『バイ、ユアガール』

『バイ、ユアガール』

著/星野慎吾
絵/綾風花南

原稿用紙換算65枚


  0

 陰影の際立つ夜だ。
 物事をやり遂げた後は、目に入る景色が違う。
 私、暮石瑞樹《くれいしみずき》の傍には、男が倒れている。大した抵抗もないまま、数分前に彼は死んだ。
 死体を残し、私はその場から離れる。
 林間を抜けてロープウェイまで戻ると、切符を買う前に立ち止まって息を吐く。
 一緒にいた少女が話しかけてきた。
「みっちゃん。やったね」
「……」
「計画が、終わりへと収束していく」
「うん」
 少女の呟きに、私は同意した。
 彼女の名は半藤梓《はんどうあずさ》という。最も親しい友であり、私を理解してくれる数少ない人間だった。
「良隆さんに罪はない……でも、でもね。あたし、みっちゃんが正しいってことはいつも分かってるから」
「……ありがと、梓」
 もう一度空を仰ぐ。茫洋とした深い闇が、高揚していた気持ちを幾分か解きほぐしてくれるようだ。
 ロープウェイの外で流れゆく景色を眺め、私は今までのことを思い返した。


 さかのぼること十一月下旬、土曜日。
 築三十年を超える我が家は、あちらこちらにガタがきている。一昨日から止まない木枯らしが、雨どいを好き放題に揺らす。うるさい。
 気をそらすため、台所に目を遣る。
 今年で十八歳になる姉の真衣が、料理を作っている。私はテーブルに肘をつき、後姿を眺めることにした。
 時おり見える横顔には長いまつげが飾られ、白い肌に大きな瞳が映える。肩甲骨まで伸びる黒髪に浮き上がる天使の輪は、艶のある証だ。背は私よりも小さいが、体のラインが細いからスタイルも抜群と言える。姉の美しさには、精巧な人形とて及びそうもない。
「お姉ちゃん、今日のご飯は?」
「できあがるまで秘密よ」
「けち」
「ふふ。瑞樹の好きなお料理だよー」
 先ほどから手順を見るに、カレーかシチューのどちらかだとは思っていた。どうやら私の好きな後者らしい。
 やがて鍋の中にミルクが注がれると、濃厚な香りが漂ってきた。
 料理をする姉の背中を見ながら、私はぼおっと考える。
 この家には、姉と私以外の匂いがしない。
 父はいるのだが、彼はほとんど家に存在感を残さなかった。そして何より、私たちには母がいない。
 彼女は私が物心つく前に亡くなった。父は寂しさからか、私が小学生になった年に再婚をした。だが数年後、その相手も事故でこの世を去った。
 家庭には、親の居ない寂しさがつきまとった。
 私はふさぎこみ、心のうちに暗闇を飼った。塞ぎがちになり、幼い時分より努めて人との交流を避けた。
 そんな私を救ってくれたのが、姉の真衣だった。
 彼女は父の再婚相手が逝去して、私と同様ショックを受けていた。だが三日もすると立ち直り、いち早く私を元気づけてくれたのだ。姉は母であり、よき友人だった。私を構えないときには、寂しがる私に人形を与えてくれた。私はそれらでよく遊んだ。彼女は私の部屋に射しこむ、一条の光だった。
「おーい、瑞樹?」
 唐突に、姉の顔が現れる。
「なにやってんの? ご飯できたよ。瑞樹の好きなシチューなんだから」
 いつの間にか、テーブルの上に食器が並んでいた。
「ごめん。お手伝い忘れちゃった」
「気にしないでいいよ。それより今日は……改まった話があるの」
 と言って、姉は姿勢を正す。
「良隆さんて、覚えてる?」
「え? 誰?」
「昔、引っ越して行った人なんだけど……」
 ……誰だろう。突然人の名を言われても、記憶を辿るには無理がある。
「周りにそんな人いたっけなあ」
「私が小学生の頃よ。って、思い出せないか……。瑞樹はまだ幼稚園生だったものね」
 引っ越していなくなった人──。
 良隆、良隆──。
「私たちが、よく遊んでいた子?」
「そうそう。松田屋の隣に住んでいた男の子」
 松田屋とは、近所にあった駄菓子屋だ。主人のお婆さんが引退してから、潰れてしまったのだが。
 だんだんと、記憶の陰影が浮かび上がってきた。
「もしかして。利賀良隆《とがよしたか》さんのこと?」
「すごい! 当たりだよ」
 姉の声がにわかに大きくなる。
 ただでさえ友達と遊ぶことの少なかった私たちが、ただ一人交流を持っていた男子。こんがり日焼けをしていた肌に、快活な笑い。
 思い出した。
「その……、良隆さんがどうしたの」
 空腹を助長する、シチューの芳しい匂いが立ちこめる。
「お付き合い、することになったの」
「……」
「瑞樹……?」
「お付き合いって、あの……男女が手をつないだり、キスしちゃったりする、あれのこと?」
「他に何があるの?」
「あはははは……まじで!」
 姉はこくりとうなずいた。
「本当に!?」
 まさか。私は耳を疑う他なかった。鳥肌が立つ。
「うん……」と、節目がちにこちらを見る姉の顔は赤く染まっていて、なまめかしいものを感じる。冗談ではないようだ。
 姉の話によると、出会いはさらに一ヶ月ほどさかのぼるという。
 高校の授業を終え地元七島に帰着した姉が、駅前の商店街を闊歩していたところで良隆に再会したらしい。
「不動産屋さんの前で、アパートの間取りをみていたみたい」
「それって、またこっちに戻ってくるってこと?」
「うん。良隆さん大学の四年生なんだけど、来年の春から就職でこっちに戻ってくるんだって。だからアパートを探しに七島にきていたんだって」
「そっかぁ……良隆さんて、もう大学生なんだね」
「うん。大人だよねぇ」
 声色から、憧れのようなものが匂ってくる。
「思い出したよ。良隆さんて、お姉ちゃんの初恋の人だよね」
「……そうなの」
「久しぶりに会って、やけぼっくいに火がついた?」
 姉は首肯した。
 心の奥で私は歓声を上げた。
 ただしそれは、付き合いそのものの祝福ではなかった。
 兼ねてからの計画を実行に移せると、判断できたからだった。
 しかしそんな気持ちなどおくびにも出さず、
「おめでとう」
 と、お祝いした。

