『アレルヤ』

『アレルヤ』

著/姫椿姫子

原稿用紙換算80枚


1.

 普通、人を殴ったりするときは、相手に対する怒りや殺意だとか、殴るに至った経緯を反芻し、原因を思い出して悲んでいたりする。膨大で莫大な負の感情があふれ出て暴発し、抑えきれなくなった発露として、暴力という攻撃に至るのだ。
 翻って、攻撃をしている最中に、例えば正の感情があるのかと言えば、ある。
 嗜虐嗜好主義者がそうだ。殴りつけて痛めつけて制圧して、相手の苦痛にゆがむ表情とか悲痛なうめき声とか全てが栄養となってしまう、という変態も世の中にはいる。
 多かれ少なかれ、戦闘を媒介にいくらか興奮しているのは確かだ。
 それなのに、僕の場合は冷蔵庫にある牛乳の賞味期限を考えたり、数学の相加相乗平均を使って解法を導き出したり、明日はマンガの発売日だとか、全然関係のないことばかり考えている。そしてもう片方では、手が痛くて脚が痛くて殴る度に熱を帯びてきて痺れてゆく身体のことを慮っている。
 思い切り人を殴り飛ばして蹴っ飛ばしたとき、こちらも殴り飛ばして蹴っ飛ばしたなりに、拳や脚が心臓の鼓動に合わせてずきずきと痛んで皮膚が脈動する。マンガやゲームみたいに都合のいい話はそうそう無い。相手を痛めつけた分の痛みが、僕の拳や脚に帰ってくる。痛みは等価交換されるのだ。
 こうなったときに、ぼくはああ生きちゃってるなぁ、血が流れてんだなぁとか思ってしまう。僕はサドなんだろうか。痛くて気持ちいーって訳ではないから、たぶんマゾではない。そしてサドでもない。
 純粋に痛みを感じて、その痛みを相手と分かち合ってるのだ。
 たまに、これは痛めつけた相手に対する贖罪の痛みなのかもしれない、とか宗教的なことを考える。例えば僕に殴られ、負けたことで、彼らは職を失い路頭に迷う。場合によっては身体が壊れ、障害を持ち、死ぬ。
 そういった不幸が、不幸を与えた僕自身に返ってきてるのではないか。汝、左の頬を叩かれたら右の頬を殴りかえせ。そんなん。
 でもそういったリスキーな道を選んだのは彼ら自身だし、そういうのはお互い様だろう、と僕は結局同じ地点に戻る。僕はラビでもなければクリスチャンでもない。
 そういう良心の呵責といったたぐいの感情を抱くけれども、僕は社長に言われてやっているだけだから、普通の私闘や乱闘や喧嘩にありがちなイデオロギーなんかの精神ダメージは微塵もない、ビジネスなのだと割り切って考えるようにしている。そうしないとどんどん鬱屈していくからだ。僕は悪人には向いていないなと思う。
 目的の人物が現れたら前に立ちはだかって「○○さんだな」本人確認をすると、ご多分に漏れず、「そうか、てめえがオカザキのか」にやりと笑いながら、必ずみんな同じことを言う。体格のいい背の高い男がネクタイを緩めながら僕と○○さんの間に立ちはだかる。
 で、僕は一気に詰め寄って、上着が脱ぎかけで両手がふさがっていてがら空きの顔面に両手でパンチを一ダースほどお見舞いしてから、両膝に正面から蹴りを入れて膝を破壊して用心棒だか護衛だかを倒す。
 するとようやく○○さんの表情が引きつるのだけれど、その頃には僕の後ろから体の一部が欠けている(特に指先とか)お兄さんや背中がイラスト入りでカラフルなお兄さんや、顔にひっかき傷があるお兄さんとかが現れて○○さんを取り囲んで車の中に連れて行く。その様子を見届けてから、後方で待機している社長が乗った車のところに行き、後部座席の扉の前で僕は待機する。
 程なくしてパワーウィンドウが降りて、社長が――お兄さんたちは組長とか呼んでるけど、怖いから呼んでいない――顔を出す。
「ごくろうさん」社長が僕を労ってくれる。「相変わらず強いなぁ、ヒロカズ」
「いえ」僕は居ずまいをただしながら目を伏せて言う。「ありがとうございます」
「おかげさんで、俺もだいぶ楽に仕事が運ぶわ。感謝してる」
「ありがとうございます」
「そうかしこまんなくていいよ、楽にせいよ」
「そうですかね」
「いいんだ、いいんだ」からからと笑って、社長は言う。「おまえは可愛いし、強いからな。俺はおまえのこと気に入ってんだよ」
「ありがとうございます」
「これからもよろしくな」
「ええ、こちらこそ」
「いつものはウチのヨシ坊に渡してあるからな、受け取ってくれ」
「ありがとうございます」
「ほなな、お疲れさん。ゆっくり休めや」
「失礼します」
 磨き抜かれたベンツが動き出し、夜の繁華街へと消えてゆく。
 それを見送って、僕は反対方向へと足を向けると、大きな交差点の信号の下に、姿勢のいいスーツ姿の男が立っていた。社長の言っていたヨシ坊氏だ。
 でも社長と同じくヨシ坊なんて呼べないから、僕はヨシさんと呼ぶことにしている。
 近づいてゆくと、ヨシさんはにこりと笑って、懐から包みを取り出すとそれを僕に渡してくる。「どうも」と言って受けとって、後ろのポケットにつっこむ。
「やるじゃない、いつもだけど」ヨシさんはたばこに火をつけて言う。「学校やめてウチこいよ。組長と俺が可愛がってやるから」
「考えときます」
「いつでも言ってきな」
「ヨシさんはもう上がりですか」
「おう。これから後いくつか店回ったら、それで今日はハケるな」
「そうですか」
「なんだよ、俺と遊びたいのか?」
「あ、や、そんなんじゃないですけど。……社交辞令ですかね」
「はっはは」ヨシさんが笑う。「そんな難しいこと考えなくてもいいよ。俺と遊びたかったらそう声かけてくれればいいんだし、何も絡みたくなかったら、何も言わないでとっとと帰っちまえばいいんだよ」
「そんなもんですか?」
「おお、そんなモンだよ。まあ、そういう慇懃なところが、お前の可愛いところだよ。謙虚なのは大事だ」
「僕もそう思います」
「そうだろ? 最近の若いやつは、礼儀から教えなきゃいけないからな。色々めんどくさい」
「ヨシさんも大変ですね」
「ああ、すっげえ忙しいな」
「あー、えっと、それじゃあ、お先に失礼します。お疲れ様でした」僕はお辞儀をする。
「はは。おう、お疲れ。気をつけて帰んな」にこにこと笑いながら、たばこを持った手を振って、僕を見送ってくれた。
 そして僕は地下鉄の階段を下りて、連絡通路を経由しながら私鉄に乗る。終電に乗って、僕は家路につく。
 まあそんな学生生活を送っている毎日。だいたい学生らしからぬ。
 学生が生きる喜びを感じる瞬間なんて腐るほどあって、まさしく青春を謳歌しているわけだし、もう生きる喜びどころか活力があふれ出すぎて毎日困っちゃうわけだ。
 僕は学生にしては法外とも言えるお金を稼いでいたから、もう遊びまくりだ。すごく悪いお金なんだろうけど、そのあたりはあんまり気にしないことにしている。深く考えないのもまた僕たちの年代の特徴かもしれない。
 とはいえ、学生の金の使い方なんてたかがしれてるわけで、全部使い切ることなんてまずない。ゲーセン行ってカラオケ行ってご飯を食べて、僕はそのほかに本を買って服を買って、まあそんなところか。あとは生活費、それで余ったらタンス貯金。
 夜の仕事を終えた次の朝。
 目覚ましとともに起きて、トイレ行って顔洗って歯磨きして、着ていたものを脱いでついでにその辺に転がってる服とかもかき集めて全部洗濯機につっこんでまわす。ゴウン。
 着替えて、さて食事はどうしようかと悩む。あんまりおなかがすいてない。冷蔵庫を開けてパックジュースを取り出して、スニッカーズを発見。これでいいや。
 まとめて鞄につっこんで、鍵を持って電気を消してローファーをつっかけて外へ出る。
 扉を開けるとわずかに熱気が流れ込んでくる。
 空はあざやかな青色だった。雲もこれ以上ないほど白くて高い。
 明日から夏休みだ。

