『失われた楽園を求めて』

『失われた楽園を求めて』

著/夏目 陽



 ――楽園【らくえん】心配や苦労が無く、楽しく過ごせる場所。パラダイス。「地上の――」
(第六版新明解国語辞典より)


 楽園、と言われると我々は一体、どういうものを想像するだろうか? 楽園という言葉は日常的に使うことはないが、誰しもが一度は憧憬したことのあるものであろう。
 楽園の定義を探ろうと手元の辞書を引くと、上記のようなエピグラフが書かれている。さて、このような定義を充たす楽園は果たして存在するのだろうか? 今回は楽園について、しばし考えてみることにしたい。
 我々は楽園と聞くと、やや外部にそれを求めてしまいがちではあるが、この現実世界に「心配や苦労が無く、楽しく過ごせる場所」などというものがあるだろうか。例えば、ひと時の安らぎによって心配事や苦労が無くなったとしよう。だが、そのひと時が過ぎれば、また人との関わりや仕事、勉強その他のことで、心配事や苦労が生まれる。現実世界が楽園となりえないのは、常に世界は自己よりも優位であるからである。
 さて、現実世界が偽なのであれば、その逆は真なのだろうか。理論的に言えば「世界→自己」の図式ではなく、「自己→世界」である場合だ。私は後者の図式にある世界を精神世界と定義する。精神世界とはいわば内にある空間である。わかりやすい例を挙げれば、我々が思考する間、その精神世界というものは生まれる。精神世界では自分が何かを思えば、必ず何かになる。それは誰しもが経験することであるだろうから、説明はいらないだろう。さて、この精神世界の場合、自己が世界を作るため、あたかも自分自身が神になったような錯覚を自己に与える。いや、正確には、私は現実世界から精神世界のことを書いているので、「錯覚したような」という言い回しになってしまうのだが、それは正しくない。精神世界では自己が神なのだ。神とは絶対的なものである。楽園を考える上では常に「絶対的」というものが一つのキーワードになる。
 なぜ、「絶対的」がキーワードになるのか。それについて簡単な説明をしよう。まず、問題となるのは人の認識の問題だ。私たちは一体、どこまで物事を認識しているだろうか、という哲学的な疑問に対して、我々人類は自己と他者を区別することでそれの答えとした。つまり、我々が完全に認識出来るのは自己のことだけであり、他者を認識したとしてもそれは不完全であるという結論である。他者が自分に対して何か言ったとしても、それが真実かどうかがわかるのは、その他者以外はいないのだ。我々の現実世界の言葉を突き詰めれば、原初的定義にたどり着くが、それもまた言葉があるからこそ、定義が出来るのである。すなわち、証明無き言葉のような絶対的なものは現実世界に存在しないということだ。このことに対してウィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と結論付けている。
 語り得ぬものがある世界は果たして楽園と言えるだろうか? 人によって答えは変わるだろうが、私はいいえ、と言う。言葉を突き詰めれば矛盾している世界など楽園とは程遠いただの流刑地であることは他愛もなく想像できる。しかし、我々は中島敦『山月記』の李徴の台詞の通り、理由もわからずに押付けられたものを大人しく受取って、理由もわからずに生きて行くのであると言えるだろう。普段から言語空間に懐疑を抱き、定義を突き詰めていくことなどをするものは一部の学者と物好き以外いないだろう。だが、日常生活にも語り得ぬことによって、楽園を遠ざけるものがある。それが他者だ。他者に関して語り得ぬことがあるということは、我々に心配や不安を植え付けるからだ。我々が他者からの印象を気にするのも、これと同じであると言える。我々は誰一人として、知ることの出来ない他者を意識しないということは出来ないのだから。
 さて、それならば他人のいない精神世界はどうなのだろうか。ここで問題となるのが我々の肉体である。我々はこの不自由な肉体のために精神世界を形成したとしても、いつかは現実世界に戻されてしまうのだ。呼吸や食事、排泄などの生理現象は精神世界の限界を示しているであろう。精神世界で自己が満足するだけの食事を食べたと思ったところで現実世界では肉体が苦痛を訴え続ける。さらに視覚から始まる五感も現実世界を思い出すものであるだろう。つまり、我々はこの人間という肉体を精神が所持している限りは完全な精神世界における、楽園を築きあげることは出来ないのである。仏教における悟りなどはこのような精神世界に部類されるものであるが、彼らもまたその悟りを開けたものはごく少数しかいないのはこのためである。
 だが、IFの世界で、我々が呼吸や食事、排泄などの生理現象をなくし、五感を消去し、この不自由な肉体という枷から我々の精神が解き放たれ、ただ思考する何かになったのならば、完全な精神世界は形成され、そこは確かに楽園が存在すると私は考える。人間という肉体の限界を超越した先にある楽園、私はそれを精神的楽園と呼びたい。



