『陽炎の夏 第六回』

『陽炎の夏 第六回』

著/芹沢藤尾

原稿用紙換算35枚


 春の陽気などという朗らかな言葉を使うには、あまりに熱い陽射しが照り付けていた。
 甲子園駅から溢れてくる人ごみに揉まれて改札を潜った直樹は、飲まれるままに人波を泳いでいた。
 甲子園に一度も興味を持ったことがないという、およそ球児らしからぬ直樹ではあったが、人の流れに逆らわずについていけばそのうちつくだろうと、かなり楽観して電車に乗り込んだ。とはいえ、実際にその通りに甲子園についてしまうと、人生というのは何とかなるように出来ているのだな、と妙に達観した思いにかられてしまうのだから、不思議なものだ。
 当日券を窓口で買い、なぜかプロ野球チームの野球帽をかぶった家族連れの後ろに並んで場内に入った。
 一塁側の明口学園のスタンドには、すでに準備万端で構えている応援団や、ベンチに入ることが出来なかったユニフォーム姿の野球部員、さらには彼らの家族や学校の関係者らしき人たちで溢れ返っていた。
 試合のよく見えそうな席はすでにほとんど取られていて、少しでもよく見える場所を探そうと辺りを見回したが、残っているのはほとんどクズ席ばかりだった。
 いっそこのまま立って試合を観戦しようかと思った直樹は、バックスクリーンを眩しい思いで見上げた。
 春のセンバツ高校野球、「春の甲子園」決勝戦。全国から選ばれた三十二校で行われるこのトーナメントを勝ち上がった二校による決勝は、もうあと二十分ほどで開始される。
 夏の甲子園に比べれば、世間での印象度はお世辞にも高いとはいえないが、それでも、甲子園に憧れる球児たちにとっては、なんら夏と変わらない。まさしく高校生活をかけるにふさわしい、重要な大会である。
 その大会の決勝に駒を進めたのは、下馬評どおりの強さを見せ付けて勝ち上がってきた、前年度夏の覇者である稜蔭学院と、それすらも上回る圧倒的な勢いで勝ち上ってきた、地域大会優勝校である明口学園だった。
 アルプススタンドを抜ける風に打たれながら、直樹は自分でも意外なほど落ち着いた思いで、バックボードに発表されたスターティングメンバーに目をやり、そこに映し出された北村俊哉の名前を見つめた。
 感慨がなかったわけではない。だが、それを見る自分の心に予期していたほどの、憎悪や嫉妬といった感情が浮かばなかったことに、わずかながらに驚いた。
 思えば、こうして観客として北村俊哉の試合を見るのは、はじめてだった。小学生の頃、お互いにいがみ合いながら競い合っていた頃でさえ、直接相手の試合を見ようとしたことは一度もない。それがこうして、意味も打算もなく球場に足を運んでしまったこと自体、自分が昔とは違うものになってしまった証明なのかもしれない。
 そのことを考えると、胸が痛む。
 忘れていたわけでもなく、そうすることが許される思い出でもなかったが、それでも、目を背けていたい誘惑にかられる時がある。
 あるいは、許されたかったのかもしれない。
 球場を見回した瞬間、直樹は自分が北村俊哉のほかに、馴染みのある少女を探していたことに気がついた。
 莫迦な話だ。自嘲してマウンドを見下ろした瞬間、甲子園特有の低く唸るようなサイレンが球場を震わせた。
 それが、昨年秋から続けられてきた約半年にわたる、球児達唯一の勝者を決める戦いの合図だった。
 
 一回の攻撃は、両校とも三者凡退で終了した。
 続く二回、明口の攻撃は再び三者凡退であっさりと終わった。四番バッターの相沢のバットが鋭い金属音を上げ、そしてその打球がバックスクリーン手前で失速してセンターのグラブに収まった時には、甲子園球場に詰め掛けた五万人の観客は、一斉に歓声と落胆をかき混ぜてぶちまけるという離れ業を難なくやってのけた。
