『ラストパピヨン』

『ラストパピヨン』

~姉弟が上手くやってのけてる隙に変態がチンピラにボコられた経緯について

著/からすとうさぎ
絵/那須花花

原稿用紙換算45枚


「俺は偽善の国からやって来た偽善の徒ヨハン・ギーゼントだ」
 こいつは何のつもりで自分の邪魔をするのだろう。サキは強く歯噛みした。


 弟のアキが受ける攻撃は、日増しに激しくなっていた。頭上から生卵が降ってきたり、弁当箱が墨汁に浸けられていたり、体育の授業の間に鞄の中身が焼却場で焼かれたり、連中のやることは嫌らしかった。最近では痣を作って帰ってくることも毎日だ。アキは何も言わない。しかし、姉のサキはちゃんと全てを知っていた。アキが小さな頃から地道に貯めていた十数万円の貯金が先日銀行から全額引きおろされたことも、サキは既に確認していた。

 アキが取り返しのつかない傷を負うのは、もう時間の問題だった。十数万という金額も馬鹿にならないが、きっとその程度では済まない恐ろしいことが起こる。それはおそらく、命にまで関わることだ。今日や明日にアキが死ぬとは思わないが、いつか必ずその日は来るのだ。この春は持つとしても、はたして夏を越せるかどうか。遠くないアキの破滅を、サキはほとんど確信していた。

 今日、アキがクラスメイトに呼び出しを受けたらしいと噂で聞いた。アキにはとても不可能な要求が言い渡され、手酷い暴行が加えられるのだと囁かれた。時間は夜方、場所は裏山の麓の寂れた工場跡。人に隠れて何か疚しいことをするのに、これほどお誂え向きの場所もない。今回はもう、痣や捻挫では済まないかもしれない。それはサキにとって、あまりにも確実すぎる危機感だった。

 夕方、アキが家を出るのを確認すると、家族に嘘の行き先を告げてサキも自転車に飛び乗った。呼び出しの時間には少し早いように思ったが、噂など当てにならない。アキを守る、でも一体どうやって? 答の出せないまま、もうとっくに先に行ってしまったアキを追って薄暮れの田舎道を走り続ける。サキには慣れないことだったが、サドルから尻を浮かせて、全力でペダルを漕いだ。肺が苦しいと感じても、サキは速度を緩めなかった。

 裏山はこの田舎町で最も辺鄙な場所にある。すれ違う者はじきにいなくなった。鴉の声、虫の声、そんなものだけが耳に響いた。日は少しずつ沈んでいき、やがて空から姿を消した。待ち合わせの工場はもうすぐだ。連中と鉢合わせするわけにはいかないから、普通は使われない奥まった細道から山中に入る。サキは自転車を木々の間に止め、星と月の明かりを頼りに山道に踏み入った。歩き始めた途端、全身から汗が噴き出した。


 最初は目を疑った。


 山道を入って程なくすると、道の脇に刺さっている見慣れぬものに気がついた。近づいて確認すると、それはどう見ても槍だった。歴史の資料集にでも載っていそうな、あまりにもあからさまな〝槍〟そのもの。造形から判断するに、日本のものではないようだ。年月を経た古さは感じないが、使い込まれた品ではあるようだった。長さはサキの身長をゆうに超える。穂先は突くための形状に特化しており、戟や矛の類ではない。装飾の工夫は見られないが、機能の追求自体がデザインとなっているようだった。

 それがあまりにもそうしてくれと言わんばかりの絶妙な位置だったので、サキは意識するでもなく手を伸ばして槍を掴んだ。槍はサキの手に容易く収まった。槍には確かな重みがあったが、なぜか負担は感じなかった。なにか神秘的な力が、サキに手を貸してくれているようだった。その槍は、サキの腕にあまりにも良く馴染んだのだ。

 槍を手にして、サキは不思議がることすら忘れていた。そのくらいに、槍の登場は唐突だった。どう考えてもありえない、非現実的な冗談としか思えないのに、実際それを手にしてしまった。まるで奇跡だった。そうか、奇跡か、サキはそれで納得した。次にサキの頭に浮かんだのは、〝自分は武器を手に入れた〟という認識だった。ためしに軽く振ってみる。本当なら重さによろめいてしまいそうだが、今の自分ならいくらでも振り回せそうだった。この槍なら自分の手足のように操れる、サキはそれを確信した。

