『雨日』

『雨日』

著/雨街愁介
絵/千代田梵天

原稿用紙換算50枚

<少女の味が、こんなにも甘いなんて知らなかった>


 私は暗い部屋の中で、少女を見つめている。全身の骨があるのかないのかは分からない。よくよく見れば全身は震えているようでもある。肌の色は白で、髪の色は黒だ。だがその色は時々電灯によって煌いて、色が瑠璃色にも写る。唇からは舌が覗き見えていて、そこだけが異様に血色がよいように見えた。

 死んでいるのだろうか? それとも最初から生きてなんていないのか?
 私は足元の少女を見下ろす。

 私は多分、どこか別の世界に入り込んでしまったのだろうと思う。ここが本来の世界ならば、骨も関節も問われるまでもなくそこに存在していることを伝えられるのだろう。

 ここはどこなのだろう。輪郭線も消失点も揺れていて、何かが失われている。失われてしまったのはたぶんこの部屋ではなく、私のほうにあるのだろう。

 ぬるりとした風だ。湿気臭いな。


――目を瞑れ。

 誰でもない、私が言っている。これは本物ではない、偽物と思えと。言っている。言っている。言っている。目を瞑れ。言っている。私はその声にしたがって目を瞑り、私自身に訊きかえす。

 私は、どこに来てしまったのだ?


* * *

 呼吸をする。一、二と吸い込み、吐く。運動不足の体に徒歩は辛い。私は朝の脳天気な太陽に揺らめく街を進む。目指す場所は喫茶店だ。一軒の喫茶店。そこまで辿り着くのに、ここまで呼吸が荒くなってしまっている。それが無性に悲しい。昔のことが急に思い出される。故郷の家は山の外れにあって、そこから街中にある学校まで毎日通っていったものなのに。年と共に体力は落ちていく。心底弱らない、永遠に変らない肉体が欲しい。
 まだシャッターの開かない商店街を尻目に、表通りから裏通りへ。路地を進んでいく。と、家の庇で日が隠れていく。どこかの溝からか、微かな水の音がする。だがその音は波紋も余韻も残さずに、消えた。路地を出る。するとそこには喫茶店が見える。私はそこへと向かっていた。
 路地を完全に抜けると、そこは別の世界のように見えた。どことなく空虚で、蝋で固められたミニチュアを思わせた。人通りはまるでない。今の時間だけであることは分かるが、それでも人通りがないとなれば、どことなくそこには寂しさが漂うものなのだろう。蝋で塗り固められたように見えるのもそのためかもしれない。架空の街角のように通りにいるのは私だけだ。他には誰もいない。車のエンジンがわななく音も聞こえない。私は叫びだしたいような衝動に駆られた。が、そんなのは結局ここの静寂をかき消すことは出来ないだろう。
 喫茶店のドアの前まで進んで、空を見上げた。空は曇りのない青を湛えていた。その中を幾つかの飛行機が突っ切って雲の線を引いた。一瞬それが何かの図形のように見えた気がした。けれどもその一瞬はどこかへと遠ざかってしまっていて、もう手が届きそうになかった。とても不吉な形だった気がする。私はゆるゆるとその思考を追い払い、喫茶店のドアを開ける。軽くコーヒーの香りが鼻を付く。喫茶店の中はチェックにまみれている。誰かが塗りたくったようだ。テーブルにはチェックのクロス、そして壁にもチェックだった。時代遅れと言わざるを得ないと思う。だがこれはあえてしていることなのかもしれなかった。いや、むしろそちらのほうが可能性が大きい。黒電話が置いてあるからだ。黒電話は使われた形跡もなく、時間を封じ込めたまま置いてある。喫茶店でコーヒーを飲みながら論文を読むのが日課だった。何よりもここで問題となるのはコーヒーで、論文のほうではない。コーヒーの茶けた匂いを文章とともに味わう、ということが問題なのだ。

 実を言うと、普段はこの通りは裏通りとは言いつつも、むしろここは表通りよりも人が多い。名称と立場は最早逆転してしまっている。けれどもその裏通りが裏通りたる所以を示すのは朝だ。朝、通勤時間には、この場所は廃墟中の道のように人は消えて見える。別世界のようにここの通りは見えて、言うならば、<どこでもない場所>のような気がしてくる。どこでもない場所。どこでもない。そんな場所を人は求めるものなのじゃないのかな、などと私は思う。たぶんその例に私も漏れないのだろう。寂しさの余り、よりあの茶けたコーヒーの香りを私は欲しがるのだ。手には英語版の<ネイチャー>と英和辞典を持っていく。看板にはと書いてある。個性のないタイトルが、私を招いているように、最初見たときは思えたものだ。

