『陽炎の夏 第五回』

『陽炎の夏 第五回』

著/芹沢藤尾

原稿用紙換算60枚


 道端の落ち葉を踏む音に、乾いた冬の息吹が宿り始めていた。
 十二月も半ばを超えた秋の終わり。竹井直樹は駅前のベンチでぬるくなった缶コーヒーを精一杯ゆっくり飲みながら、改札から出てくる慌しい人ごみを眺めていた。そこに待ち合わせの相手がいないことがわかるまで、そう時間がかかったわけでもないが、とめどなく溢れていく人の群れをいちいち観察する作業に飽き始めていた彼は、うんざりした思いで白い息をつく。
「そういや、これは初めての経験だな」
 腕時計を見ると、待ち合わせの時間は十分前に過ぎていた。珍しいこともあるものだと、直樹は藍色に染まり始めた空を見上げる。先月もその前も、待ち合わせに後から来るのは直樹の方だった。別に時間に遅れたわけではないので後ろめたい思いはないが、それだけに、いつもは時間前に必ず来ていた彼女の姿がないことに、小さな不安が胸を掠める。
 携帯電話の番号を教えておかなかったことを今更ながらに後悔したが、たとえ時間を遡れたとしても、彼は自分から番号を教えることはなかったであろうから、所詮それは無意味な想像にすぎない。いい加減捜しにいってみようかと考えたが、彼女のいくような場所などひとつも思い当たらず、結局このままベンチに座って待つしかなかった。
「まったく。ジジイも面倒くさいことしてくれるぜ」
 ぼやいて、新たに改札から溢れ出てくる人の群れに視線を向ける。
 七月に診療所で鉢合わせて以来、直樹は週に一度、黒沢と連れ立って医者に腕の診察をしてもらっていた。古傷を持つ自分はともかく、黒沢がなぜ毎週診療所にいかなければならないのかと不思議に思い、そのことを訊いてみたが、医者は守秘義務だと一言で切って捨てて教えてはくれなかった。
 もっとも、なぜ黒沢と一緒に診療所にいかなければならないのかという疑問に関しては、医者は答える気もなさそうではあったが。
 結局、いつになっても答えてくれそうにないので、いい加減これは習慣なのだと呪文のように呟いて自分を納得させることにした。そのほうが気が楽だったし、変に話を掘り下げて地雷を踏みたくもなかった。
 一度だけ、医者は冗談のように「彼女はお前のお目付け役だ」と笑いながら口にしたが、案外それが正しいのかもしれない。美術部の彼女に、夏の明口学園戦以来、たびたびマネージャーの助っ人を頼んでは世話になっていた。
 彼女の仕事ぶりは一年からマネージャーを勤めていた望月も舌を巻くほどで、他の部員達からも軒並み高い信頼を集めていた。黒沢も黒沢で反論もしないで黙々と仕事をこなしてしまうものだから、バカな野球部員達は一同揃って、優秀なマネージャー達におんぶに抱っこの状態だ。
 十二月の頭に美術室に遊びにいった際、中嶋から「あんまりうちのエースをこき使わないでくれ」とぼやかれて、さすがに不味いことをしているなと反省されられた。
「とはいえ、今更暇を出すわけにもいかないからなぁ」
 それはあまりにも身勝手すぎるというもんだろう。だが、このまま文句を言わないのをいいことに、助っ人マネージャーとして美術部員の彼女をこき使うのはもっと忍びないことだ。
 どうすりゃいいのかねぇ、と困ったように頭を抱えるフリをしてみる。
 急行電車の通過する音が轟いて、音に従うままに顔を上げた。通過した電車の向こう側で反対のホームに普通電車がゆっくりと出ていった。
 その窓に映った見知った後姿を見止めるやいなや、直樹は、自然と自分の頬が緩むのを感じた。
 そのあまりのゲンキンさに、我が事ながら情けない、と今度は本気で頭を抱えた。

「……おし、診察終了」
 慣れた手つきで腕の触診に続いてマッサージを終えた医者は、機嫌よさそうな笑みで直樹の背中に張り手を見舞う。ぱちぃん、とゴム風船を割ったような小気味いい響きが診察室を駆けた。
 直樹は診察台のベッドにうつぶせの姿勢で横たわったまま、横目で医者を睨んだが、医者は満面の笑みでかごに入っていた直樹の上着を投げてよこした。
「ちゃんと言いつけを守っているようだな。昔に比べてずいぶん素直になったじゃねぇか」
「そりゃ、夏前に潰れてもらっちゃ困るからな」
「最近はチームの成績もいいらしいな。夏樹のやろうから聞いてるぜ」
「ああ、まあね」
 もぞもぞと上着を着てそっけなく答えながら、上機嫌な医者の口調に、直樹も内心、悪い気はしなかった。
 今年に入ってからの野球部の成績は、前半戦を終えた時点では〇勝七敗だったが、夏の明口学園戦を機に、秋季大会をまたいで週に一度のペースで試合を行い、また高野連の規則に縛られない同好会の立場であることをいいことに、冬場になっても隣の県に遠征をしては、『たまたま』その地区の野球部員が多く在籍する草野球チームと隔週のペースで試合を行い、その通算成績を九勝十敗一分けにまで持ち直していた。
 夏ごろは今のままでは同好会が部に格上げされても立場がないと焦っていた山田も、最近ではずいぶん落ち着いてきた様子で、チームの成績に比例するように打撃成績は向上していた。
 もともと、部長、キャプテン、監督及びコーチ代行をほとんど一人でこなしていたこともあり、とても満足に練習できる環境になかったのだが、ある意味で一番の不安材料だった山本コーチが八月を前に謎のヒステリーを起こして田舎で療養する為退職して以来、自身の練習に打ち込めるようになってからは、それこそ元気というエネルギーの塊をタル型にくりぬいて手足をつけたようなハツラツ振りを発揮していた。直樹としてはあのいけ好かないコーチがいなくなったことは喜ばしいことだったが、六速でアクセル全開にしたような山田の天井知らずのテンションには、いささか参らされた。