 それなのに。工場まであともう少しというところで、この男は現れた。
「おいおいおいおい物騒だな。そういうのはガキの持つもんじゃあないぜ」
 胡散臭いセールスマンのような格好をしたスーツの男は、眼鏡をクイクイと気味悪いくらいの速度で動かしながらサキの行く手に立ちはだかった。痩せ型で、手足が針金のように細長い。結婚詐欺でもやらかしそうな、信の置けない容貌だった。
「何なのあなた。奴らの一味?」
 自分で問いかけながら、しかしサキはそうではないと思った。アキを酷い目に遭わせている奴らはバカな不良からどこぞの有力者の息子まで様々だが、こいつがその連中の仲間だとは思えない。
 目の前の男のことは知っていた。近所でも有名な変態だ。昔は勤勉な学生だったが、二十歳の夏に惨めな失恋をしてから派手に壊れたという噂だ。今はロリコンで性犯罪者という話である。
 問題は、なぜそんな奴が自分の前に現れたかだ。槍を手にした姿を見られたのもよろしくない。平気を装う内心で、焦燥がにわかに噴き上がった。
「ちょっと待て。待てよ待てよ待てよ待て。辛いな辛いぜその視線はよ。なあ、頼むからその惨めな人間を哀れむような、それでいて刺して捨てて殺すような優しくない眼差しで俺を見るのはやめてくれよう」
 突然、変態は細長い身体を波打つようにクネらせた。一度見たら忘れられない、気味の悪い光景だった。
「やめてくれねえと俺は泣いちまうぜーえうへへへへ。クネクネ」
「どいてよ」
「クネクネッ!」
 変態はどいてくれなかった。それどころかサキの正面に立ち、突きつけるように指差した。
「あのな、お前その槍で何する気だ? 拾ったお前がいちばんよく分かってるだろうがよ、そいつはこの世のもんじゃあねえぜ。いや、この世のものだろうがあの世のものだろうがよ、お前みたいなガキがそんな物騒な得物を振り回して遊んでること自体が問題だ」
 言葉からして、変態は槍のことを知っているようだった。しかしそのこと自体については、サキはあまり驚きを感じない。このタイミングで現れた時点である程度の予想はついていたし、なによりこいつは変態だ。変態は世の中のまともでない部分に関わっていても不思議ではない。こうやって奇跡のように都合のいい槍を手にした以上、最早サキにとっても世の中はまともなものではありえなかった。
「お前よう、スケ番かようー」
「あなた、この槍を奪いに来たのね」
 面倒なことになったとサキは思った。そう、話が旨すぎたのだ。槍が〝運良く〟目の前に現れた。そんな、馬鹿みたいな話があるはずがない。しかし、邪魔をするならせめて全てが終わってからにして欲しかった。どうして、後ほんの三十分でも時間をくれなかったのだろう。
「いや」
 しかし変態は右手を横に振って否定した。「いやいや」拍子抜けしたような表情で、続けて腕を何度も左右に往復させた。「いやいやいや」肘を支点として振り子運動を繰り返す前腕の様子から、サキはメトロノームを連想する。「いやいやいやいや」腕をますます加速させ、風も切らんばかりの物凄い勢いでぶんぶんと振り回しはじめ「いやいやいやいやいやいやいやいや」そして臨界点まで振り切れたところで、腕の動きはぴたりと止まった。
「そんなものはいらん」
 サキは変態を相手にしてはいけないことにやっと気付いた。今ごろアキは、連中に何かとんでもない無理難題を吹っかけられでもしているかもしれない。それは例えば、親の金に手を付けなければ果たせないような過酷な要求だ。そうなればアキは断るかもしれない。その後に何が起こるかなんてことは考えたくもなかった。
「通してもらうから」
「いや待て! 待て待て! 待ってくれ!」
 変態が慌てて後ろから追いかけてくる。道を塞がれたので、サキは仕方なく変態に向き合う。こんなことをしている場合ではなかった。こうしている間にも、アキは奴らにどんな目に遭わされているか分からない。
「俺の名は」
「聞いてないって」
「俺の名は偽善の国からやって来た偽善の徒、ヨハン・ギーゼントだ!」
 変態は高らかに宣言してポーズをとった。そのポーズは、仮面ライダーの変身ジェスチャと横綱レスラーの大見得を足して二で割り忘れたような、つまり曰く形容しがたいものだった。ヨハンとか何とか言ったがこいつの顔はどう見ても日本人だし、両親だってそのはずだ。そもそも変態には渡辺なんとかというパッとしない名前があることを、既にサキは知っていた。
「ギィィィィーゼント!」
 一度では飽き足らなかったのか、変態は二度まで名乗った。このやりとりがアキを囲っている連中に聞かれるのではないかと、サキはどうにも不安になる。実際は工場跡までもう少しだけ距離があったから、この程度の会話が聞かれる気遣いはない。しかし、サキはもう限界だった。一刻も早く、弟の元へ行かねばならない。
