『断片化するカリグラフィ』
突然、強い風が吹き込んできて、机の上にあった紙はすべて床に落ちてしまった。
「この天気だ、傘も差さずに歩かせるのは酷だろう。うちにつれてきて、シャワーを浴びさせたのはいいが、何を着せたらいいか分からん。助けてくれ」
すっかり体も温まって、気持ちよくなったところで浴室を出たら、値札がついたままのバスタオルの上に、下着と肌着とジャージがそれぞれユニクロの袋に入ったままの状態で置いてあった。この値札はどうしたらいいのだろうと思いつつ、着替えを脇に避けてバスタオルを持ち上げたら、その下にハサミがあった。
はて、あの男はこんなことをするようなマメな人種には見えなかったけれど。
人は見かけにはよらないものだなあと思ったら、案の定、タオルと着替えを手配してくれたのは彼の友人だったらしい。
それにしても。
座布団の上で足を崩し、お茶を飲みながら、私は思う。
左には寝癖が最高に格好いい和装の男、右にはノーネクタイでスーツの眼鏡男。
二人とも、いい人だなあ。
ことの発端は、百色眼鏡が暴れたことだ。
察しのいい読者は、そろそろ気づいているだろうと思うけれど。
この物語の主人公であるところの私、草薙琳瑚はこの世界の神である。
「【ζ(s) の自明でない零点sは、全て実部が二分の一の直線上に存在する】」
金曜日の六時間目、数学の授業。E棟の三〇六教室。
次の日が祝日で休みだから、この授業さえ乗り切れば、月曜の朝までは解放されるというのに、百色眼鏡がいきなり〈力ある言葉〉を呟いたせいで、みんなが脳裏に思い描いていた放課後の予定は台無しになった。
まず黒板が淡い黄金色に包まれて、爆ぜた。
去年の暮れにうちにやってきた、去年まではまだ大学生だったという葉子先生は、爆風をまともに受けて、窓ガラスを突きやぶり校庭に吹き飛んでいった。言い忘れていたけれど、E棟は目の前に校庭があって、正門も見えているというのに、昇降口が反対側にしかなくて、普段、生徒は校庭に出るのに少なからず苦労している。とは言え、葉子先生のように窓から出たいとは思わない。三階だし。話を戻そう。
爆風は教室の真ん中ぐらいで授業をおとなしく受けていたももんがさんが、逆風の太刀だか何だかで無効化してくれたけれど、彼女のおかげで爆風の影響を受けなかったのは、彼女よりも後ろに座っていた生徒だけで、それ以外の大半は葉子先生と同じように外に吹き飛ばされたか、廊下に吹き飛ばされたか、教室の後ろの壁に叩きつけられるかした。
心底くだらないことに、百色眼鏡本人も爆風を受けたひとりで、今はロッカーの前で伸びている。左耳のピアスが耳たぶごと何処かに飛んでいってしまっている。
ああ、帰りの掃除が面倒だし、放課後、百色眼鏡にこの世界の神として神罰を下さないといけないと思うとさらに面倒……と思っているのは、現在進行形で教室の掃除をしている私で、百色眼鏡が〈力ある言葉〉で教室をめちゃくちゃにしていたとき、私は、ももんがさんの後ろの席でぐーすかやっていた。
さて、放課後である。
神の権限で全生徒と教員を帰した後、私はE棟とB棟と体育館に囲まれたデッドスペースで百色眼鏡を待っている。今の状況は、放課後・於体育館の裏、と言えないこともないが実際は設計に失敗してしまって出来た袋小路のような場所だ。
百色眼鏡に私が神罰を下すのは三回目だ。一回目は粛々と叱られていたが、二回目は体育館の屋根の上から飛び降りてきて、私の脳天に一撃を与えようとしやがった。
もしかしたら、今回の騒動も、数学嫌いの百色眼鏡が葉子先生の退屈な授業に耐えきれず暴れだしたわけではなく、私へのリターンマッチのつもりなのかもしれない。だとしたら、それこそ、くだらないではないか。
百色眼鏡は〈力ある言葉〉を使いこなし、暴帝という不名誉な称号を欲しいがままにしており、確かにその名に相応しく凶暴だが、所詮、その力は人間の範疇に収まってしまうわけで、神である私の足元には及ばない。
それにしても遅い。宮本武蔵か、あいつは。
腕時計を見下ろす。
刹那。
背後に気配を感じた。そしてほぼ同時に、ぎゅぃぃぃぃぃぃぃぃんという耳障りな音。
私は素早く飛び退った。が、どこか油断していたのか右足を持っていかれてしまった。
百色眼鏡――!