 私が戸を開けても、マスターは眉一つ動かさなかった。いらっしゃいでも何でもなく。音楽はナット・キング・コールだ。マスターは無愛想ではあったものの、私はその喫茶店が気に入っていた。コーヒーも苦味と酸味のバランスの取れたなかなかのものであったし、何よりその喫茶店にはがちゃがちゃしたJポップではなく、往々にしてクラシックがかかり、そうでなければジャズがかかる。私はJポップが嫌いだ。愛、恋、何故かリアリティが無く感じられて仕方が無い。私がそんなものたちから遥かに遠ざかっているからなのかもしれない。それだけではなく、一人称を<僕>で歌うような女性歌手も駄目な人間なのだった。要するに、私は時代に乗り遅れた人間だと思っている。まだ<おっさん>と呼ばれる年齢ではないと思っているが。
 マスターは今日もいつもの通りカウンターにいる。カウンターにはチェックの柄はないが、代わりと言わんばかりにマスターの背の側の壁には今にでもを演奏しそうなエレキギターが輝いていた。マスターは無個性な顔をしているが、奇妙な存在感があって、まるでそこには無くてはならないもののように感じてしまう。マスターはカウンターの中で豆を炒っている。がりごりと軽石を砕くような音が聞こえる気がした。
 私は窓の傍に座り、コーヒーを注文する。マスターを呼び、ブレンドコーヒー、という。声はナット・キング・コールと次のトラックとの間の空白に響いた。
 マスターは頷いて私のほうに背を向け、コーヒーを淹れ始めた。コーヒーは好きなのだが詳しいわけではないので、いつも<ブレンド>を頼むことにしている。不思議なことに、マスターもそれを多分分かってはいるのだろうが、絶対に<いつものでいいか?>などとは訊かないのだ。一種のポリシーのようなものなのだろうか。私はそんな変なポリシーのようなものが好きだ。人が垣間見える気がする。ちなみに私は絶対に翻訳をするときは菓子を食べないというポリシーを持っている。くだらない。くだらない。
 コーヒーは私の目の前に置かれた。茶けた匂いが私の鼻を付く。表面に息を吹きかけながら、コーヒーカップの中身を喉へと向かわせる。匂いはどんどん強まり、喉に入った途端に破裂するように広がった。コーヒーの味は悪くはない。取り立てて美味いわけでもない。ただ飽きないだけのかもしれない。それとも匂いが私を呼び寄せているのかも知れない。
 異様なまでに光沢を放っているテーブルに<ネイチャー>を並べる。まるでどこかのデザイン画のように、テーブルには新鮮に写った。<ネイチャー>を捲って美麗な科学のためだけに写された写真たちをざっと眺めてから、辞書を開く。辞書の紙の軽い手触りが心地よい。
 私は翻訳を生業にしている。しかしこれは仕事などというわけではなくて、趣味というのが正しいだろうかと思う。適当に訳すことが出来るので、ある種気が楽なのだろう。そう言った意味では、これも一種の現実逃避なのだ。
 その日は不作で、どうも心躍らせるような論文は無かった。名文があるわけでもなく、美文が存在するわけでもなく、論文用に鍛え上げられた冷徹な文が胸を張っているという、ただそれだけの内容がそこにあった。
 入ってきてから二時間ほどだったか、私はその日三杯めのコーヒーを注文し、そのついでに窓を見ることにした。窓にはレースのカーテンだ。恐ろしいくらいにここの趣味は徹底している。内部は懐かしいムードを漂わせるように。ぼんやりその時翻訳していた小説の一節をどのように訳そうか、と考えながら道路を見ていると、道路に斑点が出来始めた。黒ずんでいく面積が次第に大きくなっていき、音が発生した。音は幾つもの場所で発生して躍動を作り出していた。雲は幼児がクレヨンで書き殴ったような形状をしていた。雨の音だということにやがて気が付いた。私は小さく舌打ちをした。傘を持ってきていない。雨に濡れるのは余り好ましいことでは無いように思われた。それにしても、さっきまであんなに空は青く、明るかったのに。
 仕方ない、と私は雨に濡れる道を選ぶことにした。マスターによる無口な勘定が行われ、外を見れば雲は今にも雷を落としそうで怖かった。雷が私は本当に苦手だ。外に出ようとしてガラスのドアの前に立つと、よりはっきりと雨の音がした。予想以上に激しく音が降っている。外に出れば途端に蛙のようになってしまうだろうことは容易に想像出来た。そうなったならば私は蛙としてげこげこと声を上げながら帰らなければならない。
 私は傍にあった茶色のいかにも座り心地の悪そうな長椅子に腰掛けた。足元のタイルが気持ちの悪い音を立てている。部屋の隅の影が伸びてきていて、そこに傘立てがあることに気が付いた。しかしそれは黒い金属の骨を晒しているだけで傘は刺さっていない。勝手に借りる、という手段もある、と頭の中で期待している向きもあったので少々落胆した。後は<ネイチャー>を頭の上に翳す、という方法を残すのみとなり、私はそれを本気で検討し始めたときだった。その時、突如目の前は白に包まれた。部屋の中も、視界も真っ白だった。どこかに雷が落ちたのだろう、ということが想像出来た。それもかなり近くだ。そう思うと何とも気分は陰鬱になる。光は次第に目の前から薄れていった。しかし視覚は光でちかちかとしていて使い物にならなかった。その内また傘の問題に思い当たって悩み始めたころ、
「これ、使いますか」
 そんな声が聞こえた。ひんやりとした、けれども伸びやかな声だった。それは最初、自分に向かって言っている言葉だとは思えなかった。ここは一人だと思っていたからだ。視覚がはっきりと戻ったことを確認してから、俯いた顔を上げれば目の前に傘があった。その傘は上品な黒さを持っていて、さらには石突きも丈夫そうで、いかにも高級品、という趣きのものだった。この傘の持ち主は誰なのだろう、と思い顔をさらに上げれば、そこにはまだ十代も半ばほどの少女の顔があった。
「これ、使いますか」少女は再び繰り返した。聞こえていないとでも思ったのかもしれない。指先は勝手にほどけそうなほど弱々しく握られていた。
「使ってもいいの?」
 私はそう問いかけた。少女は首肯して、
「だからそう言っているじゃないですか」と言った。幾分ぶっきらぼうな印象もその言葉にはあった。
「君が使うんじゃないのか?」
「いいえ、大丈夫ですよ。雨には慣れてます。濡れるの、好きです」
 その少女はさらに私の前に傘を押し出した。よく見ればその少女の服装はかなり変わっていることにその時気が付いた。上半身が水色、下半身にも青を使っている。言ってしまえば青塗れだ。しかしそれはペンキで塗られたようなものではなく、元々の服装の色らしく、そうであればこれは恣意的な選択であることになる。しかしそれにしては、彼女の全身から受ける印象は薄かった。案外綺麗な顔はしているが、印象があまり存在しない。私は透けるような渓流の水を思い浮かべた。そうでなければ、水溜りに写る青空を写し取ったような印象だった。波紋まで切り取ってしまったような。
「……本当に、いいのかい?」
 私はもう一度訊いた。少女は今度は言葉で語るのも野暮とばかりに首を縦に振った。私はその傘を掴んだ。さっきまで雨であっただろう水滴のしっとりとした感覚が掌の内側に伝わった。私の内側に滲んでいくようだった。
「じゃあ、貸してもらうよ」
 私は傘の持つ部分を柄に変えて、立ち上がった。少女に礼を言い、ドアの方に向かった。少女も自動ドアのぬくもりの無い対応を越えて、店内へ入っていった。私は外に出て、傘を開いた。空にまるで蝙蝠が浮かぶようじゃないか、と想像して少しだけ私は笑った。これは少女から与えられたような気がした。


