『エンジェル・ノイズ』

『エンジェル・ノイズ』

著/恵久地健一
絵/藤堂 桜

原稿用紙換算70枚

#1/少女電波「羽尾ルチア」

 連れ込みホテルの一室へ入るなり、
 ──キミって、大人っぽいね。
 と興奮した口調で厚地のスーツを着込んだ身体をよせて立つ中年の男に、少女ルチアは素っ気なく、
 ──こう見えても十八歳、と返した。
 ルチアの落ちついた態度に容認のサインを見た男は彼女の頭に顔を近づけ、色素のうすいルチアの髪に鼻先を埋め、彼女の着た白いダウンコートを脱がそうと手を伸ばす。フードのついたナイロン製のダウンコートは発酵したパン生地のようなふくらみを均等に形成し、ルチアのヒザまでを包んでいる。コートを脱がされた下はブレザーもスカートも清楚な白を基調とした高校の制服だ。
 芋虫のように丸い男の指がブレザーの上からルチアの胸をつかみ、もう片方の手はスカートの上をうごめく。そして、その手がスカートの下に侵入しかけたところでルチアは男の手を軽く制し「シャワーを浴びてくるから」と告げて男から身体をはなした。
 欲情のままに動く男にくらべ、抵抗することのない落ちついたルチアの態度は確かに大人びている。だが、実際ふたりの年齢差は十歳以上あり年のはなれた恋人というわけでもない。形式上の関係は買春だ。性的な行為が目的の男とそうでないルチアとでは当然の温度差かもしれないが、それだけではない冷たさが彼女の態度には見られた。
 また、ルチアの実年齢は十七歳であり男に告げた年齢よりも若い。男が大人びた少女を求めているのを感じ、彼女はそれを演じているにすぎない。相手が若い少女であることに抵抗を感じる男には上の年齢を、若い少女であることに喜びを感じる男には下の年齢を演じる。これまでも買春を目的とした男たちと関係してきたルチアだが、そのたびに標的の好みに年齢を合わせ、彼女が男たちに真実の年齢を告げたことは一度もない。
 実年齢の十七は聖数であり、真身を守る封印の鍵だ――ルチアは脱衣所で制服を脱ぎ、裸身になってゆく自分のやせた肉体を鏡面に映しながら思う。
 目的のためには男に真身を知られるわけにはいかない。だから、実際の年齢である聖数の十七を見抜かれなければ今日も自分は無敵でいられる──。
 そう、ルチアは考えていた。

 シャワーを浴び終えたルチアは胸からヒザまでをバスタオルでくるんだ格好で部屋に戻る。円形のベッドに下着姿で座る男は、そんなルチアに服を着るようにうながした。「服を着るの?」とルチアは疑問を返す。これからする行為を考えれば裸身のほうがよいはずだ。あるいは服を着たままの行為が好みなのかもしれないが、普段から着ている制服にシワをつけられたり汚されたりするのは勘弁してほしいとルチアは考えた。
 だが、男がルチアに着せようとしたのは彼が持参した衣装だった。男は床に置いたスポーツバッグを示し、それを説明する。ルチアはバスタオルが落ちないように気をつけながら床にしゃがみ、ふくらんだスポーツバッグを開ける。中身を取り出したルチアの手にはデザインの古いセーラー服の上下がワンセット。衣装の入手経路について、男は弁解ぎみの口調でルチアに告白する。
 ──むかし娘がね、中学のときに着ていた服なんだ……。
 ──そう、じゃあ今日は、お父さんと呼んであげようか。
 侮蔑をひそめた笑みを浮かべて立つルチアに、男は波長の合わない笑みを返した。セーラー服に着がえるルチアは男に背中を向け、身体に巻いたバスタオルを足もとに落とす。裸身にセーラー服を着てゆくルチアの逆ストリップに期待の視線を向ける男は、すぐに気づいた。
 ──どうしたんだい、その火傷?
 肩甲骨のあたりにふたつ、ルチアの白い背中には左右対称に赤い傷がある。焼けたアイロンをさかさまに押しあてたような逆三角形のそれは古い痣だ。
 ――ただの痣よ。それとも、お父さんは身体に痣のある娘は嫌い?
 セーラー服に着がえたルチアは男に向きなおり、スカートのすそを片手で持ちあげて見せる。男はこたえるかわりに片手でルチアの腕を取り、ベッドに引き込む。自分がリードしているつもりの男は興奮のためか、彼女のペースへ呑まれていることに気づいていない。
 男はルチアの身体を下にしてベッドに組み伏せると彼女の首すじに顔をよせ、がさついた吐息を浴びせる。だが、すでにルチアは思考と身体をべつの次元に切りはなし、何も感じていない。
 本当は、むしり取られた羽の痕よ──ルチアは男に抱かれながら、背中の痣について冷たく思考する。かつて背中に生えていた翼、すなわち天使の羽だと。
 自分は不真面目な天使だから、仕事をしない罰として羽をもがれたの――。
 そう、ルチアは考えていた。

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 その後、ルチアは男の寝息をうかがいつつ、裸身のままベッドを抜け出す。男が持参したセーラー服は行為の途中に脱がされた。天井の空調から温風が流れているとはいえ、冬の室温に裸身は寒いはずだが、彼女は気にすることなく素足で床を歩く。そして、ルチアは部屋の隅にしゃがみ、床に置かれたサックスケースのチャックを開く。小型のゴルフバッグに似たショルダータイプの黒い楽器入れには金色をした金属製のアルトサックスと、回転式の短銃が一挺。
 弾倉にふくらむ胴体や二インチモデルの短い銃身が赤く塗られた、米国製のコルトローマン。日本では刑事ドラマなどに登場するショートリボルバーだが、ルチアはそれを聖別するために自分の血を混ぜた赤い塗料で着色している。
 まるで玩具のような赤い短銃を片手にルチアはベッドに戻る。その途中、テーブルに置かれたティシューボックスからむぞうさにティシューペーパーをつかみ出し、歩きながら股間をのぞき込むようにして淡い茂みの下をふく。わずかに血のついたそれを丸め、コンドームとティシューであふれたゴミ箱にほうり込む。
 両脚の合わせ目から流れた血は月経ではなく、処女の純潔だ。ルチアにとって今回がはじめての行為ではないが男に抱かれるときの彼女は常に処女であり、血を流す。まるで本物の天使であるように彼女の身体はだれにも犯されない。
 そして、ルチアは両手で短銃をかまえベッドの男に銃口を向けて足を止める。
 男を殺すのだ――ルチアの言葉でいえば、あわれな男の魂を罪深き肉体から解放する儀式的な殺生であり、それが自分の役目だと彼女は信じていた。
 この殺生もルチアには今回がはじめてのことではない。これまで彼女が短銃で射殺した人間は、男が三人。だが、買春に関係した男をむさべつに殺しているわけではない。入手した情報をもとに目星をつけ、見のがせない悪と判断した標的だけを殺している。さらに決定的な判断は背中の痣を見せたときの反応だ。
 聖痕──そうルチアが思い込む赤い痣を目にして、なお悔いあらためることのない人間を彼女は悪と断定する。それゆえ、ベッドで眠る男の罪は確定した。
 ルチアは短銃のグリップをにぎる右手の親指で弾倉のうしろにあるキツツキ型のハンマーを引きおこし、男の頭に照準を合わせながら祈りの聖句を唱える。