 終業式が終わって、教室に戻ってプリントをもらって、教師からありがたい――本当にありがたいと思っているのは何人いるか知らないけど――薫陶をいただき、そして解散。
 片付けながら考える。
 さて、明日から何をしようか。
 手始めにツタヤに行って、『ER』でも借りて徹夜をしようか。コンビニでお菓子や飲み物を買い込んで、ずっとビデオを見ようかな。
 そんなことを考えていたら、前の席の秋山誠がぐるりと体ごと振り返って「おい、明日、何持ってくよ」話しかけてくる。
 秋山は中学以来の腐れ縁で数少ない友人の一人で、その上部活まで一緒で、つまり仲良しさんなのだ。
 でもそんな仲良しさんの言っている意味がよく分からなかったから、「明日って、何が」僕は聞き返した。
「おいおい、ちょっと、頼むぜ副部長」
「だから何を……あ」唐突に思い出す。「合宿か」
 眼鏡の向こうにある黒目がちな目を見開いてありえねーって顔をされる。そして溜息のおまけ付き。
「そうだよ、それだよ。本当に頼むぜ、大丈夫かよ」
「いや、まずかった。危うくツタヤに行ってビデオ借りまくるところだった。誠くんサンキューって感じだよ」
「おいおいおい、マジ頼むぜ」
「そうだな、合宿。うん、合宿だよ。それで、何だっけ?」
「だぁから、何持ってくかって言ってんの」
「そうだね、……そう、何を持って行くか。合宿だもんね、なんかゲームとか麻雀牌とか花札とかトランプとかウノとか将棋とか囲碁とか持ってかんとね」
「おおいいな、それ。全部持ってこうぜ」
「全部かよ」
「四泊五日もあるんだぜ、そんくらいないと飽きちゃうぜ」
「そだなぁ、そんくらいやるかもな」
「泊まるトコどこだっけか」
「ちょっとまってみ、確かパンフあるよ」そういいながら机の中を探してみる。『夏季合宿』とシンプルかつ明白なタイトルが打ち出された、紫色の表紙の冊子が出てきた。制作は隣のクラスの山田多恵子と桂謙作。なかなか見やすい装丁で、二人の才能を感じずにはいられない。
「ベイビーちゃんとカツケンが作ったんだっけ?」誠が聞く。
「そうだけど、たえちゃんのことベイビーとか言うと、お前また蹴っ飛ばされるぞ」
 以前、誠は文化祭の準備中、巷ではベイビーちゃんと呼ばれている山田多恵子(ただ単に童顔だから)を呼んだとき、忙しすぎて「カモンベイビー」とかあまりにも気の利いたことを言い過ぎてしまい、怒った多恵子に左上段回し蹴りの不意打ちを食らわされて倒れて、その上、下段かかと蹴りを顔面に入れられて鼻骨がひしゃげて鼻血が吹き出てしまったことがあった。
 誠の眼鏡が、壊れてるわけでもないのにレンズが斜めになっているのは、鼻の根本が曲がってしまっているためにブリッジの高さが合わなくて、互い違いになっているせいなのだ。ちょっとかわいそうとか思うけど、発端は誠だから、誠が悪いに違いない。
「その二人な、最近付き合ってるって」
「え、本当に? そりゃめでたいね」
 和気あいあいとパンフレットを制作する二人の姿が目に浮かぶようだ。
「でもさでもさ、二人ともちっさいからさ、付き合いだしたら、なんか小学生の冗談カップルみたいじゃね?」
「……それ二人の前で言うなよな」
 僕はパンフレットをめくりながら言う。
「あ、あった。『魚民亭』だってさ、温泉広い」
「見せて」誠にパンフレットを渡す。「うお、本当だ。すっげえ、いつでも入れるとよ」
「いつでも汗流せるのはありがたいね」
「確かにそうだ」
 そこで、思いついたように宙を見上げてから、誠が僕に言う。
「お前もしかして、泊まる支度とかしてないだろ」
「むむ」思い出したのは確かに今だったのだ。準備なんてしてなかったと思う。「やばい、すぐ帰って支度しないといけない」
「道着の下だけ忘れてどうしようもなくてスパッツはくことになってみ。一人だけコマンドサンボでめちゃくちゃ恥ずかしいぞ」
「そだな。……てことはなにか、今日クラブミーティングじゃないか?」
「……そうだよ。お前、そのことまで忘れてたの?」
「やばいやばい、どうにかしてるな」だいぶ焦ってきた。「悪い、今日のミーティング、欠席で。誠代わりにやってくれよ。僕支度しなきゃ」
「しょうがないな、本当に。すぐ帰れよ」
「悪い、よろしく」
 鞄を抱えて、小走りに昇降口に向かった。
 家に着いてから、鞄の中を開けて、「あちゃあ、やっちゃった」ひとりごちる。
 中から、どろどろに溶けてナッツとキャラメルとチョコレートに分離しているだろうスニッカーズと、すっかりぬるくなってしまったジュースを取り出して再び冷蔵庫に放り込み、中からよく冷えた野菜ジュースのパックを取り出してすすった。


2.

 毎年、空手部夏季合同合宿ということで、同系列の町道場と高校と中学部とで、山奥にある旅館に泊まりながら四泊五日でそろって稽古をするわけだけれども、自然な流れで夜は親睦会になって、それぞれ思い思いに夜を楽しんでいた。
 当の僕たちは、ウノと大貧民を混ぜたウノ貧民という壮絶な特殊ルールのカードゲーム(実際にウノとトランプのカード同士を交ぜて行う)を行っていて、最下位交代のルールでまさしく最下位になったりしていた。
 手持ちぶさたになってしまった僕は旅館のロビーにジュースを買いに行った。午後の紅茶ミルクティー。
 自動販売機の前にあるソファに腰掛けて、缶のプルトップを開けてじゅるじゅると啜っていると、斉藤真奈美が現れた。
 黄色いキャミソールにジーンズ、ビーチサンダルといういでたちだった。華奢なシルエットと長い手足が否応にも分かった。
「こんばんは」小首をかしげて会釈してくる斉藤真奈美。「お疲れ様です、カズさん」
「お疲れ様、真奈美ちゃん」
 斉藤真奈美は中学部の三年生で、去年この部活に入ってきた。入部した頃は何かと僕にまとわりついてきたのだけれど、最近はおとなしくなってきていた。そして、最高学年になって敬語も覚えたようで、言葉遣いがだいぶ綺麗になっていた。
「何一人しんみりしてるんですか?」
「しんみりなんてしてないよ」
「哀愁漂ってましたよ」
「げ、まじで?」
 斉藤真奈美が自販機に小銭を入れて、ボタンを押した。午後の紅茶レモンティー。
「あっつう」取り出した缶を持ち替えて、手を振っている。
「え、なにそれ、ホット?」
「あったかいの好きなんですよ」
「うわ、信じらんねー」
「あったかいの飲むと落ち着きません?」
「でも夏には飲みたくないよ」
 斉藤真奈美が隣に座って、右の親指と小指で、缶の頭と尻を持ってぷるぷるとふっている。
 僕もじゅるじゅると引き続きミルクティーを啜った。
「おっさんくさ」斉藤真奈美が笑う。「てか、おじいちゃんぽい」
「こうやってちびちびやるのが粋なんだよ」
「だせえです、めちゃくちゃ」
「言うねえ」僕は言って、笑い飛ばした。
 ようやく斉藤真奈美も缶の蓋を開け、やっぱり先端と底を指で挟みながら、でも今度は両手で缶を持って、少しずつ口をつけて啜った。
「おばんくさ」言い返してやった。「背中丸めてるとこなんて特に」
「あっついんですよ。やけどしちゃう」
「違いない。ゆっくりやろう、ジジくさく」
「ジジくさいのは先輩だけですって」
 そうして僕らはげらげら笑って、二人で並んで午後の紅茶をじゅるじゅると音を立てながらゆっくりと飲み干した。
 缶を捨てようと立ち上がろうとすると、先に立ち上がった斉藤真奈美が僕に手を差し出してくる。
「缶、捨てますよ」
「ん、ありがと」
 見上げながら缶を渡すと、斉藤真奈美はまた小首をかしげて、にこりと笑って受け取った。
 でも両手に缶を持ったままうつむいて、缶と缶を打ち付けたりして玩んで、なかなか捨てに行かなかった。
 僕も何となく、両手を後ろについて足を伸ばして天井を見ていた。
「真奈美ちゃんさぁ」
「はい?」真奈美はぎこちない仕草で顔を上げた。
「結構足長いよね」僕はさっきから思っていたことを口にした。もっとも、間が持たなかったから、苦し紛れに吐いたただの言葉だった。
 そんな何気ない言葉に、斉藤真奈美ははにかんだ。
「えー、どこ見てんですか、もう」
「いいじゃん。長いことはいいことだよ」
「そんなことないですよ」
「でもその方が綺麗じゃない?」
「えー……」
 両手を後ろに回して、うつむいてしまった。
 僕もまた天井を見る。
「カズさん」
「ん?」斉藤真奈美に言われて、僕は顔を戻す。「なに?」
 そこで、斉藤真奈美がなにか話そうとして口を開きかけた時。
「あー、こんなトコにいたー!」
 ロビーに甲高い声が響き渡り、僕と斉藤真奈美はそちらを見やる。
 女の子が集団で居た。中学部の女の子が五人ほど。二年生の斑鳩雲母、一年生の石動偲信と五十嵐五十鈴、あとはわからない。
 斉藤真奈美は、軽く肩を落として、「それじゃ、お疲れ様でした。お休みなさい」と言ってきびすを返し、ゴミ箱に缶を捨てて去っていった。
「なんですかなんですかぁ、サシロノ先輩。もしかして真奈美さんとイチャついてていい雰囲気だったんですかぁ?」
 斑鳩雲母がそんなことをいいながら近づいてきて、ほかの娘も続いて、瞬く間に囲まれてしまった。
「イチャついてねー、一緒にお茶してただけだし」
 きゃあきゃあとかしましい女の子たちと、僕はしばらく話をした。