 少女の連絡先を聞き忘れたことに気付いたのは、マンションの静脈認証キーに手を翳したときだった。もちろんそれは少女に傘を返すためだった。一応、道義は弁えているつもりであった。道徳心も学校の教科書に書かれていたレベルぐらいはあるつもりだ。
 マンションの部屋は暗かった。暗い部屋の中に、テレビの主電源の赤が光を発している。暗いのはおそらく黒雲のお陰だろうと想像出来た。電気を点けると、光は太陽のある状況と変わることのない状況に部屋をしてくれた。散らばる英文のメモや書物やCDの混沌を踏み越える。テーブルの周りが唯一まともな状況といえた。私はその下に引かれたカーペットに身を投げた。青一色で占められた服を着ていた少女の姿が瞼にちらつく。ほどけそうな指先に触れたいような気もした。
 私は傘立てに立てずに持ってきていた、あの少女の傘を出した。どこかに名前は無いかどうかを調べるためだった。名前は案外簡単に見つかった。柄に書いてあった。<水那珂怜《みずなかれい》>ひどく作り事めいた名前にも見えた。しかし、普通余程のナルシストでもない限り、偽名やペンネームは書かないだろう。私はその名前を本名と信頼することにした。それに、その名前は、彼女にこれ以上ないほどしっかりと、ぴったりと私の中で定着していた。とてつもなく似合う、その名前。その下に住所も書いてあり、それらを纏めて水から守るためだろうか、セロハンテープが貼ってある。セロハンテープの周りにはごみがくっついていた。

 私は傘を見ながら、未だ胸を離れない少女に向かって問いかけた。
 君は誰だ?
 もしかして私を必要としているのか?