 ──汝・慈悲深き神・その御子・明星の天使にならう朱門の秘呪・エーメン。

 指先にちからを込めて人さし指でトリガーを引く。ずどん、と巨大なジェットエンジンが一瞬だけ火をふいたような音の圧力と衝撃。銃口から発射される弾頭もふくめ、弾倉に装填された三十八口径の銃弾は、ルチアの手により赤く塗装されている。男の頭を貫通する弾頭が聖なる赤を血流に広め、身体の内部を浄化してゆく様子をルチアは一瞬で思い描く。
 この聖なる役目をつづければ、やがて背中の赤い痣とともに自分の罪が消え、白い天使の羽が復活するのだ──。
 そう、ルチアは考えていた。

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 白いダウンコートと高校の制服を着てホテルを出たルチアはスポーツバッグと学生カバンを手に、サックスケースを肩にかけ空に月の光と闇が残る夜明けの街をふらつく。やがて、ルチアはだれもいない公園を見つけ、枯れ木の下に置かれたベンチに腰をおろした。そして、ダウンコートのチャックをアゴまで引きあげフードを深く頭にかぶり、寝袋のような格好で三時間ほど眠りにつく。
 まぶしい朝陽を浴びながら、ルチアは目を開けると同時にいきおいよく身体をおこし、ベンチから立ちあがる。
 ――朝だ、朝!
 すがすがしさと喜びに満たされた頭からフードを跳ねあげ、ルチアはベンチに置かれた楽器入れをもどかしく開けると金色のアルトサックスを取り出す。そして、彼女はマウスピースをくわえ朝一番の祈りを捧げるかわりに、賛美歌百一番『あら野の果てに』を吹き鳴らす。

 ──世界の民よ・喜び唄え・グローリア・イン・エクセルシス・デッオ!

 楽譜を見ておぼえた演奏ではなく、耳で聴いた旋律をなぞるだけの演奏だ。ときどき音の調子をはずしているのだが、ルチアの耳には織天使たちの歌声が高らかに響き、彼女もその歌声に合わせ楽器をかかえながら身体を動かす。渾身の演奏に満足したルチアがアルトサックスをケースの中に戻そうとしたとき、近くから子供たちの明るい声が聞こえた。
 公園のわきにある細い道を小学生らしき集団が歩いている。ランドセルを背負う学年のばらけた五人の通学班とその後方にはなれ、幼い少女がひとり。ルチアは慌ただしく荷物をまとめると公園を飛び出し、いそぎ足で少女を追いかける。
 ──あなた、どうしてひとりなの?
 少女に追いついたルチアは背後から声をかける。低学年の少女は自分が呼ばれたことさえ、はっきりと認識できなかった。ただ、自分かもしれないという可能性を確かめるために少女はふり返る。そして、突然あらわれた女子高生を確認した少女は、おびえと不安とためらいを入り混ぜた視線で先をゆく通学班とルチアを見くらべた。
 そんな少女の反応にかまわず、
 ──あなたに、お願いがあるの。だれか大人に、これを渡してちょうだい。
 ルチアは言葉をつづけ、ダウンコートのポケットから縦長の白い封筒を取り出す。見あげる少女は無反応だ。しかし、ルチアは少女の手へ押しつけるように、ふくらんだ封筒をにぎらせる。封筒の中身はルチアが殺した男の財布から抜き出した、紙幣と硬貨を合わせた全額だ。ルチアの言葉でいえば、その金は死んだ男が現世に残したカルマであり、それを御使いの手に引き渡すことで、いっさいの浄化が完了する。
 八歳以下の無垢な子供たちは、みな聖なる御使いであり神の使徒だ──。
 封筒を手にして逃げるようにはなれる少女の赤いランドセルを見おくり、ルチアは満足そうに笑みを浮かべる。
 そして、ルチアは少女とは逆方向に足を向け、あくびをひとつ。大きく口を開けて息をはき出すと、そこには眠そうな表情と覇気のない目をした女子高生の顔があった。役目を終えたルチアは彼女が思うところの偽身ハネオ・ルチアの姿に戻り、通学の電車を利用するために近くの駅まで歩き出す。
「今日の朝礼は休もう……」
 そう、ルチアは声に出して考える。
 こうして、偽りの姿に身をひそめたルチアは偽りの時間を生きる。ふたたび、神の声が「目覚めよ」と彼女に命じるそのときまで。


#2/堕胎母子「沙神サネコ」

 美容室の重厚なシートに似た特殊な手術台の上に白いシーツがしかれ、桜色をした手術用のパジャマを着た少女が固定されている。黒く短い髪をした見た目には高校生ぐらいの愛らしい少女だ。しかし、少女の口もとは深海に潜るダイバーのような酸素マスクにおおわれ、鼻の下には臭気麻酔用のチューブがつけられ、目には緊張の色が浮かんでいる。
 手術台の横に立つ、うしろ髪をアップにまとめた頭に手術用のキャップをかぶり、顔にマスクをつけた白衣の女医サネコは、半透明の手袋をはめた両手を少女の左手に置き、声をかける。
「じゃあ、いいですか? わたしの声が聞こえるようでしたら、今からわたしの手を軽くにぎり返して下さい」
 サネコの顔はマスクのせいでよく見えないが、声には年配者らしく落ちついた響きがある。少女は声を出さずにアゴを引いてうなずき、彼女の手をにぎる。少女の手はサネコの予想以上に強いちからを返してきたが、それを顔に出さず「はい、大丈夫ですよ」と静かに告げた。
 余裕がないのだろう──サネコは少女から身体をはなして思う。こんな手術を目の前にした状況では当然かもしれないが、数日前に平然と手術の説明を聞いていた少女の姿を思いサネコは胸に重苦しいものを感じる。まして少女は、彼女の娘とおなじ十七歳という若さだ。
「じゃあ、今から麻酔をしますから、ちからを抜いて身体を楽にして下さい」
 手術台のうしろにあるガスボンベからチューブを通じ、麻酔ガスが流れる。
 手術台の周りに置かれたいくつかの器具以外に助手の人間などはいない。診療室にいる医師は、サネコだけだ。
「では、すぐ眠くなりますからね。目を軽く閉じて、頭の中で数字をかぞえるようにゆっくり呼吸をして下さい。はい、ひとーつ、ふたーつ、みぃーつ」
 サネコは小さな子供へ語りかけるように数字を唱えながら、
「はい、両手は横に置いて下さい」
 と下腹部を押さえるように置かれた少女の右手をつかみ、花を摘むような手つきで横によける。少女の手をどかした下はよく見なければわからないが、パジャマの表面がふくらんでいる。だが、手を動かされても少女は無反応だ。
「わたしの声が聞こえるようでしたら、わたしの手をにぎり返して下さい」
 サネコはふたたび確認するが、少女の反応はない。麻酔が効いたのだ。手術台の足側に移動すると、サネコは少女の両脚を持ちあげ、手術台の下からヒジかけのようにせり出した支えの上に、彼女の足首を固定する。両脚を左右に大きく開かされ、下着をはかされていない少女のむぼうびな下半身が、ワンピースタイプのパジャマからあらわになる。
 ──今、楽にしてあげるわ……。
 わずかにふくらんだ下腹部を見おろすとサネコは心の中でつぶやき、かたわらに置かれた銀色のワゴンから金属管のような器具を取りあげる。診療室の白い壁にかけられた時計を見れば、朝の十時を回るところ。そして、サネコは視線を手術台に戻すと両手にかまえた金属管の器具を少女の下半身に近づける。
 その器具で産道を広げ、人間としての自我すらまだ持たない未熟な胎児を少女の子宮から、引きずり出すために。

