『小国テスタ2 前編』

『小国テスタ2 前編』

著/桂たたら
絵/時磴茶菜々

原稿用紙換算60枚

 なんてこった。
 そう呟かずにはいられなかった。
 周囲を満たすのは確かに静けさではあるのだが、そこには凪いだ海のような穏やかさはなく、張り詰めた糸が今にも緊張感がある。
 時刻は夜。
 上空には木々の枝葉で隠れかけた下弦の月。触れれば切れそうな鮮やかさ。
 月光は脆弱。闇が強く、視界の確保は困難を極めた。
 周囲に目を走らせ、息を詰める。
 しかしいくら目を凝らしたところで視界の悪さは改善しようがないのだ。
 周囲は森。木々の密度は高くないとはいえ、この暗闇の中ではなんらかの手段を講じないとこれでは良い的だ。
 敵は、どこに――
「ネッツ」
「三時方向! 一人倒れた!」
 俺の呼びかけに彼女が応える。同時に、彼女が指し示す方向から木々のこすれる音が聞こえた。
 俺とネッツ、お互いの死角を補い合うために背中を合わせた状態から、そちらの方向へと走り出す。
「距離は二十!」
 背の高い草を掻き分けて疾走する。目の前数メートルすらも見えない闇をこの速度で走るには五感を全開にする必要があった。音の反響で障害物を察知する。
 二人、倒れていた。周囲に気を配りながら、うつ伏せに倒れる彼らにゆっくりと近づく。
 ネッツが彼らを抱き起こす。
 そして彼女はゆっくりと首を振った。
「あまり離れるな」と俺はいった。「お互いをフォローできる距離を保て」
 彼女は静かに頷き、俺の傍らに付く。
 既に俺の小隊の人数は半分。俺とネッツの二人きりになっていた。
 刀を構えなおす。どこで落としてしまったのか、手甲はすでになく、柄を握る手は汗をじっとりとかいていて、滑る。
 ――ざあ、と夜風で枝葉が騒ぐ。
 それすらも五月蝿かった。
 聴覚が鋭敏になっている。
 遠く、断末魔の悲鳴が四方で上がる。
 静かに、一人、また一人と倒れていく。
 勝手に走り出そうとする足を抑え付ける。
 ――ここは戦場と化していた。

 他小隊との連絡を取るために、小隊には最低一人の通信用魔術が扱える魔術師を混ぜておくのが基本であるが、既に俺の小隊からはその役割を担った魔術師は離脱している。
 連絡や増援は諦めるしかない。残存戦力――俺とネッツだけでこの状況をなんとかする。
 今の俺達になにができるのかと分析を試みる。
 俺にできることといえば、俺固有の魔力特性である、魔力を視覚的なイメージで捉えられる魔力視認と、多少の剣の覚え。そしてネッツには、人間を遥かに凌駕する五感と、優れた身体能力。
 ネッツはレーダとして非常に優秀に働いてくれていたが、敵の能力はそれをものともしなかった。
 駄目か、と心が折れかかるのを感じた。瞬間的に、ふっと気持ちが楽にさえなりかける。そして、その直後に訪れたのは嫌悪感だった。恐らく、そんな気持ちを抱いてしまった自分への。
「……良い案、あるか? ネッツ」
「私に聞くなんて、大分追い詰められてるね」
 合わせた背中が強張っている。彼女の緊張が伝わってくる――いや、なら俺の緊張だって彼女に伝わっているのだろう。
「どうしたら良い? 指示に従う」ネッツが囁く。
 そんなに不安げな声を出されたら――と俺は内心でネッツを呪う。
 どうしても諦めたくなくなるじゃないか、と。
 策なんてない。……だが、諦めかけたときの、あの気分の悪さは、そう何度も味わいたいと思えるものでもない。
「――来るぞ」
 俺の視線は遥か前方で焦点を結ぶ。
 木々の間を縫うように、幾本もの光の帯が伸びてくる。淡く緑色に光り、太さは人間の胴体ほどもある。それが獲物を探す蛇のようにうねうねとこちらへと伸びてくる。
 アレに何人もやられたのだ。敵にとっての索敵、捕縛用の魔術で、触れたものの感触を術者へと伝え、対象を束縛し捕える。
「突っ切るぞ。これはチャンスだ。この光の先に術者がいる。接敵して一気に叩く」
「ど、どうやって」
 見れば魔力流は足の踏み場もないほどに蔓延している。ネッツは思わず一歩を引いた。
「こうやってだ!」
 刀を力任せに光る蛇へと叩き付ける。それは思ったよりも強度はなく(というよりまるで煙でも斬ったかのように感触が無かった)、その一撃で粉砕できたが――、
「走れ!」
 一本を砕いた瞬間、びくんと他の蛇が頭をもたげ、一斉に俺へと頭を伸ばしてきた。
 集まる蛇を斬り、払い、活路を開く。真後ろからネッツが追いすがる気配を感じながら、また一本。その魔力流の動きに俊敏さや正確さはない。落ち付ければ見きれるレベルだった。ぐるりと首を回してこちらの位置を補足するも、その隙に横をすり抜ける。
 向かってくる蛇を切り払い、後ろから追いかけてくる蛇を振りきり、安全を確認、抜けた、と感じた瞬間だった。
 どん、と後ろから突き飛ばされる。
 走っていた速度とあいまってごろごろと三回転ほど前転、草におぼれそうになりながら受身をとって、ようやく反転して立ち上がると、眼前にネッツの小さな背中があった。ふさふさのしっぽがピンと立っている。
 中腰で爪先立ち、頭の上の耳はわずかな音も聞き逃すまいと音のする方向へと微調整を繰り返す。
「上から。また上に」ネッツが早口でいった。
 簡潔だが、上から飛来した襲撃者が、また上へと消えたという意味だろう。ネッツが俺を後ろから押したのは、その攻撃から俺を庇うためだろう。敵は樹上から樹上へと移動しているのだ。
「上は私が足止めする。クロノはあっちの魔術師を」
 いい終わるや否や、ネッツはとんでもない足のバネで跳躍した。
 枝へ飛び乗り、しなりを利用してさらに他の木へ。シルエットだけになった敵とネッツの移動で、ざざざ、と枝葉が騒ぐ。
 見ればまた、光る蛇が俺の正面から伸びてきた。
 辛うじてそれを剣で捌くも、こちらの足は止められてしまっていた。光の蛇の正確さと速度が向上している。術者から距離が近いからだ。
 これ以上の接近は無理か――!
「きゃん」という甲高い声、草むらに勢いよくなにかが突っ込む音――背後から。恐らくはネッツ。
 背後のそれらに気をとられ、はっとしたときにはもう遅く。
 ひょいとなにかに足をすくわれて転地逆転、受身は辛うじてとれたものの、戦場で無様に仰向けにすっ転んでおいて無事を確約できる道理なんてものはどこにもなく、黒い影が視界を覆い、ああ馬乗りだこれぼこられる、と俺が覚悟を決めた瞬間、

