『グラン・グラン・ギニョール』

『グラン・グラン・ギニョール』

著/痛田三

原稿用紙換算65枚


 1.

 よし朗はどうしようもないほどに救いがたい少年だ。彼のこれまでの一七年間は、あまり語る意味を持たない。卑小な虚栄心をルサンチマンで満たす日々。ただそれだけ。
 その夜もよし朗はすっかりはしゃいでいた。鉄橋の欄干から身を乗り出し、土手の方に熱狂的な視線を投げかけている。
 土手ではふたりの若い男が、むき出しになった上半身を汗と血液で汚しあっていた。時折、外灯の明りが彼らを捕らえると、メッタメタに変形して腐ったトマトのようになったふたつの頭部が見える。もう、かれこれ三十分以上は殴り合っている概算だ。彼らの端正な顔立ちは、面影すら微塵もなくなっていた。
「おそらく、B系の彼もギャル男の彼も格闘技の経験者だね!」
「……」
 このやり取りも、かれこれ三十分は続いている。よし朗の隣にいるファー付フードを被った少女――マドカは、とっくの昔に相槌を打つ努力を放棄していた。
 彼女は口元を薄らほころばせ、だがしかしとことん醒めた視線で元カレたちの拳闘を眺めていた。とはいえ、実際のところ彼らとマドカの間に、元カレとか元カノのような関係があるかは疑わしい。――操り人形と人形回しのような関係なら確実にあるが。
 マドカにとって、彼らは人形《ギニョール》同然なのだ。だけどもマドカ《マスター》が彼らを操って行わせる演目は、血みどろ物語《グラン・ギニョール》と決まっている。
 よし朗はふと、小学生のころにマドカの班が演じた『青ひげ』の人形劇を思い出した。彼女の役回りは、猫をも殺す好奇心のせいで青ひげに命を狙われるヒロイン。緊張感のかけらも感じさせない能天気な声で「兄さまたち、私を助けてくださいなぁ!」と叫ぶマドカは、まだ無垢な少女だった。
 よし朗は大きな溜息をつく。追憶がトラウマの尻を撫でたためだ。
 さらに大きくかぶりを振ると、マドカにそっぽを向けるかたちで無人のオフィスビルを眺めた。立体感の失せた灰色の長方形が、一ミリも動くことなく迫ってきそうだった。
「あんた、飽きたでしょ」
 吐き捨てるようなマドカの声に、よし朗はあわてて振り向く。しかし彼女の視線は土手の方にあった。
「ていうか、さっきからオカマパンチばっかになってきてマジつまんないんだけど」
 見れば、拳闘はいつの間にか恋人同士のじゃれ合いの様相を呈している。
「……千穐楽ね」
 マドカの言葉によし朗は息を飲む。冷たい汗が流れた。
 千穐楽。すなわち血みどろ物語《グラン・ギニョール》終幕の合図。
 よし朗にとってそれは、いつまでたっても厭な瞬間だった。特にこういったドローンゲームでは、彼が汚れ役を買わされることもある。以前にも一度、とんでもない思いをさせられた経験があった。
「きょ、今日はいつになくいいファイトだったね!」
 精一杯の笑顔でもってよし朗は言った。
「だから今回は……ど、“ドロー”ってことでいいんじゃないかな?」
 ミジンコほどの記憶力しかないよし朗だったが、“引き分け”という言葉を避けることは忘れなかった。
 マドカの唇が固く結ばれる。やはり“引き分け”は、NGワードだったらしい。
「さ、さすがに同じ手は食わないよ」
「ちぇっ、でも勝ち負けは決めるわ。……格闘技だったら?」
「格闘技だったら、もちろん判定だろうね」
 よし朗が自慢気に答えると、マドカは鼻で笑った。
「今、なんてった?」
「えっ、格闘技だったら“判定”、って言ったけど……?」
 次の瞬間、土手の方で変化が起きた。
 ギャル男がどこからともなく折りたたみナイフを取り出すと、それをBボーイの胸の奥へと突き刺す。先の拳闘で深刻なダメージを負ったBボーイには、それを避ける力も止める力もない。心臓を貫かれたBボーイの身体は、ギャル男に寄りかかることしかできなかった。しかし凶刃はそれをかわすと無抵抗な身体を切り刻み、あたり一面を血にまみれさせた。
 ざらざらとした生ぐさい臭いが鉄橋まで漂ってくる。よし朗を無邪気にさせていた高揚感は、スタコラサッサと逃げていった。そして代わりにこみ上げてきたものは――夕食のハヤシライスと味噌汁。
 なんであれ人の死ぬ瞬間ほど現実的《リアル》なものはない。その圧倒的な現実感は、しかしいつもグロテスクさを伴っていた。
 よし朗は口元を押さえる。そしてNGワードがふたり分あったことにようやく気がついた。またしても自分は死の緞帳を下ろしてしまったんだ、と思うと胃が激しく萎縮した。酸っぱい涙が出た気がした。
 よし朗はお隣さんを見る。
 マドカはボーリング玉かスイカを腹に抱え込むような姿勢で、全身を小刻みに震わせていた。やがてその場に腰を下ろすと、長い溜息をつく。艶っぽく上ずっていた。
 それはうっとりするほど美しく、淫靡な姿だった。
 マドカはよし朗のもよおした視線に気づくと、涙が滲んだ瞳でそれを睥睨した。
「何見てんのよ……!」
 どうやら今夜もイッたらしい。


 2.