 ご飯を食べ、食器を洗うと居間を出た。
 部屋に戻った私は手帳を開き、計画のメモを読む。
 ──暮石真衣《くれいしまい》の少女計画。
 メモの一行目にはそう書いてある。
 父は私たちの幼い時分から今なお、余りにも存在感がなかった。月末、テーブルに置かれている給料袋と、一枚のメモだけが彼の存在を私と姉に気づかせる。そんなもんだった。
 代わって私を成長させてくれたのは誰でもない、姉の真衣その人なのだ。
 だからこそ、私も彼女に何かしてあげたかった。
 いつの頃からか胸に生じたこの気持ち。
 計画とはその恩返しを具体的に実行するため、まとめたものだった。
 しかし彼女は少しずつ、少女の時代を抜けようとしている。
 早く大人になりたいという言葉が、姉の口癖だった。それは彼女が未だ自分を少女であると自覚している証拠でもある。来年からは私服で大学に通い、周囲の影響を受けながら、開けた世界で大人に変わっていくことだろう。だから残りわずかの期間で、私は少女の姉を崇高な高みまでもっていかなければならない。
 今までの姉に恩返しができるのは、既に限られた時間しかない。そう思っていた。
 恩返しの計画は既にできあがっているのだ。だが、画竜点睛を欠いている。計画は、瞳が抜けたままの人形だった。
 故に、期せずして良隆との付き合いを先ほど聞いた時、私は小躍りしてしまうかと思った。計画に必要なのは、男の存在だったからだ。
 私が望む少女の本質──それは不遇な環境で育っても、強く跳ね除け乗り越える強さ。そして怜悧な頭脳と慎ましやかな振舞い。姉はほとんどを持ちえていたが、唯一足りないのが姉と両思いの男性だった。
 姉の初恋相手、戸川良隆。これで登場人物は揃った。
 暫くしてつらい別れをし、乗り越えて、姉は強き心を携えた真の少女となる。
 別れるだけでは意味がない。傷心の度合いが物足りない。良隆が死ぬことで……永遠にほど近い傷を負った姉は、そこから回復して成長する。傷を乗り越えて、生まれ変わる。姉にはそれができるだろう。
 良隆には悪いが、消えてもらわなければならない。
 私は歪んでいるだろうか。おかしいだろうか。少女とは? 一途? 妄信している?
 でも、私は間違っていない。
 私は私に忠実なのだ。


  1

 計画を速やかに進めるため、明くる日良隆と会うことにした。
 姉も私が良隆と会うのを望んでいたようで、連絡先はすぐに教えてもらえた。
 私たちが再会したのは、私の通う服飾スクールのすぐ傍だった。
 いわゆる普通科のある学校へ進学することを諦めた私は、唯一無二の趣味である人形そのものについて学べる専門学校に通っているのだ。
 電話で待ち合わせをし、指定した喫茶店で待つ。
 気温差で窓が曇っている。そういえば、ここのところ急に寒くなった。
 十年の時を超え、良隆はどのように変わっているのだろうか。多少の緊張感に身を委ねていると、ほどなく背の高い男が店に入ってきた。
 彼は店内を一通り見渡すと、私のところへやってくる。
「……あ」
 と良隆は私を指差した。
「瑞樹だあ!」
 快活な声色で話しかけられた途端、かすかな記憶が蘇る。良隆は地声が大きいのだ。
「お前は変わらないなぁ。少しばかり背が大きくなったか?」
 再会の感想を一言でまとめ、店員にブレンドを頼んだ。
「さすがに私も十六歳だからね」
「ははは。でも若いな」
 言いながら、ジーンズのポケットから煙草を取り出し火をつける。
「良隆さんは変わってないねえ」
 一目して本人であると気づいたのは、何より彼の顔立ちが何ら変化していないからだった。面長の顔に、浅黒い肌。髪はヘアワックスで整えているのだろう。無造作によじれている。
「まずは何より、おめでと」
「ん? ああ、真衣から聞いたんだな。ありがとう」
「お姉ちゃん、すっごく嬉しがってたよ。初恋の人と付き合うことになったって」
 良隆は目を見開いた。
「初恋か……なあんだ」
「何さ。なあんだって、嬉しくないの? 運命的じゃん」
「いやあ実はね」
 と、鼻をすする動作。それが彼の癖であることを思い出す。
「俺も初恋だったんだ」
「うそ!? じゃあすごいじゃん。お互いそうだったんだ」
「お前から聞いて、こっちだってびっくりだよ」
 私たちはその話題で暫く盛り上がった後、続けて良隆が住んでいた頃の話をした。空き家に忍び込んだこと。空き地でのボール遊び。家の裏手にある、追背山での探検。そして、人形遊び。
 打ち解けたところで時計を見ると、開校時間まで間もない頃になっていた。
 私は話を切り替えた。
「ところで、来年からこっちに就職するんだって?」
「一人暮らしを考えてるんだ。しかし、家って見つからないもんだな」
「探したことないけど……そうなのかもね」
「間取りとか、駅から徒歩何分とか。色々条件を重ねていくと、どうにも軍資金につりあわない」
「あはは」
「私、そろそろ時間だからここを出なくちゃならないんだけど」
「何の時間だ?」
「学校だよ、もちろん」
「学校って……こんな時間から?」
 喫茶店の時計を指差して、良隆は首をかしげる。時刻は三時を示している。
「向かいにビルが見えるでしょ? そこに通ってるの」
「あれって、服飾専門学校だろ? 洋服に興味があったのか」
「ううん。私が勉強しているのは、人形製作だよ」
「人形……」
 と聞いて一瞬、良隆は眉をひそめた。
「ガキの遊びだろ。まだそんなもん好きだったのか」
「そんなもんて……自分もノリノリだったくせに」
「そりゃあね、俺もガキだったからな」
 侮蔑されたことに、私は腹を立てた。
「まぁいいや。これでも将来は人形作家になるつもりなんだから」
「ふうん……意外と真剣なんだな。ごめん。でも、そんなことしてたらお前、恋人の一人もできないだろうに」
「興味ないよ」と話題を打ち切り、私は話したかった件を尋ねる。
「もうすぐ十二月でしょ? クリスマスの予定とか立ててあるの?」
 不意をつかれた良隆は、コーヒーを吹いた。
「よ、予定か……。まだ何も決めてなかったなぁ」
「全然駄目じゃん。男として」
「お前がいうなよ」
「お姉ちゃん、見た目通りのロマンチストだから。素敵な場所選ばないとまずいよー」
「本当に?」
「うん。そこで……提案があるんだけど」
 今日良隆に会った目的はここにある。
「私たちの家の裏側に、追背山があるでしょ」
「覚えてる。小さい頃はよく遊びに行ったなあ。探検なんていって。たいしたこともしてないのに」
「だねえ……。んで、その麓の森を抜けたところ、山の中腹にロープウェイで昇っていくと、ちょっとしたデートスポットがあるんだけど」
「ほう」
 彼はデートという言葉に反応し、煙草をもみ消した。
「そこにお姉ちゃんを連れて行くと、喜ぶと思うよ」
「寒くないか? 十二月なのに」
「大丈夫。おしゃれな室内遊園地みたくなってるから。十二月二十四日、そこで夜景なんか見てプレゼントでもしたら、さらにお姉ちゃんメロメロになるよ」
「……いい提案だな」
「どうせまだ予定なんて決めてなかったんでしょ?」
「どうせって。まだ一ヶ月以上もあるし」
「甘いよ。世間の恋人たちはもうクリスマスの話題で持ちきりだよ」
「俺が無頓着だったっつうことか」
「だね」
 駄目だしも意に介さず、良隆はにやけ顔になっている。デートの想像でもしたのだろう。
「どうする? 追背山パーク」
「いい案だと思うけど……正直、あの山なんてガキの頃の記憶しかないからな」
「下見をしないと不安てこと?」
「まあね。慣れた場所のほうが、余裕ができるし。てんぱってると、失敗するからな……」
「なんなら、私が下見に付き合ってあげようか」
「お前とか……」
「なにその反応。私だって良隆さんとなんか、本当は行きたくないよ。でも、お姉ちゃんのためだから」
「ふうん……まぁ、お前がついてきてくれるなら、ありがたいけど」
「じゃあ決まりだね。日取りはどうする?」
「そうだなぁ」と、良隆は鞄から手帳を取り出した。
「二十日に大学の卒論提出があるんだ。休日は真衣と会う約束もしてるし……二十三日なんてどうだ?」
「分かった。いいよその日で」
「あいよ。勉強……なのか。人形作りがんばれよ」
「うん」
 喫茶店の外に出てから、私は小さなガッツポーズを作った。
 車道を突っ切って学校のビルに入る。
 授業は始まっている。