「あなたが退かないのなら……例えここで刺し殺してでも、」
「ケーッ!」
 変態は上体を仰け反らせ、怪鳥か何かのような甲高い叫び声を上げた。「クケーッ!」消防台の鐘を振り回さんばかりの不快な響きだ。サキは、もはやそれが人間の口から発せられた音声だとは信じることができなかった。苛立ちと恐れのあまり、彼女は咄嗟に槍を身構えた。もとより、本当に彼に立ち去る気がないのなら、警告の言葉を現実にする覚悟はあった。
「殺す? 殺すときた。いやしかしそれは御免だ」
 変態は反った姿勢を更に曲げ、器用にバク転しながら槍の間合いの外に跳び退いた。細い肢体が美しいまでに滑らかにしなる。それはあまりにバケモノじみた動きで、サキはこいつが中国の雑技団にでも所属していたんじゃないかと訝った。
「てめえが殺したいのは俺じゃねえだろ。なるほど俺みたいな人間のクズは確かに今すぐにでもその槍に心臓を貫かれて血泡ぶくぶく死に絶えるべきかもしれんが、しかし俺には死ぬほどの価値があるとも思えんからな」
 変態は頭を〈クリッ〉と七十五度ほども捻るという、実に不自然な作法で首を傾げた。サキは一瞬息を呑んだ。変態の首の骨が折れたのかと思ったのだ。
「で、誰を殺したい?」
 サキはあえて相手を追おうとはせず、構えた槍を元に戻した。しかし、槍を収めても気分は収まらない。口を開くと、それは思いがけず怒声となった。
「弟を目の仇にしてる奴らよ! あいつら、いつか弟を殺すわ。散々脅して、弱らせて、ある日歯止めが利かなくなって〝ついうっかり〟とか言って殺してしまうのよ。必ずその日は来るわ。だから、私はその前に」
「なんだ、苛められっ子は弟か」
 変態は意外そうに両手を広げた。実につまらなさそうな顔だった。
「俺はてっきりてめえ自身が苛められっ子で、これから復讐に行くのかと思ったぜ? なんせお前のその顔、その顔は苛められる顔だ。いや、顔っつうか雰囲気だな。いかにも孤独、いかにも孤高、理知的にして粗も知らず、侵し難く雑人を寄せ付けぬその崇高な魂はしかしあいつらそんなもん気にしねえしなーあっへっへうっへうえうえっうぇうぇっ」
 変態はへらへらと唾を飛ばしながら頭を振って大笑した。サキは奥歯を噛み締める。こうしている間も惜しかった。いつ何時、アキへの理不尽な攻撃が始まるか分からない。そしてそれは、彼を致命的なまでに傷つけてしまうかもしれないのだ。焦りはサキから冷静な思考能すら奪い始めようとしていた。
「だがここは通さねえ」
 変態はやはり邪魔だてをする気のようだ。
「てめえがその槍を持ってる限りはな」
 何を考えているかとんと見当のつかない相手だったが、少なくともサキの前に立ちはだかるということにかけて、その言動は一貫している。変態はその場から動きこそしなかったが、サキがこれ以上進もうとすれば妨害をしてくるだろう。あと一言二言を交わしてどかなかったら、本当にこいつを殺してでも先を急ごう。サキは心の中でそう決めた。
「あなた、どうして私の邪魔をするの。何が目的?」
「ふふふふふよく聞いた小娘。だが偽善者の使命といえば世の中にただひとつ。しない善よりする偽善! 自己満足と優越感ゲームを制するための、迷惑な善意の押し売りだ!」
 男はさも満足そうに胸を張った。サキはもう取り合う気も失せていた。
「ねえ、お願い、ここをどいて。あなた、何なの? どうかしてる。私は本気だって言ってるのよ、ねえ。分かるでしょ? どかないと殺すって言ってるの!」
 男は、そこで初めて素のような表情を見せた。それは、先ほどまでの奇矯な言動と同じくらいに濃密な、正真の不機嫌だった。
「ああん? そりゃ何だ、つまり〝私みたいな危険な人間に構うなんてどうかしてるわ〟ってか。〝私の方があなたよりもどうかしてます〟と言いたいわけか。そうなるよなあ、そういうことになるはずだ」
 男はサキに向かって無遠慮に一歩を詰めた。男の論法は理屈がおかしい気がしたが、サキは迫力に負けて思わず後退さってしまった。
「舐めんじゃあねえぞ小娘。不愉快だ。あーあ、ああああ、不愉快だぜクソガキが。この、地に足も着いてねえクソガキがよ、この俺よりもいかれてるとぬかしやがるか」
 それは紛れもない怒りだった。何に怒っているのかも分からない、どこに向けられているのかも分からない、ただ発散されるだけで定められた行き場すらない、純粋な憤怒そのものだった。
「いいかクソガキ、よく聞けよ。いかれた野郎つうのはな、俺みたい救いようのないクズのことを言うんだよ。わかるか、クズだ、人間のクズだ。俺を見ろ、俺がクズだ! クズ人間だ! 空気読めない友達いない! 生きているだけで申し訳ない、死んで詫びたい、しかし死んだところで詫びにもならず、そして当然死ぬ価値もなく、死に損なってもますます害毒を撒き散らし! そのなれの果てが見た通りの偽善者だ。そして最後には生きた責任も取らず死ぬ、そういう俺みたいなクズだけを指して〝どうかしてる〟っつうんだよ。自惚れるなよ、クソガキが。その程度、お前ごときの真人間が、今まで真っ当に生きてきた真人間が、何を自惚れて〝どうかしてる〟だ。てめえはどうもしていやしねえよ。てめえはただの、てめえはただの〝女子高生〟だ。いかれたことなんて何ひとつ出来やしねえ!」
