『ラーメンを食べに行こう!』

『ラーメンを食べに行こう!』

著/遠野浩十
絵/空信号

原稿用紙換算50枚

 新月小鳥は、クラスメイトから「マイペース」「おっとりしている」「天然ボケ」などと評されることが多い。彼女のことを多少なりとも知っている人物なら、それらの意見に首を捻ることはないだろう。それでいて、学年が上がってクラス替えが行われた直後の委員会決めで、誰もが学級委員長を敬遠している空気を読み取って立候補するような積極性も、彼女は持ち合わせていた。
 そして彼女は委員長となった。それは、「誰が委員長になろうが自分でさえなければ関係がない」という消極的な賛同の結果というより、クラスメイトの誰もが(まだ彼女の名前と顔を覚えていないクラスメイトまでが)「彼女ならこのクラスを上手くまとめてくれるだろうな」という不思議な安心感を覚えたためだった。
 そんなふうに、新月小鳥は意外なところで思い切りの良い行動力を発揮した。周囲の人間も、それは「なんとなく」理解できたが、彼女の普段の言動からはそういう印象が感じられなかったので、彼女の人格を正しく感じ取っていた人物は彼女の周りにほんの数人しかいなかった。
 彼女のクラスメイトである浅見大介は、その数人のうちの一人だった。
 浅見がそのことに気付いたのは、委員長を務めることとなった小鳥が少し照れながら「えと、どうも、新月小鳥です」と教卓で就任の挨拶をしているとき――いや、それよりも前の場面、一瞬しんと静まり返った教室の中、ゆっくりと右手を挙げて立候補する彼女を見たその瞬間。なぜその瞬間なのか、浅見本人にもよくわからなかった。もしかしたら自分は女の子の横顔に弱いのかもしれない、と浅見は思った。なぜなら浅見の席からでは彼女の横顔までしか見えなかったからであり、正面からの顔を見たのは彼女が教卓のところに立ってからであって、――いや、そんな本人にも断定しきれない検証はさておき、とにかく、それは浅見大介が新月小鳥の横顔を見つめた瞬間に起こった。
 浅見大介は、新月小鳥に一目惚れをした。

 それ以来、浅見は小鳥のことを気がついたら目で追っていたり、教室内での彼女の言動や評判などに目と耳の能力を総動員するようになった。
 数学の授業中、真剣な表情でノートにペンを走らせる小鳥。休み時間、友人たちと世間話に盛り上がる小鳥。体育の時間、息を切らしながら校庭の外周を走る体操着姿の小鳥。帰りのHR、号令をかけると同時に席を立つ委員長の小鳥。浅見は彼女に気付かれないように、出来る限り自然な素振りで小鳥のことを眺めていた。学校内で彼女がどんな表情をするか、どんなリアクションを返すかについて、自分ほど詳しい奴はいないだろうと浅見は自負していた。
 しかし、彼女のことを初めて認識した四月から、五ヶ月間もの情報収集を行ってきた浅見にとっても、その日の出来事は驚愕に値した。
 クラスメイトたちから「マイペース」「おっとりしている」「天然ボケ」と評されている高校二年生女子、新月小鳥。
 昼休みの教室の中で、彼女は椅子を吹き飛ばしかねない勢いで立ち上がり、教室中に響く音を立てて机を両手で叩き、目の前に座る友人に向かって大声で叫んだ。
「何言ってるんですか咲ちゃん!」その声は教室中に響き渡った。「阿呆なこと言ってると、はっ倒しますよ!」
 喧騒に包まれていたはずの教室全体が静まり返った。呼吸を止めた奴までいるんじゃないかと思われるほどの完璧な静寂。浅見に至っては、弁当のおかずを口に運ぶ動作の途中で石のように固まっていた。
「や、やだなあ、小鳥、そんな怒らないでよっ、ね?」椅子から立ち上がった小鳥に見下ろされている女子、早野咲は慌てて首を横に振って否定のジェスチャーをした。「冗談だよ、冗談。ね?」
 咲も浅見もその他生徒も、緊張した状態のまま小鳥の次の動きを待った。なにしろ温和なことで知られる委員長の小鳥が友人に向かって怒鳴り散らしたのだ。前代未聞の出来事に、誰もがどう反応していいものか咄嗟に判断できなかった。一体、何が原因であの新月小鳥があそこまで激昂したのか? 誰もがその謎に興味を持った。
「……なんだ、冗談ですか」
 当の本人の小鳥はといえば、そう呟くと、立ち上がったときとは逆に静かに椅子を引いて席に座りなおした。
「びっくりさせないでくださいよ、咲ちゃん」先ほどの怒りなどなかったかのように、いつも通りの笑顔を作る小鳥。咲は若干ひきつった笑顔で「あ、うん、ごめんね、本当に」と答えた。
「まったく、人騒がせにもほどがありますよ……なんだって、そんな……」教室にいた全員が、次に続く言葉に集中した。「……ラーメンなんて店で食べようがコンビニのカップ麺だろうが一緒だなんて、どうしてそんな言語道断極まりないことを言うんですか?」
 その瞬間、これまで密やかに築かれてきた新月小鳥にまつわる諸々の既成概念が崩れていく音を、教室にいた生徒全員が確かに聞いた。ラーメン如きでそこまで激昂するものなのか? と誰もが現実を受け入れることに抵抗を抱いた。浅見においては、言うまでもなく。
 小鳥は頭に手を当てながらため息をついた。「まったく、信じられないですよ……冗談にしたって、悪ふざけが過ぎます」
