『小国テスタ』

『小国テスタ』

著/桂たたら
絵/時磴茶菜々

原稿用紙換算75枚

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 天気の良いある日、気まぐれから自分で山菜でも摘もうと国の外へと足を向けた。
 馬鹿みたいに晴れ渡った空の下、穏やかな緑の丘陵の向こうに青く茂る林が見えた。小高い丘の上からなら遠くの水平線がわずかに見える。
 国の外といっても城壁も堀もないので、はっきりと内外の線引きがされているわけではない。何十年も昔はそうした外敵への防御が必要だった時代もあったそうだが、いまではそんなものに国財を裂くぐらいなら福祉、教育を充実させろというのが一般的な世論だ(一部例外もあるようだが)。
 あまりに無防備に見える国防について考えていると、きゃんきゃんと俺の背丈の半分ほどしかないような子供が林の奥で騒いでいるのが見えた。
 子供だけで国の外にでるなんて昔は考えられなかったことなのだろうと思いながら俺は林へと足を踏み入れ、めぼしい植物を物色にかかる。首を回して夕飯はなににしようかと考える。少し楽しくなってくる。
 持参したかごが半分ほど緑で埋まるころになっても、子供たちはまだ飽きずに騒いでいた。
 突然、風切音がしてがさりと足元の草が揺れた。
 上から石が落ちてきたのだ。
 その弾道を辿ると、子供たちのいるあたりである。
「おいおい」と俺は少年たちへと歩み寄った。「石なんて投げて遊ぶな。人に当たったらどうするんだ」
「あ、すみません」とリーダ格の少年が頭を下げた。「お兄さんがいたなんて知らなくて……。いつも、ここ、誰もいないから」
 そして子供たちは顔を見合わせ、「行こうぜ」とそそくさとその場を去っていった。その様子に多少の後ろ暗さを感じられるくらいには俺も鈍くはない。
 なにに向かって石を投げていたのかと樹上を仰ぐ。
 枝のまたに固定された小さな箱がそこにあった。丸まればようやく人が一人納まるくらいの大きさの木製のものである。小屋に見えないこともないが、お世辞にもつくりは丁寧であるとは言い難い。
 その出入り口からふさふさのしっぽのようなものがはみ出ていた。ぷるぷると震えている。頭隠して尻隠さず。
「しっぽ出てるぞ」
「ひい」
 怯えたような声がしてしっぽがひょいとしまわれる。
「ももももう石を投げないでよう、面白いことなんてないでしょう、わた、わたしだってしまいには怒るよっ!」
 泣きそうな声で言われても。
「子供たちならもういない。どこかへ行った」
「へ?」ぱか、と開かれた小屋の窓から覗いた顔は少女のものだった。年の頃はおそらく十代前半から多く見積もっても半ばほど。若いというよりも幼いという形容がしっくりくる。気弱そうに垂れた目じりと眉は、怯えているからだけではなく、生来のものだろう。
「良かった……。あなたが追い払ってくれたの?」彼女はするすると枝を伝ってすとんと着地した。深々と頭を下げる。「どうもありがとう」
 頭を下げると良く見える。彼女の頭上には大きな三角形の耳が生えていた。なるほどバスト族か、と俺は合点した。
 現在、大陸を支配しているのは、総人口の五割から六割を占める人間族だ。残りの四割強は、神代より以前に、人間族と交わった神々の末裔とされる種族である。その姿形は千差万別だが、少しでも人間族の血が混じっていると、その特徴が色濃く出ることになる。つまり、二足歩行、脳の発達、道具を扱う五本指、などだ。人口、と呼ばれる統計は、人間族の血を持つ種族の数である。目の前の少女の耳としっぽが特徴的なバスト族は、その名を神話の神の名に由来している――これらのことは、すべて学校で無理矢理に覚えさせられたことだ。
「俺はなにもしていないよ」
 手をひらひらと振ってまた夕食の調達に戻る。
 辺りに群生する食用植物を眺めながら、俺は考えた。
「なあ」振り返ると、俺の挙動を興味深そうに見ていた犬耳の少女と目があった。「君はここに住んでいるのか?」
「え、あ、うん」彼女はゆっくりと頭上を指差した。「私の家、です」
 家というにはあまりに粗末である。
「本当にこんなところに住んでいるのか……。家族は?」
「わからないの。物心ついたときにはここに一人でいたから」
「……食事はどうしてるんだ」
「知らない人が持ってきてくれるー」彼女の笑顔は幸せそうだ。
「小さな頃からか」
「うん」
 なるほど、バカ犬か。
「なんだか警察みたいなことを聞くね?」
「似たようなものだよ」と俺が答えても彼女はぽけっとしたままだった。「非番だけど」
 どうするか、と俺は目の前の少女を見て考える。しっぽをぱたぱたと振っている。迷った挙句、いくつか質問しようと試みる。
「君は、――名前を聞こう。俺はクロノ。君の名前は?」
「ネッツ」彼女は大事そうにその名を口にした。
「そうか、ネッツ。君はここに住んでいるんだろう。……一日、なにをして過ごしているんだ?」
「とくになにも? 友達と山とか川とかいって遊んでる。石とか投げてくる子もいるけど」
 まあ、こうした鈍い子をいじめたくなる気分はわからないでもない。
「食事を持ってきてくれるという人はどんな人?」
「大きい男の人。名前は知りません」
「その人は」その先をいうことに少し躊躇った。「なにか君に見返りを求めているようだった?」
「見返り?」彼女はきょとんと聞き返す。
「お礼のことだよ。たとえば……、その……、体を触ったりだとか。触らせたり、だとか……」
 やばい、たぶん、今の俺の顔赤い。
 ああ、とネッツは胸の前で手を打ち合わせた。
「もしかして……、同じこと、――してほしいの?」
 彼女の顔がずい、と寄せられる。
 よく見れば整った顔をしている。まるで眠そうに閉ざされかけた瞳が俺の目を引いた。垂れた目じりも彼女の美しさを損なわせるものではない。形の良い、薄くふっくらとした唇が小さく動く。囁くような甘い響きが耳朶を打つ。
「動かないでね……?」
 湿った吐息が胸にかかる。彼女の額は俺のあごの高さしかないからだ。頭に生えた、三角の耳が視界を埋める。俺の呼吸でその毛がなびいていた。彼女は上目遣いにこちらを見て、そのほっそりした白い指を俺の顔に伸ばして――
「――――」
 俺は目の前の少女の耳をつかんでぐいっと引っ張った――俺から遠ざかるように。
「いた、いた。なにするの。放してよぅ」ネッツは痛そうに身もだえする。
「いつもこんなことをしているのか?」俺の顔の赤さは、もはや隠しようがない。
「えぇ? なになに、聞こえないよぅ」彼女はようやく俺の手を振り払うと警戒するように距離をとった。「こうすると相手は喜ぶって教わったのになあ」そこで彼女は何かに気付いたように耳をぴんと立てた。そして表情をへにゃっと歪ませた――それは、相手を馬鹿にした薄ら笑いにも見えないこともない。「あ、もしかして――不能でいらっしゃいますか? くふ」
 俺のげんこつが彼女の額を直撃した。
「いたー」
「バカなこと言うな、子供には興味がないだけだ。――ネッツ。君はなにができる?」
「なに、って?」抗議するような目つきのまま、彼女は額を押さえている。
「仕事をする気はないか、と聞いているんだ」
「仕事?」
「バスト族は魔力と引き換えに高い身体能力と五感を備えていると聞いている。違うか?」
「なんの話?」ネッツはきょとんと問い返す。
「ただ、君を引き取って養うなんつーのは……」俺は頭を掻く。「そう、世間体がよくない。君も職に就いておく必要がある。それに、国外とはいえ、こんなところでそんな仕事をしているというのは……、その、周囲の子供たちに悪い影響を与える可能性もあるし……」