 男の飽和し尽くした怒号の全てが、どうやら自分に向けられている。サキは男がなぜ怒っているのか分からなかった。にも関わらず、腹の底からは熱い焦燥がせりあがって来るのを感じる。男の言葉のどこが引っかかったのだろう、サキはわけの分からない不安感でひどく落ち着かない心地になる。
 しかしここで怖気づくわけにはいかなかった。たとえ狂っていると言われても、ここを退くわけには行かない。いいや、自分がこれからやろうとしていることを考えれば、本当にその覚悟があるのなら、むしろ自分は〝狂っている〟べきなのだ。男の言葉に耳を傾けてはならない。こいつは自分の意志を挫こうとしている。サキは精一杯の威勢を込めて男に反じた。
「私は本気よ、本当にあいつらを殺すつもりでここに来た。これ以上邪魔をするならあなただって排除する」
 男は馬鹿にしたように鼻で笑う。しかしそれでも、彼の怒気は一向に収まる気配がない。
「クッソガキが。〝殺す〟? 偉そうになにが〝殺す〟だ。てめえはよ、人殺しが狂気の証明にでもなると思ってやがるクチか? おいおい、おいおい。おいおいおいおい。やめてくれよやめてくれ、こいつはとんだ不思議少女だ。殺人なんてのはよ、大概が飲み屋で、場末で、酔った勢いで起こるもんだぜ。千円ぽっちの飲み代を誰が払うかで揉めるとかよう。そういうつまらねえ理由で人を死なせて捕まるような奴らが、お前、〝いかれてる〟と思いやがるか? 思いやあしねえよなあ。くっだらねえな、そういうのはよ、ただ考えが足りない〝馬鹿〟に過ぎねえ」
 煽り立てるように大仰にまくし立て、男はアンクル・サムの徴兵ポスターそっくりのポーズで真っ直ぐサキを指差した。
「〝てめえも〟だ。てめえもよ、馬鹿で考えの足りない、飲み屋でケチる酔いどれだ。ガキがよ、ガキが、出すぎた真似をしてんじゃねえよ。ガキはガキの領分を守れ!」
 サキは返す言葉が見つからなかった。しかし、自分はそんなものとは違った。苦しめられ、追い詰められ、袋小路で悩み抜いた末に至った最後の結論だったのだ。そんな風に罵られる謂れはない。
「そんなのと一緒にしないで。私は必死に考えた! 考えて……!」
「〝考えた〟? は! 今度は〝考えた〟ときた! おい、お前、何を考えた? 言ってみろよ、言ってみやがれ! お前は何を考えた?」
「だって……」
 その一言を口にするだけで、サキは息が詰まるかと思った。しかしサキは、続けて言葉をなさねばならない。自分とアキがどれだけの思いをしてきたか、目の前の男に思い知らせなければならない。
「だって、他にどうしろっていうのよ! やれることは全部やった、先生にだって、親にだって相談した! でも、そんなのじゃどうにもならないのよ、全部なかったことにされるの! もしもこのままアキが死んだって、トカゲの尻尾切りになるだけよ。下っ端のチンピラは、そりゃ何人かは処分されるかもしれない。でも肝心な奴らはね、きっとのうのうと世に出て行くの! じゃあもうこうするしかないじゃないの!」
「ほう? 二時間ドラマでありそうな話じゃねえか。〝しかし君は本当に全ての可能性を考えたのかな? 大人は何もしてくれないと、はじめから諦めてしまってはいなかったかい? 人を殺してものごとを解決しようだなんて、およそ最低の考え方だと私は思うね。さあ、もう一度はじめから考え直そう。必死で考えを巡らせれば、きっと全てが上手くいく方法はあるはずだ。人殺しなんかしても弟くんはきっと喜ばないし、君もいつか必ず後悔する日が……〟」
「いい加減にして!」
 サキは思わず槍を振りかぶった。〝突く〟ための槍をそんな風に構えるのは滑稽だったが、サキにはもうそれを判断する余裕が残っていなかった。
「あなたに何が分かるの! 私たちがどれだけ苦しんだか、知らないからそう言えるのよ! あなただって口だけじゃない、綺麗ごとなんてうんざりなのよ! この偽善者! 嘘吐き! 無責任!」
 自分の口から溢れ出た言葉があまりにもステロタイプだったので、サキはとても驚いた。これでは本当に大衆ドラマと変わらない。自分たちの苦しみは、そんな安っぽいものであってはならないのに。
 しかし男は笑った。口元を三日月の形に歪めて、本当に嬉しそうに満足そうに、ねばつくような粘着質の笑顔を見せた。
