれ、中村は二人の間で視線を右往左往させている。普段の部活では威勢のいい山田も、他校の女子生徒に対しては勝手が違うのか、助けを求めるような視線で直樹を見てきた。
 直樹は手振りで離れるよう二人に伝えると、マウンドをまたいで葵の前に歩み寄った。ネクストバッターズサークルで北村が立ち上がり、こちらへ来ようとしたようだったが、葵がそれを制した。北村は不服そうな目をしたが、直樹を一瞥したあとで、結局、葵に従った。
「ここまで来たんだから、腹決めて最後まで投げなさいよ。根性無し」
「生憎、もう肘が痛いんだ」
「だからなんだって言うのよ。どうせ使い道のない肘なら、ここで壊しなさいよ。そのほうがいっそ諦めもつくでしょう」
 容赦のない言い様に、バックホームの奥で主審が眉根を寄せたが、それより先に近くでその声を拾った山田のほうが、顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。
「おいあんた、いったいどういうつもりなんだよ」
 怒りで戸惑いなどぶっ飛んでいる様子で食って掛かる山田を、慌てて背後から中村が羽交い絞めにして抑えた。
 自分を取り押さえる後輩を振りほどこうとして暴れるキャプテンの姿に、敵味方を問わずにグラウンドが騒然となった。
 橘はそんな騒ぎの渦中にありながら、まるで我関せずを決め込んでいた。その瞳はただまっすぐに、直樹だけを睨み据えている。
「投げたくないの? それしか取り柄のないくせに、なにやってんのよ。そんな壊れかけ後生大事に抱えて投げもせずに。ガラクタを宝箱にしまっている子どもじゃあるまいし!」
 容赦のない罵声だった。自分の背後で次第にキチガイ染みた声を上げてきた山田と、それを抑えながら敵意のこもった目を橘に向ける中村を感じながら、それでも直樹は彼女になにか言い返そうそうとはしなかった。倫理道徳の問題とはまるで別のところ。自分と彼女の関係にあっては、今の発言はなんら間違っていないのだ。
 直樹は自分の後ろで暴れ狂っている山田に片手を差し出し、大丈夫だから守備にもどれ、と静かに諭した。その落ち着いた態度にすっかり気勢をそがれてしまった山田は、ぶつくさとなにか聞き取れない文句を言いながら帰っていった。
 それを見届けて橘に向き直ると、彼女は山田の存在など歯牙にもかけていないのか、その視線はまるで動いていなかった。
 まるで他の事など見えていないかのような態度。それが彼女が虚勢を張るときの癖だと知っている直樹は、彼女を責めることはできなかった。何が彼女にそうさせているかなど、分かりきったことだったからだ。その覚悟の程も。だから、北村は彼女を信頼して、金属バットの柄に握りつぶさんばかりの力を込めながらも、あの場所から動こうとはしないのだろう。だとすれば、自分はそれに応えなければならない。もとよりこの試合が彼女の意向で取り計らわれたものならば、その意図は明らかだ。
「分かったよ、橘。確かに、ここで降りるのは卑怯かもしれないな」
「当たり前でしょう。此処を何処だと思ってるのよ。そんなこと許すわけないじゃない」
 その言葉にはなにか引っかかるところがあったが、言及しようという気持ちにはならず、直樹は素直に彼女の言葉に従うことにした。
「それじゃあ、お前の恋人様を無様に打ち取ってやるよ」
「ふん。せいぜいサヨナラでも打たれればいいわ」
「そいつは期待しないほうがいいぜ。知ってるだろ。俺が、お前の期待に添えたことなんか一度もないってこと」
「いつまでもジンクスに頼ってると、痛い目見るわよ」
 昔のようなやり取りに、冗談ぽい笑みが混じる。そうして一歩下がった彼女は、最後に窺うように問いかけてきた。
「……ねぇ」
「うん?」
「あなた、此処が何処だか分かってる?」
「当たり前だろ。グラウンドの中の、マウンドに決まってるじゃねぇか」
「……やっぱり、分かってないか」
 マウンドを降りた彼女は、一時恨めしげな目で直樹を見たが、やがて無言のままベンチに戻っていった。