 ようやく落ち着きを取り戻した小鳥に呼応するように、少しずつ教室の喧騒も戻ってきた。誰もが小鳥の意外な反応に驚いたのは確かだが、そのリアクションの原因がわかればある程度は納得できるものだ。納得してしまえば、興味というのは急速に消失する。数分後には、小鳥の動向をチェックし続けているのは教室中で浅見ただ一人となっていた。彼は勿論、目と耳の集中を解いていなかった。
「うん、まあ、今のはわたしが全面的に悪かったということで……」まだ少し歪んだ笑みの咲が言った。「でもさ、それにしても、小鳥ってそんなにラーメン好きだったの?」
 咲の言葉に、小鳥は大きくうなずいた。
「そりゃもう大好きですよ!」
 浅見は確かにその言葉を聞きとめた。
 小鳥はさらに「美味しいラーメンが食べられるなら、たとえ火の中、水の中、ですよ!」と言った。

 改めて考えてみれば、と浅見は思う。自分は教室の中にいる彼女しか知らず、彼女の趣味や嗜好などについてはあまりに無知だった。五ヶ月間、学校内での観察ばかりを行っていたのだから当然といえば当然だ。さすがに日常的な会話を何度か交わしたことくらいはあったが、休み時間に仲良く会話するなんてことは一度もなかったといっていい。
 これじゃマズイ! ということに浅見は五ヶ月かけてようやく気付いた。なんとかしなければ! という焦りは浅見の中で大きく育っていた。
 昼休みの出来事は、浅見にとってハプニングでもあったがようやく巡ってきたチャンスにも思えた。この機会を利用して小鳥と仲良くなろうという計画が頭の中で組み立てられていく。希望を秘めたその計画が出来上がった頃には、既に今日最後の授業が終わり、放課後となっていた。考え事をしていた浅見は、授業が終わったことにも気付いていなかったが、とにかく放課後となった以上、計画を実行に移すにはこのタイミングしか残されていなかった。
 そこで冷静に考えれば日を改めるという選択肢もあったはずなのだが、幸か不幸か、脳内シミュレーションでテンションが上がっていた浅見はそのことに思い至らなかった。
 委員長である小鳥の号令がかかり、クラスメイトたちが帰り支度を始める。すぐに全体の三分の一くらいが教室を出て行く。
 浅見は誰にも気付かれないよう、小さく三回だけ深呼吸をした。帰り支度をしている小鳥のほうを見て、心の中で気合を叫び、ゆっくりと彼女のところへ歩いていった。
 十分に近づいたところで、浅見は「あ、ぁのさ」と言った。注意していたつもりだが、声は裏返っていた。
「ん」小鳥が浅見を見た。「何ですか?」
 小鳥と目が合った瞬間、気持ちが挫けそうになったが、目の前に立った以上はもう後には引けず、覚悟を決めるしかなかった。
「あのさ、新月」今度は逆に小さな声しかでなかったが、とにかく浅見は言いたいことを言おうとした。「今日、暇だったら、俺と」
「小鳥! それじゃまた明日ね!」
「あ、ばいばい、咲ちゃん! また明日ねー」小鳥の後ろを通った咲が元気良く挨拶していき、小鳥は大きな声でそれに応えた。それからまた浅見に振り向いて、「で、どうしたんですか」と言った。
「いや、大した用事ではなくて……」浅見は再び己の勇気をふりしぼった。「なんというか、昼休みの話聞いたから、新月さえよかったら、俺の知ってるラー」
「委員長ばいばい~」
「じゃあね、委員長~」
「うん、ばいばい~!」小鳥はそばを通った数人の女子と別れの挨拶を交わした。彼女たちが教室の外に見えなくなるまで小鳥は軽く手を振り続けた。「また明日ねー」
 浅見は挫けそうだった。
「で、何ですか、浅見くん?」
 小鳥がまた顔を向けた。勢いを完全に殺された浅見は数秒の沈黙。小鳥はその様子に首を傾げた。「何か、用事があるんじゃないんですか?」
「だからさ、俺と……というか、……えっと、俺、美味いラーメン屋知ってるんだけど、さ、……あ、嫌ならいいんだけさ……何が言いたいかというと、だから、……新月、一緒に行かない?」
「え」小鳥は少し驚いたような表情で浅見を見返した。「ラーメン屋に、ですか?」
「あ、いや」唐突に恥ずかしくなってきて、小鳥から視線をそらして言った。「嫌ならいいよ、嫌ならっ」
「行きます!」
「別に無理に行こうって話じゃないし、たまたま今日の予定が空いてたら一緒に行こうってだけで、無理強いするつもりは毛頭ないし、こういうことはお互いの同意を得てからだよな、ってそれは違うけど、なんと言いますか……って、え、ん?」浅見は思わず聞きなおした。「新月、今、なんて?」
「行きますよ!」小鳥は期待に満ちた笑顔で言った。「美味しいラーメン屋ですよね! 是非、連れて行ってください。おねがいします!」
(うあ……)
 浅見はその笑顔に、目眩を起こすほどの感動を覚えた。
「それで」浅見の心情など全く意識せずに、小鳥が笑顔で言う。「どこに連れて行ってくれるんですか?」

「……おかしい」
 小鳥との待ち合わせ場所に指定した駅の改札口で浅見は一人たたずんでいた。駅の時計を見ると、針は五時半を指していた。
 浅見は五時にこの場所に集合することを小鳥と約束していた。しかし、約束の時間から半時間が過ぎても小鳥は現れなかった。
 浅見の知っている新月小鳥は決して時間にルーズな人物ではない。その彼女が待ち合わせに三十分も遅れるというのは考えにくかった。連絡を取りたかったが、浅見は彼女の自宅や携帯の番号を知らなかった。待ち合わせの約束を交わしたときに、さりげなく番号を交換するべきだったと、今更ながらに後悔した。