 話が一段落付いた頃にちょうど良く見回りの時間が来たのでお開きにして、僕は簡単に見回りをして、自分の相部屋にいる小学生たちに号令をかけて消灯させて、誠たちの部屋に戻った。今度は囲碁とオセロをチャンポンにした謎のゲームをしていた。本格的によく分からなかったけれど、なんだかんだで観戦してしまった。一時間半が経過した頃、手詰まりになった誠が囲碁盤をひっくり返して勝負なしとか言い始めてそのまま枕投げが始まったので、僕は自分の部屋に戻ることにした。軽く疲れていたから、あわよくば寝てしまう気でいた。
 僕の部屋の扉を開けると、ちょうど死角になる右側の壁に人がもたれかかっていた。髪の長い女の子。一年生の石動偲信だった。
 さっきは、僕とほかの女の子が話しているのを聞いて、相づちを打ったり笑ったりしながら、話の輪に加わっているように見えて、その実、半歩ほど下がったところにいた。ように見えた。思い過ごしかもしれないけれども。
「そんなとこでなにしてんの」僕は扉を閉めながら聞いてみる。「かくれんぼ?」
「えー、違うよー」手を後ろに回して、片足をぶらぶらさせている。
「え、じゃあ何してんの?」
「んー、なにかな、なんだと思うー?」
「え……か、かくれんぼ」
「だから違うってばー」
 ににに、とうれしそうに笑う石動偲信。
 ぼくもににに、と笑い返して、でも、よくわからないのと疲れがあったから、特に関わろうとしないで、石動偲信の前を通り過ぎようとした。
 すると偲信が、ぶらぶらさせていた足を伸ばして、反対側の壁に渡して通せんぼする。
「えっへへぇ」ずいと上半身を倒して僕の体の前に持ってきて、にぃ、と歯を見せて笑う。
 偲信の栗色の髪が、扇のように広がった。
「なにすんの」
「通せんぼ」
「見りゃ分かるって」
「あのね、私、ヒロカズくんと、ちょっと話しがしたいな」
「話?」僕は首をかしげて言う。「まあいいけど、そんなら……外出ようか。中じゃみんな寝てるし」
 小学生たちの寝息が聞こえてくる。
「えー、外ー?」
「なにかいや?」
「んー……」伏し目がちに、何かを考えているように見えた。「そ、やっぱいいや。いいです、今日は」
「ん? いいの?」
「うん」
「そう。じゃあ、僕もう寝るね。お疲れさま」
「うん」
 僕は畳を歩いて、一番廊下側に敷いた自分の布団に潜り込む。
「……」
 でも入り口のところに変わらず人の気配がする。まだ偲信が居るようだった。僕は布団の中で首だけ巡らして、そちらを見やる。
「どしたの?」
 聞いたけれど、彼女は答えなかった。色々難しい年頃なのかもしれない。
 僕はあきらめて首を戻して、目を閉じた。
 しばらくして、床を歩く音がする。そしてそれが畳の音に変わる。
 何だろう、と思っていたら、布団が持ち上げられた。そしてごそり、と何かが背中に当たる。
 偲信が布団の中に入ってきたのだった。
「……なにしてん」思わず聞いてしまう。
「布団の中に入ってる」
「……自分とこ戻りなさい」
「どうして?」
「暑いから」
「あたし寒い」
「嘘つけよ」
「ホントだよ。唇とか紫だよ」
「マジで?」
「マジでマジで。ちょっと見てみなよ」
 その場で回転。体ごと振り返る。
 見ると、偲信の額にはうっすらと汗が浮いていて、前髪が何本か張り付いていた。唇は、紫どころか充血して真っ赤だった。
「汗だくじゃん」
「汗だくです」
「何してんの、ほんとに」
 手を伸ばして額の汗を指でぬぐってやると、偲信はうつむき加減に首をそらせ、下唇を少しだけ噛んだ。そのしぐさに、僕が少しだけ躊躇していると、顔に触れている僕の左手を伝うように懐に潜り込んできて、そのまま留まるところを知らずに唇を合わせてきた。
 偲信が顔を離して、長くて短い一瞬が終わる。ピリオド。
「……何すんの」
「――さっき」
「は?」
「さっき、たえさんと桂先輩が、非常階段で……その、ちゅーしてて――」
「え、マジで?」
「……それで、――、……」
 そう言って、偲信は黙ってしまった。
 それでなんだっていうのだ。
 そしたらもう一回ちゅーしてきた。ダカーポ。歴史は繰り返す。
 でも今度は身体が動いた。偲信の肩を抱いて、素早く顔を引き離す。
「落ち着けよ、――き、気の迷いかなんかだ。たえちゃんと桂の小学生カップルのアレなトコ見たりしてちょっとナニな感じになってるだけだっ――」
「ちがうもん」偲信に遮られる。「あたしは、ヒロカズくんが好きだからだもん」
「へぁ?」
「ヒロカズくんが好きなの。だから、間違いとかじゃないの」
「……え、あ……そう」
「もっと喜んでよ」
「え。……って言ったって」
 するとごそごそと布団の中で服を脱ぎ始め、瞬く間に下着だけとなる偲信。そして僕に抱きついてくる。
「ちょ、待ておまえ。早まるな」
「ねえ――しようよ」そういって体をすり寄せてくる。わずかな非常灯の明かりが白い下着を浮き上がらせて、肌とのコントラストがスクラッチ画のように見えた。そんなことが脳裏をよぎる。でも余った部分は全然冷静じゃなくて、色んな言葉と思考が渦巻いていた。
「落ち着けお前。話をしよう、話はそれからだ」
「そんなのあとでいいよ、しようよ」
 そう言って僕の胸の上に這い上がって体を重ねると、伸びをするようにキスをしてきた。僕は顔を反らせて回避する。
「待てって」僕は偲信を押しのけて、自分の着ていたシャツを脱いで彼女にかぶせて着せる。「待ってください、お願いだから」そこでようやく偲信が止まる。最初のポジションに戻る。
「とりあえず落ちついてくれよ」僕は偲信の頬に手を添えて言う。「まず話をしよう」
 偲信は不満そうな顔をしていた。
「……何を話すの?」
「え、……じ、人生について」
「何それ」
「だ、大事だよ。もっと自分を大事に」
 ガンガンいこうぜだけだとクリフトがザラキマシンになるだけだし。呪文つかうな。魔法かっこわるい。
「あたし、ヒロカズくんになら、なにされてもいいもん」
 かいしんのいちげき。
「い、いいもんじゃないよ、よくないよ」
「ヒロカズくんはしたくないの?」
「いや、だって僕、今生理中だし」
 と、僕はこの後も様々な権謀術数を繰り広げ、のらりくらりと暖簾に腕押し、柳に風と受け流す、それはそれは技巧溢れる壮絶かつ凄絶な口論があった訳なのだけれども、僕は元々チキンな上に優柔不断、その上思春期真っ盛りで可愛い女の子なら誰とでもイイとか考えているくそったれガッデムヤローだったために、また最終的には泣き落としという卑劣かつ最強の兵器を持ち出され、なし崩しに僕と偲信はコトに及んでしまった。
 あとはよくある男女の営みの話だから省く。二人とも初めてだったこととか、偲信が血を流して、堪えきれずに涙をこぼしたと言うぐらいが、ある程度の情景を想像するのに必要十分な材料の一端ではないだろうか。
 そして最後に、布団の中で二人で汗まみれになったまま、もうろうとした表情で僕を見上げてくる偲信が、消え入るような声で「大好き」とささやいてきて、コトの半ばあたりから首の裏側がじくじくと麻痺してなんだか変な気分になっていた僕は、何の気はなしに「僕もだよ」と言い返してしまって、偲信と何回目だかのちゅーをした。