やはりこやつ、私との再戦を果たすつもりだったか!!
左足だけで着地し、私は校舎にもたれかかるようにして体重を分散させる。
分断された右足が宙をくるくると踊る。
百色眼鏡は地中に潜んでいた。チェーンソーを手にして。
まったく、用意周到じゃないか。
ドクドクドクドク……。
私のかわいい右足が地面に置きざりにされている。泥まみれになっている。
あー……。
周囲は百色眼鏡が手にしているチェーンソーの破壊音に満たされている。私の耳はその音を捉えるが、私の脳はそれを重視していない。もっと大きな音が聞こえるからだ。
鐘の音だ。教会の鐘の音だ。
酒に酔って女を抱いた神父が私の頭の中で鐘を打ち鳴らしている。頭痛い。
私の足が私から切り離されてしまったのは誰のせい? ねえ、誰のせい?
しっかりとした大人に出会えなかった私が不運だったから。
それとも、あんな政治家を選んでしまった私たち全員の責任?
あー……西の果てで蝶々が舞う。東の果てで風が疾る。
「お」
土中から這い出そうとしていた百色眼鏡が、その右足を根元から失って、最初に口にした言葉がそれだった。とは言え、その直後に「おおおおおおおおおおおお」と雄たけびをあげてしまったから、最初の「お」の特殊性は薄れて消えてなくなってしまった。
「うふ、これでおあいこ」
見たか、これが神の力だ。神の力で増幅された、バタフライエフェクトだ。
「琳瑚! 手前!!」
「琳瑚様、だ。人間」
日本人には素敵な美徳がある。
例えば恥じらい、謙遜、敬語、菊と刀。
「ねっ、百色眼鏡くん」
神=私の見えざる左手が、百色眼鏡の口を無理やりに操作する……。
「り、ん……ご。さま」
「うふふ」
おっとくだらないことに〈力〉を使ってしまった。
そろそろ止血をしなければ。
神の血は無限。右足を失った私の右脚は、無制限に本来、供給するはずだった血液を送り出しつづけている。このままでは、ここらへん一帯が文字通りの血の海になって聖地化してしまう。
股のあたりに意識を集中させて止血を行う。
そこに一抹の隙を見つけたのか、百色眼鏡は口を開けた。
「油断したな――【楕円曲線E上の有理点と無限遠点0のなす有限生成アーベル群の階数(ランク)が、EのL関数L(E, s)のs=1における零点の位数と一致する】」
もたれかかっていたE棟の外壁が、昼間の黒板と同じように、黄金色に輝く。
「あらー……?」
直後、凄まじい衝撃。
E棟が衝撃によって解体されるのを感じながら、私は空を舞う。
「やるねえ、百色眼鏡くん。でもねえこの程度じゃ」
吹き飛ばされ、倒立の姿勢で私は百色眼鏡を睨みつける。
けれども百色眼鏡は動じるどころか、口元を歪め、嫌らしい笑みを浮かべやがった。
「効かないってか? じゃあ、これはどうだい――【計算量理論におけるクラスPとクラスNPは等しくない】【複素数体上の非特異射影代数多様体について、任意のホッジ類は、代数的サイクルの類の有理数係数の線形結合である】【n次元ホモトピー球面はn次元球面に同相である】」
おうおう、頑張るなあ。
三連続で放たれた〈力ある言葉〉が、私と一緒に空中に投げ飛ばされた様々な塵芥を黄金色に包んでゆく。
しかしこれはさすがにまずいかもしれない。
三百六十度、死角が見当たらない。いくら神とは言え。これは、さすがに。
あ。
気がついたとき、私は地面に横たわっていた。
意識は戻っていない。
幽体離脱した人が、医者によって治療されている自分自身を客観的に見ることができるように、私は死んだように倒れている私を見ている。いや、死んだようにではなく、死んだのか。でも、神が死ぬわけないし。
あれ、神でも死ぬんだっけ?
