『歓喜の魔王』

『歓喜の魔王』

FREUDEN・ALBERICH.

著/六門イサイ
絵/空信号

原稿用紙換算80枚


■序章:「sollt die Welt Voll Teufel sein, 《この世に悪魔が満ちようとも》」
 生者に忘れられ捨てられて、いつしか銘も読めなくなるほど苔むした墓石が、高く長く天に向かってそびえ、乱立している。かび臭くどこか湿っぽい空気と、陰鬱で低血圧な雰囲気が、夜のこの街にそんな印象を与えていた。けれどその印象は、街の実情をよく表している。
 今夜はひどく月の明るい夜だが、死にかけた墓石の街にはその威光も及ばない。廃墟と住居のパッチワークのような街は灯かりもなく寝静まり、工事とその中断を繰り返した無秩序な広がりを持って、暗く重たく夜の底に沈んでいる。汚く乾いたゴーストタウンだ、死んではいないが死に瀕して、日毎に人が生活する温もりが引き潮のように失われていく末期の土地。
 そんな迷路か、あるいはゴミのようなただ広いばかりの町並みの中を、何かに追われるようにして、少年が走っていた。明るい夜の下の、暗い街の中で、輝く髪の黄金を撒き散らし、走る、走る。澄んだ鈴の音を引き連れながら、命を懸けて、よたよたと縺れそうな足取りで。
 薄汚れてなお、透けるように白い手足は傷だらけ。輝きこそ見事な金髪は埃に塗れ、それを振り乱しながら前へ、前へ。建設を放棄されたビルの横を通り抜け、借り手のつかない空き店舗だらけの商店街を進む。足元では時々、放置されっぱなしの硝子が割れた。
 ひゅうひゅうと細く苦しげな吐息に、時折、どこからか鈴の音が被さり、その度に少年の足は一層奮起して歩を進める。そこに休息という選択肢はなかった。背後──と言うには、あまり隔たった距離に、少年を追う影は七つ余り。
 巨大な鎌持つ死神。幽霊のごとくおぼろげな影法師。茨と鎖で出来た四足の獣。独りでに動く十字架の磔台。涙をこぼす巨大な蜘蛛。それ自体が一つの生態系のように振る舞う、鋼の巨木のような形のガラクタの塊。玉座から巨大な鉄槌を振りかざす女。
 ……どれ一つをとっても、影は人では有り得なかった。百鬼夜行のごとき追跡群は、死臭を撒き散らしながら、実体ある怨嗟の呻きを引き連れて、遠く街の中で走る少年を求める。少年が片手に携え、時折打ち鳴らすハンドベルの音が、影達に少年自身の居場所を教え、導くのだ。
 微かな鈴の音は、細く、長く、いつまでも後を引いて、その余韻が彼方より迫る影達に絡みつく。それは、蜘蛛の糸のように頼りない脆弱な糸。だが、確かに存在するその糸は、繰り返し響いて己が存在を主張し、何度となく影達に引っ掛かかる。
 少年の目指す地に、それら影達を導くために。
 少年がこれまで辿ってきた道筋に残されたのは、ひたすらの焦土と廃墟。人も、建物も、瓦礫と灰燼に帰して、幾つもの街が消えた。どの影に追いつかれても、少年もまた確実に、彼自身が通った後に残された、幾多の屍の仲間入りをする事になるだろう。
 それを解っていてなお、少年は鈴を鳴らしながら走る事を止めない。殺される前に辿り着くか、辿り着く前に殺されるか。慎重に慎重を重ねて、少年はその糸を手繰り寄せながら、町から町へと彷徨い続けていた。まだ終着点は見えない、目指すべき処、最終的に影を導くべき地は見つからない。
 それに、今夜は特に危ない。足の速い死神がかなり距離を縮めてきている。今夜はもう鈴を止めて休もう。そう思った矢先。
(──あぁめんたるものちゅうじつなまことのしょうにん)
 涼やかで凛とした鈴の音を割って、音程の狂った声が少年の耳に入った。
(かみにつくられたもののこんげんであるかたがつぎのようにいわれる)地を這うように、あるいは地の底からわき出るように低い声。老爺のようにしわがれ、水分が少なく、ひび割れている。(わたしはあなたのわざをしっている)いまにもボロボロと砂のように崩れて消えてしまいそうなのに、乾き切っているため、砂粒になってもその一つ一つが耳の底にこびり付くような声。(あなたはつめたくもなくあつくもない)聖句を唱える死神の呼び声。(むしろつめたいかあついかであってほしい)追いつかれたかと唇を噛み、握るハンドベルから振り子を抜いて止める。
 足を止めて振り返り、そこに、確かに死神が立っているのを見て、少年は凍りついた。
(このようにあつくもなくつめたくもなく)
 人の形はしているが、体を構成するのは炎のように常に揺らめく暗い闇。夜の中にあってなお黒く映るそれは、得体の知れない引力を発しながら存在している。ただ、眼のあたりに二つ、ぽっかりと赤い光が見える以外は、着ている物さえ確認出来ないのっぺらぼうだ。文字通りの、影。
「X《ツェーン》……!」
 かろうじて輪郭から、マントあるいはコートのような長衣を羽織り、帽子を被っている事だけは認識出来る。死神の影はその名に違わず、携えた巨大な鎌を振りかざした。光を吸い込む暗い刃、悉黒《しっこく》の三日月のようなそれが、獲物に襲い掛かる獣の爪牙のごとく頭上に掲げられる。
(なまぬるいので)
「……マサク・マヴディル!」
 少年は憤然と、忌々しさと恐怖がない交ぜになった表情で、糾弾するように影の名を叫んだ。
(あなたをくちからはきだそう)
 黒い刃が、金色の上に落ちる。ハンドベルが砕け散り、星のように輝く破片に血が降り注いだ。

■一節:「Wir furchten Tod und Teufel nicht. 《我ら死と悪魔とを怖れず》」
『──被害者はいずれも大きな刃物で一刀両断にされており、警察は何らかの大掛かりな機械を用いたと見て捜査を進めています。では、次のニュース……』
 テレビから流れるキャスターの声を聞き流しなら、私は未だかつて無い問題に直面していた。我が娘は、どうやら反抗期に入ったらしい。
「私、もうお父様の言いなりはやめようと思うんです」
 傍からお前の姿を見る者がいれば、鏡に向かって話しかけている、奇異な娘がそこにいると映っただろう。鏡の中に見えるのは、吊りあがった切れ長の目の、長い黒髪の娘。毛の艶やかさは誇るに足り、色白の肌はそのきめ細かさと相俟って、眼の覚めるような白と黒のコントラストを作っている。
「お父様には色んな事を教えていただきました」鏡の中の娘が、網膜にだけ映る人物に語りかける。「銃の使い方、火薬の扱い方、戦い方。魔術の理論に、宗教や歴史の知識。あと学校で教えてくれる事も、そうでないものの事も、たくさん。例えば明日学校で全校殺し合いがあっても一人勝ちする自信がありますし、そうしてくれた事に感謝しています。でも──何もかもお父様に唯々諾々と従っているだけじゃ、駄目」
 生まれて十五年、手塩にかけて育てたつもりの娘からは、あまり聞きたくない類いの言葉が連ねられる。
「もう厭なんです」
 娘の網膜に投影した〝顔〟で、私は溜め息をついて見せた。
 まあよかろう、いつかこういう日も来ると思っていた。むしろ今までが従順過ぎたのかもしれん。しばらく自由にしてやって、それから改めて話し合うのもまた一興。どのみちお前には私しかいないし、私にはお前しかいない。そうだろう、我が娘。
「……い、意外と物分りいいじゃないですか」
 当然だ、私はお前の〝父〟だぞ。十五年間最も近くでお前を見てきた、お前の事は何でも知っている、今や私はお前のためにここに在る。私がいる限りお前に死はない。だから私はお前に戦い方を教え、今日まで育んできたのだ。魔術理を教え、歴史を教え、肉体の制御を教え、時には物語も聞かせた。だが雛もいつか掌から飛び立たねばなるまい。私の選別を通さぬ世界を見てみるのもよかろうさ。
「うー……」
 お前の目が潤むのを知って、私は軽い満足を覚えた。
 紅潮する頬、緩みかける口元。起き抜けで体温の低い手で顔を挟み、冷静を保とうとするが、お前はそんな事では平静にはなれまい。軽く頭を二度三度振り、長い髪で背を叩く。俯き、溜め息、いや、深呼吸を繰り返し、やがてお前は毅然と顔をあげた。
 その横顔。鉄のように固くされど水のように滑らかに、凛とした表情。私はそれを見るたびに我が娘が誇らしい。よくぞこうも育ってくれた。
「でも、私決めました。お父様の事を考えていては、絶対出来ない事をやります」
 何を、とは聞かず私は次の言葉を待つ。そして続いた宣言は、私を戦慄させるには充分な内容だった。