 その翌日、私は住所に記された家に向かうことにした。傘を貸してもらった当日には、その後私の所属する作家クラブでパーティがあり、住所の家に向かうことが困難だったためだった。本当ならば私はすぐ行きたかったのに。時間はそれを許してはくれない。
 住所の家は、街の外れも外れで、枯れ木、それに手入れのされていないような荒野と化した畑の並ぶ場所だった。まばらに雑草が生えていて、咽るような香気が私に届いた。けれども、案外は悪くなかった。むしろもっと吸い込んでもよかった。
 途中まではバスを使った。バスは今時珍しいような色形をしていて、一瞬バスの中に入るのを躊躇うほどだった。バスには前のほうに老婆が二人、ひそひそと何かを話しているだけで、他に客はいなかった。
 窓を開けると腐臭が漂ってきた。どこかの工場が毒煙でも出しているのかもしれない、と思った。が、その通りだった。少し開けた場所からは工場が見えた。バスとは違い、やけにつるつるとした金属で覆われていた。何故こんなところに工場があるのかは分からなかった。二本の鉄塔が、鉄で出来たびっくり箱のような工場を突き抜けてそびえ立っていた。そのお陰で鉄塔も趣味の悪いキャンディのようにも見えてしまう。前の老婆たちが工場を指差して何かを言っていたような気がするが、よく分からない。
 バス停で降りると、金色の原が広がっていた。すすきか何かであろうか、風に靡いて、それはまるで時々呼吸している生物のように見えた。辺りを見回すと、遠くで車のエンジン音が微かにするだけで、あとは人工的な音という存在がない。工場の音も聞こえるかもしれないとも思ったが、そうでもない。むしろ風の音のほうが力強い。足がアスファルトを叩く音さえ響いて聞こえる。まわりには数本か木があり、その下には瓶があった。瓶は涼やかな青色を木の陰で光らせていた。よく見れば透明に澄んだ水が瓶の上で半球形を保っていた。もしかしたら私が触れなくとも歩いているだけで漏れ出てしまうかもしれない、と私は思った。
 しばらく道なりに歩いた。しかし目的地は予想以上に遠く感じられた。いつも部屋の中で紙とアルファベットに向き合っているためだろうか。三回ほど足を止め、呼吸を整えた。空は綺麗に晴れ渡っていた。
 途中で地元の人らしき人物とすれ違った。その人物は作業服を着た老人だった。作業服はところどころに黒々とした染みが付いていた。もしかしてあの工場で働いているのかもしれない。
 老人に道を尋ねると、老人は何度か瞼を震わせた。その次に眉毛を動かして、あからさまに訝しげな顔になった。
「あんた、あんとこの知り合いかいね」
 恐ろしく苦々しげな口調だった。説明するのも面倒くさく、適当にはぐらかすと、老人から強い口調で言葉が返ってきた。
「あんたんとこみたいな気色の悪い連中がいるとだね、気味ぃ悪くてしかたがない。知り合いなんだったらあの呟くような声やめんかいね。声、じゃなくてお祈り、かってか? とにかく、やめろと言っときいね。俺んとこは遠いからいいがね、困ってる連中も大勢いるんだよ」
 そしてそのまま老人は怒りながら去っていってしまった。尚も何か言っていたようだったが、訛りが酷く、よく聞き取れなかった。私には彼岸の彼方から聞こえるようにも思えた。
 すすきの原が続いている。永遠に続いているかのように感じられた。足が痛んできた。まるで私のひざの中で、何者かがティンパニーを滅茶苦茶に打ち鳴らしているようだった。
 道はアスファルトの熱気で揺らいでいる。私はその手で触れれば焼け爛れてしまうようなアスファルトを靴で踏みしめて進む。どうやら太陽が本格的に照ってきたらしい。路上には水の幻影が現れては消えた。時々現れては消えるそれを確かめる気にはならなかった。
 結局道は何回も間違った。どこにも標識や看板といった代物が存在しない。ただ道があるだけだ。まるで迷わせるためにこの道が作られたようだった。だとすればこの道は、辿ってゆけばどこまでいくのだろう? 
 右往左往しているうちに、突然に道が途切れた。どこかで道を間違ったのかもしれない。その場所から先は崖だった。崖の向こうには集落があったが、どうにも遠近感がおかしい。とてつもなく遠くにあるように思える。
 私は辺りを見回す。右側にはすすきの原で、左は深い緑色をした木々が並んでいるのみだった。どこかに道らしきものはないかと探すうちに、すすきの原の真ん中にそこだけが踏み均されている。ちょうどその道は電柱の間にあったために、まるで電柱は何かの入り口のようだった。
 電柱に手を触れてみる。するといつものひんやりとしたあの感触は存在せず、ただ熱がその電柱の中でとぐろを巻いているように思えた。太陽光に電柱は焼かれてその内、蝋のように垂れ下がってくるのではないかと思わせるほど熱されている。
 私は電柱からすすきの原に体を向ける。案外すすきの原は広いのかもしれない、道は綺麗に消失点まで繋がっていた。消失点で赤茶の道は途切れ、その先は見えない。そこは一段高くなっているらしいことは見て取れた。消失点の真上には雲が浮かんでいて、一瞬、雲の上を歩いていく印象を私にもたらした。
 一歩一歩を踏みしめるようにして歩いていく。私の肩ほどもあるすすきが周りを取り囲んでいた。捕って食われるのではないか。そんな妄想が脳内で生まれた。私はその妄想を軽く笑って噛み潰した。そんなことが起こってたまるものか。しかし私は想像せずにはいられなかった。すすきが見えない意思で操られているかのようにいつの間にか私の周りを囲むように――腕を伸ばしてくる。私はそれに絡め捕られ、声も出せぬまま、鮮血と肉片のみが時折すすきの海の中から噴出して来る……悪趣味な冗談だと思う。気が付けば私の周りはまた仄暗さに包まれていた。上空を仰げば雲がいつしか黒ずんで空を覆っていた。もしかして、また雨になるのかもしれない、と私は思った。風が次第に強くなっていく。それによってかすすきが大きく波を作り出していく。私の目の前まで靡いたすすきは辿り着いてすぐ傍まで手を差し出すように飛び出した。私は先ほどまでの妄想がいつしか現実のものとなってしまったのではないかという恐怖に襲われた。足を止めて回りを見る。誰もいるはずなどないと思う。じゃあ何かがいるのだろうか? いるわけなどない。存在などしないものを恐れては意味などない、ただ単なる餓鬼と変わらない。知らぬ間に私はどこからか音を聞いていることに気が付いた。風の音のように思えた。しかし、どう考えても風というよりはもっと違う何かのように感じる。もっと違う何かとはなんだろうか、そう言った思いが私の前に漂ってきたところで急にその音を捉えることが出来た。それは――水音としか言いようがないものだった。水音? 水音? 何故水音がするのだ? 私は掌を翳す。しかし僅かな水滴の感触すらない。私はさらに耳を澄ました。五感を研ぎ澄まして。風の音に混じり、がさがさとした乱れた音を私は感じ取った。何かが歩いているのだ。水音を出しながら。水音は、水音は何故する? 私は音のする方向に目を凝らした。だがしかしそこには誰かが歩いている姿も、水音の発生源らしきものもない。ただ音だけが聞こえる。がさがさという音は次第に次第に大きくなっていく。私に近付いているのが分かった。ただ、それだけでは終らなかった。音は私の目の前から聞こえるだけではなかった。音は私の四方から聞こえてきた。私は手首の硬直するような感触を覚えていた。おそらくは緊張のためだ。手首の緊張は、過去に一回だけ体験したことがある。あれは確か、子供のころ急病をして緊急手術をするはめになったときのことだ。あの時、全身麻酔のマスクを被せられるあの数秒前、この感覚を覚えた記憶がある。それが何故ここで突然突然突然? 突然発生する? ついにはっきりと聞き取れるほど水音は大きくなった。ぼちゃん。明らかに私との距離を詰めている。ぼちゃん。鼓動が早くなっていくのが分かった。怖い。ぼちゃん。恐い。ぼちゃぼちゃぼちゃん。ぼぼちゃぼちゃん。ぼちゃびちゃぼちゃ。その音にすすきの擦れる音が重なる。私はその時やっと足を動かすことを忘れていたことに気付いた。びちゃ。私は足首に力を込めて走り出した。もうすすきの揺れる原を振り返ろうとも思わなかった。ただ、その途中のどこかで、すすきの間から肌色の指が覗いていた気がする。指ではなかったと思う。そう信じたいと思う。