 結局、話は直樹の続投という形で落ち着いた。一度交代をしようとした山田は審判に事の次第を告げたが、審判はまだ交代を告げていなかったからと了承してくれた。
 マウンドに上がろうとするなり引き摺り下ろされた中村は、口ではわかりましたと言いつつもちょっと恨めしげな視線を向けてきた。それには悪いとは思いながらも、そんな態度が取れることに少し感心した。
 ピッチャーには、そんな自己中心的な面が少なからず必要なのだ。
 今度酒でもおごってやろうかな。
 そんなことを考えながら、中村の背中を見送ると、横から顔を覗かせた山田が、頭をコツいてきた。
「なに早々に呆けてんだよ。無理矢理マウンドに戻ったんだから、残り三人、きちんと抑えてくれよな」
「ああ。任せろよ。通したわがままの責任くらいは取らせてもらう」
「……くそったれ」
 山田は腰に両手をあてて、やれやれと大仰に首を振った。
「今日のおまえは、それを信じさせてくれるからやっかいだ」
 口の端を吊り上げて、小さく笑った。
「頑張れ。あとアウト三つだ」
 バトンのように直樹の右手にボールを渡して、山田はマウンドを降りていった。その背中から、海を渡ってきた潮風の匂いに気づいて、直樹ははっとした。慌ててグラウンドを見回して、ここが何処であったのかということを、改めて思い出す。
 直樹は右手の中でボールを何度も弾ませながら、明口のベンチに腰掛けている橘葵を横目に見た。
 まったくもって本当に、彼女は大した演出家だった。それに気付いてやれなかった自分を恥じると同時に、マウンドを降りようとした自分を止めてくれたことに心の底から感謝する。
 ひょっとしたら自分は、まだ投げ続けてもいいのかもしれない。たとえそれが誰かに強いられたものであったとしても。
 バッターボックスに入って素振りをする北村俊哉を視界に入れながら投球モーションに入る。
 海から届いた潮風がグラウンドを駆け抜け、蒼い切れ間の見えた鉛色の空へと吸い込まれていった。

「それで、結局ボコボコに打たれてマウンド引き摺り下ろされて負けちまったってわけか」
 それまで触診をしながら黙って話を聞いていた医者は、気難しい表情のまま直樹の右腕を両手で掴み、腕全体を指先でくまなく撫でるように触診しながら言った。四十代の前半ほどだろうか。精悍さを残しつつも、若干の白髪が入り混じったオールバックが特徴的な、いやにガタイのいい医者だった。
「別に負けてねぇよ。練習試合だから九回までやって、延長なしで終わったんだ」
「何だ、結局また勝敗つかずの引き分けか。おまえらの世代には白黒つけるという概念が無いのか。……むん」
「いてててて! クソジジイ、いきなりツボに指押し込むなよ。イテェじゃねぇか!」
「年上に対する口の聞き方ってモンがなってねぇなあ。痛くない治療なんぞ効果あるか。バカ」
「今はいろいろと痛くない治療法ってモンがあるだろうが」
「そんなモン期待してんだったら包茎手術でも受けてこい、このクソガキが!」
 別のところを撫でていた指が、さらに深く、別のツボに押しこまれる。
「グギャッ!」
「いちいち騒ぐな。本当にガキだな、おまえ」
「クソジジイ! なんか俺に恨みでもあんのか、このヤブ医者」
「アホ。突然二年も往診をサボっていたクソガキが、一試合投げたから調子診ろなんて言ってのこのこ帰ってきたのを快く迎えてやったんだ。感謝こそされ、文句言われる筋合いなんぞ……ない!」
 ぎゅむ。
「~~~っっっっっ!」
「はは、今度は堪えたか。じゃあ、これならどうか……なっと」
 ぐりっ。
「○×■△◇▲~~っ!」
 言葉にならない悲鳴が、喉の奥から噴出した。
「ははははは。相変わらずおまえさんは面白い声で鳴くなぁ」
 心の底から楽しそうに笑う医者を、直樹は厳しく睨みつけたが、医者はそんな直樹の反応が楽しいのか、愉快気な表情で触診を続けていく。
 クソジジイ、これがあるからイヤなんだよここは、くそったれ!