 東亰、あるいはそれに準ずる大都市。そこにスラムという言葉と、その語が示す場所が浸透していったのはいつからだろう? あるいは、飾り立てられた、威圧的なゴシック建築が当たり前のように増えていったのは? 最近の日本は物騒だなどという言い回しさえ、もはや死語になりつつある。
 されど、今日も世は並べて事もなし。どれだけ夜を駆逐しても、影を追い払っても、薄暗さは晴れず、世界は闇に満ちている。
 けれどお前は、そんな物は気にしない。今日だって変わりはしない。
 昼間の白々しい太陽に照らされ、噛み飽きたガムのような倦怠感に満ちた繁華街を、お前は軽い足取りで行く。お気に入りのジャケットを纏って、鼻歌交じりに、スキップでもしそうな勢いで。遥か遠くから地上を睥睨する、教会や市役所や大学の薄暗い尖塔の眼差しは、見ただけで憂鬱な気分にさせられるが、お前の眼中にはない。そう、それは曇りの日は陰気だという程度の事と同じ、あくまで背景だ。
 けれどお前の陽気も、「長らくご愛顧ありがとうございました」という店が潰れた事を告げる紙を張り付けた、中華料理店の扉を見つけるまでだった。先週までは繁盛していた店だったのだが、何かよろしくない輩にでも因縁をつけられたのだろうか。
「ああ、もう! ここの麻婆豆腐楽しみにしていたのに~っ」
 八つ当たりに扉を蹴っても仕方あるまい、典雅ではないな。しかし店が潰れているのなら好都ご……いや、仕方なかろう。今日はもう家に戻って、何か調理して昼食を取ろう。
「いいえ。この間、先輩が教えてくれた凄いお店があるらしいですから、そっちに行きましょう」
 ああ、学校でそんな話題をしていたな。激辛マニアとは、つくづく不可解な人種がいるものだ。我が娘がそういう輩と同類だというのは、更に不可解でかつ理不尽だと思うのだがな。そして極めつけは、我が娘が私の言葉なんぞ聞かなかった風に、意気揚々と次の店へ入っていく現状だが。
 ところで私は、いわゆる恐怖というものに縁がない。分別もつかぬ幼い時分にはそういう感情もあったろうが、幾度となく命を危険に晒され、眼前に迫る死を自覚しても、一向に震えたためしがない。が。今、私は心底戦慄している。久しく忘れていた恐怖の味に、苦い痺れを感じている。
 だから、待て。
 ま、待て。心底待て、我が娘。アラビアータごときまだ良い、だがなぜだ、なぜ何度もタバスコの瓶を振る!? なぜ料理の味を微塵と潰すような真似をするのだ。だいいち味覚が破壊されるぞ、やめろ! 舌の上に塩を載せても硫酸を載せても区別がつかないようになってもいいのか!?
「すーぱげっちー、すぱげっちー♪ あかーいあかーいスーパゲッチー♪」
 ええい、その下手糞な歌はあてつけのつもりか。……信じられん、半分ほど中身の残っていたタバスコが空になった。周りの客もお前をちらちらと見ているぞ。少しは恥を知れ、幾らなんでも料理に失礼とは思わんか。うっ、フォークを取ったか。待て、我が愛娘、本当に待て。何と言うか、その、これは私の生死に関わる問題だ。お前が辛い食べ物を好むのは知っているが、五感を共有しているはずの私はそうではない。だから、その、つまり。
 私は辛いものが苦手なのだ! ましてやそんなタバスコ塗れのアラビアータなど!
「いっただっきまーす♪」
 私の絶叫を無視して、お前はひどく朗らかな声で言うなり、猛烈な勢いで激辛のスパゲッティアラビアータをかっ込み始めた。かっ、辛っ!? かかっ、やめ、ぶるああああっ、あづづつつヅっっっ! 辛────ッ!!! ……そうか、そんなに辛いものを我慢してきたのか、お前は。私の嗜好を慮って、今日まで我慢してきてくれた事、嬉しく思う。だが反抗期とはいえ、これはい、くらなんでも節度が──、

(           )

 ──そういえば日本語ではカライとツライは同じ字を書くのだな。……ああ、少し意識が飛んでいたようだ。しかし口はやたらヒリヒリと痛む。うう、熱油を注ぎ込まれたような気分だ、我が娘よ、真剣に舌が火傷してはいないか鏡を見るがよい。……どうした、頭を抱えて。何、私の悲鳴が煩すぎて頭痛がしただと? ああ、何か叫んだかも知らんな。ふん、この私に激辛の料理など食わせるからだ。せいぜい頭を抱えておれ、ふはははは!
 アツッ。

 今から半世紀以上も前、世界に大戦の嵐が吹き荒れていた頃、私は衣奈の祖母と、我が盟友と共に騎士団を結成した。
 オリエ・マグダレナ・ノイシュヴァンシュタイン、またの名を柳原織江。月を支配して潮の満ち引きを操り、年齢を持たず、自在に姿を変えた強壮な魔女。我が盟友を、配下たる騎士達の師にして父とすれば、この女は師にして母とも言うべき存在であり、同時に最大のタブーであった。
 この女の裏切りを皮切りとして、我々は滅亡したのだ。
 滅びるのは良い。我らを滅ぼすものは呪われ、いずれ必ずや我らの本望を受け継ぎ、同じものになるだろう。
 それは我が盟友との約束、水星の魔術師とともに築き上げた、黒い宇宙の完成に過ぎなかったのだから。それは彼らの世界だ。我らの世界だ。ヴァルハラ。神のもとの楽園でなく、悪魔のもとの地獄でなく、我らの宇宙。ただ一人のためのただ一個の宇宙。
 だがその宇宙も落ちた。かのマグダレナに連なる最後の娘の手によって! いまや──私の名前に、意味など、ない。あえて呼ぶなら、魔王《アルベリヒ》とでも名乗っておこう。私を裏切った魔女、配下の中で最も強かった騎士の血族。かの娘が私を殺し、私の本望ではなく〝私の魂その物〟を受け継ぎ、結果その娘がまた、我が最後の砦とは、なんと皮肉な事か。
 もはや私の領土は我が娘ただ一人、臣下もまた、この娘ただ一人。何の力もない、矮小な裸の王様だ。もしかしたら私は、一生この娘とともに生き、この娘とともに死ぬだけの運命なのかもしれない。だが、──私は常に運命を呪う。その憎悪が、私には必要だからだ。
 かつて騎士団を率いたのも、全てはそのために。この娘を絡め取る運命は、私が全て粉砕してやる。砕け散った運命の破片で、この手が傷つこうとも。そのために、世界を灰燼に帰そうとも。我らの行く手を阻むものは、ただ打ち倒し、押し潰し、踏み破るのみ。
 故に我が敵は、我らに許容も慈悲も望むべからず。──Sieg Heil Viktoria.

◆  ◆  ◆

 墓石に似たビルの間を縫う路地は、どこも汚い。ゴミ収集車という車種は幻かと疑うほど生ゴミのバケツは放置され、酒か薬か人生かに酔い潰れあるいは打ちのめされた人間が、そこかしこに転がっている。少年もまた、同じように転がる体を抱きかかえて、エネルギーの消費を遅らせていた。
 体に染み付いた垢と残飯の臭いが気にならなくなって、もう何ヶ月経つだろう。どうせ貴方に逢うなら綺麗な体で逢いたいのに。そう思いながら、手の中のガラクタを見遣って溜め息をつく。鐘と、中身の振り子が粉々に砕け、辛うじて柄の部分だけが残ったハンドベルの残骸。
 少し首を起こし、眼前の交差点に視線を泳がせると、視界がぼやけていた。これも栄養が足りないせいだろうか、盗みでも万引きでも何でもいい、早急に精をつけなくてはならないようだ。そう思いながら立ち上がり、踏み出した足が、ふらりと頼りなく揺れた。
 これは思ったより、まずいのかもしれない。昨夜は血を流しすぎたせいか、眩暈がする。死にはしないが、まだ動けなくなるわけにはいかないのだ。苦い顔になりながら、足に喝を入れて歩き出す。顔をあげると、ぼやけた視界の端を過ぎったものに、視線が吸い込まれた。
 深い艶を見せる黒髪をたなびかせて、颯爽と歩く一人の少女。
 カツンと高い足音を立てるたび、黒いブーツにぶら下がる銀の十字架が、鈴のように小さく鳴る。心持ち鼻をつんと持ち上げ、肩で風を切りながら歩く様は己に対する強い自信を漂わせて見えた。黒で統一された服装は、両袖から前面までぐるぐるとベルトを巻きつけたジャケットといい、段重ねのフリルのミニスカートといい、一瞬目を逸らしてしまいたくなるようなセクシュアルさ。
 人より何かが圧倒的に足りなくて、何かが圧倒的に過剰なのか、フリークス的なその衣装の選択は、ゴシックパンクを意識している。黒い河のように背後に流れる髪は頭の両脇からやや高い位置で纏められており、それを束ねるリボンもギザギザのレースで縁取られた黒。
 立ち尽くしたまま少女に見入っていると、視線を感じたのか、一瞬、彼女がこちらを見た。どきりとしたが、固まったように目を逸らせないままでいると、少女は鴉の屍体でも見た時のような、どうでもいい物を見たという表情をして、それっきりきびすを返して去っていく。
 黒目がちの瞳が綺麗だと、不覚にもそう思ってしまった。他人の容姿など興味はないのに。だが、これは特別だ。性別も年齢も、姿も形もまるで違う。捜し求める人物の面影などどこにもない。だが、確かにそれと確信する。だから、綺麗だと思ってしまったのだ。そうに違いない。
(見つ、……けた!)
 少年はその瞬間、空腹も貧血も眩暈も、全てを忘れて猛然と走り出した。
 渡ろうとした横断歩道の上で、信号が色を変えようとしていたが無視。交差点に突っ込みながら、左右から抗議のクラクションとブレーキの音を聞く。関係ない、そんな物はどうでもいい。派手に転び、すぐさま起き上がって、少年は雑踏の中に見出した自らの希望に縋ろうと迫った。
(待って!)
 この世界でただ一人、あれは、自分が今ここに生きている意味の全てなのだから。自動車に轢かれかけながら、小さな背丈で人の波をかいくぐり、何度も人にぶつかって、そのために怒鳴られても、勢いを緩める事なくひたすら追いかけた。擦り剥いた膝の痛みが鬱陶しい。
(待ってください)
 見失っちゃいけない。ここで逃せば、次に逢えるのはいつになるのか。もう待てない。早く貴方に逢いたい。そのためだけに十年とこの半年を耐え忍んだ。だから、だから、ああ、どうか。
(置いていかないで……!)
 伸ばした手が服の袖に触れた。だが、それだけだ、本体は掌の向こうへと過ぎ去っていく。心が軋むような重い悪寒に見舞われながら、少年は更に足を前へ出した。あと少し、もう少し、ここまで距離を縮めたんだ。今にも手が届きそうなんだ。
 お願いです、私に気づいてください。振り向いて、在りし日のように名前を呼んで。嗚呼──我が主、我が神、我があるじ!

