『まつりの時間』

『まつりの時間』

著/桂 たたら
絵/空信号

原稿用紙換算60枚

 山中を二人の男が注意深く歩いていた。
 それは対照的な二人組みだった。一人は身長百九十センチメートルに届くかという大男で、羽織ったベストを下から筋肉が押し上げている。行動にはしなやかさがあり、その筋肉は見せかけだけではないことが分かる。その四角い顔には緊張が張り付いている。
 もう一人は黒を基調にした、動きやすそうな服を着込んでいた。やや痩せ型で、身長も高くはない。ときおり不安そうに腰に手を触れている。無意識に手を伸ばすその先には、わずかなふくらみがある。硬質のそれは彼に安心感を与えるものだ。
 普段は温和そうなその顔は、隣を歩く男と同じように険しい表情だった。
 空は明るめの藍色。日が暮れるまでにはまだ時間があることが知れた。
「注意深く探すんだ。あれはこの辺りにあるはずだ」大男がいった。
 二人の男性は周囲に目を光らせる。
「しかし、見つかるのか?」細身の男が疑わしげにいった。「こんな山中で……、小さな時計なんて」
「無駄口を叩く暇があればとっとと探せ」
 大男の返答はにべもない。細身の男は肩を竦めて、周囲に気を配る。斜面から生えた木々を根こそぎ燃やしてしまいたい衝動に駆られる。この中から手のひらほどの大きさの時計を探せだって?
 遠くから祭囃子の音がしていた。
「十年前から続く、お盆前後に起きる殺人事件、ね」細身の男は呟いた。「どこかで聞いたような話だけど」
 彼らがこの山中を歩き回っているのはあるものを探すためである。
 それは「時計」だった。それも、ただの時計ではなく、なんらかの術式加工が施された道具であるのだという。
 この三倉という街では、十年前から、八月の中旬頃に殺人事件が起こっていた。だが、それも毎年というわけではなく、殺人が起こらない年が二年も三年も続くこともあれば、何年も連続で数人ずつ殺害されるということもあった。二人はその話を聞いて、この街にやってきていたのだ。
「この間、締め上げた魔術師だけどさ」細身の男がいった。「あいつの話、鵜呑みにしちゃって良いのかね? あれが、ここの辺りにある、なんてさ」
「身体に聞いた。嘘はあるまい。……ただ、これでこの街の術者どもに私たちの存在が知れた。両日中には『時計』を見つけて、この街を去るべきだ」
 そのためにも無駄な時間は使えない、と大男が言外にいった。
「ぼくらみたいな、どこの組織にも属さない一般人のアウトローみたいなのには、こういう宝探しはとても窮屈だね」
 だが、だからこそ『時計』を手に入れたときの効果は大きい。『力』を占有している組織というものがあるとするなら――否、それはすでに現在までの調査からあると断定できる段階まで来ている――そこと対等以上に渡り合うことも可能になるはずだ。
 金力、権力、暴力。その組織の頭を、自分たちとそっくりすげかえる。そこまではいかなくとも、技術や資金をごっそりと削ぎとって奪う。
 彼らを突き動かしているのは、野心であった。
「――――」
 大男が目を光らせた。木々をよけながら迷いのない足取りで進み、急斜面を滑り降りていくと、細身の男からは彼の姿が見えなくなった。
 目当てのものを見つけたのかと細身の男が足を踏み出そうとした瞬間。
 肉と肉の爆ぜる音がした。
 細身の男が慌てて駆け寄った。大男の背中が遠くに一瞬だけ見え、すぐに下へと消えていく。向こうにはさらに崖があったようだ。崖を降り、その姿を追う。ただ事ではない雰囲気を男は感じていた。
 さらに崖を降りると、そこは木々の密度が上がり、視界がほとんど利かないほどだった。左方にちらりとフェンスが見えたが、それがあの大男の進行を妨げるほどの効果があるとも思えない。わずかに聞こえる音を頼りに、細身の男は木々の間を縫って進んだ。手には腰から抜いた拳銃を構えていた。

 *

 単車にでも激突されたのか。
 大男はその思考をすぐに破棄し、現状の把握に努めた。さきほどの衝突は、その接近が音として認識できたため衝撃に備えることが出来た。
 探していた時計らしきものを見つけて、その効果を確かめようと弄っていた矢先のできごとである。激突の直前に大男は時計をベストのポケットにねじ込んでいた。
 弾き飛ばされた姿勢を制御した後、その場から離脱を選択。さらに崖を降りようとしたところで更に背中に衝撃。自ら前に飛ぼうとしていたために衝撃は幾らか減退したはずだったが、それでもこれか、と大男は肋骨に罅が入るのを自覚した。
 枝にぶつかりながら地面に激突。すぐさま立ち上がって横に飛ぶのと、その場所になにかが落ちてくるのは同時だった。
 さらにお互いに繰り出した拳のタイミングも同時。二つの巨体は顔面だけを後ろにのけぞらせはしたものの、足は一歩も退いていない。
 大男は相手の外見の情報を脳に入れることよりも、自分と相手の身体の動きだけを認識することに努めた。それ以外の情報はすべてシャットアウト。
 今の突きには見覚えがあった。中国拳法を使うか。
 大男の中段突きが円形の動きでいなされ、空いた腹部に肘がめりこんだ。
 喉まで上がってきた熱いものを無視し、大男は相手の襟と手を掴んで豪快に投げた。それは柔道の投げ技ほど美しいものではなく、力任せに振り回したと形容した方がよい。相手をぶちあてた大木がたわみ、ざわざわと葉が揺れて音を立てた。
 大男は自分の手を掴み返され驚愕した。これでまだ動けるのか?
 手を引き寄せられる。抵抗が無意味なくらいの膂力。踏ん張る足元は土がごっそりと捲れ、腕の皮膚は裂け始めていた。掴まれた先はすでに血が通わずに感覚がない。
 引き寄せられる勢いを利用して、大男は丸太のような足で回し蹴りを放った。まともに直撃すればあばらをへし折る威力をもったそれは、しかし骨を折った手ごたえがない。まるで分厚いタイヤでも蹴ったような感触だった。
 視界いっぱいに無骨な拳が広がった。