 ぴーーーーーーー、と長い笛の音が空を渡る。

 なんだ仕舞いか、と俺の頭上の人物がつまらなさそうにこぼした。
「立てるかクロノ。ほれ、手を貸すぞ」
 手を差し出してくれたのは、ヒストナ・ジェイル王――ヒナ王その人。

 に、と嬉しそうに笑う彼女の顔の横で、鋭利な月が光っている。

「負傷した方々は仮設テントへとお集まりくださーい! こちらで治療が受けられますー。万が一、骨折などされた方がいれば申し出てくださいー、最優先で治療を行いますー、捻挫、打撲などの軽症の方はー、え? なにいってんですかこんなのかすり傷でしょうが後回しです後回し、つばでも付けとけ! は? 私のつばが良い? 怪我させてやろうかこのド変態! こっちは忙しいんですよ!」
 演習会場である森林地帯と草原の境目に簡易式テントを建設し、そこが今回の模擬戦演習の本営部として機能している。
 森林を出るとすぐに穏やかな起伏のある平原が左右に広がる。背の高い植物は無く、見晴らしは非常に良い。森を背に、正面には小規模だが人の住まう環境がある。俺の母国、ヴァルクである。左手には遠く海岸と海原が見えるはずだが、この暗闇ではネッツのような暗視能力がなくては見えないだろう。右手は大きくヴァルクを中心に円弧を描くように森林が広がっていた。
 総勢五十余名、この演習に参加した人数だ。大半は治療も終了し、着用していた装備品を脱ぎ、思い思いに水分をとったりしながら、柔らかい芝生の上で身体を休めている。
 テントの下で大声をあげて怪我人の誘導を行っているのはリコという少女で、学校を俺と同期で卒業した友人だ。なんで彼女だけあんなに元気なのかというと、この模擬戦に参加していないからに他ならない。学校でも体術の成績はからきし、それに加えてそのモスキート級の身体にあうサイズの装備がないのでは仕方がなかった。
 さく、と背後で草が踏みしめられる音に振り向いてみると、女の子が一人立っている。
「お、どうした。今回こそはカレンに勝つんじゃなかったか?」
 俺がからかうように尋ねると、彼女も苦笑して俺の横に座った。
「いやー、無理っすわー。ありゃおばけだよー」
「改めてあれは反則だと感じたね。百は距離取ってたのに。あの距離であの密度」彼女は胸に大木を抱えるようなポーズをした。「やっと治療も終わったし。疲れたー。しかしなんだね、一番の重傷者がタンコブっつーんだから。多勢に無勢で手加減する余力があるんだから凄いよねー」
 短めに刈った髪の毛が活発な印象を、くりくりとよく動く大きな瞳が人懐こい印象を彼女に与えていて、その中身も、外見から受けるイメージと大差はない。ホノカという名の彼女も、俺と同期の優秀な魔術師である。
「イイ線いったんだけどね。カレン先輩だけなら追い詰めたんだぜー、マジでー。でもあっちのが上手だったね、王様との連携の錬度が回数を重ねる毎にあがってるんすよ。あ、そーいやクロノ君の方は時間いっぱい生き残ったんだって?」
「いや、この場合、生き残った、というのは誇れないだろう。消極的だったという意味にもなりうるし」
「出たよ真面目君。ま、逃げ切ったつーのでも十分じゃねーの? なにせあの二人だし」
「ネッツと組めば誰でもあれくらいは行ける。彼女が組み込まれた小隊の生存確率を知ってるか? レーダ要らずだぜ」
「そう、そこなんだよね! カレン先輩の弱点はわかってるんだから、次こそは!」
 と、ホノカは拳を握って吼える。
 カレンとホノカの、魔術師としての性能を比較するとそこには大きな違いがある――というよりは、カレンと他の魔術師に違いがありすぎるといった方が正しいか。
 結論からいうと、カレンの弱点とは、生まれ付き攻撃魔術以外は使えない、というものである。
 魔術師の性能は、魔力容量、魔力出力、魔力変換効率、魔術多様性、の四点で決められる。魔力容量は体内に溜めておくことのできる魔力量、魔力出力は単位時間当たりに出力できる魔力量、魔力変換効率は魔力を魔術に変換するときの損失量、魔術多様性は使用可能な魔術の種類。カレンはそのうちの魔術多様性が非常に乏しいのだった。その他の項目は、はるか北方、寒冷の大地に住む鬼人にすら迫るといわれている(誇張だろうが)。
 索敵、通信、治療などといった戦闘時に重要となる魔術が使えないカレンは、だから攻撃魔術を応用してその弱点を補っている。例えば今回の模擬戦で使われた光る蛇。あれは本来、ああいった使われ方をする魔術ではない。そこを無理に索敵に使っていた故の検知能力の低さだったのだが、しかしそれを補って余りある戦果を挙げていたのは改めて説明するまでもない。
「あれ、なんだろ? リコが呼んでる。なーにー? どうしたのー?」ホノカが声を張り上げた。
「すいません、一人ぶんなぐって昏倒させてしまいましたー。治療をお願いしますー」
 遠くがリコが手招きをしている。傍らに倒れているのは――
「あいつ……」
「ダイナさんだね……」
 ホノカが脱力した表情を見せた。苦笑しつつ、「また後でね」とテント下へと駆け寄って行った。
「なんだ……。あいつも殴られて気を失うんだ……」
 いやいや待て待て、なんであいつがいるんだ。この演習には参加していないはずなのに。
「誰だって殴られれば気ぐらい失うんじゃない?」
「うお」
 ひょいと横から顔を出したのは頭の上に大きな犬耳を備えた幼いバスト族の女の子、ネッツだった。年齢は十三だか十四だか、自分の年齢がよく分からないらしい。
「おどかすなよ」
「勝手におどろいたんでしょう」
 ネッツの口調は少し冷たい。
 ……なんだ? 機嫌が悪そうだな、と感じて俺は少し警戒する。
「機嫌、悪そうだな」と、ついいってしまった。
「ん、別にぃ」彼女は半分鼻から声を出す。「さっきは楽しそうにお話してたねー。ホノカさんと、仲良さそうだったねー。なにを話していたの?」
「あ、」
 あ、やっちまった、というやつだ、これは。彼女はなぜかたまにへそを曲げることがある。
「いや、あれは別に、仲が良かったというよりは、ただの結果報告のようなもので」ここで沈黙しては駄目だ、と俺は言葉を走らせる。
「ああ、そう。同じチームの私よりも先に、ホノカさんと今日のことを話す方が大事ってことなのかー。ほー」ネッツはおちょぼ口になった。
「そ、それは悪かったと思うけど、……でもこれは、ネッツがそんなに気にするようなことじゃないんじゃないか?」
「それは私が決めることでしょー!」
「いてえ!」
 立ちあがりざま、ネッツは俺の背中をぎゅうとつねり、冷たい視線を残して歩き去った。
 その背中を見送って、はあ、とため息をつきたい気分になる。
 いったいいつから彼女はあんな風になって、二人はこんな風な関係になってしまったのか。
 一番の原因は、いまだにネッツが俺の部屋に住みついているということなのかも知れない。
 出会ったころはあんなにも世間知らずで足りない子だったのに、知識と常識を身につける速度の早いこと。本当に賢い子だったということか。
 しかし(これははっきりと断言しておく)、彼女とは一切の肉体的な関係はない。彼女とは同じ部屋ではあるがベッドも別だし、最近ではネッツの方から部屋をカーテンかなにかで仕切りたいと提案してきたのだ。の、わりには部屋を移る気がないというのだから、ますますもって意味がわからない。
 先日など、いつもと顔の様相が違うのでどうしたのかと問うたら、カレンから化粧道具を借りたのだといっていた。といっても唇に淡い色の付いた乾燥止め(乾燥止めという以外になんと形容するのだ)を塗り、髪形を少しいじくった程度のものだが。
 なんとなく、まだ早いんじゃないかなと思ったのでそういったらまたつねられたのだった。
 つねられてばかりだ。どうしろというのだ。その上、人間族である俺よりも力はあるときたものだから、これは全身あざだらけにされるまえに対策を練らなければなるまいと真剣に考え始めたところで、あーごほん、と仮設テントの下でヒナ王が咳払いする音が聞こえた。咳払いは彼女の癖なのだ。今日はいつもの重そうな着物ではなく、動きやすい軽装である。
「夜更けまでご苦労だった。今日はこれにて演習終了とする。……と、今日は大きな怪我はなかっただろうか? みな怪我は完治したか?」
 問題ありません、怪我はないですよ、と皆で口を揃えて叫ぶ。……なんとなく、くすぐったい空気だ、と俺は思った。心地よい疲労感と達成感がその理由なのだろうか?
「そうか。それは良かった」ヒナ王は笑顔になった。安心が形になったような、そんな表情だ。「さて、疲労もあるだろうから、話は手短に済ませよう。この演習も回数を重ねる度、段々とみなの動きも良くなってきているように思う。私とカレンの二人を相手にするこの演習、仮想敵は魔術と体術を得意とする前衛後衛で役割分担された二人組である。全員がある程度までの衝撃吸収装備は備えているとはいえ、やもすると怪我をすることもあろうから十分に注意をするように。……というのは最初に話す内容だな。失言だ、失礼した。……それでは形式的に。――今後も精進に励むように。では、これで」