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 サスフィ大陸は東西に長く伸びた形をしている。横倒しにしたひょうたんのように中央部だけが細くなっていて、王国「ヴァルク」はその細くなっている地域の西にある。ようやく去年に人口三千を数えたような、小さな国である。見方によっては砂時計の孔を塞いでいるようにも見えるだろう。近隣には大きな国はなく、ヴァルクの東に広がる草原を挟んだ向こうにキサラギという中規模国家があるくらいだった。
 俺の仕事は国の治安維持に努めることである。保安官といえば聞こえは良いが、していることは衛兵のようなものだ。二年間の「学校」で魔術、体術、算術などの基礎を学べば、かなり成績が悪くとも適当な職業に就くことができてしまう。もちろん、重要な職業に就くにはそれなりの成績が必要だ。
 我が国ヴァルク――ひいてはサスフィ大陸全土――は、ここ数十年、高水準な安全性と経済力を維持し続けている。
 城下――城といってもだだっ広いだけの高さ一層の屋敷である――のもっとも広い道には左右に露店がひしめきあっており、いつも人がごったがえしている。牛車から人力車から往来を行き来して、感じるのは活気というよりも熱気であるのが常だった。海も森もすぐ近くにあって、露店には海のもの山のものがのべつ幕なしに並ぶことになる。
 俺の住んでいる国は、そんなところだった。

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 次の日。
 ネッツを連れて国王との謁見室で事の仔細を話すと、
「変態だな」「変態ねえ」
 満場一致でそんな評価をもらって俺は少し泣きそうになった。

「まあ、クロノが変態であることと、ネッツを迎え入れることはまったくの別問題だ。私が物分りの良い王で良かったな、クロノよ」
 国家ヴァルクの王は俺の目の前にいる女性だ。ヒナの愛称で呼ばれる彼女は、年齢も俺よりひとつ上で、先日十七歳になったばかりという若さだ。王家は代々髪の毛を伸ばさねばならないというしきたりに正面から反発し、後頭部でまとめるという折衷案で辛うじて臣下を納得させたという逸話がある。非常に話しやすく、陽気で好感の持てる王だと評判だった。王として正しいのかは疑問ではあるが。
 王と謁見を行う部屋――とは言っても、ただ広いだけの部屋に机を置いただけの殺風景なものである。この部屋にいっぱいになるほど人が入ることはほとんどない。現在も、俺とヒナ王、ネッツに、俺と同期の保安官が一名、衛兵が二名という人の少なさである。だが今日は、いつもヒナ王の隣に控えているヒムロという老人がいない。齢七十を数える厳格な老紳士がいないと、雰囲気もいくらか弛緩したものになる。現在、彼は隣国のキサラギへと出張中である。
「優秀な種族として名高いバスト族を迎え入れることができるというのは光栄だ。よろしく、ネッツ」
 よろしく、とネッツも会釈をして頭を下げた。昨晩のうちにこれからどうなるかをなるべく噛み砕いて説明したがどこまで理解できたかはわからない。
「身寄りのない女の子を拾って家に連れ帰るなんて、これはもう立派な変態ね」
「そういう言い方をするんじゃない」
「ロリコン」
「…………」
 にやにやしながら言うのはカレンという俺の一歳年上の先輩である。長身と黒縁眼鏡が特徴的な女性だ。
「あのう」とネッツがおずおずと口を挟んだ。「ここへ来たのは私の意志です。それに、クロノとは一緒にいても良いと思ったから一緒にいるので、無理矢理というわけでは、」
「うわーなにこれかわいー!」カレンはネッツをそれこそ無理矢理抱きしめた。「なに言ってんの? なに言ってんの? 私どうしよう!」
「どうもすんな」
「なんで! そんなことより、ネッツはなんでこんな胡散臭い男のことを信用してるの? どこに連れて行かれるかわからなかったのよ?」
「ひどい言い草だな」俺は呟いた。
「それは私も聞きたい」ヒナ王がネッツを見る。
「良い人そうだと思ったから」ネッツはすぐに答えた。「クロノになら騙されても良いって思った」
「…………」
 全員が沈黙する。
「あんた、この娘に適当なことしちゃ駄目よ」カレンが俺にだけ聞こえるように言った。
 そんなことは言われるまでもない。彼女を連れ帰ったときから、ある程度の覚悟は決まっている。
「……とはいえ」ヒナ王は話を元に戻した。「実際のところは異なる種族というのは受け入れがたい風習があってな。さらに、この国においてはまたバスト族というのはちと特殊な捉え方をされておる」
「特殊?」ネッツが尋ねる。
「そうなのよ」カレンはネッツの頭にあごを載せた。「えっと、国の外に住んでるダイナって人は知ってる?」
「うん。ちょっと話したことはある」ネッツは頷いた。
「知ってるなら話は早いわね。彼もあなたと一緒のバストの人でね。……ちょっとねー、これが変わり者なのよー」カレンはため息混じりに言った。「言っちゃえば変態よね」
「クロノと同じ?」ネッツが笑って言う。
「そう、同じ同じ」カレンがネッツの頭を撫でる。
「……どうでも良いよ。好きにしろ」
 ヒナ王が咳払いをした。「この国にはバスト族は彼しかいなくてな。バスト族というと彼のような人物である、という先入観が働くやもしれん。彼も……何と言ったら良いのか……、独特な人物だよ」

「我が国のような小国家では」
 広間ではヒナ王が屋敷の使用人から衛兵まですべて集めて演説を打っている。数にしても百名もいないだろう。毎日夕方に行われる集会である。
「異文化、異種族への理解が十分になされていない傾向にある。だが、これからは通信、運送技術が飛躍的に伸び、多くの貿易を行っていくことになろう。実際、技術の一部はすでに実用化されており、国内のみであれば電力による情報の伝達は可能になっている。交通もより簡便化され、魔力や蒸気に変わる内燃機関の開発も着手されている。隣国であるキサラギへも、東のクライモ平原を抜けて馬で何日もかけずともよくなろうという時代が到来しよう。それら時代の変化に先駆けて、我が国では給仕見習いとして新しい風を取り入れることにした」
「給仕係?」隣に立つカレンはこっそりと耳打ちしてきた。
「ああ、そういうことになっているらしい。風当たりの問題だとさ」
 そもそも、風当たりが発生することがわかっているなら、城下の仕事を斡旋してやっても良いとも思うけど。手元においておきたいわけでもあるのだろうか。
「さて、こちらがネッツという新しい給仕にして、バスト族の……、お、おい、寝るな。起きてくれ。話が長すぎたか?」
 ネッツは器用にヒナ王の背後で立ったまま眠っていた。ヒナ王が慌てて彼女の肩を揺する。
「もう食べられないよぅ」ネッツがよだれを垂らして言う。
 広間に小さな笑い声が発生した。
「まあ、基本よね」カレンが呟く。
「なんのだよ」
 先が思いやられたのはきっと俺だけじゃあるまい。

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 三日が経過した。
 意外なことにネッツの物覚えは良かった。年の割には鈍いなと思っていたが、それは周囲に原因があったのだろう。周りに子供しかいないのであればあの幼さも無理からぬことかもしれない。
 変化したのは俺の身の回りも同様だ。
 まず、割り当てられた屋敷内の俺の部屋の広さが半分になった。
 ネッツにも新しい部屋が用意されたのだが、彼女が頑として俺と同じ部屋が良いと言って譲らないのだ。意志の弱い彼女にしては珍しいことだった。とりあえず、新しい生活に慣れるまで、ということでその話は落着させた。
 あとは屋敷内における俺の評判である。これについてはあまり触れたくはない。先日の、ヒナ王とカレンの言葉とどれも似たり寄ったりだ。そういったことを言われる度に、俺はじっくりと事情を説明し、なにもやましいことはないことを力説せねばならなかった。もういっそ夕刻の定例会のときに前に出て説明してやろうかと思うほどである。