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 その日の手術を終えた夜のこと。診療所の応接室に置かれたソファーに、ひとり腰をおろしたサネコはテーブルの上に開いたノートパソコンの画面をながめていた。白衣は着たままだが前をはだけた下は黒のセーターにインディゴブルーのジーンズとラフな格好だ。手術用のマスクやキャップも脱いで髪をおろし、中年の堅実そうな女性の顔が見えた。
 古い五階建てビルの二階フロアを借りた、婦人クリニック『沙神産命院』。そこの院長にして経営者でもあるのが彼女、サガミ・サネコだ。きりりとした眉と目と、女手ひとつで診療所を経営していることから実年齢より年配に見られがちだが、当人はまだ三十代後半である。
「もう七時半ね……」
 サネコは画面の右下に表示された時計を読み、応接室の右手にある診療室のドアに顔を向ける。数時間前、その部屋で子宮内の胎児を取り出した、いわゆる中絶手術を受けた高校生の少女は麻酔が切れた夕方の時点で帰宅した。妊婦ごとに個体差はあるが、妊娠三ヶ月未満の初期中絶であれば二時間から三時間ほどの手術で終わり、当日の帰宅も可能だ。
 妊娠九週目の初期中絶──画面に視線を戻したサネコは、そこに表示された少女のデータと使用した薬品や金額などの数値を見つめる。前段階の診療費をのぞけば、今回の手術費だけで十万円だ。その説明を事前に受けた少女は「えっ、そんなに安いんですか?」と聞き返し、サネコを苦笑させたものだが。日本では中絶手術に医療保険が適用されないため医者により格差はあるが、初期中絶で十万円の値段は破格というほどでもない。
 手術を受けた少女は費用の七万円を自分で出し、残りは友人に借りたとサネコに話した。胎児というひとつの生命を学生にも用意できるほどの金額で消せてしまうことを考えれば、安いといえるかもしれないが。また、少女がひとりで費用を準備したことからもわかるように手術は少女の独断であり、両親や妊娠をさせた男性には相談していない。
 親に話せば怒られる、彼氏に話せば嫌われる――サネコには少女の話を信じるしかないのだが、それ以前にここでの手術に配偶者の承諾や同意は不要だ。どんな事情があるにせよ、本人の依頼さえあればサネコは手術を引き受ける。ようするに、そういう診療所なのだ。
 そもそも日本には〈堕胎罪〉――妊娠中の女子が人工的に堕胎した場合、女子および堕胎させた医師や関係者に懲役刑が処される――という刑法があり、一定の条件を満たす女子のみが保護法による認定を得られ、罪が免除される。この診療所に来るのは通常の産婦人科で手術の認定が得られない女性か、以前にここで手術を受けた人間、あるいは医師から内密に紹介された女性だ。
 『沙神産命院』と屋号に診療所と認識しづらい名前が使われているのも、ときに非合法な手術をあつかう闇医者の性質上だ。もっとも、サネコ本人にいわせれば、産婦人科の産婦人という表現が気にいらないから使いたくないと、そういう理由もあるのだが。

 サネコが少女のデータを閉じたところで、ふいに玄関のチャイムが音を立て彼女を呼びつける。サネコはノートパソコンの電源を落とし、ソファーから腰をあげ、きんきんと騒ぐドアチャイムの音に「はいはい、どちらさまですか」とたずねながら玄関に向かう。
 診療所の営業時間は終わり、玄関のドアはロックされている。ただ、診療所はサネコの自宅も兼ねているため、患者以外の来客もある。通常の賃貸借契約でビルの店舗を住居として使用するのはむずかしいのだが、ビルの所有者がサネコの叔父にあたる親戚のため、いくらかは無理が通るのだ。
 サネコは用心するでもなく玄関の鍵をはずし、ドアノブを回す。
 ドアを開けた先には白いダウンコートを着た高校生ほどの少女がひとり、たたずんでいた。サックスケースを肩にかけ両手に学生カバンやスポーツバッグや、コンビニのレジ袋をさげた少女は、サネコの姿に気づき口を開く。ビルの廊下に満ちた冬の冷気が、少女の素っ気ない声を白い吐息に変える。
「ただいま、ママ」
 サネコは少女の姿に目をなごませ、ドアを開けたままの格好で見つめ返す。
「おかえりなさい、ルーさん」
 少女の名はルチアという。手術を受けた少女とおなじ十七歳の娘。ひとり娘と母ひとり。この世でルチアだけが、サネコの愛する唯一の近親者だった。
「玄関の鍵はどうしたんですか」
 そうたずねる母に、ルチアは両手の荷物を一段高く持ちあげて見せる。
「このせいで両手が使えなかったから」
 チャイムは身体で押したのだ。
「それなら裏口の鍵が開いていたのに」
 という母の言葉を無視してルチアはドアを抜け、玄関に足をふみ入れる。
「これ、ママの夕飯とお土産」
 玄関先で靴を脱いだルチアはレジ袋とスポーツバッグを置き、そのまま奥に向かう。いつもながら愛想のない娘の態度に、やれやれとサネコは思いながらドアを閉め、荷物を拾いあげ白衣をひるがえし、ルチアのあとにつづいた。