「〝口だけ〟、〝綺麗ごと〟、そして〝偽善者〟〝無責任〟! そおおおだまさにその通り! 名乗ったよな、名乗ったぜ! 俺は見ての通りの薄汚ねえ偽善者だ! 当事者の気持ちなんて露とも考えるつもりはねえ、安全圏からの脊髄反射で好き放題垂れ流し、文句だけ言って悦に浸るのが俺の趣味だ! 人の振り見て我が振り直さず、言責なんて取るつもりはハナからねえぜ! てめえの不幸話なんぞ俺の自己充足のエサになりやがれ!」
「この外道ッ!」
 槍が男の頭に振り下ろされ、ごつんと間抜けな音が鳴った。槍は本来的に突くものであって、叩くものでも斬るものでもない。その威力は物干し竿で殴るのと大した差はなかっただろう。
「おうっ」
 しかし男はよろめいた。姿勢が立て直されるのを見計らい、サキは男の喉元に槍の穂先を突きつける。 
「次は本当に殺す」
「次って何だよ」
 それはサキにも判然としなかった。共にその姿勢のまま、沈黙の時間が流れる。男は眉を寄せ肩をすくめ、冷ややかにサキを見つめた。
「次っていつだよ。さっきから殺す殺す言ってるけどよ、いつになったら殺すんだ?」
 サキはもう答えられなかった。その代わり、槍を持つ手がかすかに震えた。
「お前はよ、本当に自分にそれだけのもんがあると思ってるのか? 何だっていいけどよう、幼少期のトラウマが生んだ絶望的諦観とかよ、弟への死に物狂いの愛とかよう。人殺しに駆り立てるような決意やら経験やらが、自分にあると思えるか? 単に成り行きで〝カッとなってやった、今は反省している〟ってんじゃあ笑い話にもならねえぜ」
「あるわよ」
 サキはそう答えるしかなかった。
「ほう、ところでよ」
 男はしかし、口を歪めてさらに続けた。
「さっきから気になってるんだがな、お前の槍の持ち方ってドミナントスターに似てるよな」
「え」
「ドミナントスターだよ。魔法少女きゆらの」
『魔法少女きゆら』は毎週日曜朝九時から四年連続絶賛放送中の年少少女向けアニメである。そして主人公の魔法少女きゆらのライバルとして登場する戦闘美少女が、〈槍持てる処刑人〉セラティ・ドミナントスター・バイオレンスハッザードだ。急降下による上空からの刺突を主な戦法とするドミナントスターは、槍を背中に隠すような形で逆手に構える。そしてサキは、それと同様最初からずっと槍を逆手にして持ち歩いていた。そのポーズが何だかスタイリッシュで格好よかったという理由で、サキはドミナントスターの逆手の構えを採用したのだった。
「あれ持ちにくくなかったか?」
「で、でも、だってあれがいちばん手に馴染んだっていうか」
「いやしかし普通はこう持つだろ。こう」
 男は〝普通の持ち方〟をジェスチャで示す。
「つうかよ、それで相手に穂先向けたらよ、腹んとこがガラ空きになるよな。それってすげえ困るよな。陸上の投げ槍じゃねえんだからよ、今から人殺しに行くのにそりゃ何か違うだろ」
 反論のしようがなかった。サキは慌てて槍を普通に持ち替え、改めて男の喉元に穂先を突きつけた。しかしその腕にこもる力は弱い。サキは、なんだかとてもいたたまれない気分になっていた。
 だが、こんなのは無茶苦茶だ。わざわざドミナントスターに関連付けることにも悪意が感じられる。持ち方が悪いのなら、そうと指摘すればいいだけだ。これは、本題と関係のない言いがかりで難癖をつけているだけではないか。
「それからもうひとつ気になったんだけどよう、お前のその……」
「ちょ、ちょっと待ってよ、まだあるの? それが何だっていうの! 何も関係ないじゃない!」
 サキは声を張り上げた。自分でも、ほとんど虚勢である気がした。いつの間にか槍の穂先は、男の顔からいくぶん離れた位置にずれていた。
「関係ないと思うか」
「どうあるっていうの」
「お前のバックグラウンドの話だよ」
「意味が……」
 なぜかサキは、今すぐここから逃げ出したい気分になった。しかし、今さらそんなことが出来るはずもない。結局男の言葉を聞くしかなかった。
「お前は自分が頭の中に作った〝お話〟に乗っかってるだけだって言ってんだよ。そいつは〝弟を守るために全てを捨てた渋い姉が苛めっ子を皆殺しにする〟ってえお話だ。思いついた発想があまりにも格好良かった上に、現実もそれを許してくれる状況だ。しかもおあつらえ向きに〝魔法のアイテム〟まで手に入りやがった。そうなったらよ、もうお前の頭には別の考えなんて思い浮かびやしねえんだ。違うか?」
「そんなの……」
 認めるわけにはいかなかった。自分がこうして槍を持ってここにいるのは、もうどうしようもないところまで追い詰められたからこその行動なのだ。他に道なんてないはずなのだ。
「その……」
 言いたくはなかったが、不覚にも思わず問い返してしまった。
「私が自分に酔ってるとでも言いたいわけなの?」
「間違いじゃねえな、ニュアンスが違うがよ。お前、友達いないだろ? そんで一日中本ばっか読んでるだろ」
「だから、それがどう関係あるって……」