 その翌日。
 男子の中学三年生を筆頭にした中学生部員の一部が反乱を起こした。具体的には稽古中の素行不良とか、人の話を聞かないとか、つまり態度が悪くなった。
 最初は気がつかなかったが、注意した回数が六回を越えたあたりで、彼らの僕に対する視線に不穏なものを感じて発覚したのだった。
 原因を、色々なところから話を聞いてきた誠から教えてもらうと、昨夜僕がロビーで斑鳩雲母や五十嵐五十鈴たちにちやほやされていたのが気に食わないそうだ。
 その上、今朝トイレでは、反乱を起こした部員とは別の部員に出くわしてめちゃくちゃガンつけられた後、「先輩、真奈美となんかあるんすか」とか言われて、僕は何のことか分からずあっけにとられていると、「先輩だからってチョーシ乗んないでくださいよ」とか言われていた。その時点で気づけっていう話でもあるが、まあ敵の多いことだ。もしかするとすでに中学男子部員全員を敵に回しているのかもしれない。
「女の子が好きなら自分からちょっかい出せっつーのな、てめえの責任だっつの」
 さも当たり前のように誠が言った。
「そのあたり僕も賛成だなぁ。怒られるいわれがないよ」
「当たり前だっつの」
「どうしようか、これ以上稽古中に態度悪いと、ほかもギスギスするよ」
「しょうがないからシメんべえよ」
「んー、しょうがないかなぁ、シメるか」
 というわけで、僕と誠が主導となって、組手という名のシゴキを行うことにして、その日の午後、全身がアザだらけになって鼻血を吹き出して目の上が腫れてよだれを垂らして涙を流してもうカンベンしてくださいという降参の言葉も聞き入れないで殴り続けて蹴り続けて、稽古を始めて一時間ほど経過してようやく終わりにして、力で後輩を屈服させた。
 まあ最低の先輩であることはお互い自覚しているけれども、男子部員は力で屈服させるとそれなりに言うことを聞くようになって逆らわなくなって、指導や統率という面で言えば効果的であることを経験則で知っているがゆえ、仕方のないことだと割り切っていた。こういう輩は毎年少なからずいるのだ。お互い始末が悪いと思う。
 そのほかでも、部員やら道場生やらで告白劇があったり、友人同士、日常生活を送る以上に親密な関係を構築したり、逆に普段見えてなかった部分を見てしまってこれ以上ないほど険悪になったりしながら、良かったこと悪かったことひっくるめて、全ていつも通りに合宿は終わるのだった。


3.

 十月のはじめ、斉藤真奈美から電話がかかってきた。
 合宿以来斉藤真奈美は部活に来ていなかったから、久しぶりの会話となった。
 話が進んで、これから会えないか、と言われて、特に予定もなかった僕は、近くの市民公園で会うことにした。
 承前。
 彼女の家ではこのときすでに両親が離婚していて親権認定の真っ最中、未成年には重すぎる心の葛藤を抱えていて、すでにこのときから兆候があったと言えばあった。とはいえ、そんなことは言われなくちゃ気がつかないし、言われたところで本人の心の中のことなんて、他人である僕には刹那ほども感じ取ることは出来ない。
 たとえ彼女が心を開いていたとしても言語化できる感情なんてたいしたものでは無くて、自分の表現の範疇を超えたものこそが彼女自身が抱えているカルマであるから、ようするに僕がどうしていようと、両親が離婚してしまったということが起こってしまった以上どうしようもないことだったのだ。そう思わないとやっていられない。
 とにかく僕は斉藤真奈美と会った。
 そして斉藤真奈美とキスをした。
 ちなみに石動偲信との一件以来、僕は偲信と非公式な付き合いを初めていたから、これは立派な不倫になる。
 とかそういうのは全然考えてなかった。
 むしろこの時、斉藤真奈美が深刻な表情でさみしいと言っていて、僕が少しでも支えになれたらというお定まりの偽善を吐けば、斉藤真奈美といい雰囲気になってなんか出来るかなとか考えていた。とんだクソヤローだったのだ。
 でもこのときに斉藤真奈美と一線を越えることは無かったから石動偲信に操を立てることは、便宜上は出来たわけだ。
 でもしかし、それは斉藤真奈美がコトに及ぶことを拒んだと言うだけで、僕自身はヤル気満々だったから、その辺とことんクソなやつだと思う。
 まあ結果良ければ全てよし。
 このときから僕と斉藤真奈美との付き合いが始まった。
 となればやっぱりそれは二股で、のちのち修羅場が発生することは確定であるけれど、幸いなことにそんなことはなくて、斉藤真奈美とはここから半年ほど音信が途絶える。
 理由は、この二週間後、斉藤真奈美に彼氏が出来たからだ。
 僕自身残念と言えば残念だったが、まあ不倫はいかんよなぁ、と思い直して納得することにして、ともかくその場では結果オーライだった。

 週末のビデオ屋のバイトと社長の特攻隊のバイトが板に付いてきて、石動偲信ともそれなりにうまくやっていけて円満で、その上年末までに斑鳩雲母と五十嵐五十鈴から告白されて、「友達からなら」とか二人にへんてこな返事を返して、傍目にはどうやら三股が完成しかけていて、ここに来て僕の人生はピンク色街道まっしぐらだった。
 そんなロクデナシにも新年が訪れて、ハッピーニューイヤー。
 年が明けて、最初の寒稽古が始まった。
 寒稽古は山奥の、夏と同じ場所で行われるのだが、記録的な豪雪が関東地方を襲ったせいで、二十年前の漫画のような寒稽古になってしまった。
 川は凍って河原の岩にはつららが垂れ下がり、雪が降り積もって一面銀世界。外でエイシャエイシャと稽古をしようものなら、一分もたたないうちに頭に雪が降り積もる。手足はかじかんで真っ赤に染まり、部員はみんな悲鳴を上げていた。そんな中、誠は鼻水を垂らしながら声を張り上げて脚を上げていたから、僕も負けじと、氷よりも冷たい水が流れる滝を浴びてエイシャエイシャと稽古をして、後輩たちから尊敬のまなざしを一身に受けて調子に乗っていたら、稽古終了とともにインフルエンザにかかって三十九度の高熱を出して生死の境を行き来する羽目になった。お調子者にはバチが当たるのである。
 家で寝込んで、回る天井を見ながら、回る回るわはー、咳をしても一人とか悲しいことを考え始めてマジに死を覚悟し始めた二日目の朝から、石動偲信が看病しに通ってきてくれて、おまけに女房面をして食事を作ってくれたり氷嚢を作ってくれたり身の回りの世話を尽くしてくれて思わず胸きゅんな感じなのだけれど、そのときの僕は訳が分からないけれどとにかく不快で、甲斐甲斐しくて萌え~な彼女にさんざん悪態を付いてしまった。でも偲信はニコニコしたまま、ただはいはい返事をするだけで何も言わなかった。後で思い返して、見かけや年齢よりも随分オトナだと感心した。
 看病の甲斐あって始業式に出られたのだけれども、実は三半規管が狂いっぱなしで、まっすぐ歩いているつもりなのに、いつの間にか壁の方によっていってしまうという難儀な障害が残っていた。おまけにどうやら右耳が聞こえづらいのだ。
 医者は一時的なものと言っていたのだけれど、一週間そのままだったりして、だんだん心配になってきていた。
 でも七日目の六時間目の真っ最中、ちょうど化学の時間で炎色反応はリアカーナキケームラ云々という暗記の仕方をやっているときに大きなあくびをしたら、右耳の奥の方でゴロゴリゴキンという派手な音がすると、世界がぐるんと回転し、右側頭部に重力を感じてあわてて踏みとどまって、体を垂直位置に直すと、右耳が通るようになっていた。摩訶不思議。
 こうして、僕の身体はようやく、本当に全快したのだった。
 一方で、斉藤真奈美はすでに泥沼に浸かりきっていて、こちらに戻ってくることが出来なくなっている真っ最中だったのだが、僕はそんなことは微塵も知らない。