 前章で楽園は精神世界にあると書いたが、現実世界に楽園というものは存在しないのだろうか? ここからは本来あるはずのない現実世界に存在する楽園について考えようと思う。
 楽園については興味深いことを書いている作家として、私はまず澁澤龍彦を挙げる。まず、初めに彼の著書『少女コレクション序説』の中の一つ。『インセスト、わがユートピア』と『近親相姦、鏡のなかの千年王国』の楽園論を紹介したいと思う。
 この二つの中で論じられているものは「近親相姦=ユートピア」なのではないかというものだ。それについて少々、引用してみる。

 かつて私はユートピアについて論じたとき、「ユートピアなるものは、なるべく私たち自身の手の届かない永遠の未来に、突き放しておくべきものであって、安直に手に入るようなテクノラシーのユートピアは、真のユートピアとは似て非なるものだ」と述べたことがあるけれども、私にとって、私自身の「娘」とは、まさにこのユートピアにもひとしいものなのである。それは、この世に存在してはならないものなのである。存在するとすれば、日常の秩序から離脱したユートピアにおいてのみであり、このユートピアにおいては、むろん、近親相姦の甘美な夢をいかほど放恣に満足させようとも、何らの障害も起り得ないものであることは申すまでもない。  もっとはっきりいうならば、私にとって、娘という存在は、近親相姦の対象にするためにのみ存在価値を有するものであって、近親相姦の禁じられている現実の世界では、娘をもつことの意味はまったくないのである。娘と近親相姦とはぴったり重なり合う概念であって、げんに娘をもちながら、近親相姦を行わないというのは、げんに自動車をもちながら、ガレージにしまいっ放ししておいて、自分ではまったくこれに乗らないことにひとしいのである。この社会で、自家用車に乗ることが禁じられているというのに、どうして自動車を所有(ないし生産)しようという欲求が起り得ようか。私には理解しがたいことである。

 ここで澁澤龍彦は近親相姦は現実世界では禁じられているという前提の下、もしも近親相姦が行われるのならば、そこは現実世界の秩序から離脱した楽園でのみであると言っている。ここでは現実世界にいながら、現実世界の秩序から離脱することが問題となるだろう。それに対して澁澤龍彦は夢野久作、野坂昭如、三島由紀夫を挙げ、こう答えている。

 夢野久作の『瓶詰の地獄』を見るがよい。これは、絶海の孤島に漂着した兄妹の相姦であるが、この相姦の行われる舞台が島であることは暗示的である。トマス・モア以来、古来のユートピアの多くが、外界から隔絶された島として描かれてきたことは、いまさら私が断るまでもないからだ。  野坂昭如の『骨餓見峠死人葛』も、一般社会から隔絶された北九州山中の炭坑部落を舞台として展開される、兄妹、父娘、母娘の複雑な相姦を描いているが、これもまた、一つの小さな共同体、一つの島としてのユートピアである。  戯曲『熱帯樹』において、やはり兄妹の相姦を描いた三島由紀夫は、みずから次のように書いている。 「それはそうと、肉欲にまで高まった兄妹愛というものに、私は昔から、もっとも甘美なものを感じつづけてきた。これはおそらく、子供のころ読んだ千夜一夜譚の、第十一夜と第十二夜において語られる、あの墓穴のなかで快楽を全うした兄と妹の恋人同士の話から受けた感動が、今日なおも私の心の中に消えずにいるからにちがいない。」
(同上p64-65)