 六時にチャイムが鳴り、この日の授業が終わった。
 私は学校を出ると、親友の梓を呼び出し地元の洋装生地屋さんへと足を運んだ。
 年末にある課題提出のため、人形に着せる洋服の生地を選びにきたのだ。
「ねえみっちゃん、これいいんじゃない?」
 梓が淡いブルーのサテン生地をとって、私に見せる。
 彼女は私と同い年の十六歳。茶色がかった髪は生まれつきらしい。背は小さいが人一倍元気であり、笑顔がこぼれるとこちらまで嬉しい気分になってしまう。
「なかなかいいね」
「みっちゃんの好みならまかせてよ」
 梓とは長い付き合いになるが、一度も喧嘩をしたことがない。
 そもそも彼女と出会ったのは、私が小学校を卒業する頃だ。ある日姉に手を引かれ、私の前へと現われた女の子。それが梓だった。
 洋裁生地屋は歓楽街の一角にあり、縦長のビルの二階から五階を占拠している。当然、店内の通路は狭く、生地自体も幅を取るので人一人通るのがやっとだ。
 私たちは様々な生地を検討してから、目的の色を選び終えた。
「案外、早く決まったね」
「うん」
「梓がいてくれたから」
「そんなぁ。みっちゃんの決断力がすごいんだよ」
 買い物を済ませ店を出た。
 十月はまだ午後六時でも充分明るく暖かかったが、現在ではその残滓すらうかがえない。真っ暗の夜の中で、気の早いクリスマス用イルミネーションが歓楽街のアーケードを飾っていた。
 帰りの道すがら、私は梓に計画の始動を打ち明けた。
「お姉ちゃんを完璧な少女にする計画、覚えてる?」
「もちろん」
「いよいよ実行できるの」
「ほんとに!?」
「嘘じゃないよ。お姉ちゃんの相手が見つかったんだ」
「えええー。あれほど探しても見つからなかったのに」
 計画を思いついてから長い間。私と梓は、姉にふさわしい人物を探していたのだ。
「良隆さんていう大学生なんだけど。お姉ちゃんの初恋の相手なんだ」
「わぉう。運命の相手ってやつね」
 梓は子供のようにはしゃいだ。怪しい踊りをしながら、すごいすごいと繰り返している。
「それで実行に移す日なんだけど」
 と、良隆とのやり取りを思う。
「日取りは十二月の二十三日になった」
「ほおお、クリスマス・イブ・イブですかぁ! 特別な日に、似つかわしいですな」
「確かにそうかもね」
 私たちはそれから、暫く話をやめた。
 自宅近くまできたとき。
「私……できるよね」と聞くと、
「……弱気になっちゃだめだめ。あたし、みっちゃんのこと応援してるんだから! お手伝いできることがあったらいつでも言って」
 調子を崩さない、いつもの梓が精一杯笑顔を作った。
「ありがとう」
 梓は慈愛の眼差しで私を見る。
 そんな彼女が愛おしくなり、そっと抱き寄せたのだった。