 それが合図だった。二回の裏に北村俊哉がマウンドに登ったとき、甲子園は緊迫から解き放たれ、ようやく本来の賑わいを取り戻そうとしていた。
 先頭バッターの四番をストレートの三球三振で切り捨てた北村に、観客は惜しみない拍手を送り、バックスクリーンの速度計に映し出された百五十キロの文字にどよめいた。
 早いテンポで、速球と高速スライダーを投げ次々と三振を取っていく北村は、丁寧な投球で打者を打ち取っていく稜蔭の投手とは正反対であり、その分かりやすい構図の投手戦は、よりいっそう観客を引き付けた。
 続く三回も、両校は正反対の内容で攻防を三人で締めた。緊迫した試合に変化が訪れたのは四回の裏だった。
 マウンドに立つのは、依然として明口のエース北村俊哉。彼はこの大会で、前評判では格上であった稜蔭のエース青柳を圧倒的に上回る三振を奪いながら、それと同等の四球を与え、その強大な才能を荒削りのままに、一気にスターへの階段を駆け上がろうとしていた。
 そのエースが、急に崩れた。ボール先行で〇-二とカウントを打者有利にしてしまうと、甘く入った変化球を、先頭打者にあっさりと返された。続く二番打者にヒットエンドランを決められ、無死一、三塁になった。
 バッターボックスには、打撃センスに関してはプロ並みと評判高い東原が入った。不運にも左バッターである。彼の打球は浜風に押し戻されたが、犠牲フライであっさりと稜蔭は一点を先取した。
 マウンド上の北村は、観客席から見てもはっきりと分かる、苦虫を噛み潰したような顔でマウンドを蹴り上げた。
 両校はどちらも打撃のチームといわれていた。それぞれに優秀な投手を要してはいたが、決して層が厚いわけではなく、その投手が打ち崩されたときには、それに代わる保険のようなものは、自軍の攻撃力以外には期待できない。
 周囲の予想は、一点ゲームの投手戦になるというものだった。本人も当然そのことは耳にしていただろうし、そうなれば制球力に難がある自分の方が不利になるだろうとも考えていたはずだ。それが、あっさりと先取点を奪われてしまった。
 ここで次の相沢をあっさりと出すようだと、試合はほぼ決まりだな。
 でもまだ分からんぜ。あのピッチャー、意外と度胸が据わってる。
 この状況で変化球で逃げずに、真っ直ぐで勝負するとはさすがだよなぁ。
 でもよ、次の沢村がホームラン叩き込んだら、三点差だぜ。
 いや、投手戦は気の緩んだ方が負ける。いくら点をもらったところで、そこで安心したら、あっという間に火達磨だぜ。
 おまえバカだな。稜蔭のピッチャーは西山だぞ。防御率一点台のピッチャーが、この大一番で気を緩ませるかよ。
 遠くのマウンドでセットポジションに入る北村を眺めながら、前の座席に座っている男達はそんなふうに話し合った。
 スポーツドリンクを口に含みながら、直樹はマウンドに立つ北村の背中を見ていた。
「なかなか厳しい場面よね」
 背中に聞こえた馴染みの声は、その言葉とは裏腹に明るいものだった。
「そうだな。あの馬鹿、一点取られたくらいでイラついてやがる」
「貴方なら、こういうときどうする?」
「後続を併殺して終わらせるな」
「簡単に言うのね」
「ダブルプレーは計算してやるもんだ」
「それが出来ないときは?」
「確実に一つずつアウトを取るんだな。あいつならそう難しいことでもない」
「そうね。ところで、となりいいかしら? いい加減、立っているのも疲れたんだけど」
「好きにすればいいさ。ここは天下の自由席だろ」
 椅子の上でわずかに腰を引いて、彼女が通れるよう道を空けた。
 ありがとう、とさりげない仕草で頭を下げた橘葵は直樹の前を通ると、そのまま隣の席に腰を下ろした。
「今日は学校がないのに、制服姿なのか?」