 斉藤真奈美から再び連絡があったのは、僕の学年が変わって五月の中頃。
 久しぶりと言ってきた斉藤真奈美は、半年前よりも落ち着いた様子だった。ちょっと変わったね、と僕は言った。
「なんで? 声で分かる?」真奈美が言う。「会ってないのにね」
「まあ何となくだよ」
 だいたい敬語を使っていない。昔の、入部してきた頃の斉藤真奈美に戻っていた。
「へえ、そうかな。変わったかな」
「適当だよ、社交辞令。気にすんな」
「ねぇ、これから会えないかな」
「え、これから? まあいいけど、どこで会う?」
「じゃあ市民公園で」
 こうして僕らは二十分後に感動の再会を果たしたわけだけれど、僕は感動と言うよりは驚愕を味わった。斉藤真奈美が変わったと思ったのは言葉尻だけではなくて、そして僕の考えは適当ではなくて的確だった。
 黒かった彼女の髪の毛は金髪になっていて、横にメッシュが入っている。服装も、パンク系というか、ゴスロリ系というか、僕にはよく分からない格好をしていた。以前とはだいぶ違う。でも聞くのもはばかられるようだったから、あえてそのあたりを聞くことはしなかった。泥沼は苦手なのだ。
「この後どうしようか」
「うーん、どうするの。どこで話しする?」
 それで結局コンビニで飲み物や簡単な食べ物を買ってから彼女の部屋に行ったわけで、それなりに非建設的な、ありきたりな世間話をした後、場の空気に流されて、僕と真奈美はセックスをした。
 特に感慨はなく、終わった後もお互いに淡々と話をして、だらだらとお開きになった。
 その日を境に、僕と斉藤真奈美は意味もなく頻繁に会うようになって、その度に意味もない会話をして意味もないセックスをして、よく分からない毎日を送っていたが、そうし始めてから一ヶ月がたっと、もう会いたくないと斉藤真奈美から言われて、再び僕と斉藤真奈美の関係は切れる。
 僕は、もう真奈美と会うことはないだろうと思っていたが、意外なところで再会することとなった。そして、また、真奈美の外見は変わっていた。
 今度の彼女は白杉の棺桶に入って死に化粧を施され、もの言わぬ骸となっていた。
 おいおい変わりすぎだろ。
 とは思わなかった。
 そして、悲しくも、なかった。

 低い抑揚のお経が唱えられるのを聞きながら僕は思う。
 僕はこのことを予想していなかった、と言えば嘘になる。
 ある日、斉藤真奈美とセックスした後、僕がジュースを飲んで彼女がタバコに火をつけているときに、唐突に彼女が言った。
「私、いま学校行ってないんだ」
「え、どうして? 登校拒否?」
「んーん、元々行かなかった。――ドロップアウトってやつ?」
「え、マジ? それ」
「本当本当」
「どうして?」
 すると彼女は溜まっていたものを吐き出すようにとうとうと語った。両親が離婚して家がぐちゃぐちゃで、慰謝料払うためにお父さんが余分に働かなきゃいけないほどで、学費を払う余裕はない、行きたいなら自分で稼げ、と言われた彼女は、高校に行くために働いているという。その為、中学も途中からあまり行かなくなってしまったそうだ。
 そう言った彼女を、僕は少しも信用していない。
 実際彼女は、友達から貰ったクスリでラリってただけで、仕事なんてしちゃいなかった。
 アウトローまっしぐらに走ってしまった彼女はヤクザの使いパシリだった男と仲良くなり、その男がクスリの販売を仲介していたから、二人で仲良くクスリを横流しして、それで私腹を肥やす方向よりも自分たちで使うようになってしまった。
 回を重ねる度、真奈美の摂取量は次第に多くなってゆき、ある日投与量を間違えてオーバードースになって、瞳孔が広がって鼻血を吹き出して心臓麻痺が起こって口から泡を吐いて、救急車を待たずにそのまま帰らぬ人となった。
 ちなみに横領がばれた真奈美の片割れは、幹部からケジメを取らされて両腕を落とされて目をつぶされて喉をつぶされて、でも未だに生かされている。
 後日行われた学校の集会で、彼女の追悼が行われた後、こうして死んでしまった原因は、彼女がふらふらと遊んでいたせいだと教師は言って、慎みのある行動を心がけなさい、と薫陶を入れた。
 でもそれはちょっと違うかなって僕は思う。
 彼女は好きで放任されているわけじゃなくて、それに自分から家族に向かって歩み寄るようなことはしなかったけれど、父親の不倫が原因で親が離婚してしまい、家がどたばたで親が子供にかまってやるヒマがなくて彼女はふらふら外を出歩いてよっぴきで遊んでいるのだから、管理しきれなかった親の責任が問われるところだ。それに第一、不倫なんてした親に歩み寄って、後からやってきた他人と家族面するのなんてなかなか出来ない。
 結局、どこに行っても僕たち子供は親に振り回される。夫婦喧嘩は犬も食わぬ。そういうのはよそでやってくれ。
 葬式を進行する役の人が、「それでは、真奈美さんに最後のお別れを」なんて言うものだから、部活の後輩や学校の友達や卒業してからの真奈美の友達なんかが泣き出して、順番に棺桶をのぞき込んで何かを言っていたから、僕も棺桶をのぞき込んでみた。
 すると突然、斉藤真奈美が、シャガ、と目を見開いて、眼球だけ動かして僕を見る。
 紫色の唇が、はきはきと元気よく動き出した。
「あなたのせいで、私は死んだわ」
 昔と同じだが、抑揚のない声で僕は文句を言われた。
「あなたが止めていてくれたら、私は死ななかったかも。あなたは私の左肘についた注射痕を知っていた。そこをつかんで握りしめて、私を後ろから犯していたから、感触はあったはず。私がトイレに行っているときに、あなたはラジカセの下の引き出しを何の気なしに開けて、何の気なしに手帳を避けたらポンプと針が出てきたのを見た。私と話をしているとき、私を見ながら、後ろのベッドの隅に乗った、折りたたまれた薬包紙を視界の端に留めていた。
 それら全てを、あなたは無視した。何に使うものなのか知らなかったんじゃない。知っていた。それ故にあなたは無視して、止めてくれなかった。私を殺したのは、あなただわ」
 僕は彼女が言い終わるのと同時に、斉藤真奈美の顔をのぞき込んで、限りなく顔を近づけて、ささやくように言う。
「死んだのはてめえの責任だ。人のせいにしてないで、とっととくたばれ淫売」
 棺桶の蓋が閉められて金の釘で蓋が打ち留められ、穏やかな表情のまま、彼女は霊柩車に入れられて、火葬場へと向かう。
 彼女が火葬場に運ばれて、焼かれる。
 白い煙が煙突から伸び、空に上ってゆく。確かに、天国への昇天を思わせる。でも斉藤真奈美が行くのは地獄だろうと僕は半ば確信する。斉藤真奈美は全てを蹴った。生きようとすることを止めてしまった。清くなくても、明るく生きようとせずに卑屈になってしまったから、そういうやつは、死んでからもろくな事にはなりはしないと思う。
 でも、菩薩如来が彼女の不幸な半生に同情して、ふとした気まぐれで彼女を救い出してくれたりすることがあるだろうか。それならそれが一番いいと、僕は思う。
 人間は死ぬまでに不幸を感じるのだ。そして死ぬ。死んでからなお不幸だなんて、思いたくない。
 だから人は、死後に幸福を思い描くのだろうか。そのために、生きている間に神を信仰するのか。人間は、生きている間に罪を犯すと、死んだ後に苦しむ、そう思っているから、生きている間に善行を積み、罪を作ってしまった者は信仰により免罪を乞うのだろうか。人は死ぬために生きているのだろうか。
 よく分からない。
 だって僕は今生きているからだ。
 神仏をないがしろにするつもりはさらさら無いが、生きているうちにどれだけ死んだ後の事を考えても、それは論理や証明が刹那ほども介在しない、机上の空論という哲学で終わってしまう。仕方がないから、お天道様に顔向けできないようなことは控えて、代わりに生きている間に善行を積んで、魂の質を高めることに終始するのだ。魂の質。
 でも実は、僕らが善行と思っていることは神様にとっては悪しきもの忌むべきものの極みであり、生きてる間に善行を積みまくった僧侶か誰かが一番ひどい目にあって、逆に人を何人も殺した極悪人なんかが神様にほめられて気に入られて、幸せな死後の生活を送っているとしたらどうなるのだろう。実は価値観は真逆で、お前らが生きてる間にしていることは、死んでからだと価値観が逆で、とんでもないことになるぞーって言ってやりたくても、もう死んでるから生きてる僕たちには教えることが出来なくて、あんまり悔しくて成仏できなくて幽霊とかになっちゃうんだ。そうだとしたらとんだお道化もあったものだ。死人に口なし。
 火葬が終わり、斉藤真奈美が骨と灰になってしまう。ここまでくると、もはや彼女の面影なんて少しも感じない。カルシウムのかけらとアルカリの砂からは、彼女の笑顔や柔らかな肉体は想像できない。現実感の喪失。こうして少しずつ人の精神はむしばまれ、やがて死に近づいてゆく。漠然とそう思う。
 骨壺に収めて、あとは納骨。
 僕はその後のことはよく覚えてない。
 でも、家に帰ったらどっと疲れたのは、よく覚えている。


4.