  2

 付き合って以来、姉と良隆は逢瀬を重ねていた。
 ある日のこと。
「ねえ、どちらのお洋服がいいと思う」
 両手に違った色のコートを持ち、部屋に姉がはいってきた。
「今日のデートには……どっちを合わせたらいいのか分からないよう」
「私だってファッションは分野外だよ」
 現に今着ているのは、ジーンズに長袖Tシャツだし、寒いから羽織っているカーディガンだって地味なものだ。
「そんなことない。服飾の学校に行ってるだけはあるよ。そのお人形さんだって可愛い服着てるじゃない」
 手にとっていた人形を、姉が指差した。確かにこの小さな服は、私が作ったものだった。
「自信がないんだけどね……うーん。あまり派手じゃない方がいいと思う。冬にあえて原色を持ってくるのもいいけれど、お姉ちゃんが着てるセーターには合わないかな」
「そっかぁ。そうだよね」
 姉の胸元にはネックレスが下がり、腕時計の隣にはブレスレットも光っている。家事と勉強で日常を忙殺されてきた姉にとって、貴金属を身につける気の使いようは劇的な変化と言ってよかった。
「それにしても、お姉ちゃん。だいぶ頑張ってるね」
「え……!? そう?」
 恥ずかしさに頬を染める姉は、元来のたおやかさとは違う、綺羅綺羅した若さを従えているようだった。雰囲気が違う。
「あと、今日の夕ご飯なんだけど……」
 何が言いたいのか予想のついた私は、先んじて言葉を口にした。
「デートなんだから、ご飯くらい食べてこないと良隆さんに悪いよ」
「瑞樹……ありがとね」
「ううん。それより、今日はいつ待ち合わせをしてるの?」
「午後二時に駅の改札なんだけど」
「ええ? もうすぐ二時だよ」
「どどどど、どうしよ、早く服選ばなきゃ」
「そんなこと言ってる場合じゃないじゃん! 右手に持ってるカーキのコートに決めちゃいなよ! そっちの方が似合ってるよ」
「そ、そう?」
「うん。ほら早く行ってらっしゃい」
「ご飯の仕度はしてあるから。暖めて食べてね」
「りょうかいー」
 姉は部屋のドアを閉めもせず、コートを着ながら階段を下りていった。

 一度だけ。
 姉らが付き合い始めてからたった一度、デートの様子を探ってみたこともある。
 二人がどのような会話をしているのか、興味があったのだ。
 十二月に入って第二週の土曜日。
 比較的穏やかな日差しの午後、良隆と姉はデパートにいた。
 事前に行く先を聞いていたから、家から後をつけた挙句にばれてしまうような失態はしない。
 私は先回りをし、梓とともにデパート内をうろついていた。店内は一人できているものなど数えるほどしかいなかった。私とて梓ときているものの、特に高級なアクセサリや洋服を扱う売り場においては、居場所がなかった。そういう場所は通り過ぎるのも緊張するが、幸いにして姉の趣味ではなかった。
 普段なら姉の同伴で私がきている、休日のデパート。だから、姉の行動パターンは把握している。
 当たりをつけたのは、全七階からなるこの建物の四階、雑貨屋の集合するスペースだった。
 さほど待たぬうちに、姉たちはやってきた。
 雑貨を選ぶ振りをしつつ、会話の聞こえるぎりぎりの位置まで近づく。
「このお店が好きなの……」
 隣の通路から、姉の声がする。
「そうか」
 何の洒落た技もない返事をしたのは、良隆だ。
「男同士じゃこんな場所こないからなぁ。居心地が悪い気がするよ」
「ふふ。そうかもしれないけど……でもカップルできている人は多いみたいよ」
 確かに、この雑貨屋には男連れでくる女性も多い。
「カップルか……」
 良隆は、今更ながらに付き合っていることを実感しているようだ。若干、声が上ずっている。
「あ、そうだ」
「なあに?」
 姉の甘い返事が聞こえる。
「クリスマスのプレゼントなんだけど……欲しいものある?」
「ええ。いらないよー。私も高いものをお返しできるほど、お金持ってないし。良隆だって来年就職なんだから。気持ちだけで充分だよ」
「いやいや。付き合って最初のクリスマスなんだから、何かあげたいよ。真衣は高校生なんだから、それこそ頑張る必要はないさ」
「だめ。良隆がくれるのなら、私もあげたいもん」
「まあまあ。俺のはさておいて……ほんとに欲しいものがないの?」
「そういうわけじゃないけれど」
 姉が口ごもった。
「時計……」
「時計?」
「腕時計。ほら、あそこにある」
 彼女は辺りを見回した。
 次にある方向へ指を射す。その線上には、腕時計を並べたショウケースが設置されていた。
 私は知っている。彼女はいつもこのお店にくると、あるケースの前で足が止まるのだ。
 ケースの中には、可愛い腕時計が収められている。銀製で、文字盤に映画の一場面が装飾として描かれている、数量限定の時計だった。
 良隆は人を掻き分け、姉の手を引いてそちらにまわった。
「これかぁ。可愛いね」
「でしょ? いつもデパートにくる度、これを見て帰るのよ」
「なるほどね……。分かった」
「あぁ、本当にいらないんだからね」
「はいよ。その代わり、来年の初任給で必ず買ってあげるから」
「……うん。それならいいよ。ありがとね」
「まだあげてないのに、礼を言われても困るんだけど」
 二人が見つめあい、談笑する。
 ありふれた、日常の一風景。
 だが私には耐えられなかった。
 姉は確かに、良隆のことを呼び捨てにしていた。私の前ではさんづけをして、あたかも距離をとっているくせに。あれほど、人に甘えている姉も見たことがなかった。彼女の中で、何かが変わり始めている。過去、大学生は大人だといっていた姉。彼女がその大人に影響を受けつつある。
 良隆という大人を受け入れ、日々女性らしくなっている。そう思うと、私の胸中に暗い影が射した。姉は幸せそうに見えた。
 私の計画は、実行しないほうがよいのだろうか。
 頭を振り、そんな考えを払拭する。あれはただの過程だ。他人から与えられたものなど、いずれは他人に帰るのだ。他人は裏切る。
 それよりも、姉自身が私の計画によって身につけるであろう真の強さ、それを引き出すことが彼女のためになるのだ。私は契機であり、決して与える者ではない。
 期限は迫っている。来年、姉は大学生になる。だが年内に、私はことを終える。
 私は梓を連れて、早々にデパートを後にした。
 それ以来、私は彼らの交流を知ろうとはしなかった。彼女を信じている。私は、暮石真衣を信じる。