『歓喜の魔王』

 急に誰かがお前の腕を引っ張った。
 その感触に振り返れば、全体重を預けるように、両手で服の裾を掴んだ少年が一人。……お世辞にも、小奇麗とは言えない、いや、薄汚いと言わなければ嘘になるような、そんな格好だ。ただ、目深に被ったフードからこぼれる髪は、ろくに櫛も通されず乱れ、埃に塗れていたが、さぞかし、磨けば光るであろう魅惑的な輝きがあった。なぜか私はその輝きにひどく見覚えがある。だが、お前はそんな事は知るまい。
「……誰?」
 お前はやはり当然の反応として、不思議そうに小首を傾げて少年に問う。だが、問われた方はもはや口をきく力も残っていなかったのか、お前の袖を掴んだままずるずるとその場にへたり込んだ。お前はそれに引っ張られて、中腰になりながら、少年の頭に顔を近づける。
「ちょ、ちょっとちょっと!?」
 脂と垢と泥の混じった異臭に面食らったか、思わずお前は少年の手を振り払った。突き飛ばすような強い力ではない。だが、お前の袖を掴んだ時からもう気を失っていたのか、尻餅をつき、ごろりと横たわったまま少年は動かなくなる。顔には、心なしか涙が流れた痕があった。

■二節:「dienen dir in Treue bis zum Tod! 《汝に決死の忠誠を尽くさん!》」
 少年が身につけていたトレーナーとズボンは汚れ切り、まるで雑巾のような有様だった。特に上着などは袈裟懸けに切り裂かれており、それをガムテープで補強などしているものだから、ボロ布以外の何物にも見えない。その色も、全体に血液らしきものが染み込んで、辛うじて元は緑だったと判別がつけられる程度だ。
 行き倒れの浮浪児など、この街では──いや、この国のどこの都市でも珍しくない。腕に縋られたからといって、それをわざわざどこぞの福祉施設や病院に連れて行ってやるほど、我らも公共機関も暇ではないし親切ではなかった。それなのに、こうして犬猫のように拾って自宅に連れてきたのは、心に何か惹かれる物を感じたからだろう。我が娘は恐らくその非凡さを感じさせる容姿に。そして私は、己の記憶に対する引っ掛かりに。
「まあ、これだけの美少年なら、いつ攫われてもおかしくないですけどね」
 人形を拾った、とお前は少年の事をそう評した。実際、完成された整い方をした目鼻立ちは、汚れ打ち捨てられた人形のような印象だ。
 話しながら少年の衣服を捨て、風呂場に放り込み、シャワーで温まった湯をかけると、長い睫毛が震えた。だが、まだ目を覚ます気配はない。お前はスポンジを手に少年を洗い始めた。石鹸を泡立てて泥や垢を浮かせ、湯で流すにつれ、蛹が殻を破るように眩い肉体が現れる。
 小さな鼻と唇は繊細で儚げ。肩口まで伸びた髪は、黄金と呼ぶほかのない曇りなき金髪。水分を含んでより艶やかに輝き、しっとりと体に貼りつく。石鹸の白い泡を乗せる肌は湯を玉状に弾き、染みもホクロも見えない純朴な白が目に眩しい。ほっそりと痩せた体はやや衰弱を感じさせるが脈動感に溢れ、無邪気な若さを主張している。
 それはさながら自然発生した純水か、あるいは品種改良した温室育ちの花か。天然に産し、生きてきたなら必ず背負っているはずの、汚れも歪みも一切感じさせず輝く肢体は、作り物でなければ得られないほどの純粋さだ。しかし、仮に人形が息を与えられ動き出すような奇蹟が起こったとして、そもそもこの者ほど完成された人形を創造するという奇蹟が起こりえないのではないか。
 それはどこまでも作り物めいた、しかし間違いなく天然の美、故に神の御業を、あるいは悪魔の祝福を感じずにはいられない。息を飲み、呼吸を忘れたお前がついに溜め息をつくのを聞いて、私はわざとらしく咳払いを一つした。
 見惚れていた照れ隠しをするように、お前もまた大きく咳払いをして作業を続ける。
 肋《あばら》の浮いた上半身には、右の肩口から左の脇腹へかけて、斜めに薄紅色の線が走っていた。僅かにひきつるそれは、上着の傷と同じ位置についている。それだけならまだいいのだが、上着の傷は前だけではなく、後ろにまで達していた。少年の体をひっくり返してみれば、ちょうど背中にも斜めに走る線がある。まるで、肩から脇まで斜めに体を切断されて、再びくっついた痕のように、だ。
「でも、有り得ない事じゃないですよね。ちょっと変わった人種なだけで」
 そうだ。私はこの者に対して、ある推測を既に持っている。この不可思議な傷も、その推測を裏付ける証拠の一つに過ぎない。
 おそらくこやつは黄金の子だ。完璧に均整の取れた四肢と臓腑、魔術的に高い素養、そして人並み外れた容姿を持つ人の貴種。半信半疑か? まあもう少し分かりやすく説明すると、より優れた血液の持ち主といった所だ。その血肉、体液諸々、魔術において貴重な材料となり、当人は朽ちぬ黄金のごとき不死身の存在力を持つ。
「その割りには、腹ペコで死にそうでしたけれど?」
 いかに不死身とはいえな、腹が減ったからといって自分の腕を食う訳にもいかんだろう。存在し続けるからには、外部から何らかの手段でエネルギーを摂取する必要がある。単純に餓死を待つなら何十年の時間が必要かはちと分からんが、食事はやはり良いものだ。
 さて、洗い終わったら服を着せて、粥の用意でもしてやろうか。