 部活に本格的に参加する前に直樹は肘の不安を山田に話し、山田もそれを了承した上で、できるだけ負担がかからないよう、投手の分業制を取る方針を打ち出してくれた。おかげで、肘の調子は登板試合数の割にはそれほど悪くない。むしろ最近では試合勘が研ぎ澄まされていくにつれて、調子がよくなってきているような気がした。
「このまま大事に使っていけば、少なくとも来年の夏までは保障してやるよ。くれぐれも言っておくが、調子に乗って球放りすぎるんじゃねぇぞ。お前の肘が壊れやすいってのは今でも変わらないんだからな」
「それは肝に銘じておくよ」
 高揚していく気持ちを自制するように答えて、ドアの前に掛けてあるコートを手に取った。
「それじゃあ、また来週な」
「おう、せいぜい摂生しておけや。ロクデナシ」
「うっせぇ、ヤブ」
 頬の端を引きつらせて、直樹は医者に向けて左中指を突き立てた。

 直樹が診察室から出ると、待合室で黒沢が、ソファーに腰掛けてゴシップ誌となにやら真剣なにらめっこを展開していた。ずいぶんと古そうな雑誌だった。遠目からでも表紙がしわしわにたわんでいるのが見える。
 彼女は雑誌を、中綴じのところから二つに折り曲げて、今まで見たこともないような顔で見入っていた。
「すげぇ顔してるな。親の仇でも載ってたか?」
 声を掛けられて、彼女ははっと直樹を見た。
「診察、もう終わったんですか?」
「ああ。気づかなかったか?」
「今日は悲鳴をあげなかったんですね」
「……おまえんところの血族は、俺になにか怨みでもあるのか?」
 ひくつくこめかみを押さえながら、直樹はもう四ヶ月も前の自分の痴態を後悔した。いつもガラガラの診療所で、診察する医者も見知った相手だから思う存分叫んだのだが、まさかそれをネタに未だにからかわれるハメになるとは、さすがに思いもよらなかった。
「……最近分かってきたんですけど。先輩って可愛かったんですね」
「なんだよ、それは」
「だって、いちいち律儀に反応してくれるんですもん」
「覚えとけよ黒沢。ピッチャーってのは本来、繊細なもんなんだぞ」
「うわあ、全然笑えない冗談。とても三日間アンダーシャツを洗濯に出し忘れてた人のセリフとは思えませんね」
 率直な皮肉をぶつけられて、直樹もそれ以上何も言えずに黙ってしまう。はじめて美術室に乱入した時からなんとなく気づいていたことだが、どうも黒沢といるとテンポが狂う。とくに部活の助っ人マネージャーとして手伝うようになってからは、いろいろと握られて頭も上がらなくなってきた。
 男っていうのはな、いい女には絶対に勝てないようになってるんだよ。
 昔、従兄が妙に悟ったような面持ちで、肩を叩きながら言ったセリフがよみがえる。黒沢がいい女かどうかは別にして、女に弱いのは家系なのだなと、直樹は肩を落とした。
「もう分かったからよ。さっさとジジイのところにいってこいよ。待ちぼうけてるぜ」
 言って、自分の後ろにある診察室を指差す。
 黒沢は雑誌を棚に戻すと、そうですね、と存外素直に直樹の言葉に従った。
 彼女が診察室に入った後、直樹は棚から雑誌を取り出し、ページをぺらぺらとめくりながら、開き癖のついた見開きで指を止めた。
 そこにあった記事の内容は、二年前に逝去した古泉という老画家の一回忌追悼で、別にこれといった事件性のあるものではなかった。
「やっぱりあいつ、美術部なんだよな」
 ひょっとしたら、ファンかなにかだったのだろうか。そんなことも考えたが、それ以上深く考えるということもせず、またぱらぱらとページをめくって、適当に暇をつぶすことにした。
 その翌日、練習後に黒沢から土曜日に美術展に付き合ってほしいと聞かされた直樹は、驚き、彼女の顔を真正面から覗き込んだ。
 運動部員全員のマッサージを望月とともに終えた彼女は、冬場にも関わらず額から汗を流している。その肌色が、夏前に比べて、ずいぶん健康的な色になっていることに気がついて、直樹は耳の裏を熱くした。これまでしょっちゅう一緒にいたのに、なぜ今更そんなところに気がついたのか。
「何ですか。そんなにジロジロ人の顔覗き込んで」
「見てわからんか?」
「……何なんですか?」
「驚いてる。いったいどういう気まぐれだ?」
 いつもの口調で、半分だけ本心を告げると、黒沢は拗ねたように口を尖らせたまま、頬をかすかに膨らませ、今週の土曜、と呟いた。
「何の日だか、わかります?」
 言われて、直樹は頭の中に教室に張ってあったカレンダーを思い描いた。
 今週の土曜。それは十二月の第四週目。前日には赤い印が付いていて、翌日の赤と挟まれた状態で……
「……あぁ」
 大体予想が付いた。
「なるほど。クリスマス・イヴに一人っきりでいるのがさびしいのか」
「そんな負け犬みたいな言い方しないでくださいよ」
「いや、みたいもなにも」
 そのものじゃないか、という言葉をあやうく吐きそうになるのを、精一杯自制した。間一髪であった。危機一髪であった。自分で投げたナイフが鼻面向かって一直線。眉間貫通一秒前で指に挟む妙技に成功した達人のような心持。何とか間に合ったと内心で安堵の息をつき、直樹は満面のつくり笑顔で黒沢に微笑みかけ、
「みたいもなにも……なんですか?」
 まあ、それが当人同士にとって間に合っていたかどうかは別問題であったのだということを思い知らされた。

「あん? それでお前、放課後は黒沢とデートすることになったのかよ」