 情けなく涙目になりながら、直樹は腕を乱暴に医者から引き離した。
「ああ、こら、勝手に腕引っ込めるな。まだ一箇所やってないところがあるんだから」
 言って、医者は直樹の右腕を乱暴に掴んだ。乱暴に、というが、それは動作だけで、実際には柔らかい握りだった。直樹も安心して、ついも力を抜いてしまう。
「あのな、ぼうず」
 妙に生易しい医者の表情に、ヤバイと思ったときには既に遅かった。
「ジジイじゃないっていつも言ってんだろ。俺はまだ三十一だ!」
 手の甲の皮を、思いっきり抓み上げられた。
「イテェッ!」
 直樹はあわてて手を医者から引き剥がした。手の皮が抉られたかと思ったが、よく見ると、少し赤くなっているだけだった。非難の目で医者を見たが、医者はふん、と鼻を鳴らすと、安っぽい肱掛椅子に両手を組んでふんぞり返った。
 なんだって、俺の周りにはこんな奴しかいないんだ。
 直樹は自分の置かれている環境を嘆いたが、医者は我関せずといった様相で、ふん、と小鼻を鳴らしただけだった。
「まあいい。特別サービスしといたから、痛みくらいはもう抜けただろ」
「なにが、まあいいだ。このクソジジイ。つまんねぇことするな」
 毒づきながら、だがたしかに医者の言うとおりだった。先ほどまで腕に重くあった疲労感は、いつのまにか腕からすっかり抜け落ちている。サービスの所為で腕の所々が痛かったが、それはまあ、瑣末ごとだった。
 羽のように軽くなった右腕を二、三回その場で回し、感心したように肘を撫でる。
「あいっかわらず、腕だけはいいんだよなぁ。あんたは。ヤブ医者のくせに」
「誰がヤブ医者だ。このヘタレ小僧」
 不機嫌そうに口を尖らせて、医者は机に置かれたお茶を一口飲んだ。
「それにしても、いまさらどういうつもりだ? そんな状態になった腕を見せにくるとは」
「……悪くなってるのか?」
 直樹の問いに、医者はフン、とつまらなそうに小鼻を鳴らす。
「逆だ。普通、おまえみたいに急に往診に来なくなる奴は、好き勝手やるだけやって、ぶっ壊した後にくるモンなんだが。おまえの肘は順調によくなってやがる。まったく、医者に来なくなって調子がよくなるなんて巫山戯たガキは滅多にいないぞ。こっちのおまんま食い上げる気か、キサマ」
 医者は、少し怒っているようだった。どうも先ほどの『サービス』の原因はそのへんにあったらしい。直樹はあきれて声も出なかった。おかげで、肘のことを喜ぶ暇を逸してしまった。
「来なくなったのは、野球を辞めたからだよ。気にする理由がなくなったから」
「うん? さっき試合してきたというただろう」
「二年ぶりの試合だよ。それまでは……ちょっと腐ってた」
 直樹は自嘲した。まじめな学生をやっていたとは、ちょっと恥ずかしくて言えなかった。
「だが、体は鍛えてたようだな。見ればわかるぞ。相変わらず骨は弱いが、筋肉の付き方は昔に比べて力強くてバランスもいい」
「バイトしてたらそうなっただけだよ。偶然の産物だ」
「ふうん、まあいいがな。それで、また野球をはじめるのか?」
「できると思うか?」
「やめておけ」
 即答だった。医者は首を横に振る。半ば予想していたとはいえ、直樹はやはり気分が重くなった。
「何度も言うが、おまえの骨は常人より脆いんだ。そのくせ肘の関節は常人よりも可動域が広い。投球なんて肘に負担のかかる動作を繰り返せば、高校野球みたいに短い間隔の登板が当たり前の世界じゃ、あっさりパンクするぞ。たしかにおまえの肘は、その広い可動域のおかげで他のピッチャーよりも球持ちが長くて便利なのは認めるが、それはアマチュア野球では諸刃の剣だ」
「長くもつ必要はないんだ。残りのシーズンは、もう来年の夏だけだから」
「まだ、秋の大会があるだろう」
「いや、うちの学校は、まだ高野連に加盟してないから。秋の大会には出ない」
 直樹の言葉を聞いて、医者は考え込むように眉間に手を当てた。
「頼む、やらせてくれ。一夏だけでいいんだ。来年の夏が終わったら、もう投げられなくていいから」
「だが……」
「頼む!」
 椅子に座ったまま、直樹は両膝を握り締めて頭を下げた。医者は出しあぐねていた言葉を飲みこんだ。
 難しいうねり声を上げる医者が次の言葉を発するまでの間、直樹は強く瞼をつぶりながら、祈るような気持ちで待っていた。
「保証はできんぞ。おまえは前に一度、爆弾抱える寸前まで肘を痛めていたんだ。蓄積された疲労が二年で抜けたとしても、おまえの肘が抱える弱点は生来のものだ。骨が固まらない限り、いや、仮に固まったとしても人並み以上に負担がかかりやすいことに変わりはない」
「それは、覚悟してるよ」
「本当か。そうやって口でだけ言っておく奴を、こっちは沢山見てきたけどな」
 医者は直樹の頭を起こし、彼の目を覗きこんだ。直樹は医者の視線から逃げず、彼の目をまっすぐに見据える。その間、直樹は全力で駆けていく心臓の鼓動を感じていた。
 唾を飲む音が、頭に鈍く響いた。奥歯を強く噛み締める。
 ダメだと言われたら、どうするか。それでも野球をしてしまうんだろうな、今の俺は。でも、それだといったいどれだけもつんだろう。またあの痛みを味わうのかな。いやだな。さっきのジジイの関節いじりもいやだけど、あの痛みはもっといやだ。でもこのまたされてる時間もイヤだな。ああ、チクショウ。どうせなら早く結論出してくれよクソジジイ。どうせこっちの腹は決まってんだ。この心臓に悪い時間をさっさと終わらせてくれよ、チクショウ!