 くるべき日まで、時間は一定に過ぎる。
 早くもなく、遅くもなく。


  3

 カレンダーに×印をつけ、待ち焦がれていた日に至った。
 十二月二十三日。梓がクリスマス・イブ・イブといった良隆との下見の日になった。
 今朝から空は灰色の雲に覆われている。窓を開くと寒気が足元に滑り落ちた。
 私はどこにも出かけず、終始好きな音楽を聞き、人形遊びで時間をつぶした。
 雲が夕映えに黒く濁った頃。
 厳かに出かけの準備を始める。
 暖房を消し、目立たぬように黒系のコートで身を固めた。手には皮の手袋を着用する。
 階下に下りると、姉の姿が見えなかった。台所では煮え立つ鍋の音だけがしている。
 友達と約束がある、そう書置きを残して家を出た。
 明日、姉と良隆がデートに行くはずの追背山パーク。全天候型の室内遊園地は、山をロープウェイで昇ったところに展開されている。
 梓を途中で呼び、二人して歩く。私だけの方が行動はしやすいのだが、協力してくれるといった彼女を排除するのもいかがなものかと思ったのだ。
 住宅街の道路には、誰一人いなかった。
 黙々と歩いていると、一歩一歩が計画の完成へと近づくように思えてくる。
 目下の懸案は、良隆を如何に殺すかだった。
 彼の心情などは、あえて考えないことにする。ましてや、人殺しの倫理観などということも。
 罪悪感は無論あるが、気持ちが押しつぶされるほどではない。躊躇はないし、踏み外しはしない。
 不思議なほど、私の心には強い勇気が宿っているようだった。
 やがて住宅街を抜ける頃、追背山がどでんと目の前に現れた。
 ここから麓の公園を過ぎロープウェイに乗れば、目的の場所に着く。
 百八十円で切符を買い、私たちはゴンドラに乗り込んだ。
 周囲には、目立った乗客がいないようだった。
 揺れる車内を二人で占拠する。
「今夜は寒いね……」
 梓が話しかけてきた。
「うん」
 私は彼女の方を見ずに、返事する。
「でも雪は綺麗」
「そうだね……。梓、私のこと心配してくれてるんでしょ?」
「え? そんなことないけど」
「いいよ、分かってるから。ありがとう」
 緊張を解きほぐすように、梓は笑顔を作った。
「絶対うまくいくよ! 大丈夫だよ」
「うん」
 私たちは寄り添いあう。孤独でないことの、何と頼もしいことか。

 他愛もない話をしているうちに、追背山パークへと辿り着いた。私たちの七島町は、明治初期から林業で栄えた土地だった。しかし昭和から平成に時は過ぎ、その第一次産業も廃れてしまった。住民は現存の資源から町おこしができやしまいかと考え、生まれたのが正式名称、七島・追背山展望パークなのだ。
 腕時計を見ると午後七時だった。私は約束の人物を探す。少し遅れてしまったかもしれない。
 早足でパークの入り口まで歩くと、薄闇に揺らめく陰を発見。良隆だった。
「ごめんね、待った?」
「いや、俺も今きたところだから」
「じゃあ行こうか」
「ああ」
 良隆とパーク内を歩き始めた。
「なんだか悪いな。今更だけど」
「いいよ。お姉ちゃんの幸せにつながることだから」
 私にとっても好都合だった。そう胸の内で呟いた。
 実際にデートするのは姉で、ここを薦めたのは他ならぬ私なのだから、良隆を案内するのに何一つ不自然なことはないだろう。もっとも、入り口のもぎりには不審な顔をされたが。
 暫く散策したあげく、ちゃちなメリーゴーランドの脇をぬけると、この室内パークで唯一、外に出られる大きなガラスドアを過ぎた。奥には展望スポットがあるのだ。
 薄ぼんやりとした電灯の下にベンチが七つ、距離を離して設置されている。
 六つはカップルが座り、残り一つだけが空いている。私たちはそこに腰かけた。
「ここに座ってお姉ちゃんを口説いたら、もう良隆さんから離れられないんじゃないかな」
「リアルにそうかも。雰囲気いいな」
「地元の人しか知らないけれど、三大夜景にだっておとらないんだから」
 ほう……と良隆は呟くと、手すりの方へ歩いていった。
「確かにすごいな……」
 実際、中学の頃に修学旅行で訪れた函館のそれにも心奪われたが、七島と大した違いはないと確信したことがある。
「ここでプレゼントなんか渡したら、感動もんでしょ」
「うんうん」と彼はしきりに感心している。
「小学生の頃は、こんなとこ気づかなかったな」
「追背山パーク自体が、最近できたしね」
「そうか」
 私はご飯を食べる施設など、ひとしきり説明した。良隆はその都度、姉の食べ物や乗り物の趣味について詳しく聞いてきた。私は丁寧に答え、彼をいい気分にさせた。警戒されぬよう、良隆の気持ちをほぐす必要があるのだ。
 園内を一周した帰り際、私は持参した計画メモを見るためトイレに入った。入れ違いで良隆がはいってくる。
 追背山パークを去ると、私はいよいよ決意した。
 パークの入り口からロープウェイの乗り口までは、五分ほどの森林散策コースになっている。夕闇に背の高い街灯がおまけ程度にしか用意されていない、寂寥たる道。中学生当時初めて訪れた際、私は建設業者と町おこし委員会の杜撰さを嘆いたものだが、現在はそれが有利に働いている。ここは人同士、五メートルも離れれば、互いの影がおぼろになる。
 良隆と一緒に、コースをゆったりと歩く。寒さに反し汗ばんだ手を、梓が握り返してくる。
 道の中間地点に差し掛かったとき、私は良隆に話しかけた。
「良隆さん」
「うん?」
 前を歩いていた良隆が振り向いた。
「うわ、暗っ。お前の顔しか見えないな」
「そうだね」
 決意が、声の大きさに比例する。
「ごめん! 言えなかったんだけど……お願いごとがあるんだ」
「どうした? いきなり馬鹿でかい声だして」
 彼は気軽に問いかける。
「……さっき、ここを歩いてる途中に落し物をしちゃったよ」
「ここ? まじかよ、きついなあ……足元暗いぜ」
「うん……」
「で、何を落としたんだ?」
 胸が高鳴る。言うべき台詞を頭の中で探る。
「あそこに溝があるでしょ」
 私が指差したのは、森の散策コースを並走する溝だった。散策者が不用意に森の環境を壊さぬよう、堀られた溝だ。
「あの中にお人形のアクセサリが落ちちゃったかもしれない……」
「おいおい冗談だろ。こんなところまで持ってくるからだよ」
「ごめん……」
「かなり小さいんだろ?」
 明らかに良隆は嫌な顔をした。
「うん。お人形の指輪なんだけど」
「新しいの買ったほうがよくないか」
「駄目。それは駄目なの」
 と、さも重大なことであるよう装う。
「お姉ちゃんから借りたものなの」
 彼の表情がにわかに変化する。
「真衣も、まだ人形で遊んでるのか?」
「ううん。お姉ちゃんは、お人形遊びは卒業したって言ってる。でもお人形自体は大切に保管しててね。私、ときどき借りてるの」
 本当は指輪など落ちていないし、大事な姉の所有物を持ち出すようなことはしない。
「真衣さんの、とても大切なものなんです」
 梓も口添えする。
「真衣のものか……。仕方ないな。取ってやるけど、人形遊びもいい加減にしろよな」
 人形遊びに好意的でない良隆は、ぶつぶつ文句を吐きながら散策コースを外れた。溝まで滑り落ちると、手探りで探し始める。
 私は音を立てずに、足場の石を一つ持ち上げる。
 チャンスがきた。
「ないなぁ。どんな指輪なんだ?」
「銀色で、イミテーションのダイヤが三つ、飾られてる」
 前かがみになる良隆。
「具体的に、どこらへんに落としたのか、」
 こちらを振り向きそうになった刹那。眼下へと、石を思い切り投げ落とした。
 良隆は一つ目の石で短い悲鳴を上げた。
 続けざまに二つ目の石を落とし、三つ目の石で動かなくなった。
 体中の血がたぎった気がした。
 梓が見下ろし、彼が動かないことを確認する。石の的中した箇所は見えないが、鈍い音は聞こえていた。
「みっちゃん、終わったみたいだよ」
「良隆さん……ごめんね」
 私は溝の暗闇に呟く。
「どうしても、死んで欲しかったんだ。お姉ちゃんのために」
 もう少しで、ロープウェイの運転時間は終わる。
 私と梓は、急いで乗り場に移動した。