 そうして、演習の夜が終わる。
 まあ、明日が非番の俺含め数名はこの後に酒盛りなんかをしていたのだけれど。

 さて、朝である。
 模擬戦で疲労した身体で明け方まで飲んでいたものだからお昼までぐっすりかとも思ったが、閉じたまぶたの裏まで届く痛いほどの朝日で目が覚めた。
 時計を見ると、時刻は朝食と昼食のちょうど間くらい。
「カーテン、開けていくなよな……」
 わずかな頭痛を感じつつ立ちあがり、ネッツが開けたであろうカーテンを閉めようと伸ばした手が止まる。部屋を暗くして二度寝、という気分でもなかった。
 どうしようか、と首を回す。ぽきぽきと音がした。ふと、この部屋にも物が増えたな、と思う。およそ六メートル四方の手狭な部屋だが、同居人が一人増えてからはさらに狭く感じる。以前の味気ない白黒の部屋から、ピンクなどの明るい色彩が増えるなどといった劇的な変貌を遂げた(男の一人部屋なんてそんなもんだ)。
 当の本人はどこへ行ったのか、すでに部屋にはいない。綺麗に畳まれた布団と寝巻きが部屋の隅にちょこんと置いてある。頭の寝癖を撫で付け歯を磨いてから、軽く部屋を掃除した。
 それなりに空腹は感じているが、食べずにお昼まで我慢することもできそうだ。どこへ行こうか。