「学校の人たちと一緒に来たからね。さすがに私服で、ってわけにもいかないわよ」
「てっきりベンチにいると思ってた」
「私もそうしたかったんだけど、あいつが嫌がるのよ」
 苦笑して、彼女は白い手で北村を指差した。
「スタンドにいてくれるほうが、力が出るんですって。変な話よね。愛しの彼女様に、わざわざ遠くから見ていてほしいなんて」
 クスクスと子供のような忍び笑いを漏らしながら、彼女は透き通るような眼差しをマウンドに向けていた。
 それが北村への信頼の証明であるように、直樹には映った。そして、それこそが北村俊哉の、強さの原動力であることを思い知った。
「なるほど。あいつはプロに行ったほうがいいな」
 観客に見られることで実力を発揮する。それは得がたい天性だ。おそらく彼が持っているフィジカル的な才能よりもはるかに重要で、そしてそれこそが北村俊哉という男の、スター性の原点だろう。
 プレッシャーをねじ伏せ、観客の思いを力に変える。一握りのプロの中にあって、さらにごく一部の者だけが持ちうる華が、北村にはある。
「それなら、こんなのはたいした問題じゃない。あいつなら何とかするさ」
 一切の世辞もなく、言い切った。本心そう思っていたし、隣で座る橘も、それは同じはずだった。
 実際にグラウンドの中で戦う選手達の方は、外野の観客よりもよほど冷静だった。彼らからしてみれば、この程度のピンチはこれまで何度も経験済みだったのだろう。明口の選手達は、誰一人マウンドに集まろうとはしなかった。
 それに応えるように、北村は次の打者に対しても、それまでと同じピッチングを貫いた。
 左打席に入った稜蔭の四番に、これまでどおりのストレートの真っ向勝負を挑んだのだ。
 ライト方向に引っ張ろうとしたバットが北村の剛球に押し負けた時点で、勝負は決まっていた。
 マウンドとバッターボックスの中間ほどで一度跳ねた打球は、北村の頭上を越えたところでショートのグラブに吸い込まれる。ショートの選手は自分で二塁を踏むと、そのまま一塁に向けて送球した。
 その流れるようなグラブ捌きに、外から見ていた直樹は思わず感嘆のため息を漏らした。そして、もし今雪乃華のナインに同じことを要求したら、少なくとも二テンポは遅れた動きになっていただろうなと予想した。
「なかなかいい動きだな。おまえらのチームは、打撃のチームだったような気がしたけど」
「今日は投手戦になるとは予想されていたからね。守備重視の陣形よ。背番号見てないの?」
 言われて、直樹ははじめて内野陣の中に、背番号一桁がいつもの半分しかいないことに気がついた。
 背番号が一桁なのは投手と捕手、それに一塁の選手だけで、動きが多い二、三塁それに遊撃はいずれも背番号二桁だった。
「層の厚さをいいことに、今日は守備重視の陣形できたってわけか。おまえらの監督も勝負師だな」
 昨今の打高投低の主流に違わず、明口も本来は打撃のチームだ。事実、彼らはこの大会に入ってから、七点以下で試合を終えたことがない。無論、彼らの守備力はセンバツに選ばれるのにはなんら不安のないものであったが、今日は投手戦を予想して、布陣をいっそうの守備重視に変更してきたというわけだ。だが、そんなギャンブル染みた采配を、よりにもよって全国大会の決勝戦で行えるような監督など、ほとんどいない。だいいち、攻撃力を売りにして勝ちあがってきたチームが、決勝戦でスタメンを外してまで守備重視に変えた挙句、負けたりなどしたら、監督へぶつけられる非難は相当なものだろう。
「でも、攻撃力がそれほど下がったというわけではないわ。下位打線が若干弱くなったという程度よ。四回で一点なら、まだまだ許容範囲のうちよ」
「だけど、このまま負けちまうこともありえるぜ」
「大丈夫よ。そうはならないわ」
