『海底歩行』

『海底歩行』

著/白縫いさや

原稿用紙換算45枚


 パレードの残香はここまで届かなかった。
 君が蕩けた入り江で見つけたのは、きらきら光る琥珀色の欠片だった。夕凪の中、暮れ泥む光に欠片を通すと、それが君の僕に対する失望だけで出来ていることが解り、僕はその場にしゃがみ込む。君はそこにいるのだろう。沖の底に立ち、僕を見上げる君の姿を想う。僕の足元で、小岩の隙間に入り込んだ潮が無数の沫となって消えた。
 夕陽が水面に創りだす光の文様を眺めるうちに、僕は君を探し出す決意をする。立ち上がる僕を見て、沖の君は半歩後ずさる。そして、いよいよ僕が本気であることを悟ると君は向こうへ、向こうへと歩いてゆく。

「ありがとう、世話になった」
「もう行くの?」
 肩に毛布を引っ掛けた女のシルエットが、男を見上げた。男は暫く名残惜しそうにした後に踵を返す。堆積する甘ったるい香水の残香を爪先で蹴り分ける。

 海に身を投じるのは怖れることではない。誰かの劣情を灼きつけられ、もはや死んでしまうことでしか解決し得なかった悲哀を少しずつ咀嚼し、混沌という言葉でしか代替できない感情の混合物と対話し、僕はようやく海底に降り立つ。君は何処にいるのだろう。沫が二つ、ふらふらと彷徨いながら昇ってゆく。
 先ほどまで君が立っていた場所を探す。見つけたその場所はなだらかな丘陵のふもとで少し頭をもたげれば琥珀色の欠片を眺め、胸を痛める僕の残像を見つけることができる。
 僕は君が歩いた道を行く。何の目印もなく、ただ薄暗い平面が延々と続くだけだった。歩きながら僕は目を開いても瞑っていも見えるものがまったく同じであることを知るようになる。体は、人と同じ密度の水に潰されながら支えられて浮力を得ていた。すぐ目の前にある両手の陰影がゆらぐ。曖昧な輪郭が目の前で自由に形を変え、君の手が重なった記憶が不意に立ち表れるがその形が君のものであったか、確かな自信が持てなくて、握り締めようと手に力を入れた瞬間、イメージは水流を伴い掻き消えた。足を止めて天を仰ぐ。沫はもう昇らない。暮れ泥む光が、日溜りを作っていた。懐にしまった欠片が存在を主張する。――暫くして顔を戻すと眼下に廃墟群が広がっているのを見つけた。

 名前のない時計塔の裏で男は仰向けに寝転がる。左右に高層ビルの壁が迫り、雲ひとつない青空を圧迫している。

 その廃墟群は、取り囲む城壁によって永い年月の砂の侵食から守られてきていた。城壁によって遮られた砂は外にうず高く積まれ、中には殆どない。縁から身を乗り出して様子を伺い、僕は思わず息を呑む。
 僕のすぐ目の前の廃墟の二階の窓辺で君が座っていた。君は穏やかな顔つきで、何をするわけでもなくただそこにいた。ぼう、とした顔つきで部屋の中の一点を見ていた。
 永い時間、僕らはそうしていた。僕は君を見つめ、君は部屋の中を見ている。ここで声を掛けたら、君はどうするだろう。また逃げてしまうだろうか。だけど、僕は急いている。今すぐ君のところまで泳いでいって、肩を叩いて、君が振り返ったら。どうする。――謝るのだろうか。
 知らず半開きになった口から一言、君の名前が零れる。君はぴくりと身を震わせ、窓の外の僕を見た。恐怖が走る。逃げられる、逃げられる。君は僕を怖れて僕から離れていくだろう。僕は傷つく。それでも君を求めてしまう愚かしさを呪い、恨み、打ちひしがれながらまた君の名を呼ぶのか。
 しかし、君はたちまち目を輝かせ、窓縁に手を乗せ身を乗り出し、はっきりと聞こえる声で僕の名を呼んだ。
 今からそっちに行くね、と言って君は窓から離れた。
 ――君は、誰だ。

「私はアキホ。よろしく」
 喫茶店の隅の席で、よろしくじゃない、とアキラは毒づいた。差し出された手は同年代の女の子のそれよりも、すらりとしていて細長い。握手をする、ということはアキホの話を認めるということだった。しかし、それが真実とは限らない。それが真実か確かめてみたいと思うか――アキラは自問する。とても信じ難い話だった。だが、同時に興味深くもあった。
「あなたの話が本当かどうかわからない」
 私だって自信ない。アキホが相槌を打つ。
「見ず知らずの人間とこんな話をするのは、とても馬鹿げている。だけども本当にあなたの言う通りなのかどうか、確かめたい」
 アキホが微笑んだ。
「じゃあ、早速始めよう」