 とりあえず食堂へ向かった。朝食の余りでもあれば良いんだけど。
 食堂は軽く百人は入れるほどの大きさで、長机が何列もずらっと並んでいる。一角に食事を受け取るカウンタがあって、そこでなにか余っていないかと割烹着姿の中年の女性に問うと、「運が良かったね」という言葉と共に魚の丸焼きが出てきた。冷めてしまっているが、文句はいえまい。ちなみにネッツも今日は休日なのでここにはいない。どこでなにをしているのだろうか。
 さて、と食堂を見まわすと、見知った顔がある。俺は盆を持って、その向かいの席へと腰を下ろしながら聞いた。
「おはよう。ここ、座るよ」
 ん、と顔を上げたのは黒縁眼鏡にすらりとした長身の目立つカレンである。その切れ長の瞳も、寝不足の所為か目付きが胡乱である。
「おはよう、クロノ。……明け方まで一緒に飲んでたのに、元気そうだね」
 ぱちぱちと目をしばたきながら彼女はもそもそと魚を口へと運んでいる。あまり箸が進んでいないようだ。
 俺が彼女に遅れて食事を始めると、カレンは俺の皿に魚をひょいひょいと投げ入れ始めた。
「なにやってんだ」
「この魚、あんまり好きじゃなくてね。どうしようかと思ってたから助かった」
「ああ、海魚は小さいときから苦手だったか。……カウンタで受け取らずに断れば良かったじゃないか」
「ぼーっとしてて、気付いたらお箸つけてたから。いいよ、遠慮せずに食べなよ」
「いやだからいらねっつーの」
「残すとおばちゃんうるさいからさ」
「子供か」
 少しの口論の後、俺が魚の大部分を受け取り、カレンも一部を片付けるということに落ち着いた。かちゃかちゃ、と静かに皿と箸のぶつかる音だけがする。さああ、とカウンタの中から水の流れる音も聞こえる。窓の外では太陽光が遥か続く緑の絨毯に降り注いでいる。思わずため息が漏れる。
「なんだ、その、最近はどうなんだよ」そんな言葉が気付けば口をついていた。
「ぼちぼち」彼女は適当に応えた。当面の問題はしかめっ面でにらめっこ相手の山菜らしい。俺はカレンの皿からそれを箸で摘んで自分の口に運ぶ。
「好き嫌いは直しておけって昔からおばさんにいわれてただろう。ひとつぐらいは克服できたのかよ」
「あんたこそエロい事考えると鼻血が出る体質直ったのかよ」
「かっ、関係ねーだろ!」思わず声が上ずった。
 ふひひ、とカレンは目を半月型にして忍び笑い。「小さい頃からだったもんねえその体質。六つか七つぐらいからだったかな、海水浴なんかに行く度にぽたぽた鼻血だして。まあーマセた子供だよ」
「む、昔の話だろ!」
「二ヶ月くらい前かな。私の部屋に来たときに鼻血出してたのはなんで?」
 う、と言葉に詰まる。
 最近のカレンからは女の匂いがするようになった。どこがどう変わったかとか、どんな匂いなのかとは具体的に一つも説明できないが、確かに彼女は変わったのだ。それも、いつのまにか、だった。彼女と一緒にいる時間は俺の人生の中でも大部分を占めるというのに気付けなかった。
 だから。彼女自身が気にしてないとはいえ、なんの気もないとはいえ、薄いぺらぺらの寝巻き一枚(そういうのが流行りらしいが名称は忘れた)で迎え入れられては困るのだった。
 さっと無意識に鼻を抑える俺の皿に、彼女は素早い動作で魚をぽとぽと落として、「ごちそうさま。私、午後から帝都でお仕事だから。ばい」
 あ、と呼びとめる暇もなくさっさと食堂を出ていった。
 飲んだ次の朝に朝食二人前も食べられるかよ……。

 時刻はお昼時で往来にはそれなりに人は多い。
 ぶらぶらと詰め込み過ぎた胃を抱えて腹ごなしの散歩中である。屋敷を出て、日光を浴びながら当てもなく歩く。冬に入る前の最後の足掻きとばかりに太陽は地表に照り付け、気温はまるで初夏だった。
 この活気付いた風景が好きで、この雰囲気に触れているだけで元気になるような気がするのだ。
 と、そこで行き交う人ごみに混じって小柄な犬耳しっぽ少女が一人、挙動不審に右往左往している。
「クロノ。やっと起きたんだ」彼女がこちらに気付いて軽く手を振った。
「なにしてるんだ? こんなところで」
「うーん」彼女の返答は歯切れが悪い。
 彼女がうろうろしていたのは、とある建物の前、その塀にはヴァルク国立学校初等部と表記されている。
「……入学、したいのか?」
「字、くらいは、読み書きできるようになりたいし……」
 彼女はぼそぼそと答え、指先をこちょこちょとやりはじめた。
「しかし……、初等部じゃあ……」
 想像する。ネッツが幼い子供達に混じって座学を受けている場面。いくらネッツが小柄だとはいえ、さすがに入学したての子供達と比較すると目立つだろう。その上……、
「どうすれば良いのかなあ……」
 ぴこぴこと動く耳と、緩やかに揺れるしっぽは、少なくともこの国内では見慣れられているものではない。国内のバスト族はなにせ二人、これで学内で目立たぬわけはない。
「入れないことはない。融通が利くから。俺がいっておくよ。俺もここの卒業生だから、教師とも面識があるし」
「ほんとう! 良かった!」
「や、ちょっと待て。その……、入った後が大変かも知れないぞ」
「どうして?」
 俺はさっき考えたことを話した。子供というのは残酷な面もあるものだ。目立つ存在はつまはじきにされる可能性がある。
 ネッツは俺の話を「大丈夫だよ」といって一蹴した。
「ちょっと不安はあるけど、頑張るよ。平気、平気。優しい人もいるもんね、クロノみたいに」
「――――」俺はその明るい笑顔に息をのんだ。
 驚いた。これが出会ったときに子供達に石を投げられて半べそをかいていた少女だというのだから。
「……変わったな、おまえ」
 その言葉に、ネッツはぽけ、となにを考えているのか分からない表情でこちらを見返した。
 がしがし、と俺は頭を掻く。こんなところは二人とも出会ったときのまんまだな、とふと思う。
「良いか、なんかされたらすぐに俺にいえよ。とんで行くから。そんなときも黙ってべそをかいているんじゃないぞ。すこしやりかえすくらいで丁度良い。あー、あと、このくらいの年代の男どもは女の子の気を引こうとして、いじわるなことをしてくるかもしれないから注意しろ。おまえは、その――」
「可愛いから?」
 ネッツはにぱ、と笑う。いたずらっぽい表情で。
 かっ、と俺の頬が熱くなる。
「め――目立つから、だよ」俺はこっそり深呼吸をした。「どこで覚えて来るんだ、そういうの……」
「……変わったのはクロノのほうだよね」ネッツはいった。
「そ、そうか? 俺は別に……」
「最初に会ったときにさ。私、いじめられていたじゃない?」
 ネッツが浮かべるのは微笑。なにか、大切なものを愛しむような、口調。
「そのときには、クロノ。そういうことをいってはくれなかったから」
「…………」
 なんと答えれば良いのか、分からない。
 怒っている、ようではなさそうだ、ということしか俺には分からない。人の感情の機微を読むことに長けていたら、と、このときばかりは強く思う。
 笑顔――なのだろうか。俺には少なくとも笑顔に見える、という表現しかできない表情だった。
「だから、変わったのはクロノのほうだよ。最近、すごく優しくなってきているし。……や、少し優しく、の間違いかな、はは。……だから、私が変われたなら、それはあなたのおかげ。なにも知らない私を拾ってくれたこと、……すごく、感謝してる」
 ひた、と彼女の冷たい手が俺の胸に当てられる。体重を預けるでもなく、ただ、本当に少し、触れただけ。
 今はなにもいうべきではないのかもしれない、と俺は思う。
 数呼吸の時間が経って、彼女は唐突に俺から離れた。
 ネッツはいつもの明るい笑顔に戻っていた。
「今日は暇? 私、この辺、あんまりどこになにがあるのか知らないの。いい機会だから案内してくれる?」
「あ――ああ、いいぜ。……そうだな。考えてみれば、俺とネッツの休日が一緒になるのって初めてなんだな」
 彼女に触れられていた部分が熱くなっていた。