 こちらからも向こうからも連絡が取れない以上、この場所を動くこともできず、浅見は辛抱強く小鳥が現れるのを待つことにした。遅刻の理由は不明だが、おそらく彼女にも、やむにやまれぬ理由があるのだろう。浅見は少しも疑いを持つことなく、素直にその可能性を信じた。
 駅前の人通りはそれなりに多い。ホームに電車が入ってくるたびに、人の群れが改札から出てきては浅見の視界を横切っていく。その様子をぼうっと眺めていた。主婦やスーツ姿、それに浅見と同年代くらいの学生が束となって駅から出てくる。その中には男女連れ添って歩いている者たちもいた。そんな光景を見るたびに、言いようのない虚しさを感じ、浅見は小さくため息をついた。
 六時になっても小鳥は現れなかった。
 それほど気負わずに待っていた浅見だったが、徐々に不安になってきた。頭に浮かんでくる可能性のいくつかは、決して口に出して認めたくはないものだった。浅見は自分を落ち着かせるために大きく深呼吸をして、その想像を頭から追い払った。
「…………」
 浅見が無意識に足踏みを始め、周囲をきょろきょろと見回し始めた頃。突然、改札の方から浅見の名前を呼ぶ声がした。
「あれ? 何で浅見がここにいるの?」
 期待をこめて声の主を振り返ると、そこにいたのは残念なことに浅見の待ち人ではなかった。
「……なんだ、早野かよ」落胆した声で浅見が言った。
 改札から出てきたのはクラスメイトの早野咲だった。彼女は改札を抜けると真っ直ぐに浅見の所へやって来て、「ねえ、どういうこと?」と言った。
「な、何がだよ?」浅見は小鳥との待ち合わせを揶揄されているのかと思って身構えた。「べ、別に新月とラーメン食いに行くくらい、大したことじゃないだろ。な、なんか言いたいことでもあるのかよ?」
 しかし、咲は意外な発言で浅見を驚かした。
「アンタ、何でこんなとこにいるの?」咲は心底不思議そうに言った。「小鳥なら反対側の改札にいたけど。アンタたち、待ち合わせしてるんじゃないの?」
「へ?」浅見はぽかんと口を開け、呟いた。「反対側?」

 種を明かしてみれば、実に単純な話だった。浅見が待ち合わせ場所に指定した三倉駅の改札は二つあり、浅見は東口改札のことを言ったつもりが、小鳥は勘違いして西口改札で待っていたのだった。
「すみませんでした! わたしの勘違いのせいで、一時間も待たせちゃって……」
 ぺこりと頭を下げて謝る小鳥に、浅見は慌てて言った。
「や、そんな、俺がちゃんと場所を伝えてなかったのが悪いのであって、決して新月に責任があるわけではなくて……な、なあ、早野?」
「全くその通りだね」咲は重々しくうなずいた。「小鳥、こんな頼りない奴と遊びになんて行かないで、わたしと本屋に行こうよ。その後、加賀美と三人でファミレスにでも寄って帰ろう」
 そう言いながら咲は小鳥の手を取って歩き出そうとした。
「え、え、」小鳥は咲に引かれて、たたらを踏むように二、三歩よろめいた。
「って、こら、何を勝手に話すすめてるんだよ!」浅見の言葉を無視して、咲はかまわずに歩き出してしまう。浅見が無理矢理にでも咲を止めようと手を伸ばしたとき、その動きよりも早く行動したのは小鳥だった。
「咲ちゃん、ダメ!」
 小鳥は咲の手を振り払って言った。「わたしは、これから浅見くんとご一緒するんですから!」
 小鳥にしては珍しい大きな声での主張に、咲も浅見も一瞬、動きが止まった。二人とも目を丸くして咄嗟に言葉を返せなかったし、浅見に至っては顔が真っ赤に上気していた。
「……に、新月。あ、それって……」
「小鳥……? そんなにこいつがいいの?」
「そりゃそうですよ!」二人の戸惑いをよそに、小鳥は興奮しながら抗議した。「だって、浅見くんがいないと美味しいラーメン屋に行けないじゃないですか!」
 一瞬の沈黙の後、あまりといえばあまりの言葉に、浅見はがくんと肩を落としてうなだれた。浅見のリアクションを見て、小鳥が心配そうに声をかけた。咲は浅見を指差して笑っていた。
「あ、あの、わたし何か変なこと言いましたか?」
 小鳥の言葉に、浅見は乾いた笑顔で「や、何でもないから、本当に」と返した。
「そうなんだ、ラーメン食べに行くんだ。へー」にやにやと笑い続ける咲に向かって、浅見は文句あるのかと言いたげな視線で睨んだ。すると、咲がきょとんとした表情を作ったので、浅見は自分の態度が咲を黙らせたのだと思った。
 しかし、それにしては様子が変だった。
 咲はまるで浅見の言葉など気にしていない風に視線を誰もいない空間に逸らして、「……ふうん、アンタがそんなに積極的になるなんて、珍しいじゃないの」と呟いた。
「……?」その態度に浅見は首を傾げたが、隣を見ると小鳥のほうはなにやら思い当たる節でもあるような表情をして、咲と彼女の隣の何もない空間を見つめていた。
「……よし、そこまで言うなら、わたしが一肌脱ぐしかないか!」唐突に咲が言った。まるで、誰かと会話しているように。
「早野、何の話だよ?」
「ちょっと、二人ともここで待っててね! すぐ戻ってくるから!」
 浅見の問いを無視して、咲は駅のほうへと走っていった。咲の姿が見えなくなると、「なんなんだよ」と浅見は呟いた。どうやら小鳥は状況を理解しているらしく、「あ、たぶん加賀美ちゃんを連れてくるんだと思いますよ」と浅見に話しかけた。