 昼休み、黒沢との放課後の予定を聞いて、中嶋は呆れたような声をあげた。
「デートじゃねぇよ。ただ一緒に美術展にいくだけだ」
「似たようなもんじゃねぇか」
 エアコンが取り付けられている美術室は、冬でも空調が行き届いていてすごしやすい。直樹は自前の弁当を五分とかからず腹の中に流し込み、五〇〇ml百円のコーヒー牛乳をストローでずるずる啜っていた。
「しっかし、お前と美術展ねぇ。ほんの十分前までは想像もできない組み合わせだな」
「俺もそう思うんだが。なんでやろうはお前じゃなくて俺を誘うんだよ。いやがらせか?」
 もしそうなら、あいつは一流の悪女になれるだろうな。しかし、なにもイヴにまでそんなことしなくていいだろうに、とずるずるずるずるコーヒー牛乳を啜る。ふと気づくと、中嶋がなにやら濁った雪のような目でこちらを見ていた。
「なに?」
「……俺、ちょっとお前のこと殺したくなってきた」
「なんでさ!?」
「裏切ったな。僕の気持ちを裏切ったな!? 夏前は二人でお茶して過去話までして、ばっちりフラグを立てて炎○留コースまっしぐらだと思っていたのに! まさかあんな小娘に先を越されるなんて!」
「何言ってるかわかんねぇよ!」
 夢破れた乙女のようにハンカチを噛み締める中嶋の脳天目掛け、直樹は空の牛乳パック全力で投げつけた。空のパックはパコッという間抜けな音を立てて舞い上がり、中嶋の背後にあったゴミ箱にふらふらと落ちていった。
「ははは、ナイスシュート。圧倒的じゃないかね」
「いかん。つい試合よりも力がこもってしまった」
 余裕の表情で両手を広げて高笑いする中嶋に、直樹は頭痛を覚えた。
「にしても、お前が女の言うことにおとなしく従うなんて珍しいな。いったいどういう心境の変化だ?」
「ただの習慣だよ」
 ぶっきらぼうに呟いて、それ以上の理由なんかないと付け加える。
「部活の方は大丈夫なのか?」
「問題ない、ていうか、むしろ山田から休めといわれたよ。うちの場合、バッティングピッチャーが必要ないからな。年始の練習試合に向けて、年末は肘と肩を休ませるよう勅命だ」
 職権濫用を極めた山田は、生徒会の続柄を通じて予算を操作し、他の運動部が去年めぼしい成績を上げられなかったのをいいことに、『先行投資』の名目で多額の部費を引っ張ってくることに成功していた。その結果、顧問の目沢教諭の個人的人脈もあって、雪乃華の野球部は、正式な扱いは同好会のままにして、四台のバッティングマシーンを導入していたのだ。
 春先の連敗街道驀進中は、さすがにこのままではまずいと思わされたが、幸いその後はほとんど五分五分の成績を残している。年明け後に組む練習試合で二連勝を達成できれば、今年度の成績を勝ち越しで迎えることが出来る。その為にも、投手陣の中核を担う直樹に、十分な休養を与えようというのが、山田の出した結論だった。
「まったく、規則に縛られないっていうのは楽でいいぜ。今頃他の高校の奴らは、試合を組みたくても組めないっていうのによ」
「その代わり、俺達の公式戦は夏にぶっつけだ。春の大会には出られないから、夏のシード権は望むべくもない」
 高野連に加盟している高校は、夏の本選前に、春のリーグ戦に出場できる。その結果によっては、夏のシード権を獲得することが出来るのだが、来年度から高野連に加盟する雪乃華では、その大会には出場することが出来ない。
「やれない時にやりたい放題してると、やりたい時にはやれないわけか」
「平等だろ?」
「因果応報とも言うがな」
「ものは言い様だ」
「詭弁とも言う」
「日本語は便利だ」
「それは同意見だ」
 意地悪な笑みを浮かべながら、中嶋はそろそろ閉めようぜ、と美術室の時計を指差した。時計の針は一時半を指している。黒沢との待ち合わせは二時からだった。
「初デートの遅刻は好感度が下がるんだぜ」
「前々から思っていたんだが、お前は時々、俺とは違う次元の言語を操るよな」
「三次元に生きている男など、みんな死ねばいいね。これからは二次元の時代なんだよ。紙の上にかかれる理想の世界これ最高ね」
「……美術部員としてのコメントだと受け取っておこう」
 なにやら胡散臭さ全開の怪しい韓国語まで使い始めたが、あまり深く掘るのはやめておこう。
 直樹は鞄を肩に掛けると中嶋に、あばよ、と告げて美術室を後にした。裏切り者、と去り際に扉の隙間から、中嶋の変わった声援が聞こえたが、かまわずのんびりと廊下を渡っていった。
 どれだけ急いだところで、今からでは約束の時間に間に合わないことは、もう決定事項だったからだ。

 学校前のバス停から待ち合わせ場所の終点駅前まで一直線にいったが、着いた時には予想通り、十分ばかり遅れてしまっていた。白い息を吐きながらバスのステップを下りると、バス停は駅前通りらしい喧騒で賑わっていた。来る前にバスの中から酔っ払いの姿を見掛け、『水蓮』がこの近くにあったことを思い出したが、さすがに制服姿のままでは入るわけにはいかないだろう。黒沢との用事が済んだら、後でゆっくり飲みにいこうなどと考えた。
 そういえば、てっきり先に着いて待っているものと思ったが、待ち合わせ場所に黒沢の姿はなかった。学校を先に出たはずの彼女が遅れているとも思えないので、たまたま、席を外しているのだろう。
「よし」
 着込んだコートのポケット内で、小さくガッツポーズ。
 これで遅れたことを誤魔化せる、などとせこいことを考えたところ、背後から後頭部をはたき倒された。
 振り返った視線の先で、学校指定の紺色のコートを羽織った黒沢が立っていた。マフラーで首をぐるぐるに巻いていた彼女の顔は、下半分が暖かそうに隠れていたが、もう半分の空気にさらされている方では、妙に寒い視線が直樹のことをちくちくと刺していた。