  1

 その日は朝から騒がしかった。
 キサラギへと出向いていたヒムロ翁が帰還する予定があることだけが原因ではなさそうだ。
 俺が起き上がるとすでにネッツの寝床は空だった。
 窓の外からは断続的に歓声が上がっている。
 急ぎ着衣を正し、屋敷の渡りを歩いているとヒナ王とすれ違った。
「おはようございます。なにやら騒がしいようですが」
「ああ、クロノか……。そうだな、ちょうど良い。こっちへ」
 渡りと縁側を歩き、屋敷の正門へと向かう。
 縁側をとたとたと歩きながら、ヒナ王は事情を説明した。
「なにやら早朝から騒がしいと思ったらな、どうやらまたダイナが原因らしいのだよ」
「今度はなにを?」
「人を集めて手品めいたことをしているようだな。……報告によると、かなり大規模かつ高質なもののようで、……公務さえなければ私も……」
「見に行きたいのですか?」
「いや、いや。そんなことは言っておらんぞ」彼女は咳払いをした。「とにかくだな、ほれ、あすこに見えるだろ」
 彼女が指差す先には、確かに人だかりができている。距離がありすぎるのでよく見えないが百人はいそうだ。
「道路いっぱいに手品道具を配置しているようでな。しかし今日はあの道を使用せねばならんのだ。鶯通り」
 国内の主要道路は方眼のように走っており、それぞれに鶯、鳶、桜、葵といったように名がついている。
「ヒムロ翁が手土産持って帰ってくる日、ですか。なるほど、ダイナ氏に道を開けるように言えば良いのですね」
「いや、それはもうカレンが伝えに向かったのだ」ヒナ王は苦い顔をする。
「ええ! あの二人を会わせたら、」
「大変なことになる」ヒナ王は俺の言葉を引き継いだ。「だから、そこで君の出番だ。ほれ」
 ヒナ王が振り返る。いつのまにか俺の後ろには、学校を同期で卒業した友人が物々しい装備を持って立っていた。
「おはようクロノ」
「リコ……。なにを持っているんだ?」
 小柄で髪の毛の長い彼女はにっこり笑って、「さあ、カレン先輩の魔術は並の装備では止められませんよ。がんばってください、です」
 リコは手際よく俺の体にローブのようなものを装着させる。彼女が動くたびに頭の大きなリボンがゆらゆらと揺れる。
「つーかこれって……」
「ええ、戦時に使っていたという、とびっきりの対魔術武装です。カレン先輩の魔力を侮っていたために先日の二千番台は破損しましたが、駄目ですねあれは。所詮旧時代の遺物ですよ。対してこれは四千番台です。出力が二千五百ブルーノパーセコンドまでの魔術は完全に遮断します」
「二千五百!? あいつそんなに出力あるのか!?」
「駄目ですよクロノ。先輩をあいつ呼ばわりとは。でも気をつけてくださいね、物理攻撃に対しての防御は紙なので」リコはさらりと言う。
「いや他に適任者が」
「貴方ですよ」「君だな」リコとヒナ王が同時に言う。リコが続けた。「ほら、この間の会議でカレン暴走時の歯止め係を拝命したばかりじゃないですか」
「初耳だけど!」
「私の部屋で開かれた会議ですから。出席者は、ヒナ王と私、カレン先輩にホノカさんです」
「欠席裁判じゃねーか!」
「酒の席で適当に決めたことなので」
「てめー」
「ごちゃごちゃ言ってないで早く行けというんです」
 げしとケツを蹴られて正門から追い出された。
 遥か彼方では、魔術によるものと思われる炸裂音が響き始めた。

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 その日の早朝、朝一番の鳥が鳴き始めるよりも早く、ダイナは鶯通りの真ん中で仁王立ちをしていた。
 年の頃は二十代後半といったところか。短い赤のかかったくせ毛が、額に巻かれたバンダナで逆立っていた。ネッツと同様に頭と腰に耳としっぽを持っているが、彼女と異なるのは、彼の場合は耳が寝ていることと、しっぽがすらりと細長いことだった。長身の割には肉付きが少なく、全体的にひょろりとした印象があった。
 だがそんな時間帯でも国一番というわけではない。左右に広がる露店はすでに開店の準備を始めているし、往来を行き来する牛車はその数を少しずつ増やしている。
 彼の今日の服装は、全体的に紺と白を基調とした色合いで、胸から肩にかけて襟が三角形になっているものである。それがそのまま肩から後ろへ垂らされて四角形を作っていた。前開きになっている服で、それをボタンで留めている。そして胸元には小豆色のリボンがついていた。下穿きは膝丈ほどしかないスカートで、縦にひだがはいっていた。
「おい、今日はなにをするんだダイナ!」「なにをするんだ!」
 彼の周りに子供たちが集まってくる。
「気持ちわりー服を着てんな! なんだそれ!」「すね毛見えてる!」
「気持ち悪いとは心外だね君たち」ダイナは大きく鼻を鳴らした。「これは遠き国で水兵たちが着用している正装なのだよ。ほら、全国のそういう趣味のお兄さん方に謝るんだ」
「わけわかんねー」「わけわかんねー」
 少年たちは楽しそうに去っていく。
「年端もいかぬ少年たちにツッコミを期待したのが誤りだった」ダイナは首を振って小さくつぶやいた。「さて、そろそろ準備をはじめるか」

 まずダイナは往来にたくさんの筒のようなものを並べた。この時点で、朝も早いというのに、たくさんの人だかりができている。
 ダイナは集まった人たちに滔々と前説を打ち、今日この瞬間に立ち会えたあなた方は幸福だ、短い時間であるが楽しい時間を演出しよう、といった旨の発言をした。その言葉で大勢が胡散臭そうな顔をした。その反応を見て、出だしは好調である、とダイナは満足げに頷いた。
 しかしすぐにその表情が変化する。ダイナが並べた筒に順番に火を付けていくと、頭上に爆音と共に大きな円が広がった。大きな歓声が沸く。
 ダイナは眉根を寄せてこれは夜にやるべきものなのだなと一瞬だけ反省をし、続く準備にとりかかった。
 黒い筒のような帽子から鳩を飛び出させたり、燃やした紙幣を再生させてみせたりした。
 魔術じゃないのか、という野次が時折飛ぶが、私に使用可能な魔術はこれのみでございます、とダイナは優雅に一礼して(水兵の格好のままだが)、手の中からぽんと出した一輪の花を、近くにいる少女に微笑んで手渡すのだった。ダイナは口さえ開かなければ、というのが彼に対する女性の評価の中心であった(犬のような耳としっぽが生えているが)。
 次の手品は人体消失である。観客から被験者を募ろうとぐるりと見回すと、ダイナと同じ耳としっぽを持った少女がいた。ネッツである。
 ダイナが彼女を呼び寄せると、彼女はこんにちはと会釈した。二人は何度か会ったことがあった。
 彼女はうきうきと楽しそうに手を組んでダイナを見つめる。選んでもらえたのが嬉しいようだ。そこまで期待されるとダイナも悪い気はしなかった。
 足まですっぽりと完全に隠れる布をネッツに被せた。観客へ向き直り、さあこの可憐な少女をこの場から消してごらんにいれましょう、一時とて目を離すなかれと張りのある声で言った。
 布を掛けられた彼女の体が宙に浮いた。
 うむむ、とダイナがなにやら念じるような動作をしてから勢いよく布を剥ぎ取ると、そこにはネッツの姿はなかった。
 どよめきが走る。
 ダイナは自分の背後にある人一人分の高さの布に気付き、慌てて飛び退った(わざとらしく)。そして、そうっとその布の中を覗いてみた。
 中には状況が分からずきょとんとしているネッツが居た。
 ダイナは恭しく一礼をする。
 その日、最大の歓声が上がった。