 ここでポイントとなるのは、日常の秩序から離脱した場所はやはり何かしらで外界から隔絶された空間でなければいけないということである。この後、澁澤龍彦はこれらに中世ヨーロッパの城館を付け加える。確かに外界から隔絶されているというのはこの時代を舞台にした小説を読めば予想に難しくない。
 舞台が閉鎖的である理由として、私は実質的権力の及ぶ範囲の限界と考える。つまり、どこまで絶対的な権力が行使できるかどうかである。
 例えば、孤島の例をとっても、孤島全域は彼らの権力下であろう。孤島であるがゆえにそれを邪魔するものはいない。孤島だけに限定するならば彼らは絶対的な権力を手に入れている。
 さて、近親相姦について日本でも興味深く書いている小説がある。倉橋由美子『聖少女』であるが、高原英理はそれについて興味深い評論を『少女領域』内で発表している。

 つまり、現在ほぼすべての社会にとってタブーとされる近親相姦だが、それが、貧しさを動機とし、「その相手しか手に入らない」という選択の余地のない場での欲望充足として行われる場合は醜く卑しく、ほとんどのことが許され何でもできる立場の者が敢えて危険な贅沢として行う場合は美しく尊い、という、大抵の人が内在化させている「貧困嫌悪」「贅沢願望」をもとにした通俗美学の論理で説明されているわけだ。

 階級のしっかりしていたヨーロッパならばわかりやすいであろう。下層階級が近親相姦をすればそれはただの嫌悪でしかないが、貴族階級が敢えてそれをおこなえば、それは美しく、尊い。逆に言えば、本来嫌悪されている近親相姦をあえておこなえるものは貴族階級なのである。『聖少女』ではそれを「精神的王族」と定義している。
「近親相姦=ユートピア」論の澁澤龍彦は近親相姦を二つのものに分けてはいなかった。それはただ単純に近親相姦が正当化される世界は楽園であるとしていたからである。だが、私は『聖少女』が提示した「精神的王族」であるこそが近親相姦を完全な楽園とする手立てであると考える。つまり、上記で引用した三島由紀夫の言葉は確かに正しい。文学における近親相姦をあえておこなってきた人物たちは皆、精神的王族なのである。
 王族であるということで思い出すのが十六世紀から十七世紀にかけてヨーロッパで浸透していた絶対王政である。ルイ十四世の「朕は国家なり」というのはこの時代を端的に表したものであろう。実際に、王がすべての権力を握っていたかというと、そうではないのだが、今回は比喩的な意味で使用しているため、「王=絶対的」という論理がまず成り立つ。ここで思い出されるのが前章で話したことだ。「絶対的」とは楽園を考える上でキーワードなのだ。今回の場合は権力という点で絶対的なのである。さきほど私は閉鎖的空間ならば、絶対的権力が行き届くと言ったが、これはそれを誇張、拡大させて出来たものである。私はこれを前章の精神的楽園に続き、権力的楽園と定義したい。常に絶対的強者は弱者を支配するという関係だからだ。これについては森茉莉『甘い蜜の部屋』が興味深い。森茉莉はこの絶対的強者と弱者の関係を肥大、誇張化し権力的楽園を書ききっている。
 さて、精神的王族である場合の権力的楽園の説明をしたところで、澁澤龍彦の精神的王族でないものの近親相姦が楽園となりえるのかを考えてみよう。
『インセスト、わがユートピア』では触れていなかったが、『近親相姦、鏡のなかの千年王国』の中ではトーマス・マン『選ばれし人』を引用し、兄妹の同一的関係を説明している。トーマス・マンは作中にて、次のように言っている。
「わたしにはあなたを見る眼があるだけで、あなたはこの世でわたしの対になる女性なのだ。あなた以外の女性は縁なき衆生で、わたしと一緒に生まれたあなたのように、わたしと同等の者ではないのだ」
 お互いが同一であるということは兄弟であれ、兄妹であれ、姉妹であれ、一度は少なからずとも感じたことはあるのではないだろうか。私自身も弟がいるが少なからず、私と似ているところを見つけることが出来る。
 澁澤龍彦はローベルト・ムジール『特性のない男』の会話を挙げている。これは興味深いので私も澁澤龍彦の言葉も加えながら引用しようと思う。