 *

「時計は見つけた! 斜面下に放る! 金縁の懐中時計だ! 回収して逃げろ!」
 細身の男が音を頼りに大男を探していると、突如、声が山中に響いた。
「ど、どういうことだ?!」細身の男は周囲を見回す。音がくぐもっていて音源が特定できない。
「勝ち目がない! 時計を持って、すぐに」

 そこで、声が途切れた。

 *

 普段ならもう誰もいないはずのその場所から、今日は祭囃子が聞こえていた。
 そこは山というには標高が低く、小高い丘とでもいった方がしっくりくるような、そんな場所だった。頂上には名前は立派だけれどみてくれはひどくぼろっちい社が建っている。その神社のカミサマは白い蛇なのだろうといった程度の感想を抱くような名前がついていて、この辺りに住んでいる人達も八月の十五日と十六日を迎えるまでは名前どころかその存在をすら忘れているふしがある。つまりはその二日間がこの地域一帯の夏祭りの期間にあたるわけだ。神社があるのは小高い丘のようなものといってもまるで裸の見渡す限りの草原というわけではなく、隆起した森から円形に木々を削り取ったと表現した方がニュアンスとしては正しい。市街地から離れているだけあって、今のように空がまだオレンジと紺が混ざったような色でもちらほら星が見えたりする場所だった。
 学校からの帰り道。
 人ごみが嫌だったので、いつもなら通るその場所を避けて帰ることにした。

 浴衣姿の女の子が楽しそうにからころと下駄を鳴らしていた。
 その山だか丘だか分からない隆起した土地を横目に眺めながらあぜ道を歩いていると、浴衣姿を道すがら何人も目にした。手に手に綿菓子やらヨーヨーやらを持っていて、そうかと私は祭りがこの市全域で行われていることに思い当たった。
 そんな風に益体もないことを考えながらぼけぼけと歩を進めていたものだから、足の裏に硬い感触を感じるまで道端に落ちているものに気がつかなかった。
 なにか踏んだ、と思って足をどけると、がちゃと音を立てて丸いシルエットがわずかに動いた。
「時計?」
 金縁の懐中時計、というのが最もそれを正しく表している。しかしこの時計には奇妙な点があって、それは針が一本しかなかった。短針とも長針とも判別しがたい針。ローマ数字で頂点に十二、そこから一、二と増えていって十一で一周するように配置してあるのは通常の時計と一緒である。そしてまるでストップウォッチのような押し込み式のスイッチが時計の上部についていた。針は動いていない。電池が切れているのだろうか。
 ひょいと拾うとざらりとした感触が手に伝わった。錆びて塗装は微妙に剥げているし、見るからに年季が入っている時計である。表面のガラスは何箇所か罅が入っていた。
 私は周囲を見回して落とし主らしき人がいないことを確認してから交番へ向かった。きっと誰かが大事にしている時計なのだろうし、そもそもこんなものをねこばばしてもなんの得もない。得があったらねこばばするのかどうかというとはっきりとは答えられないけれど。

 興味本位でその時計のスイッチを押したことが後になって思えば軽率なのだった。

 カチリ、という妙に軽快な音を立てた直後に針が回りだす。カチカチと一秒に一回だけ右回りに針が動いていく。なんだほんとうにストップウォッチじゃないかと私は思った。こんな妙な装飾のストップウォッチなんてあるのかとそれを弄り回していると、何かが咽喉に詰まったような感覚が私を襲った。最初は息苦しさだけだったのだが、時間が経過するにつれてなにか粘性の強いものを無理矢理のまされているように思えるまでになった。
 空気が重い。
 まるで水の中にいるように身体が動かしにくい。もしもゼリーに全身を浸して動こうとしたらこんな感覚だと思う。
「スイッチを押せ。もう一度だ」
 意識の間隙に潜り込ませるように放たれた声に私は無条件で従った。緩慢にしか動かない指先で懐中時計のスイッチを押した。
 唐突に私の身体からなにかが引いていく。枷が外れていくように身体に自由が戻る。粘つくようだった空気はすでに普段どおりに変容しており呼吸に支障はなくなっている。
 突然に乱暴な声が頭に響いた。
「誰かと思えばちょくちょく神社通ってた嬢ちゃんじゃねぇか! 短い付き合いになるかもだが、よろしくだなマイバディ!」
 やかましい声だ、というのがその声に対する私の第一印象だった。

「確認します。今、私が会話している相手はこの時計、ということでよいですか?」
「おお、認識がはやい。期待できるな」
「質問に答えてください」
「答えよう。イエスだ」
 いくら田園だらけの街のはずれとはいえ人影は皆無ではない。独りで会話するアレな人にならないように行き交う人たちに聞こえない程度の音量で私は発音した。
「あなたは何ですか?」
「世界の終わりを実現するものだ」
「…………」
 私は頭を押さえた。少し気が遠くなる。
 遠くでつくつくぼうしが鳴いている。夏の終わりが近いことを否が応でも知らされる。
「もしそれが冗談でなければ、どういった方法なのか教えて欲しいものですね?」
 このしゃべる時計はその質問には答えずに感心した様子で、
「そんなことよりも俺は嬢ちゃんの適応力の高さに驚いてるんだが。懐中時計が喋るんだぜ? 少しは驚いてもらわないと調子が狂う」
「世の中は広いです。喋る時計だってあるでしょう」
「おもしれえ野郎だなマイバディは」
 その物言いに私は少しだけムッとした。
「私はいますぐに貴方を投棄します。問題はありますか?」
「オオアリだね」と時計はいった。「ミスが俺を起こしてから二分経過だ。説明するために残された時間はあと十分。今から十分経てばお前を襲う奴がここに来る。そのときには俺が居ないとお前が困る。了解したかフレンド?」
「……真実を話している証拠は?」
「十分ちょい待てば良い。明日の朝には惨殺死体として朝刊に載るだろうよ。既に今夜は二人目だな、連続殺人ってことで話題としては強烈だろう」
 嘘をいっている気配はない。
 さて、どうしたものか。