 よし朗のクラスでの役割《ポジション》は、〈バイキン兵器〉だ。これはクラスメイトらによって早々に決定した。彼らは、よし朗のしょっぱい容姿やどんくさい運動神経、くだを巻いた喋り方、ついでにオタクな趣味など全てをひっくるめて、“感染《うつ》るものである”と暗黙のうちに意見を一致させた。
 それからの扱いというか、よし朗へのリアクションは、端的にいうと通学路に落ちているうんこと同じだった。
 男子の一部は興味を示さず、もう一部は己の勇気を周囲に示威するためや、単に暇つぶしのためにちょっかいを出す。女子に関しては、およそ全員が半径一メートル以内に近寄ろうとさえしなかった。
 こういった反応はこのクラスに限ったことではなかった。よし朗は中学のころから似たような扱いを受けてきた。そのため自己防衛として、クラスメイトの不可解な連帯感について、否が応でも敏感にならざるを得なくなった。
 とにかく、なるべく目立つことのないように学校生活を送る。よし朗にとってそれは処世術以上の価値があった。潜入工作を行うスパイのような――といってもこれといった目的はないが――ただ目立たなくすることに使命じみたところがあった。
 しかし、そんな高尚な使命もあっけなく挫けてしまう。
 原因はもちろん、女だ。
 よし朗を骨抜きにしたのは、新城というクラスメイトだった。
 親しい友人から“シンディ”という愛称で呼ばれている彼女は、マイペースで人懐こい性格の少女だ。育ちがいいのか、性善説を本気で信じているような、警戒心という概念に欠けているところがあった。なので、相手がよし朗であってもかまわず話しかけてくる。
 そんなときに一番困るのは当のよし朗だ。女の子と話をする資格《ライセンス》を持たないよし朗にとって、それはいつも不意打ちで、いつも新城の周りにいる女子の眉をつり上げるほどにうろたえさせた。だから、よし朗の危機探知センサーは、瞬く間に一触即発のムードをキャッチし、頭の中を不快な警報でシェイクしてくれた。それでも、女の子に話しかけられる瞬間ってやつにはいつもときめかされた。
 さらに新城は、自分の席がよし朗の後ろとなっても、嫌な素振りをひとつと見せなかった。
 あまつさえ先ほどの授業では、よし朗の落とした消しゴムを拾ってくれさえもした。よし朗の消しゴムをだ。バイオ兵器同然の、防護服でも着込まない限り誰も触れようとしないだろう代物をだ。しかも受け渡しの際には手と手――いや、正確には人差し指の第一関節と親指の第一関節だ――それがわずかに触れたりもしたが、新城は嫌な顔をするどころか、ただにっこりと微笑むだけだった。
 これにはよし朗もすっかりまいった。どうにかなりそうだった。実際、どうにかなってしまった。
 大腸菌並みの知能しか持たないよし朗は、新城が自分に惚れていると思い込んだ。目まぐるしい妄想に取りつかれていた。今すぐにでも世界の中心で愛を叫び出しそうな勢いだった。さすがにそこまではしなかったが、何を思いついたのか慣れない携帯をこねくり回してメールを打ち始めた。そしてようやく授業も終ろうかというころ、よし朗は満足気に送信ボタンを押した。宛先は、マドカ。
 メールにはこう書かれていた。
『新城さんは/僕にホレれているっぽい』
 いくら舞い上がっていたとはいえ、この行為が過ちであったことは、すぐに思い知らされることになる。
 昼休み。廊下を歩いていたよし朗を豪腕が男子トイレへと引きずり込んだ。アンモニアと微量のニコチンがこびりついたタイル張りの床へ勢いよく転がる。最初は不覚気味のよし朗だったが、腹をえぐるような鋭い痛みに襲われて、やっと事態が飲み込めた。――危機的状況だ! と。
 よし朗はとっさに腹をガードした。これ以上あの蹴りを食らえば臓物が飛び出てしまう。そんな思いがあったからだ。ダンゴムシのように丸まってみるが、今度は側頭部に固い衝撃が走る。よし朗の頭は、煙草の火を消すかのように踏みにじられていた。床の味が苦しょっぱかった。
「マドカ《マスター》からの伝言だ。“あんたのメールのせいで笑われたじゃない!”」
 同じクラスの大塚の声だった。その声が懸命にマドカの口調を真似ようとしていた。
 大塚はそれだけ言い残して去った。
 よし朗はトイレで寝そべったまま、マドカがどう笑われたのか考えた。が、思考はすぐに、自分のクラスにまでマドカの人形《ギニョール》が潜んでいたという驚きに飲み込まれた。
 いったい彼女は、どれだけのイケメンを人形《ギニョール》にしたんだろうか……? と。


* * *

 放課後になると、よし朗は臨時収入を片手に駅前の大型電気店へ向かった。お目当てはiPodシャッフルの新型。
 店の入り口の右手側には携帯・デジカメのコーナー。その向かい側にはデジタルビデオ・オーディオのコーナーがある。iPodシャッフルがあるとしたら、もちろんそこだ。しかしよし朗が向かった先は、そのコーナーでも特価ワゴンでもなかった。
 店の奥にあるプラズマ・液晶テレビのあるコーナー。そこにディスプレイされている無数のテレビ。そのひとつによし朗は向かった。
 テレビは殺人事件を報じていた。
「今日の午後、逃走を続けていた容疑者が捕まりました」
 女性アナウンサーが記事を読み上げると、男の顔が横に並んだ。
 あのギャル男だった。
 三日間も逃げ続けたのか……。よし朗が最初に感じたのはそれだけ。それから男の名、歳、職業などおおまかなプロフィールを始めて知り、二十歳でふたりも子供がいることに少し驚いたりもした。
「容疑者は、警察の取り調べに対して、“カッとなったら抑えがきかなくなった。今は後悔している”と語ったそうです」
 そう言ったアナウンサーの声は重苦しいものだった。無理もない。今月に入って同様の事件が、すでに三件も起きているのだから。しかも、そのすべてがある狭い範囲内で起きているのだ。もちろんある範囲とは、よし朗が住んでいる地域とその周辺を指す。
 キレる若者の急増。沸点の低さでいったら、ここかチベットかと揶揄されるほど、目に見えるスピードで治安の崩壊が進んでいた。
 しかし、これらは決して偶発的な事件ではない。すべてはマドカによって起こされたものだった。
 マドカほど優れた人形回し《ギニョール・マスター》はいない。
 ギニョールとは、元は指人形劇の花形の名だ。政治風刺を扱ったその劇は、フランス革命後のフランスで大流行となり、やがて袋状の胴体に指を突っ込んで操る人形のことを指す言葉となった。
 操り人形ならマリオネットの方が有名かもしれない。しかしマドカの能力は、外部から糸を引っ張ったり緩めたりして操るマリオネットよりも、もっと内的な操作を特徴としていた。まさにギニョール的な能力なのだ。
 マドカは凄腕のハッカーのように、いとも容易く相手の中枢神経系に忍び込む。そして侵入さえすれば、後は好きなようにプログラムを書き換えることができた。それも念じるだけでいい。それだけで人形《ギニョール》となった人間はどんな命令でも従うし、記憶もいじくり放題となった。
 よし朗はホームシアターのコーナーで垂れ流されている『ファイトクラブ』を横目で見る。画面ではブラッド・ピットとエドワード・ノートンがキレイな殴り合いを演じていた。
 イケメン・ファイトクラブの発足は、よし朗がマドカに「ファイトクラブのような拳闘は再現可能か?」と聞いたことが始まりだった。彼女はあっさりと再現してみせた。悪趣味なおまけつきで。
 あわれな人形《ギニョール》たちは、マドカとよし朗の前でそれが自分の内側から湧き出る衝動だと信じ、殴り合った。疑問の余地はないのだ。そもそも彼らは「マドカって誰?」といった具合だ。
 だから、どの事件も突発的な犯行以外の何物でもなかった。不可解な点は多々ありもしたが、決定的な結びつきには至らず、アナウンサーもコメンテーターとして呼ばれた警察関係者も「最近の若者はすぐにキレる」と口をそろえるくらいしかできなかった。
 当の彼《ギニョール》らも、世間のその言葉を受け入れるほかに術はなかった。
 あまりにも卑怯くさいが、マドカは見事なまでに完全犯罪をやってのけたわけだ。
 ただ、誰にも止められないという点では、犯罪というよりもむしろ自然災害みたいなものかもしれない。
 よし朗は、マドカの能力を初めて目の当たりにした時のことを思い出した。
 急にカラオケ屋に呼び出され、そこで唐突に能力の話をされたよし朗は、酔っぱらいの戯言だろうと高を括った。マドカはひとりでぐちゃぐちゃに酔っていたから、そう思われても仕方がなかった。そのうち機械的に相槌を打ち続けるよし朗に、埒が明かないと感じたマドカは「実践する」と言い出し店の外へ連れ出した。
 薄汚れた路地裏。そこがマドカの向かう先だった。
 よし朗の下心は小躍りを始めたが、残念なことに先客がいた。
 チョイ不良《ワル》風のオヤジがひとり。
 ロケーションのせいか堅気に見えないそのオヤジは、よし朗たちの前でおもむろにストリップを始めた。上半身がむき出しになると、持っていたナイフを器用に操り、自分の胸板に文字を刻み込む。
『ヨシロウノアホ』と読めた。
 オヤジの表情はサングラスで隠されていて読めない。
 文字からは生き血が滴る。
 マドカは酔いとは違うニヤケ顔を張りつかせていた。
 それでも、まだよし朗は担がれているとしか思っていなかった。
「別にトリックがあるわけでもないし、催眠術のたぐいでもないわよ」
 マドカは続けて「その証拠に……」と言い、余計なことに心理的なブレーキがないさままで披露してくれた。
 オヤジはサングラスを外してマドカのサインに応える。そして黙々と、髭を剃るように顔中の突起物を削ぎ落とし始めた。オヤジの顔はみるみるうちに凹凸が減っていった。それでも自傷衝動は収まらないのか、体中を刻み始め、ついには『ヨシロウノアホ』と書かれていた文字も判別不能なまでに切り刻まれた。めくれ上がった肉が細かく毛羽立ち、水に濡れたクッキーモンスターと化したところでオヤジは力尽きた。
 その間、よし朗は三度ほど吐き、おえつを漏らしながら、オヤジに向かってお経のように謝罪の言葉を連ねていた。何をどう謝っていたかは定かではない。