『でも兄妹というのは、この道をすでに半分ほど進んでしまっていると考えられるわ』アガーテはかすれた声で異論を唱えた。 『双子だね、おそらく』 『あたしたちは双子じゃないの?』 『双子だとも!』不意にウルリヒは答をさけた。『双子は珍しい。性の異る双子となると全く珍しい。かてて加えて、二人の年齢が違っていて、長いあいだ、お互いを知らなかったとなれば、これはみものだね。ぼくたちは誇ってもいいよ!』  彼らはこうして会話を続けながら、自分たちのシンメトリーの感情を強化するために、プラトンの両性具有の神話やら、イシスとオシリスの神話やらに支援を求めたあげくついにシャム双生児という観念に到達する。シンメトリーはここで、精神的にも肉体的にも完全となるわけだ」と言っている。
(澁澤龍彦『少女コレクション序説』p96-97)

 前章で楽園は語り得ぬものがあると破綻してしまうと言ったが、限りなく同一である兄妹はどうだろうか。同一である二人に語り得ぬものなど存在しないのではないだろうか。精神的にも肉体的にも完全に同一であることを発見した兄妹は、お互いを疑うことを止めるであろう。なぜならば精神的に彼らは同一であるからである。自分は相手である。いわば、彼らは鏡に映し出された自分を見ているからである。それを愛するということはつまり、自己愛に還元されるであろう。相手を愛することで無限に増幅する自己愛という一見、矛盾的とも言えるこの図式が誇張される時、我々はそこに楽園を見る。これを私は同一的楽園と定義したい。
 ただ、権力的楽園にしても同一的楽園にしても、欠点はある。「精神的王族」であることは「王族」であることではなく、そこに権力が発生するとは思えない。森茉莉の作品では父の権力によって、権力的楽園を築き上げていたが、逆を言えばそれを失えば、そんな楽園などもろくも崩れ去る。事実、日本国憲法施行後は貴族たちは皆、権力を失った。権力的楽園とはこういった階級の存在する中でしか存在できない。私はここに権力的楽園の限界を見る。
 さらに同一的楽園を支えるのは極度の「思い込み」である。事実、この世に完全な同一のものなど存在するだろうか。肉体的には双子など存在する可能性もあるが、さらに精神的にも同一である可能性は一体、どれほど低いのだろう。いくら完全に同一であるという理論を展開したとて、これこそ前章で言った、語り得ぬものが障害となる。それゆえにお互いは同一であるという極度の「思い込み」が必要なのである。その思い込みが崩れた時、楽園はもろくも崩壊する。
 権力的楽園、同一的楽園は常に崩壊と共にある。これは前章の精神的楽園と違い、この崩壊を防ぐ手立ては存在しない。前者であれば、ただ明日、自分の権力がなくならぬように祈るだけであるし、後者であればよりいっそう相手を自分と同一だと思い込むだけである。
 崩壊を孕んだ二つの楽園であるが、それゆえに刹那的であり美しい。文学が好んで使用するのはここにあるのではないだろうか。いつかは堕ちてゆく運命にあるにも関わらず、楽園の上で交わり続ける兄妹。その姿はあまりにも美しく、儚い。



 ここではディストピアについて話したいと思う。日本語訳にしたいのであるが、よい訳が見つからない。失楽園とはまた違う意味であるからだ。表記的に楽園とディストピアとは格好がつかないが許してもらいたい。
 さて、ディストピアの説明ははてなキーワードから引用させて貰う。

 ユートピアとは「すべての者に公平に幸福が分配されうることが実現する」という、ある意味単純化した社会観でもある。それに対してディストピアの物語では、「みなに公平に分配が行き渡る」ように国家或いは人間集団の指導部がその国民や下部の者に対し徹底した管理を行使する、という社会が描かれる。またその管理システム、監視システムが人の衣食住あらゆる範囲に及ぶ絶望や恐怖を描きながら、カリカチュアとして社会への分析を深めるもの。