「よう……」他に言うことが何もなかったわけでもないが、今この瞬間、直樹の脳みそは主の意思を完全無視して、言語中枢から他の言葉を引き出すことを拒否していた。黒沢の目が「なにが、よし、なんですか?」と冷たく問い質していたが、それに答える言葉は口から出てきてくれなかった。
 二呼吸半ほどして、ようやく意識が脳みそと和解したところで、直樹は、遅れて悪かった、と素直に彼女に頭を下げた。
「着いてたんなら、声を掛けてくれればよかったのに」
「これを買ってたんです」
 そう言って、マフラーから難しい形に結んだ口元を覗かせた黒沢の両手には、缶コーヒーが握られていた。
「俺の分もか?」
 左手の缶コーヒーを受け取る。タブを空けて一口飲むと、彼女は微笑んで、
「そんなわけないじゃないですか」
 空になった左手の平を上に返して、差し出してきた。
「っち。いい性格してるよ」
 呆れながら財布を取り出そうと左手の鞄を下ろそうとして、冗談ですよ、からかうような声に止められる。自分に向けられる悪戯な笑みに、直樹は苦笑した。
「ホントいい性格してるな」
「遅刻してきたんですから、少しくらい意地悪させてください」
「別にいいぜ。で、このまま美術展にいくのか?」
「時間は十分ありますから、近くのお店で買い物していいですか?」
「かまわねぇ。付き合うよ」
 左手の鞄を肩に掛けなおして、黒沢の横を通り抜けながら、直樹は右手の中の缶コーヒーを一口飲んだ。
 少なくとも、冷えた牛乳パックよりは美味かった。
 
 買い物がしたいという黒沢の要望にこたえ、二人の行き着いた先は、駅ビルの三階にある女性用品売り場だった。化粧品を見て廻りたいという黒沢の意見を尊重して、ついでに開催されている美術展がある駅ビル内での買い物だった。
「なにか買いたいものでもあるのか?」
「いえ、特には」
 ウインドウショッピングですよ、とエスカレーターの降り口でフロア図を眺めながら、黒沢は答えた。その視線がある一点で止まるのを見て、背中を冷たい汗が伝った。
「あらかじめ言っておくが、下着売り場に連行するようなら全力で抵抗するぞ」
「興味あるんですか?」
「女が着てない下着には興味ない」
「じゃあ、試着したら見てくれますか?」
「人の話はちゃんと聞け」
「え? だって女の着てる下着には興味あるんでしょう?」
 黒沢はアリの巣に爆竹を突っ込んだ子供みたいな目で、口の端には、先ほどの悪戯な笑みを浮かべていた。
「……そういうのは、望月あたりと来たときにやってくれ」
「ええ。いつもはそうしてますよ」
 なんでもないことのように、黒沢は言う。直樹は今すぐ踵を返して、エスカレーターを逆走したい気分になった。
「でも、明美はそういうのは、彼氏と楽しんでるんじゃないんですか?」
「なに。あいつ彼氏なんかいたのか?」
「そうらしいですよ。誰かは教えてくれないんですけど。おかげで最近は部活外での付き合い悪いんですよね」
 友情って儚いですよ、と嘆くように黒沢は息を吐いた。
「まったく。友情が、愛情よりも信条よりも、神宮球場よりも素晴らしいなんて言ったのはどこのヒーロー様でしたっけ?」
「三本柱三兄弟の次男坊あたりじゃないか?」
 自分でもよくわからない言葉を吐くと、黒沢に不思議そうに首をかしげられた。
「あれ、先輩元ネタ知ってるんですか?」
「いや、俺も自分で何言っているんだかわからないが」
 はて、と直樹も不思議に首を傾げてみる。だが脳みそを斜めに傾けてみても、それで耳から答えがこぼれてくる訳でもなかった。
「まあいいです。私、これからちょっと下着売り場にいってきますから、ここで待っててくれますか?」
「ホントにいくのかよ。イジメか?」
 訴えると、違いますよ、と黒沢は首を振った。
「この前来た時に、ちょっとかわいい下着を見つけたんです。その時に、ちょっと手持ちがなかったんで、買えなかったんですよ」
 だから今のうちに、ちょっと見てきます。といって、黒沢は返事も待たずにすたすたと歩き出してしまった。直樹は慌てて彼女を止めようと手を伸ばして、やめた。止めたところで一緒に来てくれなんて言われたら自分が困るわけだし、別に止めなかったところで、彼女が下着に食われるわけでもない。
「まったく。こんなところに男なんか連れてくるなよ」
 嘆きながら、直樹の頭は先ほどの黒沢の言う『かわいい下着』がどのようなものか、主人の言うことを聞かずにいろいろと想像を始めていた。
 仕方のないことだ、と直樹は自己弁護のように呟いた。普段意識していないが、直樹も黒沢が、同世代の女子と比べて、一般にかわいい部類に入るだろうとは思っている。十代の健全な男子で、しかもかわいい女子高生から、笑顔であんなことを言われたら、無心でいられるほうが異常なのだ。
 自分に言い聞かせながら、深呼吸を繰り返す。頭の中でぼやけた出来損ないの『かわいい黒沢像』を散らしていく。落ち着いて深呼吸を繰り返して、その工程がようやく終わりに向かい始め、精神が均衡を保ち始めた時、
「へぇ、かわいい彼女じゃない」
「ふぇ!?」
 横から声を掛けられて、間抜けな声を漏らしてしまった。
 自分の世界が心臓ごと止まる錯覚に襲われる。いつの間にか直樹のすぐそばにまで近寄ってきていた橘葵が、どこかの店の手さげ袋を手に佇んでいた。
「面白い鳴き声ね」
「おまっ、いつから見てやがった」
「あなた達が面白いコント始めたあたりから」
 つまり、二人が三階に着てすぐあたりだ。
「なんで声掛けなかったんだよ」