 どれだけその時間が過ぎたか。医者は諦めたようにため息をつき、好きにしろ、と投げやりな口調で言った。
 胸の中で、何かが落ちる感じがした。重たい荷物が、すとんと落ちる感覚だった。
「高校球児に野球をやるな、とはいえんよ。いくら俺でもな。それに、肘の状態も以前よりはだいぶよくなっている。大事に使ってやれば、一夏くらいはもつだろう。だが、続ける以上は俺のところに見せにこい。少しでも長持ちするよう、手は貸してやる」
 その言葉に、直樹は不覚にも目頭が熱くなった。あわてて顔を覆い、椅子に座ったまま上半身を伏せて顔を隠す。それでも、嗚咽が洩れるのを防ぐことは出来なかった。
 右腕が、無意識のうちに左腕に抱かれていた。その時、初めて全身に伝わる嗚咽の起点が、自分の右腕にあることに気がついた。
 困惑気味に自分を見る医者に、直樹はわりぃ、と短く言った。
 困惑しているのは、実は直樹も同じだった。
 こんな風に感情が溢れるとは、自分でも思ってもいなかったのだ。
 こんなにも自分の右腕は投げたがっていたのかと、と偽りつづけていた気持ちに気付いて直樹はあきれた。
「……また、できるんだ」
 誰にでもなく言った言葉で、嗚咽はもうどうしようもないほどに溢れ出る。
「……そうだな。またできるな」
 医者は、今日初めての柔らかい声で言って、直樹の背中を撫でた。
 その大きな手があまりにも暖かくて、直樹は危うく、また泣きそうになってしまった。

「……げ」
 診察室を出た直樹は、誰もいないと思っていた待合室のソファーに腰掛けている黒沢夏樹を見て、思わず、そんな声を漏らした。
 直樹の声に反応した黒沢は、それまで俯いていた視線をはっと上げる。切れ長の目が緩やかな弧を描き、それが彼女の静かな驚きを示していた。
「おまえなんでいるんだよ」
「なにが、げっ、なんですか」
 かぶった。お互いに相手なにを言ったのかうまく聞き取れず、とりあえず視線を交わす。
 なんとなく、先を譲られたような気がして、直樹は口を開いた。
「なんで……」
「なにが……」
 またかぶった。
「なにしてんだ、おめぇらは」
 診療室のドアを開けて、呆れたような愉快そうな、読み取るには複雑な笑みを浮かべた医者が顔を出した。
「なんだ、おまえら知り合いか?」
 医者は興味深そうな目で二人を見る。
 二人はお互いを見もせずに指差した。
「うちの助っ人マネージャー」
「わがまま幽霊エース」
 二人はお互いを睨んだ。
「……てめぇ、先輩様に向かってその口の聞き方はなんだよ」
「都合のいいときだけ体育会色出さないでくださいよ」
「なんだよ」
「なんですか」
「ほんとになにしてんだよ、おまえらは」
 医者が呆れた声で割り込んできた。彼は直樹を一瞥したあと視線を黒沢の方に流すと、一拍、彼女の視線が自分に向くのを待ってから訊いた。
「ああ、夏樹。おまえが前に電話で言った幽霊エースってのは、こいつのことなのか?」
 医者は乱暴に直樹の頭を掴んで、スイカの値踏みでもするみたいにこめかみを拳骨で突付いた。
 直樹は頭を強く振って医者の手から逃れ、彼を睨んだが、医者は涼しい顔をして鼻を鳴らしただけで、なんだか馬鹿にされた気分だった。
「ええ……はい」
 黒沢は、妙に弱々しい口調で頷いた。それを見て、医者は大仰に頷いて見せる。
 口の端を愉快気に吊り上げて、医者は意地悪な目を向けた。
「そっか。おまえが例の暴行魔か」
「え?」
 驚きの声を上げたのは、なぜか黒沢の方だった。
 直樹は据わった視線を彼女に向ける。
「おまえ、俺のことこのジジイにどう言ったんだよ?」
 ボコンッ!