 ほら、決してそれは指なんかじゃない。
 そう思い直す。

 私は走りながら、体に降る水滴で、雨が降っていることに気が付いた。
 私は全速力で丘を駆けていく。私は振り返らない。丘の上の黒雲だけを見上げて走る。すすきの間は決して覗かないように。見たらいけない。見ては駄目だ。
 膝に力を込めて丘を登りきる。すると目の前に家が現れた。家はどこにあってもおかしくない色形に見えた。ちょうど郊外に立ち並ぶ家のようだった。家の目の前まで辿り着き、私はそこが少女の家であると確信した。それはあくまで電柱に記された情報によるものだったが、信憑性はあると判断した。
 しかし、外面が普通な家が、こんな場所にあること自体が、十分におかしいことではないのか?
 とりあえず庭に足を踏み入れてみる。庭の中も、一見普通に思えた。しかし、それは思えただけだった。庭の中心には石で作られた道が作られている。そこにはおかしいところはない。しかし、庭の芝生には、奇妙な物質たちが並べてあった。
 それは、瓶だった。
 瓶が幾何学模様を描くように庭には配置してある。しかしその瓶の量は尋常ではなかった。私はそれがここまで来る道の途中で見かけた瓶とまったく同じものであるように思えた。何故こんな形に瓶が配置されているのかはまったく分からなかった。ということはあの瓶の中には水が入っているだろう。水。私はさっきの水音を思い出し、背中に何か冷たいものが走るような感覚を覚えた。結局私はその瓶の中を見ないことにした。雨は少しずつ強くなっている。
 道を辿って玄関まで行く。だが、玄関に行くにしたがって奇妙な音楽らしきものが響いてくるのに気が付いた。低音で何かを呟くように聞こえる。何て呟いているのかは聞き取れない。私は老人の言葉を思い出した。<知り合いなんだったらあの呟くような声やめんかいね。声、じゃなくてお祈り、かってか?>そう言えば、この声は聞こえていたのかもしれない。私があの水音に気を取られていたから気が付かなかっただけで。だがそうならば、あの老人の家はいったいどこにあるのだろうか?
 玄関の前に着く。玄関の戸もごく普通の印象がある。だが、それは玄関の戸だけの話だった。玄関の戸の周りには、まるで蜘蛛の巣のような――酷く言葉にしにくい、妙な記号――言うならば円を幾重にも重ねている形……それが壁自体を埋め尽くすまでに描かれていた。それは気色悪さすら感じられた。しかしそれは――まるで薔薇のようにも見えた。足元にも奇妙な図形が描かれている。それは壁に描かれていたものとは違った。私は最初、その形を見て、ギターを思い浮かべた。ちょうど三角形を上に引き伸ばしてさらにそれを溶かしたような形だった。ところがそれだけでは終らず次第にそれは髑髏のように見えてきて、その後今度は人形のように見え始めた。私は傘を強く握り締めた。足場のないような不安感に急に襲われた。落下していく。そんな感覚が私の神経を駆け抜ける。これは単なるゲシュタルト崩壊ではない。ないだろう。
 私は足場のない感覚を堪えつつ足元から顔を上げ、力を込めて玄関の戸を開けた。がらがらと音がする。呼吸を整える。息を吸い、吐きを繰り返す。土間に一歩足を踏み入れ、すみません、と力を込めて大声で言った。すると、はあい、と気の抜けた声がした。誰が出てくるのだろう、と私はまた平静じゃなくなりつつある鼓動を確かめながら思う。しかし私はそれを確かめる術はなかった。何故なら玄関より奥の世界は影の中に存在していたからだ。そして、静かに誰かが廊下を踏む音が近くでして、それからほとんど間を置かないうちに、女性が影の中から姿を現した。
 その女性は和服を着ていた。最初、喪服のようだ、と私は思ったが、それは違った。女性の服は群青色だった。限りなく黒に近い群青色、ということか。簪も挿していた。簪にはまた奇妙な図形をあしらってあり、それは壁にあった図形と似ていた。
「御用でしょうか」彼女はそう言った。唇は微かに震えていた。
「あ、あの……<水那珂怜《みずなかれい》>、さんはいらっしゃいませんか?」
 と言うと女性は急に申し訳無さそうな顔になった。眉毛が下に向いている。顔の化粧は薄い。
「すみませんがその子、昨日、売れてしまいました……」彼女は搾り出すようにその言葉を言った。
「売れた?」もしかして、と私は人身売買のニュースを思い出した。確か一週間前から夕方のニュース番組で特集として人身売買を扱っていたな、というどうでもいい事が頭に浮かんだ。しかしその人身売買の舞台は必ず遠い海外だった。まさかこんなに近くで起こるはずがない、そう思っていた。
「それはどういった……」
 と私が言うと、突如和服の女性がおうおうと声を上げて泣き出した。嘘泣きなどではなく、どうやら本当に涙を流していたようだった。しかし、その姿はやけに官能的に私には写った。和服の足からは肌が僅かに出ていて、私はその足に息を吹きかけてしまいたい衝動に駆られた。私はその衝動を堪えながら彼女を見ていた。
「だったら、でしたら、予約しておいてくださればよかったのに、何とも不運なお方で!」彼女は鼻水を啜りながらそう声高く叫んだ。
 私はその姿に唖然とした。突然涙を流しながら叫ぶこの女性のことが分からなかった。それでも道徳心は人並みに持っていたつもりであったから、強い調子で、
「……ここで何が行われているんですか? 教えてください。人身売買をしているのですか? 私はここで行われていることのものによっては警察に通報させていただきます。一体何が行われているんです」
 和服の女性は涙を掌底で拭うと、すっくと立ち上がった。足がより大きく和服の裾からはみ出ている。
「一緒に来て欲しいのです……」
 と言った。私は無言で和服の女性の後に続いた。正直、私は興奮していた。何の興奮かは分からない。しかしそれは確実に興奮以外の何物でもなかった。私は闇の中へ消えていく。彼女も共に消えてゆく。