「十分間でしたか? その間だけ相手をしてあげます。その上で話を信じるか否かを判断しますので。ではどうぞ」
「その態度からお前には見所があると判断するぜ。期待と興味を持った。名前を教えろ」
「やです」
「そうか、ならシスター、俺のことは、」
「……小鳥です。新月小鳥」今までの二人称を考えると、ここは名前を教えておいた方がよさそうだった。
 時計は「はっ」と愉快そうに笑った。「小鳥か! 俺のバディはバーディでもあったわけだ、はは!」
「…………」
「俺のことはオーバーランと呼ぶといい。俺を作った奴はそう呼んだ。さて、耳の穴をかっぽじってよく聞けよ。ミス新月が俺のスイッチを押したことであるプログラムのスイッチが入った。それは俺を所持するに値する持ち主を選定するための試験だ。こうして俺を起こした奴に説明することが俺の義務ということになってる。スイッチを押した瞬間から俺を追うあるプログラムが走る。それは俺の所持者を攻撃するもので、それを撃退すればバーディは晴れて俺の所持者になるってわけだ。単純な話だろう?」
「望んだわけではありませんが」
「そういうものだ」
 頭痛の具合が増した。
「投棄しても?」
「意味は無い。俺を無くしたらただでさえ低い勝率がゼロになる。なら話に耳を傾けてわずかな可能性に賭けたら良いと思うがね。ここまでで質問は?」
 私は話の続きを促した。判断は話を全部聞いてからでも遅くはないだろう。
「息が苦しくなったろう?」
 少し考え、さきほどの奇妙な感覚のことを指しているのだと分かった。
「所持者の時間を加速する。それがこの俺オーバーランの能力だ。時計の針が進むほどにバーディの時間だけが加速していく。だが気をつけろ、針が一周すると加速が止められなくなる」
「加速が止まらない?」
「どうなるかわからんがな。ただ、俺を作ったやつは、世界が終わるといっていたぜ。それに興味があるなら試してみると良い」
 冗談とも本気ともつかない調子で時計はいう。
 私は少し考えた。
「私は魔力持ちではありませんよ。それだけの現象を起こすに見合う代価を持ち合わせていません」
「魔力はいらねえ。必要なのは対応力さ」
「つまり……、」想像する。私の時間だけが加速した世界。「皆さんが一秒を感じる間に私は十秒を感じられる。……そういうことですか?」
「優秀すぎるな」時計は低い声でいった。「バーディは人間じゃないのか?」
「人です。紛れも無く」
 いい終わると同時に私は時計のスイッチを入れた。なにかがまとわりついてくるような感覚が時間を経るにつれて大きくなっていく。
 ……なるほど、冷静になってみると車や鳥の動きがスローに感じられる。そしてどうやらこの現象は針が進むにつれて極端化していくようだ。針が三時ごろを指しているときは注意していると動きがゆっくりだなと感じる程度だが、六時、七時と針が進むにつれて急速に周囲の動きが遅くなっていく。私の体の動きも連動して動かしにくくなっていくが、周囲に比べればまるで比較にはならない程である。針が八時を過ぎたときには空を行く鳥はほとんど停止しているようにすら見えた。
 息苦しさが我慢の限界を超え再度スイッチを押して時間の流れを正常に戻すとオーバーランと名乗る時計が驚いた口調でいった。
「よくもまあそんなホイホイとスイッチを押すつもりになるもんだ」
「この能力を使ってその何かを撃退しろということでしょう? 時間がありませんから少しでも慣れておく必要があるのではないですか」
「いままでも何度か説明したことがあるが、これほど早く話を終えたことはねえよ。さて、後世に名を残す伝説の魔術師新月小鳥の、これが序幕になると良いな、マイバディ?」
「軽口ばかりを」私は少しだけ笑って見せた。それで弱気を退けることができればと思ったがその考えはいくらか浅はかだった。私は死にたくない。
「一つだけいっておきます」
 続く私の言葉を、時計は警戒を孕んだ声で遮った。
「前を見ろ」
 巨人が立っている、という印象は私の身長が百五十センチメートルに満たないという条件に加えて目の前の人間の身長が二メートルを超えていればあながち的外れでもないだろう。木綿の着流しに日で焼けたとは思えない褐色の肌。いや、それはむしろ褐色というよりは赤黒いと形容すべきなのかも知れない。そして頭には二本の角。こめかみあたりに生えた五センチメートルほどの突起をそれ以外にどう形容してよいか私には分からない。
 巨体がこちらに向かって疾駆した。
「私の――」心臓が縮み上がる。
「すぐに加速を開始しろ」鋭く指示が飛ぶ。
「――名は小鳥です。バーディではありません」
 スイッチを入れる。
 世界を置いてきぼりにして、私の時間が加速を始めた。

「――見たとこお前は肉体を一切鍛えていないな。運動能力が下の中程度だとすればあの鬼と満足にやりあえるようになるには少なくとも三十秒――つまり時計の針が半周するまで待たなくてはならない」
 時計の声が頭に響く。鬼、とはあの巨人のことを指しているのだろう。
「アレがここに到達するまで十数秒。残りの十秒を稼ぐためにいまは逃げろ」
 すぐに私は踵を返す。粘っこい空気の中、私はもがくようにして走り出す。
「理想はこちらからの不意打ちだ。俺の能力は奇襲に非常に弱い。目の前にアレが現れてから加速を開始しても、時間が加速しきる前にただの人間ではひねり殺される。
 伝えるのを忘れていたが目的地は白蛇神社の境内だ。社の中のあるものを破壊すればプログラムは終了する。ここまで説明できたのも、久しぶりだなミス新月」
 私が向かわねばならない方向が境内だというならこちらは反対だ。
 走りながら手の中の時計の針を確認すると四時を指していた。時間の流れが変化しても、この時計の針だけは私の体感時間と同時に時を刻むようだった。
 しばらく走り、私がこの辺りだろう、と思うのと「そこで止まれ」とオーバーランがいうのは同時だった。
 くるりと振り返り巨体を視界に収める。突進するそれは私にはダンプカーのようにすら見えた。
 頭から血の気が引いていくのが分かる。あんなのに激突されたら痛みを感じる暇もあるかどうか。
 彼我の距離は十メートルと少し。
「落ち着け。今のお前なら動きが見える」
 普通に十数秒走ったのとは疲労の度合いがまったく違う。肉体の疲労はもとより、私の呼吸はまるで喘息患者のようだった。同じ三十秒経過でも、ただ立ち止まっているのと動き回っているのとではこれほどまでに違うということか。
 鬼の履く草履が砂利を弾き飛ばすように地面を踏みしめる。粉塵が舞って小石が飛び散る様子がスローモーションで視認できた。目の前に聳え立つ赤黒い肌をした巨人は端正な顔つきをしていて、仏像のような印象を私に与えた。
 なるほど私の頭部に迫る大砲のような大きさの拳はまるで頭をなでようとしているかのような速度だった。私はそれを上半身をひねって回避する。
「拳で殴れ」という指示が頭に響くより前に私はそれ以外に攻撃手段はないと考えていた。
 格闘技の見様見真似ですらない無様に突き出された私の拳はまるで体重が乗っておらず、ただ単に鬼の横腹を引っ叩いただけに終わった。