* * *

 外はすっかり日が落ちていた。それでも駅前通りは雑多な照明でキラキラと輝いていた。バスを待つターミナルでは、冬の訪れを感じさせるつむじ風が舞っていた。
 買い物袋を下げたよし朗は、次に本屋へと向かう。寂れた繁華街沿いをひとり揚々と歩いた。が、その足取りはすぐに重くなる。
 よし朗は正面からやってくる光景に目を瞬かせた。
 絵に描いたような美男美女がこちらへ向かって歩いてきたからだ。
 男は白人とのハーフなのか、やけに日本人離れした顔立ちをしている。背も高く、まるでモデルのような、というよりモデルそのものだった。カジュアルで落ち着きのある服装は、成熟した若々しささえ感じられた。
 対して女の方は、まだあどけなさが残る面影を見せていた。けれども、そのボディラインは間違いなく大人の魅力をたたえていた。彼女のGジャンの裾からのびるフレアスカートが、風にさらわれるたび、道ゆく男たちが一様に振り返る。そんな、たまらなくいい女だった。
 ほんの一瞬だが、よし朗の足が止まった。すれ違いざまに女と目が合ってしまったからだ。
 彼女はマドカだった。
 マドカはよし朗の横を何事もなく通り過ぎた。
 呆然と歩くよし朗のポケットの中で、携帯が大きな伸びをひとつする。
『Re:新城さんは/心の底ではあんたを嫌っている』
 マドカからのメールだった。
 よし朗はあわてて振り向く。
 マドカは携帯をポーチにしまっている最中だった。しかしこちらを振り向く気配はない。
 ハーフらしき男が彼女に何事かを話しかける。マドカはその何事かを否定する素振りを見せると、男の腕に寄りかかった。
 まるで恋人みたいだ、とよし朗は思った。
 急にiPodシャッフルの入った袋がわずらわしく感じられた。横断歩道の向うにある本屋も、今では、店内から漏れる照明がけばけばしく思える。
 よし朗はなんだか無性に空しくなり、そのまま帰ることにした。
 ふたりのことが頭から離れなかった。
「あの男も例外なくマドカの人形《ギニョール》となるんだろうな」
 よし朗は呟いた。
 マドカには“イイ男しか人形《ギニョール》にしない”というポリシーがあった。だから不細工なよし朗は、彼女の人形《ギニョール》ではない。ただ自らの意思でマドカに従っているだけにすぎない。それでなんの得があるのかというと、マドカのような美少女の傍にいられるってくらいのものだ。しかし、よし朗にとってそれは思いの外大きい。なんせ彼女の傍にいられる間は、自分がイケメンにでもなったような気分を味わえるからだ。それにイケメン・ファイトクラブだって、イケメンが同士討ちしてくれる楽しいイベントだ。最期のアレにさえ慣れればだが。
 だからよし朗は、マドカの人形《ギニョール》になりたいとは思わなかった。いや、思わないようにしていた。あの〈儀式〉もなるべく考えないようにしていた。
 だけども、そんな気持ちも清々しいまでに消し飛んでしまった。
 やっぱりイケメンがうらやましい。
 マドカの人形《ギニョール》となる、あの〈儀式〉を受けられる存在というのが憎たらしい。
 一晩限りとはいえ、どうせ記憶は消されてしまうとはいえ、シーツの中で吐息を押し殺すあの陶酔感を味わってみたかった。マドカと汗を紡いでみたかった。それ以外の体液も紡いで……。
 ――プワァァァン!!
 けたたましいクラクションが、乱暴によし朗を現実へと戻した。
 気がつけば、赤に替わった横断歩道のど真ん中につっ立っていた。ヘッドライトの光が、脱獄犯を見つけ出したサーチライトのようによし朗を照らす。目が眩むほどまぶしい。
 よし朗は手をかざすと車に向かって叫んだ。
「車が操縦できるからってなんだ! マドカは子宮でイケメンを操縦するんだぞッ!」
 クラクションの嘶きがいっそう激しさを増した。


 3.