「クリスマスのデート中に声掛けるほど、ヤボじゃないわよ」
「デートじゃねぇよ。そんなことはしない」
「ふうん?」
 ゴシップネタを見つけた週刊誌の記者みたいな目で笑う橘に、直樹は逃げるように視線を泳がせた。
「信用してねぇだろ」
「ええ。全然」
「……勝手にしてろよ。それより、お前今日は北村と一緒じゃないのか?」
「一緒よ。あいつなら今上のスポーツ雑貨にいるわ」
 ぴんと一本指を立てて、橘はくすりと笑った。
「あいつも女性の下着売り場は苦手みたい」
「得意な奴がいたら見てみたいな」
「会ってく?」
「いや、やめとくよ。デートを邪魔するつもりもないしな。おめでとう、とだけ伝えといてくれ」
 北村俊哉の活躍は、直樹もスポーツ新聞などで知っていた。夏の大会を怪我で見送った彼は、秋の新人戦でエースナンバーを背負って復帰するや否や、その剛速球で瞬く間にスターダムにのし上がっていった。まだ制球に若干の荒さが目立つも、立て続けに秋の新人戦、地域大会と勝ち進んでいき、明治神宮野球大会も制して、明口は春の甲子園出場を確実にしていた。
 新たなスターの誕生に、マスコミは連日こぞって彼を取り上げた。高校野球を取り扱った雑誌などでは特集も組まれており、今では北村は日本で一番有名な野球選手の一人になっていた。直樹自身、何度かテレビでマウンドに立つ彼の姿を見ていたが、リハビリ空けで試合に臨んだ河川敷の時とは、まるでレベルが違っていたが、それが北村の本来の実力だと、受け入れるのに苦はなかった。もともとシニアでは実戦派として鳴らしており、まともな打線が揃っていれば、県予選ごときで四苦八苦するような投手ではないと分かっていたからだ。 
「ま、そんなセリフ聞き飽きただろうけどよ」
「確かに聞き飽きただろうけど、あなたに言われると別格でしょうね」
「へえ。ずいぶん好かれてるな」
「本当ね。私嫉妬しちゃいそうよ」
 くすりと、橘は小さな笑みをこぼした。
 直樹も笑って、橘の下げている袋に目をやる。来た方向からいって、少なくとも下着ではないよな、と思いながら、訊ねた。
「何買ったんだ?」
「セールしてた化粧品をいくつか。結構安かったわよ」
「マニキュアも?」
「あったわ。二千円くらい。割といい品だったわよ」
「買いどころだな」
「気になるんだったら、見ときなさい。それじゃあ、私もういくわね」
「なんだ、もういくのか?」
「そろそろ待ち合わせだし。それに、あなたの方も彼女が来たしね」
 言って、橘は直樹の肩越しに指差した。視線を誘われるように向けると、その先で橘と同じ手提げ袋を提げた黒沢がこっちを見ていた。
 そのとき直樹は、なぜかジャングルに取り残され、仲間から孤立して虎と鉢合わせた、間抜けなハンターの気持ちを思った。
「じゃあね。また今度」
 残酷な笑顔を残して、橘はエスカレーターを上がっていった。多分、上で北村と待ち合わせているのだろう。
 とりあえず、エスカレーターを折り返して、橘の姿が消えるまで見送った直樹は、颯爽と黒沢に向き直った。
 颯爽に、というのは本人の気持ちの上でであり、実際の動きは壊れたブリキ人形のような錆付いたものだったが。
「よう。買い物終わったか?」
「ええ。今の人、明口のマネージャーさんですか?」
 すでに人影のなくなったエスカレーターを見上げて、黒沢が訊いた。
「ああ。昔なじみなんだ」
「幼馴染ってやつですね」
「わざわざ言い直さなくていい」
「マニキュア」
「……え?」
「買ってこないんですか?」
 奇妙に圧迫感のある声で訊いてくる。直樹は及び腰に、今はいい、と告げた。
「また今度にしておくよ。そのうち、機会もあるだろ」
「誰にプレゼントする気だったんですか?」
「え? いや、自分で使うんだけど?」
 予想外の質問だったので、直樹も思わず素で答えてしまった。その瞬間、なぜか黒沢は、海を泳ぐナメクジの群れでも見たような顔をしていた。
「まさかとは思うが。お前、何か変な想像してないか」
「先輩、そういう趣味あったんですね」
「ちがうって! 投手は爪が乾燥して割れると、ピッチングに影響があるから、そうならないようにマニキュア塗って爪を保護するんだよ。趣味であんなもん塗るわけないだろ」
「ええ別に。先輩がホモでもゲイでもオカマでも、私別に構いませんから」 
「聞けよ人の話!」
「それより、もう用が済んだから、買わないんだったら早く美術展いきましょう」
「だから、おいっ!」
 必死の抗弁もあっさり無視し、無言でエスカレーターを早足に登っていく黒沢の背中を、直樹は慌てて追い掛けた。

 黒沢の目当ての美術展は、そのビルの七階で催されていた。
 古泉辰郎という風景画家の三回忌として催されたその美術展は、お世辞にも大きな規模のものとはいえなかったが、彼が始めて賞を受賞した頃の作品から、晩年の作品までで、とりわけ評価の高かったものが幅広く集められていたらしく、結構な賑わいを見せていた。
 絵画についてまったく知識のない直樹には、どの絵も素晴らしく上手いということはわかったが、それらの絵の変化を年代順に追って理解することは出来なかった。
 ためしに最初期の作品と、テーマの似ていそうな晩年の作品を見比べてみると、確かに何かが違うような気もするのだが、その違いがどこにあるのかわからない。
 古泉が画家として世間に注目され始めた初受賞の頃から晩年の間には、半世紀の時間が横たわっていて、それを理解するには、やはり相応の年を重ねなければわからないのかもしれない。
 あるいは、美術部員の黒沢には、その変化がわかるのだろうか? 