 応接室でレジ袋を広げたサネコは取り出した中身をテーブルに載せる。紙パックの野菜ジュースと、彼女の好きなハムとホワイトソースのサンドイッチ。
「ごめんなさいね、お夕飯の支度ができなくて。今日は手術があったから」
 そんな母の声をルチアは台所に立ちながら聞いた。サネコのいる応接室兼居間の奥には、小さな調理場をそなえた食堂がある。いわゆるLDK(リビング・ダイニング・キッチン)という造りだ。ダウンコートを脱いだルチアは高校の白い制服姿で冷蔵庫を開ける。とはいえ料理を作るつもりはなく、自分の夕飯を外ですませた彼女は、冷蔵庫の牛乳を温めて飲むために台所へ来たのだが。
「ルーさん、なんですか……これは」
 いっぽうサネコは応接室のソファーに座り、お土産と渡されたスポーツバッグから出てきた古めかしいセーラー服に思わず顔をしかめた。
「お父さんが、あたしにくれた服」
 ──昨日お父さんを殺して荷物はそのままにしてきたけど、その服は娘さんのらしいから捨てておくのも悪いし、だからママにあげる。サネコは娘の話を要点だけ耳に入れながら、ようするに服の処分を押しつけられたのだと解釈した。
 今でもブルセラショップに売れるのかしら──などと考えながら、もくもくとサンドイッチを食べ終える。
「ああ、それと使い終わった銃は、いつもみたいに出しておきなさいね」
 ルチアは牛乳をそそいだマグカップを電子レンジの中に入れながら、ぼんやりと母の言葉を聞き流す。
「ルーさん、お返事がありませんよ」
「あ、銃ならサックスケースの中にあるけど、今は手がはなせないから」
 サネコは紙パックの野菜ジュースに刺したストローから口をはなし、娘が動くのを待たずに腰をあげる。
「開けますよ、ルーさん」
 いいながらサネコは床の上に置かれたサックスケースを開け、赤く着色された短銃を取り出す。そして、ソファーに座りなおしたサネコは野菜ジュースのストローを口に咥えたまま、右手で短銃のグリップをにぎりなおす。グリップのつけ根にあるギミックを指でひねり、短銃を左側に寝かせば、リアサイトから回転式の弾倉が取り出せる。
 銃身から横に飛び出した弾倉は穴の開いたレンコン型をして、六つ開いた穴の全部に単三電池サイズの薬莢が込められている。使い終えたら銃弾を抜くようにいいつけている母の注意は、今回も守られていない。サネコはストローから口をはなし、ため息をはき出す。
「あの、ルーさん。こちらへ来るときにそこの救急箱を持って来て下さい」
 かたわらに置かれた新聞紙から紙面を一枚だけ抜き出し、サネコは夕飯を終えたテーブルの上に広げる。そして、弾倉から突き出た太いマッチ棒のような排出バーをスライドさせ、赤く着色された銃弾を弾倉の穴から押し出す。
「ママ、そこってどこ」
「食器棚の上にある木箱です」
 取り出した銃弾を新聞紙の上にならべながら、サネコは伝える。弾頭のない使用済の薬莢は一発だけで、残りは未使用だ。そして、マグカップを手に救急箱を持って来たルチアから「すいませんね」とそれを受け取る。外見は救急箱だが中に収納されているのは整備用の工具や未開封の銃弾などだ。サネコは小型のマイナスドライバーを取り出し、なめらかな手つきで短銃をばらしはじめる。
「銃弾は、補充しておきますか?」
「うん。出しておいてくれれば、あとで赤く色を塗っておくから」
 マグカップの牛乳をずずっとすすり、ルチアはソファーに腰をおろす。
 サネコは弾倉をはずした短銃をルチアに向け、銃口から娘の顔をうかがう。赤い短銃と銃弾は彼女が着色したのだが、塗装の届かない内部には黒い金属の色が残り、銃弾にしても発射の摩擦で弾頭の色が落ちる。それでは塗装の意味がないのでは? と指摘する母に──儀式は形が大事なの、と娘は口をとがらせる。
「それで、昨日はどうでしたか」
「べつに、いつも通りだけど」
「どこか怪我をしたり、嫌なことをされたりしませんでしたか」
「べつに、何も」
「膜は無事でしたか?」
「……あ、破れた、血が出た」
 サネコは銃身に突っ込んだ掃除用のワイヤーブラシを片手で前後に動かしながら、娘の言葉に顔をしかめる。
「ルーさん。何をしてもいいから、きちんと最後の一線だけは守るように、いつもママがいっているでしょう」
「だって……ただ殺すだけじゃないし、タイミングとか順番とか大事だし」
 ルチアは両手に持ちあげたマグカップで口もとを隠すようにしながら、上目づかいに母の顔をうかがう。
「じゃあ、すぐに縫ってあげますから、手術前に身体を洗ってきなさい」
「え、今からやるの?」
「処女膜再生手術は、すぐのほうがいいんです。ルーさんだって、早く綺麗な身体に戻りたいでしょう」
「そうだけど、あたしはべつにすぐじゃなくても気にしないし」
「ママが気にします」
 整備を終えた短銃をもと通りに組み立てながら、サネコは口調を強くする。
「人間は過去の形を戻したり、そのままの形にとどめたりすることができます。ただ、過ぎた時間を戻したり、時間の流れを止めたりすることはできません。わかりますね、ルーさん」
「……うーん」
 そう渋りながらも、ルチアは飲み終えたマグカップを片手に立ちあがり、台所からバスルームへ向かう。そして、サネコもまたソファーを立ち、テーブルの上を片づけ、銃弾や工具を収納した救急箱と短銃を手に応接室をあとにした。

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 数時間前に妊婦の少女が固定されていたのとおなじ手術台に、今はルチアが寝かされている。しかし、彼女は裸身であり、少女と違い口もとには酸素マスクや麻酔チューブはなく、淡い水色のシーツが身体にかけられている。手術台の横に立つサネコはシーツの上半分をめくり、あらわになる乳房に手をふれる。
「うーん、まあまあのサイズと形ではあるけど、少しオッパイの左右が開いてきた感じですね」
 水でふくらませた白いゴム風船のような娘の乳房を、半透明の手袋をはめた母の両手が左右からよせる。隆起した頂点を飾る桜色のつぼみが、よけいに強調される。サネコもまた少女を手術したときとは違い、手術用の手袋とマスクをつけるだけで髪はおろしたままだ。
「ママ、あたしの胸で遊んでないで早く終わらせてくれない? ていうか、できれば全身麻酔にしてほしいんだけど」
「どうして、下半身麻酔だとオッパイにさわられて感じるからですか」
「……朝から眠くて寝たいの。全身麻酔なら手術中に寝ていられるし」
「いいじゃないですか、ルーさん。これも親子のスキンシップですよ」
 そういうと、サネコは娘の胸から手をはなし手術台の足側に移動する。
 ルチアの両脚が開かれた中央には背もたれのない丸椅子が置かれ、そこに腰をおろせば彼女の股間が正面に来る。サネコは器具を乗せたワゴンを引きよせると丸椅子に座り、スタンドタイプの照明を当てる。白い光に照らされた股間の亀裂は金属製の器具に広げられ、楕円をふち取る花弁のさらに奥、ピンク色をした内部までが晒し出される。
「膜が破れたのは仕方ないとしても、中には出されていませんよね。相手にコンドームをつけさせましたか?」
「つけていたとは思うけど、たぶん。最後は手でしてあげた気がするし、ママのくれたピルも飲んだし」
「避妊薬をいくら飲んでも性病は防げませんよ。なんでルーさんは、そんなにぼんやりしているんですか……」
 サネコは針と糸をピンセットであやつりながら、娘をたしなめる。彼女が産道の内部で動かしているのは釣り針のように湾曲した極小の針と、その先についた特殊な糸だ。
 そもそも処女膜とはビニールのように密閉された膜ではなく、繊維のような細胞に形成された網状の膜であり、通気性や通水性もある。手術はこの破損した繊維を糸で復元するもので完全に再生するわけではないが、周囲の細胞から毛細血管が取り込まれるため、貫通のさいには処女と同様の出血が再現される。
「だいたい子供でも、女は避妊を自衛しないとダメですよ。男なんてコンドームをつけても勝手に取るし、入れられたら逃げられないし、わたしも昔は……ルーさん、ママの話を聞いていますか?」
「うん、聞こえる。いつもの話ね」
「……お尻の穴に消毒液を流しますよ」
 サネコは顔をあげ、眠そうな声を返す手術台の娘に厳しい視線を向ける。
「だから、怒らなくても聞くってば」
 通常なら手術のさいに患者の意識がある場合は手術部や患者の顔をカーテンで隠すのだが、サネコは娘相手の気楽さから簡略している。あるいは親子のコミュニケーションというところか。そして、サネコは手もとに視線を戻し、娘の股間を見つめながら話しはじめる。