 その夜、よし朗は家から自転車で三十分ほどかかる市内のコンビニにいた。
 よし朗がわざわざこんなところで買い物をしているのには深いわけがあった。それは件名に『ビール』とだけ書かれたメールが、マドカから送られてきたことと関係がある。さらにこのコンビニからマドカの住むマンションは、目と鼻の先にあった。つまり、早い話がパシリをしているわけだ。
 よし朗は嘆息をつくと店内を見渡した。客がふたりと、派手な色の髪をした若い男性店員がひとり。店員の表情はあまり読み取れない。しかし鋭い眼つきが神秘的な魅力を醸し出していた。
 もしかするとこいつもマドカの人形《ギニョール》かもしれない。
 よし朗はマドカに教えてもらった合言葉を使ってみようかと思った。
 相手がもし人形《ギニョール》なら「マスターのおっしゃるとおりです」と返事があるはずだ。それに、一時的にだがマドカのように命令を下すこともできる。もちろんマドカの命令があれば、そちらが優先となるが。
 とにかく、彼が人形《ギニョール》ならビール代を浮かすことができる。合言葉の効果は大塚で実証済みだ。よし朗はパーカーのポケットに手を突っ込み、買ったばかりのiPodシャッフルを握りしめた。
 そうと決まればということで、よし朗は手当たり次第に商品を籠に詰め込んだ。レジ清算時が勝負だ。
 ドスンとカウンターに籠を下すと、よし朗は大きく口を開けた。が、その口から出た言葉は、「すんません、これとこれと……あとこれもキャンセルします」だった。
 男性店員は、誰がこれを元の棚に戻すと思ってんだぁ!? と言わんばかりに舌打ちをした。
 屁垂れなよし朗は、もう一度「ごめんしゃい」と小さく謝ったが、合言葉は“ごめんしゃい”ではなく、“お前、ケツの中にドリアン隠してるだろ”だった。
 とはいえ、この手の連中に狩られた経験を持つよし朗にとって、それは酷な合言葉といえる。むしろ脳天気なよし朗が直前でそのリスクの大きさに気づいたことは、幸いだったのかもしれない。店員の彼が人形《ギニョール》でなければ、確実にあのときの二の舞となっていただろう。
 よし朗は、街中を転げまわる紙屑となった自分を想像する。イメージが一年前の体験と被り、思わず身震いした。
 本当に悲惨な体験だった。それでもひとつだけ収穫があった。
 マドカと再会したことだ。
 粗大ゴミのように電信柱にしなだれていたよし朗の前に現れたマドカは、全身黒づくめの姿で、死神のように佇んでいた。
 その日は自殺したマドカの母親の葬式だった。