 帰宅すると、居間に人形をいじる姉がいた。
 その姿に、思わず声をあげてしまう。
「お姉ちゃん……お人形出したの?」
「あら瑞樹? おかえりー。うん。だいぶ埃をかぶってたから、お掃除だけでもしてあげようと思って。そろそろ大掃除も始めないとね」
 姉の手元には、毛先の細かいブラシがある。
「ふうん……」
「いずれは捨てないといけないんだけど」
「え! そんなことしちゃ駄目だよ。それなら私がもらいたい」
「そう? そうよね。じゃあ瑞樹にあげるね」
 嬉しさのあまり、体の奥が熱くなる。
 私は思わず提案していた。
「ねえ、久しぶりに一緒に遊ぼうよ。お人形で」
「あはは。いいよー。瑞樹の作ってるお人形も持ってきてよ。学校で習ってるんだから、さぞかしうまいんだろうなあ」
「もう」
 外出で冷え切った関節では素早く動けなかったが、それでも勢いよく部屋に人形を取りにいく。


 夜半過ぎ、風呂に入った。湯船に浸かると、張り詰めていた気持ちがお湯に溶けていく。高揚感の呪縛から逃れるために熱いシャワーを浴び、暫し放心する。
 風呂から上がり居間へ行くと、姉が窓を開け広げて外を眺めていた。
「どうしたの?」
 私が聞くと、
「見て見て」と姉が手招きした。
 髪も乾かさぬまま隣に立つ。外は深夜にもかかわらず、空が明るい。
 雪が降っているのだ。
「すごいね。天気予報はそんなこと言ってなかったのに」
「だねえ……」あまりの綺麗さに、私は言葉尻をすぼめる。
「積もったら、ホワイト・クリスマスだね」
「うん」
 手をかざすと、一片雪の結晶が落ちて──消えた。
「ねえ、ちょっと外に出てみない?」
 唐突に姉が喋りだす。
「え。もう十二時過ぎてるよ。誰も歩いてないだろうし……」
「だからいいんじゃない。誰も踏んでない雪に、足跡つけて遊ぼうよ」
 半日後のデートを控えて、気分が高揚しているのだろうか。
「寝坊したらまずいんじゃないの? あの人に悪いよ」
 言いつつ、良隆の名前を出すのはためらわれた。彼は森で息絶えたのだから。
「待ち合わせは夕方からだから平気よ。それに、もしやまなかったらロープウェイが動かないかもしれないし」
「そっか……分かった」
「ねえ行こう」
「うん。じゃあ今から支度するね。公園にでも行ってみよう」
「その前に、ちゃんと髪乾かしてね。風邪引いたら困るから」
「あはは。お姉ちゃん……はしゃいでるね。遠足で興奮して眠れない子供みたい」
 姉は頬を染め、私を再度催促した。


  4

 深夜だというのに、空は意外にも真っ暗ではない。
 遠くに建物のシルエットがぼんやりしていて、暗視カメラの映像を見ているようだった。
 積雪は予想を超えた量だった。姉と私は散歩を楽しみながら、雪を踏みつけ歩く。後ろには二人の足跡が残った。
 姉からは話しかけられなかった。初雪に陶酔しているのかもしれない。私は私で、長かった今日を反芻していた。数時間たった今更ながら、最も大きな障害を乗り越えたことを噛みしめる。良隆は何の罪もない。しかし心苦しさよりも、姉を思い描くままの少女にできるという感動が私を支配していた。今後、私の計画は自動的に進行する。
 姉は明日、良隆からの連絡がないのを不審がるだろう。死体は数日後に発見されるかもしれないし、数週間後になるかもしれない。あの散策コースは、木々の背が高く陰が濃い。もしかしたら良隆は見つからないかもしれない。姉は良隆が行方不明になったのを知り、或いは死んだのを憂い、泣き、悲しみ、憤り、嘆くだろう。
 だが芯の強い彼女のことだ。いつになるかは分からないが、必ず回復し復活を遂げるだろう。そのとき、姉は全ての悲しみを乗り越えた真の少女となる。私の手は汚れてしまったが、姉を思えば悲嘆に値しないことなのだ。
 私は嬉しくなって、きゅうきゅうと鳴く新雪を踏みしめる。姉も僅かに早足となり、追背山の公園へはすぐに辿り着いた。ロープウェイ乗り場は誰も人がおらず、広い公園内とてそれは同じことだった。
「ねえすごいよー!」
 敷地内は遊具が少なく閑散としている。だがそのおかげで雪が均等に積もり、白い絨毯のようだった。姉はくるくると回り、両手を広げた。
 彼女のなんと美しいことか。
 私は自分のしたことを正しいと思った。
 矢先のことだった。
「お姉ちゃん、待って」
 近寄ろうとする私。
 突然、何かに足を捕られた。
 私はよろめき地面に突っ伏す。
 目の前で姉が絶叫した。
 倒れたまま振り向くと……。