 浅見が「誰、それ?」と聞き返す前に、駅のほうから咲が再び姿を現した。戻ってきた彼女の後ろにはもう一人、女の子がついてきている。咲は浅見たちのところまで走ってくると、「浅見、この子は加賀美っていう名前で、わたしの友達だから!」と、もう一人の少女を浅見に紹介した。
 加賀美と呼ばれた女の子は「えっと、はじめまして、浅見さん」と言って頭を下げた。
 浅見は突然の展開に面食らっていたが、小鳥の様子を見ると、どうやら加賀美とは面識があるようで、気軽に挨拶を交わしていた。
 一人だけ取り残された気分を味わっている間に、咲が決定事項と言わんばかりに宣言した。
「加賀美がどうしてもラーメン食べたいっていうから、わたしたちもついて行くことにしたから! 小鳥は放っておいたら引ったくりにでも遭いそうだし、浅見は頼りないしね! 反論は全て却下!」
 咲は呆然としたままの浅見を睨みつけてから、前に向かって一歩を踏み出し、右手を高々と振り上げた。
「それじゃ、みんなでラーメンを食べに行こうか!」

 勿論、浅見は反対した。そもそも浅見にとっては、今日は念願の二人きりのデートだったのだ(デート場所がラーメン屋という物悲しい事実については、浅見は深く考えないようにしていた。なにより重要なのは、二人きりであることなのだから)。
 しかし、浅見は行動を起こすのが遅すぎたし、なにより咲と加賀美の同行を小鳥が喜んで迎えたために強く反対することが出来なかった。こんなことで小鳥と敵対してしまっては元も子もない。
 結局は、小鳥、浅見、咲、加賀美の四人で目的地のラーメン屋に行こうということに決定した。
 浅見の案内のもと、商店街を四人で歩いていく。
 浅見のテンションは地の底まで落ちたが、反対に小鳥と加賀美は今にも羽が生えて飛んでいきそうなほどのハイテンションだった。
「へえ、加賀美ちゃんもラーメン好きなんだ。一緒ですね、仲間ですよ!」
「はい、仲間です! わたしもラーメン大好きですから!」
 二人はきゃっきゃっとはしゃぎながら並んで歩いている。ラーメンという共通の話題で盛り上がる彼女たちは、まるで唯一無二の同志を見つけたかのように嬉しそうだ。二人の前を歩く浅見は、彼の隣に並んでいる咲に歩きながら話しかけた。
「あの、加賀美って子だけど」
「ん、なに?」
「うちの高校の生徒じゃないのか? 見覚えないけど」
 浅見はちらっと後ろを振り返って言った。ぱっと見た雰囲気では、自分たちと同い年に見えるが、学校で彼女の顔を見た覚えはなかった。
「ん……、まあ、そうね。そういうことにしておいて」
 渋るような言い方をしたのが気になったが、浅見は深く考えずに質問をつなげた。
「どこの高校の生徒なんだ? というか、学年は俺たちとタメなのか?」
 その質問は、浅見にとっては単なる世間話程度のつもりだったが、質問を受けた咲はそうとは受け取っていないようだった。咲は口をへの字にして、慎重に発言の内容を吟味しているようだった。その表情を見て、浅見は自分が何かまずいことでも言ってしまったのかと考えたが、そんな話題を振ったとは思えなかった。
「あの子はね」咲は落ち着いた静かな口調で言った。「ちょっと訳ありでね。なんて言ったらいいか……わたしたちとは在り方からして違うから」
「……?」
「そうね……難病を抱えた子、とでも思っていてくれればいいかな。だから今回みたいに、加賀美が自分から言い出した我侭ってのはわたしも弱いのよ。なにしろ、わたしはあの子の一番の親友を自負してるからね」
 そう言って、咲は軽く笑った。
 浅見には今の話は半分ほどしか理解できなかったので、「ふうん……」と中途半端な相槌を打つのが精一杯だった。
 体を半分だけ後ろに向けて小鳥と加賀美のほうを見やると、二人はまだラーメンについて熱く語っているところだった。お互いのスープの好みや、トッピングについて話しているようだ。それと、美味しいラーメンについて。
「結局はですね、」と小鳥が言う。「美味しいラーメンを食べた人が、最終的な勝者みたいなものなんですよ! ラーメンに妥協は許されません!」
「わかります、小鳥さん!」加賀美が拳を振り上げて小鳥に応える。「わたしも常々思ってました。美味しいラーメンを満足するまで食べないうちは死んでも死にきれない、って!」
 二人ともずいぶんと熱の入った物言いだな、と浅見は思った。隣を歩く咲も今の会話が聞こえていたらしく「いや、それはどうなのよ」と苦笑していた。
「死んでも死にきれないってのは、大げさな表現だよな」浅見は思ったことをそのまま発言した。
「大げさっていうか、何ていうか……」苦笑しながら咲が言った。「ああ、大げさって言えば……」
「どうした?」
「悪かったわね」咲は申し訳なさそうなぎこちない笑みを浮かべて言った。「デートの邪魔しちゃって」
「――っ、な、ばっ、おまっ!」浅見は傍目にもわかるほど赤面し、狼狽した。
「……もしかして隠してるつもりだった? 小鳥が好きだってこと?」
「だ、だ、だ、だ、だ、だ、だ、」
「誰に聞いたかって?」
 浅見はこくこくと首を上下させた。
「そんなの見てりゃわかるでしょ」咲はなんてことのないような口調で言った。
 浅見はパニックで目が泳ぎ、顔は林檎のように真っ赤になっていた。傍目から見てもその様子は愉快なようで、通りかかった女子中学生たちがくすくすと笑っていた。