 酸欠で震える手から時計が落ちる。
 その瞬間に時間は本来の速度を取り戻し、それと同時に二メートル超の着流し姿は真横へとすっ飛んでいった。
 田んぼに巨体が突っ込んで泥を巻き上げながら大きな溝を作り畦にぶつかって停止する。
「あれ、を……、はぁ、わたし、が」
 私は荒い息を繰り返しながら時計の反応を待った。あの饒舌がなにもいわないなと思いながら酸欠を訴える身体にムチ打って落とした時計を拾った。
「へい、初めてにしちゃ十分だバーディ。よくやった」時計を持ってからようやく口を利く。「ちなみに俺と会話できるのは俺に触れている間だけだ、覚えとけ」
 私が喋ろうとするのを時計が止めた。
「まずは息を整えな。一撃入れたサービスタイムだ。数分は時間が稼げる。神社へ向かえ。歩きながら呼吸を整えろ」
 黙って深呼吸を繰り返し、呼吸が落ち着いてくると次には手首に激痛が走った。きっと殴り方に問題があったということだろう。
 神社へと足を向ける。
 そしてようやく周囲に気を配る余裕が生まれ、さすがに今の一連を誰も見ていなかったと考えるのは楽観に過ぎると思ったが、近くには誰もおらず田んぼをいくつも挟んだ向こうにまめつぶのような大きさの人影が見えるだけで、ちょうど薄暗くなってきたこともあり私を不審がる人がいなかったことは不幸中の幸いだった。
「近くにいたとしても誰にも何をしたのかなんてわかんねーよ。あのときのお前の動きを目で追えるやつなんてそうはいねえ」
 コンマのうちに数秒を動くことができる、のだったか。
「ずいぶん躊躇なく人を殴るな。訓練でも受けていたか?」
 物騒なことをいわれて「心外ですね」と私は唇を尖らせた。
「ああいったものは人ではないと思い込むことにしています。それに、訓練なんて受けていたらこうして手首を傷めることもないかと思います。……しょうじき、痛くて涙が出そうなんですけど」
 また同じ道を歩いて戻る。人ごみが嫌いだから避けたのに、これからお祭り会場まで足を運ばねばならないということを考えて辟易した。
「境内のどこの何を破壊するといいました?」
「本殿にある仏像だ。それを壊せばあの鬼は出現しない」
「そこに忍び込めというのですか」
 あまつさえ仏像を破壊しろという。なんてバチあたりな。
 私がちらちらと後ろを振り返っていると時計が、
「気になるか? アレが動けるようになるまではあと三、四分ある」
 三、四分、と私は反芻する。そしてここから境内までの距離を考え絶望的な気分になった。距離が遠すぎる。あの鬼とやらが動けるようになるまでに境内にたどり着くことは不可能だし、ましていまは体力の消耗が激しく走ることさえままならない。
「分かってると思うがもう一度だ。もう一度だけ拳を交える必要がある。ま、さっきと同じだ、簡単だろう?」
 簡単、といわれれば簡単なのかも知れなかった。ある程度の距離をおいてから時計のスイッチを押して能力を発動、接近してから殴りつける。
「気分転換に話をしましょう。……いままでに何人ほど、私のような人が?」
「そんなにはいねーよ」時計は過去を思い返しているのか声のトーンが幾分沈んでいた。「両手で数えられるほどだろうな。結果はいうまでもない。俺を所持したやつは、全員死んだ」
「全員、ですか……」
「ああ、そのほとんどがお前のようになにも知らずに巻き込まれただけの人間だが、何人かは俺の存在を知った上で取りに来たようだった。……さっきのも、そうだな」
「……なぜ皆あの鬼の撃退に失敗しましたか?」
「誰も俺の話なんざ聞きやしねえよ。慌てふためくか幻聴かと疑って俺を放り出してアレにやられちまうわけだ。まれに聞きやしやがらないやつもいる。さっきの男は勿体なかったな、生身で鬼とあれだけやれるんなら、能力を使いこなせばとんでもない使い手になったろうに」時計は少し沈黙した。「……誤解すんなよバーディ、お前は特殊だ。すべての人間がお前のように対応できるワケじゃない」
「私は特殊ではないと思いますが」
「じゃなけりゃヤケにでもなってんじゃねえか?」
「いちいち癇に障るいい方をしますね?」
「は、八つ当たりならお門違いだな。お前がこんなのに巻き込まれたのだって偶然なんだ。俺だってとっととこんな義務からは解放されてーよ。目の前で人がばたばた死んでいくんだぜ?」
「…………」
「そう、ヘソを曲げるなよ。可能な限りのサポートをするさ。優秀なバディを持ったんだから期待させてくれ。今回こそはうまくいく。そんな気がするのさ。バーディがバディなんだからな?」
「……だから、小鳥ですってば」
 ようやく遠くに石段が見えてくる。あれを登った先が境内だ。
「さて、そろそろ第二ラウンドだ。準備はどうだ?」
 万全とはいい難い。まだわずかに乱れている息を深呼吸して無理矢理に押さえつける。
 また浴衣姿が増えてくる。すれ違う人も多い。幼い子供の、男の子とも女の子ともつかない黄色い声があちらこちらで上がっている。
「……幽霊。……緑目の退魔師。……ゾンビ犬。……ああ、鬼は二回目ですね。……マンドラゴラ。……人に化ける猫」
 私が指折り数えていると、時計が「なんの話だね?」と問うた。
「私が出会った奇怪な出来事です。……今日で喋る時計が加わりました」
「そーかそーか! レディはそれだけの修羅場をくぐってきたってワケだな! ならその精神力も納得できるものがあるな! 歴戦を潜り抜けて、実戦慣れして強くなってきたということだ!」
「いちいち物言いが大げさですね。……慣れたのではなく、鈍くなっただけだ、などと友人はいっています」
 そういうもんかね、と時計は不思議そうにいった。
 祭囃子とつくつくぼうし。それに加え、蛙の合唱が重なり合っている。
 ここからでは高さが足りず直接は見えないが、祭りの会場の明かりは周囲の森林を赤く照らしていてその様子は私にキャンプファイヤーを思わせた。指先程度の大きさだけど石段を歩く人の群れが見える。神社のある山はそのすそに沿って舗装された道路が続いていて、それがすそから離れて山とは逆方向に伸びてゆき大きくU字を描いて田園を迂回している。その内側に畦道がほんの数本だけあってそこを通ると神社へ向かう近道になり、いま私が歩いているのがそれだ。ふいにちゃらりと鎖の擦れる音がして、そちらを見て私は驚いた。幼い子連れの老婆が私の手の中にある時計と同じものを持っているように見えたからだったが、しかしそれはすぐによく似ただけのものであることが分かる。同じ金縁の時計ではあるけれど罅も錆もなくぴかぴかしていたからだった。その時計に目を落として老婆が「今日は遅くならないうちに帰ろうね」と手を繋いでいた娘にいうとまだ小学生くらいのその女の子は「やだー」と歓声を上げた。遠くのアスファルトの上に黄色い発光がいくつも踊っていて、それはきっと夜店でよく売ってる棒状とか円状の光るやつだろう――。