* * *

 マドカの部屋は、紫煙が空気を汚染していた。
 よし朗は酒の入ったコンビニの袋を、化粧品がビル街のようにそびえ立っているテーブルの脇に置く。
「ちゃんとビール買ってきた?」
 マドカは袋の中を覗きこんだ。その姿は下着しかまとっていない。
「う……うん」
 よし朗は気のない返事をした。艶めかしい桜色から目をそらし、テーブルに置かれた灰皿を見る。フィルターが噛み締められて、ガムの食べカスのようになった吸殻がてんこ盛りとなっていた。
「何これ、発泡酒じゃん」
「え、発泡酒ってビールじゃないの?」
 そんなことも知らないわけぇ? と言いたげにマドカが舌打ちをする。
 よし朗はあわてて「買い直してくる」と言ったが、マドカに制された。
「今から行っても遅いわよ」
 マドカは発泡酒をひとつ開け、ソファに腰かけると、顎で背後の窓を指す。よし朗はソファに近づくと窓の外を眺めてみた。閑散とした夜景が横たわっているだけで、これといっておかしなところはない。それよりも発泡酒を飲むマドカの喉仏の方が絶景といえた。
「向かいにビルがあるでしょ」
 見ると、細い路地を挟んだ向かいに雑居ビルがあった。そこの屋上はマドカの部屋よりも二階分ほど低く、課長のハゲ具合が観察しやすそうな眺めとなっていた。もちろん、実際にハゲ課長なんていない。その代わりに平社員らしき男性がふたり、社交ダンスの練習をしていた。
「いや、社交ダンスじゃない……」
 ふたりは拳闘の最中だった。この前のと比べると、あまりに揉み合いレベルなので、一瞬分からなかったが、よく見るとそうだ。
 マドカはどこからか持ち出してきたオペラグラスでそれを観賞している。
 どうやらただのパシリではなかったようだ。
 よし朗は遠慮がちにマドカの横へ腰を下した。香水《フレグランス》がいつになく鼻孔をくすぐる。どうしてもマドカの肉体の方が気になってしまう。赤い下着が燃えさかるので困る。仕方がないのでよし朗は、出火元を確かめることにした。
 まず、逆三角の炎を調べた。それから視線を徐々に上げていく。ぽっかりと空いた洞穴を見つけた。マドカのへそだ。思わず生唾を飲む。へその脇には焼けたような跡があった。それは愛の炎による焼け跡――単刀直入にいうと、キスマークだった。
 よし朗の身体は金縛りにでもあったかのように固まった。目がそらせなかった。だからマドカの蹴りがよし朗をふっ飛ばしても、いくらかぼけっとしたままだった。それに起き上がろうとして棚に手をかけたとき、高価な腕時計を落としそうにもなった。
 案の定、火遊びがすぎたよし朗は火傷を負った。マドカは黙々と酒をあおり、向かいのビルを眺め、そのソファの横でよし朗はひたすら正座をするはめとなった。顎と左肩から熱をじんじんと垂れ流しながら。
 十数分もそうしていただろうか。やがて派手な音が地の底から響くと、あたりがざわめき始めた。
 どうやら拳闘は千穐楽を迎えたようだった。
 しびれる脚で立ち上がり窓の外を見ると、ビルの屋上にいる人影がひとつになっていた。
 マドカはおもむろに服を着出す。
「見に行くの?」
 答えはない。
 マドカはフードをすっぽりと被ると、そそくさと部屋を出ていった。よし朗はあとを追った。
 現場はすでに人集りができていた。落ちた男の姿は見えないが、まだ息はあるようだった。ふいに誰かがビルのてっぺんを指さし叫ぶ。男の片割れが亡霊のように立っていた。次の瞬間、そいつは鳩尾ほどの高さの鉄柵を越え、十メートル下の片割れのもとへショートカットを試みようとした。しかしそれも、駆けつけた警備員に取り押さえられ未遂に終った。
 マドカはそんな光景を不満気にマンションの入り口から観察していた。落ちた男の姿も見れず、片割れもダイブに失敗。どれも予想外だったに違いない。
 それからすぐ救急車が来て、救急隊員が素早くケガ人を車に詰め込んだ。その際、担架からこぼれた男の手が見えた。
 血と泥で汚れていた。
「そういえば、小学校のころに飛び降り事件があったよね」
 何気なくよし朗はつぶやいた。
 当時、よし朗とマドカは同じ団地に住んでいた。その団地で飛び降り自殺があった。しかし事件時、よし朗は病院で過ごしていた。自動車にはねられて頭蓋をかち割られたためだ。だから病院から戻って来たころには、すっかりいつもの団地に戻っていた。ただし、マドカが引っ越してしまったことを除いて。
 くすり、とフードの奥からマドカの微笑が漏れた。
「丁度あたしも思い出してた、それ」
「あれもこんな感じだったのかなぁ……」
「どうだろ。でも、落ちたのが人形《ギニョール》って意味では似たようなもんかも」
「――えっ!?」
 よし朗は我が耳を疑った。
 マドカはそんなよし朗をフード越しに見つめる。
「……まさか、本当になぁんも知らないの?」
「なぁんもって、何を?」
「じゃあ、あたしが引っ越した理由は知ってる?」
「両親が離婚したから……でしょ?」
 マドカは溜息をついた。そしてポケットから煙草を取り出すと、チューインガムのように口に放り込む。それを今度は前歯を使って釣り竿のように上下させた。
 何か考えている様子だった。
「ええ、確かに離婚したからよ。でもその原因を作ったのは、あたし。ピアノ教師とできてたのがバレちゃったのよね」
 よし朗は背後から頭を殴られたような衝撃を受け、めまいを感じた。動悸が激しくなる。幼き日のマドカ像が崩壊していく音が聞こえた。
 少しぽっちゃりとした活発な女の子。よし朗を引っ張っては、毎日団地中を駆けずり回った。よく喧嘩したが、いつもマドカが勝った。お小遣いやおやつを奪われたりもした。あと、一度だけ唇を奪われたこともある。だけど、告白をしたのはよし朗の方だった。
 事故に遭うひと月ほど前のことだ。
 結局、マドカは返事をすることもなく去り、よし朗の初恋はそのまま途切れた。
 つまり、あのときの答えがこれだったのだ。
「そのピアノ教師がロリコンでさ、あたしにリキュールかなんかをジュースとかいって飲ませやがったのよ。スケベ目的でね。ま、そんときは酒なんか飲んだことなかったからさ、ただ不思議とふわふわした心地になったくらいにしか思ってなくて。だからなんか勘違いしちゃったのよ。惚れたってね。でさ、当たり前だけど、そのころはまだ自分の能力に自覚なんてないからさ、えらいことになったわけよ。ガキの恋心って容赦ないからさ、四六時中会いたいとか思っちゃったりするのよ。その度にロリコンピアノ教師が家の中まで押しかけてきてさ、マジ悲惨だったわ。そりゃ怪しまれない方がおかしいって話。もう両親の話題っつったら互いの教育意識についてオンリー。で、最終的には単なる口喧嘩になって、あっさり家庭崩壊。あたしは、それもこれもピアノ教師が悪いんだ! って今度は思うようになってさ、奴が消えてくれれば! って願ったら――」
 ぽとり。
 一気にまくしたてたマドカは、最後に煙草を落として見せた。
「どう、何か質問でもある?」
「ず、ずいぶん前にマドカの噂を聞いたことがあったんだ。“中学校に入ってから悪い連中と付き合うようになった”とか……」
 よし朗は、そんなものはただの噂だと相手にしなかった。マドカと再会するまでは。
「それが?」