 アキラとアキホは同じヴィジョンを複数共有している。断片的なヴィジョンはそれぞれ時間も場所も違っていた。どこか昔の異国情緒溢れる街並みだったり、SF映画のような宇宙の様子だったり、様々だ。そこに一貫したものなど何もなく、スナップ写真のようなものが頭の中に混然と並べられていた。
 アキラは、そのヴィジョンを美しいと思い密かにスケッチブックに描いて隠していた。高校生になると、休日にこの喫茶店にやってきては描いていたのだった。ウェイトレスのアキホに見つかっていたのは、考えてもいないことだったのだが。アキホもアキホで一人の客がお店の中で何をやろうと他の客の迷惑にならない限りは無干渉であったが、アキラの絵が自分の持つヴィジョンと酷似していることに気付いたのはずっと前からだった。下らない、偶然、勘違い、と言葉を並べて忘れようとするが忘れられず、意を決して話し掛けたのだった。

 そっちに行くね、と言ったきり彼女は現れなかった。
 僕はさっきの彼女について考察する。
 確かにあれは、君ではなかった。君が、目を輝かせ明るく声を掛けられるとは思えない。もともとの性質というわけではなく、心理状況からして、あのように演技してみせる余裕もないはずだった。演技する理由も見当たらない。ならば一体彼女は何だったのだろう。外見は確かに君と同じだった。僕が描く彼女の姿と一致しなかっただけで、あれは本当は彼女だったのかもしれない。そのように考えるのが自然であるのだが、君ではないという確信がある。混乱する。
 城壁から石畳の上に降り立つ。
 あれが君であるならば、僕はたぶんすぐにでも会えるだろう。時間の経過に比例して逢える確率は下がっていくのだろうが、今ならまだ間に合う。だけどあれは君ではない。ならば本当の君は何処にいる。彼女が君でないにしても、話はできるのではないか。
 彼女がいた建物の前に立ち、件の窓を見上げる。地を蹴ると石畳に積もった砂がふわりと巻き上がり、僕の体は浮上する。空を飛ぶとはこんな感じなのだろう、と思う。
 窓縁に手を掛けて中に入る。薄暗い室内には、ベッドと机椅子とタンスが置かれているだけだった。壁には碧い花瓶に生けられた紅い花の絵が掛けられている。ドアは半開きのままで、このままずっとこの建物が朽ちて崩れるまでそのままなのだろうと予感させた。廊下は完全な暗闇だ。行こう、と足を進める。
 窓辺の天井近くに白い手紙が浮いているのを見つけたのは、廊下の暗闇に二の足を踏んでつい振り返ったからだった。ふわふわと浮くそれは一見するとゴミのようだった。壊れてしまわぬよう丁寧に手に取り読んでみる。
 お元気ですか、の一文で始まるその手紙は確かな筆跡で、君の文字が綴られていた。お元気ですか――あなたがいなくなってから三ヶ月が経ちます――大きな事件もなく――平和に――でも少し、淋しい。
 君は一体、誰に向けてこの手紙を書いたのだろうか。僕は、『あなた』じゃない。僕はずっと君の傍にいた。三日も離れたことなど一度もない。
 廊下を見据える。先と変わらない暗闇が佇んでいる。