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「どいて、どいて」
 人垣をかき分けて背の高い女性が姿を見せる。黒縁眼鏡を光らせて、騒ぎの元凶を突き止めるとてくてくと歩み寄った。
「おやこれはカレン嬢。いかがなされたかな」ダイナは紳士的に微笑んだ。
「悪いんだけど、これよりここは重要な荷を乗せた貨車が通るので、場所を移動してもらえないかな?」カレンも微笑み返す。
「ええ、そうでしょうとも。ここでは往来の邪魔になりましょう」ダイナは大げさに頷いた。「しかし、今しばらくの時間をいただくことは不可能でしょうか」ダイナの耳がぴんとはねる。
「理由如何によっては聞き入れられないこともないけど」
「それはもちろん、最後にやり残した大奇術がありますし……、その後に控える後片付けもあるのですよ。それに、」
「それに?」
 ダイナは跪いた。「貴女のような綺麗な女性を口説くための時間が欲しいのです」そしてカレンの手をとって口付けをしようとしたところで、
「とええええい!」
 と、カレンの膝がダイナのあごに吸い込まれるように直撃して彼の体は空中で一回転して仰向けに倒れこんだ。
「気色が悪いっての! そもそもなによその服は!」
「すげえ。空中で回ったぜ」「さすがにあごの骨砕けたんじゃね」
 周囲が騒然となる中、ダイナは服についた汚れを落としながらすっくと立ち上がった。朗らかに笑っている。
「カレン嬢に見せるために新調した正装ですよ」ダイナはさりげなくポーズを決めた。「遠き国の水兵の誇りある服飾とのことです。いつもとは違う雰囲気の私に貴女もめろめろ。この秋、流行の最先端を先取りです」
「そのすね毛は公害だ!」
「なにを心外な」
「でも後で貸してください!」カレンは偉そうに掌を差し出した。
「なぜです?」
「ネッツに着せるから! あの娘にそれを着せたらそれはもう大変なことになるわ! あるべきものはあるべき場所へ!」
「貴女もたいがい変人ですな」ダイナはぽつりと呟いた。「まあ、構わないでしょう。良いものも見せてもらいましたし」
「良いもの?」カレンは聞いた。
「先ほどの膝蹴りの際に見えました、下穿きの下の真っ白な」
 顔を赤くしたカレンが突き出した拳から発生した圧縮された空気の塊を受けて、ダイナはきりもみ回転して飛んでいった。

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「なにやってんだー!」
 俺がついた頃には往来は大騒ぎである。役人と手品を見に来ていた人々の一部がわあわあと右往左往しているが、そのほとんどはすでに安全な射程圏外へと逃れ野次馬を決め込んでいる。怖いもの見たさか、刺激が欲しいのか。
「あ、クロノ! あいつやっぱりアホだから間接攻撃魔術では効き目が薄いわ!」カレンが叫ぶように言った。
「だからどうした?」
「熱波、爆撃、衝撃へと魔術特性をシフトさせます。燃えろー!」
 カレンが両手の拳を交互に突き出すと、その先から巨大なエネルギーが次々と撃ちだされる。
 間接攻撃魔術というのは外傷を与えずに精神のみにダメージを与える魔術である。また、体内への攻撃もこれに含まれる。わりと陰湿な魔術だ。アホだからって効かないってことはないはずだが。
 ダイナはというと、身軽に周囲の家々の屋根を飛び移ってカレンを翻弄している――かに見えたが、よくよく見ると魔術の射線からはひとつも逃れられていない。
 早い話が全弾直撃である。
 カレンの戦略級攻城魔術をその身に受けながらも、「ははは」と軽やかに笑いながら屋根から屋根へと飛び移り続ける。あの変な服にも煤一つついているようには見えない。
「ぼこぼこ当たってるように見えるんだけど……」
「この服は破れないようになっているのですよ! いろんな都合で!」ダイナが叫ぶ。
「いや服だけの問題じゃなくてな」
「そのうちきっと炭にでもなるわ! あいつごと!」カレンの声も爆音に負けてはいなかった。
「待て待て!」
「あ、やっぱ服は燃やしちゃ駄目よね、ネッツに着せるから!」
「話を聞け!」
 足元にはクレータが数個できている。だがその数個だけで、それ以上の被害が広がった様子はなかった。それというのも、ダイナが一身にカレンの攻撃を受けているからだった。
 ひょいひょいと急にとんでもない速さでカレンの視界からすら逃れ、にゅっとダイナが俺の隣に現れる。「もう少しだけこの茶番に付き合っていただきたいのですが」と、こっそり俺にだけ聞こえるように耳打ちした。「極力誰にもご迷惑をおかけしないと約束しましょう」
 俺がなんらかのリアクションを取る暇もなく、ダイナは、標的を見失ったカレンの真後ろから、その引き締まった尻を撫で回した。
「きゃ!」カレンは一瞬だけ硬直し、振り返りざまに斜めに叩き付けるような踵落としを放つ。
 すでにそこにダイナは居らず、鎖骨に踵を埋め込まれて地面に叩き付けられたのは俺だった。まあ、そんな予感はあったのだ。俺に一番迷惑がかかるのだと。どうせ対魔装備なんてなんの意味もありはしないのだ。リコを恨むのは筋違いだが、なら俺の不満はどこにぶつければ良いというのだ。あ、ダイナで良いのか。
「ああっ! ごめんねクロノ。……あ、あれ」
 カレンの視線の先には、こちらへ向かってくる大型の馬車があった。四頭の馬に引かれた荷台はみるみるうちに近づいてくる。詰め込めば人が二十人は入りそうな大きさで、外装からして豪奢である。
「ああ……、ヒムロ翁が帰ってきたんだろ」俺は肩をなでさすりながら立ち上がる。
 俺は往来を見回して驚いた。あれだけの大きさの馬車が通れる広さが確保されていたのだ。ダイナが散らかしていた道具はすべていつの間にか撤去されている。……しかし、最も通行の妨げになるのがカレンの作ったクレータというのはいったいどういうことか。
「さて、さて。突然の闖入者によって乱されてしまった私の劇も、次の奇術をもってして幕引きにいたします」
 家屋の屋根の上で優雅に一礼したダイナは、跳躍してその馬車の上に飛び乗った。
「最後の見世物は巨大質量の消失でございます。僥倖なことに、偶然にも、こんなところにちょうど良い大きさの馬車がございました」偶然、という単語にアクセントがついていた。「本来でしたらそこらの家を一軒消そうと思っておりましたが、こちらの方が派手で良いでしょう。さあ、本日最後の奇術になります。どうぞ、ごゆるりと」
 御者席から怒鳴る老人がいる。ヒムロ翁だ。老人にしては低く張りのある声で、王家の馬車を足蹴にしたことを激昂していた。そこを退けという翁の言葉も奇人ダイナの耳にはまったく届いていないようだった。
 どこに隠し持っていたのか、ダイナはその馬車すら覆い被さるほどの布を広げ、すっぽりと被せた。
 突然の暗闇に馬が嘶く。ダイナは馬車の上でうむむ、と呻き、布を剥ぎ取って放り投げた。
 馬車はしかし、――消えていなかった。
 投げた布が人々の頭の上に落ちる。巨大な馬車を覆うほどの大きさの布だ、数十名は苦もなく覆い隠し、さらには脱出すら困難を極める。布の中の暗闇はいまや大騒ぎになっていた。
「申し訳ございません、手元が狂ってしまいました」ダイナはうなだれて首を小さく振った。「そして、重ね重ね申し訳ありません、最後の奇術はどうやら失敗に終わってしまったようです」そして拳を力強く握り締めて、「しかし! いつの日か! 必ずや今日の雪辱は晴らして見せましょう! ではまたいずれの機会に!」
 しゅばしゅばと家々の屋根を飛び移って彼は去っていった。
 野次馬を決め込んでいた人たちもぞろぞろと本来の彼らの居場所へと戻っていく。露店で買い物を始めるもの、自宅へ戻るもの。こんなものは日常茶飯事だといわんばかりに。
 まあ、あんな人間砲台が保安官だったら、国内で悪いことしようなんて気は起こらないだろうな、と俺はクレータを眺めてぼんやり思った。