 制度化された楽園は楽園になりえないという矛盾に関して今回は考えてみようと思う。
 まず、なぜ「みなに公平に分配が行き渡る」ように国家或いは人間集団の指導部がその国民や下部の者に対し徹底した管理を行使することが、楽園に繋がらないのだろうか。現実に「みなに公平に分配が行き渡る」世界を創造したとする。そこは楽園ではないか。
 ここで問題になるのはその方法である。ディストピアの代表作でもあるジョージ・オーヴェル『一九八四年』を例に取ると、「みなに公平に分配が行き渡る」ためにあらゆる市民生活に統制が加えられている。市民は常に監視システムにより監視されている。それは市民の思想にまで及び、統一された考え方をもつように指導されている。
 ジョージ・オーヴェルは全体主義への批判として『一九八四年』を書いた。なるほど、確かに市民生活や行動、思想を統一させようとする動きは全体主義のそれである。戦中の日本を思い出していただければわかるであろう。
 なぜ、これがディストピアなのであるのか、一番の原因は我々がそれを客観的に見ているからだと私は思う。逆に言えば、もしも『一九八四年』のような世界に住んでいるのならば、そこは楽園であると私は確かに思うであろう。
『一九八四年』の主人公は全体主義に疑問を持っている。今日、民主主義の浸透した我々が全体主義に疑問を持たないことはないだろう。もしも、主人公が全体主義に毒されていたならばどうだろうか? ジョージ・オーヴェル自身は全体主義を批判するためにこれを書いたのだからそんな書き方はしないだろう。まず小説してとして成り立たない。だが、これを読むものにとってはそれも想像できる。何が言いたいかというと、もしも全体主義の中に我々が組み込まれているのなら、我々はそこに何の疑問を持たないということだ。思想の統一がなされているのならば、我々はそれを肯定するだろう。食事、生活必需品が均等に行き渡るなら、貧富の差はなくなるだろう。『一九八四年』では戦争が起っていたが、世界規模で全体主義を行うならそれもなくなるであろう。事実、国連と言うのは世界規模の全体主義を作ろうとしているものではないか。それに現在の地球を見てもらいたい。飢餓に苦しんでいる人々が何人いるというのだ? 貧富の差に喘いでいる子供が何人いるというのだ?
 ジョージ・オーヴェルが想像した世界は住民にとっては楽園である。これは否定しがたい事実である。さて、それではなぜ我々がこれを楽園と呼ぶことを拒絶するのかを考えてみよう。
 一つに自由がないという点であろう。自由とは現実社会にあって当たり前のものであると考えられている。現実社会にあって当たり前のものが、楽園にないはずはないであろうという考えだろうか。だが、我々の受け入れているという自由は前提に社会がある。ならば、ジョージ・オーヴェルの想像した社会の住民は、その中で自由を見つけるのではないか。
 この論理が正しいかどうかわからない。私は主観的にそれを見ようとしているが、決して完全な主観になれない。だが、これについて、似たようなことを沼正三という作家が『家畜人ヤプー』のあとがきの中でこう述べている。

 私には逆ユートピアではないのだ

『家畜人ヤプー』もまた、ディストピアとしてしばしば取り上げられる。それは白人女性に奴隷化される日本人を書いているからだろう。日本人の我々から見ればそれはディストピアでしかない。だが、作者、沼正三に言わせればこれは楽園である。それはマゾヒズムの視点で見るならば理解も出来るであろう。ただ、奴隷の快楽を求め続けるためだけに書かれた本書をマゾヒズムに倒錯しているものが読めば、これは確かに楽園であると言うのではないか。事実、沼正三もあとがきで、

 初めからごく少数の、イース世界を逆ユートピアでなく真ユートピアと観ずるような同好者のために書かれたものである。
(同上p344)