 女性の後に従っていった先は、倉庫のような外観の部屋だった。しかしその部屋の周りにも奇妙な図形が並んでいて、どう見ても私にはそこが普通の部屋とは思えなかった。鉄で出来た扉にはびっしりと水滴がくっついていて、時々筋となって落下していた。私はそれが次第に文字に見えてくるのではないかと心配した。それは杞憂だった。数字に見えてきた。和服の女性は静々と戸を開け、先に入っていってしまった。しばらくして、
「お入りになってください」
 という声が僅かにエコーして聞こえてきた。お入りになって……お入りになって、と声は僅かに震えて私のところに届く。
私は躊躇いながら足を踏み出した。最初に感じたのは湿っぽさだ。じめじめと湿気が立ち上がっていた。傘を握り締め、一歩ずつ踏み出していく。すると、次第に音が聞こえ始めてきた。歌だった。ほとんど意味の無い言葉たちのパレード。低音と高音が組み合わさっていた。どうにも言語にしようがない声だ。
 ……奇妙な擬音を延々と繰り返していた。それはまるでコーラスのようだった。いや、実際にコーラスなのかもしれなかった。部屋の照明は豆電球一個だけだ。オレンジ色に電灯の光が広がっている。電灯が揺れるたびに光が揺れる……揺れる……揺れる……電灯の光の周りには蛾たちが集っている。時々蛾たちは電灯の球形の光から逃れて闇の中へ進んでいく。電灯が揺れて、光が一定のものではないためか、部屋は案外狭く感じられる。私は呼吸が苦しくなっていることに気が付いた。何でなのだろうか、さっぱり分からない。分からない……息が酷く苦しい。むしろ胸が苦しいのか? 私はそこで思い至る。これは恋に似ている。いつもこんな感覚は誰かを想っているときで。それにしても、私が最後に恋をしたのはいつのことだったろうか? 
 私は苦しくなっていく心臓と呼吸を抱えながら、歩いていく。部屋のさらに中心へと。
 部屋の中心に和服の女性が立っていた。女性の隣に蓄音機が廻っていた。そこからコーラスは発されていたようだった。その女性の周りにびっしりと水瓶が集まっている。レコードによって瓶の水面が僅かな波紋を幾回も作り出しては消えてゆく。和服の女性の足元にはまた図形がある。ちょうど水瓶の下に図形があるといった様子だ。今度の図形は今までのどれとも違う。まるで発電所の地図記号に螺旋を加えてその螺旋に毛を生やしたようだ。そしてその奥には……