 思いついて、人ごみの中にはぐれた本日の相方を探してみる。
 最初は人の流れに沿うように、しばらくは一緒に作品を歩きながら眺めていたのだが、次第に一つの絵に見入っている時間に差が出てきたので、出口で待ち合わせようと、時間を決めた後で分かれたのだ。
 絵画への興味の差があるといえばそれまでだが、正直なところ、買い物が済んでから妙につっけんどんな態度をされていて、一休みしたかったという思いもあった。
「すこしは落ち着いてくれたかね?」
 呟いて、今彼女がどのあたりにいるかを考える。先ほど、フロアを一周したときには、ちょうど中ほどで絵に見入っていたのだがその時のペースを考えると、まだ後半に差し掛かる手前でじっくりと作品を鑑賞しているのかもしれない。
 考えるや否や、直樹はゆるい歩調を止めずに、そのままぐるりと反転して、今来た順路を逆に廻り始めた。美術展は年代ごとに作品を並べてはあったが、どこからどう廻るかは閲覧者の自由に任せられていたから、そうすることに抵抗はなかった。順路どおりに廻ってくるほかの閲覧者から迷惑そうな目で見られたが、すべて気づかなかったことにした。
 だが、黒沢は直樹の予想通りの場所にはいなかった。まだ絵に見入っているのかと思い、さらに順路に逆らって進んでいく。左手に、海岸線の夕日を描いた画をやりすごし、曲がり角をまがったところで、ようやく不審な動きをしている彼女を見つけることが出来た。
 彼女は先ほど直樹とはなれたところの画に見入ったまま、時折りきょろきょろと周囲を見回しては、また画に見入るという奇行を繰り返していた。
「万引きするには、なかなかでかい獲物を狙っているじゃないか」
 コートから覗く細いうなじが小さく揺れて、黒沢は視線を傾けた。
「そんなにこの画が気に入ったのか?」
「それもありますけど。それより先輩、どこいってたんですか?」
「適当にぐるぐる廻ってるから、出口で待ち合わせようって言っただろ」
「聞いてません」
 即答だった。
「言ったって」
「聞いてません」
「言った」
「いいえ」
「……」
「……」
「言った」
「いいえ」
「聞いただろ」
「いいえ」
「頷いた」
「いいえ」
「意地になってるよな?」
「いいえ!」
「悪かったよ」
「いいえ……」
 へっ、とほうけた顔で見返した黒沢の視線の先で、
「へえ、あやまる必要はないわけか」
 両腕組んで勝ち誇ったような邪悪な笑みを浮かべる直樹がいた。
 ハメられたことに気づいた黒沢の表情に、みるみる赤みがさしていく。
「さっ、詐欺師!」
「人聞きの悪いこと大声で叫ぶな。迷惑になるだろ」
 遠巻きに眺めている周囲の人ごみを目でさす。だれもが突然騒ぎ出した、迷惑な若い男女に無言の抗議をしていた。これといって声を上げるものはいなかったが、このまま騒ぎ続ければいい加減、係員あたりが飛んでくるだろう。
 それはさすがにご遠慮願いたかったので、直樹はあやすように彼女の頭に手をおいて、悪かったよと謝辞を告げた。
 そういう子供扱いが、余計に相手を怒らせることになるなどとは考えてもいない。
 サメのような目で自分を睨みつけた黒沢が鞄を振りかぶり、溜めを作った気持ちのいいスイングでこめかみを狙ってきたとき、ようやく直樹は、どうも自分がいろいろ対応を間違えたことを受け入れて、後悔した。

 悪かった、と謝ったのは、あながち嘘だけではなかった。
 冷静に考えれば、イヴの日に美術展めぐりを提案してきた女子を、一人ほったらかして好き勝手廻るような行動が、落ち度のないものでないことくらいは直樹もわかっていた。わかっていたから、実際黒沢を見つけるまでは、第一声で謝ろうと考えていたのだ。それが、どこをどう間違ったのか、熱心に画に見入っている彼女を見た瞬間、むっときてつまらない意地悪をしてしまった。
 幼児性が抜け切っていないのだ、と自己判断を下したところで、彼女の機嫌が直るわけでもない。自分の落ち度を認めて、さっさと詫びを入れればいいのだが、あいにくその詫びの入れ先は、先ほどから頑なに受け入れ拒否を貫いている有り様だ。
 商店街の人波を俯いたまま、肩で切って歩く黒沢に、直樹は先ほどから三メートルの距離を縮められないでいた。
 イルミネーションで彩られた華やかな光の中で、紺色のコートがこの世の終わりを背負ったみたいに沈んでいる。
 商店街を挟む交差点を渡って、人波が一旦途切れたところで、ここを逃せば機会はないと、早足で距離を詰め寄る。そのまま鞄を持っている彼女の左手をつかんだところで、サメの目で睨まれた。
「……怒ってるか?」
「怒ってますよ!」
 今度は、彼女もそれを隠そうとはしなかった。
「なにを怒ってるんだよ? 待ち合わせの時間に遅れたことか? お前のいない間に女の子と話したことか? 美術展で勝手にはぐれたことか? そのあと一方的にからかったことか? それとも、ひょっとしてあとの騒ぎで、まだ見終わってなかったのに係員に追い出されたことか?」
「全部です!」
「そりゃ贅沢だろう」
「せっかくのイヴにそれだけ一気にくれば、怒りたくもなりますよ!」
 まあ、それもそうかもしれない。直樹にとっては、時間に遅れるのも、目的地で各々勝手に行動するのも、相手をからかうのもいつものことなのだが、今日はいつもとは相手も時期も違うのだ。年上の立場として、少しは自粛するべきだったのだろう。
「悪かったよ。あやまるから」
「思ってもないこと言わないでよ!」
 彼女の左手が直樹の右手を振りほどき、戸惑っている彼の目を正面から睨みつける。
「泣くなよ」
「泣いてません」
 言いながら、黒沢は目尻に溜まった涙を隠すようにうつむいてしまった。その姿は、まるっきり親とのケンカで意固地になった子供のようで、直樹は本気で困ってしまった。