 これはマルキ・ド・サドの諸作、特に『ソドム百二十日』にも充分言えることである。あの饗宴を確かに楽園と思うものはいるのだ。
 さて、ジョージ・オーヴェルの世界、沼正三、サド侯爵の世界が楽園になりえないのはこのためである。特に前者に関しては高度に政治的であったがゆえに、それがディストピアとして現実感を帯びてしまったのだ。また後者の世界についてはあまりにも倒錯的あるため、常人の嗜好では理解しがたいのが原因であろう。楽園は狂気であると私は言いたい。前章、前々章で提示した楽園はすべてどこかに狂気を孕んでいたのは、ここまで読んでいる読者諸君であれば理解できるであろう。私はジョージ・オーヴェルの世界を統制的楽園、沼正三、サド侯爵の世界を倒錯的楽園と呼ぼうと思う。
 ここで統制的楽園について補足しようと思う。統制的楽園は思想の統一という完全な精神としての同一化を考え出したものであり、少々前章のものと似ている。だが、前章よりも楽園と理解しにくいのは、それを望んでいるか望んでいないかの問題である。前章の同一的楽園はお互いが望んだ場合であったが、統制的楽園はそのような選択肢は用意されていない。前者はそのために脆い楽園であったのだが、後者はより強固なものになっている。だが、大多数を果たして統制できるのかどうか、私もそれは疑問である。読者諸君もこの統制的楽園を果たして楽園と呼んでよいのかどうなのかと迷っているだろう。だが、この統制的楽園は楽園最初の物語であるアダムとイヴの物語に酷似していないだろうか。アダムとイヴは知恵の樹の実を食べたがゆえに楽園を追い出されたが、それまでは彼らは従順に従う人形であり、常に神に観察されていた。神は知恵を手に入れた人間を見て、恐怖したのかもしれない。ここは私の想像である。だが、確かに原初の楽園と統制的楽園というのは酷似している。ゆえに私はジョージ・オーヴェルの世界に楽園を見出すのである。



 ここでは失楽園の話をしようと思う。
 前章でディストピアの話をしたが、私はそれと失楽園とは違うものだと認識している。ディストピアとは楽園と対を成す裏であり、表である存在であると私は考える。しかし、私の言う失楽園とは楽園を求め、彷徨っている状態を指す。
 シオランという人物の言葉に興味深いものがある。
「人間は日毎にすこしずつ昔日の無垢から遠ざかり、絶えず永遠から堕ち続けている」
 原初の楽園にして、失楽園の話であるアダムとイヴの話であるが、あの楽園は前章でも述べたとおり、統制的楽園から成り立っている。統制的楽園は自我というものが認められていないのは前章を読んでいる読者諸君ならわかるだろう。アダムとイヴは知恵の樹の実を食べたがゆえに楽園を追い出されたが、神が恐れたのは自我というものではないだろうか。統制的楽園において一番恐れるべきは自我というものを確立することである。もしも、個々人に自我が確立されれば、全体主義は成り立たない。
 人間の自我は果たしてどこで確立されるのか。そのような疑問に対し、私は胎児の時点で自我が確立していると考える。人間とは考え始めた時点で自我を確立するのだ。つまり、人間は胎児の時点から神の楽園から堕ち続けていることになる。逆を言えば、我々は胎児以前の段階で、アダムとイヴのいた楽園を見ているのである。我々が憧憬する楽園とは、常に胎児より以前に刷り込まれた楽園の記憶の反復であると言えるであろう。
 私は精神的楽園を取り上げる際、完全な精神的楽園とは、すべての外界からの情報を切り捨て、肉体の生理現象から解き放たれた場合のみ存在すると述べた。ここで興味深いのは子宮内での胎児の状態が極めてこれに近いことである。
 胎児の夢という概念は夢野久作『ドグラ・マグラ』が悪夢的に書き出している。だが、私は胎児の夢とはあのような悪夢の前に何かがあると考える。その何かとは、神の楽園から追放された郷愁のために見る、初めての楽園の憧憬である。つまり胎児は楽園を憧憬し、それから人類の失楽園の歴史を見続けるのだ。
 シオランのいう無垢とは果たして何を意味していたのか。私はそれを無知と置き換えることが出来ると考える。無知は全体主義を作りやすい。無知の彼らは神に操られた人形である。だが、人形である彼らはそれに抵抗して自我を作り出した。神はそれに怒り、人間を楽園から追放する。
 胎児が産まれ、楽園の憧憬を止め、失楽園の悪夢から開放される。だが、我々は失楽園の歴史を知る。そして失楽園を現在をも紡ぎ続ける。我々が楽園を憧憬するとき、それは失楽園を過剰に認識してしまったときの逃避として行われる。
 自我を停止させたとき、果たしてそこに楽園は存在するのか、自我の停止とは人間でいう「死」に近いものを意味する。その「死」に近いものの先に楽園は存在するのだろうか。
 キリスト教における「死」の先にあるものは「天国」か「地獄」のどちらかである。私が考えるに「天国」とは我々が初めにいた原初の楽園である。「地獄」とはキリスト教の言葉に直すならば、「不死」である。ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』に出てくる吸血鬼は「不死」である。吸血鬼とはまたノスフェラトゥとも言うが、その意味は不死者である。「不死」と聞くと我々は羨望の目で見てしまうが、実際は違う。「不死」とは永遠に神の元に返ることの出来ない残酷な仕打ちなのである。
 これと合わせ、輪廻転生についても話そう。我々も一度は輪廻転生については羨望をしたことがあるであろう。だが、現在のヒンドゥー教、さかのぼれば、ウパニシャッド哲学はこの輪廻から解脱を目的としている。それは輪廻転生というものは失楽園を繰り返す原理に恐怖し、いつまでも神の世界にいけないものであるからである。この世が失楽園であることを自覚しているものにとって、ある期間を永遠と繰り返すことは、ただの地獄でしかありえない。
 つまり、我々は自我を持っている以上、神の創造した完全な楽園へは戻ることが出来ない。シオランの言うとおり我々は自我を手に入れる代償として、楽園から絶えず、堕ち続けているのだ。