 圧迫した青空を時代遅れの飛行船が飛ぶ。少し生臭い風が鼻腔をかすめ、間もなく雨が降ることを男に報せた。青空はいつしかうっすらと白く濁っている。

 真っ暗な廊下を手探りで歩く。壁に手を這わせ、角を曲がると明るい光が階下から零れているのが見えた。幼い頃、夕方遅くまで昼寝をして、気だるさを身に纏ったまま見たそれに似ている。
 階段を降りる。
 踊り場の窓から見える景色は茜色の空と家々の屋根の影。
 君はそこにいた。ソファーに身を沈め、膝を抱きかかえながら額を膝頭に乗せている。君の傍らにはラジオがあって、旧い唄が流れていた。ジャズだった。
 君の前に立ち、声を掛ける。こんにちは。そして僕は君の名を言う。これで合っているかな。君は頷いた。よかった、と僕が呟く。
 君の隣に座る。ピアノのしっとりとしたメロディーがラジオから流れている。罪を犯した男女が神に背を向けて逃げる唄だった。
 僕らは長い間、そんな風にしていた。僕は君の隣でラジオのメロディーに耳を澄ませ、君は膝を抱えて泣いていた。
 君は強い人だったから、いつだって僕の直接的な助けは必要としなかった。傍にいてくれるだけでいいんだ、と言って君は泣いていた。少し休んだら私はまた元気になれるから、と言った。体を預ける樹になってほしい、と。
 いつしか君は泣くのをやめて僕の方を見ていた。
 君の小さな顔が微笑んでいた。帰ろう。僕は言う。僕も微笑みながら立ち上がり、君に手を差し伸べる。君はおずおずと手を伸ばしてきた。手を握ったら思いっきり引っ張って抱きしめてやろうと思った。軽い悪戯だ。
 君の手が僕の手に触れた刹那、僕は君の手を握る。引っ張る。抱きしめる。しかしそこに君の重みはない。君は水流を伴って掻き消えてしまった。
 僕の足元には壊れたラジオが一つ。金属部分にオレンジ色の錆ができていた。
 水中に没した一室は薄暗く、窓の外はいつしか夜の暗闇で満ち満ちていた。僕はどれだけの間、目を瞑っていたのだろう。

「アキラ君はそのヴィジョンを大切にしているんだね」
 私服姿のアキホは、以前見た姿よりもずっと大人びて見えた。アキホのお気に入りというその店は、彼女の言うとおりたしかにピザが美味しい。アキラはピザを口に運びながら、頷く。この人は綺麗な人だが、どういうわけだか居心地が悪いと感じていた。
「私は嫌い。というよりは、気味が悪いと思っていた。たしかに綺麗な風景だし、憧れもした時期はあった。でも、それは私が気付いたときには既にあって、でも、でもね、私がこの目でその風景を観た憶えはまったくないの。両親にも訊いてみた。小さい頃に海外旅行とかしたことはあるか、って。――単に私が昔どこかで観たものを、なんとなく憶えてきてしまっただけなんだと思う。だけど、それが事ある毎に頭に浮かぶのは、正直気味が悪い。頭の中に変なチップが埋め込まれてるんじゃないか、って思ったりもした。忘れようとしても忘れられなかった」
「そこに、同じようなヴィジョンを持つ僕が現れた」
 同じような、じゃなくて、同じだよ。とアキホが訂正する。
「偶然だと思う?」
 横から射す夕陽がアキホの顔に陰影を作る。アキラは暫くの思考の後「わからない」と答えた。

 男はその女と戯れることを好んだ。その女は若く美しく、時計塔で技師をしている。歯車が詰まらないよう掃除をしたり油を差すのが女の仕事だった。
 いつもやる遊びは、男の質問に女が、はい、か、いいえ、で答えるというものだった。男はどのような質問も許される代わりに、女は自由な判断基準で答えることが許され根拠を述べる必要はないとされた。
「遊びにはルールがあるから面白いか?」
「はい」
「故にこの遊びは面白いか?」
「いいえ」
「俺の質問に対して俺を困らせるような回答を任意で出来るからこの遊びは面白いか?」
「はい」
「お前は嘘つきか?」
「はい」
 男は目を瞑り、次の質問を考える。女は意地の悪い笑みを浮かべながら男の胸板に手を添え男を見上げる。
 小さな窓には無数の雨筋が走っている。
 青白い閃光がほど走る。五秒ほど遅れて雷鳴が轟いた。
「俺は予言者であるか?」
「いいえ」
 女は眠たげな声を上げ、首を横に振る。
「俺は予言者になれるか?」
「はい」

 僕はその建物を出た。時間にして、もう夜も遅い頃だろう。
 石畳に薄く積もる砂を蹴り分けて廃墟群の奥へと向かう。君を探し出すために。もはや、片っ端から探して回るしかないのだ。