 立っていたのは、良隆だった。

 私は総毛立ち、腰を抜かした。
 それでもはいつくばって、姉の元まで逃れる。背後からは顔面を黒く濡らした良隆が、肩で呼吸をしながら蹌踉として歩み寄ってきた。
「誰?」
 姉が訝しげに目を細める。
 月を隠していた薄雲が去り、良隆の姿が露わになる。彼の頭から肩は、真っ赤に染め上げられていた。血液だった。姉が短い悲鳴をあげる。変わり果てた姿にたじろんだのか、彼女は数歩、後退する。
「だましたな」
 良隆が地響きのような唸り声を発した。
「真衣、離れろっ。瑞樹は俺を殺そうとした」
 呆気にとられたまま、姉は動かない。
「よ、良隆さん……」
 体が震えだす。
「痛かったぞ……今も痛い。痛くてたまらない」
 長い腕がとてつもない勢いで、私と姉を引き剥がした。
 そのまま私に覆いかぶさる。
「理由を言え!」
 良隆の顔はおぞましく歪んでいる。叫ばれた途端、私は失禁した。
 生暖かく濡れる下半身。
「許して……、ぐ、偶然なんだよ。私の足元から石がこぼれ落ちぐえ」
 拳が私の頬をつぶした。殴られたのだ。
「嘘つくな! 聞いたぞ、お前の言葉。真衣のために死んでほしかったってなあ!」
 良隆は私に次々と拳を打ち込んだ。頬が熱く上気し、次第に痛覚が薄れてくる。
「言え」
 胸倉を掴まれ、起こされた。
 殺される……理由を言わないと、すぐに殺される。
 私は苛烈な良隆の拳に観念し、思いのままに吐露した。
「お姉ちゃんを、少女にしたかったんだ……」
「ぁあ?」
「お姉ちゃんは」
 私は、落涙していた。
 言葉が数珠繋ぎに溢れ出す。
「大人になる前に、本当の少女になるべきなんだ。強い少女に。お姉ちゃんはすごいんだ。小さい頃から私を育ててくれたんだ。みんなからも人気があるんだ。でも私だけを見ていてくれたんだ。私に梓を紹介してくれたんだ。一人ぼっちから開放してくれたんだ……」
「俺を殺すのとどうつながるんだ」
「乗り越えるためだよ……。悲しみから乗り越えて、永遠たる少女になるためには良隆さんが死ぬ必要があったんだ」
「お前、狂ってるな。俺を殺し、真衣と別れさせようとしたのは悪意以外の何物でもない」
「違う! 悪意なんかじゃない! 恩返しがしたかったんだ。だからお前を殺すんだ!」
 私は反駁し、良隆の腹を思い切り蹴った。不意をつかれた彼は転倒し後ずさった。
「恩返しなんかじゃない。お前は、投影しているだけだ」
 良隆は私をまっすぐ見ている。
「男だからな」
「関係ない」
「いやある。お前は、美しく育つ真衣を羨望の眼差しで見ていた。結局世間に受け入れられるのは、真衣だからな。彼女を羨ましく思っていたお前は、俺も真衣も利用しようとした。せめて、真衣を思い通りに操りたかっただけなんだよ」
「違う違う! お姉ちゃんの幸せを純粋に思っただけだ!」
「真衣の幸せ?」
「私は……。私はお姉ちゃんのことが好きだったんだ」
「……お前は恋愛に興味がないといってたな。恋人を作らないのではく、作れなかっただけ。その理由はつまり、真衣のことを……。ふん、確か梓だっけか、あれは真衣の代替ってわけか」
 数秒の空白が私たちを取り巻いた。
 やがて良隆が口を開く。
「真衣……」
 姉は俯いていた。
「逃げよう真衣。こいつを警察に通報する」
「お姉ちゃん、行っちゃ駄目だ!」
 私は力を振り絞り、良隆を突き飛ばした。
 ぎゃあ、と人のものとは思えない悲鳴。
 額を地面にぶつけた良隆は、スローモーションのごとくゆらりと仰向けに倒れ、それきり起き上がらなかった。
 割れた頭蓋から、赤黒い液体が地面へと染み出す。
 沈黙が降りてきた。しんしんと、雪の降る音さえ聞こえてくるようだ。
 満身創痍だった。私は腰を落とし、へたりこんでいた。