 このまま託児所に連行したら、サンタからプレゼントもらって落ち着いたりしないかな。そんな現実逃避もしてみるが、このまま道端で突っ立ったまま、次第に集まってくる好奇の目にさらし続けておくわけにもいかない。
 直樹は意を決してグズッている黒沢の手を掴み、そのまま人目から逃げるように商店街の脇道に彼女を連れ込んだ。

 ドアの前に下がっていた『準備中』の札を無視して店内に入ると、
「お客さん、まだ開店前ですよ」
 コートの袖でぐずりながら涙を拭っている夏樹を連れ込むと、初老のバーテンはあからさまに顔をしかめた。
「つれないこと言わないでくださいよ、先生。本気で困ってるんですから」
「女泣かせのクソガキの世話なんぞ、いちいち焼いていられるか」
「泣かされた女まで放っておくような人でなしじゃないでしょう。先生は」
 あからさまに臭く泣きついてカウンターに腰掛けると、バーテンは視線を一回黒沢の方に投げてから、肩をすくめて注文を訊いてきた。
「俺はホットミルク。こいつは……」
「カルーアミルク」
「ホットふたつで」
 横で座っている彼女は鼻を曲げたが、しばらくして二人の前に白いグラスがふたつ置かれた。 
 グラスを黒沢の手の取りやすいところにそっと動かすと、彼女は椅子に座ったまま、猫のように背中を丸めてまだぐずっていた。直樹は彼女の隣に腰掛け、あやすように背中をなでてやった。まるっきり子供の扱いだったが、黒沢はもう抵抗しようとはしなかった。
 しばらくして、ハンカチ、とささやくように言われて、直樹はポケットからティシュを取り出して渡した。駅前で無料配布してある、風俗店の宣伝用ポケットティッシュだった。黒沢は乱暴にそこから紙を取り出すと、チーンと勢いよく鼻をかんで、丸めたそれを直樹目掛けて投げつけた。
「ハンカチって言ったじゃないですか」
「あいにく、手拭き用しかなくてね。鼻をかむのはティッシュにしてるんだ」
「ケチ臭い男は嫌われますよ」
「モテたいと思ってるわけでもないけどな」
 彼女の小さな手がグラスを包むのを見届けて、直樹はバーテンに向き直った。
「ショートケーキ、頼んでいいですか?」
「そんなもん頼みたいんなら、喫茶店にでもいってこい。ボウズ」
「クリスマスくらいサービスしてくれたっていいでしょう」
「未成年を開店前に入れてやっているんだ。サービスばっかり期待するな」
 他愛もないバーテンとのやり取りを横目で見ながら、グラスを傾けてちまちまと飲んでいる。時折赤くなっていたその目が恨めしいのか嫉ましいのか分かりづらい感情を見せていたが、いつの間にか涙は収まってくれていたようだ。
 安堵のため息をついて、手のひらで包んでいたグラスの中身を一気に飲み干した。白い湯気を上げたミルクは、体を芯から温めてくれて、思わず笑みのひとつでも浮かべたくなる。
 二本目に景気づけのカクテルを頼もうとしてあっさり一蹴され、仕方なく二杯目のミルクを口につけた。
「今日の美術展でやってた画家。私の祖父だったんですよ」
 手元に残ったグラスの中身を意を決したように飲み干して、黒沢が口を開いた
「祖父に憧れて、画をはじめたんです。小学校の頃は、画の勉強も見てもらったんですよ。でも、私が中学に入った頃には、もう祖父は画家として活動していませんでした。画もほとんど売ってしまっていたんで、私、アトリエに残ってた祖父の画しか見たことないんです」
「それで、今日の美術展に来たわけか」
「たくさんの画が見れて、嬉しかったんです。まあ、半分しか見れませんでしたけど」
 そう言って黒沢の向けた目は、彼女のいつもの悪戯なものだった。
「悪かったよ。そのうちまた、一緒にいってやるから」
「じゃあ、許します」
 実にあっさりした口調で、黒沢は微笑んだ。
「おいおい、ずいぶんさっぱりしたじゃないか」
「らって、埋め合わせはしてくれるんでひょ?」
「……え?」
 なにか、ひどい聞き間違いをしたような気がして、直樹は訝しげに彼女を見た。
「らんですか?」
「おまえ、酔ってるか?」
「そんなわけないらないれすか。お酒らんて、ひとっ口もろんでませんよ?」
「先生!」
 カウンターに手の平を叩きつけて、椅子をけって立ち上がる。
 目の前で、グラスにミルクを注いでいるバーテンは、妙にすました顔をしていた。
「悪い男だな。ボウズ。女の子を酔わせてどうするつもりだ?」
「酔わせたのは先生だろ! こいつのミルクに何入れたんだよ?」
「変なことを言うな。彼女が頼んだのは最初からカルーアミルクだろう」
 悪びれた様子もなく、バーテンは呑気に三杯目のホットミルクをカウンターに置く。直樹はそれを横で座っている黒沢の前に滑らせた。
 最近いろんな輩と怒鳴りあっているような気もするが、これはいくらなんでもひどい。感情に任せてカウンターに左腕を叩きつける。
 グラスの中で、ミルクが小さな波紋を描いた。
「未成年に酒飲ませないでくださいよ。それでも元教師ですか!」
「教師はもう三年も前に辞めた。そして今は客商売のバーテンだぞ。客の注文に答えて何が悪い」
「いつもは飲ませてくれないじゃないですか」
「おやおや、やきもちか? 男にされても嬉しくないぞ」
「なに無茶苦茶なこと言ってんですか。だいたいカルーアミルク一杯でこんなに酔っ払うわけないでしょう。いったい何入れたんですか」
「企業秘密だ。それと忠告しとくが、背中ががら空きだぞ」
 バーテンの口元に不敵な笑みが浮かんだ瞬間、直樹の後頭部を衝撃が駆け抜けた。
 前のめりにつんのめりながら踏みとどまり、振り返った先には学生鞄を両手に下げた黒沢が、今にも倒れそうな赤い顔で立っていた。
 本当に、何を盛ったのだろう?