◆  ◆  ◆

 ふるふると睫毛が揺れ、ゆっくりと瞼が開いた。細く瞬きを繰り返し、やがてふと大きく見開いて、金色の瞳でお前を見る。眩しささえ感じるほどの、曇りなき黄金の坩堝。金色の鏡には、お前ではなく私の顔が映りこんでいた。
「du《貴方は》……. 」
 横たえられた布団から身を起こし、はっとした顔で、少年は私を見た。我が娘の顔ではない、その顔面の向こうにあるはずの、私の姿を求めるような視線を投げかける。久しいな、卿。我が盟友──水星の《ヌンティウス》ニコラス。だが、その姿はどうした? まあ、大方の想像はつくがな。
「……mein Herr!《我が君!》 」
 少年、ニコラスは不意に顔をゆがめると、その表情がそれ以上変化するのを見られるのを嫌うように、毛布を跳ね上げてお前の胸に飛び込んだ。
「お父様、お知り合い?」
 その通りだ、我が娘。これはかつての我が友、互いに盟約を交わし、互いにその魂を我が物とした仲。
「深い関係ですね」
 まあどう邪推しても構わん。死によりて一つとなった我らだが、私自身の滅びによって再び別れ別れになって以来十五年振りの再会だ。そうだろう、卿。私がどんな顔をして我が友を見ているか、お前達には見えまい。我が娘はだいたいの表情を察する事は出来ようが、あいにくとこの金色の前にいるのは、衣奈という十五の娘に過ぎない。人の形をしている以外、私とは何も似通わない少女しか居ないのだ。
「mein Herr, Wer ist dieses Maedchen?《我が君、この娘は?》」
 もちろん、我が娘だ。あの哀れな虹の娘とは違う、正真正銘私のものだ。
 括られて十五年、私はこの娘を護り、育み、導いてきた。これぞ我が最後の砦、ただ一つの領地にして安息。今や私は我が娘が感じるものしか感じられない。娘の眼が閉じれば私には何も見えず、娘が耳を塞げば何も聞こえない。
 ──だから我が娘、頼みがある。お前のその手で、我が友を抱きしめてくれ。私はお前が触れなくては、何にも触れる事は出来ないのだよ。私に代わり、我が盟友に再会の抱擁を。手を握るだけでも良い、十五年の時を経て巡り逢えた友を、我が手に繋いではくれまいか。
「イヤです」おおっと。
 なぜだ、我が娘。その……反抗期続行中か、まさか。
「アラビアータが美味しかったから、しばらく中止です。反抗期はまた来週。だいたい、お父様ってば今まで私以外に話しかけた事なんかないのに! お父様の知り合いだか何だか知らないけれど生意気だわ、こいつ。いい? あんた。わ・た・し・のお父様なのよ!」嫉妬か。
 我が声は望めどお前以外の誰にも聞こえはしない。我が盟友に我が声が聞こえるのは、互いの間にまだ残る魔術的な縁を媒介にしているためだ。それでも、ニコラスには私の姿は見えんし、私もニコラスに触れる事は出来ん。理解してはくれまいか?
「doch《やはり》……. 」
「ちょっと、ここ日本なのよね」つんと白磁の頬を突付いていわく。「だから日本語喋りなさい。日本語分からないなら、もっぺんお風呂に連れて行って口の中石鹸で洗いながらよく教えてあげるからね。分かった?」
 にっこりと笑い、忠告とも命令ともつかぬ事を言うお前の眼は笑っている。ただし、その笑いは獲物を前に期待を高まらせる猫のそれだ。まあ、卿には身の安全のため、大人しく日本語で喋る事を勧める。一応我が娘にも独語は教えたのだが。
「分かりました」
 素直に頷いたニコラスに気をよくしたのか、お前は今度こそにこやかな顔になって、両の腕で少年の頭をかき抱いた。やれやれ、年頃とは気難しいものだ。私は意識をお前の神経に伸ばし、そこから伝わる盟友の感触に触れる。それは、当然ながら記憶にあるものとはまるで違っていた。
 小さく、痩せ衰え、かつて纏っていた霊威が削げ落ちている。だが、眼に映るのは確かにあの日の黄金。このまま長じれば、遠からずかつてと同じように、悪魔に祝福された美貌を取り戻すだろう。美しすぎる故に一切の欲情を跳ね除け、恐怖と畏敬の念をただ掻き立てる、おぞましき光の金。
 Ach……, mein Freund. ……Nikolas=Nuntius・Lilienthal.
「その呼び名は、もうお忘れください」
 お前から体を離し、柳眉をしかめて、我が友は胸にこみ上げる苦痛を堪えるような表情をした。
「私はもう、それに見合うだけの力を持ってはいない。あれから約五年、自我を保ちながら受肉に成功し、更に十年体が成長するのを待って、どうにかこの国まで貴方を追ってきました。この地に至るまで、騎士を導きながら彷徨い続けましたが、それが今出来る精一杯の事です」
 そうか。私の名に意味がないように、卿の名にもまた意味はなかろうが、私は他に名づける物を持たない。水星の名を受け取らぬなら、今はただのニコラスと呼ぼう。それを聞いて、お前は提案するようにぴんと人差し指を立てた。
「それじゃあニコラス、まずあんたの名前は略してニコね。私の事はいつでも気軽に恭しく、衣奈様とお呼び」
「脳の温度を下げろ」
 お前は躊躇なくニコラスの両目を指で突いた。卿は要するにおつむがぬくいと言いたかったのだろうに、容赦のない娘だ。
「潰す気か!」
 爪の手入れは欠かしておらんし、それなりに手加減もしているが、至極当然の抗議に対し、お前は腰に手を当て、傲然と胸を張って応える。
「お黙りなさい、金毛犬。拾ってやった恩をもう忘れたのかしらね、この小さいおつむは」
「誰が犬だ」
「あら、じゃあ小さなおつむに収納しやすいよう説明し直してあげるとね、洗っていない犬のような汚い臭いを撒き散らしながら街をうろついていたあんたの事よ。まあいけない、これじゃ説明が長すぎて収まらないかしら?」
 お前は猫のように涼しげな表情で、いけしゃあしゃと言い切った。ああ、細い管が切れるような音がしたのは、私の幻聴だろうか?
「では訊くが、この格好はなんだっ。私は男だぞ!? 貴様、さては罵迦ではなく変態だろう!?」
 憤然と立ち上がるニコラスの姿に、私はとうとう噴き出した。いや、何と言うか、我が娘が着替えさせる所にも立ち会っていたから、最初から知っていたのだが。まあ、その、実に可愛らしい事になっている。いつでもモデルになって稼げるぞ。
 我が娘が持っている服では、当然十歳そこらの少年の体格に合う服などない。そこでお前が買ってきたのは、ケープ付きのワンピースだった。色はグレーで、柄はリボンプリント。胸元には編み上げのリボン。縁にフリルをあしらったケープ、それにウェストにもリボン。うむ、実に少女趣味だ。
「リボンカチューシャとウサ耳帽もあるけど、どっちがいい?」アクセサリーもばっちりときてる。
「今すぐ全部脱いでやる!」
「あら、それもいいわね」にやりとしたお前の笑みに、ニコラスは不吉な物を感じて後退った。「あんたのそのワンピの下は、ラブリーショーツ。もちろん女物。さ、脱ぐなら早くしなさいな。ほらほらほら」
 ニコラスの顔がさっと青ざめ、顎が落ちた。こちらに背を向け、そっとスカートをめくり、中を確認して呆然と布団に座り込む。
 お前が選んだ下着は、黒とピンクのレースが段重ねになっていたり、無駄にリボンがついていたり、というかそもそも幅自体が若干狭いような気がする黒いショーツ。何というか、普通のこの年齢の児童には目の毒になりそうな代物だ。少年に穿かせると、こう、実に十八禁な雰囲気だな。
 ……流石に下着は止めるべきだったかもしれん、と今更この魔王も後悔。
「ちなみにいらないって言うなら、お金払いなさいよ? 下着とワンピース、それにサテンの靴下、合わせて税込17,270円也。さあさあさあ、払える物なら払ってごらんなさい、文無しワンちゃん!」
「くっ、この……」
 今まで受けた事がないような屈辱に、ニコラスの肩は小刻みに震えていた。荒い呼吸をつきながらそれを押さえ込み、きっ、とこちらを振り返る。毅然とした表情には、先ほどまでお前に翻弄されていた無力な少年の面影はない。ただ、自らの使命を全うしようとする強い意志を感じさせた。
「それより我が君、早急にお知らせしたい事が」
「逃げたわね」
 お前の言葉を盛大に無視すると同時に、ニコラスの腹の音が力なく鳴った。