私がそんなことを考えていると、百色眼鏡はぴょんぴょんと近づいてきて、私の頭の上に一本足で乗りやがった。あーあ。
「とどめだ【――――――――】」
百色眼鏡は〈力ある言葉〉を口に出来なかった。
何故って、百色眼鏡は神を足蹴にしてしまったのだから。
神を踏んづけて生きられる人はいない。踏み絵を拒否した人間には死を、絵とは言え神を踏んだ人間にも死を。私はくだらない幽体離脱なんて止めるため急降下する。
自分の体に戻りながら、そっと百色眼鏡の阿呆に教えてやる。
「可哀相な百色眼鏡。今まで数学が嫌いだったから、数学に巣食う難問の数々を、その謎を解き明かそうと群がる学者たちの力を、自分の好きな色と形に変換できたんだよね。でも、残念だったね、今の君はもう数学が嫌いな子じゃなくて、むしろ好きな子だよ。私がそうしてあげたから。もう安心だね。数学が得意なだけじゃなくて、好きになったのだから、お父さんと同じ職業に就けるね、お母さんの期待に応えられるね。やったね」
そうして自分の体に戻った私は、右手を持ち上げて百色眼鏡を吹き飛ばす。
起き上がり、落ちていたチェーンソーを拾う。シンプルな構造だ、このスイッチを押すと刃が回転する。私は「えいっ」と力を込めてスイッチを押す。五倍のスピードで回転が始まった。チェーンソーが限界を越えた加速に熱くなる。
「神罰だよ?」
百色眼鏡の上に馬乗りになり、私は百色眼鏡のからだを、既に切り分けた足を含めて七つに分断した。
血の海に浮かぶ七つの身体は赤色にしか染まらない。
「あ、夢か」
ももんがさんに起こされた私はよだれを拭って、教室の掃除をするべき立ち上がった。
百色眼鏡に置き傘を取られてしまったので、私はこの雨の中、ずぶぬれになりながら帰ることになった。こういうときは本当に、E棟の昇降口から正門までの無駄な遠回りが頭に来る。
何が頭に来るって、鞄が現在進行形で濡れており、浸食は鞄の中に及びつつあるからだ。
辞書も教科書もロッカーに置いてきたが、書き途中の小説を学校に残しておくわけにはいかなかった。
学校のロッカーなんて一種の無法地帯みたいなものだ。
一見、そこには各々の領土があって、それらは領主によってきちんと治められているように見えるけれど、実際には領主を束ねる諸侯の存在があって、さらに領主の指示に従わない無法者の存在があるのだ。
運動靴が知らない間に使われていたり、教科書に覚えのない書き込みがあるのは、日常の謎でもなんでもない。必然だ。
ああ、ちくしょう。
また書き直さないといけないと思うと億劫だ。明日は風邪を引いたことにして休もう。
家に入り鍵を閉めて少し経ったが、私は玄関から上がれない。少しだけ泣く。
ここから先は浸水が酷く、入り込むことが出来ない。
「あなたが夢野さん」
右側の男を見ながら訊く。
「ああ」
彼は神経質そうに眼鏡のブリッジを指先で押さえながら頷いた。
「そして、あなたが宗田さん」
左側の男を見ながら訊く。
「そうだ。ははは! 宗田だけに、そうだ。そりゃそうだ。はっはっはっ」
「くだらんぞ」
「そうだ、くだらない。ははは、宗田の姓は、何もかもを全肯定するぞ。夢野、貴様の偏屈さも俺は肯定してやろう。草薙、貴様の貧乳も俺は肯定しよう」
「さ、最低だなお前! 初対面の女の子に向かってそんな」
「ほう。ならば夢野、貴様は初対面でなければ貧乳微乳無乳と言っても失礼ではないと言うのか! 茶碗だな! 間違えた、茶番だな!」
「違う、それを言うなら詭弁だ」
あ、あは。
なんなんだろうこのくだらなくも、面白おかしい人たちは。
「あのお二人は、どういった関係なんですか」
「夫婦だ」
「ば、馬鹿! 草薙ちゃんが信じたらどうするんだ!」
「馬鹿は貴様だ。俺は今、俺と貴様がおしどり夫婦のように仲がいいという意味で『夫婦だ』と答えたのだ。それを貴様、つまらん言いがかりなどつけおって。貴様のような空気を見えないやつは、こうしてやるこうしてやる」
両の拳を固め、宗田さんが夢野さんの頭を挟もうとする。
夢野さんは「ちょっと、やめ、やめろよ!」と言いながら逃げている。
なんて――微笑ましい光景だろう。
私は三分ほど二人のラブラブっぷりを観賞してから、少し前から気になっている点を、宗田さんに問いただしてみた。