 私は見てしまった。

 私は目を逸らす。下を向く。ああ、今あったものはいったい何なのだ? 私の動悸は一段と早くなる。何があった? 答えろ。ああ、やっぱり思いだすな。表面化させないで。表に出さないで。雨がより強くなったのか、しっかりと雨の地上に叩きつけられる音が聞こえる。私の脳裏にさっき見た光景が再生される。戸棚。雨音。影。雨音。奥。奥。奥。奥。雨。肉塊。雨。私は目を開ける。私は今、恐ろしいものを見た。恐ろしい。それは恐ろしい。恐ろしすぎて、見てはならないのだろう。でも、本当にそうなのか? それは他の誰かだけの話であって、私のことではないのではないか。雨の音がより強くなっていく。直線的に音は降り注ぐ。私は顔を上げていく。私は確実にある感情に突き動かされていた。私はそれを確実に理解していた。私はそれを見る。
 奥の戸棚。奥の戸棚を私は見る。奥の戸棚には黄色い塊が幾つも入っていた。その塊は挽肉を丸め、表面のでこぼこを整えたようにも見える。だがそれを私は特定することが出来た。
 それは少女だった。
 雨の音がより強くなる。どんどん強くなるが、ある時点でその雨の強さは弱くなる。また静かに雨は降り始めたらしい。私は再び戸棚を見る。少女が丸められて収納されていた。関節は存在しないのかもしれない。人間の持っていたはずの関節の動き方をしていない。もう巨大な肌色のミートボールにしか見えなかった。
 戸棚の中は少女でいっぱいだった。ぎゅうぎゅうで、ぎゅうぎゅうで、ぎゅうぎゅうに詰められていて……ぎゅうぎゅうで、ぎゅうぎゅうだった。
 私の中の哀れな道徳心が崩壊の危機を訴えている。私は叫びを噛み殺して咳にした。
「驚かせてしまいましたね」
 和服の女性が私の方に振り向いていった。私は道徳心の懇願を聞きながら、
「これは、一体……」
 私がそう訊くと、和服の女性は何故か悲しそうに笑い、「水女ですよ」と言った。和服の女性は、戸棚から髪の毛を掴んで少女を出した。図形の上にあった水瓶を横に避け、それを丁寧に図形の真ん中に置くと、避けた水瓶を持ち上げ、少女の体にかけた。少女は動かない。少女の体にはビニール袋のように皺が出来ていた。私はその少女を眺めていた。いつの間にか私の心臓の動悸も、呼吸の苦しさも消えていた。その代わり、私には他の感情が生まれつつあった。少しずつ少女は溶けていった。溶けて、まるで寒天のようになっていく。少女は手首をだらりと下げたまま、上半身を起こした。私はその情景から目を離せずにいた。和服の女性は私の方を見ると、「こう使います」と言い、女性は少女の中指をもぎ取った。その中指のあった場所から水が噴出し始めた。和服の女性はその薬指に顔を近付け、唇を付けた。私のところにまでごくごくと水を飲む喉の音が伝わってきた。私は戦慄した。それはこの異常な事象のことではなかった。少女から出る水が、余りにも澄み切っていたからだ。一点の曇りすらなく、今までに見たどんな清水よりも美しい光沢を出していた。彼女ははあ、はあと息を吸う。その度に彼女の唇から水が漏れ出した。それが水溜りを作り出していく。水溜りには彼女の顔も、少女の顔も、私の顔も映りこんでいる。それをオレンジ色の電灯が仄かに照らし出している。私は唾を飲み込む。その水は今まで見たどの水よりも美味そうに思えた。彼女は静かに中指のあった場所から唇を外した。中指から水が部屋の床に放射を描いて広がる。私はその水に縋り付けたら、どれだけ幸せなのだろうと真に思った。
「どうです?」和服の女性は唇を舌で拭いながら言った。
 私は呆然としていた。今見ている情景も、自分自身にも。
「半永久的に動くんですよ」彼女は静かに笑いながら言った。「一種のホムンクルスです。ですがこれは攻撃性が一切ありません。自我はありますが、皆さんの言いなりになります。反抗しませんの。嗜水の円を書いて水さえかければいつだって指先から素晴らしい水が出てくるのです。そうそうこれはダッチワイフとしても――あら、すいません」女性は水女の薬指のあった場所に薬指を差し込んだ。
 私は何もいうことが出来なかった。やっと搾り出した声は、
「じゃ、じゃ、じゃあ」
「何ですか」
「この傘の女の子は」水那珂怜《みずなかれい》というその子は。その子もなのか。その子も、その怜の。水も飲めるのか。飲むことが出来るのか。
「そう。言わば<嫁入り>です。その子とあなたが出会うチャンスは、<嫁入り>の時しかありません。私どもは買われた子たちを伝統的に一人で<嫁入り先>に向かわせます。ほら、社会性がこの子らにも必要不可欠ですから。その子――名前、なんて――そうそう、私どもでは、彼女ら一人一人に名前を付けていまして……」
 それは嫁入り、なのか。つまり、買われるという事だ。その時、恐ろしい妄想が私の頭に浮かんだ。<水那珂怜《みずなかれい》>というあの少女が何故あそこにいたのか。何で私に傘を渡したのか。嘘だと思いたかった。そんな非現実は存在などしてほしくなかった。だがしかし、それしか私には可能性が見出せなかった。あの時、少女が喫茶店に来た理由。それは、恐らく。
「どうですか?」和服の女性は儚げに笑って、「どうです? 買います?」


 私は玄関に立っていた。和服の女性が私を見下ろしている。相変わらず儚げな空気を漂わせて。雨はもうぱらぱらとしか降っているように思えなかった。
「本当に残念です……また今度、ご贔屓になさってくださいな」
 私は結局買わなかった。買うことが出来なかったのだ。これで本当に良かったのかどうかは分からない。少なくとも私の手にはまだ傘がある。この傘を返すのが先なのだと思ったのだった。
「この事は……出来るだけ内密にしたほうがよろしいでしょうか?」と私は和服の女性に訊いた。和服の女性はそれを聞くと髪を振り乱して大げさに頭を振って、
「まあ……出来るなら。でも、あなたがお話したいのでしたら、まったく、そう――構いませんの」
 私は曖昧に笑って誤魔化した。それでも今まで広まらなかった理由が分かる。その理由は簡単だ。この場所を、自分のものにしておきたい。その思いがここを訪れた客の共通意見なのだろう。私は……分からない。
「また来てくださいね。出来ることなら」
 女性のその声を背に、私は玄関から出た。庭には相変わらず水瓶が置いてあった。また来たときとは違った形に見える。
 私は女性が玄関の戸の向こう側に消えたのを見送った。結局彼女はどんな存在だったのだろうか。私には検討も付かない。もう私は何も恐ろしいことはなかった。水瓶の中を見た。見たいから見るだけだ。他に何の理由も私にとって必要がなかった。水瓶の底には丸みを帯びた四角形が沈んでいた。まるで桜の花びらを盃に沈めたような、風雅な美しさがそこにはあった。私は手を伸ばしかけた。しかしそれは生爪であることに気が付いていた。目を凝らす。小さな肉片と血がそれには付いていた。水は濁りなく、清い。
 私はさまざまなことを考えながら歩いた。水那珂怜、女性、図形、喫茶店のマスター。私には何も恐れなどなかった。すすきの原を進む。いつの間にか道はなくなっていたがすすきの中を進む。私はまだ考え続ける。私の今までのこと。これからのこと。今翻訳中の小説。私はすすきを掻き分けて進む。ところどころで水を滴らせた少女がいるが気にしない。首の代わりにそこから水を噴出し続けている少女がいるが気にしない。ばらばらでそこから水を噴出している少女がいるがどうだっていい。私は考え続ける。私の初恋。私の同級生。少女たちが私の後ろを付いてきているようだが気には留めない。それよりも今降っている雨が強まらないか心配だ。どこまで付いてくるのかは分からないが本当に本当にどうだってよかった。
 やがてすすきの原は終った。すすきの原から出て、振り返った。少女たちは私を見ていた。首のない子も、片腕がなくてぐるぐる回転している子も。私は笑顔で手を振った。また来るよ、とも言った。すると、彼女たちも手を振ってくれた。私はスキップしながら彼女たちに言った。高らかな声で。朗々とした声で。溌剌とした声で。幸せそうな声で。子供のように高い声で。「ありがとう! どうもありがとう!」私はやがて少女たちが見えなくなるまで叫び続けた。
 その道の中ほどで、急に雨が強く降り出した。一時的に、その時傍にあった木の下に逃げ込んだ。木の下にはじめじめとした空気が漂っていた。土からはみ出た太い根に腰掛け、傘を開いた。結局これを返すのを私は忘れてしまった。しかし今はまったくの緊急時ではないか。
 立ち上がって雨の中を突き進む。中ほどまではしばらく歩いたが、やがてまた私は走った。その内に何かが傘から振ってきた。私はまた立ち止まり、後ろを向いてそれを拾い上げた。それは傘の骨に引っかかっていた。値札タグだった。それを握り締める。握り締めて気付いた。プラスティック製だと。