 視線。
 幾人ものすれ違う人達の中から私は奇妙な視線を感じた。それがどこから発せられるもので、どのような意思を備えた視線なのかを理解する前に、低いけれどよく通る声が周囲に響いた。
「動かないで。そこの女の子。髪の長い、背の小さい君のことだ」
 まるで愚かな子供でも相手にしているかのような侮辱を含んだ口調。
 正面、拳銃の銃口が私を向いている。
 ほんの十歩ほどの距離から、男が私を見ていた。視線はこの人だった、と私は思った。
「なに、取って食おうというわけじゃない。ただ、君の持っているあるものが欲しくてね」話しながらも銃口はこちらを向いている。
 道行く人々が私と男を見る。一見してすぐにただならぬ雰囲気を感じて距離をとってなりゆきを呆然と眺める人が九割。なにをしているのか興味も持たずに通り過ぎる人たちが一割。無関心という名の文化で礼儀だ。
「……な、」のどが張り付いてうまく声が出せなかった。「なにが、欲しいんです?」
 その顔は典型的な優男顔とでもいうのだろう。長くも短くもない柔らかい黒髪が夕日の中でひどく目をひく。黒のスウェットを着込んだその全体像はまるで無個性の象徴であるかのようでもあった。
「なにがもないよ。その、手に持ってる時計だよ」男はちらりと視線を落とした。手元には淡く発光するコンソールが握られている。「死に際に機転が利く……。それで間違いないね」
 言葉と同時に、ぐい、と露骨に銃口が私に向けられる。
 どこかで小さい悲鳴が聞こえた。
 いつのまにか私と男を囲うように人の円ができている。
「こ、こんなものをどうするっていうんですか? ただの……、時計ですよ」
 男は不機嫌そうに眉を寄せた。
「もしかして時間稼ぎをしているの? 駄目だねえ」
 銃声。
 時計を持つ左腕が大きな力で後ろに引っ張られる。まるで後ろから肩を掴まれたように私はよろめいた。
 シャツを貫通して白地のそれを赤く染めている。いつのまにか左腕に持っていたあの時計がなくなっていた。そしてようやく気を失いそうなほどの激痛が走る。
「あー、ほら、すっぽ抜けて飛んでった」仕方がないなというふうに男は盛大にため息をついて見せた。「うしろのおばあちゃん? 申し訳ないんだけれども、いまこの女の子が持っていた時計、ぼくのところまで持ってきてくれないかな?」
 原因の分からない猛烈な吐き気が私を襲った。
 老婆がよろよろと足元に落ちた時計を拾うと「急いでね」と男が労わりの声をかけた。「一刻も早くこの場所を離れたいからさ。本当はこんなに目立つことはやりたくないんだけど」
 老婆が時計を手に持って頼りない足取りで歩みを始める。
 私は出血している箇所を右手で強く押さえた。そこは痛いというよりも熱く、噴出す血に止まる気配はない。
 いつのまにかあたりは静まり返っている。さっきの銃声と私の左腕の出血からこれは冗談の類ではないと周囲の人たちも感じ始めたのだろう、ゆっくりと後ずさるようにして、だんだんと円の直径が大きくなっていった。
 ……鬼。破壊しなければならない、仏像。後ろから迫る鬼がここに到達するまで、あと何分? 何秒? 
 いま、私の手の中にはオーバーランがない。もし鬼がここへ来てしまったら私はわずかな抵抗すらできないのだ。
 恐怖に駆られて背後を振り返りたくなる衝動をこらえて、私は無意識に上方の境内へと目をやった。
 私の視線につられて男は後ろを振り返った。
「――――」
 その瞬間に私の脳裏を光がよぎる。それは本当にただの光で、明確な形をすらもっていなかったけれど、私はその光が指し示す行動に従って、老婆が私の横を通るときにこっそりと彼女の足をひっかけた。
 倒れこみそうになる老婆を全身で支える。左腕に伝わる衝撃で気を失いそうになったけれど唇を噛んでこらえて大丈夫ですかと私は声をかけた。
 男から見えないように私の身体で死角をつくる。
 ばれませんように、と私は老婆の腰へ右手を回す。右手に納まる硬質な感触。そして痛む左腕をオーバーランを大事そうに持つ老婆の手の上に重ねて「私、が運びます」と囁くようにいった。
「へいマイフレンド、」時計に触れたとたんに声が脳裏に響いた。
「黙っててください」
 老婆にすら聞こえないくらいの、それこそ蚊の鳴くようなという形容がふさわしい音量で私はいった。
「鬼が来るぜ。あの速度ならちょうど一分てとこだ。どうすんだね?」
 私はその問いを無視した。
「俺をあの男に渡したらまずもって勝てやしない。その辺はどう考えているんだね?」
 それも、無視。
「もういいや、おばあさんに持ってきてもらうんじゃ日が暮れるね。もう暮れてるけど。ちょうどいいから、君。もう一回頼むね」ちらちらと拳銃を見せ付けながら男は私にそう命じた。「今度妙なことしたら正中線狙うから」
 男へと向き直り、右手で彼に向かって金縁の時計を放り投げた。時計は砂利の上を何度か跳ねて男の足元でその動きを止めた。斜に構えて彼から私の左手が見えないように立つ。
 よくできました、と彼は小ばかにしたようにいった。
「やるなバーディ……」頭に興奮気味な声が響く。
「……一つ、聞いても良いでしょうか」と私はいった。
「なんでも」
 男は時計を拾いながら答えた。
「……その時計で、なにをするつもりですか?」
 私は視線をはずさずに、その面を精一杯にらみつけてやる。
「これがあればどんなことだってできる。とりあえずは君で試し切りでもさせてもらおうか。この時計の存在を知っている人間は少ないほど良い」
 私は二の腕に走る激痛に眉をしかめた。「……し、知っていますか? それを持った人のところには、鬼がやってくるのですよ」
「……なにをいっているのかよくわからないな。鬼?」男の表情に少しだけ緊張が走る。
「ええ、二メートル超のすごいのです」私は笑みをつくろうとしたけれどうまくいかずにひきつったような表情を浮かべた。「まるで戦車みたい」
「まあそんなのはどうだって良いよ」
 いまにも鼻歌でも歌いだしそうな彼の様子に、私は安堵した。
 これなら心おきなく叩きのめすことができる、と。