 確信に満ちた思いを言葉に乗せて、橘葵は直樹を正面から見つめた。
「俊哉は、私の期待を裏切らないもの」
 その言葉に、直樹は二年前に自分が下した残酷な決断が、彼女にとって間違いではなかったことを思い知った。
 そして、自分がそれまでの彼女との関係を一方的に打ち切った日が、今日とは対照的な、雲に覆われた薄寒い日だったことを思い出し、ひそかに感傷に浸った。

 小学生時代から続いていた、竹井直樹と橘葵の幼なじみという関係が崩れたのは、彼らが中学二年生の秋のことだった。
 秋の大会をベスト四という上々の成績で終え、来年に向けての飛躍を誓った野球部を襲ったのは、部活顧問による援助交際斡旋と、野球部の男子部員数名がそれに携わっていたという、部そのものが消し飛びかねないスキャンダルの発覚だった。
 きっかけはつまらないものだった。放課後の体育館倉庫で一年の女子マネージャーと乳繰り合っていたところを警備員に発見された顧問が、もみ消しに失敗した挙句に余罪をはかされるという、ありきたりな事件だ。
 ありきたりですまなかったのは、学校側の対応の早さだった。援助交際斡旋と男子部員の関係をもみ消す為に、顧問教師と女子生徒の不純異性交遊発覚と、その女子生徒が野球部員であったことを理由にした野球部の一年間の活動停止という処分を自ら連盟に言って出ると、それ以上の追求を封じて、教師全員に厳しい緘口令をしいたのだ。
 二年生だった直樹たちは最後の一年を受験勉強に費やすことになったが、納得がいかなかった直樹は金属バットを持って校長室に殴りこみ、そこで処分を言い渡された元部活顧問に殴りかかった。
 顔面を狙った一撃目が外れた時、元顧問の頭蓋骨の代わりに、校長室の机に置かれていた高価なスタンドが木っ端微塵に砕け散った。
 青ざめた顔で凍りついた校長と教頭の横で、直樹は再びバットを天高く構え、這いずり回って逃げる元顧問を追い回すと、後頭部目掛けてバットを振り下ろした。
 殺すつもりで叩き込もうとしたし、実際に当たっていたら、殺していたかもしれない。現実にはスタンドが砕かれた音で飛び出してきた体育教師に取り押さえられ、元顧問は事なきを得たが、直樹はその場で野球部を追放された。そしてその日を境に、直樹は野球から離れることになった。
 彼にとって不幸だったのは、学校側の対応が早すぎたこと、それにもかかわらず、悪い噂は世間に広まりやすいという特性だった。表向き、野球部の活動停止は顧問と女子マネージャーとの不純異性交遊だったが、それだけであるはずがないという噂は、周囲に当然のように蔓延っていた。そして、援助交際斡旋の噂と、それに一部の男子部員が関わっていた噂が重なったとき、容疑者の最有力候補は、部のエースである直樹だった。
 他の野球部員は部活そのものの活動停止によって白黒を付けかねていたが、直樹だけは野球部追放という明確な処分が下されていた。その為、周囲は直樹の行動を『野球部のスキャンダルに関わっていたエースが、事件発覚で混乱して口封じしようとした』と邪推した。だが、直樹はその噂を自分から否定しようとはしなかった。
 胸に溜まった黒い気持ちを吐き出すように、一日中架線下で球を放り続けた挙句、肘を壊してしまった彼には、もうそんな気力は残されてはいなかったからだ。
 何もかもがどうでもよくなっていた。
 信用していたチームメイトに裏切られたことで人間不信に陥っていた直樹は、差し伸べられた橘葵の手を、盲目的につかんでいだ。
 温もりがほしかった。ありふれた言葉で飾るなら、そんなところだ。
 ずっと前から好意を寄せられているのに気付きながら、野球にかまけてまるで見向きもしなかったくせに、その『ずっと前から』というところに縋り付いて、誘われるままに彼女を抱いた。そして腐ったまま、相手の気持ちに心から応えることもせず、一年以上もそんな関係を続けた。