「あの、宗田さん」
「なんだね」
「宗田さんの乳首ってどうして黒いんですか」
最前から宗田さんが身にまとっていた和服が、ずいぶんと乱れていたのだ。そのせいで胸元は覗けるどころか、かんたんに直視できるようになっており、彼の随分と色黒い乳首に私の視線は釘付けだった。
「ふふん、教えてほしいかね」
「ええ。是非とも」
「ならば……」
そこで宗田さんは、ついと視線を私から夢野さんにずらした。
宗田さんは二秒ほど夢野さんを見つめていたが、やがて犬を追いやるようにしっしと手を振った。
「なんだよ突然? 何か言いたいことがあるのなら口で……。お、お前、まさか」
かあああと音が聞こえそうなぐらい、色白だった夢野さんの顔が紅潮する。
「そそそそんな不埒な。そんな行為は許しません!」
「なんでだ? と言うか、行為って何のことだ?」
「行為だなんて! ああ、草薙ちゃん!」
「は、はい」
「こいつの乳首が黒いのは、こいつが武道家だからですよ!」
「武道家だと乳首が黒くなるんですか?」
「そんなこと知りません! とにかくだめです! 草薙ちゃんはまだ高校生なんだから」
なにか誤解されているような気がする。
気がする、けれどもその誤解は別に解かなくてもいいように思った。
私はこの後もいくつか宗田さんに質問したが、宗田さんがボケて、夢野さんが墓穴を掘る、その繰り返しだった。やがてお腹が空いたので出前を取って、夢野さんが帰り、宗田さんと二回えっちして、私は宗田さんに小説を見せることにした。
紫煙が天井に昇ってゆく。けれど、扇風機の角度が絶妙なのか、彼らは絶対に天井に辿りつけない。その前に攪拌され、希薄が限界まで進み、消失もしくは融合してしまう。
布団の上に横になった宗田さんが、私の小説を読みながら煙草を吸っている。しかし、眠いのか先ほどから吸い殻を捨てる間隔が伸び、目蓋も今にも落ちてしまいそうだ。火事は目前だ。
私は乾いた制服に着替え、椅子に座って宗田さんを見ている。
少し、咽喉が渇いたので、勝手に冷蔵庫から取り出したアップルジュースをすする。
「いいね」
「え、うそ」
私は少なからず驚いた。
だって宗田さんの寝室は三面本棚で、東西の文学全集が整列しているのだ。
親戚の金で食わせてもらっているという宗田さんは、すでにそれらを読破したと言っていた。万巻の書を積んだ宗田さんに誉められるとは、思わなかった。
けれど、私の胸に湧き上がった感動は、一瞬にして沈下した。
何故って次の瞬間、宗田さんの手が両方ともガクリと垂れたのだから。
寝言、だったようだ。
私は小説を回収すると、アップルジュースを飲み終えて、宗田さんの家を辞す。
家路を辿りながら、東の方角から差してきた明かりが、私の影を踊らす。
もう夜明けか。
ここから先は焼け落ちている。進むことはできない。
宗田さんの家から歩いて五分。その住宅街は、山の斜面にへばりつくように建てられていた。一体、どれだけの土を崩して運んだのだろう。そんなことを考えながら、夢野さんの家にお邪魔したら、ももんがさんがいて驚いた。
なんと彼女は夢野さんの妹だと言う。
「どうした右足を怪我してるじゃないか。どれ手当てしてやろう」
「あ、うん。ありがとう」
ももんがさんは救急箱を持ってくると「どっこいしょ」と言いながら、ソファに座っていた私の隣に腰かけた。
「兄貴」
「そうだな。仕事も残ってるし、少し片付けてくる」
バタンと戸が閉まるのを確認してから、ももんがさんが私の右足を持ち上げて膝の上に置く。私はスカートを穿いていた。
「ひどいな。油断したのか、それともわざと斬らせてやったのか」
「うん?」
何の話だか分からなくて私は首を傾げてしまう。
「百色眼鏡だよ。下してきたんだろう、神罰」
と、ももんがさんは何でもないことのように言い放った。
「あ、うん」
曖昧に頷き、彼女の手当てを受けながら私は考える。おかしい。今の私は、百色眼鏡が暴れださなかった世界で、百色眼鏡に置き傘を取られてしまったせいでずぶ濡れになって帰るはめになり、その途中で宗田さんに拾われて、けど宗田さんの家に残らずに宗田さんの家を辞した夢野さんについてきたことになっている。この世界で私の右足は切断されていないはずだ。