「い、いや別に……」
 マドカの初体験はそのころだと思っていた、というだけの話であったが、いくらよし朗でもこれはさすがに言えなかった。
「それじゃあ、今度はそっちの番ね」
 そう言ってマドカは新たに煙草を取り出そうとして、煙草が切れていたことに気づいた。
「煙草、買ってこようか?」
「それよりあんた、そこのコンビニ寄ったんだよね。どんな店員だった?」
「あ、えと、なんだろヴィジュアル系みたいな奴だった」
「ああ、そう。ならそいつにやらせる」
 やはりあの店員は人形《ギニョール》だったらしい。
「そんなことよりあんたさ、あたしにだけ喋らせるつもり?」
 しかしながら、よし朗にはマドカに匹敵するような過去なんてない。それどころか語るべきものがない。
「なら、シンディとはどうなったのよ?」
 よし朗は、そんな外人は知らないと言いかけて、それが新城さんの愛称だということに思い当たった。しかしマドカに彼女の愛称を教えた覚えはない。
「な、なんでそんなこと知ってるんだよ」
 よし朗の訴えに、マドカは携帯を取り出し答えた。
「新城あつ美。あんたと同じ高校で料理研究会に所属。血液型はO型。一月三十日生まれのみずがめ座。家族構成は、両親と歳がふたつ離れた姉、それとひとつ離れた兄の五人。好きなものは芋料理。嫌いなものはマイマイカブリ……」
 カチャンという音ともに携帯が閉じられた。
 よし朗は声を出すこともできなかった。
「みんなにやさしく、困ってる人を見ると手をさしのべたくなる性分。だからあんたみたいなセクハラ面相手でも気さくに話しかけるけど、それが仇となってストーキング被害に遭う、ってタイプね。……どう?」
 自信満々のマドカの隣にはエプロン姿のコンビニ店員がいつの間にかいて、煙草とビールの入った袋を彼女に渡すと、店へと引き返していった。ビル前ではやっと到着した鑑識班が、のろのろと現場検証を行っている。マドカとよし朗は一旦、マンションの中へと戻った。
 よし朗はマドカの洞察に、どう返せばいいか考えた。
 実のところよし朗の恋愛熱は、大塚の蹴りとマドカのメールですっかり冷めていた。そのためマドカが期待するような話はこれっぽちもない。はっきり言ってさっさとこの話題を切り上げたかった。
「新城さんのことだけど、マドカのいうとおりだよ。単なる片思いで、僕にできることといったらせいぜいストーキングするくらいのものさ」
 部屋に戻ると、よし朗はそう言っておどけて見せた。
「そんなことするくらいなら告白しなさいよ」
 と言ってマドカは缶ビールを開けた。
 マドカの“告白”という言葉が、よし朗の胸を貫く。その言葉は新たなトラウマとなっていた。だから、つい全力で拒否してしまう。
「ならさ、新城って彼女がどうして“シンディ”って呼ばれてるか知ってる?」
「え、それは苗字からもじったんじゃないの……?」
「残念、ハズレ」
 マドカは不敵な笑みを浮かべた。
「本当のところ、知りたい?」
 その問いかけが取引を意味していることは、抜け作のよし朗でも読み取れた。ただ取引が具体的になんなのかは分かっていなかった。それでも気安く「はい」と言ってはいけない、と本能は告げていた。
「き、気にはなる……」
 それがよし朗の精一杯の抵抗だった。
「ま、いいわ。教えたげる」
 その話はこうだ。
 新城の中学時代、学校で避難訓練があった。もちろんそれはどこの学校にでもある緊張感のかけらもない、ただ授業が潰れるだけのイベントだ。当然、新城のクラスメイトもくっちゃべりながら隊列をイモムシのように進ませていた。しかしその中で、なぜか新城だけは張り切っていたそうだ。級長でもないのにその場を仕切ろうと必至だった。そのため当の級長の仕事といったら、グラウンドに整列したクラスメイトが歯抜けになっていないかを数えるのみだった。
「だけど、何度数えてもひとり足りないのよ。それでちょっとした騒ぎになってさ、教師らが捜索するって事態になったの。で、担任が校舎の中に入っていくと……半泣きのままウロウロしている新城さんがいたってわけ」
 半泣きウロウロ――そのイメージはスパークとともによし朗の頭の中に広がると、一瞬で脳味噌を幸せ色にとろけさせた。
「そのときに、“本物の災害なら死んでいたぞ”って教頭に言われたんだって」
 と言い終わらない内にマドカは大声を上げて笑い出した。そしてひとしきり笑うと、ぼけっとしているよし朗に気がついた。
「なぁに、分からないの? “死んでいたぞ”よ、“しんでぃた”。あははっ!」
「……あはは?」
 よし朗の思考力はお花畑に置き去りにされたままだった。もう、シンディの意味なんてとっくの昔にどうでもよくなっていた。
「あそ。とにかく、彼女が今フリーかどうか知りたくなったでしょ?」
「たまらなく知りたい」
 即答だった。
 マドカは目を細める。長くカールした睫がこちらを向いた。
「フリーよ。さらにいうと、今までに男と付き合った経験もなし。……臭ってきそうなくらい処女よ」
 よし朗の全身が粟立つ。それは歓喜というよりも戦慄だった。純潔が汚されるさまが容易く浮かんだ。よし朗にとって、片思いの子が非処女かどうかなんてのは、時間的な違いでしかない。いずれにしろ自分には縁のないことで、それはマドカといることでいっそう強く感じられた。
「ま、マジかよー……」
 はしゃいで見せようとしたが、気持ちがついてこない。
「そういうわけだから、さっさと告白しなさい」
「えっ!? いや……」
「なぁに、まさかイヤとか言い出す気? あんたさ、発泡酒は買ってくるわ、やらしい目で視姦はするわ、人の過去は掘り返すわで、挙句のはてに新城さんの情報も聞くだけ聞いて、ぇえ? それで告白しないとか言って済むと思ってるわけぇ!?」
 マドカは態度を豹変させた。よし朗の胸ぐらを引っ掴むと、ドスをきかせた声で凄む。よし朗を怖じ気づかせるには十分すぎるほどの迫力があった。が、それでもよし朗は首を縦に振らない。
「あぁ、そう。なら、あんたの代わりに柳沢が告ることにするわ」
 これにはよし朗もたまげた。
「や、柳沢ってサッカー部の!?」
「あんたん高校《とこ》のね」
「ややや、それはマズイよ」
 サッカー部の柳沢といえば、よし朗の学校で知らない者はいない。
 頭脳・運動神経ともに抜群で、カリスマもあり、さらに容姿も端麗という少女マンガの中から飛び出してきたかのような男だった。そんな彼に〈失恋〉のふた文字など存在しない。だから、告白はたちまちステディ宣言となる。新城であっても例外ではないだろう。
 それだけではない。こんなイケメンだ。いろいろと良くない噂もある。皮肉なことに、マドカの人形《ギニョール》という事実がその証明となっていた。
 いくら他人事とはいえ、いたいけな少女をろくでなしの餌食にさせることはしたくない。
「なら告白しなさいよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。なんでそうなるん――」
「分かったわ。三日待ったげる。ただし……」
 マドカはビールを持った手に力を込める。中身の入ったスチール缶は、複雑骨折のような音を立てた。
「ただし、三日たっても告れなかったら……柳沢だからね!」