 ごめん、と言ってアキホは席を立った。遠くでアキホが「もしもし」と言うのが聞こえる。アキホが去って、アキラはまず最初に大きく息をついた。
 このヴィジョンは何処で得たものなのだろう。アキラは考えた。
 最初にアキホが声を掛けてきてから一ヶ月が経つ。その間、アキラとアキホは数度会って、ヴィジョンの話をした。ヴィジョンの詳細までお互い話して、それが完全に一致するものであることを何度も確認したのだ。
 しかし、アキラにはアキホに告げていないことが一つあった。一ヶ月かけて話し合ってきて、それがアキラとアキホの共有するヴィジョンの唯一の違いになるだろうと、薄々と確信していた。
 そもそも今まで何の縁もない人間がこのように同じヴィジョンを持つことなど有り得るものなのだろうか。しかし、アキホの話はアキラのヴィジョンと一致する。何か、トリックでも使っているのではないか。何故そうする必要があるのか。ごく普通の家庭に生まれ育ち、特に傑出した点もないアキラを騙して一体何のメリットがあるものか。
 ――もしかしたら本当に同じヴィジョンを共有しているのかもしれない。
 もしそうならば。それは確かに、
「気味が悪い」
 アキラは眉を顰めて左腕を抱き、窓の外を見た。長閑な日差しの下、人々は思い思いの休日を過ごしている。
 アキホが帰ってくるまでの間、アキラはスケッチブックの新たなページを開き、暮れ泥む光が水面を照り返す入り江の絵を描き始めた。腰を屈めた男が手にするのは、夕陽が透ける小さな欠片だった。

「ここにお前が知る一組の男女がいる。誰でも良い。この男女のうち、先に死んでしまうのは男の方か?」
「いいえ」
 成程、と男は目を閉じる。
 二人はいくつもの質問と答えを繰り返しながら世界を創造する。気紛れでありもしない架空の世界を創造し、既存の世界を歴史になぞって創造し直す。自身らの歴史をも創造し、未来もまた創造した。
「我らの創造主たる神の真似事は愚かなことだと思うか?」
「はい」
「我々が創造した世界において我々は神であると言える。ならば我々を創造した神は我々が創造した世界においても神と定義されるか?」
「いいえ」
「俺とお前のうち、先に死んでしまうのは俺の方か?」
「はい」
「時間の流れを一本の直線で表現できるものとして、我々の、生まれた瞬間――そうだな、母の卵子に父の精子が侵入することに成功した瞬間としようか――それから完全に息絶える瞬間までの時間の区間は時間の流れを表現する直線上において開区間であるか?」
「はい」
「我々はいつか死ぬ。我々がいなくなった後、我々が創造した世界は存在し得るか?」
「いいえ」
「我々が創造した世界が消失した後のことについてその世界の住人は思案ことはできるか?」
「いいえ」
「ならば、我々が創造した世界の住人にとって神である我々は永遠の存在であるか?」
「はい」
 疲れた。一言そう言って男は眠ってしまう。
 隣に男の寝息を耳元に感じながら、技師の女は仰向けになって天井を見る。普段は意識しない自分と天井の距離に眩暈を覚え、自分も眠ろうと目を閉じた。しかし、この星が時速1667キロメートルで自転しているという意識が女を眠りから遠ざける。

 アキラがアキホと知り合ってからもう半年が経った。頻度は減ってきたものの、アキラとアキホはときどき会っていた。いつもアキホからアキラに連絡を入れて、会うというものだった。アキラから誘ったことは一度もない。
 会っても二人はヴィジョンの話しかしない。それ以外の話はしないのだ。だから二人はお互いの素性は未だに知らずにいるし、それで何ら困ることはないのでそのままにしている。この半年の間にアキラは高校を卒業し、アキホは勤めていた喫茶店を辞めた。しかし、お互いはそのことさえも知らない。

 真夜中、女はベッドを抜け出した。男は気付かない。いつの間にか雨は止んでいた。猫のような足取りで、床を軋ませないよう静かにバスルームへ向かい、薄明かりの中でシャワーを浴びる。生乾きの髪をそのままにして、女は夜の街へ滑り込む。
 知り尽くした道を歩き、女は時計塔に辿り着く。仕事だ。
 月の光を受けて、真鍮の針が鈍く光っていた。短針は二と三の間を指し示し長針はローマ数字の八に被っていた。くるぶしを撫ぜる風は肌の上をころころと転がり、時計塔にぶつかって上昇する。風はやがて、時計板の整備用の屋外通路に佇む男の頬に至った。
 誰だろう、と思う。こんな深夜に、しかもあんな場所、と。あの場所は女を含めた一部の関係者しか立ち入ることが許されていない。知り合いの誰かだろうか。暗さのため、誰なのか確認することができない。
 女の生白い腕が目に付いたのだろう、男が女を視認する。ゆっくりと頭をもたげ、女を見据えた。虚ろな眼差しが女をなんとなく貫く。この感覚を、気味が悪い、と呼ぶことを思い出すのに女は少々の時間を要した。得た言葉を心のうちで再度確認する。気味が悪い。砂を噛むように眉を顰め、再度、気味が悪い。この感覚は厭悪を想起させる。
 時計塔の男が立ち上がる。女は今の状況を整理し自分がすべきことを確認しながら、半歩退く。自分の記憶以前にこの男に会ったことがあることを、脳の隅の無意識が主張していた。それは、懐かしいという感覚を携えて女の意識の前に立ち現れる。予言者の男に対するそれとは明らかに別種類の、愛しいという感覚も伴って。気味が悪い。女は連呼し、姿かたちのない主張を蹂躙する。蹂躙する。
 十数えるうちに、時計塔の男はこちらに向かってくるだろう――言葉にする前に女は来た道を戻る。
 時計の長針は間もなくローマ数字の九に被る。