 すでに彼の言葉の最後の方はスローモーションで聞こえていた。一言一言の合間がひどく長く、意味はほとんどつかめなかったが、ちょうど良い、こいつの言葉なんて聴きたくはない。

「じゃあ、おしゃべりは終わり。ここまで時計を持って来てくれてありがとう。もう見つからないかと思っていたんだよ」
 彼は時計のスイッチを――押そうとしてそこにスイッチがないことに気がついた。時計の上部についているのはスイッチではなく針を動かすつまみだけだった。
「これは――」
 目がみるみる開かれていく。にやけ顔が一瞬にして憤怒の形相を形作る。
「偽物――!」
 てめえ、と男は私に狙いを付け直し、トリガーにかけた指を引いた。
 私は前方へ足を踏み出した。

 左手に無理矢理持たせた時計の針はすでに八時方向を指している。

 黒い筒の延長線上に私の眉間。
 マズルフラッシュさえもはっきりと見ることができる。
 銃口から射出された鉛弾の回転が捉えられた。
 射線から身体をずらす。その私の動きを男は目で追うことすらできていない。向こうからすれば今の私はとんでもない高速なのだろう。
 動きにくい空気を掻き分けて、男の鼻先に右拳を見舞ってやった。
 ――――一分。
 私は後ろを振り返る。
 そこには人垣を押しのけ、今まさに私の背後に襲い掛かろうとする鬼の姿があった。
 時計の針が指すのは十時。加速時間の猶予は九秒間。
 空気はすでに泥だった。
 掻き分けるようにしてその中を鬼の目前まで進む。
 巨人の腹部に拳を叩き込み、同時に時計のスイッチを押して加速を解除した。針は十一時と十二時の間を指していた。