 4.

 それからの三日間はあっという間だった。
 よし朗は何度となく勇気を振り絞ってみた。しかし奇怪な挙動が増しただけで、結果としてはいつもより三回も多く絡まれ、十六回も多く「キモイ」と言われた(気がした)。
 そして気がつけば、三日目の放課後となっていた。
 よし朗は誰もいない教室で、ただ自分の席にじっと坐っていた。やがて立ち上がると、窓の外を眺めた。
 校門の方へ向かって歩く新城が見えた。
 よし朗は、ふいに「びっくりするほどディストピア!」と叫ぶと、一目散に教室を飛び出した。
 それからすぐに新城の背中をとらえた。しかし、それ以上近づくことはしなかった。ただ彼女の数メートル後ろをキープし続けた。新城が電車に乗る際は、適当な距離の切符を買い、乗客に紛れて同じ車両に乗り込んだ。
 よし朗のそれはどう見てもストーキング行為だった。
 しかし夕刻の帰宅ラッシュで混雑した車内は、あっさりと新城を埋もれさせた。あせるよし朗。血走った目で、生温かい鼻息をふりまきながら、人ごみをかき分けるように車内をうろついた。
 ――ヒッ!
 よし朗の耳元で、女性が鋭く息を飲んだ。
 次の瞬間、よし朗の腕は誰かに掴まれ、勝利宣言のように高らかに掲げられた。
「この人、チカンですッ!」
 あわれなよし朗は、そのまま次の駅で降ろされ、構内の応接室へと連行された。


* * *

「君、M高校の生徒だよね?」
 若い駅員が面倒くさそうに言った。
「違います」
 よし朗は答えた。
「でもその制服はM高校のものだよ」
「これは着ているだけです。そう、コスプレです!」
「はぁ、そんなコスプレ聞いたことないぞ! 君はM高の生徒さんだろ!?」
「……違いますよ」
 先ほどから同じやりとりが続いている。
 室内にはふたりの駅員とOLがいて、よし朗をしっかり見張っている。というよりも、むしろOLがよし朗に飛びかからないかと駅員らが見張っていた。それほどに彼女は殺気立っていた。
 よし朗に恥ずかしい部分を触られたのがよほど不快だったらしい。ただ、実際に触ったかは定かではないが。だけど、そんなことを彼女に説いても無駄どころか、火に油を注ぐ結果となることは見えていた。
 彼女は全身にブランドをまとっていた。子供がいてもおかしくはない年齢に見えるが、家庭じみた印象は皆無といえる。おそらくは三十代独身キャリア。こういうのに限って偏見が強く、人を見た目で判断する。セクハラ面のよし朗にとって、一番やっかいな存在だった。よし朗はただ運を天に任せるしかなかった。
 しかし、祈ったところで女神さまがよし朗に微笑むとは到底思えない。よし朗にとって警官がやってくる足音は、破滅へのカウントダウンだった。
 背後で、戸が勢い良く開く音がした。
「その女のまんこを触ったのはオレだッ!」
 部屋中の視線が声のする方へ集中する。
 入り口に立っていたのは警官ではなかった。ホスト風の男がひとり。彼は美食マンガのエラそうな陶芸家のように、ズカズカと応接室に入ってきた。
 くやしいけど、イケメンが言うとカッコイイ、とよし朗は思った。さらにくやしいことに、OLの態度も全く違うものだった。彼女は男の言動に驚きはしたものの、嫌悪感を示すことはなかった。隣にいた年配の駅員が男を見ながら彼女に「お知り合いの方ですか?」と聞いても、OLはあいまいに首を振るだけだった。
 ホスト風の男はまじまじとよし朗の顔を見つめた。それから大袈裟に溜息をついた。
「どうしてこんな冴えない童貞くんとオレとを間違えたんだ、セニョリータ!?」
 さすがにセニョリータはないだろ! と、よし朗は思った。単に頭のおかしい奴かとも思ったが、男の左手に巻かれているものを見て考えを改めた。イタリアの有名な画家の名前が付いた腕時計。それは高級車にも匹敵するほどの代物だった。
 となると、このホスト風の見た目は伊達どころか、いい店のナンバーワンという可能性もある。だとしたら、これが百戦錬磨の腕前なのかもしれない。
 よし朗はOLの方を観察する。
 彼女は両手をもじもじさせていた。まるで思春期のころにでも戻ったかのような、気味の悪い恥じらいを見せている。
 これにはよし朗も愕然とした。
 結局、女を虜にするのは顔と金《ステータス》。分かりきったことではあったが、これほど苦痛を伴う再認識もなかった。さらにつけ加えると、OLはよし朗よりも前に腕時計の価値に気がついていた。
 すでに室内はホストとOLのふたりだけの空間となりつつあった。
「あの……僕……」
 よし朗は駅員に目配せする。
 彼らは気まずそうな顔を向けるだけだった。
 よし朗が応接室を出るのと警察が来るのは同じタイミングだった。警察は訝し気な視線でよし朗を見送ると中へ入っていった。
 小さな駅だった。
 構内には片手で数えられるほどの人しかいない。そこに見知った少女が、いた。