◆  ◆  ◆

 藤谷警部は眠そうな、あるいはどこか斜めに構えたやさぐれ感のある半眼で辺りを見回した。カクカクと上下に揺れる咥え煙草から、熱い灰が落ち、真新しい血の水面に貼りつく。視界を埋め尽くすのは、ばかばかしいような量の屍体とひたすらの血液。
 革の靴が血にまみれて足元でニチャニチャと粘る音を立てるが、気にするのも面倒なくらいどこも足の踏み場がなかった。捜査員が懸命に屍体を片付け、袋につめていくが、道行く人全てが残らず一刀両断されたような屍体の山は、何十どころか百を数えて余りそうで、もうかつて人間だったとは思えない。けれどどの屍体も体温が残るほど暖かく、触れれば弾力もあった。壊れたマネキンのような印象を、その事実が辛うじて覆している。
 正午も少し過ぎた交差点。いつもは人通り激しい街の中心部は、普段の喧騒も忘れて凍て付くような静寂の重量に今にも押しつぶされそうだ。四方に伸びた横断歩道と、歩道を両断する車道の全てを埋め尽くして、真っ二つのパーツになった人体がずらりと広がっている。
「まったく、正気じゃねえよな、こりゃ」
 殺人事件として通報を受けて駆けつけたらこの有様だ。一体何の冗談かと思う。生きて動き回る人間を、一撃で切断して死に至らしめる。それがどれほどの高度な技術か、まずもって尋常ではない。それに加えて、この大量殺戮。奇妙な事に屍体はどれも必ず斬殺であり、それ以外の死に方をしている者はいなかった。昼日中の交差点でいきなり刃物を振り回して暴れる奴がいて、人死にが出たら、パニックを起こした群衆が子供の一人や二人踏み殺していてもおかしくないのに、だ。逃げる間も与えず何十何百という群衆を斬殺とはどういう犯人だ。
 これが何らかの武装集団の犯行だとして、まだ屍体も新しいうちから、現場から逃亡するそれらしき人物は確認されていない。現場周辺にいた人間は残らず殺されているのだ。まるで自然災害のような規模の殺人事件だった。俺は夢でも見てるのか?
 ちびた煙草を携帯灰皿に片付け、次の煙草を咥えてライターを取り出す。中々火が点かない。苛立つ寸前でようやくぽっと点いたが、その途端べちゃっと筆で塗りつぶされたように、重さのある風に掻き消された。全身の毛が総立ちになり、腹筋が緊張にきゅっと締まる。
(わがかみ)
 どくどくと風が吹く。病に侵された心臓の鼓動のようにどくどくと、あるいは傷口から噴き出す血が流れるように、乱れた動きで。
(わがかみ)
 まるで扉の向こうに押し込められていた汚水の奔流が、今になって解放され、どっとなだれ込んで来たような、妙に嫌な予感を頭の後ろにべっとりと擦り付ける、そんな風。空気をかき回すその音は、細く甲高くどこか悲鳴のよう。
(なにゆえわたしをすてられるのですか)
 そんな天気の中で、藤谷はふらっと倒れた。地面にぶつかった拍子に上半身が外れて、ごろりと転がる。ちょっと小石に躓く事さえ致命傷に思えるような、この不吉な風の中では、バラけた上司から血が滲み出しても、周囲の捜査員は声をあげるのも忘れて呆とそれを見る事しか出来なかった。
(なにゆえとおくはなれてわたしをたすけず)何かがおかしい。何かが間違っている。(わたしのなげきのことばをきかれないのですか)
 けれど、それが何かは分からない。血の臭い、刃を思わせる冷たい鉄の臭い、死の予感を降らせる臭い。それが鼻を突付き、摘み、捻るほど存在を主張しても、驚愕と戦慄は足元に沈んだまま首をもたげる気配さえなかった。
(わがかみよ)
 誰もが足を止め、口を噤み、呼吸さえ忘れて馬鹿のように突っ立っていた。空を見上げれば、白々しいほど明るく地を照らす太陽が見えるだろう。けれど、それは酷くこの地上とは無関係な模様に見えた。この地に吹くのはあくまで冷たく重い、泥水のような黒い風。足を掬い、温もりを奪い、その場から一歩も動けなくさせて、破滅の予感めいた感覚を訴える。
(わたしがひるよわばっても)
 だが、その予感に従って、この場から逃げ出せた者がどれだけいただろうか。或いは、逃げ出したとしてそれが許される者などいただろうか。
(あなたはこたえられず)
 答えは、否。黒い風は、その場に居た者全てを己のうちに飲み込み嚥下する。頬にそっと触れるほど優しい冷気を感じた者は、自分が死んだ事にも気がつかなかった。光を拒絶した暗い冷気が通り過ぎるのを感じた者は、目の前の誰かが死んだ事すらもはや認識出来なくなっていた。
(よるよばわってもへいあんをえません)
 誰もが自分の名前も忘れ、生者と死者の区別を失い、全ての意味と価値を喪失しながら、ただの一陣の風によって命を落としていった。風を引き連れるのは、入り込めば身動き一つ出来なくなるような、固い凪。凪の中に座す影は、長大な鎌を手に、葬列の参加者のようにしずしずと歩いている。
 鎌を持つその姿から、分かりやすく呼べば死神。ただしフードとマントではなく、帽子とコートらしき物を纏っている。歩きながら、呼吸するような自然さで鎌を振り、あるいは懐から取り出したらしきナイフを投げるたび、黒い風が吹き、人が倒れる。滅びの黒い風を立てて歩く死神は、自身の周囲に出来た凪から渦を作り出し、死者を引き寄せ絡め取り、その渦ですり潰すようにして、魂を喰らった。
 黙々と目に映るものを片端から殺しながら、死神は昨夜逃した鈴の音の主を探している。

■三節:「was wir einst geschworen. 《かつての誓いを忘れてはならない》」
 レトルトの粥を焦がすという信じがたい失敗をした我が娘の提案で、我々はニコラスを伴って駅前のそば屋に入った。ここのメニューには茶漬けなどもあるので、胃の弱ったニコラスでも大丈夫だろう。我々の注文は鴨南蛮だ。……あ、こら、あまり唐辛子を入れるでない。
 衣奈が選んだ服と、元の素材のため絶世の美少女と化しているニコラスは、昼のラッシュ帯を過ぎて閑散とした店中の目を集めたが、我が盟友殿は飢えを満たすのに忙しくてそれどころではない。TVからは、我らが卿を拾った交差点で大量虐殺があったというニュースが報じられていた。
 現場の捜査に赴いた警官も残らず斬殺された事から、警察内部にまで潜り込んでいた殺人カルトが集団で群衆を襲い、その後犯人達も自殺したとかいう見解がTVで流れるさまは罵迦罵迦しい限りだ。しかし、事件そのものが常識の範疇を逸脱しているのだから、無理もない。
 凶悪犯罪の域を超えた不可能に近い殺人量の犯行は、私の記憶に引っ掛かりを訴える。我らが注文の品を食べ終わる頃、ニコラスは三杯目の茶漬けを食べ始めたが、落ち着いてきたのを見て私は話を切り出した。卿は先ほど、騎士をこの地に導いたと言っていたが。
「は、彼の者達は消滅した訳でも(はぐはぐ)、ましてや昇天した訳でもありませんから(むぐむぐむぐ)。今もまだ、呪の残滓に引きずられて、貴方を私を探して彷徨っている(ごっくん)。だから私は彼らを捜し、遠くから連れまわして(はふはふ)、貴方を捜し出しました。我ら再び貴方の元へ馳せ参じんがために(んぐんぐ)。……しかし全員は見つかってはおりません。まったく行方が掴めない者、封印され、世界政府の監視下にある者(けふ)」
 少し落ち着いて話せ。で、今の所この地へと導けたのは何体で、その内訳はどうなっている?
「I《アイン》、V《フィーア》、VII《ズィーベン》、VIIII《アハト》、XI《エルフ》、XII《ツヴェルフ》。そして、X《ツェーン》。以上七体」
 ふむ、残りIII《ドライ》、V《フュンフ》、VI《ゼクス》、IX《ノイン》はどうだ?
「IIIとVについては封印の管理地だけ把握しております。ただ、あとのVI、IXについては、何も」
「私を置いて話を進めないように」
 お前はニコラスの鼻に指を突っ込み、不細工にしてやった。ぶははは、豚め、豚め!
「貴方まで悪乗りしないでくださいっ」
 広げられた鼻の頭を押さえ、生理的な涙で眼を潤ませながら抗議するニコラスに、お前はますます嗜虐心を煽らせた。再度強制鼻腔拡張。おお、鼻が千切れそう。そろそろ離してやらんと、会話がしづらいぞ。あと、客が少ないとはいえ店内であまり騒ぐな。
「ふふん、私を無視するからよ。騎士って何の事? お父様とあんたは分かり合っているみたいだけど私仲間外れ? 冗談じゃないわ、お父様に関係ある事なら、すべからく必然として愛娘の私にも関係ある事なんですからね! さぁさぁさぁキリキリ吐けぇい!」
「……」
 ニコラスは黙って、空になった皿を指差した。話の続きを聞きたければお代わりを寄越せという事だろう。お前は仕方なさそうな顔で店員を呼び、茶漬けのお代わりとあんみつを注文した。おお、久しぶりの甘味。あの地獄のように赤いスパゲッティーから考えると天に昇る思いだな。
「そんな事だから、あの金喰い虫に菓子なんぞで懐柔されるのです」
 黙れ、昔の話だ。
「それ以前に、あんたとお父様しか知らない話を私の目の前でするのが凄いむかつく」
 お前の眼の届かないところで私が他者と会話するのはまず不可能だがな。まあ良い、雑談しているうちに追加注文がきた、話の続きに入るぞ。
 ……昔々、魔王がいた。そいつは馬鹿げた世界征服を計画し、一人の偉大な愚者によってそれを阻止され、滅ぼされた。
「勇者じゃないの?」
 違う。この場合勇気も狂気も、勇者も愚者も同じ事だ。いいか、正しいから勝つのではない、間違っていたから負けるわけでもない。ただ、勝った方が負けた方より一層バカだっただけだ。そして勝った方はより一層、人から支持を受けていたというだけだ。それは正義も何もない。
 ともあれ魔王は負けた。かつて自分を裏切った、魔女の娘の手によって。
「魔王って、お父様のことなの?」
 そうだ。かつて我が率いた配下の騎士団は、地上を闊歩する地獄と呼ばれた。
 その所以は、人の命を魂を、力の源とする事にある。我らに殺されるとは魂を、全存在を、刈り取られ隷属させられ使役させられる事と同義なり。命の煌めきと意志の炎にて世界を焼き払い、無辜の民の涙さえ甘露となる。
 対象の殺害によって強制的に契約を成立させ、呪縛する恐るべき魔術を、この黄金の子は組み上げたのだ。
 魂を奪い、呪縛する。そう言い表せば明瞭だが、つまりは共食いの呪法。人間が人間を殺し、その血肉どころか霊魂を奪い、我が物とする。これを共食いと言わず何とするか。人間ではなくなるほど人間を殺し、人間を喰らうことで人間の上位につく外道の極み。喰われし者の怨念と、喰らった者の罪業とが、積み重なり織れ連なって、腐臭を発するほどの呪いとなる。
 その呪力こそがこの術の本質。
 我と我が配下の騎士達は同じ術で括られ、それゆえに不死と超常の力を誇った。いざ滅ぼされる事があろうとも、その魂は死してなお我が元に来る。そして団が終焉を迎えようとした時、私は一人にして一個の軍団と化した。
 だが私は滅び、騎士と兵士の魂、幾千幾万の魂も、残らずこの地上に散ったのだ。
「そっか……じゃあニコは、騎士をお父様の所に連れ戻してきたのね」
 衣奈の反応に不自然さを見て、ニコラスがちらりと私を見た。今の話には抜けがある、なぜ滅ぼされた私が衣奈の中にいるのかという説明がない、だがお前はそれに気づきもしない。私が我が娘を盲させているのだ。我を滅ぼす者は我の本望を受け継ぎ我と同じ存在になる。黄金の子が組み上げた術に潜むその爆弾は、誤爆によって私を滅ぼした魔女の娘に、私自身の魂そのものを受け継がせてしまった。
 だが、それを説明するという事は、衣奈は自分の母と祖母が私の敵であったと知る事になる。それは、いまは知らなくていい。分からなくていい。だから、私はこの娘の目を塞ぎ耳を塞ぐ。……内緒話はここまでだ、話を続けてやれ、我が盟友。
「そうだ。連中は既に亡霊、私の魔術のくびき無しでは、いつまでも自我を保ってはおれん。霊格の高い一部の者は分からんが、そういった連中はうまく隠れているのか、見つける事は出来なかった。今の連中は、無闇に暴れまわり、魂を喰らって業を増やす怨霊に過ぎない」
「迷惑ね。面倒ね。目障りね。出来たら関わりたくないんだけど、お父様はどうする?」
 知れた事を。かつて私の物だった物を、取り返すのに否はない。火の雨が降りかかるのを、黙って浴びるつもりもない。それが私の元へ来るのなら、叩きのめしてもう一度こうべを垂れさせてやろう。それに既に一人、追いついているのだろう、我が友?
「は、残念ながら」
「……追いついてる?」
 訝しげにお前が口を開いた次の瞬間。
 窓も開いていないのに、硝子をすり抜けてどう、と黒く冷たい風が流れ込んだ。たちまち店内を満たし、足を浸し、胸元まで一気にせり上がる寒さと怖気に、一瞬溺れそうな錯覚に陥りながら、それでもお前は体を動かし、窓辺に駆け寄って開け放つ。
 果たしてそこは、既にして異なる世界も同然だった。それは水の中と、氷の中ほどの隔たりをもって。こちらは溺れはしてもまだ動けるが、あちらは身動きひとつままならぬ、絶対のプレッシャーで満たされた色のない世界。照りつける陽光、揺れる街路樹の枝葉、それらの下で転がる人々と、その体からこぼれて広がる血と臓物。その何もかもが色と意味を失い、ただ光と影が織り成す模様となった只中に、異様が佇んでいる。
「かれはいった・〝かみとしたしんでも・なんのえきもない〟と」
 やはり来たか、第十の騎士! まずはヨブ記とは、相変わらず聖書の虫だな。
「あれが……騎士」
 聞け、娘よ。あれは闇《シャッテン》、かれは不死《アインヘルヤル》。休まないから食事をしない、諦めないから眠らない、裏切らないから言葉を持たない、痛みを持たないから怯えない。痛覚も嗅覚も味覚も皮膚も無い、死すら持たぬ不具の死者。
 纏うは実体ある嘆きと色ある悲鳴、命を妬む断末魔。生あるものは光すら憎んで引きずりこむ、人の形持つ奈落。存在そのものが既に陰であるがゆえに、影を持つ事がない。影なきものは光差す地に居場所なく、命なきものは生者の世界に住まう場所なし。
 だが影ではなく闇であるがゆえ光の下に立ち、死者ではなく不死であるがゆえ生者の間に潜む、正真正銘の異形にして異生《いぎょう》。
 そういう存在だ、理解したか。狂気がお前の前に立っているぞ、この世の理歪めて捻じ切らんとする剛力なる怪異が。さあ、臆したか?
「いいえ、お父様。今更、怨化怪《おばけ》の一つや二つに、私が臆しましょうか」
 かぶりを振って言い放ち、不敵に笑うその表情こそ我が娘のもの。よかろう、ならば征くとするか!