「こんにちは」
 とアキホが言う。いつもの喫茶店で、アキホはアイスコーヒーを飲みながらピザをかじっていた。アキラはアキホの向かいに座り、同じくアイスコーヒーを頼む。
「食べれば?」
 じゃあ、とアキラはピザに手を伸ばす。このやりとりだけでアキラとアキホの関係は、対等の関係からアキホに従属する関係に変わる。アキホの言うことには逆らえない。半年経った今も、アキホと話し尽くされた話をするためにこうやって呼び出される。
 この上下関係が構築されたのは、ただ単にアキホがアキラよりも年上だからということではない。アキホには人を付き従わせ、人を本能的なレベルで支配する天性の才能があったからだ。アキホの言葉は無意識層にまで浸透し、アキラを支配する。アキラは為す術もなく、ただアキホに蝕まれていた。そして、アキホにおそらくその自覚はない。
「ねえ」
 ピザの一切れを食べ終え、ナプキンで口元を拭いたアキホが言う。アキラは視線をアキホに向ける。鼻梁に目がいく。ねえ、とアキホがもう一度言う。自分を見透かす眼差しと目を合わせたら、もう目を外すことができない。鼻梁から目頭へ、そして、真っ黒が虹彩にアキラの顔が映っているのを、確認してしまった。アキホは余裕の表情で頬杖を突く。
「前にゲームの話はしたよね?」
 アキラは頷く。
「アキラ君はさ、本当はあの話のことは知らなかったんじゃないかな。なんていうか、そう、全く知らないわけじゃない。知っているというのは知識として知っているということであって、実際に体験して得たものとして知っているわけじゃない――まあ、そもそもあのヴィジョンの中で私たちが体験したことがあるものなんて一つもないんだけどね。前にゲームの話をしたときに違和感を感じててね、色々考えたんだけど、やっぱりこの結論しかないな、って思った。違う?」
 アキラは考える。
「そうかも、しれない」
「『質問者はあらゆる質問をすることを許される』そして、『回答者はそれに対して、はい、か、いいえ、で答えなければならない。ただしどのような判断基準でも述べることができ、根拠を述べる必要はない』」
 アキラは頷く。アキホは続ける。
「遊びにはルールがあるから面白いか?」
「はい」
「故に、この遊びは面白いか?」
「はい」
「やっぱり」
 アキホは首を横に振る。アキホの視線が外れた瞬間に、アキラもまた目を外し、アイスコーヒーで乾いた口内を湿らせる。
「私のヴィジョンの中ではね、『故に、この遊びは面白いか?』の質問には『いいえ』という答えが返ってくるはずなの。……ねえ、ヴィジョンを共有するって何なのかな。シチュエーションを共有することなのかな。それとも、そこで起こった出来事の結末まで共有することなのかな」
 ふう、とアキホが息をつく。
「……ねえアキホさん」
「なあに?」
「アキホさんが質問をした相手って誰なんですか?」
「やっぱり、そうなるよね。気になるよね」
 アキホは、はは、と空笑いをした後、真剣な表情になる。
「女の人。その人は裸でね、私たちってば何やってるんだろうな、って。一緒に寝てた。仲良しこよし、なんてことじゃなくて、ね。今でもこの話をするのは恥ずかしいけど、中学や高校の頃に比べたら大分マシになったのかな。まあ、そんなことはどうでもいいんだ――私とアキラ君のヴィジョンにはどれくらい齟齬があるのかな」
 アキラは座り直す。
「あくまで私の予想なんだけどね。きっと、アキラ君も私の知らない出来事を知っていると思う。知っているはずなんだ。そして」
 アキホは今から自分が言おうとすることを再度頭の中で確認する。この一言で何か大事なものが損なわれてしまうかのように、覚悟する。その様はアキラにも伝わった。
「そして、私たちと同じヴィジョンを持っている人が、あと少なくとも一人はいると思う。その人は、私の質問の答えを全て知っている」