患部に目を向ける。けれどそこは既にももんがさんの手によって包帯が巻かれており、どうなっているのか見ることはできない。
「どうした。きつく締めすぎたか?」
ももんがさんが問いかける。けれど私は答えない。
包帯の内側、私の右足はどうなっているのだろう。
チェーンソーで切断された痕が残っているのか、神の力で修復しようとして癒えつつある傷が残っているのか、それとも何の跡も残っていないのか。
私はそこがどうなっているかむしょうに気になる。
手を伸ばす。
「おい、どうした」
包帯をほどく。
「やめろ、草薙。乱心したか!」
ももんがさんの声は聞こえない。
私は無心に包帯をほどいた。
右足に巻きついた純白の布がほどかれてゆくたびに、私は言い知れぬ昂揚感と解放感を覚えた。まるで、蛹から蝶に生まれ変わるように、からだがそれまでとは全く異なるけれど、本来の、そう本来のかたちに戻るような感覚だ。夢色の卵の殻が飛散し。
私は孵る。
ここはどこだろう?
風が吹いていた。
私はまたしても、幽体離脱した人間のように自分自身を見下ろしていた。
ソファの上に私は横たわり、倒れた私を囲むように包帯が渦を巻いていた。渦の中心で、ももんがさんがいつの間に取り出したのだろうか、刀を私の右足に突き刺していた。
いや、正確には突き刺そうとしていた、だろうか。
ももんがさんの額に脂汗が浮いているのが見えた。
私の右足の、包帯が巻かれていた箇所には人の顔があった。
人面瘡。
歪んだ傷痕は百色眼鏡の面相に似ていて、それは刀の切っ先を歯でがっしりと受け止めていた。そんな状態で人面瘡は――いや、もう断言してしまっていいだろう――百色眼鏡は嗤っていた。
刀はだいぶ強い力で噛まれているようで、ももんがさんは刀を押し込むことも、逆に抜き取ることもできないようだった。もう刀は捨てて、百色眼鏡の醜い頬を蹴り飛ばしたらいいのにと思ったが、宙を浮遊している私はアドバイスすることができない。
拮抗は思いのほか、早くに破られた。
夢野さんが室内に飛び込んできたのだ。
彼はももんがさんを蹴っ飛ばすと、刀をいともあっさりと抜き取り、今度は刺すのではなく一度おおきく振りかぶってから、斬りかかってきた。百色眼鏡はやはり今度も刀を歯で受け止めたが、日本刀は引く力によって斬れ味を増す。夢野さんが刀を引くと、百色眼鏡の口の両端から血しぶきが迸り、「むう」と唸り声がもれた。
気づくと百色眼鏡は私のことを見ていた。
視線に引き寄せられるようにして、私は私に帰化させられた。
「くだらんなあ」
目覚めると同時に、私は両手を右足に叩きつけた。
百色眼鏡はバラバラに砕け散った。が、しかしそれによって百色眼鏡は死に絶えたわけではない。ずっと勘違いしていた、百色眼鏡という迷惑なやつは支配下にある存在に寄生するようにして、無数に存在することができるのだ。おそらくは、それこそが百色眼鏡が暴帝と呼ばれる所以だろう。わがままな皇帝は、支配するものすべてを我が物として扱う。そこに見境はない。神の右足であろうと何だろうと、使えるものなら使うのだろう。ましてや同級生やその兄なんて、迷うまでもない。
そして同時に私は、両手で人面瘡を叩きつけただけで、ごっそり肉が取れたことに、神の力を取り戻したことに気がついた。いや、この表現が正確なものであるかどうかは定かでない。神の力を引き出したか、もしくは借り受けたか。
私は左手を伸ばして落ちていた刀を拾いあげた。
それを使って戦おうと思ったが、刀身に血糊がついていたのでやめた。これも百色眼鏡に汚染されている。いや、そもそも……、
――刀は私に相応しくない。
いや、これでもまだ語弊があるな。言い直そう。
刀はすべての女子高生に不釣合いだ。武道をたしなみ、刀を用い、弱きを救う、ももんがさんのように、分かりやすい存在――戦う美少女――女子高生――は歴として存在しないのだ。
いや、もっと、はっきり言おう。違うのだ。
刀を持てないのではない、刀なんて男の子がお遊戯に使うものを、私たちは持ったりなんてしないのだ。私たちはそんなにお淑やかではない、もっと乱暴で、もっと粗雑で、もっと混沌としているのだ。
少なくとも――私と、百色眼鏡は!