 医者は、固く握り締めた拳骨で直樹のこめかみを打ち抜いた。
「何すんだよ、ジジイ! 死ぬほど痛いんだぞ、それ!」
 打たれた頭を抑えながら、たまらず叫ぶ。割と元気な声が出たのは、ただの慣れに過ぎなかった。
 医者は不思議と嬉しそうな表情で、直樹の頭を掴んでくる。
「うるせぇぞ、くそガキ。てめぇ、なんでも大通りで、カタギの衆に不意打ちかけて殴り倒した挙句、夏樹をバーに引きずり込んだらしいじゃねぇか。まったく相変わらずたいそうな極悪人だな」
「ちょ、待てよその言い方は……」
「なにか違うってのか?」
 怖い笑顔で覗きこまれて、直樹は喉にまで出かかった言葉を飲みこんだ。この医者は、本気で怒って笑っているのか、うれしいことがあって笑っているのかの区別が、特別難しいのだ。
 代わりに、抗議の目を黒沢に向けると、彼女は気まずそうに視線を逸らした。
「まあ、いいや。おい、ボウズ。俺はこれから夏樹の診察するから、おまえちょっとここで待ってろ」
「……なんで」
「なんでもクソもあるか。時計見ろ時計」
 医者は待合室の壁にかけてある振り子時計を指差した。
 時計の針は、六時少し前を差していた。
「こんな遅くに、女一人で帰すわけにいかないだろうが。送っていけ」
「いや、今夏だから、七時くらいまでは明るいと……」
 ギリギリと、直樹の頭を掴んでいる手に力がこもっていく。
「思う……けど?」
「……けど?」
 だからなんだ、と医者の目が言っている。
「……やっぱり、女の子を一人で帰すわけにはいきませんよね」
「そうだなぁ。女の子を送る役目をもらって、それを断るバカもいないよなぁ」
「そうですねぇ。あはははは」
「そうだよなぁ。あはははは」
 上っ面だけの穏やかな笑みを交わしながら、どんどん殺伐としていく空気に、腰掛けたままの黒沢はソファーの上でそっと身を引いた。
 時計の針が、かちりと音を立てて動く。
 間抜けな鳩の鳴き声が、荒涼とした待合室に、六度響いた。

「クソジジイッ! いつかその腕へし折ってやるからな!」
 有らん限りの殺意を叫びに乗せて扉を蹴破り、直樹は診療所を出た。
 あの後『警察には言われたくなかろう?』という、医者の妙に脅迫じみた台詞に負けて、何故か黒沢の診察費まで払わされる羽目になった彼の機嫌は、控えめにみても角度九十度の断崖絶壁だった。
 チクショウ、あのヤブ医者。ちょっと腕がいいからってふざけたマネしやがって。うっかりあんな奴の前で涙を見せちまったが、あれはひょっとしなくても痛いミスだったんじゃないだろうか。いっそバラされる前に口封じでもしちまおうか。いや、ていうかその前にあのヤロウの台詞に感動しかけちまった自分が悔しい。返せ俺の感動。殴って返させろ。ああ、やっぱり今すぐ殴りこんでやろうか。今なら帰ったばかりだと思って逆に安心しているかもしれんし。何が逆なのかはいまいちわからんが、とにかく今はチャンスっぽくないか?
「どう思うよ、黒沢?」
「なにがですか?」
 突然話題――というものでもなかったが――を振られて、黒沢は困惑気味に訊き返してきた。
「いや、おまえが俺のことをあのヤブクソ医者にどんな風に話したのかとか、なんで俺はおまえの分の診察費まで払ってしまったのかとか、この怒りはあのクソジジイにやっぱりぶつけるべきなんだろうかとか、なんであんな何もない待合室で二十分も一人孤独に耐えてなくてはいけなかったのかとか、どうして今は夏で暑いはずなのに私の懐はどうしてこんなに寒いのかとか、腕の診察を受けにいって頭が痛くなって帰るとはこれいかにとか、まあ、いろいろ」
「日ごろの行いが悪いんじゃないですか?」
 にべもない。
「即答すんなよ。ヘコむだろ。っていうかおまえ、本当に先輩への口の聞き方しらねぇな。だいたいあのクソジジイにこの間のことなんて話したんだよ」
「先輩、そんな口数の多いキャラでしたっけ?」
「俺はイライラをしゃべって発散するタイプなんだ。って、話逸らそうとすんなよ。おまえの所為で診察費、倍も払わされたんだぞ」
 そこを突かれるとさすがに良心が痛むのか、黒沢は気まずそうに視線を逸らした。
「……かっこよくいいましたよ」
 ぼそぼそと、消え入るような声で言う。
 うそつけ、と直樹は内心で思った。口に出す代わりに、鼻で笑う仕草を見せる。
「信じてません?」
「俺はそんなにお人よしじゃない」
「……本当なんですけどね」
 消え入るようなその声は、直樹に耳には届いていなかった。
 二人は駅へと続く、海沿いの道路の橋を歩いていく。途中、何度か地元のサーファーの車が後ろから追い越していった。そのたびに、海側から吹く潮風が自分たちの周りだけ消えていく。
 とりわけ、これといった会話もなく、やがて青く染まり始めた空に駅前商店街の明かりが灯るのが見えてきたところで、それまで俯きながら直樹の後ろに付いてきた黒沢が足を止めた。