「俺もよく見かけるぜ。登下校でも歩きながら本読んでるだろお前。すっげえ目立つぜ」
「うっあ」
 いけないのか、それがいけないのか。人とぶつからないよう気をつけてはいるし、誰かに迷惑をかけた覚えもない。文句言われる筋合いはない。
「いや、いいんだけどよ。それは別にいいんだけどよ。ああ、ああ、移動する間も惜しんで好きなことに時間を費やす姿勢ってのは、俺から見ても敬意に値するぜ。クズで無気力な俺にはとても真似できやしねえ情熱だ。だがしかし、しかしよう」
 しかし何なんだ。それ以上何か言うことはあるのか。
「しかしよう、お前、人に見られてんの意識してわざとそういう目立つ真似してんじゃねえのか?」
 その瞬間、血でも吐きそうな気分に襲われた。実際少し涎が垂れた気がする。自分のものとは思えない、制御できない感情で頭の中がいっぱいになる。どうしてだ、どうしてこいつはこうも見透かしたようなことを言うのだ。
「キャラ立てしたかったんだよな、そうだよな。趣味を話せる友達が少ねえもんだからよう、そうやって態度でアピールするしかなかったわけだ。いや、分かるぜ、そういう気持ちはようく分かる。狙ってるキャラはどの辺だ? クールでミステリアスで少しばかり近寄りがたい、物静かな不思議少女ってところか? いや、これじゃそれこそ〝ドミナントスターそのまんま〟だな」
「ひい」
 サキは遂に身悶えた。なんだかもう駄目だった。反論を試みようにも、もはや支離滅裂な罵詈雑言くらいしか返せそうな言葉がない。そんなことで、この男を言い負かせられるはずがなかった。
「どうして……」
 もはや立っているのさえ辛かった。すぐにでもその場に座り込んでしまいたくなる。そんなことをしてどうなるわけでもないというのに、そうすれば少しは気持ちが楽になる気がしたのだ。
「どうして、そんな」
「その、ことあるごとに左手を閉じて開いてする仕草、ドミナントスターの真似だよな。自分じゃさり気なくやってるつもりかもしれねえけどよ、周りから見てるとそういうのは存外目立つもんなんだぜ」
「き」
「それによ、言葉遣いも気になるな。〝一味〟だの〝外道〟だの、一体どこで覚えてきやがった? 知り合いの口癖が移ったってわけでもねえんだろ? 日常会話でそういう言葉が出てくるのはよ、尋常じゃあねえと思うぜ」
「きい」
「しかもよう、遂には〝排除する〟ときた。これはよう、これはもう……なあ?」
「きいいいい!」
 とうとうサキは頭を抱えた。槍が手から零れて地面に落ちるが、もうそんなことはどうでもよかった。とっととこの場から逃げ出したかった。自分が何をしにここにやって来たのかも、なかば忘れかけていた。
「な、分かるか? お前のバックグラウンドはそういうもんだ。今日のお前はその延長だ。お前はよ、自分をお話の中に落とし込めて、その流れに沿って楽してるようにしか見えねえんだよ。でもよ、てめえのやろうとしてることはよう、ポーズだけ取って悦に浸ってるガキに手を出せるもんじゃねえんだよ。勘違いが突っ走るにしても、見てるこっちが痛々しいってんだ」
「かっかかかっかかかっかかか」
 舌がもつれた。もはや体面も何もない。羞恥のあまり、サキは遂に男から背を向けた。そのまま逃げ出そうと駆け出すと、槍に足が引っかかって盛大につまずいた。
「かー」
 暗い山道に、サキはずべんと転がった。膝頭が無性に痛い。槍の転がる音が響いたが、やがてそれも消えてなくなる。聞こえるのは夜虫の鳴き声だけとなり、山に静寂が広がっていった。
 サキは立ち上がるでもなくその場にうずくまった。もう逃げる気力もなかった。男はゆっくりと槍を拾い上げた。男は理解していたのだろうか。槍を手放したサキからは、もう先程までの勇ましい考えなど吹き飛んでいた。結局のところ、都合のいい武器を手に入れたことで気が大きくなっていただけなのだ。
「うえっうえっうぇっ」
「泣くなよ」
『ラストパピヨン』「あんたずるいわ。最悪よ。そうよ私はガキよ、分かってるわよ。大人の権力の前じゃ子供は無力よ。でもじゃあどうすれば良かったの? 黙って見てれば良かったの? 今にも弟が殺されそうなのよ! 他に何ができたって言うのよ、私なんかに!」
「うわ存外分かりやすい奴だなお前。別にそうは言ってねえだろ。お前人の話聞いてねえのか」
「うぇっうぇ、うぇうぇうー」
「あーあ畜生、馬鹿野郎が」
 呆れたように声を上げ、男は槍の柄でサキの頭をつつきはじめた。ホイルに巻いた焼き芋を焚き火の中で転がすような、実にぞんざいな手つきだった。
「痛い痛いっ」
「だからようー。俺が言ってんのはガキはガキの領分を守れって話だろうがー。刺すだ殺すだー、ドロップアウトの酔いどれが威勢上げて息巻くような真似すんじゃねえってんだよーう。分かるんかーそれが分かっとんのかこの頭はー」
「だから痛いってば! やめてよ!」