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「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 謁見室。部屋に響いているのはカレンの声だった。
「ああ、頭に血が上ってしまいました! 今度こそ平和的に話し合いで解決するつもりだったのですが……!」
「まあ、まあ」ヒナ王は苦笑している。「怪我人もおらぬしな。道のでこぼこはクロノが埋めておいてくれたそうだ。私に謝罪ではなく彼に礼を言うと良い」
 カレンはごりごりと床に頭をこすり付けている。
 しかし、なぜこうも毎回毎回怪我人の一人もでないのかが不思議でならない。
(それはコメディ補正がかかっているからですよ)
「うわ!」
 俺が突然声を上げたのでヒナ王とカレンがこちらを見た。
「なんでもない、なんでも」と言って適当にごまかした。
 今の耳元で囁かれたような声はダイナのものだった……。
(奥義、モノローグ侵入です)
 もう勘弁してくれ。すべては幻聴である。疲れているのだ。
 深呼吸を繰り返して頭を振った。
 ついさっき、屋敷内へと馬車が搬送された。今頃はヒムロ翁がはるばる運んできた積荷が降ろされた頃だろう。
 リコも先刻までは謁見室にいたのだが、キサラギよりもたらされた積荷――贈答品を一刻も早く見たいようで荷下ろしを手伝いに行った。
「動力はなんなんでしょうね、センサ類はどんなものを、いやいやそれより思考回路の構成はどうやっているのでしょう。二足歩行なんて、関節はどんな……」リコは数日前からこんな感じだった。ロボットごときのどこにそんな魅力があるのかわからない。所詮、人間の代替品であろうに。
 ふう、とヒナ王は一息ついてお茶に口を付けた。現在時刻は正午。昼食のための休憩時間だ。朝夕は屋敷内の食堂――ネッツが働いている場所である――で屋敷内の人間全員で食事を摂ることになっているが、昼食はそうではなく、各自が自由に食事を摂ることになっている。もちろん、食堂は開いているのでそこへ行くのも自由である。
「どうかされましたか?」カレンがヒナ王に尋ねる。
「いや……、例の『人形』についてな。どうしたものかの」ヒナ王の表情がかげる。
 人形。
 キサラギが先日完成させたという特殊兵器の名だ。自らの判断で行動する、人型をした自律人形である。
 ことがそれだけならばこうしてヒナ王も頭を悩ませたりはしない。貴重な贈答品として納めておくところだろう。
 人形には悪評がついて回っているのだ。
 いわく命令を聞かずに暴走する、動力の不具合による暴発、などなど。もちろん、これらはキサラギ側の公式見解ではなく、ヴァルク側で秘密裏に入手した情報である。キサラギからは、安全性は十分、災害救助をはじめとした場面でご活用くださいという言葉とともに、人形が贈られてきたわけだから、こちらとしても無下に断るわけにはいかない、というわけだ。
「体の良いやっかい払い、という印象が拭えんがな……」ヒナ王はゆっくりと目を閉じた。「改良された型式であるという可能性もないとは言い切れぬが。……私としては、臭いものには蓋をする方向でゆきたいが、どうか」
 俺とカレンは頷いた。
 遠くから足音が近づいてくる。
 謁見室に姿を現したのは、大きな老人と、子供のように小さな女性だった。ヒムロ翁とリコである。ヒムロ翁は強い視線をこちらに送っている。リコはというと、背中を丸めて明らかに意気消沈したふうである。
「失礼します」ヒムロ翁は低く、よく通る声で言った。「報告がございます。人形が……消失しました」

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 ヒムロ翁はキサラギで過ごした数日間から、人形の消失に気付いた今までの出来事を要領よく説明した。
 人形がなくなっていることに最初に気付いたのは、屋敷内で荷を下ろしたときである。
 人形が収められていた箱は、外側より加えられた力によって破壊されていたらしい。
「最後に人形を確認したのは、クライモ草原を抜けてすぐです。ヴァルク国内に入るほんの数刻前になるでしょう。それよりあと、馬車へ近づいたものは一人としておりません――あのバストの若者を除いては」
「そうか、そうか。……では、午後の予定だが、」ヒナ王が手元の書類に視線を落とす。
「王。人形のことはどうされるおつもりで?」ヒムロ翁の視線が鋭くなる。
「いや、なければないで、よかろう?」ヒナ王は上目遣いで尋ねる。彼女も翁にだけはいつもこんな様子だ。
「その意見、賛同は致しかねます」
「では、どうしろと?」
「捜索のために人員を割きましょう。そうですな、二名ほど。十分に国内を捜索し、なければ素直に諦めることですな。最低限、場所だけは確認できれば良しと致しましょう」
 ヒムロ翁の言葉を意訳すると、ポーズだけでも良いから探せ、なければないでよろしい、ということになる。捜索に当てるのが二名というあたり、まじめに探すつもりはないということだ。
 ふむ、とヒナ王はヒムロ翁の意見を吟味し、肯定するように頷いた。
「では、カレンとクロノに頼もうか。カレンは、そうだな、さきほどの騒乱の罰ということで。クロノは、歯止め係だから同行すること。良いな」