 廃墟群は複雑に入り組み、来た道を辿ることさえも困難を極めた。地面を覆う石畳とは不釣合いな高層ビルの群れが無秩序に乱立し、上空を掻き乱す。僕はときどき足を止め、上を見る。視界はビルに圧迫され珍奇な形状を取っていた。
 道がわからなくなったときはビルよりも高いところまで泳ぎ、見下ろした。君は何処にいる。君は。
 新市街地と旧市街地が混合して、奇妙な様相を呈する街並みは彼方まで続く。
 屋上に植えられたレモンの樹は、かつて僕らが一緒に過ごした時間の大半を占める場所だ。
 あの教会を見て君は、いつかあそこで働きたい、と呟いた。
 君の匂いと影を追って僕はずっと歩いた。廃墟群の中を歩くうちに、僕の記憶は色を帯び、音を伴うようになる。僕が君と過ごした記憶は、僕が君と出会った瞬間から始まる。終わりは、どこだ。
 幻想と現実が混濁する。目を瞑れば、僕の再構築された記憶を頼りに脳が景色を創出し色付けをしてしまう。目を開いても暫くの間は幻が尾を引き、それが偽りであることを確認した刹那、ビル群の漂白された白さも、レモンの樹の青々しい緑も、小さな虹を作る噴水も、鈍い色をした教会のチャペルも、すべて色を失いくすんだ灰色のそれに戻る。これが現実だ、と静寂が耳元で囁く。酷く、意地の悪い声だった。
 緩やかに下降し、ひび割れた街灯の上に腰掛ける。大通りに対になって跨るそれの電球にはひびが入っていた。擦ってみると、指の間から乳白色の光が零れ、大通りには車のヘッドライトが往来するようになる。真夜中、交通量が少なくなると君は教会を抜け出し、僕らは大通りを歩いた。厳格な家庭に育った僕らは、当然のように守るべしと教えられてきた交通ルールに背くことに興奮し秘密を共有した。背後の時計塔の長針が、カチリ、と音を立てて深夜三時になる。そんな些細な音さえ風に乗って僕らの鼓膜を交互に掠めた。もう戻らなきゃ、でもあと一分だけ。僕らは唇を重ねる。君は酷く不正確に六十秒を数え始め、五十九、六十、君が名残惜しそうに唇を離すと、僕はいつもこう言った。君は数を数えるのが早いんだ、あと十五秒。あと十秒、五秒、三秒、二秒、一秒。僕らは嘘をつくことに気をよくして、そして戯れた。小指と小指を繋いで教会の裏まで歩き、それじゃあね、と別れる。その時刻は深夜の三時十五分。
 目を開くと、小指と小指を繋ぐ二人の後ろ姿がたちまち蕩けてなくなる。ひび割れた街灯から手を離し、耳元で囁く静寂の言葉をやり過ごす。僕は大通りに降り立ち、君との想い出を辿って駅へ行く。

 技師の女は予言者の男の腕に己の腕を絡めていた。真っ暗な中、男は壁に手を這わせてスイッチを見つけ灯りを点ける。遥か高くのシャンデリアが床に光を落とし、その中で二人はエレベーターの到着を待つ。やがて金網が開き、二人は箱の中に身を納める。二人は一切の言葉を交わさない。ゆるやかに加速しながら上昇するエレベーターはやがてゆるやかに減速し、停止する。
 予言者の男は女と共に女の仕事場に入り、女が仕事する様子を背後から見守る。

 僕はプラットホームの先端に立つ。朝の静謐な空気が首筋を撫でる。錯覚であることを知りながらも、ひんやりとした感覚に鳥肌を立てずにはいられない。
 列車は白い煙を吐き出して去っていった。僕らは自由を獲得するために列車に飛び乗り、見ず知らずの街へ旅立った。
 海の見える街に住もう、と君は言った。パレードを見にいこう、と僕は言う。
 僕らは新しい生活へ望むあらゆる事柄を自由に述べ、語り、期待に胸を馳せながら、同時に二人が背負った罪の大きさの気配に心を鷲掴みにされ悦んでいた。遠い昔、それぞれが自宅から家族が後生大事にするものを一つずつ持ち出して、庭の茂みに一緒に隠れていたときの感覚に似ている。僕らは小さく身を屈めて肩を寄せ合い、互いの熱い吐息が肌にかかり、じんわりと手の平が汗ばむのを止められなかった。幼い僕らは、抱えた罪の大きさに泣きそうになるが、それぞれの家に飾られた十字架を冒涜しているという意識を楽しんでいた。畏怖と悦びがない交ぜになり、僕らの気持ちは高揚した。幼い僕らの幻は隣のプラットホームで、仲良く肩を寄せ合っている。
 僕は肩から息を抜き、元の廃墟に視界を戻す。