 高校に入学して上京して一人暮らしを始めて半年ほど経った頃、僕は遊ぶ金もとい自由に使える娯楽費を稼ぐためにビデオ屋でアルバイトを始めた。そこが外国映画や邦画を扱う健全なビデオ屋なら順風満帆だったのだが、同じ外国映画や邦画であっても、なんていうか青少年には好ましくない感じの内容で、まあつまり端的に言えばアダルトビデオをメインで扱っている店だったりして、店長は高校生と援交してるし、客は客で変態ばかりだし、その上来客ベルはリモコンローターだし、防犯用と備え付けで置いてあるのはキラキラと透明に輝くシリコンディルドーだったり、そのあたりがだいぶブルーだ。でも時間給千二百円と、家から歩いて五分という魅力に負けて、結局僕はそこで働くことにしたのだ。
 そんな猥雑な空間に慣れてきて年が明けて、一月。
 店長の友達だという男が店に来て、なんだかよく分からない話をしていた。
 何でも、腕が立つとか強いとか、そんな話だ。
 そして、いい加減な店長が、「そういえばウチにいるバイトくんが、なんか拳法やってるって言ってましたよ」とか言ってしまった。「ヒロカズくん、ちょっとこっちきて」
 呼ばれていって、その男と対面した。
 胸にあからさまな金のバッヂ。
 たとえば衆議院議員とか弁護士とか行政書士とかのバッヂだったかもしれないけれども、ワイシャツの袖から地肌にかかれた絵が覗いてるし、左顎から首にかけて大きな傷跡が付いていて、その人がとりあえず表の世界の人ではないことを確信した。
 彼は言った。
「にいちゃん、強いのか?」
「わかりません」僕はすぐに答えた。「やってみなければ」
「歳は?」
「十六です」
「まだ子供だな。学生か?」
「はい」
「話は聞いてた?」
「少しだけ」
「ふうん」男は僕を、頭の先から順番に、足の先まで見ていった。「ガタイはいいね、締まってる。にいちゃん、何を使う? レスリングか、柔道か」
「空手です」
「へえ、いいね」男はうれしそうに笑った。「空手か。ふうん」
 すると男は腕を抱えて黙ってしまった。
 僕からは喋らなかった。ただ、男が声を発するのを待った。
 しばらくして、男が言った。
「うん、いいだろ。たまにはそう言うのも」
「どうなんです?」店長が男に聞いた。
「んー、まあ使って見なきゃ分からないし、第一若いし、彼がどんだけやるんだか見当もつかないから、一応ってことで」男は僕に向き直った。「にいちゃん、気が向いたら電話してくれ。ケータイある?」
 一瞬躊躇したが、「悪いことには使わないよ」という男の言葉を、とりあえず信じることにして、男の差し出した名刺の裏にかき込んで渡した。
 それを懐に入れて、新しく名刺を僕に渡すと、店長と二言三言言葉を交わして、店を出て行った。
 その男こそヨシさんその人で、結局僕はヨシさんのところで働くことになった。
 僕が予想外の働きをして、それなら、ほかのプロたちに払うよりも子供に払う方がいくらか安上がりだろうという、そういった打算の結果だと思ったけれども、普通の住人である僕を、ヨシさんや社長は大事に扱ってくれて、特に組に入れだとかは言わなかった。だから僕は最後まで契約社員のままだった。
 ただ、高校三年の冬に大規模な抗争があって、それの当事者だったヨシさんや社長とはそれっきりになってしまうのだけれど、それはまた別の話だ。