 我々が楽園を憧憬する心。それは失われた原初の楽園への郷愁であると前章では書いた。今回の話の最後である本章は、今までの楽園のまとめと我々が楽園を想像する心について考えたい。
[図]楽園構造の分類的模式図
 まず、今まで登場した楽園は精神的楽園、権力的楽園、同一的楽園、統率的楽園、倒錯的楽園である。これを分類するならばまず、完全な楽園として統率的楽園が頂に存在し、次にやや不完全ではあるものの完全な楽園となり得る可能性を持った楽園として精神的楽園がある。それに続き倒錯的楽園があり、構造的に崩壊を孕み続ける脆弱な楽園として、権力的楽園と同一的楽園がある。
 楽園とは常に自身の絶対的権力がどこまで及ぶかでその規模が決まる。統率的楽園はほぼ全域であるのに対して、精神的楽園は極私的空間のみに発生する。その他の楽園はマイノリティに分類されるほどの域であろう。
 さて、次に我々が楽園を想像する心について考えたい。我々は文学作品であれ、音楽であれ、映像作品であれ、絵画であれ、常に楽園を想像してきた。果たしてそれは失われた楽園への郷愁によるものなのだろうか。
 私はそれを違うと考える。我々が楽園を想像しようとする行為は、神の創った楽園を思い出すためではない。人間が神に反逆するために、楽園を想像するのだ。
 ここまで紹介してきた楽園は原初の楽園の姿である統制的楽園を除けば、どれも少人数以上では効力を発揮しにくいものである。我々人間の創造した楽園は大多数では成り立たない。それは我々に自我が存在するからである。ここでは個と言い直そうか。私はそれを人間という枠に収めない。自分が自分であるという個の意識にこそ、我々が楽園を想像する理由があると考える。
 個の意識を増幅させると精神的楽園が築き上げられる。この楽園は他の楽園と比べても完全性が高い。
 個の意識の拡大による楽園とは統制的楽園と対を成す存在であるのは賢明な読者諸君ならば、もうお気づきあろう。全体主義の個を限りなく潰そうとする試みは、精神的楽園と逆である。ここに私は個であることを見出す。
 ジョージ・オーヴェルの想像した世界が楽園でありながら、我々に恐怖を与えたのは人間性の剥奪のためである。人間性、さらに解体するならば個性である。我々は個性を尊ぶ。それは我々が何者であるか、という一種のアイデンティティに関連してくるからである。よって、我々は楽園を追放されてからというもの、徹底的に個を保持しながらも、完全な楽園を創造し続けたのである。
 この行為こそ、全体主義の神への反逆である。
 キリスト教では異端とされていた教えにグノーシス主義というものがある。彼らの思想はこの世界は悪であるという前提の下、徹底的な個人主義と叡智を得ることによる救済である。
 果たして個人が社会に勝てるであろうか、という疑問に対してほぼ全員がいいえと答えるであろう。歴史上、個人の力だけで社会に勝ったという事例はひとつも存在しない。グノーシス主義を信仰していたものたちもそれについては理解できたであろう。ただ、それでも社会、神の創造したシステムとの圧倒的不利を自覚しながらも、その先に見る楽園を手に入れるために、戦い続ける姿勢こそ、我々が何者でもない自分であるという個の意識であり、楽園を創造し続ける理由なのだ。
 世界を自己が超越する時、そこは精神的楽園であると私は言った。そして、我々は「神になる」。それは個の意識の拡大が生んだ個のための楽園である。まさに我々は現実世界という永遠の檻から解き放たれるのだ。
 だが、そこは本当に楽園なのだろうか? 我々は神の前に偽りの神になっただけではないのか。それこそ驕りたかぶった、ただの無能な神ではないのだろうか。我々は常に楽園を奪われてきた。この試みすらもさらに絶望的に我々を堕ちさせるための道具なのだろうか。
 崩壊を孕んだ楽園しか我々が想像できないのはすでに読者諸君は承知であると思う。だが、ここで興味深い文章を『オシャレ泥棒』を扱った高原英理『少女領域』から引用しよう。