 何事かと思って振り返った直樹に、彼女は意を決したように顔を上げた。
「先輩」
「どした?」
「先輩は、野球が好きなんですか?」
 まっすぐに自分を見つめてくる瞳と、その質問に直樹は戸惑った。
 その問いが、かつて自分の師匠的存在だった従兄が発したのと同じものだったというのではなく、なぜ、黒沢がそんなことを聞くのかが、まったく想像できなかったからだ。
「なんで、そんなこと訊くんだ?」
「……お返しです」
「え?」
「お返しです。この前、先輩私に言ったじゃないですか」
 それで直樹は、以前『水連』に彼女を連れ込んだとき、なにかの弾みで自分が言ってしまったことを思い出した。
 確かに、そんなことを言ってしまった身としては、今の質問は『お返し』だ。だが、それが今思いついたばかりの嘘だっていう事くらい、すぐにわかる。それ以上を追求するべきか、自分で言い出すのを待つか逡巡して、結局直樹は問い質すことにした。そうしないと、この後輩が言いたいことを口から引っ張り出すのが難しいと思ったのだ。
「なるほど。で、本当のところはなんでだ?」
「……」
「今頃『お返し』する必要も、タイミングでもないだろうに。俺が野球したがるのが、そんなにおかしかったか?」
「……あんなにうまいと思ってなかったから」
「お前が俺の事をどう見ているのか、一度きちんと確認しないといけないようだな」
「だって、いつも一人で遅くまで架線下で壁当てやってたじゃないですか」
 予想外のその言葉に、直樹は不意打ちを食らった思いで彼女を見た。
 確かに中学で野球を止めてすぐの頃、まだ二年生だった当時、彼は架線下のコンクリート壁目掛けて、一心不乱にボールを投げつけていた時期があった。学校で問題を起こし、マウンドで投げることがもはやできなくなった頃の話だ。結局、二ヶ月ほどで肘を痛めて以来、二度とそこへ行くことはなくなったが、なぜ彼女がそのことを知っているのか。
「あの川沿いの道、私のおじいちゃんのアトリエに行く通り道なんですよ。昔はよくおじいちゃんに絵を教えてもらいに行ったから、先輩が毎日あそこで投げているのは知ってました」
 疑問が顔に出ていたのか。クラスメイトと世間話でもするみたいに軽く、小さな笑みを彼女は浮かべた。それがはじめて彼女の笑みだと気づいて、直樹はなぜか、胸が締め付けられる思いがした。今の自分たちの位置取りでは、それを彼女の背に沈んでいく夕日の所為にはできそうになく、彼はとっさに顔を手の平で覆い隠した。
「てっきり下手だから試合に出してもらえない鬱憤を晴らしてるんだと思ってたんです。だから、この前、部長が先輩のことをエースだって言ったとき、信じられませんでした」
「悪かったな。期待に添えなくてよ」
「だから、不思議に思ったんです。先輩は、野球が嫌いなんですか?」
 彼女は少しずつ二人の距離をつめながら、求めるような目で直樹を見上げていた。夕日の中で彼女の弱い笑みが消え、中学上がりたてには不相応な、女としての色が浮かんでいる。
「わからない」
 自分の心臓が跳ねる音を誤魔化すように、呟く。
「俺は、自分が投げるのが好きなだけだ。野球が好きかどうかは、分からない」
 だからだろう。
「じゃあ、どうして中学で、野球を止めたんですか? 急に来なくなったりして」
 それ以上の誤魔化しをとっさに思い浮かべることができず、苦い思いをかみ締めるように彼女を見たときには、自分がどんな目で後輩を見ているのか分からなかった。
 自分を落ち着けるように深呼吸をする。そんなものでどれほど自分を落ち着けることができるというのか。まっすぐに自分を見上げてくる彼女に、できるだけ真剣に聞こえるような声で、直樹は言った。
「実は……」
 彼女の背を、一台のワゴンカーが追い抜いた。黄ばんだフロントライトの光が横を駆け抜けていく。風に排気ガスの臭いが混じり、エンジンの音が耳朶を叩いた。
 それが直樹の意識を現実の一番薄っぺらい部分に引き戻した。彼は内緒話でもするように黒沢に歩み寄ると、人差し指を一本突き立てて、神妙な面持ちで言った。
「ちょっとした勢いで金属バット持って一般人に殴りかかろうとしてな、それがバレちまったもんで退部させられてしまったというわけなのだよ」
 ふざけた語調とは裏腹の真剣な口調に、間近にある黒沢の瞳が大きく見開いた。
「あの、先輩、それは……」
 言われたことの真偽を自分の中で探るように小首をかしげている後輩の仕草が可愛らしくて、直樹は思わず噴出しそうになるのを堪えるのが大変だった。 
 ようやく、からかわれたのだと思い至った黒沢が、夕日の中でもはっきり分かるほど顔を真っ赤にして怒り出したときには、もう彼は遠慮なく腹を抱えて笑い出していた。
 潮風に飲まれていく自分の笑い声と黒沢の拗ねた怒鳴り声を誰よりも近くで聞きながら、まったく本当に冗談じゃないぜと、誰にも聞こえない想いを吐き捨てた。