「どうしたんですか、咲ちゃん、浅見くん?」二人の後ろを歩く小鳥が声をかけた。
 浅見は慌てて何か言い訳をしようとしたが、その前に咲が後ろを振り返って「浅見ってさ、怖い話が苦手らしいよ~。加賀美のこと話したらビビッてやんの」と浅見の代わりにフォローを入れた。
「え」加賀美が驚いて咲を見た。「わ、わたしの何を話したんですか! え、え?」まるで自身に関する重大な秘密をばらされたように動揺している。
「いや、その」浅見が何か言い出す前に、再び咲が会話をつないだ。「嘘だって。やだなあ、本気にしないでよ」加賀美に向かって笑いかける。
 それで場の空気が和み、浅見をのぞく三人は互いに笑いあった。一人だけ乾いた笑いを浮かべる浅見に、咲がこっそりとつぶやいた。
「初心なのもいいけど、もう少しはっきりとした態度を取らないと小鳥には通じないよ。あの子、鈍いから」言葉の後に、くすくす、という小さな笑いがついていた。
 何か言い返そうとしたときには、咲は小鳥たちと別の話題で話し始めていたので何も言えず、浅見は気付かれないようにこっそりため息をついた。
「あ、本屋」咲が唐突に言った。「加賀美、商店街の本屋に寄ってくんでしょ?」
「ああ、そうでした! 忘れるところでした!」加賀美が大げさな手振りで驚きながら言った。「小鳥さん、浅見さん、ちょっと近くの本屋に寄ってもいいですか?」
「わたしは別にかまわないですよ」小鳥が言った。
 返事をする前に、浅見は携帯で時間を確認した。「……あと十分も歩かないで着くし、ラーメン屋の閉店が七時だから、まあ、そのくらいの余裕は充分あるな」
 書店は今歩いている商店街をもう少し進んだところにある。ラーメン屋に行くのにも通る道なので、遠回りになることもなかった。
「浅見くん、今は何時ですか?」小鳥が聞いた。
「六時二十分」反射的に答えてから、小鳥と目が合ってしまったことに気付いて浅見は思わず視線を外した。
「ん、どうかしましたか?」
「や、……何でもない何でもない」浅見はぶんぶんと片手を振って誤魔化した。
「ねえ、ラーメン屋の閉店ってさ、そんなに早いものなの?」咲が何気なくつぶやいた。
「基本的には、営業時間が短い店ってのは美味しいとこが多いですよ」ぴんと人差し指を立てて、小鳥が説明を始めた。「営業時間は短ければ短いほど、味に期待できます。あとは、ラーメンの種類が妙に多くないほうがいいです。あったとしても、せいぜいチャーシューメン、海苔ラーメン、ネギラーメンくらいですね。他にも、店頭にラーメンの写真が貼ってあったり、『うまい』とか『江戸ダシ』とか『中華料理』とか書いてない店のほうが、美味しい可能性が高いですね」
「へえ、さすがに好きなだけあってよく知ってるね、小鳥」咲が感心したように言った。
「小鳥さん、すごいです!」加賀美が小鳥を尊敬のまなざしで見ていた。「今から行くお店は美味しいんでしょうかね?」
「あ、それは、わたしも初めて行くお店だから」と、小鳥は浅見のほうを見た。それにつられて咲も加賀美も、浅見を見た。
「……たしか、ラーメンの種類もそんなに多くないし、店の前にはそもそも看板とかなかったと思う」
 実は浅見も友人に連れられて一度行ったことがあるだけなので、詳しくは覚えていなかった。なんとかおぼろげな知識をつなげて返答すると、小鳥が「じゃあ、期待できそうですね!」と言った。
「他には、重要なポイントってないんですか?」加賀美が期待のこもったまなざしで小鳥を見つめて言った。
「あとはですね、店舗がやたら多いチェーン店じゃないほうがいいですし、麺を茹でるときにはタイマーを使っていなくて、一度に作るラーメンの数も少ないとなお良いですよ。それ以外だと、お店の暖簾とかテントとかの色は何色かどうかとか。例えば、暖簾は白か紺のほうが良いらしいですし、テントの色だと……」
「……普通、そんなとこまで気にしてラーメン食べに行かないと思うけど……すごいのは伝わってくるね……」
 咲は呆れたようにそう言い、加賀美は今の薀蓄でますますテンションをあげていた。
 浅見は苦笑いを浮かべながら「そこまではちょっと覚えてないな……」とつぶやいた。
「まだ他にもありまして……」
 小鳥がなおもラーメン店の評価について語ろうとしたとき、咲が「あ、ほら、本屋に着いたよ!」と前方を指差して言った。「加賀美、アンタ買いたい漫画あるんでしょ。行くよ」
 咲は加賀美の腕を引っ張って書店に歩いていった。浅見と小鳥が追いかけようとすると、
「すぐ戻ってくるから、二人はそこで待っててよ」
 と言って、加賀美とともに書店に入っていった。ぽつんと取り残された二人は、書店の前で咲と加賀美が戻ってくるのを待つことにした。
「浅見くんは、本屋に用事とかないんですか?」
「俺はないけど。新月はないの?」
「わたしも特にないですよ」
「そっか……」
 会話が途切れた。
 いきなり二人きりにされ、浅見はチャンスを得たというよりもピンチに追い込まれた気分だった。教室でならもっと自然に話せている。しかし、学校の外、お互いが私服でこれから一緒にご飯を食べに行くというシチュエーションに、浅見は少しずつ落ち着きを失っていた。
 ふいに自分たちの間に沈黙が落ちていることに気付いて、さらに浅見は焦りを覚えた。何か話さないと、つまらない奴だと思われるかもしれない、そう考えれば考えるほど舌が上手く回らない気がした。