「ここはなに?」
 彼女が指差したのは大きな建物だった。屋根は高く、灰色ののっぺりした外壁で、外見にはまったく気を払われていないようである。いくつかの窓と、俺の身長の倍はありそうなシャッタが見える。低い壁で仕切られた敷地内には、同じような建物がいくつか並んでいた。
「整備工場、兼研究所。馬車の修理から、対魔武装まで修理、開発をしている場所だ。ものが壊れたらとりあえずここに持ってきたら良いだろう」
 へえ、と相槌を打つネッツ。少し見学したいという彼女の希望で敷地内を歩いていると、大声で怒鳴り合う声が聞こえてきた。数は二人。
「こんな無駄ばかりの設計で通すつもりか!」
「無駄じゃあねーと何度もいっているでしょう!」
 同じような建物がいくつも並ぶ中、開け放しになったシャッタの奥で二人の男女が口論をしていた。
「肩部、腹部、大腿部の布地は必要ないといっているだろう!」
「こんなこっぱずかしいスーツが着られますか! 肌ですぎ!」
 ひっ、とネッツが大声に驚いて肩をすくめる。耳のよさがあだになったようだ。
 大声で口論しているのは、二人ともここで働いている職員である。一人は不精髭で少し白髪まじりの初老の男性、一人はネッツよりも身長の小さい童顔の若い――というよりも幼い女性だった。それぞれ、男性はゴトー、女性はリコという名の二人である。どちらも油まみれの作業着を着ていて、リコはトレードマークである後頭部の大きなちょうちょみたいなリボンを外して、作業着とおそろいのよれよれの帽子を被っている。
「これがもっともコストの低い効率的な設計なんだと何度いえば分かる!」
「別に全身を防呪錦糸で覆えといっているわけじゃありませんよ! 効率効率って、デザイン性も重視するのが最近の風潮なんです! 可愛い服を着れれば士気だって上がるですよ! それをなんですかこれは、どこの世界にこんなもん着て戦場に向かう変態がいますか!」
 ゴトーは、かぁー、といいながら首を振った。「これだから金で全部が解決すると思っている温室育ちは! デザインだなんだとかいってんじゃねえよ! 戦をするにそんなもんが必要あるかい! それに予算だってカツカツなんだよ!」
「私が帝都の学会で、もぎ取ってきた研究予算があるでしょう! それを充てて構わないと前にもいったはずです!」
「金はそんなところに使うもんじゃねえ! いいか、金の使い道っつーのはな、」
「あー! ほらまた話が横道に逸れる! 今はそういう話じゃありませんー!」
「俺の話を黙って聞けよ、素晴らしい理論飛行をしてばっちりおまえを納得させられる場所へと結論が着陸するんだよ!」

「おーおー、小さな身体できゃんきゃんとまあよく吼えるなー」
 どこからあの大声とエネルギが出てくるのだろうかと俺は感心しきり、ネッツが「えぇ?」と眉根を寄せて困った表情になった。
「あの二人、止めなくて良いの?」
「数日に一回はやってるんだ。時間場所を問わずにな」
「はー……。仲が良い、……ってことなのかな」
 とネッツは苦笑した。

「――つうわけでだな、金ってのはそもそも、っておい無視すんな!」
「どうせ説教じゃあないですか。そんなもん聞く耳は持ち合わせていません」
 リコは子供っぽい動作でわざとらしく両耳を抑えてそっぽを向く。
「んだとこのチンチクリンが」ぼそりとゴトーが呟いた。
「んなっ……! ち、チン……!」リコの目が大きく見開かれる。
「どうせあれだろ、こういう服を着たくないってのも自分の身体に自信がないからふぉぶ!」
 ゴトーの下腹部にリコの前蹴りがめりこんだ。
「黙れくそじじい! 今日こそは決着をつけてやる!」
「やんのかチビすけ!」