 サキは手を振るって槍を押しのけた。それだけでもう精一杯だった。
「クッソガキが。プッツンして首吊る奴がいるよなあ、連中が首吊んのはどうしてだ? 抵抗すんのに疲れて全部放り出したくなったからだよ。てめえも同じだ、弟のことで悩むのに疲れたからよ、刃物持ち出して手っ取り早く終わらせようとしただけだ。楽しようとしてんだよ。それを何だてめえ、言うに事欠いて〝他に手はない〟だと? 最後の手段みたいに言いやがってよう。考えて考えて考えた末だと? 勘違いすんじゃねえ、それは考え疲れただけだ。疲れて面倒になったんならせめて〝もう飽きました〟くらいのことは言いやがれ」
 言い返すことはできなかった。男の容赦ない言葉の全てが、無防備なサキの心に雨あられと降り注いだ。
「そもそもだ、プッツンするなら当事者の弟の方が先だろうがよ。なんで弟が必死こいて耐えてるときに、外野のお前が一人で捨て鉢になってやがんだ。失業した親父がやっと再就職口見つけて帰ってきたら、絶望した嫁が一足先に家燃やしてましたーってか。アホか」
 男はサキをつつくのをやめ、槍の穂先を下にして地面に刺した。槍は刃の部分が見えなくなるくらいに土の中に深く埋まった。
「もう放っといてよ。どうせ私なんか……」
 既にかなりの時間が経っていた。今ごろ、アキはどうなっていることだろう。きっと酷い目に合っているに違いない。サキの体は諦めに支配されていた。もう何でもいいと思う。どうせ、今日この日にアキが殺されるとも思わない。
「私なんか、何もできやしないのよ……」
「ケーッ!」
 しかし男は、再び怪音波を発して仰け反った。サキは驚いて身を震わせる。本当に工場跡まで今のが聞こえたのではないかと心配になってくるが、しかし奴らもまさかその鳴き声が人間のものだとは思うまい。
「とことん頭が弱いなてめえは! 次は自虐かよ。馬鹿が、馬鹿が、大馬鹿野郎が。てめえ、自分が本当にクズだとでも思ってやがるのか?」
「そうよ私はクズよ! 今だってもう弟のことなんてどうでもよく思ってるの! 夢が醒めたからもういいの! 結局私は、自分が満足するためにアキをダシに使ってただけだった! あんたが言いたいのもそういうことでしょ! 分かったわよ認めるわ、だからもう放っといて!」
 男はますます不機嫌になり、再び憤怒の眼差しをサキに注いだ。
「おいお前、二度言わせるな。てめえごときがクズを名乗るな。自惚れも大概にしやがれよ。さっきも言ったぞ、クズは俺だ! 俺みたいな正真正銘の害悪だけがクズだってんだ! それをよ、てめえ、少し勘違いの度が過ぎたくらいで何が〝私もクズです〟だ。〝仲間に入れてください〟だ。冗談じゃねえぞ、俺はてめえなんか認めねえ。自分を卑下してやがんじゃねえよ! 自信を持て! 愚痴垂れんのはやることやってからにしやがれ!」
 サキは涙目で男を見上げた。睨みつけるようなその視線は、しかしまるで縋ろうとでもしているかのようだった。
「あんた、わけ分かんない」
「当たり前だ、クズで変態な偽善者の言葉なんぞが人に伝わったためしはねえよ。だがよ、俺は偽善者らしく無責任に勝手を言うぜ。愚図ってねえで行くとこに行ってきやがれ! てめえはよ、今日ここに何しに来たんだ、え? 槍を拾ったのは〝さっきそこで〟だろうが。お前がアホな考えに取り憑かれたのはそれからだろ。じゃあ、家を飛び出すとき、てめえは何考えていやがった? どういうつもりで山ん中に入ったんだよ! ええ? 答えろ!」
「それは……」
 サキは必死に記憶を探った。しかし答は見つからなかった。
「分かんない……分かんないけど」
 サキには本当に分からなかった。自分は何のつもりでアキを追いかけたのだろう? 工場跡に辿り着いたとして、そこで自分は何をする気だったのか。
「分かんないけど、でも、とにかく行かなきゃって……」
「はん、上等だ! 上等なガキのやり方だ。解決にも何にもならねえがよ、そういうのこそがガキの出す答っつうもんだ。少なくともな、偶然拾った魔法のアイテムで皆殺しなんてアホな思い付きよりもよっぽど真剣に頭を使ってやがるぜ」
「どうにもならないわよ。私があそこに行って、何が出来るって言うの? 私がガキだって言うんなら、そのガキの私にやれることなんてないじゃない!」
「ああどうにもならねえな。しかしよ、そいつはガキに打つ手がないってことじゃねえ。単にてめえのアタマと根性が足りねえだけだ。てめえが自分のキャラ作るのに割いた時間をもっとマシなことに使ってりゃあよ、別の手があったかもしれねえけどな」
 まったく反論の余地はなかった。どうしてこいつは、こんなふざけた奴なのに正論ばかり言うんだろう。
「だがよ、てめえの弟はよ……そこんとこをしいっかりと考えてやがったぜ」
 サキは驚いたように、男の顔に正面から向き合った。男はその反応に満足したのか、公園の鳩を蹴散らして喜ぶ性格の悪い子供のような嫌らしい笑みで口を歪めた。
