『NesT TriaL Version』
たった一夜。たった一夜のうちに、あなたの現実は崩壊した。
スクランブル交差点の真ん中でじっと空を見上げているシニアがいる。
青空があまりにも美しかったから立ち止まった。そんな感じ。シニアは見事に蓄えたあご髭をしごきながら、くるくると表情を変えている。
そんなシニアの姿が気になってしょうがないあなた。
あなたは好奇心に勝てず、シニアに声をかけてしまう。
「なにを見てるんですか?」
すると、シニアは髭をしごいていた手を柔らかく掲げた。
「雲です。雲を読んでました」
たしかに空には綿のような雲がもくもくと浮いている。だけど、〈読む〉というのが分からない。
あなたは首をかしげた。
「雲って一見複雑そうですが、雲の〈もと〉はというと、非常にシンプルなんです。そしてそれが外因と交わることで様々なバリエーションを作り上げる。環境が個を作るという意味では人間も同様です。つまり雲を読むとは、人間の一代記を読むということなんです」
「はあ……」
あなたはやはり首をかしげたまま雲を指す。
「じゃあ、あの雲も?」
「あれですか? あれの〈もと〉は……わたしにそっくりですね」
「へぇ、なにが書かれていますか?」
「トラックに敷かれて死ぬ、と書かれています」
──ああ、なるほど、と呟くあなた。すぐさまシニアの手をとると、交差点を一気に渡る。信号は赤から青へと替わり、先ほどまでシニアがいた場所を大型トラックが猛スピードで走り抜けていった。
「命を粗末にしちゃいけない!」
あなたは声を荒げる。
するとシニアの口からくぐもった笑いがもれた。
「どうやったって筋書きを破ることは不可能です。セツでもない限りは」
あなたはあきれ果てた。そしてシニアから立ち去ろうと背を向けかけた。
瞬間。
空から大きな〈音〉が降ってきた。あなたはつま先から頭まで、ぐわぁしゃんっ! という音に飲み込まれた。同時に視界をもふさがれる。
それから。
シニアがトラックの下敷となってしまったことに気づくのに、およそ三十秒。
さらにもろもろ合わせて計三分ほど。あなたはその場で固まっていた。
頭上あたりには高速道路が走っていて、その側壁の一部が抉られなくなっていた。
シニアの雲はすでに拡散し、消えうせていた。
あなたは飛び起きる。
息が荒い。心臓がばくばくと音を立てている。乱れ散り散りとなった心が、月明かりに照らされる。あなたはそれをかき集めながら、今がまだ夜中であることに思い至った。
しんとした六畳ほどの仏間。ここは父方の実家であり、家族で訪れる際は決まってこの部屋で雑魚寝をする。
ふと、りん……という鈴の音が障子の向こうから聞こえた気がして、あなたはそちらを見やる。
そこにはシルエットがひとつ、障子紙に浮かび上がっていた。
あなたは枕元にあった眼鏡をかけると、それを観察する。
毛羽立った雪だるま。そんな感じのぼやぼやしたシルエット。だけど、その輪郭のあいまいさは、繊維的なほつれではないように見えた。
あなたはさらに観察を続ける。
雪だるまは、大小様々なひっつき虫がびっしり規則正しく並べられているようにも見える。さらにそのひとつを詳しく観察してみると、棘の先端は絡み合った薇《ゼンマイ》のような形をしていて、葉に当たる部分はまるでドレスを着た少女たちが螺旋状に延々と手をつないで〈かごめかごめ〉をしているようにも見えるけど、その中心にいるのは雪だるまであって、その輪郭にはやはりひっつき虫やら薇やら〈かごめかごめ〉をする少女たちがいて、しかも少女たちにあしらわれたリボンの先には鈴がついているので、少女たちが一歩踏み出すのとともに、りん……という音色を響かせるのだけど、そのボリュームは雪だるま式に増幅され、ついには地面を揺るがすほどの轟音となり、あなたは今しがた見たトラックの夢でも思い出したかのように絶叫した。
「ぅわっ!」
自分の声であなたは目が覚める。
少女が、心配そうにあなたの顔を覗き込んでいる。彼女はリグレット。中学時代、あなたとひと月だけ付き合っていた女子。
「肇《はじめ》ちゃん、声したけど大丈夫?」と言う彼女に、あなたはいくらか落ち着きをとり戻す。
電車は駅から出発しようと警笛を鳴らしていた。
あなたは小さく伸びをすると、指定席の座り心地をたしかめる。
「うとうとしてたら、電車のベルにびびらされた」
「そう……」
と、うつむくリグレット。彼女のうなじからじわっとした緊張感のようなものが漂ってくる。
あなたはこれからの逃避行に暗い影を落としてはならないと、いっそう気丈に振舞う。
「なあ、それより見てみろよ。いい景色だぜ」
「そう……」
「ほら、あの建物。変わったデザインしてる」
「ふぅん……」
「マジで変なデザインだぜ。多分、黄金比とか無視ってるよ」
あなたは彼女の気を引くためにわざと〈黄金比〉という言葉を使う。
でもそれは失敗だった。おもむろにスポーツバッグを叩きつけるリグレット。バッグは服やマニキュアやビューラーやコンパクトや化粧水や香水や頭痛薬やブーツや手帳やライターやタバコやカントリーマアム、それとたくさんの巻貝を通路にぶちまけた。
あなたは中腰のまま固まっていた。だってこの逃避行の行く先は、フィッシャー邸だったから。それに〈黄金比〉という言葉だって、建築士を目指す彼女から教わった。なのに、バッグの中には定規も分度器も入っていなかった。
あなたは激しく混乱した。ドアの方へ向かうリグレットを追いかける足取りもおぼつかないほどに。
リグレットはドアの前に立つと、目を大きく見開く。そして「なにあれ」と口の中で呟いた。
窓の向こう、オフィス街の一画。そこにロック鳥の翼が幾重にも重なったかのような奇妙な建物。それは生命活動を終えたものが徐々に朽ちていくような、ゆっくりとした時間の中にあった。
リグレットから涙があふれ出した。
あなたはその涙を見極めようとする。
けど、彼女は、ただその場で泣き続けるだけだった。
おせっかい君が大声で朝を告げる。
普段のあなたならここでおせっかい君の頭を叩いて止める。だけど今朝のあなたは、上半身を起こしたまま微動だにしない。おせっかい君も拍子抜けしたのか、ややボリュームを抑えた。
今、あなたが必要としているのはあとわずかの惰眠、ではない。だってようやっと悪夢の王国から解放されたのだから。とはいってもあなたの気分はちっとも晴れない。直前に見たリグレットの夢。これがこたえた。
彼女の存在は、今でも未解決な問題としてあなたの心の奥底でわだかまっている。普段はそれが浮上することはない。だけどあなたの〈ムイシキ〉という悪戯好きは、気まぐれに夢というマドラーでそれをかき混ぜる。
そんな日は……そう、悲劇の主人公みたいな表情で朝を迎えることになる。
それにしても外はいい天気。
けど彼女の存在がふたたび沈殿するまで、あなたの切れ長の瞳がお天道さまをとらえることはない。
「はああぁぁ……」
朝日があなたのため息を青春色に変える。
| トラックバック (0) | コメント (0)
読み終えましたらクリックをお願いします。作者の励みになります。