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 ダイナが住んでいるのは国外である。先日、ネッツとであった林のすぐ近くに家を設けているのだそうだ。話によれば、居住する建物とは別に、物置のようなものもあるらしい。どこからともなく集めてきた珍妙な品の数々がそこに収められているのだとか。
 俺もカレンもダイナの家を知らない。そのため、彼の家が分かるネッツを連れて、国内中央のもっとも大きい鶯通りから桜通りを経由して、国の外へと向かって歩いていた。
「そういや、聞いてなかったな。ネッツはダイナとどういう知り合いなんだ?」
 ネッツはぽやんとした目つきで俺を見返す。ここ数日で分かったことだが、彼女は質問を理解するのに時間がかかるのだ。これで妙に頭の回転が速いこともあるので、聡いのかどうか、いまひとつ判断がしにくい。
 ダイナはネッツに食事を世話している人間ではない。なぜならネッツはそいつの名を知らなかったからだ。ネッツはダイナの名を知っている。
「雨が強いときとかに、軒下を借りたりしてた」
「それだけか? なにか妙なことをされたりしなかったか?」
「妙なこと?」ネッツが首をかしげる。
「そうだよ、だからたとえばぐぇ」
 カレンが後ろから俺の首をきゅっと絞めた。「どうでも良いでしょ、そんなことは。少しは気を遣うってことができないの?」
「お、俺は心配してだな、」
「あなたが言おうとした言葉には意味がないということに気付いてる? このばか」
 露店の並ぶ通りが終わり、畑が増えてきた。国のはずれは人口密度が減少して田畑が増えるのである。
 歩きながら、カレンは手に持った紙を広げた。くいと眼鏡を押し上げて目を細める。「……意外よね。ヒムロ翁の、この絵の上手さ」
 捜索のためにヒムロ翁はカレンに一枚の紙を持たせた。そこには人形の似顔絵が描いてあった。
 細い眉と薄い唇。目は閉じられている。前髪は綺麗に切り揃えられている。絵は胸より上を描いているので正確なところは分からないが、後ろ髪の長さは少なくとも胸よりも長い。そしてそれらが妙に陰影がくっきりと、頬の赤みすら紙面上に表現されているのだ。まるでそのまま映像を写し取ったようですらある。控えめに言っても、美しい少女だった。
「少し、疑うわね。……記憶だけでここまではっきり描けるものかしら?」
「……どういう意味だ?」
 今の言葉、聞きようによっては、まるでヒムロ翁が人形を盗み出したかのような……。
「どれだけその人形を凝視していたのかってこと」カレンは唸る。「疑うのは趣味。幼い女の子に興味があるのかしら?」
「まさか。あのヒムロ翁だぜ。仕事以外は頭になさそうな堅物だよ」
 それもそうねと言ってカレンはさらに一枚の紙を取り出した。なんでも、その人形の仕様書だというが、こんなものを持たされても読み方が分からないので意味がない。
 仕様書を読みながら、リコはこう言った。
「動力は魔力なので、動いているとすれば、必ず近くで操作している魔術師がいるはずです。魔力のコンデンサはまだ理論段階なので間違いありませんね。……しかし、期待はずれも良いところですよ。動力は汎用魔力炉、各センサ類は疑似五感、関節の機構なんて、こんなものメンテナンス無しでは一年と持たずに磨耗して歩けなくなりますよ。よくこの程度で最新鋭とか言えたものです。向こうの技師もたかが知れますね」
 原理はよく分からないが、要約すれば、駆動に誰かの魔力が必要なのだ、ということらしい。
「しかし特筆すべきはこの皮膚の材料です。この化学式は見たことありませんが、一部が試料として残っていますよ。触ってみますか? ほらほら。この質感、本物の人の肌のようでしょう。……しかし、なぜこんなところにばかり力を傾けていたのでしょうね?」
(それはきっとダッ)
 頭に響いたダイナの声をかき消すために大声を出してリコの話を中断させてしまったりしたが(よく考えればダイナの声は俺にしか聞こえていない)、つまりその人形も外見は完全に人間と変わりないのだという。
「ま、何でも良いわ。方法はわからないけど、どうせ犯人はダイナよ。ふんじばって締め上げればなんとでもなるわ」
「魔術は禁止な」
「わ、わかってるわよ……」カレンは顔を伏せた。
「でも王さまは、カレンの魔術は貴重なのだよ、って言ってたよ」ネッツはヒナ王の口調を真似た。「後先を考えずに動けるのは彼女の美徳だな、って」
「それフォローになってないよね……」カレンは小さくため息をついた。

 ダイナの家は見晴らしの良い丘の上に建っていた。同じような家が二軒建っていて、片方は窓から中を覗いてみると足の踏み場もないほど乱雑に散らかっていた。
「きたねーな。……ここであってるのか?」
 ネッツは唇を尖らせた。「クロノって、私の話をあんまり信用しないよね。バカだと思ってない?」
「偏ってるとは思うね」
 もう一軒の屋根の上には、棒の先端にお椀を大きくしたようなものが上を向いて備え付けられていた。そこから細いコードが家の中へと延びている。妙な飾りもあったものだ。
 俺は扉をノックする。
 どちらさまですかと細い声の後に、扉がゆっくりと開かれた。
 覗かせた顔は、ヒムロ翁が描いた絵にそっくりなものだった。

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「いやはや、よくいらっしゃいました。なにもないところですが、どうぞゆっくりとしていってください」
 ダイナは今朝着ていた妙な服ではなく、普段着を着用していた。黒色の皮の上着と下穿きに、これまた黒のローブである。しっぽはローブの下に隠れている。
「いきなりで悪いけど、ひとつ聞かせてもらうわよ。その娘はいったい――」
 カレンがダイナへと詰め寄る。
「そうそう、カレン嬢には例の服を手渡す約束がございましたな」ダイナはカレンの言葉を遮った。
「――って、え、ほんと? 良いの?」カレンは身を乗り出した。
「なんでごまかされそうになってるんだよ」
 カレンとダイナの二人は俺の声なんて耳に入りませんよと言わんばかりに無視をした。
「ええ。もちろんですとも。きちんと洗濯シワ取りまで完了したものが用意してありますよ。ミロゥ、持ってきてくれますか」
「あ、はい。かしこまりました」
 ミロゥと呼ばれた、消失した人形にそっくりなその少女は、よたよたと隣室へと向かった。髪の毛が柔らかく遅れてついていった。
「ねえ、あの子だれ?」ネッツがぱたぱたとしっぽを振りながらダイナに尋ねた。「前、居なかったよね」
「はっはっは、姪ですよ」ダイナは微笑んだ。「彼女の両親が事故死しましてな、引き取ることになりまして。偶然にも私の両親が海外出張だったりするのですよ。もちろん、同じ学校に通いますぞ。朝は起こしてもらったりのお風呂覗いたりのうれしはずかしハップニングス」
「わあ、ありがちー」ネッツは笑った。
 ……なんの話をしてるんだ? そもそもダイナは学校に通う年齢ではないだろうに。
「……話は変わるが。これは個人的な話になるんだけど」俺はダイナだけに聞こえるように小声で言った。「テレパシーのようなもので話かけるのはやめてくれないか?」
 ダイナは眉根を寄せた。「テレパシーのようなもの、と仰りますと?」
「とぼけるなよ。ちょくちょく話しかけてきてるだろーが」
「例えば、どのような?」
「モノローグ侵入だとか、コメディがどうとか。しかもダッ」言い掛け、俺はごまかす様に咳払いをした。「とにかく、そうしたことはやめてくれ」
 ダイナは少しの間、腕を組んで思案顔。しっぽがふりふりと一定のリズムを刻んでいた。ややあって、彼は重々しく首を振る。
「……頭の具合が残念な感じのようですね。良いお医者様を紹介致しましょうか? 大丈夫、すぐに良くなりますとも」
「この野郎」
「おっと、ミロゥがお茶を持ってきてくれましたよ」
 ダイナの視線の先――隣室からミロゥが姿を現した。改めて見てみるとその格好は妙に派手だ。フリルのたくさんついたドレスのようなものを着ている。胸が強調されたデザインであることに気付き、急に俺は目のやり場に困った。
 ミロゥは脇にダイナが今朝方着ていた服を抱え、手には湯気の立つ茶を載せたお盆を持っていた。
 よろよろと歩く彼女を見て俺が心配していると、予想通りに彼女はその茶をぶちまけた。
「あちぃぃぃ!」
 カレンとネッツはすでに退避している。熱湯の被害にあったのは俺だけだった。
「あああ、ご、ごめんなさい! 大丈夫でしたか?」ミロゥという少女がタオルを持ってきて俺の体を拭いた。
「素敵でしょう。バランサを調節してときおり転ぶ仕様に変更したのですよ」ダイナは満足そうに頷いた。「ドジメイド、というわけですな」
「素敵ね!」カレンは燃えるような瞳で拳を握り締めた。きらりと眼鏡が光る。「でも、こんなことがしょっちゅうあったら、さすがに面倒じゃない?」
「ええ、その通りですぞ。ものを運ばせられませんのが欠点でございますな、ははは」
 はははじゃねえよ。
 かくいう俺はというと、また目のやり場に困らされていた。ミロゥが俺の体を拭くのは良いのだが、やたら顔やら体やらを寄せてきたり、下半身を拭くのにいちいち跪いて上目遣いでこちらを見て「熱くはありませんか」と尋ねてきたり、自分の(大きく開いた)胸元に俺の頭を抱き寄せて拭いたりするのだった。
「いや、いい、自分で拭くから。大丈夫だ。離してくれ」
 俺がミロゥを押しのけようとすると、
「な、なにか至らない点がございましたか……?」と彼女はうな垂れた。
「あー!」
 ネッツが急に大声を上げた。
「今度はどうした?」
「その娘と私のキャラが被ってるよー! どうしようクロノ!?」
「知るか! 勝手にしろ!」
 そのとき、突然爆風が俺の頭を撫でた。振り返ると家の壁に巨大な穴が開いている。その正面で拳を突き出したカレンが、慌てたように手を背中の後ろに隠した。
「ねえクロノ、いまミロゥが着てる服もちょうだいって交渉したら夜の相手をしてくれたらとかその変態に言われたんだけど、それでちょっとこっちに擦り寄ってくるような動作を見せたから、ちょこっと魔術使っちゃったんだけど、これって、正当防衛よね?」
「どうみても過剰防衛だ! せめて少しは加減しろ!」
「やれやれ、あなた方は私の家を破壊しに来たのですか?」ダイナが俺の背後から現れた。ぴんぴんしている。不死身か。「何をしに来たのかがまったく理解できませんな」
「お前が人形なんて盗まなければこんな手間はないんだよ! もうこれ以上叫ばせるな!」
「はて? 人形?」ダイナは首をかしげる。
「そこの派手な服をきた女の子のことだ!」
「さきほどから言っているではありませんか。彼女は正真正銘の人間ですぞ? 私のいとこです。隣に引っ越してきて、いまでは家ぐるみの付き合いで両親公認という、まこと理想的なシチュエーションでございまして」
「バランサを調節したとか言ってたじゃねーか」
「さっきは姪って」ネッツが言った。
「てゆーか設定がごっそり変わってない?」カレンが目を細めた。
「はっはっは」
「いや笑ってねーでよ」
 突然、ミロゥが慌てだした。ぽろぽろと彼女の腕あたりからなにかが落ちている。それは細かい金属だった。ネジやらナットやらが床にころころと転がった。彼女はそれを落ちる前に拾おうとするが、指の間からすりぬけていく。そして、ごとん、とひときわ大きな音がして、彼女の手首から先が床に落ちた。「わわわ」と慌ててそれらの部品を拾い上げて、ちゃかちゃかと自らの腕に付け直す。
「…………」
 無数の視線に晒されて、ミロゥは居心地悪そうに体を縮めて、ごまかすように照れ笑いを浮かべた。
「かわいー!」
「やっぱ被ってるぅ!」
「うむ! ジャンルとしては少々レトロな感じはしますが、こんなキャラもまだ需要はあるでしょう。我ながら敏腕ですな!」
「がー! おまえら少し黙れねーのかー!」
 ストレスで胃に穴が開くのも時間の問題だ。