 彼女の目は、潤んでいるくせに、いつものサメみたいな目よりもさらに鋭く、完全に据わりきっていた。
「なに人のこと無視してくれてんれすか」
 口を尖らせながら詰め寄る彼女は、尻込みしている直樹の前で鞄を落とし、そのまま胸ぐらに掴みかかってきた。
 鼻っ面を突きつけてきた彼女の口から、アルコールと汗のにおいが鼻腔を突いてくる。
 頭の中がかあっと熱くなり、慌ててそばにみえたミルクに手を出そうとして、胸の上で黒沢が一気に体を押しつけてきた。
「無視しないでくらさいよ!」
 呂律が廻ってないのに、妙に勢いのある口調で詰め寄ってくる。完全に酔っ払っていた。それもタチの悪い方向で。
「先輩。今日のこと、本当に悪いって思ってます?」
「思ってる思ってる。神に誓って思ってるから」
「そういうところが疑わしいんれす!」
 どんっ、と胸ぐらをつかんだ手でそのまま殴りつけてくる。
「いいれすか? 今日はクリスマスなんれすよ? イヴなんれす」
「クリスマスとイヴは別の日だろ」
「どうれもいいらないれすか!」
「そう。問題なのはおまえの無神経さだ」
「先生は黙っててくださいよ!」
「どこ向いて話してるんれす!?」
 肩越しに振り向いていた顎を掴まれ、強引に戻された。熱を帯びた手に口を塞がれる。胡乱な瞳が、すぐ目の前にあった。
「先輩は女心が、ちっともわかってません! 女の子がイヴの日にデートに誘ったろに、無神経すぎます」
「も……もごっ」
「私が先輩のことどう思っているかなんて、考えたこともないんれしょ。女の子はね、どうでもいい人とイヴをすごすくらいなら、負け犬になることをえらぶんれすよ」
 胡乱な瞳には、いまや薄暗がりのバーの中でもはっきりと見えてしまうほどの涙が浮かんでいた。
「らのに、せんぱいってば、ほんっっと、らんにも考えらいし。教えてくらさいよ。せんぱい、わたしのことどう思って……!」
 相手の感情が沸点に近づくほどに、相対的に意識が冷めていく。跳ねていた心音が、次第に落ち着きを取り戻していった。
 全然似てないはずなのに、目の前にいる少女に、二年前に別れた昔なじみの姿が重なった。
 口元を塞いでいた少女の手を取り、カウンターに乗りかかっていた身体を押し戻した。後ろによろめいた少女の肩を掴んで椅子に座らせる。
 訴えるように、瞳に浮かんだ涙をこぼさないように堪えている黒沢に、ホットミルクの入ったグラスを手渡した。
「……今日のことは、本当に悪かった」
 今この瞬間まで、その考えが軽かったことも含めて、直樹は頭を下げた。まさか黒沢がここまで感情を溜め込んでいたとは、思ってもみなかったのだ。
 中村の言葉を、もう少し真剣に考えるべきだったのかもしれない。だが、考えたところでどうすればよかったというのだろう。黒沢の思いに答えろとでもいうのか。自分の気持ちに整理もつけられないくせに。
 酒のにおいを近くで嗅いだ所為だろう。腹の底で、胃が裏返って気持ちの悪いものを吐き出していた。
 逃げてしまえ、と心の底で何かが喚いた。今すぐこの女をここに投げ捨てて、そのまま家に帰って眠り込んでしまえばいい。そうすれば楽になれる、と残酷な誘惑が湧いた。
 それを、なけなしの意地をかき集めて突っぱねるのが精一杯だった。言うべきことがなにかわからず、否定も肯定も出来ずに立ちすくみながら、ようやく視線を地面に逃がしながら呟く。
「だけど無理だ。俺には、自信がない」
 ビンタの一発も飛んでくると思ったが、意外にも黒沢は無反応だった。
 一拍、二拍。いつまでも返ってこない反応を訝しんで目を向けると、椅子の上で前のめりになった黒沢は、そのまま力なく地面に向けて倒れこんでいく最中だった。
「あぶっ……!」
 危ない、と叫ぶよりも先に椅子の後ろ足が跳ねた。
 崩れ落ちる黒沢の身体を、ぎりぎりのところで抱きとめる。脱力した彼女の胸からは、心臓の音だけが小刻みな拍子を刻んでいた。
「う~む。惜しいな。さすがにきつかったか」
「……先生。本当に何盛ったんですか」
「何もしてないさ。ただミルクとアルコールを一対一で入れただけだ。後から多少の味付けはしたがね」
 つまり、概ねアルコール度五十パーセントということだ。少なくとも、十六歳の少女にホットミルクと偽って出すような代物ではない。
 黒沢の身体を椅子に戻し、カウンター席に腰を下ろした。
「まさか、いつもこんな接客しているんじゃないですよね」
「冗談を言うな。いつもなら学校の制服姿の男女なんぞ、どんな事情があったって店に入れやしない。こんなところで痴話げんかなんぞされても迷惑だから、ちょっと静かにしてもらっただけだよ。もっとも、本当に痴話げんかを始めるとは思わんかったがな」
「痴話げんかじゃありませんよ。あれは恋人同士でやるもんです」
「そうだったな。おまえにそんな甲斐性があるわけないか」
 言葉は辛らつだったが、思い当たる節がありすぎるだけに、何も言い返せない。
「だがなぁ、ボウズ。さっきのはいくらなんでも卑怯だろう。自信がないとはどういうわけだ」
「……だって」
「だって、か。聞きたくない言葉だな。責任転嫁の言い訳をする時によく使われる。子供を怒っている時には、一番聞きたくない言葉だ。好きでも嫌いでも友達でもわからないでもなく、自信がないから無理なんて、情けないセリフの理由付けに使われるのにも聞きたくない」
「……」
「それに恥じ入るくらいには成長したことはわかったがな。もう少し自己責任ってのを持たないと、おまえはいつまでたっても、ボウズのままだ」
 そう言って、バーテンはカウンターの中でなにやらカクテルを造り始めた。すっかり手馴れた仕草でシェイカーを振るう。程なくして動きを止めると、グラスに出来上がったばかりのカクテルを注ぎ、それを直樹の前に差し出した。
「オールド・パルというカクテル。一口くらいなら飲ませてやる」
「商売じゃないんですか?」
「元教え子に少しくらい振舞って何が悪い。それに、店主はわしだぞ。構うもんか」
 そう言って、店主も自分のグラスを取ってその中に酒を注いだ。
 短い乾杯をして飲み干した酒の味は、少なすぎてほとんど味わうこともなく喉を過ぎた。
「いい飲みっぷりだな。三年後が楽しみだ」
「なあ、先生。だっての話はしないから、少しいいかな」
「ダメだ」
「せんせぇ……」
「情けない声出すな。もうすぐ開店なんだぞ。それにいつまでも酔いつぶれた女の子を店の中に置いておけるか」
 自分で酔い潰しておいて、その言い様はないだろうと思うが、とはいえこんなところに連れ込んだのが自分である以上、おおっぴらに文句を言える立場でもない。それに、どうせ相談したいことなど、向こうはすでにわかっていることだろう。
「今度じっくり時間が出来た時に聞いてやる。どうせ何度もしてきた話だ。今すぐに話したからといって、すぐにどうこうなるわけでもあるまい」
「まあ、その通りなんだけどさ」
「だったらいいだろ。いくら正式には違うとはいえ、高校球児がいつまでもこんなところに居るもんじゃない」
 空の鞄を右手に提げて、黒沢に肩を貸しながら抱きかかえた直樹は、その言葉に思わず振り向いた。
「先生、知ってたんですか?」
「おまえが言っていたんだろう。夏に一度うちに来て、北村のボウズと試合するとか息巻いてたろうが」
 仕様のない奴だ、と愉快そうに笑うバーテンを見て、直樹は照れくさそうに頭をかいた。
 彼のところから卒業して、もう五年になるが、まだまだ自分は、彼にとっての『ボウズ』から卒業できそうになかった。


(続く)

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