「……ですね」
 小鳥が何か言った。
「え?」浅見は自分の考えに没頭しかけていたせいで聞き逃していた。
「ラーメン」小鳥は同じ言葉を繰り返した。「楽しみですね」
「あ、うん……そうだな」答えてから、こんな返し方じゃまたすぐに会話が続かなくなってしまうと気付いて、浅見は他の言葉をつなげようとしたが、そんなことをしなくても、今度は小鳥のほうから話題を提供してくれた。
「あの、浅見くんに聞きたかったことがあるんですけど、いいですか?」
 浅見は助け舟を出された思いですぐに答えた。
「俺に答えられることだったら、何でも聞いてよ」
 それが助け舟ではなく、泥舟だということにも気付かずに。
「浅見くん」小鳥は言った。「今日はどうしてわたしのことを誘ってくれたんですか?」
「…………!」
 核心を突く質問だった。しかし明らかに、小鳥の表情は、本当に想像もつかないので本人に直接聞いてみた、という顔だった。
「いや、そのっ、だから……」浅見は二歩後退し、無意味に両手を振ったりしながら、上擦った声で言った。「なんと言って説明すればいいというか、一言で説明するには難しいというか簡潔過ぎるというか……」
「浅見くんと教室でそんなに話したことってないじゃないですか」小鳥が言った。「浅見くんはわたしなんかと話してても楽しくないんじゃないかと思ってました。だから、ラーメンを食べに行こうって誘ってくれたときは嬉しかったですよ。浅見くんに嫌われてないってわかりましたし」
 嫌うも何も、大きく勘違いしている点を浅見は指摘したかったが、そんな藪から蛇を突くような真似をすることはできなかった。それは勇気ではなく蛮勇だ、と浅見は自分に言い聞かせた。
「だから是非、今日誘ってくれた理由も聞いてみたいんですけど。何か良いことでもあって気分が良かったから、とかですか?」
 そんなことを真顔で聞かれても浅見には答える術などありはしない。どうしろっていうんだ? と浅見は困窮した。咲と加賀美はまだ戻ってこないのか? どうやって小鳥の追求を逃げ切ればいいのか。咲がいてくれれば、まだ助けてくれたかもしれない……いや、事態をさらにややこしくして浅見を困らせて楽しむ可能性も考えられる。やはり自分で切り抜けるしかない……
 とにかく、さりげなく話題を変えて質問の矛先を逸らしてしまうことにした。
「だ、だ、だ、だ、だ、」しかし哀しいかな、極度のプレッシャーで浅見の舌はまったく回っていなかった。
「だ? 何ですか?」
「だ、や、違う。『だ』じゃない。『だ』じゃなくて、ええと……」浅見は真っ直ぐにこちらを見つめる小鳥の顔から視線をずらして別の話題を振ろうとした。「……そうそう、最近、うちの妹がさあ……」
「きゃあっ」
 いきなり小鳥が短く叫んで浅見に抱きついてきた。
 浅見は顔だけでなく全身から火が出そうなほど驚いた。体の各部に小鳥が密着している。色々な部分が接触していて、そのことについて深く考えようとした浅見は卒倒しそうになった。
「泥棒です!」小鳥が叫んだ。
「へ、どろぼう?」浅見が間の抜けた阿呆声で言った。
「鞄を取られました! あの黒いコートの人です!」小鳥は浅見の体から離れると、商店街の群集の中を走っている男を指差して言った。「後ろからぶつかってわたしの鞄を奪ったんです!」
 そこまで説明されて、ようやく浅見にも何が起こったのか理解できた。降って沸いた雑念を頭を振って払いのけながら、「新月はここで待ってて」と言って追いかける。走り始めると同時に、書店から出てきた咲と加賀美の姿が見えたが、かまっている暇はない。
 午後六時を過ぎた商店街には学生や主婦、早めに仕事を上がった社会人などがひしめきあっていて、とても全力疾走で走り抜けることはできそうにない。しかし黒いコートの男は、通行人を弾き飛ばしながら走って逃げていく。
「泥棒です! 捕まえてください!」
 浅見は叫んだが、すぐに反応してくれるような人は誰もいなかった。通行人の誰もが、何が起こったのかと興味をもった表情で走りゆく男と浅見を見つめているだけだった。
 自分が追いついて鞄を取り返すしかない、と浅見は決心した。通行人を避けている余裕もない。浅見は通行人とぶつかりながらも、彼らをはねのけるようにして走り続けた。
「待て!」と叫んでから、古典的な台詞を言ってしまったと浅見は後悔した。勿論、前を走る男に止まる気配はない。
 そうこうしてるうちに商店街の端、大きな道路と合流する地点が見えてきた。これ以上時間をかけると追跡はかなり困難になる。浅見はそう判断してスピードをあげたが、なかなか男には追いつくことができない。
 男が一度だけ、こちらを振り返った。その顔には、自分の逃走を確信した笑みが浮かんでいた。
「くそっ!」一瞬、諦めそうになった浅見だったが、こうなったらとことんまで追いかけてやるという気になってきた。
 男はついに商店街をあと数歩で抜けるところまで来てしまった。
 と、浅見は男のすぐそばにいる人影が目に入った。それは、そこにいるはずのない人物――加賀美だった。
 浅見が走り出したときには、確かに書店から出てくるところだったはずだ。自分も男も走ってここまで来たのだから、女の子が走って追いつくことは難しいはずだ。近道となる裏道でもあったのだろうか?