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「そんなわけで、ダイナ氏宅で人形らしきものの存在は確認できました。確証は得られませんでしたが、ヒムロ翁の描かれた似顔絵と酷似していたので、おそらく間違いはないものかと」
「おお、ご苦労であった」
 謁見室の奥、上座にあたる場所で、籐の簡素な椅子に腰掛けたヒナ王は、目の前の書類の広げられた机から顔を上げて言った。
 現在は夕刻というよりは既に夜。定例会が終わり、夕食が始まる前の、気の抜ける時間帯だ。謁見室には、俺とヒナ王、ヒムロ翁のほかには数名を残して各々自室へと引き返していた。
「はっきりと分からないのでは仕方がないな。以後はダイナ宅に対しては、定期的な観察と訪問を行うにとどめておくことにしよう」
「それで十分でしょう」ヒナ王の後ろに控えるヒムロ翁が抑揚のない声で言った。「あの変人が危険物を管理してくれているというのなら好都合。……正直な話、あんなもの、城内はおろか、国内にすら置いておくべきではありませぬ。先日の訪問の際に改めて感じましたが、ここ最近、キサラギの連中はいけすかんのです」
「まあ、そう言ってやるな。我が国とは交流の長い国なのだ。虫が好かぬ日もあろう、気の合わぬ世代もあろう。それは双方の理解が足りぬだけなのだ。分かり合えぬ相手などおらぬ」
 俺は二人の話を黙って聞いている。
「しかし、不可解ですな」ヒムロ翁はあごに手をあてて考えるそぶりを見せた。「こちらが人形を不要だということをダイナ氏が予測していたのは不思議ではないとしても、なぜあのようなものを欲しがるのでしょうな」
「さて。氏には妙なものを集めるという趣味があるようだしの。コレクションのひとつに加えたかったのではないか」
「クロノ。君はどう思う?」ヒムロ翁がこちらをまっすぐに見据えた。「彼と人形に直接会った君は、どんな印象を受けた?」
「そうですね……」俺はダイナの様子を思い出す。「ほんとうに、ただ、楽しんでいるだけという感じでした。愛玩具だと思います」
「そうか」ヒムロ翁は目元を少しだけ緩めた。「わしの考えすぎだな」
「ヒムロはいつも考えすぎなのだ。だからほれ、眉間のシワがとれんようになる」ヒナ王はぎゅっと眉間に力を入れてシワを作って見せた。「小言ばかり言うしな。だから嫁さんの一人ももらえんのだ」ヒナ王はにやりと笑う。
「わしよりも」強い口調で言い、ヒムロ翁はばさりと書類の束を机に置いた。一枚一枚に顔写真とプロフィールが記載されている。「王の相手が先でございますな。聞きましたぞ、わしがキサラギへ出張して留守なのを良いことに、見合いを断ってまた縁談のひとつを棒に振ったのだと」
「ヤブヘビか……!」ヒナ王の表情が引きつる。
「王も、もう適齢期。これ以上婚期を遅れさせては王の母君もご心配なさります。わしの相手がどうこうというよりも、あ、これ、どこへ行かれるのですか!」
「ぬしの話は長い!」ヒナ王は椅子を降りて机のこちら側へと回ってきた。「私はそういうのはよく分からんのだ!」
「分からんでは済まんのです! 跡継ぎはどうされるおつもりです! 今回の相手はキルマの国王なのですぞ! 周辺国家に、名君ここにありとうたわれるほどの――」
「四十過ぎのじじいに興味なんぞないな!」ヒナ王は俺の手を取って駆け出した。「行くぞクロノ。あんな小言じじいの影響を受けて君まで小言を言うようになってはかなわん」
 背後でヒムロ翁が叫ぶ。「王! 話は最後まで――」
「夕飯が冷める! 業務で腹が減った! ヒムロもいつまでもそんなところにいるでない。いらぬのなら給仕にそう言っておくぞ?」
「じじいだの腹だの、そんな言葉を使うのではありませぬ! 王たるもの、言葉遣いには十分留意して――」
 俺とヒナ王に続き、最後にヒムロ翁が飛び出て、無人になった謁見室があとに残された。

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 蛇足になるかもしれないが、面白いエピソードがあるので、そこまで記して、ひとつの区切りとしておこう。