 今振り返ってみても、腐っていたと思う。
 北村俊哉がそんな関係をどうにかしようと、何度も彼女を説得しているのも見てみぬフリをした。それで離れていくようならそれでもいいと思っていたし、それが出来ずに自分に向けられる、北村の怨嗟を暗い気持ちで嗤って受け止めるのも心地よかった。
 それが変わったのは受験を迎え、秋も暮れようという、十月の終わりだった。
 厚い雲に覆われた、冬を思わせる肌寒さが身を刺していたその日、校門の前で必死に橘葵を説得する北村俊哉という、もう見慣れてしまった光景を目にした。
 体育会系で葵よりも十センチほど背の高い北村は、わずかに身を屈め、必死に葵を説得した。細かい話を聞くことはできなかったが、きっと彼らしい正論と、誠意を込めた想いを口にしていたのだろう。それを知りながら、うつむき黙って話を聞いている彼女は、その想いを受け取りつつも返事をしかねているようだった。
 そのまま見ているのも飽きたので、いつものように北村の邪魔をしてやろうと二人に近づいた直樹は、そこではっと顔を上げた北村と目が合った。
 そして、直樹の下に駆け寄ってくる橘葵を見送る彼の瞳の中に、自身への無力感に刻まれた瑕を見てしまったとき、ああ、この関係は終わらせなくちゃいけないな、と唐突に思ったのだ。
 良心に目覚めたというわけでも、その呵責に苛まれたわけでもなかった。ただそうすることが自分に出来る唯一の償いだと思い、そのために出来る限りの最低な人間になろうと決心した。
 北村俊哉が明口学園に特待生として入学することが内定していることを聞き、自分も明口を受験すると葵に話を持ちかけた。あるいは、葵もそのときに終わりを予見していたかもしれない。彼女は何も言わずに明口学園への願書を書いた。
 二人の関係は、それで終わった。
 直樹は明口学園の受験日に雪乃華の試験を受け、葵からの電話を着信拒否の対象にすると、そのまま卒業式まで一度も学校には行かなかった。そしてそのまま、直樹は葵に会おうとは一度もしなかった。
 それが、もう二年も前の話だ。

 試合はその後、再び膠着状態に陥った。四回に一点が入って以降、八回にまで稜蔭はわずか二本のヒットに押さえ込まれていた。対する明口は毎回ヒットを打つものの、いずれも散発で、決定的なチャンスを造れないままに回を消化していく。
 明口は、このまま九回を〇点に抑えても、裏の攻撃で点を取られなければ、そのまま負けが決定してしまう。
 さすがに不安になってきた観客席から、監督への野次が飛び始めたのは七回が終わった辺りだった。
 なぜいつものメンバーで臨まなかったのか。
 どうしてランナーが出た時に代打を送らなかったのか。
 このまま負けたらお前の所為だ。貴様の采配が悪いのだ。
 祈るように手を組んで涙ぐむ生徒達の横で、その親達が口汚く野次を飛ばしている様は、見苦しくもあり、人生の縮図のようでもあった。
「苦しい場面ね。このまま負けるかしら」
「苦しい場面だが、お前はそう思っていないみたいだな」
 何時の間にか身体を倒して試合に見入っていた直樹とは対照的に、隣の席で橘葵は膝の上に手を乗せ、綺麗に背筋を伸ばしたまま、微笑みさえ浮かべていた。自分の恋人がきっちりと仕事を仕上げたにしても、そこまで自信を持って試合を観戦できる女の神経が直樹にはまるで理解できない。
 そのことを訊ねようかどうか迷っていると、歓声と怒号の中を澄んだ金属音が切り裂いた。
 一累側の観客席が総立ちになった。視線が一斉に、バックスクリーン目掛け飛んでいく白球に向けられる。
 先ほどまでと対照的に、一斉に頭を抱えて蹲る三塁席の観客を尻目に、自らのバットで試合を降り出しに戻した北村俊哉は、バックスクリーンで跳ねた自身の打球を見送ると、二塁上で右腕を突き上げた。