 斉藤真奈美の葬式から一ヶ月がたったある週末。
 いつものように前のシフトの人と交代して、レジに入っているお金のチェックをしていた時、来客があった。
 背の高い、細身の男。丈の長いスポーツコートを羽織っていた。帽子を目深にかぶっていたから、顔はよく見えない。
「っしゃいませ~」声を出して、一端手を止める。お金をレジに戻して、客を待つ。
 その客。
 だいたい仕事に慣れてくると、客の動きが読めるようになってくる。そして、不審な客との区別が付くようになる。万引きなどをしようと目論んでいる客。
 今来た男は、その不審な客の部類だった。ビデオを買うために来たのではない、別の目的を持った男。
 僕は警戒する。
 その警戒が生きた。
 この男は、万引きをしようとしているわけではない、ということに気がつく。
 じゃあなんだ。
 男が、ゆっくりとレジのカウンターに近づいてくる。
 右手を懐に入れている。
 強盗か。
 違う。
 男が右手を引き抜く。
 その先に、ぎらりと黒光りする鉄。
 とっさに、レジの下にあったものをつかんで、横に飛んだ。
 直後、レジカウンターに幅広の蛮刀が振り下ろされた。
 破壊されるカウンター。木くずがあたりに飛び散り、ハサミやホチキスや伝票の紙が宙を舞う。
 僕がしゃがんで体勢を立て直して、男を見る。
 男が、ぎらついた目で僕を見据えていた。
 充血した目は、正気のそれではない。口元からよだれを垂らし、息を短くはき出している。
 僕は、男を見たことがあった。
 一瞬で脳裏を記憶が駆けめぐる。
 合宿所のトイレで絡んできた少年だった。斉藤真奈美の事を気にかけていた少年。そして、おそらく斉藤真奈美の事を思っていた少年。
 頬がこけ、血色が悪い。斉藤真奈美の死は、彼には重すぎたのか。それほどにも、愛していたのか。斉藤真奈美の死によって、彼が狂気に落ちてゆくさまが、手に取るようだった。
 そして、狂気の矛先は、僕に来た。
 生涯最初の本気の殺意は、勘違いの恋敵に向いたのだ。
「ぬるぅあああっ」
 少年が叫び、蛮刀を引き抜いて僕に襲いかかる。
 少年は武装していて、僕は丸腰――。
 蛮刀が振り下ろされ、僕の頭が割れ、鮮血が――飛び散らなかった。
 僕は棒の部分を握りしめ、袋の部分で蛮刀を受け流すと、少年に詰め寄り、下から思い切りあごを打ちあげて、仰向けに倒れた少年の身体をまたいで顔面を思い切り踏みつけて、だめ押しに喉を踏み抜く。少年は犬みたいに舌を口からはみ出させて失神した。
 僕は肩で息をした。
 とっさに手を取ったのは、店長から防犯用だと渡されていた、例の張り型だった。
 意外に強い、シリコーンゴム。大人のおもちゃで九死に一生を得てしまった。
 そして考える。
「そうか」考えた末、僕は振り返りながら、言う。「君が教えたのか、真奈美ちゃん」
 振り向くと、そこには斉藤真奈美が立っていた。
 昔のままの黒い髪の毛、黄色のキャミソールにジーンズ、ビーチサンダル。合宿で出会った時の服装だった。
 僕は真奈美に言う。
「僕は誰にもこのバイトのことを言ってないからね。こいつに僕の場所を吹き込んだんだろ。僕を殺すために」
 にい、と斉藤真奈美が笑う。
「そんなに僕が憎らしいのか。まったく、逆恨みもここまでくると最低だ」
 斉藤真奈美はただ笑う。
「君は自分の好きでクスリを使ったんだろう。僕は関係ない」
「でも止めてくれなかった」突然、斉藤真奈美がこわばった表情になって言う。「あなたは、私がクスリを使ってることを知っていた。だから、止められた。なんで、私を止めてくれなかったの?」
 僕はあきれかえった。
「無茶苦茶言うな。いやだったら自分でやめりゃあ良かったんだ。他人のことなんて、僕は知らない」
 すると斉藤真奈美は下唇を噛みしめて、今にも泣き出しそうな顔をして、僕を思い切り突き飛ばした。
 とてつもない衝撃。
 宙を飛び、棚に背中からぶつかり、崩れ落ち、僕は息が詰まる。
 いつの間にか目の前にいる斉藤真奈美。
 息が出来ない。
 動けない。
 自由が利かずに座り込んでいる僕の頭を、真奈美は思い切り、横薙ぎに払った。
 強烈な振動。世界が揺れる。とたんにこみ上げてくる。気持ちが悪い。「おえ」僕は嘔吐する。そして、視界が赤く染まる。
 ごろん、右の方で音がして、僕はそちらを見やる。
 黒い毛が落ちている。半球型のものに植えられている毛。所々にピンク色の肉片がこびりついていて、それが僕の頭蓋骨だと分かった。床に血が飛び散って、どろどろに染まる。僕の脳みそは、今むき出しだ。
「うあ」
 僕がうめき声を上げても、斉藤真奈美は気にすることもなく、彼女の腰ほどの高さにある僕の頭に、手を突っ込んできた。そして、僕の豆腐のような柔らかい脳みそを、ハンバーグのタネのようにこねくり回し始めた。
 僕の意識が飛ぶ。
 しかし、何をされているのか客観的に見られる。
 手を突っ込んだり、引っ張り出してるところを見る。
 僕が僕を見ている。死んでしまう。僕は思う。あれ、もう死んでる?
 そのうち、大脳と小脳と前頭葉と、とにかく脳みそ全てが混然としてしまって、もうなにがなんだか分からなくなってしまう。目玉も引っ張り上げられ、脊髄も引き出され、僕の頭蓋骨の中で全部がミクスチャされる。
 僕はうつろな眼窩から血を流して、ただ脳をかき混ぜられている。ときおり、びくっと身体が震えて、指がかたかた動いて床をたたいた。
 でもあれはただの反射で、僕は完全に死んだ。あんなに脳みそをぐちゃぐちゃにかき混ぜられて脊髄が引き出されて目玉が頭から飛び出てしまっているようでは、もう助からない。僕は殺されてしまった。
 そう思うと、僕と斉藤真奈美が遠ざかって行き、僕は天に昇ってゆく。
 周りは暗く、何もない。後ろの方に月を見て、やがて僕は太陽を通り過ぎ、気がついたら宇宙で銀河を見ていた。
 地球から遠く離れた銀河に来てしまった。
 僕は宇宙を飛んでいる。軽く感激した。おそらく前人未踏の場所のはずだ。
 その銀河に突然景色が浮かび上がる。
 教室の何気ない風景。誠が居る。笑い会う僕ら。部室。稽古。よく遊んだ川。木に登る僕。学校の授業。怒られている僕。映画を見た。映画館の前。酒場で女と話した。綺麗な女。『スティッキー・フィンガーズ』のジッパー付きCDジャケット。町中の僕ら。桂謙作なんかと、話している。試合の風景。天井のライト。ゲーセン。淡い光。電車の中。席を譲って、正面には小学生。
 スライドのように、まるでアルバムを見るように、記憶の断片が浮かび上がっている。
 突然映像がとぎれ、再び銀河の渦がうかびあがる。
「アンドロメダ星雲だよ」
 隣にいた僕が喋りかけてくる。
「アンドロメダ、あれが?」
 僕は僕に聞いてみる。
「人はフォーカスとか言うときもある」
 僕は言う。
「君は何でそんな事を知ってるんだ。というよりも君は僕じゃないのか?」
「君が見てる僕のようなものは、君とは違う別のものだ。つまりその問いには『僕は僕じゃない』と答えるほか無いな」
「わけわからん」
「そんなものさ、こちらの世界は」
「こちらの世界?」僕は聞く。「ここは宇宙だろ」
「そう見えるだけで、ここは概念的にはあの世なのさ」
「あの世か。そうか。僕は死んだのか」
「まあとりあえず、あの星に行ってごらん」
 僕が指さす先をみると、白く輝く星があった。
「何があるんだ?」
 僕が聞く。
「あそこには全てがある。行けば分かる」
 僕が言う。
 言われたとおりに、行ってみようという気になると、僕の身体は星に吸い込まれていった。
 星に降り立つと、白い花畑と青い川が流れていた。
 あたりは静かだった。川のせせらぎさえも聞こえなかった。
 そして隣に浮かぶ気泡。触れると突風が起こり、僕は目をつむる。
 それは忘れ去られた、僕の記憶。
 斉藤真奈美と、初めてあった時の記憶。だが、あの夏の合宿ではない。もっと昔の、お互いもっと小さかったときの記憶。
 僕は思い出す。
 僕と真奈美は、部活が初対面ではなかったのだ。
 斉藤真奈美は、旧姓、藤本真奈美。彼女には血のつながった兄がいた。兄の名前は藤本直樹。彼は僕と歳が同じで、二人で町の道場に来ていた。そして僕も彼女も小学生で、お互いに幼かった。
 直樹の身体に隠れるようにして、おっかなびっくりやってきた藤本真奈美。そのころはすごく人見知りで、引っ込み思案だった。
 そんな真奈美ちゃんは、僕のことが好きだった。一目惚れと言ってもいいくらいの、唐突な恋が訪れたのだ。でもそれは、子供が言うような幼稚な好きではなかった。認識していなかっただけで、それは愛だった。強固な愛。でも、そのことは、僕はおろか真奈美ちゃん自身も気がついていなかった。彼女がきちんと、僕に対する感情を熱烈な愛と認識するのは、ずっと後になる。
 記憶が流れる。
 僕と直樹と真奈美ちゃんで、遊んだときだ。春、土を耕す前の、蓮華草が咲き乱れる田んぼの中で、草や泥にまみれて遊んでいた。
 そのときに、僕と真奈美ちゃんは、結婚式のまねごとをした。直樹が神父の役をやり、僕が新郎、新婦は、真奈美ちゃんだった。
 僕は軽い気持ちで、真奈美ちゃんはとても真面目な気持ちで。
 僕が蓮華で花冠を作り、真奈美ちゃんにかぶせてあげる。
「かずくんかずくん」幼い真奈美ちゃんが僕に言う。「おおきくなったら、ちゃんとまなみと、けっこんしてくれる?」
「いいよ、ケッコンしようよ」僕は言った。「そうすれば、なおきと一緒に遊べるし」
「でも、こいつ嘘つくぜ」直樹がそうちゃちゃをいれると、とたんに真奈美ちゃんが泣きそうな顔をする。
 僕はあわてて、こう言った。
「だいじょうぶ、絶対に、約束するから」
「ほんとうに?」
 心配そうに、何度も聞いてくる真奈美ちゃんを、納得させるための儀式だった。
「じゃあ、誓いの儀式をする」
 僕は持っていたナイフで親指の先を切った。