 暫く放心していた私の両腕に、雪が積もり始めている。
 背後から足音が聞こえた。姉だった。彼女は私を正面から抱きしめた。
「瑞樹……」
 暖かい感触が伝わってくる。
「私は、瑞樹を信じるよ。あなたが私を思う気持ち、いつも感じていた」
 景色が霞む。頬に流れる涙が傷を刺激し、痛かった。
 姉は立ち上がると、私が持ってきていた鞄を開いた。
「私のために、瑞樹はがんばったんだね。梓もがんばってくれた。良隆さんは仕方なかったんだよね」
 姉がこの上なく優しい顔をする。
「乗り越えるわ、この死を。不遇と苦難、悲しみを乗り越えてこその少女だものね。だから……」
 話を続けている姉の口元に、一瞬だけシワが寄る。
「悲しみはもっと大きいほうが、完成されると思わない?」
 私の鞄が思い切り放り投げられた。
 余りにも唐突なゆえ、姉の行動が把握できない。
 鞄……。
「梓!」
 私の、大切な、梓。
「どうして」
 耳元で姉が囁く。
「人形劇は、そろそろ終幕なの」
 あまりに甘やかな、彼女の声色。
「分かるでしょ、完成するために」
「完成……」
「良隆さんの役柄はここで終わった。彼を殺すため、瑞樹が頑張るために必要だった梓も、それに伴って役割を終える。自然なことでしょう?」
 彼女の不可解な言動が腑に落ちず、ぽかんと口を開けてしまう。
「瑞樹は私の思い通りに動いてくれた。私のために、幼い頃から動く人形として純粋培養してきた苦労が報われたわ……。ありがとう瑞樹。そして、さよならね」
「どういうこと……?」
 私は狼狽する。姉の肩を掴もうとしたが、指一本動かす力も残っていない。
「もうさっきの格闘で疲れ果ててしまったのね……。いいわ、最後だから私の計画を教えてあげる」
 と、彼女は胸に手をあて、尊い思い出でも回想するように語り始めた。
「良隆さんと私が付き合うことになって、あなたはチャンスがきたと思ったんでしょう? でもそれは、私も同じだったの。やっと計画が動き出したって、私は思った」
「同じこと……」と私はオウム返しをする。姉の話に理解が追いついていないのだ。何故、姉も同じことを思ったのだろう。彼女のチャンスとは何なのか。
「計画? お姉ちゃんが計画を……」
「うん。あなたと同じく、計画を立てていたの。そしてより正確に言えば……あなたが計画を立てること自体、私の計画に含まれていたのよ」
「私の計画を知っていたってこと?」
「漠然とだけどね」
 姉が破顔一笑する。
「あなたは、私の思うままに育っていった。親の存在が感じられない私たちの家庭だもの。私の影響はほとんどフィルターも通さずに、あなたの中に浸透していったのかも知れないね。私は塞ぎがちなあなたに、学校の生徒たちへと心を開いてしまうような……そんな明るい子にはなって欲しくなくて、人形を与えたの。あなたの中だけで成立する世界。男の子だったからうまくいかないかなと危惧していたけど、どうやら私はすごく信頼されていたみたい。ありがとね、瑞樹。あなたは私と、私の与えた人形とだけ交流を望んだ。私があなたを育てることで、歳もそう変わらない私に対し、あなたは強い少女のイメージを私に持った」
 その通りだった。家事をこなし、私を育て、世間と接し、大人に負けず、矜持を持った姉──彼女の中に、私は理想に違わぬ少女像を描いていた。
「私が中学校に入ってすぐ、人形遊びは卒業したって言ったら、あなたはとても残念がっていた。あのときはごめんなさい。でも本心だったの。考えてみて欲しいのだけど……人形遊びなんかをするより、実際の人間を使って遊ぶことができたら、これほど面白いことはないでしょう?」
 その頃のことを思い出す。姉は人形に関心を示さなくなったのだ。そして、二人で人形遊びをすることがなくなった。
「そういえば、私と良隆さんがデパートに行ったとき、あなたはついてきてたよね。あの朝、どこに行くのかって聞いたあなたに対して、私は答えなかった。秘密って言ったんだっけ? あなたは私たちの過ごす時間が、たまらなかったんでしょう。見事に後をつけてきたのが分かって、私はもう、瑞樹が意のままに動いてくれるんだって確信して、胸が一杯になった。可愛らしくって、微笑ましかったよ」
 姉はくすくすと思い出し笑いをし、それから笑い声を大きくしたあと、真顔になった。
「瑞樹は私以上に少女だったね……びっくりしちゃった。一途で素敵だった。まさに培養された女の子。そんなあなたが、私を少女として完璧にしようと頑張ってくれたこと……。すごく嬉しいの」
 今度は唐突に泣き出す姉。私は喜怒哀楽の早さについていけず、ただただ聞き耳を立てるだけだった。
「あぁ……私はこれから、少女になるのね。全ての悲しみから解き放たれ、世間も羨むような子になれる。じゃあ最後に、私の計画の終盤を説明するね」
「計画……私の役割」
「姉である真衣は初恋の人と再会し、一夜で恋に落ちた。でも時は残酷なもの。昔とは異なる良隆に、真衣は戸惑いを覚えていた。ある日の晩。良隆が真衣の体を求め、しつこく迫ってきたのを見かねた弟の瑞樹は、姉をかばおうとして良隆を撲殺してしまう。しかし彼もまた、無傷ではいられなかった。瑞樹は格闘のさなか、良隆の所持していたナイフで刺され、失血死を遂げる。二人の人間を同時に亡くし、絶望する姉。だが彼女はそれを乗り越え、美しくたくましく成長するのだった」
 いつの間にか、姉の手にはナイフが握られている。
「良隆さんは、さすがにこれ持ってなかったね。駄目だなぁ私。理想を演出するために、強引なところがあるよね」
 彼女は私の体をよく見てから、「ここらへんかな?」と私の胸を指差した。
 両膝をついたまま、顔を上げている私にむかって、スッとナイフが差し込まれる。胸に熱い痛みが走り、瞬時に呼吸ができなくなった。
「……く……」
「く? どうしたの、何か言いたいことがあるの?」
 次第に視界から彼女の姿が消える。私は力尽きて横たわった。
 遠くに良隆が見える。姉は私の胸からナイフを抜き、彼の手に握らせた。私の周りに、血溜まりができはじめている。
 姉が私の元に戻ってくる。頬を涙がつたっている。
 血が付着することも気にせず、彼女は私を強く抱きしめた。
「私のこと、愛してくれてありがとう。本当に……」
 姉の顔が間近にある。出血のせいで五感は鈍っているが、唇と唇が触れ合うのは感じられた。
「あぁ、大切なことを言い忘れてた! 私って本当にドジだね」
 脈絡もなく、姉がまた笑顔に戻る。
「お父さんの再婚相手。名前も忘れてしまったけど……交通事故に見せかけて殺したのは私なの。あの人自体は、私がお金に困っちゃうから殺さないよ。安心してね」
 それが私にくれた、最後の言葉だった。

 姉の去った公園に、静けさが満ちる。
 雪はいよいよ本降りとなってきた。
 良隆の死体は白く埋もれ、飛び出たナイフだけが月明かりに輝いている。
 私の視界が霞む。
 そろそろ死ぬのだろう。
 そう理解すると、小さい頃から今までのことが目蓋に浮かんだ。めくるめく走馬灯には、いつでも優しかった姉がいる。慈愛に満ちている。
 恩返しは、結果的に達成された。
 それどころか私の計画は、姉の希望の範疇にあったのだ。将来、人形制作を生業としたいと思っていたが、私の趣味さえ姉の計画によるものとすれば、もはやこの世に未練はない。
 私は最後に思う。
 なんと強い姉なのか。
 まさに、理想どおりの少女ではないか。
 ただ一点──私より狂っていたことをのぞいては。