 サネコが何度となく娘に話すのは、若かりし少女時代の話だ。その頃のサネコは常にひとりだった。家族は健在だ。両親と兄がひとり、親しい友人もいた。周囲に人間がいながら彼女がひとりだったのは、他人と自分に相容れない違和感を幼い頃から感じていたせいだ。自分はどこか違う──自分だけが孤立し、世界につながれていない感覚。それでも普通に成長すれば、彼女も大人になる過程で社交性を身につけ、引きかえに少女期特有の自閉気質が消えたかもしれない。
 だが、サネコが高校一年、十六歳の夏にその事件がおきた。彼女の両親はふたりとも凡庸だったが、亡くなった父方の祖父は傑出した人間で、多くの子孫を残し、死後も親族から敬愛されていた。祖父の直系であるサネコの実家には祖父の仏壇があり、毎年の法要行事には多くの親族が実家をおとずれ、祖父の仏前に線香をそなえるのが恒例だった。
 そして、盆休みにあたる八月の中旬。いつも親族がおとずれるその日に、女子高生のサネコはひとりで留守番をしていた。両親は親族の用事で外出し、兄は大学の活動で家にはいなかった。
 暑く晴れた、昼さがりの午後だ。おとずれたのは母方の叔父にあたる中年の男だった。サネコは挨拶をかわし、お茶を出し、叔父をもてなした。しかし、叔父はそれだけで帰らず、あろうことか彼女に性的な暴行をくわえた。サネコに身体をよせ、床に引きたおし下着を脱がせ、彼女の純潔を犯した。
 だが、サネコはそれをだれにも告げなかった。苦悩はなかった。やはり自分は他人とおなじように生きられない人間なのだという、空虚なあきらめ。そして、男性不信になった。同級生の男子、父や兄、それまで意識することのなかった彼らが欲情のままに自分を犯す可能性があることを思い知らされた。ただ、彼女は自閉の殻をより厚くすることで、表面上はそれを隠しつづけた。
 その後も叔父との関係はつづき、サネコは抵抗せず会うたびに抱かれた。そして、高校二年の春に彼女は妊娠した。しかし、やはりそれを他人に告げることはなかった。相談できたのは、直接の関係者である叔父だけだ。
 叔父はサネコに闇中絶を紹介し、費用を負担して堕胎させた。彼女が婦人科医になろうと決めたのは、このときだ。また、叔父が暴力団関係者とつながりがあることも、このときに知らされた。
 不動産業者の叔父は事務所などを借りにくい暴力団関係者とあえて契約をかわすことで利益をあげ、契約者が女性である場合は家賃などを値引くかわりに肉体関係を強要していた。それを恥じる信念もなく、悔いる理性もなく、我欲のままに生きるアウトロー。今ではサネコも、アウトローに属する人間だが。
 家を出て医大に進学し、病院での経験を重ね、診療所の開業までにいたるサネコを、叔父は色々と援助した。彼は医者としての彼女に利用価値を見出していたのだ。皮肉なことにサネコがもっとも深い人間関係を結ぶことができたのは、彼女を強姦した叔父だった。
 ただ、おなじ社会の枠からはずれた人間でも、サネコは叔父のように悪徳や欲望のために医者をつづけているわけではない。とはいえ、純粋に女性たちを救済したいという願いもない。
 ふくらんだ妊婦の腹は男性との淫行を証明するもので、そこに感じる生理的な嫌悪。そして、胎児を取り出し平坦さを取り戻した腹部を見て感じる安らぎ──堕胎専門医、サガミ・サネコ。その屈折した存在が単純に社会の善悪で図れないものだとしても、彼女はまぎれもなく壊れた世界の住人だった。

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 手術中に寝てしまった裸身の娘を、サネコはお姫様のごとく繊細に抱きかかえ寝室に運ぶ。ルチアの部屋はもともとサネコの私室だったが、一緒に暮らすことになったさい彼女に与えたのだ。
 もう推察できているかもしれないが、ルチアはサネコの実子ではない。とはいえ、親戚夫婦の子供を引き取った形なので、血縁がないわけではないが。
 サネコは部屋の電灯をつけ、ルチアの身体をベッドに横たえ、丁寧に毛布をかける。そのさい娘の背中に残された赤い痣が目につき、わずかに表情をくもらせる。身体を観察すれば、ほかにもいくつかの傷跡がある。それらはすべて実母の暴行によるものだ。
 もっと早くに出会っていれば、あるいは自分の産んだ子だったら──何度となく浮かぶその考えを、サネコはルチアの寝顔を見おろしながら胸に思う。
 ルチアの実母は美人だが聡明ではない女だった。夜のホステス、いわゆる水商売を職業とし、客の男と結婚してルチアを出産した。しかし、出産後にひどく体調を崩した彼女は、精神的にも弱っていたところに同僚の勧めでキリスト教系の新興宗教へ入信した。家族は父と母とルチアの三人暮らしだったが、宗教へ傾倒する妻を夫はしだいに敬遠した。
 それが原因で離婚。五歳だったルチアは実母のもとに残された。
 夫との離婚をきっかけに宗教へのよりどころを強くした実母は、子供にもその教義を押しつけ、やがてそれは虐待に発展した。親族会議がおこなわれ、児童相談所をあいだに挟んだ話し合いもおこなわれたが、その後も実母による虐待はたびたび再発した。そして、最終的には家庭裁判所の審判を経て親権喪失宣告。ルチアが八歳のときだ。
 そして、ルチアの後見人として名乗り出たのが、まだ当時は診療所を開業したばかりのサネコだった。実父側の親戚とは離婚のさいに絶縁状態となっており、実母側の親戚もサネコ以外の人間たちは難色を示したため、彼女の希望は公的に受け入れられた。だが、肉体的にも精神的にも治療が必要だったルチアは、しばらくのあいだ療養所に預けられ、サネコと暮らすようになったのはルチアが十一歳になった六年前からだ。

 明日一番に叔父へ連絡しよう──ベッドの横に立つサネコは、服を脱ぎながら考える。今日の手術で取り出した胎児を引き取ってもらうように手配しなければならないし、ルチアが殺した男の処分も確認しなければならない。
 だが、すべては明日だ。ブラとパンツも脱いで裸身を晒したサネコは部屋の電灯を消し、娘のベッドに潜り込む。裸身にふれる素肌の体温が心地よい。簡単とはいえ一日にふたつの手術をこなした彼女は、さすがに疲れきっていた。
 サネコはルチアを引き取ったさいのことを思いながら、目を閉じる。
 これはサネコとルチアだけが知る事実だが、ルチアを暴行した人間は彼女の実母だけではなかった。だから、実際は暴行を加えた人間も事実を知るひとりとして数えられるのだが、それはルチアが預けられた療養所にいた男だ。施設の職員だった男は、まだ幼女といってもよいルチアを性的に暴行し、彼女の処女を犯した。だが、男はすでに死亡している。そして、その男の死にはサネコとルチアも直接的に関わっている。
 ルチアを引き取って間もなく、彼女の純潔が喪失していたことを知ったサネコは最初の処女膜再生手術をほどこした。そして、より深く愛した。ルチアの後見人となったときもそうだが、サネコが彼女のことを異常に気づかうのは、叔父に暴行された経歴を持つ自分自身の姿をルチアに重ねているからだ。
 少女時代の自閉気質を引きずり、他人との社会からはずれたサネコが、ただひとつ持ちえた愛情は自己愛だった。自分以外に関心を持てなかったサネコは、みずからの分身をルチアに投影することで娘を愛したのだ。そのうえ、おなじ境遇でありながら、サネコは黒い感情の流れに正気を失うかどうかという境界に立たされたとき、感情を殺すことで境界にふみとどまった人間であり、ルチアはその境界をふみ越えた人間だった。
 境界を越えたゆえに、ルチアの純粋性は保たれていた。正気を失うことで、みずからの悲劇的な人生を認知せずにすんだのだ。ルチアの預けられた施設は彼女を肉体的に治療したが、精神的には治療しなかった。そして、病的なルチアの精神には彼女の実母が植えつけた宗教という名の狂気も根づいている。
 次は若い男を殺させようかしら──まどろむ意識の中、サネコはそう考える。ルチアの標的は叔父に頼んで暴力団関係者から始末者のリストを回してもらっている。年齢が近い異性との性行為や殺人は、いい経験になるだろう。
 ──愛してるわ……。
 裸身の娘を背中側から両腕を回して抱きしめ、サネコはつぶやく。これからも彼女はその少女を愛しつづけるだろう。少女が今の形をとどめ、彼女の娘として手もとに存在しつづけるかぎりは。そして、サネコは背中に押しつけた乳首の先から伝わる肌の感触に自己愛と母性を満たされながら、眠りの闇に落ちた。