 黒沢の姿が改札を通って駅のホームに消えていくのを見届けると、直樹はどこか安心した思いで空を見た。さすがに駅前はネオンの光が眩しくて気にならなかったが、夜空はいつの間にか全て青黒く染まっていた。
 携帯電話を取り出して時間を見ると、すでに七時半を回っている。
 そこで初めて、直樹は携帯のディスプレイ下に、三件の着信履歴が入っていることに気がついた。相手はどれも一緒で、時間も診療所から駅まで歩いている最中だった。マナーモードにしてあった上、ほとんどずっと歩いていた所為で振動に気付かなかったようだ。
 かけ直すべきかとも考えたが、どうせすぐにまたかけてくるだろうし、正直金がもったいなかったので、相手からの着信を待つことにした。どうせ時間は沢山あるのだ。
 直樹はポケットからおもむろに財布を取り出して、改めてその中身が空っぽだという事実を認識する。逆さに振ってみても、文字通りホコリも出てこない。いわんや帰りの電車賃など、どうひねくり回したところで出るはずもなかった。
 歩いて帰るしかないか。
 診療所でスカンピンになった時点でわかりきっていたことなのだが、いざその時になると、まだ歩いてもいないのに足が重くなった。ここから直樹の家がある町までは、駅にして五つほども歩かなければならないのだ。しかもそれは数多くの急勾配がある蛇のように複雑に曲がりくねった道で、地図上の直線距離よりも、実際のそれは倍近くある。
 なんだか涙が出そうになった。今日は涙腺が変にゆるい。
 周りを見ると、夏になって開放的な服装をした男女が仲良く肩を並べて商店街のネオンの川を歩いていて、それが直樹の気分をいっそう重くした。

 線路沿いの道を歩いていると、ズボンのポケットから携帯の着信を知らせる音がした。
 取り出すと、背面ディスプレイに『水蓮』と送信者名が表示されている。
 直樹は二つ折りにされていた携帯を開き、深呼吸をひとつして通話ボタンを押した。
「おう、おまたせ」
『お待たせじゃないわよ、このバカ』
 聞き慣れた女性の声が、スピーカーを震わせた。
「やっぱり橘か。なんかずいぶん電話くれてるじゃないか」
『気付いてたんならさっさと電話かけてきなさいよ。何度かけても出ないんだから』
「いや、ついさっき気付いたんだ。マナーモードにしてたから気付かなかった」
 言っていることは一応、本当だったが、金がもったいなくて電話をかけずに待っていたとは、さすがに言えなかった。
『金がもったいなくてかかってくるの待ってたんでしょ』
 が、さすがに幼馴染はお見通しだった。
「バレバレか」
『当たり前よ。あなたの単純な脳みその中身なんて、考えるまでもないわ』
「だけど可笑しいな。電話相手が『水連』からになってる。お前、いつから場末のバーに入り浸るようになったんだ?」
「仕方ないじゃない。あなたが私の電話着信拒否にしてるんだから」
「それは……悪かったよ」
「まっ、いいわ。それくらいしてもらわないと、憎み甲斐がないもの」
 電話を通しても、彼女がその向こうで胸を張っているのがわかった。
 直樹は罪の意識を感じながらも、電話の向こうの彼女に、今日はありがとな、と礼を言った。
『なんのこと?』
「今日のグラウンド手配したの、おまえだろう。覚えてたんだな。あそこが俺と北村がはじめて試合やった場所だって」
『っていうか、あなたが忘れてたことを怒ってたわよ。俊哉』
「ああ、それは……おまえからあやまっといてくれ」
『いやよ。なんで私が。あなたが土下座して詫びなさい。そしたらハイヒールで踏んであげるから』
「俺はそういう趣味はないんだ」
『それは安心』
「わかって頂いてこちらも安心。それはそうと、おまえなんで電話なんかかけてきたんだ?」
 訊くと、電話の向こうで彼女はちょっと困ったような、照れたような唸り声を上げた。
『う~ん、一応、お礼は言っといたほうがいいかな、と思って』
 直樹は首を傾げた。お礼といわれても、思い当たるフシはまるでなかった。
『あなたのおかげでね、俊哉がまたやる気になってくれたから。そのお礼』
「俺のおかげ?」
『俊哉、あなたには足首を捻挫した、っていってなかった?』
「ああ、そう聞いたけど」
『本当は、骨折してたのよ。これはオフレコよ。あなたにだから言ってるんだからね』
 直樹は息を呑んだ。それはまったく予想もしていない話だった。
『ケガ自体は軽かったんだけど。リハビリが思うようにいかなくて、それでも何とか復帰はしたんだけど、大会には間に合いそうにないって、レギュラーからも外されて、ここ最近はすっかりふてくされてたのよ』
「それで、俺をあいつの前にぶら下げるニンジンにしてくれたってわけか」
『そのくらいの貸しはあるでしょ?』
「……ああ、それもそうだな」