 二人は同時に反対の方向へともんどりうって転がっていく。鬼は再び田園へと、そして拳銃を持った男は石段の脇の茂みへ沈んでいった。
 はあ、と私は大きく息を吐いた。
「これだけうまくやってくれると清々しいな!」時計は楽しそうに叫んでいるが、私は荒ららぐ息を整えるので精一杯だった。
 時計を運ばされていた老婆が私の傍へやってきて、安静にしていなさいといいながら手ぬぐいを私の血みどろの左腕に巻きつけた。「あ、私、まだいかなくちゃいけないところが……」という私の抗議に対して、老婆は「馬鹿をいうんじゃないの」と一喝した。ぎゅうと締められると思わずうめき声が漏れる。
 周囲は唖然としている。周りからすれば、あの二人は突然、正反対の方向に飛んでいったようにしか見えていないのだろう。
「境内――本殿は目の前だとはいえ、あまりこうゆっくりともしてられないと俺は助言するがね。確かに時間はあるがへたりこんでるとそれも足りなくなるかもだぜ」
 わかっています、と私は発音せずに口だけ動かした。それだけでも不思議と話が通じるような気がした。
 失礼します、と私はやんわりと老婆の手を押しのけて立ち上がった。
 私は周囲を見回してあるものを探した。
 目的のものはすぐに見つかった。男が立っていた場所に落ちていた懐中時計を拾い上げ、老婆に手渡した。
「すいません。これ――、落ちていましたよ」
 老婆はその時計と私の顔をしばらく見比べていたが、「たしかにこれは私のだねえ」とそれを受け取って巾着袋に入れた。
「落ちていたとはね」オーバーランは楽しそうにいう。「ばあさんから掠め取った時計でごまかすなんざ、てーした度胸だこりゃ」
 老婆に軽く頭を下げてすぐに境内へと向かった。有無をいわせずにそこから立ち去るには私はまるで怪我など負っていないかのように振舞わなくてはならなくて、痛みをこらえながら背筋を伸ばして歩くことはなかなかの苦行だった。
「ここまでうまくいくとは思わんですよ。死が目の前をちらついてました」
 私が正直な思いを伝えたというのに、時計はまるでうまい冗談でも聞いたかのように笑った。「お前は良いな! その悪運と狡さ、本当に歴史に名を残すかも知れねーな!」
 ようやく石段へたどり着き、それをゆっくりと一段ずつ登る。歩くときの振動で腕が痛むのでなるたけそっと。
「おねえちゃん!」
 と後ろから声がかけられる。振り向くと幼い女の子が一段低いところから私を見上げていた。その手には水色のリボンが握られている。彼女はそれを元気よく突き出していった。
「はいっ、落し物!」
 自分の髪に触ってそれがないことを確かめて、私はそれを受け取った。「あ、どうも、です」
「おねえちゃんがおばあちゃんを倒れないようにしてくれたんだよね。ありがとう!」
 あれは時計を奪い取るために足をひっかけたんです、ともいえず、私は「たいしたことはしていませんです」と曖昧な笑顔を浮かべた。
「おばあちゃんがあの男の人の近くに行かなくて済んだのもおねえちゃんのおかげだね」
 ばいばいと彼女は手を振って祖母のもとへと戻っていった。
「あの娘は」時計はどこか迷うような口調でいった。「男がばあさんに攻撃する可能性を感じていたんだろう。……結果論だが、ばあさんを転ばせて奪った時計を放ってやったのは正解だったのかも、な」
 妙にたどたどしくいう時計に、私は「はあ」と気のない返事をした。「下手くそな慰め方ですね」
「な」と言葉に詰まったあと、なにかを誤魔化すように大声を張り上げた。
「う、うるせー。とっとと石段を登れよこのドンガメが」
「それこそうるせーです。けが人をいたわりやがれです」
 ドンガメってなんだ。
 神社までの段数が少ないのが幸いだった。緩やかな傾斜の石段がほんの二十メートルほど続いた先がもう境内になる。もうずいぶん祭囃子の音も大きく聞こえている。
 ばぢんと、そのとき足元の石段が爆ぜた。
 砕けた小石が宙を舞う。
 発砲音で全身に緊張が走り、それが危険によるものだと認識すると同時に右のふくらはぎをハンマで殴られたような衝撃が襲った。
 脚を拳銃で打ち抜かれて立っていられるはずもなく、私は石段に倒れこんだ。
「こっちを向け!」
 逆上した声が後ろでがなりたてる。私はねがえりをうつようにして後ろを振り返った。
 眼下、男は茂みから半身を乗り出したところだった。右手には硝煙があがる拳銃を、そして左腕には――、
「――――」
 怯えた女の子を抱えている。リボンを私に渡してくれたときの笑顔を今は恐怖と混乱で歪ませていた。腕を喉に回されて彼女は苦しそうに呻く。
 こいつは――!
 がさり、とのっそりとした動きで男は木々の隙間から身体を抜き出した。脳震盪でも起こしているのか足元がふらついている。ひしゃげた鼻からだくだくと血を垂れ流すその顔は、さきほどまでのにやけ面から憤怒の形相に入れ替わっている。
「時計を見せろ」
 私が言葉の意味を理解するよりも早くに、
「早く見せろといっているんだ!」
 その突然の怒号でどこかから悲鳴があがった。男はいまだ硝煙の燻る拳銃を腕に抱えた女の子のこめかみに当てた。より強く締めつけられて彼女は吊られる形になる。
 私は突きつけるように男に時計を見せた。
「よし、そのままゆっくりだ。そっとこちらに投げろ」
 私はいわれた通りにオーバーランを放り投げようとする。肩まで持ち上げたところで「バーディ」と時計が私を呼んだ。「さよならかね?」
 いえ、と私は自分でも聞こえないくらいの声でいった。「必ず取り戻します」
 いい終わるやすぐに私は彼に向かって時計を投げた。彼は目前に落ちた時計を少女に拾わせた。
 男はすぐに時計のスイッチを押した。
 数秒間、彼は周囲をきょろきょろ見回していたが、やがてビデオテープの二倍速のような速度で自分の手を目の前でかざしたり振ったりして動かし、その次の瞬間には女の子がいつのまにか突き飛ばされて石段の下へと落下を始めていて、その動きを私は視認することすらできなかった。
「確かに本物だ」満足げに頷き、そして急に小うるさそうに男は顔をしかめ、「なんだこれは? どこから聞こえるんだ?」ときょろきょろし始めた。
「……それは、きっと時計が喋っているのでしょう」と私はいった。「えらくおしゃべりで。うっとうしいですよ。これからその時計を使っていこうとするのなら、」
 男は私の言葉を遮って、
「黙って、うるさいよ」
「…………」
 こつこつと彼は石段を登ってくる。ハンカチで顔を拭う。
「君は、」そこで言葉をきり、男は聞こえる声に意識を向けているようだった。「……そうか、説明はこいつがしてくれるってか。ありがたいね。音声付取り扱い説明書みたいなものかな」
 彼が私の一つ下の段まで登ると、座り込んだ私からは彼を見上げる形になる。
 私は大きく深呼吸をしてから、いった。
「……世界の終わり、って、なんだと思いますか?」