#3/屋上の予言者「按罪ユキ」

 まさに都会のエアポケットと呼ぶべき場所だった。その一帯に密集し、それぞれの屋上が死角となって建ちならぶ大小のビル。下からは見えず、より高いビルから見おろすことはできても、その屋上にのぼることは容易ではない。まして今は夜明け前だ。人通りはなく、深夜営業の店ですらシャッターをおろし、月は沈み、太陽は地平線の彼方にある。
 けれど見るものはなくても、その空間はたしかに存在する。そのひとつ、店舗がすべて撤退した六階建てビルの屋上。落下防止のフェンスはないが周囲の壁は高く作られ、大人の身長ほどもある壁の手前にはプラスチック製のベンチが置かれている。かつてビルで働く人間がいた頃には、休み時間にそこでくつろぐ利用者がいたのだろう。
 そして、今そのベンチの上に立つ人間が、ひとりいる。白いダウンコートを着た少女ルチアだ。ベンチをふみ台に高い壁から上半身を乗り出した彼女は、一望できる下界の景色をながめていた。
 数時間前、またルチアは男を殺した。しかし、いつもならば雪に覆われた白い原野のような安穏に満たされるはずの気分が、いまだに殺したときの気分で高揚しつづけている。これまで相手にしてきた年配の大人たちと違い、今回の標的は若い青年だった。
 ――すいません、今あたしがつけている下着を買ってもらえませんか?
 まずは、そう声をかけたのがはじまりだ。財布と定期券を落としたので自宅までの電車賃が必要なのだと、説明を加えて。まるでドッキリ番組のような演出だが青年はルチアの言葉を受け入れ、下着ではなく彼女の身体を求めた。
 だが、青年はルチアの身体を犯そうとはしなかった。彼は暴力団の下層構成員で外見も悪ぶっていたが、童貞だった。女性経験のない彼はルチアに対して一線をふみ越えるためらいがあったのだ。
 その後も何度か青年に接触し、ようやくホテルに連れ込ませることができたのが昨夜だ。しかし、それでも青年はルチアの純潔をうばうことはなかった。おたがいの性器を手や口でこすり合わせるだけで達した。それはルチアがはじめて経験する刺激だった。腰骨を震源に全身の骨がふるえるような快感──。
 その余韻を引きずりながら、ルチアはダウンコートのポケットに手を入れ、縦長の封筒を取り出し、そこから出した紙幣を冷たい冬の風に乗せて飛ばす。それは殺した青年の財布にあったものだ。
「ありがとう……」
 いつもとは違う感覚を与えてくれた青年に感謝を込めて祈りを捧げる。その魂が安らかなることを──ルチアは残りの硬貨を封筒から片手に取り出し、明るみはじめた夜明けの空にほうり投げる。
 これで彼の罪も浄化される──どことも知れぬ下界に落ちてゆく硬貨をうっとりとながめ、ルチアはそう考えた。
 そして、ルチアはベンチに立ったまま下に置いたサックスケースを開け、金色のアルトサックスを取り出す。派手に吹き鳴らしたい気分だった。何を演奏しようかとルチアは考え、ベートーベン交響曲第九番『歓喜の歌』を選曲する。

 ──ウォーダイ・ザフタン・ヒューゲルバイト・抱き合うがいい幾百万の人々よ・この口づけを全世界に送ろう!

 偉大なるドイツの音楽家が自由への祈りを歓喜の言葉に変え、天上に至る愛を表現した最高傑作。その演奏をルチアが終えたとき、ぱちぱちと手を打ち合わせる音が聞こえた。彼女の頭に響くイメージの音ではなく、現実の拍手だ。屋上にはルチア以外の人間もいたのだ。
 マウスピースから口をはなしたルチアが顔を向けると、屋内につづく扉の前に黒ずくめの人影が立っていた。ルチアとおなじヒザまでの長さがある黒いダウンコートを着て、頭にフードを深くかぶっている。そのため顔は見えないが、発する声でそれが少年だと知れた。
「なかなかの名演奏だね。こんな時間にこんなところで秘密の練習かな」
 少年はフードを払いのける。あらわれたのは中途半端に伸びた感じの黒髪とメガネをかけた顔だ。そこに害のなさそうな微笑が浮かぶ。
「きみ、ハネオ・ルチアさんだよね?」
 ダウンコートのチャックを引きおろしながら少年はたずねる。前をはだけた下は、ルチアが着た制服とおなじ白を基調とした高校のブレザーだ。
「ぼくの名前はアンザイ・ユキ。たぶん初対面だと思うけど、見ての通りハネオさんとはおなじ高校なんだ」
 というユキの言葉を無視してルチアはベンチをおり、アルトサックスをケースの中に戻す。学生カバンを片手にサックスケースを肩にかけ、ドアに向けて歩き出す。そして、ドアをふさぐように立つユキの前で彼女は足を止めた。
「どいて、人違いだから」
 ふてくされたように片手をポケットに入れ、ルチアは冷たい霜がはりついたような表情で、そう告げる。
「人違いって、すごいセリフだね」
 しかし、ユキは微笑をくずさない。
「そうやってとぼけても、きみのことは色々と知ってるよ。きみの家のことも、きみが人を殺していることもね」
「そう、あたしはあなたを知らないし、あなたの話も全然わからないから」
「じゃあ、これは何かな」
 とユキは左手を素早く動かす。ルチアの右手が入られているダウンコートのポケットに手を突っ込み、彼女の片手をつかみ出す。取り出された手には、赤く塗られた短銃がにぎられていた。ルチアはアルトサックスを戻したさい、用心のため短銃をケースから取り出し、ポケットの中に入れたのだ。しかし、なぜそれがわかる──予想外の事態に一瞬、ルチアの思考が止まる。
「これが玩具じゃないこともわかるよ。コルトローマン・マークスリー。古い銃だけど、よく手入れがしてあるね」
 というユキの言葉が終わるあいだに、ルチアは思考を切り替えた。左手に持つ学生カバンをふりあげ、彼の横顔に叩き込む。そして、彼女の右手をつかむユキの手が握力を弱めた瞬間、ルチアは身体をひねり、肩にかけたサックスケースでなぎ倒すように彼の身体にぶつける。
 ルチアはそのまま屋内に入ろうとするが、わずかに早くユキの手がドアノブを押さえた。しかたなくルチアはその場をはなれ、ユキとの距離を取る。

 ベンチの手前まで後退したルチアは学生カバンとサックスケースを下に置き、片手でかまえた短銃をユキに向ける。
「何者なの、あなた?」
「いいね。そうしてストレートに質問してくれたほうが、ぼくも説明しやすくて助かるよ」
 ずれたメガネをなおし、ふたたびユキはドアの前をふさぐように立つ。
「ぼくは人の不幸な未来を予知することができるんだ。ライシ、とぼくの家ではそう呼んでるけど。未来の『来』に視力の『視』と書いてね」
 いいながら、ユキは右手の人さし指を動かし、空中に『来視』と書く。
「たとえば近い将来に事故で怪我をする人が目の前にいれば、その人の不幸な未来が見える。だから学校でハネオさんを見かけたときにも、見えたんだ。きみに殺される不幸な人の未来がね」
「そう、たいしたものね。それでわたしをここまで追いかけて来たの」
「うん、その通り。スゴイね、こんな話をあっさりと信じてくれるなんて。やっぱり普通じゃないよ、きみは」
 ユキは嬉しそうにいうと、いっそうの笑みを浮かべて足をふみ出す。
 しかし、ルチアは油断なく銃口を向けながら、逆に後退して距離を保つ。
「そんなに警戒する必要はないよ」
 ユキは足を止め、言葉を選ぶ。
「きみに危害を与えるつもりは全然ないよ。ただ、ぼくはハネオさんのことを……救いに来たんだ」
 考えたすえに「助ける」という言葉に「救う」と使い、ユキは笑みを消した表情でそう告げた。