 男は前から近づいていく加賀美を単なる邪魔な通行人としか見ていなかった。一声叫んで、加賀美を押しのけようとする。浅見は加賀美の無事を心配したが、それが杞憂であったことを次の瞬間に思い知った。
 加賀美は向かってくる男を両腕で押し止めると、「小鳥さんの鞄を返してください!」と言って男を力任せに地面にたたきつけた。
 周囲にいた人々は唖然としていたし、浅見も同じだった。一番驚いていたのは地面にたたきつけられた男のようだった。まさか、か弱い女の子に力負けするとは想像もできなかったのだろう。というより、その場にいた誰一人としてこんな状況は予想できなかった。
 加賀美は浅見を見つけると、手を振って呼びかけた。浅見は軽く手を振り返して応えた。少しして、後ろから小鳥と咲もやってきた。
 浅見は加賀美のところまでくると、ふうと一息ついて男を見下ろした。四十歳くらいに見えるその男から鞄を取り返そうとすると、いきなり男が起き上がって浅見と加賀美を押しのけてまた逃走を始めた。不意をつかれたからか、今度は加賀美も普通に押し飛ばされて尻餅をついた。
「きゃっ!」
「加賀美!」咲が叫んだ。
「何するんですか!」加賀美が男に向かって叫びながら、右手をその方向にかざした。
 それと同時に、バン、と何か重たい物がぶつかったような音がして、男が前のめりに倒れた。一瞬のことで、浅見には何が起こったのか理解できなかった。理解しようとする前に、加賀美が「あ、鞄が!」と言って立ち上がって走った。
 小鳥の鞄は男が倒れるのと同時に手から飛んで離れ、すぐそばに駐車してあった軽トラックの荷台の上にのっていた。加賀美は軽トラックに近づいて荷台によじ登り、「鞄、取り返しましたよ!」と浅見たちのほうにむかって手を振った。
「加賀美、えらい!」咲が言った。「でも目立ちすぎだよ!」
「加賀美ちゃん、ありがとー」小鳥が手を振りかえして言った。「……って、あれ、加賀美ちゃんが遠ざかっていきますよ?」
 浅見もその光景を見ていた。加賀美が乗ったトラックが動き出していた。「ふぇっ、ど、どうしましょう!」加賀美は慌てふためいている。
「早く飛び降りて!」と咲がトラックのほうに駆け出しながら言った。
「と、飛び降りるなんて、」加賀美は荷台から下の道路を恐々とのぞいている。「……こわくてできないですよぅ~……」彼女は荷台の縁につかまって情けない声を出した。
「アンタ、いつもはもっと高いところを飛んだりしてるでしょ!」咲はトラックへ向かって叫んだ。「じゃあ、とりあえず鞄だけでもこっちに投げて!」
「あ、はい!」加賀美は言われた通りに鞄を投げて咲に渡した。
「よし」鞄を受け取ると、咲は立ち止まり、「それじゃ、後で迎えに行くから!」と言って加賀美に手を振った。
「そ、そんなぁぁぁ~……」遠ざかる加賀美は、とても哀しそうな顔をしていた。「らぁ~めぇ~ん~……」情けない断末魔の悲鳴を残し、加賀美の姿はトラックとともに消えていった。
「……行っちゃったぞ」トラックとともに加賀美の姿が見えなくなった頃、浅見がぽつりと言った。
「あの子はわたしが迎えに行くよ」と咲は言って、鞄を小鳥に渡した。「小鳥、アンタちょっと服にゴミついてるよ」
「え、どこですか?」小鳥は自分の体を眺め回した。「ここだよ」と咲が言って、小鳥の体をパンパンとはたいた。
「ぶつけられたんだって? 酷いことするよね。女の子の服を汚しやがって、まったく……」
「あ、ありがとうございます、咲ちゃん」
 咲は小鳥をはたき終わると、「それじゃさ、わたしは加賀美追いかけるから、悪いけど、ラーメン屋には二人だけで行ってもらえるかな?」
「あ、はい。わかりました……」小鳥が残念そうに言った。
 咲は浅見のほうを向くと、「それじゃ、がんばってね」と言うと、浅見が動転して返事ができないうちに、トラックが去った方向に走っていった。
「……がんばるって、何をがんばるんですか?」小鳥が浅見に聞いた。
「さ、さあ? なんのことやら……」浅見は誤魔化しながら、「あ、それよりもさ、さっきの加賀美って子、すごかったよな、一人で泥棒をのしちゃってさ。護身術とか習ってるのかな?」
「あ、えっと、それはですね……どう説明したものか……」今度はなぜか、小鳥が言いにくそうに言葉を詰まらせた。「あ、それよりも、さっきの泥棒の人! 警察に連絡したほうが……」
 言われて浅見もはっとしたが、二人が振り向いたとき、先ほどまで道に倒れていた泥棒の姿はもうどこかに消えていた。

 ピッ、ガシャン。
 受け取り口に落ちてきた炭酸飲料を取り出すと、すぐに封を開けて半分ほど一気に飲んだ。缶から口を離すと、少し長めのため息が出た。
「新月って、鈍いよなぁ……」
 浅見は呟きながら、二十メートルほど離れた書店を見た。先ほど、小鳥がひったくりに遭った場所。今は小鳥が店員に落し物について聞いているはずだ。
 男から取り返した鞄には財布が入っていなかった。浅見が見ていた限り、男が鞄から財布だけを抜き取るような暇はなかったはずなので、おそらくぶつかったときに鞄から落ちたのだろうと判断し、書店まで戻ってきたのだった。
 彼女が店員に質問している間、浅見は外で待っていることにした。そして書店から少し離れた自販機に寄りかかって空を仰ぎ見ていた。
(……疲れた。なぜ、二人でラーメンを食べに行くことが、こんなに大変なのだろうか……)
 待ち合わせに失敗したり、二人きりという状況を邪魔されたり、ひったくりを追い掛け回したり、落し物のために商店街を行きつ戻りつしたり……