 とうとう取っ組み合いのけんかに発展したところで俺とネッツは割って入ることにした。二人の興奮が冷めるまで時間がかかりそうだなと思っていたが、案外二人のクールダウンは早かった。
 ゴトーは、「そうか、君が先日、屋敷で働き始めたバスト族の。真面目そうな良い子だ。調子が悪くなったものがあればここまで持ってくるといい。可能な範囲でなら修理を請け負うから――いかん、ぐずりはじめたぞ」といって少し離れたところにある、なにやら大きな機械をいじりはじめた。
「今日はどうしましたか?」リコがぱんぱんと作業着をはたきながら、俺とネッツに尋ねた。「ああもう、帽子から髪が出ちゃいましたよ……」
 帽子に髪を入れようと苦心するリコに、とくに用はないんだけど、ネッツとぶらぶらとしているだけだ、と説明した。
「ははあ。ずいぶんとまあ、恋人が板に付いてきたことで」
 待て待て、と俺が口を挟む前に、リコはネッツに近づき耳打ちするように、「デートじゃないですか。上手くやりましたね?」とくつくつ笑った。
「でもねー、たぶんクロノはそう思ってない」
「ああ、このドニブチンですからね……。そうだ、押し倒してしまうのは? 大丈夫、自信を持って。あなたの方が、筋力はありますよ」
「おお……」
 握りこぶしを作って見せてとんでもない方向に誘導するリコと、それに感銘を受けたのか妖しい光を瞳に灯すネッツ。
 ぐい、とリコの襟首を掴んでネッツから離れさせる。
「――おい」
 と俺がリコの顔を覗きこんで睨むと、彼女は悪びれもせずに、
「すみません、彼女、素直なので、つい」
 俺に吊られて足をぷらぷらさせながら楽しそうにまたくつくつ笑う。
「可愛いじゃないですか。懐かれてますし。なんの不満があるのか分かりませんね」
 俺が掴んだ襟を放すと、彼女はすたっと着地、また乱れた着衣を正しつつ。
「不満とかじゃなくてな」
「ああ、ほら。こっちを睨んでますよ。まずいんじゃないですか?」
「うー」と唸るネッツ。俺はすぐにリコから離れる。リコだけが楽しそうに笑っている。

「ご無沙汰しています。クロノ様、ネッツ様」
 研究棟の二階から鉄製の階段をカンカンと鳴らしながら降りてきたのはミロゥだった。歩くたびに長い金髪が揺れる。今日の彼女は着物を着ている。……以前のひらひらのついた服といい、一体誰の趣味なのか。
 ネッツがミロゥに会釈する。
 どうして彼女がここに? と俺がリコに視線で問うと、彼女は少し考えるそぶりを見せた。
「……、彼女の新しい関節部が完成したので換装作業をしていたんですよ。機構はそのままに、材質を変更しただけですけどね。ただ、保管場所はダイナさんの家で、毎夜運ばなくてはならないわけですが。あとは、……そう、プログラムを少し見直したりしてました」
「ぷろぐらむ?」俺とネッツが同時にいった。
 リコは迷った素振りを見せてから、「……ウイルスの可能性もありまして。キサラギから頂いたものですが、トロイかもと思われたので。一応、ですね」
 ネッツが「なんの話?」と目で尋ねてきたが俺もわからん。
 リコの傍らに立ったミロゥに、いつぞやの危なっかしい足取りはない。あれもリコが修正してやったのだとか。
 見た目はまるで人間にしか見えないが、動力は魔力、全身人工材料で造られた人形なのだという。どこからどう見ても人間にしか見えないのだが。
 ミロゥがこちらに近づくと、リコが眉をひそめて小さく深呼吸をした。それを心配そうに見るネッツに、リコは事情を話しはじめた。
「……ダイナさんから許可を得て、ミロゥの新しい契約者は私、ということになっているのですがね。最近、正直、負担が厳しい」ふぅと息を吐いてみせた。「常人ならこの程度の人形を動かすくらいの魔力供給は大した事ではないのでしょうが、先天的に魔力容量の少ない私には、これは堪えるんですよ。なにせ私の魔力量ときたら日常生活もままならず、障害とよんで差し支えないものですから」
 誰かに頼めないのかと俺が聞くと、彼女は「色々事情があるんですよ」と肩をすくめた。
「ダイナはどうしてる? 最近、変わったことはないか?」俺はミロゥに尋ねる。二ヶ月前の人形紛失からこっち、ダイナが妙に大人しくなんの騒ぎも起こしていないというのが気になった。
「ダイナ様は最近留守がちで。朝早く家を出られたと思ったらご帰宅は夜遅くなったりと。数日家を空けることもしばしばです」
 ミロゥはしおれた様子である。そんなにダイナがいないのが寂しいのか……。よく分からんな。あんなのでもいないと寂しく思うものか。あ、のわりには昨日の外での演習にはいたのはなんでだ……?
「そんなわけで」リコがいった。「私が新しく、ご主人、になったわけです。いえ私には美少女を侍らせて喜ぶような趣味はありませんよ」
 いやそんなことは聞いてない。
「……うらやましいですか? 金髪美少女に身の回りを世話してもらう私が。胸が際立つ格好をした巨乳の女の子に命令できる私が?」
 え? 胸?
 と俺がミロゥの胸元に視線を送るのを、ネッツは見逃さなかった。
「…………」
「いてえー! 無言でつねるな!」
 ネッツは無表情で俺の背中に手を伸ばしている。
「ああ、すみませんが、ここ、一応仕事場なので。騒がないでもらえますか?」
「お前がなにをいってんだかわかんねえ!」
 ひょうひょうと、どの口がそんなことをいうのか。ヤツは軽いフットワークで踵を返し、
「それでは私は仕事に戻ります。お二人はせっかくの休日なのですから、どうぞごゆっくりと」そういうとミロゥを連れて建物の奥へと歩き去った。