* * *

「アーッハッハハハハハ!!」
 人気のない駅裏でマドカが大笑いを決める。よし朗はその横で棒立ちとなっていた。
「まさか本当にストーキングするなんて。おまけに痴漢まで……。あんた私を笑い殺す気?」
 マドカは腹を抱えながら不法駐輪されている自転車を蹴倒した。
 どうやら新城を尾行するよし朗の背後で、さらに尾行する者がいたらしい。おそらく人形《ギニョール》の仕業だろう。そいつがマドカに随時報告していたわけだ。
 先ほどのホストが身につけていた腕時計を思い出す。あれと同じ物を三日前にマドカの部屋で落っことしそうになった。めったにないレアものの腕時計だ。おそらくあの男も人形《ギニョール》だろう。
 緊張の線が切れたよし朗はその場にへたりこんだ。
「マドカ……ありがとう……」
「感謝するなら行動で示しなさい」
 そう言ってマドカは鞄から携帯を取り出した。
 よし朗は差し出されたそれを、ぼさっと見上げる形となる。
「ホットラインよ」
 ディスプレイには“新城あつ美”という文字とともに、携帯電話の番号《ナンバー》が表示されていた。
「これが最後のチャンスよ。三十秒以内にかけなかったら……分かってるわよね!?」
 さっきの爆笑のなごりなのか、毅然としたマドカの表情にはところどころほころびがあった。よし朗は今ごろになって、マドカは自分を使って遊び倒しているのではないかと訝しんだ。早く家に帰りたくて仕方なかった。帰ったら、二度と外には出ないでいよう。そう、心の中で誓った。
 どうせ結果は見えている。さっさと携帯を受け取り、新城に電話をかければ済むことだ。
 けれども、よし朗はそれを受け取る気にはなれなかった。なぜかは分からない。マドカにもて遊ばれることに対する抵抗や、告白の思い出を汚されたことに対するトラウマがないわけではなかったが、いまいちはっきりしない。
 なんにせよ、マドカのお膳立ては悪くない条件なのだ。どうせダメ元なら、告白した方が柳沢にかっさらわれない分得といえる。あと、万が一ということもある。
 もちろん、そんなことはよし朗だって承知していたし、ここ三日ずっとそればかり考えていた。それでも告白が実行されることはなかった。
 ――自分は本当に新城が好きなのか? 土壇場でそんな疑問が湧いた。もしかすると、自分が本当に好きな女の子は、目の前の人物なのかもしれない。だから、漠然とした期待を寄せているのかもしれない。告白しなかった場合に起こる事態に。
 マドカを見上げながら、よし朗はふと思った。
 マドカはすでにテンカウントを始めている。
 携帯についたホルスタインとアマガエルのストラップが振り子時計のように揺れていた。
 よし朗の瞳は、気の毒なくらい熱っぽくマドカをとらえていた。
「――さん、にぃ、いち、時間切れよ! このチキン野郎!」
 マドカはバックライトが落ちた携帯を素早くたたむと、鞄にしまった。
「あんたって、マジに救いがたいアホね。キモイし、オタクだし、約束は守んないし、生きる価値ないんじゃないの?」
 よし朗は軽く死にたくなった。
「あ、あの、言い訳じゃないけど……」
「で始まる言い訳って多いよね」
「……だね、どっちでもいいよ。けど、新城さんにとっては、僕よりも柳沢に告られた方がうれしいと思うんだ」
 マドカは腕を組んだまま押し黙った。
「ぼ、僕が彼女を幸せにしてあげられる方法は、つまり僕が身を引く以外にないって思ったんだ」
 嘆息が漏れた。
「あんたって、つくづく努力ってものを知らないわね」
「なんだよ、マドカだってさっき僕のことを価値がないって言ったじゃないか。それなら価値のある柳沢に……」
「勝手に変な解釈しないでくれる? でも、あんたと寝るだなんて苦痛以外の何者でもないことは確かね」
「ほ、ほら!」
 と言ってよし朗は、ちょっぴり切なくなった。
「ただ、あの子にはいい薬になると思ったんだけどね。……そうそう、あの子だったらあんたでも一発くらいならヤらせてもらえたのにね」
「えッ……ど、どっ、どうゆうこと!?」
「別に変な意味はないわ。彼女はただ自覚のない偽善者ってだけ。ああいうのは痛い目にあわないと分からないタイプだからさ、あんたみたいな最悪な奴とひと晩過ごせば目が覚めると思うんだよね」
 あまりにも憶測ばかりの物言いだったが、マドカが言うと不思議な説得力があった。
「いや、だからってヤらせてもらえるわけじゃなし」
「だからぁ、ああいう子は押尾風土下座のひとつでもすれば、なんでもほいほいゆーこと聞いてくれるもんなの! 初回限定で」
「マジでッ!?」
 初回限定という言葉に弱いオタクなよし朗は、すっかり毒気に当てられた。
「それに既成事実さえできてしまえば、もしかしたら……」
「やっぱり告白する! させて!」
 よし朗はマドカに手を伸ばす。
 マドカはそれを平手打ちで制した。
「もう遅いわ。今ごろ新城さんは自分の部屋を抜け出す計画でも練ってるころよ」
 よし朗は肩を落とした。いよいよ本格的に死にたくなった。
「あんた今、死にたいとか考えてるでしょ」
 マドカの言葉によし朗は頭をもたげた。とっくの昔に日は暮れていて、マドカの姿はシルエットとなっている。
 それは再会したときのような死神の姿に見えた。漠然とした期待感に、くっきりとした輪郭が浮かび上がった気がした。すがりつきたい衝動に駆られた。
「そうだ、死にたい。でもそれならマドカに……僕をマドカの人形《ギニョール》にしてくれッ!!」
 よし朗の叫び声は、微かなエコーをともなって消えた。
 シルエットが口元を大きく歪めて笑った気がした。
 沈黙があたりを支配した。それはほんの数秒のことだったが、よし朗の焦燥感は極限にまで高まった。
「そう言うと思った」
 マドカの第一声は、少し意外なものだった。
 マドカは外灯のついた電柱の下まで行くと、鞄から何かを取り出す。
「これ、あんたの部屋にあったやつ」
 よし朗に手渡されたものは、一冊の大学ノート。表紙には、一昨年の十二月から去年の三月までと日付が記されている。
 ノートの中身は日記だった。
 そこにはまず著者とマドカの再会が記されていた。次に小学生時代の著者とマドカとの関係。同じ団地、遊び仲間、喧嘩、キス、告白……。
 ノートを掴むよし朗の手に力がこもる。それにわずかながら震えてもいた。
「こいつは、まるで……僕、じゃないか……?」
「あんたの部屋から拝借したものだからね。持ち主はもちろん……」
 よし朗はマドカの言葉を浴びるように受けた。目はひたすら文字を追っている。すっかり覚えのない〈よし朗〉が語る驚くべき過去の虜となっていた。
 その〈よし朗〉によるところには、マドカの“初めて”を奪った相手は、彼女のピアノ教師ではなく、〈よし朗〉だった。そしてマンションから飛び降りたのも、やはり〈よし朗〉。
 それはつまり、よし朗が七年も前にマドカの人形《ギニョール》となっていたことを意味する。
「僕が、ひと桁台で……ど、ど、ど、だ、脱童貞……!?」
 よし朗の頬は緩みっぱなしとなり、それはもう見られたものじゃなかった。
 さらに〈よし朗〉とマドカの再会は思わぬ展開を見せる。
 小学生時代から恋焦がれていたマドカとの再会で、その恋心を再燃させたのは、〈よし朗〉だけではなかった。ふたりの関係は、まさに生き別れとなった恋人のそれだった。
「まさか、そんなバカな……。こんなの事実なわけないよね?」
「もし、事実だとしたら?」
 マドカはぽつりと呟いた。
「だとしたら、僕はマドカの人形《ギニョール》第一号で……。――ッ!? まさか! でもそれなら……」
「何がまさかなの?」
「マドカが僕の記憶を……いじくった、とか?」
 マドカにとって男を人形《ギニョール》にすることと、そいつから自分に関する記憶を消すことはセットみたいなものだった。おそらく無数の人形《ギニョール》を管理する上で必要なことなのだろう。彼女のこの能力は、やろうと思えば偽の記憶を植えつけることも可能なはずだ。
 よし朗の現実は大きく揺らいでいた。
 マドカの人形《ギニョール》であること。過去の記憶が改変されているということ。そして、マドカと相思相愛であったこと。そのどれもが圧倒的な事実のように感じられた。
「でもこいつがすべて事実だとしても、記憶を改変する必要性が分からないよ」
 よし朗はマドカを見た。マドカの表情には一切の感情がない。まるで死神に魂の価値を値踏みされているようだった。
「本当に分からない?」
 その声は極めて事務的なものだった。
「……マドカが愛想をつかしたから、とか?」
 恐る恐る、よし朗は答えた。
「確かに相手があんたじゃねぇ。でも、そうじゃないとしたら?」
「としたら……」
 まだ彼女の能力を知ってまもなくのころ、よし朗はマドカに「どうして人殺しなんかするんだ?」と聞いたことがある。マドカは「人殺し? 人聞きの悪いこと言わないでよ。私は、ただ人形を壊してるだけよ」と答えた。「でも、イケメンぞろいのお気に入りじゃないの?」とよし朗が言うと、マドカは「人形だから、見た目がいいのを選んでるだけよ」と返した。
「もしかして、僕が人形《ギニョール》だから……?」
 遠くで遮断機の警報がこだましていた。
 マドカはわずかばかり沈黙した後、無機質な仮面を捨てた。
「……千穐楽ね」
 困ったような笑顔をしていた。
 始めて見る表情だった。
 よし朗はかきむられるような胸騒ぎに襲われた。
「えっ、何? 今、千穐楽って言った?」
 ぎこちない足取りでマドカに詰め寄る。
 マドカが口を開けるのと、快速列車が通り過ぎるのと、そして何者かがよし朗の背中にぶつかるのは、ほぼ同時だった。マドカの言葉は轟音にかき消され、よし朗の体内では暴れ馬のような激痛が駆け巡った。
 よし朗は息を荒げながらも、どうにか後ろを振り向く。青い目をした男の顔が間近にあった。マドカと繁華街を歩いていた、あのハーフの男だった。
 嗅覚が馴染み深い臭いをとらえる。
 ざらざらとした生ぐさい臭い。それは、よし朗とマドカを密接につなぐ血の臭い。
 頭の中では、ずれた走馬灯がスクリーンの下に沈んでいた。よし朗は、白紙となった上半分こそが自分の一生にふさわしいと感じた。
 白紙の前では絶望すら空虚なものだ。人間か人形《ギニョール》かなんて、さらに些細な問題でしかない。すべてがただの無。
 薄れゆく意識の中で、よし朗は思った。
 マドカが切り裂いたもの。それはよし朗の白紙部分ではないのか、と。
 だとしたら――
「マド……カ、ご……め……」
 言い終わらないうちに、よし朗の口から大量の血があふれ出した。筋肉が限界まで強張る。そのままよし朗の身体は固いアスファルトに叩きつけられた。
 そして夕闇が緞帳のように、よし朗と世界とを遮断した。


* * *

「ホント、あんたって根っからの人形《ギニョール》だわ」
 その声は電車の轟音にかき消された。しかしたいしたことではない。よし朗の最期の言葉を聞いて、なんとなく、そう思った。
 マドカは血まみれとなったよし朗のもとにしゃがみ込む。うつぶせとなったよし朗は、首を九十度に曲げ顔の左半分だけを覗かせていた。
 マドカはその左頬に指を這わせる。ねっとりとした血が彼の頬に模様を描いた。
 やがてマドカはよし朗からノートをひっこ抜くと、無造作にページをめくった。
「……指示どおりに書けてるみたいね」
 闇の中からハーフの男が現れた。男は血濡れのサバイバルナイフを軽く胸に添えると、短く会釈した。
「お褒めいただき光栄です」
 マドカはそんな男に一瞥もくれず、ノートに目を通し続けた。
 日記の中では、次第にマドカの人形《ギニョール》であることに恐怖を抱き始めたよし朗が、彼女を殺す計画を企てていた。
「我ながらよくできた話だわ」
 自嘲的な笑みを浮かべ、マドカはそっとノートを閉じた。

閉幕

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