◆  ◆  ◆

 お前は動きの制限される店内を嫌って、ニコラスの腕を掴んで反対側の窓から飛び出した。店内に残る客や店員は、吹き荒ぶ黒い風となって具現した狂気に打たれて反応も出来ず、声さえあげない。あれではただ、刈られて死ぬのを待っている藁人形と同じだ。既に死神の間合いに入っている。しかし、あんみつを置いてきたのが残念だな。
「自分の事は自分で!」
 言うなり、お前はニコラスの手を離して、ポケットから外出用の護身銃を取り出した。あれを庇いながらでは動きが阻害されるとの判断だ。私としては、あれも庇ってやりたいが、そんな余裕がないのもまた事実。思い込みや楽観だけでは現実は通らん。しかし、武器が小遣いで買った粗製濫造の安物銃というのが惜しまれる。衣奈の母が保管している品の中には、もっと高性能で高品質な銃があったのだが。
「奴は私の血を浴びてます、ご注意を!」
 ニコラスの体に残る傷がどうしてついた物なのかこれでよく分かった。なおかつ我が盟友を傷つけるとは、よくよく彼奴には報いてやらねばならんようだ。だが、黄金の血を得たとは、面倒な。
 背後から圧力のある風が吹きつける。それは追い風のように背を押すのではなく、足に絡みつくように厭な引力があった。振り返らずとも分かる、死神が、店内を真っ直ぐに突っ切って、こちらへ向かってきたのだ。感じるのはただ無垢な殺意。かつての主を完璧に忘れたと見える。
「ぎじんはいない・ひとりもいない」
「何よそれ?」壊れた録音機と同じだ、気にするな。始めるぞ!「はい!」
「さとりのあるひとはいない」
 ぶつぶつと呟きながら、死神の騎士が疾走し、鎌を振り上げる。
 横薙ぎの鎌が、途中から不意に速度を倍加して叩きつけられる。風塵を巻いて迫るそれをかわし、回避後の身体のバランスを調整。次に備えて攻撃の死角に体を置き、両手で構えた拳銃で狙いを定める。発砲と死神の次の攻撃はほぼ同時。紙一重で亜音速のナイフを避ける。
「ぜんをおこなうものはいない・ひとりもいない」
 当たった銃弾は死神の纏う暗い影に飲まれて消え、まるで堪えた風がなかった。こちらの攻撃力では、不死身も同然のこの異生を仕留めるには火力不足に過ぎる。それ以前に、衣奈の身体能力は圧倒的に死神の相手には足りない。
 私が我が娘に教えたるは、死の舞踏。一歩足を踏み間違えるだけで、たちまち奈落へ突き落とされる、致死の舞い。押し寄せる怒涛の死と破滅の手を取って、軽やかに踊る。動作効率を追求し、身体均衡を徹底し、未来予測を透徹させた、幾何学的合理性の足運びだ。
 だが、これは完成していない。衣奈は動作効率と身体均衡までが今の限界、未来予測はいまだ私の領分だ。高速にして高的中率の予測は予知と化し、我が予言のまま娘は踊り、死をかわしてくるりくるりと逃げ回る。私は次に来る攻撃の種類、角度、瞬間、狙ってくる位置を予測演算しながら、同時に娘の持久力について考える。超高速の死の舞踏は、長くは持たない。
 やがては回避に手一杯になって、銃を構える暇すらなくなり、武器はただの重りと化す。体力、持久力、運動力、反射神経、すべてあちらが上なのは最初から分かっていた。これで、早々に詰みとなるだろう。さて、どうしたものか。
 私がそこまで考えながら何十本目かのナイフを避けた時、目の前に悉黒の刃が出現した。
 光を反射しない暗い金属は鎌特有の湾曲を見せ、その形状自体が自らの意志を持って首を刈ろうとする動きに見えた。お前は全力で両足に制動をかけ、方向転換を強要するが、駄目だ。間に合わん。死神が背後で鎌の柄を引く。黒い刃と白い喉は互いに引き合うように接触した。
(わあ、やっちゃった)
 冷たく熱い、捉え切れないほど強い感覚が細く真横に走る。皮膚が、肉が断ち割られ、絶対の切れ目が深く浸透していく。だが。
(どうせ死ぬなら、お気に入りのワンピース着ていたかったなあ。編み上げのドレスでもいいや。残念)
 なぜそう思う、我が愛しい娘。お前には私がいる。私はお前のために在る。だからお前を護り、育み、導こう。
 故に──お前に死などない。唱えよ、今こそ呼ばわれ、……**********. と。
(何? お父様……聞こえないよ)
 **********. だ! これが私の名前だ。今やまったくもって意味の無い、しかし唯一の鍵、最後の金の鎖だ。我が名を呼べ、我が娘。父はお前のために立ち上がろう。そうすればお前を死の淵から救ってやれるのだ。聞け! 我が娘! **********. だ!!
(そうか)理解。(それが、お父様の名前なのね)
 血が霧のように首筋から噴き出した。骨が外れ、頭が落ちる。殺したな! 我が娘を殺したな、我が騎士よ! 貴様にもはや安息は無い!
(■■■■■■■■■■)
 最後のイチジクの葉が、お前の口から零れ落ちた。さあ、祈るがよい。我こそ魔王、恐怖を教え、悪を見せる。