「どこを見てたの?」
「いたいいたい、背中の肉がちぎれるって!」
「おっきいほうが良い?」
「な、……なんの話だよ?」
「ひどい惚け方だねー」
「いででで」

 露天でネッツが好きだという氷菓を買ってやり、ようやく彼女の機嫌も一段落、日が落ちるまではまだ時間があり、これからどうしようかと二人で首を捻りつつ、屋敷に戻り、その廊下。
 ネッツが用を足している間、どうにも手持ち無沙汰でぶらぶらしていると、ふとぼそぼそと話す声が聞こえてくる。
 その音源は――ヒナ王の部屋である。
 小声でなにを話しているかまでは分からないが、なにやら深刻そうな雰囲気である。声は二種類、恐らくヒナ王とヒムロ翁の声だ。なにかの相談だろうか? もっと扉に近づけば声は聞こえるだろうが……。
 いやしかしこれでは盗み聞きだ。行儀が良いとはいえない。
 さて、どうするか――。

 結局好奇心には勝てず、俺は周囲を見回して誰もいないことを確認してから扉へと身を寄せた。耳をあてるような真似はせず、さりげない風を装ってドアの隣に立つ。
 聞いてはいけないような内容ならすぐにここから去ればいいのだと自分にいい聞かせ、耳を澄ませる。

「では、三日後の午前零時が発症の――」
「その可能性が高いというだけで――ウイルス性のものと思われ――」
「リコの報告ではそうなって――まだ確定では――」
「まだ全貌は不鮮明で――間に合わなければ解体も――」
「最優先命令は――全国民の殲滅――」

「お待たせ――って、どうしたの。凄い顔」
 ネッツが俺の顔を覗きこんで眉を八の字にした。
「具合悪い? 医務室、連れてこうか?」
「いや――、なんでもない。大丈夫だ」
 それだけ返答するのが精一杯だった。
 断片的に聞こえた単語が頭の中で回っている。
 ……ヒナ王とヒムロ翁は、いったいなにについて話していたのだ?

 次の日。
 上司の命令で俺は倉庫の整理を行っていた。どこになにがあるのかを記録し、整理して取り出しやすい状態にしておけ、ということだった。
 屋敷の敷地内の一角にその小屋はあった。昨日訪れたリコの研究所の半分くらいの大きさである。がらりとドアを開けるとぶわりと埃が舞い上がった。いったいいつから掃除していないんだ?
 俺もこの小屋に入るのは初めてだった。入って左、ドアのすぐ側に見付けたパネルに手をかざすと、俺の魔力を供給された天井の明かりが点灯した。
 うんざりするくらいの散らかりぶり、不整頓ぶりに思わずため息をつきたくなる。これは一日仕事になるに違いないと覚悟を決めた。ま、仕方がない、こういった面倒な仕事は下っ端の新人の仕事なのだ。
 ほこりの上に足跡がある。なにかを探してうろうろと行ったり来たりしたようだ。まるで子供のような大きさのこの足跡はおそらくリコだろう。先日の対魔ローブを取りに来たときのものか。ついでに人間が倒れたような跡も発見した。転んだのか。あいつじゃ電気が点けられないないしな。
 全ての物品の型番と数量を控えて、整理し終わったのが夕方頃。今日の作業はこれで終了である。ひどい疲労感だった。
 夕食までには少しばかり時間があった。なにをして時間を潰そうか。

 屋敷の玄関前を通ると、ホノカと小さな子供が数名、楽しそうに騒いでいる。
「おう、なにしてるんだ?」
「おう、子供達の呪文を見てるのさ」
 ホノカはおう、のイントネーションを真似た。
「ほら、もっと大きな声で唱えてみ!」
 どうやら子供達は一人一人輪になって順番に呪文を唱え、それをホノカに評価してもらっているようだった。子供は五名ほどで、おそらく全員初等部だろう。
 今もまた一人、輪の中心に歩み出てなにやらぼそぼそと唱えているようだが、自信がないのか声が小さい。
「腹式、腹式ー! どうした声が出てないぞー」
「……『黒い革、赤い本、緑の風っ』」子供の一人が声を絞り出す。
 ぶわり、と穏やかな風が舞った。乱れた気流が絡み合い、ゆるやかに上昇してゆく。
 舞った木の葉を追って見上げた視線を下ろすと、ホノカが「うおー」と慌ててスカートを押さえていた。
「パンツパンツー!」
「なにぃー! タダで見たなー!」
 きゃーきゃー逃げ回る子供達をホノカは楽しそうに追い掛け回し、頭を脇で締め上げる。それすらも子供達は喜んでいるようだ。
「……なにをしてますか」
「はいっ! ではここでお手本を見せてもらいましょー!」
 背後から聞こえた声にすぐさま転身、とんでもない切り替えの早さで、やんややんやとホノカがはやし立てる。当の本人――怪訝な顔で問うたリコは、表情を当惑へと移行させる。
「え? お手本? え?」
「さあヴァルクが誇る工学の頭脳、リコ・ムーシンの、小鳥のさえずりのような美しい詠唱に聞きほれましょーう」
「え、詠唱? 私の?」リコは戸惑うばかりだった。
「はいっ、どらーい、つばーい、あいーんす」
「それ何語?」
 俺のつっこみもむなしく、リコは慌てて流されるままに詠唱を開始した。
「えっ、あ、『新しい月、暗き夜空、飛ぶ鳥もその姿は見えず』」
 ぽんっ、とリコが手に持っていた袋から乾いた音がした。びくりと震えたリコは、慌ててその袋の中を覗いて、「わー! 私の食後のデザートがー!」
 再度、パン、と音が鳴り、リコは慌ててその袋を手放した。
 袋が内側からむくむくと膨れ上がり、びりりと袋を破って外に出てきたのは、
「りゅ、竜!?」
 それはむくむくと大きくなってすぐに俺の身長を追いぬいた。
 翼竜だった。腕の代わりに翼がついている。今は閉じているが、広げたらどれくらいの大きさになるか想像するだに恐ろしい。
 屋敷の屋根くらいの大きさでようやくその成長はストップし、咆哮一つ。オオオオオオオ、という腹を揺るがすような重低音。どうしたどうしたとぞろぞろ近隣の住民が窓から戸から顔を出しては信じられないものを見たような表情で固まってゆく。
「なんだコレ……」リコが巨大生物をぽかんと見上げて呟いた。
「やるなリコ……。よもやそれは時間魔術……。竜の卵から成体まで時間を戻すとは、恐れ入る」ホノカは引きつった顔でふふふと不敵に笑っている。
「いいから逃げろー!」
 俺はホノカとリコを両手に抱えて全力疾走した。幸いにして子供達は既に非難が完了している。
 それは備えた翼を使わずに、どしどしと地面を走って追いかけてきた。
「お、追ってきますよ!?」リコは既に半狂乱。
「見りゃ、いや聴きゃ分かる!」後ろを振り返る余裕なんてない。
「なんていったっけね、あの竜? 図鑑で見たなー」ホノカは俺に抱えられながら顎に手を当てて考え込む。
「うるせーてめーで走れ!」