「百色眼鏡、お前、神たるこの私に挑むのにそんなちんけな武器でいいのか」
左方、夢野さんが両手にマチェットを構えて立っていた。その鎖骨に百色眼鏡の眼球が食い込んでいる。右方、ももんがさんがチェーンソーを持って立っていた。美しかった彼女の髪には、百色眼鏡の脊椎が巻きついている。どうやら百色眼鏡による侵食は思っていたより早いようだ。それとも夢野さんとももんがさんが、そんなに強くなかったのかもしれない。
二人がそろりそろりとまだ刀をぶら下げている私に近づいてくる。
間合いを気にしているのだろうか。それとも、この刀に充分に百色眼鏡の意志が浸透するための時間稼ぎだろうか。
どちらにせよ、ああ! なんて、くだらない!
私は刀を放り投げた。
一拍の間を置き、夢野さんとももんがさんが同時に飛び掛ってきた。
両手を掲げ、私は叫ぶ。
「格の違いを見せてやろう百色眼鏡! これが私の武器だ!」
指先にまばゆい光が灯るのを確認するのと同時に、私はそれを掴み、振り下ろす。
――シロナガスクジラ!!
夢野さんのマチェットも、ももんがさんのチェーンソーも、百色眼鏡の暴帝能力も、シロナガスクジラを傷つけることはできない。
「うおおおぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおぉぉぉぉぉおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおぉぉぉぉぉぉっっっっ」
私は叫ぶ。
私は絶叫し。
振り回す。
全長四十メートルのクジラを両手で掴んで。
振り回す。
「死に晒せやあぁぁっ」
夢野家が一瞬にして廃墟を通りこし、かつてそこに何かがあった場所になる。
砲丸投げの選手になった心意気で私はクジラを掴んで離さない。
百色眼鏡?
そんなやつ、残骸も残してやらない。
私という神が本当に怒ったとき、何が起こるか。それを思い知らせてやる!
私はさらに速度を上げる。
遠くに見える家屋が上下に揺れているのは、私を中心に台風が発生しているからだろうか。それとも地面が揺れているのか。ああ、東の空が燃えている。火事も起こっている。空も鳴っているようだ。落雷が来るか。
百回転を越えた。周りの地面が隆起しているように思う。いや、私の立っている場所が陥没しているのか。斜面に立っていた家がもんどりを打って引っくり返る。E棟とB棟と体育館の間にあった空間が拡充される。けれど、大地がいくら変動しようが、世界中が震撼しようが、シロナガスクジラの凶暴な回転は、私の周囲に限り更地を作り続けるだけだ。
雨が、降ってきた。
ものすごい豪雨だ。私はすぐに回転を止めざるをえなくなった。
没してしまったからだ。
私はクジラを手放し、彼女の背に登る。
日本は……、東京は……、
見渡す限りの海原となっていた。
「行こう、花子」
ぽんぽんとクジラの背を叩いて私は言った。
「もう少しましな名前はないのかしら」
花子は少しだけぼやくと、ぷしゅーと鼻から息を吐き、プリオシン海岸を目指し泳ぎはじめた。
「あらあら、まあまあ」
娘の部屋に掃除機をかけるために入った草薙母は、床中に琳瑚の書いた小説が散らばっているのを見つけて溜め息を吐いた。
「あの子ったら、また窓を開けっぱなしにして……」
ここから先は真っ白だ。まだ存在していない。