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 来視者、アンザイ・ユキ。その能力でルチアの殺人を予知した彼だが、それ以外にも彼女の情報を集めたのだ。ルチアの過去、そして現在。その環境とそこに関わる人間たちが、いかにあわれな少女の精神を歪めたか。しかし、ユキは同情や好奇心だけでルチアの前に姿を見せたわけではない。
 いっぽう、ユキが能力者であることを普通に受け入れたルチアだが――その純粋さゆえに――彼の告げた「救う」という言葉の意味が理解できなかった。
「どうして、あなたに救われなきゃいけないの? あたしは何も困ることはないし、助けてもらう必要もないわ」
 ルチアに罪の意識はなく、そこから発生する苦しみもない。彼女にも善悪の基準はあるが、それを判断した上で正しいと思うから殺人を犯すのだ。
「それは違うよ。きみは自分の置かれた環境が見えていないから、自分の間違いもわからないんだ」
 いいながら、ユキは思った。ああ、やはりおなじだ──ユキは彼女と屋上で向き合う自分自身の姿も『来視』のちからで見たのだ。ポケットから短銃を取り出したルチアが、それを自分に向けてかまえる。すべては予知した通りだ。
 これまでユキは『来視』のちからで自分の未来を見たことはなかった。見えるのは他人の未来だけで、自分の未来を見ることはできないと思っていた。だからルチアと対峙する未来の自分をはじめて予知で見たとき、そこに運命めいた特別なものを感じたのだ。
「あたしは正しいことをしている。罪を犯した悪人は罪を背負うことで苦しんでいる。それを殺すことで悪人は苦しみから解放され、世界から悪人がひとり消える。これのどこに間違いがあるの?」
「間違いだよ。きみが悪人をひとり殺したところで、この世界に影響なんて何もない。そんなのは自己満足だ」
 ユキは親がわりである姉にルチアへ会うことを相談したとき「行くべきではない」と反対された。両親はふたりとも違うが、彼の姉も能力者だった。
 ユキの一族は古くから能力者の生まれる家系だが、すべての人間が能力者になれるわけではない。両親が普通の人間で子供が能力者として覚醒した場合、一族から能力者の大人が里親となり子供を引き取る。それが一族のしきたりだ。姉もユキとおなじ里親に引き取られ、義姉弟として育てられたのだ。
「違うわ……この役目を果たせば、あたしは天使の姿を取り戻せるの。天使のちからを使えば、すべての悪人を消して世界を救うこともできるの」
「妄想だよ。世界に神や天使なんて、存在しない。ただ悪いことをする人間と正しいことをする人間が混然となって存在する。それが普通なんだ。きみもその人間のひとりで、ただの女の子だ。そのきみが世界を救うとか悪を消すとか、そんなことを考える必要はないんだ」
 ユキに反対した姉の能力は『統視』のちからだ。あらゆる事象を見ることで統べる能力。たとえば過去の気象データを彼女に見せれば、未来の天候や気象変化を正確に導き出す。仮に人類の遺伝子情報を解読したデータを彼女に見せれば、人類の未来を正確に答えるだろう。
 ユキの超直感的な能力とは違い、超分析的な能力を持つその姉が、あっさりと彼に「行くな」といったのだ。
 ユキの『来視』は不幸な未来を見る能力。それでルチアに会う自分自身の姿を見たのなら、ユキか彼女のどちらかに不幸がおとずれる。ならば予知した未来を回避し、べつの行動を取るべきだと。
 だが、ユキは予知した通りルチアに会うことを選択し、屋上に来た。自分の予知した未来をたしかめるために。

 ルチアはユキに向けた短銃を両手でかまえ、トリガーにかけた右手の人さし指にちからを込める。彼女の中で彼の罪が確定したのだ。しかし、銃口から発射された弾頭はユキの身体に届かず、足もとのコンクリートを破壊する。
「あなたも悪人ね。善人と悪人が一緒に存在する世界が普通だなんて」
 威嚇射撃だ。いきなりの銃撃にショックを受けたユキだが、両手を強くにぎりしめ、その場にふみこらえる。
 彼が予知したのは銃を持つルチアと屋上で対峙する自分の姿で、彼女を説得する方法や取り押さえる方法は見えていない。彼の『来視』は不幸がおきるという事実を見るだけで、その過程や結末を見ることは不可能なのだ。いちおうの備えは用意してあるが、最悪の場合はルチアに撃たれる事態もおこりえる。
「ぼくを殺すのかい?」
 だが、見えないことに救いもある。不幸な事故が不幸な結果を生むとは、必ずしもいえない。不幸のあとに幸運な未来がおとずれることもある。大切なのはその予知をもとに、対処を間違わず選択することだと、ユキは考えた。
「あなたが心をあらためてこの場から立ち去るなら何もしない。でも、あなたがそこから動かないなら、撃つわ」
 ユキは覚悟を決め、内心の動揺を見せぬように微笑を浮かべる。
「ムダだよ。きみの弾は、ぼくに当たらない。ぼくには未来が見えるんだ。きみの弾が身体のどこに当たるかを予知できれば、当たる前に動くこともできる」
 もちろんハッタリだ。予知以外にも普通の人間よりは感覚が鋭いため、ルチアが銃を撃つ瞬間に動くことぐらいはできるが、確実にかわせる保証はない。それでもユキは、強気に言葉を選ぶ。
「それに、そのリボルバーは装弾数が六発。ここへ来る前にひとり撃ち殺しているから最低でも一発は使用している。ぼくはきみを尾行してきたけど、途中で銃弾を補充した様子もない。屋上のドアも鍵を壊したあとがあるから、そこでも一発撃ったかもしれないね。それとぼくの足もとに撃ち込んだ一発を合わせれば、残りは三発──」
 ルチアはハンマーを引きおこし、彼の言葉が終わらぬうちにトリガーを引く。
 その瞬間、ユキは横へ倒れこむように身体をふせる。弾頭は彼の上を通過して背後の壁を破壊する。ルチアはふたたびハンマーを引きおこすが、ユキは素早く身体をおこし、狙いをつけられる前にその場を移動し、距離を取る。
「これで残りは二発。その二発をぼくに当てられなければ、きみの負けは決まりだ。銃が使えなければ、ちからずくで押さえるぐらいは簡単だからね」
 ルチアが射撃に不慣れなことも、ユキに幸いした。これまで彼女は動かない人間を至近距離で撃ってきた。ユキが遠くにいるわけではないが、距離を開けて動く人間を撃ったことがないのだ。
「それに、きみのリボルバーはシングルアクションだ。一発ごとにハンマーを引く必要があるから、慣れてなければ連射はできない。だとしたら、残りの二発をかわすことは難しくない」
 ユキは息苦しく感じられるほどの緊張をおさえ、さらに笑みを浮かべる。
 そして、ルチアは短銃を両手で包み込むように持ち替え、聖句を唱える。

 ──父と子と精霊の御名において・我は悪しきすべての種子と魂を追い払う。

「いくらお祈りしてもムダだよ。そんな言葉には、なんの効果もない」
 ルチアは彼の言葉など聞こえないように片手で短銃を持ちなおし、ゆっくりと銃口を向ける。彼女の指がトリガーを引く瞬間、ユキは身がまえる。
 だが、彼女の短銃から銃声が響くことはなかった。ただハンマーが弾倉を叩く乾いた金属音が、かちりと鳴った。
「ほら、もう弾切れだ。まあ、最初から六発フルに装填されていたとはかぎらないしね。ここへ来るまで、ぼくに撃った二発しか残ってなかったんだよ」
 むりやりの笑みを本当の笑みに変え、ユキは彼女に近づく。ルチアは慌てたようにトリガーを引く動作をくり返す。
 ──ムダだよ、ユキがそういってルチアの身体に腕を伸ばそうとした瞬間、ずどん、と低い銃声が鳴り響いた。