■四節:「Einst kommt der Tag der Rache! 《報復の日はいつか来る!》」
 死神の鎌に首を刈られて、血の線と黒髪の房で弧を描き、衣奈の頭部が宙を舞った。
「我……がっ、き、み!?」
 愕然としたニコラスの叫びに、衣奈に対する心配は微塵もない。ただ彼は、己が主君を失う事だけを恐れていた。その前に、衣奈の体を素通りして、勝利を確信したような悠然さで、死神が立ち塞がる。後退るニコラスに対し、ゆっくりと距離を詰めるべく歩を進めようとした、その足が止まった。
 表情の見えない無貌の中で、赤く輝く双眸が初めて感情を揺らめかせる。それは、驚愕と戦慄。
 死神の背後に立つ衣奈の首は、繋がったままだった。一筋の赤い線を中心から真横に走らせながら、その上には頭を載せている。だが同時に、その線の細さには似合わぬ太さで、夥しい量の血が流れ出していた。その色は鮮血の赤ではなく、血液の赤黒さでもなく、それを通り越した純粋な黒。
 風に弄ばれる帯のように、ゆるやかな動きで横にたなびく様は、黒い河。
──Kah.
 首の傷口が、開いた。赤い内側から、白い、骨のような物がせり出し、牙のように尖った歯列を作る。上下に大きく開きながら蠢動を繰り返すさまは、かすかに呼吸をしているように見えた。そのうち、中が湿り気で陽光にてらてらと輝くのが見え、唾液を分泌している事が分かる。
──Kah, Kah, Kah!
「ちちもこころ・おののきつ・あえぐそのこを・いだきしめ・からくもやどにつきしが・こはすでに・いきたえぬ」
 死神は気を取り直したのか、再び鎌を振りかぶった。衣奈の上に刃を落とし、頭頂から股間まで一息に抜ける、一部のズレもない一刀両断。衣奈の体は左右に真っ二つ。同じく二つに別れた口はといえば、気にした風もなく歓声をあげた。傷口は、本物の口になったのだ。
『Kah Kah Kah, カカカカカカッ! どうした、マサク・マヴディル、私が怖いか? 貴様の主人が帰ってきたぞ』
 衣奈は、体の中心線にすっぱりとした空白を作られながら、真っ直ぐに立っている。意識などもうないのか、その顔はどこか微笑んで見えた。断面を覗き込めば、そこに彼女の中身がずらりと並んでいるだろうに、血の流れないその体を前にしては、やけに現実味がなく見える。
 騎士が不死身ならば、その主君もまた不死身の道理。
『しかし、今更聖句など唱えてカトリック気取りかと思えば、次は戯曲か。まったく何の道化だ、貴様? お前も所詮は我と同じ、殉教者になり損なった背教者。もし、まだ運命を呪う憎悪を必要とするならば、再び我が軍門に降りてこうべを垂れよ』
──「**********!」──
 日本語で聞き取れば七文字、綴れば十文字の名前を、死神とニコラスは同時に叫んだ。口から出たはずのその声は、だが空気を揺らす事なく掻き消え、それを放った当人達の耳にさえ届かない。思わずニコラスは喉と口を押さえた。
「Warum.《どうして》 ……****. 」
 日本語で聞き取れば三文字、綴れば四文字の別の名前もまた、無音のまま発語を許されなかった。名前を口にする事すら許されない事実に、ニコラスは哀しいような、不安を掻き立てられたような、もっと言えば寂しいような気持ちを感じて押し黙る。胸に入る空気さえ痛いくらいの、そんな気分。
『今更私の名前に、何の意味がある?』
 盟友の表情を見て取って、口が不遜にして不敵な口調で語りかけた。
『我が友、我が名を呼びたくばかつての約束の再現だ。私に力を寄越せ! 汝の魂を我に捧げんとすれば、我が魂を汝に捧げん! 男を殺し女を殺し老婆を殺し赤子を殺し兵を殺し王を殺し、諸々の命と一つになりて、幾千幾万の魂となり、その総身総霊を捧げよ!』
 衣奈の体が、ぎこちなく動いてニコラスの肩を掴み、服を裂いて白い胸を露わにさせた。そこには右胸から脇腹へ斜めに走る、薄い紅色の線となった傷痕が残っている。死神に追いつかれ、その刃に倒れた際の傷。不死でなければとうに死んでいた、心臓をそぎ切る位置だった。
『……それが出来ると言うのであれば、我が罪の使徒として、お前に祝福を与えよう。神も悪魔も天国も地獄も、七七七世界の外に出ようとも、この絆は断つ事あたわず。さあ、これより我が闘争《Mein Kampf》を始めよう!』
 衣奈の、今や魔王に操られる指がニコラスの胸に残る傷痕をそっとなぞる。
「Sehr wohl, mein Herr. 《承知した、我が君》 」
 微笑むニコラスの笑顔の下で、傷痕が再びその赤い口を開き、甘い血潮が噴き出した。不死の魔力持つ黄金の血が、真紅の薔薇の花弁を噴きあげて、霧と散ったようにしぶく。無数に細かく分裂していく雫は辺りの空気を紅のもやに染め、引力を無視して静止した。
 まるで色のついた風のように、ニコラスの血の霧はうねり、マサク・マヴディル目掛けて飛ぶ。かつて偉大なる魔術師だった少年に残された、数少ない超常の技は、その血肉を代償にして発動し、かつての偉業を再現した。死神は鎌を振り上げ、迫る赤い風を頭から両断するが、却って双頭の蛇の形に変わった風に、左右から挟まれるようにして呑まれた。雫の一つ一つに念を込めた重たい呪に晒され、纏う影を吹き飛ばされる。
「Testment!《我、契約せり!》」
 黒い河を連れる少女が、金色の少年に覆いかぶさる。衣奈自身の唇を傷口に受けて、ニコラスの体がぴくりと震えた。蛇のように、左右二つに別れた舌が上下に傷を舐め上げ、唾液を絡めながら血を啜り、縦に裂けた喉を鳴らして飲む。
『Es Sei.《よかろう》 』
 喉に開いた魔王の口が、笑みを含んで言う。死神を飲み込んで、天高く昇っていた赤と黒の竜巻が、中空で止まって雲となった。どろりとした赤黒い雲は、膿を滲ませるかさぶたのよう。一旦安定して塊をなし、わずかな均衡の後、一斉に崩壊し、魔王とその友を目掛けて降り注ぐ。
『Hier bin ich!《我、ここに在り!》 』
 衣奈の髪を束ねるリボンが千切れ飛び、黒い髪が翼のように広がって、ばさりと空気を打った。
 燃え盛る隕石のように、真っ直ぐ降り注ぐ赤と黒の下で、魔王の娘の体から黒い炎が噴き出す。その色は熱い赤でも、眩い金でもない、深淵の暗い黒。まるで地獄の蓋が開いたように、赤の柱から解放された死神を打ち倒し、跳ね飛ばし、激しく地面に叩きつけた。