「だって、きっとこうなると思っていたしね」
 少女のように無邪気な笑顔の内に、勝ち誇る女の表情を覗かせて、橘葵は静かに呟いた。
「言ったでしょう。俊哉は、私の期待を裏切らないって」
 確信に満ちたその言葉に胸がえぐられるが思いした。おそらくは、彼女も分かって言っているのだろう。
 こんなにも近くから見上げた彼女の表情は、別れを決意させた、いつかの日を思い起こさせた。
 一度降り出しに戻された試合は、あっけなく終わりを迎えた。
 下位打線に入って気を取り直そうとした稜蔭のエースを畳み掛けるように、それまで温存していたスタメンを次々と代打で送り込んだ明口は、そのままあっさりと一点をもぎ取って、サヨナラ優勝を決めた。 
 歓喜の渦にいいように巻き込まれている明口スタンドの中で、竹井直樹と橘葵の二人だけが、場違いなほど落ち着いた面持ちで、整列する両校の選手達を見送っていた。
 泣き崩れ、チームメイトに支えられるように列に加わった稜蔭のエースとは対照的に、北村俊哉は胸を張って整列した。
 それが、明口学園が夏の覇者を下して全国四千余校の野球部の頂点に立ち、そして北村俊哉という一人のスターが、日本一の投手になった本当の瞬間だった。

「それじゃあ、ここでさよならね」
 閉会式を終えて各々の出口からグラウンドを去っていく選手達の姿を見届けると、橘は席を立った。
「北村に、いい試合だったと、伝えてくれ」
「貴方にそう言われたら、俊哉も喜ぶでしょうね」
「まさか。怒り狂うの間違いだろ」
「そんなことないわよ。あいつ、今でもあんたのことライバルだと思っているんだもの」
 それはなかなかに気の利いたリップサービスだな、と直樹は苦笑した。
 橘は不満げに口を曲げたが、続々と引き上げていく観客席の流れに引き込まれるように直樹の前を通ると、通路の途中まで歩いていき、思い出したように振り返った。
「そうだ。今度この前の女の子紹介してよ」
「……?」
「ほら、クリスマスの時に一緒にいた女の子。下着売り場の」
 色恋話の好きそうな、久しぶりに見る女子高生らしい悪戯な笑みを浮かべた。だが、直樹はそれに答えることはせず、気まずそうに視線を逃がした。
 美術部部長である中嶋からの要請を理由に、助っ人マネージャーの職を解いて以来、直樹は黒沢夏樹とは一度も顔を合わせていなかった。正規マネージャーの望月は仕事が増えたといって何かと文句を言ってくるが、彼女が本来美術部の特待生であることを知る級友は、ことさら声を大にして言うこともできずにいる。
 直樹の変化に気付いた橘は、怪訝そうに首をかしげた。
「なに、あんた達別れちゃったの」
「違う。そもそも付き合ってたわけじゃない」
 あの日は、たまたまだ。取り繕うように続けた彼を見る橘の瞳に、冷ややかな線が通った。
「なんだ。付き合ってたんなら、面白かったのに」
「俺にそんな資格ないって、分かってるだろ」
 言った瞬間、しまったと思った。彼女との関係をなかったものにしたのなら、ここでそれを掘り返すことはするべきではなかったのだ。
 慌てて言い繕おうとして、すぐに諦めた。とっさに合わせてしまった視線の先で、橘の瞳が黒く沈んでいた。
「本気で言ってる?」
 何もかも見通しているような、嘲笑が浮かぶ。
「だとしたら、なんだよ?」
 返した答えは、震えを抑えるのに必死だった。その裏側さえも見透かしたように、
「すこしだけ、妬けるかな」
 橘は表情を緩めて呟いた。
 どういうことだ、と訊き返すより先に、彼女の姿は人波の中に消えていた。


(つづく)   

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