 アキラは廃墟の絵を描く。中世欧風のそれと現代のニューヨークのそれが混同した街並みは、複数あるヴィジョンの中でもアキラの印象に最も残っている。高層ビルの隣に巨大な門が立ち、ぐるりと取り囲む城壁の中をスポーツカーが走る。なんとなく、旧市街地と新市街地という形で分かれているものの、その境界は曖昧だった。街の端には駅があり、アキラはその線路の先に矢印と『海の見える街、パレード』と書き入れる。
 アキホはアキラが描くヴィジョンを見ながら、自分の考えが間違っていなかったことを確認する。
「このヴィジョンは私も持っている。だけど、そこで何が起こったかなんて、知らない」

「これは海底。その中で僕はこの街を巡る。『君』を探している。そして、上手く表現できないけど、幻想と現実の境界が曖昧になっていた」
「それで、これはどうなるの?」
 アキホはテーブルに身を乗り出し、顔をアキラに近付ける。アキラはアキホに逆らうことができないので、言われるままに全てを話すのだ。

 女は仕事をしながら、男と遊ぶ。
「輪廻は存在するか?」
「はい」
「世界というものが多次元にわたって存在するとき、我々という存在はその各次元で存在できるか?」
「はい」
「我々は多次元の我々に対して干渉をすることはできるか?」
「はい」
「我々が多次元の我々に対して干渉したとき、その行為はお互いの世界の神の意図するところであるか?」
「いいえ」
「これらの話は無論、机上の空論である。我々がこれらを実現する術はあるか?」
「いいえ」
「我々が我々の神を超越することは可能か?」
「いいえ」

 夜明けは兆しもなく訪れる。
 東の彼方が白じんだかと思えば、たちまち海は本来の青さを取り戻し、元来ここは日の光が届く浅い海だったことを思い出させる。
 斑模様の陰影が街中を覆い尽くし、日溜りが東の方に一つ現れた。
 僕はいよいよ幻想と現実の境界がわからなくなる。僕の記憶の街は明確に色を帯び、それが幻想のものか現実のものか判断がつかない。
 通りを人が往来する。時計塔の針が六時であることを指し示す。教会のチャペルは鳴り響き、僕は振動に翻弄される。
 街を歩く人々が僕を視認することはない。
 僕は街に降り立ち、君を探す。君は何処だ。

「この日はパレードなんだ――パレードなんです」
「無理して敬語を使う必要はないから。落ち着いて」

 技師の女は三十分だけ、予言者の男の腕の中で眠る。浅い眠りの中で女は男と交わった。
 片側だけ開けた窓から冷気が忍び込み、女は肌寒さを覚えて目を醒ます。小さな欠伸をして起き上がると、体を反り伸ばした。窓を開けて街中を見渡すと、昨夜の雨が地表に、匙で掬えそうな程濃厚な白い霧を漂わせていた。街中が、霧の中に没している。太陽さえもまだ霧の中に沈んだままだった。
 暫くぼう、と見入っていると男が呻き声を上げて目を醒ます。
「夢を、見た」
「どんな夢なの?」
 予言者の男は技師の女の傍らに立つ。窓縁に手を掛け、白に飲まれた地表を見下ろす。
「夢の中で、俺は若い女で、少年と話をしていた。あそこはカフェテリアだ。俺たちは同じ映像を共有していて、それで、何だった? 話すうちに、もう一人の登場人物? それは、お前だ」
「私?」
 女は驚いて聞き返す。男は頷きながら手で目頭を押さえ、目を瞬かせる。
「でも、その少年も俺らが共有する映像の中でもう一人の登場人物、つまりお前を探してるって……それで……俺は」
 男は言葉を詰まらせる。
 教会のチャペルが白い霧の中から鳴り響く。六時だ。

 パレードは八時ちょうどに始まった。
 開催を告げるクラッカーが三度鳴ると、街中から風船が立ち昇る。それは色を帯びた沫のようで、水面へと昇っていく。
 静寂から一転して非日常へ転げ落ちる街並み。人の往来に逆らって僕は時計塔に向かう。
 僕と君が住んでいたのは街外れのアパートだった。一つしかないベッドで僕らは共に眠り、共に起きた。狭かったからこそ僕らは共に在り、幸せで、しかし満たされなかった。幸せになればなるほど背徳の甘美な魅力が僕らを覆うようになった。僕らは生まれつき、悪魔に魅入られていた。僕らは清純そうな身なりをして、清純そうな生活を送った。周囲で囁かれる僕らに関する噂を耳につけては二人してほくそ笑み、ベッドの上で腹を抱えて笑い転げ、その噂通りにしてあげようじゃあありませんか、と二人して乱れた。
 僕らはずっと、黒い影に見られている気がしていた。それは常に僕らの傍にあり、僕らのすること為すこと全て見ていた。僕らは、それが神様というものなのだと思っていた。