 雲の割合が増してきた空を見ながら、浅見は思う。自分はもっと積極的に小鳥に好意を伝えていくべきなのだろうか? しかし自分としては既に充分に意思表明しているつもりだった。放課後に教室でラーメンを食べに誘ったのだって、浅見にしてみればデートに誘ったつもりだったのだ。だがそれは、小鳥から見れば、クラスメイトとご飯を食べる、程度のイベントでしかないようだった。あんなに緊張して声をかけたのに、それくらいでは報われないものなのか……
(挫けそうだ……俺はこれ以上の努力を重ねなければいけないのか……というか、いっそ告白してしまったほうが上手くいったりするんだろうか……)
 浅見は頭の中でシミュレーションしてみた。
『新月、好きだ!』
『はい! わたしも好きです!』満面の笑みを浮かべる小鳥。『ラーメンが!』
「…………」そんな返答は有り得ない、と言い切れないところが怖かった。
(とにかく、今日はもう早くラーメン食って帰ろう……)
 そこで浅見は、はっとして携帯を見た。
 六時四十五分。
 あと十五分で店は閉店のはずだった。七時までに入店すればオーダーは受け付けてくれると思うが、それにしても急いだほうがいい時間だ。浅見の足なら走って三分、歩いても十分もかからない。
(新月はずいぶんとラーメンを楽しみにしていたから、食べられなくなるのはマズイよな。そうすると、新月が戻ってきたら少し急いで移動したほうがいいか)
 空の雲の動きを見ながら、浅見は考える。
(それにしても、新月の奴、本当にラーメンが好きなんだな……)
 残っていた炭酸飲料を飲み干し、近くのゴミ箱に投げ入れると、丁度、小鳥が店員に頭を下げながら書店を出てきたのが見えた。浅見は彼女に声をかけて自分の位置を知らせようとした。
 それとほぼ同時に、アスファルトにぽつぽつぽつと雨粒が落ち、数秒後には先ほどまでの天気が嘘のような夕立が商店街をおそった。
 浅見は小鳥に声をかける前に、近くにあった八百屋の店先に避難した。すぐに移動したつもりだったが、頭や肩が思ったよりも濡れていた。小鳥を見ると、書店の入り口でおろおろと辺りを見回していた。浅見を探しているのだろう。
「新月ー! こっち!」浅見は雨の音に消されないよう、大声で呼びかけた。
「浅見くーん、夕立です! どうしましょう!」小鳥も大声で返してきた。
 浅見は考えた。この雨が止むのにどれだけかかるかわからない。夕立だと思うので、長くはないだろうが、それでも閉店までに間に合うとは思えなかった。
 ……今回は諦めよう、と浅見は思った。
「新月ー、ラーメン屋はもうすぐ閉店だから、この雨のなかじゃ……」そこまで言ったところで、雨がさらに激しくなった。大粒の雫がアスファルトに叩きつけられている。傘を持っていたとしてもこの雨の中を移動するのは一苦労だろう。気付けば、商店街からはすっかり人気が減っている。みんな屋根のある場所に避難したのだろう。
 浅見としても、自分が小鳥のいる場所まで走っていき、そこで雨が落ち着くまで雨宿りするつもりだった。ラーメンはお流れになってしまったが、何か他の店で二人でご飯を食べて帰ろう、と。
 しかし、浅見の言葉は激しい雨に妨害され、小鳥には半分しか届いていなかった。
 浅見は声で説明するのを諦め、向こう側に走っていこうとしたが、その判断よりも小鳥の判断、そして行動のほうが早かった。
 小鳥は胸に鞄を抱えるようにして持つと、なんと――夕立の中に飛び出し、浅見のいる八百屋まで走り始めた。
「!」
 浅見の体が硬直した。小鳥の行動に驚かされたというのもあるが、それ以上に、小鳥の表情に浅見は惹きつけられた。
 小鳥は鞄を胸に抱きながら、顔を真っ直ぐと前に向けて走っていた。雨に負けたように俯くのではなく、毅然として前を向いていた。
 それは初めて見る表情ではなかった。見たことのある、浅見にとっては忘れられない表情だった。
 教室。委員長を決める話し合い。一瞬の沈黙の後にまっすぐに挙げられた彼女の腕。そのときの数秒だけ彼女の顔に浮かんでいた、力強い意志を宿した表情。
 浅見が初めて、小鳥を認識した瞬間の表情。
 浅見が初めて、小鳥のことを好きだと自覚した瞬間の表情。
 それが再び、浅見の目の前にあった。
 小鳥が雨の中を移動した時間は一分にも満たないはずだったが、浅見にはそれは永遠の動きのように思えた。
「うぅ、すごい雨です……」浅見のもとにやってきた小鳥は、肩を落としてつぶやいた。「服とか、すっかり濡れてびしょびしょです……」そう言ってから、浅見が妙な表情で自分を見ていることに気付いて小鳥は慌てて体を隠そうとした。「……あの、服とか、透けてたりしないですよね?」
「いや、そんなことはないけど」浅見は嘘をついた。「……というか、よくこんな雨の中を走ってきたな、新月」
「そりゃ、もちろん!」小鳥は笑顔で言った。「ラーメンを食べに行くためじゃないですか!」
(ああ、そうだ……)と浅見は思う。(自分は、この真っ直ぐさとか、普段は隠している意志の強さとか、そういうところに、こんなにも惹かれたんだ……)
「時間がないんですよね、早く行きましょう!」
 小鳥は力強く言って、雨の中に走り出す構えをとった。
 浅見はそれが何よりも嬉しかったし、何よりも自分にとっての励みとなった。もう疲れがどうの、夕立がどうの、なんて考えなくて済むようになった。
「よし、店は商店街を抜けて右に曲がった先にあるから、そこまで走っていくぞ!」
 浅見の言葉に、小鳥が「はい!」と返事をした。
 そして二人は、夕立の中を走り出した。大音量の雨に打ちつけられて、服は下着までびしょびしょになりそうだったが、それでも二人は前を向いて笑いあいながら走っていった。

 ――もうすぐラーメンが食べられる!
 浅見は思った。
 それはきっと、今までの人生で食べてきたもののなかで、一番美味しいに違いない、と。


【了】

| コメント (0) | トラックバック (0)

この作品をはてなブックマークに追加はてなブックマークで感想を書く