 私の言葉に男は耳を貸そうとはしない。銃口を私の額に合わせた。
「その針、一周するとなにが起こるんでしょうね?」
 男はその言葉にピクリと反応した。トリガーにかかった指が少し緩む。
 彼は私の左腕と右脚を見てあからさまに気を抜いた表情を見せた。私は続ける。「それを作った人は永遠を求めていたのだと思います。……限界まで時間の加速したあなたと世界。お互いはどう観測されるのでしょう。あなたからすれば世界は永遠に静止したまま。世界からするとあなたは……消える? それとも微小時間に老いて死んで朽ちてゆくのでしょうか? 一体どうなるかなんて見当もつきません。
 時計がいう、世界の終わり。私はそれを孤独だと思うんです。それも、永遠の。それはまたの名を死、というのかもしれません」
「――で? その話がなんなの?」
 しびれを切らしたように男がいう。
「ああ、いえ。どうもしませんよ。単なる与太話です」私は無理矢理に笑って、友達と話すように明るくいった。「さらにいえば、全部私のでっちあげ、真っ赤な嘘、というやつです」
 男はただ単に呆れたような顔をした。「まさに時間の無駄ってやつだね。それじゃあここらで死ぬといいよ」
「いいえ。死ぬのはあなたです」私はいった。「きちんとオーバーランの説明を聞いていました? それとも私の話に夢中になっちゃいましたか? 駄目ですよそんなんじゃ。私も一度だけいいましたよね――」
 男がトリガーにかけた指に力を込める。
「鬼の――話を」
 私はごろりと横に転がる。それはけして俊敏な動きではなかったけれど不意をつかれた男は一瞬だけ銃口を私から外した。
 しかし私が動いたのは射線から逃れるためではない。
 銃口を私に向けなおすより先に彼は弾丸のように後ろから吹き飛ばされた。一秒前まで私がいた場所を通って。
 ぬう、と巨大な影が現れる。
 巨人は体躯に見合わぬ機敏な動作で私の横を通り地面を蹴って男を追っていく。
 鬼を見上げていた私の視界にきらりと光るものが映った。
 時計だ。
 高く舞ったそのオーバーランを、私は自分でもびっくりするくらいきれいにぱしっとキャッチした。
「ナイスキャッチだなバーディ」
「私の名前は小鳥です。バーディではありません」
 私はろくに動かない足で石段を登り境内を見回した。
 着流しの大男の後姿を人ごみの中に認めた、と思ったらその姿はもやのように霞んで蒸発したように消えてしまった。
 敷地内の奥の方に大騒ぎになっているひとだかりがあった。
「あの男の死体があるんだろうな、あそこにゃ」
 私は周囲を見回してあの鬼の姿がないことに疑問を感じた。襲いかかってくることを警戒しているのに、忽然と姿を消してしまってからどこにも現れない。もっとも、いま襲われたとしても加速する余裕はまったくないけれど。
 だから、鬼に男を倒させるというこの方法では、その後の私の身の安全がまったく保障されていなかった。距離を離して戦わなくてはならない相手を目の前までひきつけるのだから。
「鬼は?」私は時計に尋ねた。
「最後にスイッチを押した人物にだけ試験が行われるんだと。俺もいま知ったよ。つまり、小鳥がオーバーランを起動しない限りはもう鬼は発生しない。……プログラムのバグというか、ルールの落とし穴のようなもののようだ。プログラムを組んだやつもこういう状況は想定していなかったんだろうな。誰かがスイッチを押してから、そいつが殺される前に他の奴がスイッチを押す、なんてことは」
 そういうことは最初にいって欲しいものだ。
「……では、ゆっくり仏像を破壊できますね――おっと」
 歩き出そうとして貧血と脚の怪我で倒れそうになった私を支えてくれたのは、あの女の子だった。
「あ、すいません、どうも」
 女の子は私の脇の下に身体を入れて心配そうに私を見上げて、どこに行こうとしているのかと聞いた。
「あの。あそこまで連れていってくれますか」と境内の中心を指差すと不思議そうな顔をしながらも歩いてくれた。
「おねえさん軽いね」私を支えながらも彼女の足取りが軽やかなところを見ると、その言葉もあながち世辞というわけでもなさそうだ。
「ああ――、血が抜けた分、軽いのですかね?」
 彼女は少し笑ってくれた。
「あまり笑えない冗談だな」と時計がいう。
「けが、痛い? 痛そうだね……」
「たいしたことはねーです。……すいません、ここで良いです。少し待っていてもらえますか?」
 本殿とはいえそれは小さめの牛小屋程度の大きさしかなかった。五坪程度だろうか。賽銭箱の向こう側に障子がある。時計がいうにはあの中に壊さなくてはならない仏像があるのだという。
 ただでさえ血みどろのこの格好で注目を集めているというのに、この衆人環視の中でずかずかと障子を開けて本殿の中に入るわけにはいかないだろう。
 オーバーランのスイッチを入れる。
 呼吸を整えて針が八時を指すまで待つ。ここまで待つと私からすればほとんど時間は止まったようなものになる。
 時間が加速するのを待ちながら、時計はぽつりといった。
「なあ、スイッチを押さなければもう鬼は出ないんだぜ? 仏像を壊す必要があるかね?」
「私が見ていないところで誰かがスイッチを押すかも知れないでしょう?」
「小鳥は心配性だね。まあ、それが正しいと思うぜ」
「やっと名前で呼びましたね。ようやく覚えましたか。その小さい頭、で……」
「どうしたね?」
「ふと思いましたが。頭ってどこですか?」
「……十二の数字の所かな? 飛び出たスイッチはさしずめ髪の毛だな」
 私は小さく吹き出した。「一本しかないじゃないですか」
「ほんじゃあ兄貴は三本あるわけだ。いねーけどさ」
「ふは、しょうもないですね」
「ああ、しょうもねえよ」
「でも大丈夫です、人の価値は髪の毛ではありませんから」
「そうかい。……ありがとうよ」
 時計の針が八時を指した。

 誰にも気付かれず、鬼の姿をしたその仏像はひっそりと破壊された。

 *

 あの夜の喧騒が嘘のように、神社は静けさを取り戻していた。
 夕方になると冷たい風が吹くようになり、日の短さを実感しはじめるころになると、私の脚も松葉杖を使わずに歩けるまでに回復していた。
 ところどころが赤く変色した木々を眺めながら境内を歩いていると例のしょぼい社が目に入ったので、すこしお参りでもしようかという気になった。
 あれから時計は喋らない。それについて、友人は「説明義務を果たしたからかも知れない」といった。なるほど、説明するためだけに存在するのならあそこで役目は終了だ。
 手の中で時計を弄ぶ。
 仏像を破壊したとき以来、スイッチを押す気になれない。時間を加速させて、誰が好き好んで無駄に年をとろうとするものか。
「あ、でも……。背、伸びるかな」
 そうだ、と私はついでに背が伸びますようにと願をかけて拍手を打った。


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