 結局、国を一周するほど走った後、しゅるしゅるとその竜はしぼんでころんと卵だけがそこに転がった。
「小麦粉とかミルクはどこにいったのかな……。ケーキだったんですけど」リコは首を傾げる。
 知るかよ、という悪態すらつけないほど俺は疲労困憊だった。
 リコに魔術を使わせてはならない。新たな教訓である。

 ちなみに小麦粉やミルクその他は、屋敷の前で、麦やら牛やらに変わっていたのだとか。全く迷惑な話である。

「なんだか疲れてるみたい」
 ぐったりもする。朝から夕方まで一人暗い場所に引きこもって黙々と倉庫の整理をして、それが終わったら人間二人を抱えて国中を竜と追いかけっこだ。
「わ、なんだか歳とったように見えるよ……」ネッツが苦笑する。
「そりゃ、無駄に歳もとるさ……」自分でいってて意味がわからなかった。
 夕食、入浴と終えて、ようやく自室で一息つけた。時刻は――、いくら疲れているとはいえ、まだ寝るには早すぎる時間帯だった。
「ああ、そうだ、ネッツの編入手続きは済んだみたいだぜ」
「え、ほんと。早いね。もっとかかるのかと思ってた」
「寛容なんだよ、この国は、いろいろな。明後日から来てくれだと。……で、給仕の仕事の方はどうなってるんだ?」
「学校終わった後、夕方から手伝ってくれれば良いって、親父さんが」
 親父さんというのは厨房の一番偉い人のことである。
 そうかネッツが学校か。……そういえば俺が昔使っていた教科書があったな、と押し入れを探して古ぼけた本を数冊ネッツに渡した。
「俺の時と教科書が変わってなければこれが使える。算術、歴史、魔術、と。……あ、お下がりじゃいやか?」
「ううん、これが良い。もし新しいの使うことになっても、これもらって良い?」
「構わないけど」
 ネッツは嬉しそうにぱらぱらと本をめくり出したが、すぐに眉が八の字になった。
「どれ、噛み砕いて教えてやるから貸してみな。……そうだな、まずは歴史から」
 俺は自分の布団の上にあぐらをかいた。下に本を広げ、ネッツが俺の横からその本を覗きこむ。
 こほん、と一つ咳払い。
「まず、この科目で使うこの教科書は聖書という。異国の言葉でいうとテスタメント、ともいうな。だから教科名を省略してテスタと呼ぶこともある。また、聖書そのものを指すときにもテスタという言葉が使われる。そしてこのテスタというものは、今日までの世界の歴史をまとめた書物であり、また、未来の出来事まで記してある予言書でもある。……つーのは建前で、あまり大きな声ではいえないが眉唾だな。魔術による未来予知は不可能だ。
 ……遠い遠い昔、この星に人間族しか住んでいなかった頃、遥かな空から神々がやってきた。彼らはいろいろな力を持っていて、それ自体が空間だったり、世界そのものだったりするらしい――わけがわからんがな。さて、時間が経って、それら神々のうち、人間に近い形態を持ったいくつかが人間族と交わった――混血の誕生だ。それがネッツの祖先でもあり、そのバスト族という名は、恐らくこのバスト神からきてるんだろう。トーテップとか、ソートスとかいう言葉に聞き覚えはあるか? 西の方――帝都のもっと向こうや、北のノッキング大陸では、これらを崇拝する風習があるんだとさ。伝聞だがな。
 で、今度はそれよりちょっと先の話だ、人間族と、神々、そして混血達は大戦争をおっぱじめたんだと。記録では八千年前となっているが、本当にその年代か分からないどころか、その戦争が本当にあったのかどうかすら疑わしいと俺は思うね。で、結局その戦争で勝利したのは――、」
 すう、と穏やかな寝息をたてて、いつのまにやらネッツは寝入っていた。
 まあ、こうなるだろうなとは思っていたのだ。

 屋敷中が寝静まる深夜。
 落ち着くと、考えまいとしたことが思考回路に浮上する。
 昨日、ヒナ王とヒムロ翁が話していた内容――三日後の午前零時、リコの報告、そして、全国民の殲滅、という言葉――。物騒にも程がある。
 昨日に引き続き、今日もヒナ王やヒムロ翁からはとくにこれといった話もなく、変わった様子もない。会議でも普段通りだった。その立ち振る舞いも。
 考え過ぎ、なのだろうか。
 なんらかの聞き間違いか、ただなにかの本の内容でも読んでいただけか。
 ――が、そうともいい切れない根拠がいくつかあった。それが俺の頭の中をざわつかせている。
 最近は不自然が増えた。
 まず、二ヶ月程前から突然増えた演習。以前は一つの季節に一度という頻度だったが、現在は週に一度というペースで行っている。強化月間ということになっているが、どうにも不審に思える。いくらか、不審に思う意見も出てきているようだ。
 そして先日の倉庫整理。なぜ今まで埃を被っていたものを整理する必要があるのか。……倉庫内には、戦時に使っていた武装が山と放置されていたのだ。以前、リコが引っ張り出してきたのもそのうちの一つである。
 まるで――、
「……そう、まるで戦に備えているような感じなんだ……」

 ――りん、と窓の外で虫が唱和している。
 空には細い細い刃のような月。
 きっと、『三日後の午前零時』には月光はなくなるだろう。

続く   

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