「お前、あいつが引き出した金が何に使われたと思ってる? まさかチンピラどもに巻き上げられたなんて考えてんじゃあねえだろうな。違えよ、あいつはよ、長年貯めた自分の金を元手によ、戦の準備をしてやがったんだ。デジカメとかレコーダーとか買い集めてよう。あいつはやる気だぜ、連中の悪行の動かぬ証拠ってやつをとらえるつもりだ、自分の身をネタにしてな」
「……アキが?」
 サキは身体を浮かせ、なかば地面から立ち上がりかけた。その顔はかすかに震えていて、目も口も唖然としたまま開かれている。
「どうして、あなた、そんなこと……」
「俺か? 俺はお前の弟に言われてな。チャンスがあったら外からカメラ回しとくよう頼まれた。万一、奴の仕掛けがばれたときの保険だよ。カメラ、用が済んだら譲ってくれるって言うからよお。うへへへへへへ」
「……うっそ」
「自分の弟に町の愉快な変態と交流があったなんてショックか? しかし俺も結構な有名人だからなあ。ああ心配すんな、あの槍はお前の弟とは無関係だ。ヨソの厄介事のとばっちりで、それこそ〝たまたま〟あそこに落ちてただけだからよう」
「でも、そんな……無理よ、今までだって、学校に訴えたりはしてたもの。そんなことをしても、状況はますます悪くなるだけだった」
「おいおい、学校が無理ならよ、もっと強いとこに行きゃいいだろうが。それを目の仇にしてる世間とかよう。なにせ証拠がある。今は便利な世の中だぜ、複製するもネットに流すもやり放題だ。YouTubeにでも上げちまえ。合成だとか難癖つけて来やがる奴もいるだろうが、そこは技術のないただのガキなのが幸いするぜ。あとはお前らの立ち回り次第だな。どうだ、無理だと思うか? これはフィクションまがいの夢物語か? 道端で偶然拾った魔法のアイテムとどっちがリアルだ?」
 どうなのだろう。穴はないように思える。しかし、そんなことが上手くいくのか。
「本当なの? アキは本当にそれをやる気? 途中でばれたりしない?」
「そこまでは知らねえけどよ、そのための準備だろ。お前、呼び出しの時間が何時だか知ってるか?」
 サキは首を振った。噂で場所を耳にしただけで、それ以上のことは知らない。
「八時だ。今はまだ七時にもなってねえぜ。あいつはそんだけ時間の余裕を持って戦場に赴いたってことだ。もちろん仕込みのためだよな。それにさっきも言ったろう、万一のときは保険がある」
 男は懐から小型のビデオカメラを取り出した。顔の前に持ち上げて、ファインダを覗き込む。
「合わせて十万以上は使っただろうぜ。安くねえ出費だ。だがしかしよう、死に物狂いのガキに手が届かない金額でもねえ。もしも貯金がなくてもよ、バイトに励むとか親や親戚に頼み込むとかして、奴はそんくらいの金は掻き集めただろうぜ。お前が空想遊びをしてる間に、奴はこれだけのことをやってのけたわけだ」
 そんなこと、サキは全く気付いていなかった。アキはずっと黙って耐えているだけ、サキの目にはそう映っていたのだ。しかし、自分の目は節穴だった。アキは自分ひとりでも戦っていたのだ。サキは自分が総毛立つのを感じた。もうじっとはしていられない。何かをやらねばならなかった。
「どうだ? これでもてめえは、ガキに手はねえと言い張るか? ドス持って連中と心中するのだけが最後の手段か? 違うよなあ違うよな! おいてめえ、自分の弟をよく見やがれ! ガキが戦う手はあるぜ、それをあいつは実践してやがる。魔法の槍なんていらねえんだよ、こんなもんは豚の餌にくれてやれ。あいつのやってることはガキがガキのままで出来る精一杯の抵抗だ。じゃあよ、てめえは、てめえはどうする!」
 サキは気がつく。呼び出しが八時なら、奴らはまだ現れてもいないだろう。何も起こってはいないのだ。手遅れではない、まだ間に合う。なら、自分には何が出来る? 何か、何かがあるはずだ。そこまで考えたとき、サキはもう自分から立ち上がっていた。
「私は、アキを追いかけて……。何も考えはなかったけど、とにかくアキのところに行かなきゃって」
「上等だ」
 男は、懐からまた何かを取り出し、サキに向かって放り投げる。
「ならよ、保険は……」
 サキは胸の前でそれを掴んだ。固く冷たい機械的な手触りを感じ取って、自分がこれからすべきことを確信できた。槍なんて本当はどうでもいいのだ。その正体も由来も意味も、自分には関係ない。自分にとって本当に必要なのは、槍なんかではない別のものだったのだ。
「ええ……保険は、一人でも多い方がいいわよね」
 サキは手渡された機械を強く握る。それは男のビデオカメラよりもさらに小さい、黒塗りのレコーダーだった。


了   

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