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 銃口から白煙があがる。まともに至近距離の銃撃をくらい、ユキの身体は衝撃でうしろに倒れる。黒いダウンコートの左胸に穴が開いた彼の身体は、あっけなく倒れたまま動かない。
 ルチアは右手でグリップのつけ根にあるギミックをひねり、弾倉を横にふり出す。弾倉の穴を埋めた薬莢は、一発だけだった。そして、彼女が左手を広げるとそこに使用済みの空薬莢と、未使用の銃弾が一発あった。ルチアは両手で短銃を包み込んで聖句を唱えたさい、ひそかに取り出し弾倉から一発だけ銃弾を残し、ほかの銃弾を抜いたのだ。
 ルチアは弾倉の銃弾を排出すると、左手の空薬莢と一緒に下へ落とす。そして一発だけ残った赤い銃弾を弾倉に押し込める。それが最後の六発目だ。
 彼女はとどめを撃ち込むべく、倒れたユキの身体に近づく。そして、彼の身体を見おろしたルチアが銃口を下に向けた瞬間──ユキの右腕がむくりと動き、彼女の手から短銃をうばい取った。
「何っ?」
 と仰天するルチアの身体をユキの片足が下から蹴り飛ばす。彼女は体勢をくずしながら、よろめくように後退する。
「驚いたかい? このダウンコートは防弾製なんだよ。きみが銃を使うことは事前に予知していたからね。これぐらいの用意はできるさ」
 ユキは身体をおこして立ちあがり、種明かしを終える。だが、いくら防弾製とはいえ無傷ではない。撃たれた左胸は、しびれるような痛みをあげている。それでも彼は短銃をダウンコートのポケットにしまい両腕を広げ、ルチアに迫る。
「さあ、これで終わりだ。きみにはもう抵抗する手段がない」
 ルチアは後退しながら壁の前まで追いつめられ、そこに置かれたプラスチック製のベンチにのぼる。さらに屋上の壁にのぼり、壁の上に立つ。近づいたら飛びおりる──言葉には出さないルチアの行動と身体が、そう伝えていた。
「どうしてそこまでするんだ。ぼくは、きみの敵じゃない」
 ユキはベンチの手前で足を止める。
「あなたこそ、どうしてあたしにそこまでするの? あなたにそこまでさせるほど、あたしは悪いことをしたの?」
「……いいんだよ、今はそんなことを考えなくても。ただこちら側に来れば、きみは楽になれるんだ」
 これで助けられる──ユキはそう思った。ようやく彼女に手が届くところまで来たと。それに彼の『来視』はルチアが飛びおりる不幸な未来を見せていない。
「ぼくはね、ハネオさん。絵描きになりたかったんだ。けど高校を卒業したら、国の特務機関で働かなくちゃいけない。それが能力者の決まりだからね」
 ユキは彼女に語りかけながら片足をふみ出し、ベンチにつま先を乗せる。
「でも、きみは違う。生まれつき変な能力があるわけじゃないし、生き方も強制されていない。今からでも普通の女の子として生きることができるんだ」
 そしてユキは手をさしのべる。高みにのぼった恐怖で、そこからおりられなくなった猫を助けるように。ルチアは片手で彼の手を握り、にこりと微笑む。だが次の瞬間、彼女が足をふみ出したのは前ではなく、うしろだった。

 ユキの手をつかんだまま、ルチアの身体が宙に舞う。彼の口から「ああっ!」と言葉にならぬ声がもれた。ルチアに引きずられたユキの身体は壁に押しつけられ、壁の向こう側に落ちかける。
「どうして──」
 問いかけたユキの言葉は、動転のためつづかない。彼は腕にちからを込め、必死にふみとどまる。だが、それ以上のちからで身体が引きずられる。ルチアの体重だけではない。彼女はユキを下に落とそうと、腕を引いていたのだ。
「なんで、こんな……」
「いったでしょう。悪人のいうことなんて聞けるわけがないじゃない」
 身体を空中に揺らして風をあびながらも、ルチアは顔に笑みを浮かべる。
「きみだって、落ちたら死ぬんだよ!」
「あたしは死なない、天使だもの。それにあなたを殺したときにこそ、あたしの罪が消えるかもしれない。そしたらきっと、あたしの死体から翼がはえるわ」
「イカレてるよ、きみは……」
 つぶやくように告げたユキだが、ルチアの手をつかむ両手には、いっそうのちからがこもる。だからといって、彼女を見捨てるつもりは全然なかった。
 ユキの前に眼下の景色が広がる。六階建てのビルだ。彼はその正確な距離を知らないし、六階建てビルの屋上から飛びおりた経験もないが、落ちたらまず死ぬだろうと確信することはできた。
 そして、彼の目はビルの前に植えられた街路樹と、その横に駐車した乗用車をとらえる。それは彼をここまで送り届けた姉の車だった。そのうえ、ユキの身に何かあったときに対処できるよう、姉は車の中で待機しているはずだった。
「姉さんっ!」
 ユキは声のかぎり叫ぶ。地上までの距離は遠いが、少しでも異変を感じれば姉は来てくれると彼は信じていた。
「マリエ姉さんっ!」
 ふたたび名前を叫ぶと乗用車のドアが開き、そこから出てくる姉の小さな姿がユキの目に見えた。姉はビルに視線を向けるとすぐに弟の危険を理解し、建物の中へかけ込むように消えた。
 これで助かる──そう安心するユキの頭へ、ふいに不吉な映像が浮ぶ。それはぐったりと倒れ、頭から血を流すユキの姿だった。落下の恐怖から来る予感にしてはあまりに鮮明すぎるその映像は、これまで彼が何度も体験した『来視』のちからが見せるものだった。
「嘘だ……」
 ユキがそうつぶやいた瞬間、ルチアの手が彼の手を強く下に引いた。ユキの左胸がずきりと痛んだ。身体が壁の向こう側に乗り出しかけた彼は、反射的に彼女の手をふり払うようにはなした。
 すべては一瞬だった。ユキの手をはなれ、空中にほうり出されたルチアの身体がぐんぐんと落下しはじめる。
「ルチアっ!」
 声をはり上げたユキが片手を伸ばしたが、ルチアの身体はすでに手の届かぬところにあった。白いダウンコートに包まれた彼女の身体が風にはためき、花嫁の投げたブーケのように、斜め下へ落ちてゆく。ユキの目に、その映像はコマ送りのようにゆっくりと流れた。
 葉が枯れて枝だけになった街路樹にルチアの身体が突っ込み、ばきばきと枝を折りながら落ち、その下に止められた乗用車の屋根を、どーんという音とともに破壊して激突する。
 その瞬間、ユキの視界は真っ暗になった。全身が脱力したようにくずれ落ち、がくがくと身体がふるえ出す。
 それがユキの選択した未来の結果だった。彼がルチアに会おうとしなければ違う結果になっていたかもしれないし、ひとつ間違えば屋上から落ちていたのは彼のほうだったかもしれない。だが、今となってはおきてしまったことだ。
 ユキの頭には、もうそれを考えるちからもなく、事態に対処するちからも残されていなかった。ただ閉じた両目の下から、とめどなく涙があふれつづけ、半開きの口からは赤ん坊の泣き声とも老人の息づかいとも聞こえるような声が、ひぃひぃとこぼれた。
 そして、ベンチの上で胎児のように丸めた彼の身体を、ようやく顔を見せた太陽が、黄色い朝の光で暖かく包み込むように照らした。