 それからは私の周囲に変わったことは起きていない。いつもの通り<ネイチャー>を持ってあの喫茶店に行き、コーヒーを飲む。頼むのは<ブレンド>。部屋に帰ってくると時々仕事をして目一杯苦しむ。一切日常には変化がない。日常は変わっていない。
 唯一つ変化が私の中に起こった。私はいつもあの喫茶店に行くときは傘を持っていくようになったのだ。あの少女から貸してもらった傘。今ではこの傘自体も愛おしい。愛おしくてたまらない。時折夜中に布団でいっしょに寝る。どんなに晴れていても持っていく。なぜなら私はまだ傘を返していない。おそらく少女は喫茶店の裏で、あの奇妙な図形の上で水を掛けられて指先から水を滴らせているのだろうと思う。いつか助けに行こうと思っている。この傘には立派な石付きがある。頑丈な骨もある。
 いつかマスターに隙が出来たら、私はカウンターを踏み越えて、傘を使おう。少女から貰った傘でマスターを殴る。それはとても運命的な気がする。ロマンティックなセレンディピティ。メランコリックな暴力行使。ドアを開け、少女を抱え上げ、君を助けに来た、と傘を見せて言う。そして早速彼女の手首をもぎ取って唇を押し付ける。夢のようだ。夢の。夢の。夢の世界。それから私と少女は旅に出る。そんなことを喫茶店で今日も私は夢想する。傘は足元に置いてある。石付きの部分がぎらぎらと今日もまた光っていた。
 そう言えば、最近になって気になることがあるのだ。彼女は何故私に傘を差し出したのだろうか? それが分からない。そこで私は一つの仮説を持っている。そもそもあの少女はあの家で見た光景などとはまったくの無関係ではなかったのか、ということだ。傘というものは、よくよく考えれば、他人の手に渡りやすいものだ。現に、あの時私も考えた。<他人の傘を使えないか>と。だがそれは仮説に過ぎない。もう私はリアリティの範疇を越えるものを見てしまった。ならばそこにリアリティの存在する説も存在しない説もない。それよりも運命だ。怜との出会いこそは運命だ。そちらの可能性のほうが私にとっては高い。 
 私はコーヒーをマスターに注文する。マスターはいつものでよろしいですね、と言った。最近はマスターもこんなことを言うようになった。私はそれに頷いて、それで、と答えテーブルの上の<ネイチャー>を見る。
 やがてコーヒーは白い湯気を立てながら私の前に差し出された。最近ここのコーヒーが昔より美味くなった。私はマスターの、いつものでよろしいのですね、という発言が、その自信を裏付けているように思えてならない。コーヒーには妥協は出来ない、本物を求める人間なのかもしれない。
 そう考えてみると、私とマスターは余り似ているようには思えなくなってくる。最近はこのコーヒーを飲むと、心が安らぎ、すべてがどうでもよくなってくるのだ。結局私には夢想を実行に移すだけの気力も体力もないのだ。
 コーヒーを口腔の中に流し込む。すると、舌の上で苦さと酸味と仄かな甘みが交じり合う。ため息が出る。全身の力が抜けていく感覚を味わう。私の体が喜びに震えだす。本当にここのコーヒーは素晴らしいと思う。何の豆を使っているのだろうか、という質問をマスターにしてみようかという思いが私を駆け巡った。しかしすぐ思い直す。どうせ豆だけではこんな味は出ないことはもう私には分かりきっていることなのだから。
 私は気を逸らすために、窓の外を見る。最近は晴れが続いている。雲一つ無い、青で一色の空だ。吸い込まれて宇宙で弾けそうな青い空だ。しかし私にとっては雨がまた降ってもらえると嬉しい。そして第二の私を探す。つまりは、傘を忘れ、途方に暮れている女性を探す。
 そして出来るなら――出来るなら、中指の千切れる女性が欲しい。 

 コーヒーを飲み干してしまった。コーヒーカップの中には最早空白しかない。
今日もこの喫茶店では、ナット・キング・コールが流れていた。私はマスターに、考え事をするから少しだけ音量を下げてくれないか、と言った。マスターは頷いた。私はありがとう、と言った。天井を見上げて目を瞑る。音楽は次第に小さくなる。耳を澄ましてみよう。私は思った。むしろ感じた。そうすれば聞こえるはずだ。怜の。彼女の音が。それは決して水道の音でもなんでもない。私には分かる。そう――怜――。

 ぼちゃん。