 予言者の男と技師の女は商店街で焼きたてのパンを買い、女の仕事場でスープと合わせて朝食を食べる。
 時刻は八時半を回り、街は徐々に活気付き始める。
 朝食を食べ終えると二人はゴミを一まとめにして部屋の隅に追いやり、時計板の整備用の屋外通路に出る。
 時計の短針と長針は重なり、太陽が霧の中から顔を出したところだった。

 クラウンがいたるところでパフォーマンスを行っていた。屋台は所狭しと並べられ、肩車をする父娘、銀色のガス風船を持つ少年が人並みを縫って走り、誰かのガス風船は街灯に引っ掛かっている。人々は皆、僕の体をすり抜けていく。僕の存在に気付くことはない。
 僕は記憶に従い時計塔を目指していた。
 太陽はもう大分高いところまで昇り、日差しが体に温もりを与えてくれる。僕はいくつもの角を曲がり、小路を行く。圧迫された青空を一筋の雲が流れ、萎んだ風船が力なく漂っていた。
 大太鼓の野太い音が大通りの方から聞こえる。パレードが始まったのだ。トランペットのファンファーレが高らかに鳴り響き、軽やかなメロディーのマーチが流れる。君は何処だ。

 長い道の果てに、僕は時計塔に至る。
 君は時計板の屋外通路に佇み、僕を見下ろしていた。君の傍には黒い影。君は確かに僕を視認している。
 パレードの幻影は僕の脳裏から離れない。僕の視界はもう廃墟群には戻らない。本当はぼろぼろで朽ちる寸前のはずの時計塔が整然とそこに立っている。
 僕はこの後起こることを知っている。
 まず、雲が一つもなくなった。次に風が止み、風船がその場に留まった。空気はシンと静まり返り、人間を除くあらゆる動物がこれから訪れる異変に身を構えた。人間だけが知らない。人間たちはパレードの熱狂に包まれたまま大通りを練り歩く。
 最初に深く長い亀裂が大通りを走る。大地は揺れ、すぐに立っていることが困難になる。僕は記憶に突き動かされてその場に膝を突いて倒れた。周りの建物は音を立てて崩れ始める。
 振動する視界の中、僕は君を視界の中に留めようと尽力する。頭を精一杯もたげて、君を探す。
 しかし、君は黒い影に付き添われて暗がりの中へ消えていってしまった。
 それを最後に僕の視界は暗転する。

「――これで全部、かな」
 アキラは長い息を吐きながら椅子に座り直す。
 すっかり硬くなったピザをかじり、氷が全て溶けて薄くなったアイスコーヒーを啜る。アキラは首の骨を鳴らし、テーブルの上に広げたスケッチブックをしまった。
「不思議な話だね」
「何をいまさら」
 アキホは顎に指を当ててアキラの話を反芻する。ふうむ、と唸るアキホの向かいでアキラはすっかり暗くなった街並みを見る。
 アキラはショルダーバッグから手帳を取り出し、予定を確認する。パレードは来月だった。
 道行く人々はそれぞれ思い思いの休日を過ごす。アキラはビル群の向こうにほんのりと赤い影を残す空を見遣り、空の天辺近くまで水に浸かる様を想像する。斑模様の陰影が街全体を覆う。アキラは水面まで泳ぎ顔を出す。海底に沈んだ街並みはミニチュアのように小さいが、それでもアキラはまだ雲にさえ手が届かない。
 アキラは時計塔の前に降り立ち、そこに仰向けになる。斑模様の陰影は網となってアキラを地面に縛り付ける。時計板は九時を指し示し、長針が無数の星空の中の満月を貫いた。アキラには長針の高ささえ目測することができない。
 この星が時速1667キロメートルで自転しているという意識が矮小なアキラを蹂躙する。

 君が蕩けた海の海底に僕は立っている。
 瓦解した時計塔の足元に琥珀色の欠片を置き、僕もそこで仰向けになり、今は暫く休むことにする。

| コメント (0) | トラックバック (0)

この作品をはてなブックマークに追加はてなブックマークで感想を書く