 同じように真奈美ちゃんの指先を切る。
「こうして……指を合わせて」
 お互いの切り口を合わせて、約束を交わす。
 兄弟の契り、愛の契り、そして、結婚の契り。お互いの血に誓って、お互いの血に刻みつける、契りの儀式。
「約束するよ、結婚するよ」
 僕が歯を見せて笑うと、真奈美ちゃんもはにかみながら笑って、おでこをつけてふざけあった。そう、ふざけて、子供がよくやること。
 それから程なくして直樹と真奈美の両親が別れ、二人は道場をやめて、みんな離ればなれになる。真奈美は母親に引き取られ、別の男と再婚して、この間までは仲睦まじく暮らしていた。でも、また別れた。今度は実の母が不倫をしていて親権が取れず、父親の方について行くこととなったが、お互いの血のつながりはない。こうして真奈美は天涯孤独となった。
 真奈美は僕との儀式を覚えていた。そして部活に入りに来た。昔のことをすっかり忘れていた僕をみて、軽い失望を味わったものの、近くにいるだけで満足だった。時が来たらいずれ全てを話して、僕と本当に結婚するつもりだった。
 でも親の不仲の影響が大きくて、昔とは違って知恵がついていたから、彼女の心には重い負担になった。いつしか僕に話をする機会を失った。
 合宿で一緒にジュースを飲んだあの時、僕が忘れていた全てを話すつもりでいた。公園であったあの日、僕が知らない全てを話すつもりだった。
 でも言わなかった。なぜ言えなかったのか、斉藤真奈美には分からなかった。
 もちろん僕にも分からない。でも僕は真奈美とのことを思い出した。
 指を合わせて、血を合わせた。
 この時、僕と真奈美ちゃんの血は混ざり合い、溶けたのだ。
 僕の一部に真奈美ちゃんが流れ、そして、真奈美ちゃんの一部に僕が流れる。
 僕と真奈美ちゃんは、一部とはいえ、他人ではなく同一になった。
 他人のやることは他人の勝手だが、真奈美ちゃんは他人じゃなく僕だった。止めなかったのは自分の責任で、その自分とは僕だから、真奈美ちゃんが死んだ責任は僕にある。
「思い出した?」
 隣に立つ僕が聞いてくる。
「思い出した。全部」
「ならよかった。これで心おきなく君は死ねるよ」
 穏やかにそう言う僕。
 でも、全てを思い出した僕は言った。
「嘘をつけ」僕は吐き捨てた。「ここはフォーカスだとか言った僕は、僕自身だ。お前は他人じゃない。僕でもないと言ったが、僕自身だ。全てがあるというフォーカスなんて訳の分からないものは概念でしかない。そんな概念が存在すると言うことは、これは勝手に僕が考えていることで、まだ考えられるということは僕はまだ生きている。僕は死んでない」
 僕は深く眠っている。否、眠らされているのだ。
 幽霊となった斉藤真奈美に頭に手を突っ込まれて、幽霊の手が海馬を刺激して昔の記憶を思い出しただけだ。
 僕は目を固く閉じて、そして、開ける。
 そこは、ビデオ屋だった。アダルトビデオが立ち並び、半裸の女優の等身大POPが立てられている、猥雑ないつもの職場。銀河も太陽も月もどこにもない。僕の頭蓋骨は吹き飛んでないし、脳みそもそのままだ。目玉も取れてない。
 前には斉藤真奈美が立っていた。
 僕も立ち上がる。
 斉藤真奈美は、眉尻を下げて、「しょうがないなぁ」って感じの顔をしていた。手を後ろにやって、足を組んでいる。
 僕は、言葉を探して、言った。
「まあ」
 僕は考えて、言った。すでに答えの出ていることを、もう一度考えて。
「僕のせいかもね」そして、「ごめんよ。いろいろ」付け足す。
 彼女は、一度うつむいて、顔を上げて、生前の再開後には一度も見たことがない、爛漫な笑顔を浮かべてきびすを返すと、やがて宙に溶けて四散していった。
 あたりに日常が戻った。でも床には少年が転がってて、店の中はめちゃくちゃで、そのあたりが非日常だった。
 溜息をつく。
 壊れたレジカウンターを乗り越えて、少年を縛るためにガムテープを取りに、奥の事務室へゆく。ロッカーに置かれた引き出しを探り、ガムテープを探す。そのときに、机の上の本が目に留まり、僕は苦笑した。ガムテープを見つけて引き出しを締めて、僕はその本を手に取る。
 店長が持ち込んでいた本で、置きっぱなしになっていたから、先週つい読んでしまった。心霊医術とか超能力とかを科学的に分析、そして、筆者自身もそれを経験するというもの。そして作者は、幽体離脱してあの世を疑似体験して、そこで見聞きしたことを書き記している。
 僕は本をぱらぱらとめくって、そこに書いてあったことを思い出して、ほくそ笑む。
『……地球上のこの世=三次元世界=フォーカス一~二十一は、実際は実体の世界の投影された影のような世界であり、実体の世界=本質の世界は五次元世界としてフォーカス二十八~三十二以上にある……』
 我ながら気持ちの悪い死生観だとは思っていた。なんだフォーカスって。
 つまりここに書いてあったことを僕が頭の中で思い出して、勝手に引用していたのだ。人の頭は案外いい加減で、でも正確なのだ。僕に記憶する気があろうと無かろうと、一度見たことは脳に書き込まれる。だから、もし仮にこの本に書いてあることが本当だとしても、僕は信じられない。
 実際に本の著者自身はシラフで臨死体験したわけじゃなくて、それまでに様々な情報を取り入れて臨死体験をしたから、その間に言語なり映像なり、とにかく自分が見たり聞いたり感じたりすることをしてしまっているから、それが本当に自分が経験したことなのか、伝聞や推量によって頭の中で構築された妄想なのかの区別は果たしてつきにくい。
 宗教も知識も何も知らない赤ちゃんが死んで、フォーカスとかあの世に行ってきたというなら僕は信じる。
 では僕があの世なんかの存在を否定するかと言えばそれはノーだ。あるに違いないと思ってるし、そう思っているからこそ、あの世は存在しうるし、何よりもあの世がないなら宙に溶けた真奈美が浮かばれない。人が死んだら、ただの血と肉の詰まった袋になりはてるだけなんて悲しすぎる。
 そこに魂が存在し、神という概念の庇護のもと、ヴァルハラなりパライゾなりシャングリラなりエデンなり、こことは違うまた別のどこかで、べつの暮らしが始まる。
 そう思いたい。
 少年を縛って、ヨシさんに電話をかけた。彼の今後はともかく、壊れた店の処理とかが僕にはどうにもならない。大まかな流れを伝えて、電話を切った。
 ぼくは床に腰をおろして、考える。
 だいたい僕は死んだ後どうなるのか。まあまず間違いなく斉藤真奈美の隣に行くだろう。
 なにせ、ヤクザの手下で金を貰って人を殴って、あまりにも良心が疼くから、気にしないようにビジネスだと割り切って、自分に言い聞かせて、人を殴り続けた。道化じみた偽善とかりそめの笑顔で人の心を欺いた。 
 思考がどんどん黒く染まってゆく。それをなんとか留める。思考を戻す。
 死んだ後なんて死なないと分からないことだから、誰にもわかりはしない。僕が考えていることは無意味だ。
 無意味か。
 違う、意味はある。
 自分自身の矜持というものがある。ようは自分の倫理観、価値基準だ。他人の目なんてクソ食らえ。ただ、自分の尊厳と、公的な倫理に反しなければよいだけだ。それこそが、魂の質を磨き上げること。
 魂とは、矜持のことだったのだ。そうか、ならばわかる。
 別に皆、人は死んでからの神様の顔色を伺っていたのではない。神とは自分の化身なのだ。良心としての自分を監督者に仕立て、矜持という倫理に当てはまるかの査定を行う。それこそが、神であり、信仰なのだ。信仰とは、道理なのだ。
 僕は一つ伸びをして、立ち上がる。
 肩の荷が下りたような気がした。何を考えてんだ僕は。
「ふむ」
 僕はおもむろに携帯電話を取り出してメモリを呼び出し、ダイヤルする。
 プツプツと呼び出し音。ルルルルル。
 プッ。
「……こんばんは、ヒロくん」
「こんばんは。こんな夜中にごめんね」
 僕は石動偲信に電話をかけた。
「寝てたでしょ」「……寝てないよう」
「うそつけよ。ホントごめんよ」「ううん、全然。……それで、どうしたの?」
「ちょっと言いたいことがあってさ」「うん」
「愛してる」「……」
「おーい、もしもーし?」「――や」
「ん?」「やーん、もう」
「嫌だった?」「違うよー。すごくうれしいよー。あーん、やだー」
「あっはは」「だってさ、だってさぁ、今まで付きあってるのに、好きって言ってくれたのだって最初の一回だけだったしさ、なんか普段通り優しいだけだったから、あたしたち本当に付き合ってるのかなぁって思ってたんだよう」
「な、泣かないでよ」「うぅ~、それぐらいうれしいんだよう、ばかー」
「ごめんよ」「ううー」
「明日さ、日曜日だしさ」「うん」「お昼頃にどっか出かけよう」「うん」「そんで、映画見たりうまいもの食べたりなんか買い物したりしようよ」「うん」
「ねえ」偲信が言う。「ん?」「もう一回言って」「何を?」「もう一回」「何をさ」「うぅ~」「ごめん。言うから」「――うん」「愛してる」「……」「言ったよ」「きゃーん、もう、うれしー」「……それじゃあおやすみ」「うん。おやすみなさい。あ――」「ん?」「あたしも、す――あ、あいしてる、よ」「うん」「きゃー、やだー」「……もう寝なよ」「うん、ごめんね、もう寝る。それじゃあおやすみなさい、また明日」「うんおやすみ。また明日」
 電話を切る。 
 静寂。
 唐突に、僕の頭の中に音楽が流れ始める。斉藤真奈美にいじくられて馬鹿になってしまったのだろうか。でもこれは、確かに僕が、いつか聴いた曲。
 滑らかな旋律。緩やかな音階。
 モーツァルトのモテット、<喜べ、踊れ、汝幸いなる魂よ>
 僕は歌う。
「アレルヤ」
 この星に暮らす全ての人が平和でいられたならいいのにな。
 そんなことを考えた。


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