 ダイナによる人形盗難が起こった、その二日後のことになる。

 俺とネッツは、以前彼女が住んでいた林へと足を運んでいた。
 以前の彼女の家――というには抵抗があるが――を撤去するためである。
「ネッツ、好い加減、自分の部屋をもってそっちに住んでくれよ。使える部屋だって余ってるし」
 うーん、とネッツは曖昧に笑った。「もうちょっと。駄目?」
「……あとちょっとだからな」
 彼女は隠しているつもりらしいが、ネッツは人間が苦手なのだ。正確には、苦手な人間もいる、ということになるのだが、その判断基準はいまいち不明瞭である。新しい環境だ、気心の知れている人間と一緒にいたいと思う気持ちは分かるが、部屋の広さは半分になるし――ネッツと同室だと、いろいろな問題が発生するのだ。いろいろ。いろいろ。
「あれ? 誰かいるね?」
 俺が阿呆みたいにいろいろなことを思い出して赤面している横でネッツが鼻をすんすんとやりはじめた。
「あ、この匂い」
 急に地面を蹴って、木々の間をすり抜けて走っていく。今日の彼女は、ダイナから譲り受けたひだ入りスカートに、胸元にリボンのある服を着ている。そのふさふさのしっぽを出すためにお尻に穴の開けられたスカートを翻して、あっという間に紺色の姿が遠ざかる。
「あ、おい、待てよ。どこに行くんだ?」
 俺は必死でネッツの後を追っていく。
 開けた場所に出た。樹上にネッツの家がある、あの場所だ。
 そこにはネッツと――意外な人物がいた。
「ネッツ。なにを――」驚きで俺の言葉が続かない。
 ヒムロ翁である。
 自分のみぞおちほどの背丈しかない少女の頭に手を置いてわしゃわしゃと撫でていた手が止まる。ネッツのあごのしたを掻いていた手も。
「……」「……」
 時間が止まったような錯覚。
 唯一、ネッツのしっぽだけがぱたぱたと音を立てて動いていた。
「そういう趣味が――」
「いや! 待て! 違うぞクロノ!」
 ヒムロ翁はばっとこちらへ振り返った。「やましいことは一切ない! ときおりここへ来て彼女へ食事を与える、それだけだ!」
「ネッツはいろいろ知ってるみたいでしたけど……?」
「いろいろとはなんだね!」
「撫でるの終わり?」ネッツが寂しそうに尋ねた。
「まだ足りんか? よしよし……」
 反射的に撫でてしまった手を引っ込めて、ヒムロ翁は太い咳払いをした。
 かなりキモいじいさんであった。
「とっとと話さぬか」
 俺はネッツとであったときの様子をヒムロ翁に話して聞かせた。
「そうか、それは二人に誤解があるな」
 ヒムロ翁はネッツに向かって「その続きをやってあげなさい」と優しい口調で言った。
 ネッツは俺の前に立って、なにをするのかと思ったら、いましがたヒムロ翁にされたことを俺にしただけだった。頭を撫でてあごの下を掻く。
「どお?」ネッツが聞いた。 
「あごの下なんて掻かれても人間は別に気持ちよくはないよ」
 勘違いして恥ずかしいやらがっかりするやら、妙な気分だった。

「自慢ではないが、実家には八匹の猫と三匹の犬と五匹のハムスターと一匹の亀を飼っている」
 ヒムロ翁は誰にも言うなと、小動物ならそのひとにらみで殺せそうな目つきで言った。
「本当に、ネッツには何もしていないんですか?」
「情けない話だが私の生殖機能は十年以上前から機能していない。……そもわしは彼女をかわいい娘のようなものだと思っている」
「それじゃあ……、ネッツに質問だ。……子供はどうやってできるか知っているか?」
「え? は……、橋の下のダンボールから生えてくる……?」ネッツは自信なさげに答えた。
「カビかよ」
「だって知らないんだもん」
「見たことか」ヒムロ翁が呆れたように言う。
 納得のいかない俺は、本当に知らないのかどうかを確かめる方法を考えた。
(見れば良いのでは? その反応から推測ですよ)
 そうかその手があったか。
 俺はそのスカートの裾を掴んでばっとめくりあげた。
「なにするの? 恥ずかしいよ……」
 ネッツは頬を染め、すこし足をくねらせるだけで抵抗らしい抵抗もしない。
 スカートからゆっくり手を離して、俺は垂れた鼻血を拭いた。
「いまの台詞はびっくりしたぜ……」
「わしがびっくりしたというのだ」目の前に火花が散った。頭をヒムロ翁に殴られた。なんてバカ力だ。「いまの行動でなにが分かるのだ阿呆が」
 俺はどうかしていたらしい。額をごつごつと叩いて今の行動を忘れることにした。しかし、なんであの変態の声に惑わされたんだ俺は? そこには確かに操られたような、逆らえない強制力があった。
「しかし……そうか。クロノの計らいでネッツは屋敷の給仕として働いていたのか」
「ヒムロ翁が出張中に決まったことですから」後頭部をさする。心なしかこぶになっているような気がした。
「わしも……、わしが、そうしてやるべきだったのだ。なぜ、できなかったのだろうな……」
 ヒムロ翁は少しだけ呆然とした後、ネッツへと向き直った。その顔つきは、普段ヒナ王の後ろに控えているときと同じ顔だった。
「いまさらになるが――歓迎しよう、ネッツ。ようこそ王国ヴァルクへ。君を給仕として認め、今後の活躍に期待しよう」
 ネッツは微笑んだ。「ご期待に応えられるよう、努力することを約束します」
 ヒムロ翁は満足げに頷き、深く呼吸をして背筋を伸ばした。高い身長がいっそう際立った。そして踵を返し、背を向けたまま翁は言った。
「ではクロノがいまネッツに行ったことを王に報告してくるとしようか。否、カレンあたりに言えば君は数日はベッドで過ごすことになるかな」
「しかしヒムロ翁の趣味がネッツだとは驚きましたね。なるほどそれなら用意される見合い相手に見向きもしないのにも納得です」
 ヒムロ翁はゆっくりとした動作で俺に振り返る。よく言う、目だけが笑っていない、という状態だ。
「……言うものだな、少年」「やられたままは性に合わないもので」
 俺と老人の間の空気が重くなる。
 一触即発な空気の中、ネッツは、樹上の昔の自分の小さな小屋を眺めてつぶやいた。
「いままでありがとう。……いってきます」

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「え? ダイナ氏が人形を盗み出した方法ですか?」
 リコは夕食をリスみたいに頬にぱんぱんに詰めている。よくそれでしゃべれるものだ。
「現状がどうなっているのか、よく分かりません。説明してくれるとありがたいのですが」
 リコは俺の話の間、相槌も打たずにずっと食事に専念していた。話が終わっても食事はまだ途中だった。
「ダイナ氏は、確かにバランサを調節した、と言ったのですね? あとそれ、思考ルーチンも弄ってある可能性がありますね。災害救助ロボットに必要最小限以上の言語能力は必要ありませんから。彼、エンジニアでしたっけ? まあ良いですけど。ダイナ氏は、その人形の設計段階から関わっているか、相当に深い造詣を持っています。……え? 知りませんよ。昔はキサラギに居たとか、そういうんじゃないんですか、興味ありませんけど。
 魔力炉に遠隔から魔力を送り込むときは、あらかじめ個人の魔力を炉に登録しておく必要があります。登録してある魔力以外は炉が弾いてしまいます。自分の魔力をすでに炉に登録しておいたか、あるいは強引に捻じ込む方法を知っているのでしょう。それで人形を動かして馬車から飛び出させた、と。
 彼が人形使いであるなら、自分に似せた人形を遠隔で操作して手品をやらせるくらいはわけないでしょう。まあ、どっちがどっちの役割を負ったかなんてのはどうでもいいですが、とにかく、布を被せた暗闇に乗じて梱包してある箱を破壊、布を取り去るときにその布に包まれるようにして隠れて、ひとごみに紛れたのではないですか。……いえ、ただの予想です。この過程とは異なる可能性も大いにあります。もしかすると、この一連のどこかに彼の魔術が用いられているかもですね。
 前言撤回です、やはりすこし興味が沸いてきました。聞けば彼の家は収集物であふれているというではないですか。どんなものか、一度見てみるのも悪くはないですねー……」