(略)すると今度は、過酷な運命に向かって強く対峙しつつ飽くまでも絶望しないというニーチェ的・意思的な態度としての「凛々」が「発見」されることとなるのだ。(略)よって、そこには九〇年代に盛んとなる「自分探し」を準備するような言葉もある。

 決して勝てない戦いってあるよ。でも、戦いってのは勝ち負けのわからないスレスレの勝負じゃなくて、真の戦いとは、負けるとわかっていながらなお、その戦いを戦い抜くことなんだ。

 さらに次のような言葉。

「決して勝てぬ戦い、真の戦いを戦うために、人は“愛”という武器を発明したんじゃないのかな? 愛なんてないのさ。もともとなかったのさ。言葉があるからあるように思っていただけさ。でも、ないものを信じるんだ。戦うためにね」
 それはもう漠然とした“愛”じゃないだろう。今までの愛とは違う。あるのではない。ないのだ。ないからこそ信じるんだ。この地上で生きてゆくためには。それは、もはや“愛を越えた愛”だ。

(略)

 神様なんていらない。この瞬間さ。この瞬間だけが生きているんだ。神様なんてゴミ箱だよ。そんなものはいらない。私は、神様に背を向けて、この瞬間を抱きしめていよう……

(高原英理『少女領域』p272-273)


 つまり、これなのだ。どこまでも個の意識を保持しようとするグノーシス主義者にしても、楽園を創造し続ける我々にしても。最終的に帰還する先は自己愛である。
 私は澁澤龍彦『インセスト、わがユートピア』を論じる際、一番初めに引用した言葉をもう一度、引用しようと思う。

「ユートピアなるものは、なるべく私たち自身の手の届かない永遠の未来に、突き放しておくべきものであって、安直に手に入るようなテクノラシーのユートピアは、真のユートピアとは似て非なるものだ」
(澁澤龍彦『少女コレクション序説』p62)

 後者については同意できるが、前者についてはすべて同意できない。我々は突き放しているのではない。初めから届かないものなのである。そして我々はそれを欲している。
 森博嗣の言葉をもじれば、楽園とは「楽園とは何か、と考える瞬間にだけ人間の思考に現れる幻想だ。普段はそんなものは存在しない」のかもしれない。だが、ないものでも信じてみよう。それが、神の創造したシステムへの反抗になるならば。我々は信じ続けるだろう。
 私は精神的楽園を完全にするためには、「我々が呼吸や食事、排泄などの生理現象をなくし、五感を消去し、この不自由な肉体という枷から我々の精神が解き放たれ、ただ思考する何かになったのならば」と、結論付けた。
 果たしてそれが個としての意識を持つのか、私ははいと答えるであろう。たとえ肉体をなくしたとしてもその精神が残る限りは個であり続けるのだ。


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