◆  ◆  ◆

『歓喜の魔王』

 一瞬の静寂の後は、倒れ伏す黒装束の男が残された。だが、ゆらりと立ち上がってなお、白手袋を嵌めた手に携えている長大な鎌は、間違いなく先ほどの死神当人。赤い風に纏っていた影を散り払われ、ようやく正体を──人だった頃の姿を露わにした。
 喪服を想起させる黒いネクタイに白いシャツ。その他は開襟のジャケットに、乗馬ズボンとロングブーツに至るまで、全て黒一色。羽織るコートには、赤い腕章と銀の髑髏がついた制帽。軍服のような衣装には、古典的な死神の道具は奇妙な組み合わせに見えた。
 のっぺりとして彫りの深くない顔立ちの中で、幽鬼のように痩せこけた頬と、刃を埋めたように鋭く細い眼が印象的な男だった。
「思い出すが良い」
 静かな男の声に、死神の騎士は顔をあげる。
「己が何者であったか、己のあるじは誰であったか。思い出すが良い……その毒にまみれた魂を辿って」
 貧血に体を弛緩させたニコラスの頭を膝に載せ、とぐろを巻いた黒い大蛇の頭頂に、コートを羽織る一人の黒い男が腰掛けていた。黒にして黒の闇、悉く黒き洞の色。悉黒の中に黄金の煌めき持つ、猫の目のように爛々と輝く闇。燃え盛る暗黒の炎が、人の形をしてここに存在している。
 緩やかな波を描きながらたなびき、はためく豊かな髪は、衣奈のそれが小川に見えるような黒く荒れ狂う大河。彫りの深い顔立ちは欧州人のものに違いない。鼻の下と顎に髭を蓄え、どこか無慈悲で恐ろしげな表情に配置された部品は、一つ一つ見て取れば美麗な物とは言いがたかった。
 だが、全体としてみれば心を吸い寄せる異常な重力を持った、異相の容貌。絵のモデルにするには甚だ不向きの相であるが、かつて十五歳の少女だったこの魔王に、いまや麗しさの類いでの評価など無用。ただ、剛力であれ。
 鉄のように動じない静けさと重さを持った声で魔王は騎士の名を呼ばわる。かつて使われた呼び名、氏名に限らず、彼を揶揄したあだ名や蔑称から、正式な称号まで全て。かつての臣下にもとの正体を取り戻させるために。
「人間嫌い! 菜食主義! 死神! どぶ川! 神の屑箱! 深淵! 鬱病! 厭世家! 慈悲と智識の間の裂け目! 断られて失敗した場所! 落伍者達の挫折の場! 絶対なる袋小路! 汝──我が第十の騎士マサク・マヴディルよ! 我はお前の刃と死を操る業を快く思い、お前もまたよく我に仕えてくれた。だが」黒曜のごとき双眸が爛と輝く。「許せぬ」
 魔王はコートの内側から、するりと長大な両刃の剣を取り出した。中世の戦場で使われたような両手持ちの長剣は、光をまったく照り返さない黒い金属で出来ており、死神の鎌のそれよりなお闇に近い印象。ただ、その刀身には七つの目玉が開き、じっと逆臣を睨みつけている。
「我が愛娘と我が盟友を傷つけたその報い、とくと黒い血と涙で購うがいい」
 黄金の血にて現世に顕現した魔王は、力の源とする命を殆ど持たない。衣奈の体を借りている時点ですでに二度殺され、その分余計に消耗していた。だが、元来なら騎士が持つ魂は、辿れば魔王が持つ魂でもある。魔王自身の死によって正常に機能していなかった魔術縁はニコラスによって是正され、怨霊と化してからのマサク・マヴディルが刈り集めた魂魄数百が強制的に譲渡されていた。力を一時的に取り戻すには充分な量。
「さあ、祈るがよい。我は我がままに、主としてお前を祝福しよう、くれてやるのはそれだけだ。安らぎなど与えぬ、自由など与えぬ、天国でもなく地獄でもなくその間の地上でもなく、お前は我の中に封印され、我の思うままに戦い、我の望むままに死ぬ。それが全てと知れ」
 蛇のとぐろの内にニコラスを預けて、腰掛けから降りる。貫けとばかりに、大地に剣を突き立てた。地を覆うアスファルトは、中に通る血管が切れたように刺された箇所から黒い影を滲み出し、それは独自の意志を持って津波のように死神の足元へ伸びる。
「かれらのあしはちをながすのにはやく・かれらのみちには・はかいとひさんとがある」
 枝分かれし、触手のように群がる影に向けて死神の騎士は数本のナイフを投じた。舗装された道路を穿つが、影は消えない。足元を浸し、二次元から三次元へ顕現する触手が鋭い杭になった。一斉に、腕を足を腹を腿を腰を肩を掌を目を喉を貫き、抉り、串刺しにする。
「それがどうした、お前は蟲か抜け作か。ただ一方的に踏み潰されるだけか」
 針のように細い物から、槍のように太い物まで様々な杭に貫かれ、空中に張り付けられた様は、祭壇の供物のごとく。奇妙な方向に無理やり捻じ曲げられた手足は、ついに大鎌を取り落とし、虚ろに視線を泳がせる。完全に詰みとなった状態の騎士は、茫洋とした口調で魔王に答えた。
「しかし・わたしはむしであって・ひとではない」
「この、たわけの腑抜けが! 貴様如きに七つの悪の剣が敗れるとでも思ったか!? だが貴様はあの黄金を一度は殺したのだろう? その血を取り込み、幾千の魂を喰らいながら、この体たらくは何だ? 貴様、それでも我が騎士か!? 恥を知れ、屑箱の死神《マサク・マヴディル》!」
 屑箱の答えは、あくまで要領を得なかった。
「しゅがめいじられたのでなければ・だれがめいじて・そのことのなったことがあるか」
「貴様の主は聖者ではない。そして我が配下に腑抜けはいらん。豚に食われろ」
 死神の胴を刺し貫いた数本の影杭がぐにゃりと変化し、体内に潜るとミニチュアサイズの黒い豚の首になった。マサクの腹を食い破り、白い腸を食《は》みながら鳴き声をあげる。残飯を貪るように、ぶちぶちと音を立てて臓物を咀嚼するその額には『sechst Todsu(e)nde ist der Fresserei.《第六の大罪は暴食である》 』という焼印があった。苦痛にがくがくとマサクの体が揺れ、痙攣し、声にならない絶叫で空間を震わせる。
 叫びに呼応するように、千々の臓物の奥から火が熾った。血と肉を撒き散らす代わりに、爆散するように炎を四方に溢れ出させ、跡形もなく騎士の実体を木ッ端微塵に吹き飛ばす。炎の色は熱い紅蓮ではなく、深淵の暗い黒。中心部の熱が高い部分は、まばゆい金色ではなく、冷たい銀色。
「我が手にて油注がれし者よ、死して聖者の列に加わるなかれ。呪われた者よ、永久に下僕として我が元に繋がれるべし」
 炎の中に散る、赤黒い泥のような死神の涙を受け止め、握った手の中で蒸発させながら、魔王は静かに終幕を告げる。生ける者のいなくなった駅前の通りは暗黒の炎に包まれ、そこだけ夜になったような様相を呈した。

■章終:「Mit uns ist Gott im Bunde. 《神は我らと共にあればなり》」
 交差点でマサク・マヴディルが起こした大量殺人はニュースで大々的に取り上げられていた。この虐殺は交差点から駅方面へ続いており、駅前で終着している。恐らく現場に行き遭って命があった者は、我々の他には誰も残ってはおるまい。形骸化しているとはいえ腐っても警察、目撃されて事件関係者として拘束される前に、我々は早々に現場を退去して衣奈の自宅に戻ってきていた。
 私は今再び、我が娘の裡にいる。黄金の血と娘の死は一時的に私を現世に顕現させたが、完全に解放されるには、歯車の狂った術の是正が必要だ。それには、まずニコラスが力を取り戻すのを待たなくてはならない。満願成就の日は遠いが、騎士の一がこうして我が元に戻ったのはまことに重畳。よい手駒として存分に使ってやろう。いずれ他の連中も卿に追いつくだろうからな。
「そうしたら、またこんな事件が起こるんですね。マサオって言ったかしら、派手なことしてくれちゃって、もう」
 マサオ……ヘブライ語が日本男子名のように……まあ構わんが。
「我々を括った術は、元々一揃いで機能する物だからな。私と我が君を含む十三の黒い魂をまず揃える事が必要だ」
 だから我々は、これから街に現れる騎士を打ち倒し、再びこうべを垂れさせる必要がある。その時はまた、ここも修羅の巷となるだろうがな。
 彼奴ら騎士はまともな理性もなく、人を殺して魂を喰らい、目的もなく彷徨う怨霊だ。彼奴らが幾人殺そうが我には埒外の話だが、余計な連中の注意を引く事だけが気になるところだな。まあ、マサクはよくぞ今まで世界政府に捕まらんかったのが不思議だが。
「それにしても、ニコ」我が娘が意地の悪い笑みを向ける。「あんた、せっかくの着替えが不満そうね」
 破れたワンピースから着替えたニコラスは、憮然とした顔で正座していた。はは、そう渋い顔をするな、我が友。我が娘が新しく見繕ってきたその服、赤いチェックのジャンパースカート(リボンとフリルたっぷり)も中々似合っとるぞ。ハート型のポケットのアクセントがまた。
「いつからそんな薄情なロリコンになられたのですか!?」
 誰がロリコンだ、どこぞの虎頭じゃあるまいし。いやまあしかし、卿は昔からからかうと面白かったからなあ。私以外の者がやると腹が立つが、我が娘がやるぶんには、うむ、まあ良かろう。心開き、身を楽にして受け入れるが良い。
「そうそう、あんたは居候として私に養ってもらわなくちゃならない身なんだしね。パパとママは滅多に家にいないから、何とか誤魔化せるし。言わばあんたは、私に生殺与奪権を握られた犬猫も同じ! その服が気に入らないならお脱ぎ、泣いて謝るのが気持ちよくなるまでいじめてあげるから!」
「やめろ、この性犯罪者ー!」
 裾を掴んでめくろうとするお前の手から、ニコラスは必死で逃げ回る。
「逃げるな逃げるな、熱いお風呂に手錠と重り付けて沈めた上で、一万まで数えさせるわよ~っ」
 我慢しろニコラス。本当に危険な時は助け舟を出してやろう。ただし口先だけ。激辛の料理を食べさせられない限りは。
「……~っあなたはいつもそうだぁ!!」
 私にとっては甚だ懐かしい絶叫を放った少年を、お前は後ろから羽交い絞めにした。こうなると体格と腕力の差でニコラスはなすがままにされるしかない、行き先が風呂にしろ女性服飾店にしろ、抵抗は無意味だろう。うむ、祈るがよい。
「お前もいつか、私を心の底から衣奈様と呼ぶようになるわ……」
「なって堪るかああっ!」
 さらば我が友、私の平穏のためにも是非我が娘と遊んでやってくれい。


了   

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