『おかげで、すっかりやる気になってくれたわ。あなたを打ち崩せなくて、凄く悔しがってた。次にやるときこそ絶対にボコボコにしてやるって、息巻いてたわよ』
 次があればそうなるだろうな、と思いながら、直樹は黙って頷いた。言葉にこそしないが、彼女もそれを感じているはずだった。
『あなたも、また投げるんでしょ?』
「……やっても、いいと思うか?」
『なに言ってんのよ。あなたに他に何があるのよ。せいぜい普通の学生の真似事くらいしか出来ないくせに』
「ひどいな」
『でも、事実よ。この前あなたの部屋にいったとき、あの部屋はまるで普通だったわ。普通過ぎて、部屋の主がどんなのかまるでわからないくらい。性格も趣味も何にも出てない、ただ普通の部屋って感じ。はっきり言うとね、あの部屋で待っている間、あなたに会うのが怖かった』
 直樹は、黙って彼女の言うことを聞いていた。
 振り返ってみれば、彼女のいうことはたしかに的を射ていた。自分の部屋は、確かに普通過ぎた。まるでドラマかなにかで、普通の部屋という舞台をセッティングしたらこうなりますという見本のような、無機質ながらんどうだった。
 それを一目見てわかってしまう彼女に、直樹は感心した。そういう細かいところに目のいくところが、彼女が慕われていた本当の理由だったのかもしれない。
『だけど、実際に会ったら安心したわ。あなたは何にも変わってないってわかったから』
「……変わってない?」
『そう。ただ野球ができなくてふてくされてるだけ。それを自分に納得させようとしているだけで、結局野球が好きなことは変わってなかった。ああ、やっぱりあなたには野球しかないんだなって。ちょっと残念だったけどね』
「その台詞、北村が聞いたら泣くぜ」
『おあいにくさま。いまさらそんなことで動揺したりしませんよ。俊哉は』
「仲のいいこって」
『ええ。あなたのおかげでね』
「皮肉か?」
『少しだけね』
 意地悪そうに笑う、彼女の声。
 直樹の横を、重たい音を響かせながらからっぽの電車が駆けて行く。
 瞬間、彼の周囲が明るくなり、すぐにいつもの暗闇に戻った。
「なあ、橘。俺もおまえに言わなきゃならないことがあったんだ」
『え、なに?』
「ありがとう」
『それはさっき聞いたわよ』
「さっきのとは違う。――また、投げることを許してくれて」
 続けて出そうになる弱い本心を押しとどめるように、直樹は頭を押えつけた。そうして、気持ちを落ち着けるように深呼吸をする。電話の向こうで、同じように息を止めて待っている彼女に向けて、言った。
「俺、また投げるよ。残りの大会は来年の夏だけになるけど。そこでできれば、北村に決着をつけさせてやりたい」
『それは、なにか違うんじゃないの?』
「……そうだな。俺は、あいつに勝ちたいんだ」
 直樹は微笑んだ。電話の向こうで、彼女が笑っているのがわかったからだ。
『手強いわよ。私の恋人は』
「知ってる」
『あなたなんかよりも、ずっと野球に愛されてる』
「それも、知ってる」
『勝てると、思ってる?』
「……」
『……』
「勝つさ」
 それは決意の表明だった。自分は、決して引くことなどないという、宣戦布告。だが、そんなことは何も特別なことではない。球児にとって、それ以外の選択肢など最初ないのだから。
『じゃあ、頑張りなさい。そのときがくるまでは、応援してあげるから』
 電話の向こうから聞こえてくる調子の軽い声は朗らかで、それが彼女の言っていることが本心からだと教えてくれた。
 今日のグラウンドでの冷酷に条件を突きつけてきた女が、自分のために作った彼女の精一杯の虚勢であることは分かっていた。分かっていたから、いっそう胸が痛んだ。だから、せめてそのことを謝るのは止めようと必死に喉の置くから当たり障りのない言葉をつむいだ。
「ああ。頑張るよ」
『うん。頑張んなさい……それじゃあ』
「ん」
 耳元のスピーカーから聞こえる声が、無機質な電子音に取って代わる。
 用事がすんだ携帯の電源を切り、直樹はそれをポケットの奥に押しこんだ。今夜はもう、誰とも電話もメールもする気になれなかった。
 遠くに見えた信号機から聞こえてくる甲高い音と低く重い振動が、再度の電車の通過を予告していた。
 空を見上げれば、商店街から離れた夜空はこれ以上ないくらいに星にあふれていた。
 急行電車のライトが周囲を白く照らし、からっぽの地響きを立てながら躊躇ない速度ですぐ横を駆け抜けていく。
 夏休みが始まって二週間が過ぎようとしていたが、夏は早くも終わろうとしていた。
 そして、
「あと一回、か」
 最後の夏が始まろうとしていた。


                                       (つづく)

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